21. 古代栃木の上宮王家と壁谷(再構築中)
栃木の地には聖徳太子の傍らに無言でたたずむ壁谷の姿を示した。その背景として、前稿では平安時代に平将門(まさかど)の乱を征し、栃木の地に勢力を広げた藤原秀郷流の一族と関わった壁谷があった蓋然性と、その後の鎌倉時代から江戸時代にかけての流れを考察した。本稿ではさらに時代を大きく遡り、古代栃木の上宮王家と壁谷の関りに挑む。
類似するのは現在の兵庫県南あわじ市神代(じんだい)町だ。そこは『日本書記』『古事記』で淡路神代(くましろ)とされ、特記される古代の中心地である。物部氏の伝承が残り、聖徳太子による勅願寺が作られ修験道の聖地でもあったが、そこにも壁谷の故地名があった。しかし奈良時代の末期になると、淡路、栃木の両地はともに流刑の地となる。764年、廃された淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路に、その6年後には法王道鏡(次期天皇という話があった)が栃木に流刑となっている。どちらも政変に巻き込まれ、都を追われた時の最高権力者だった。これらの政変が繰り返され、奈良時代末まで続いた天武天皇の皇統は断絶してしまう。それは平安遷都で完成に至ることになる。これには遅くとも聖徳太子や蘇我氏の時代から続いていた皇統争いがあり、その背後には藤原氏の影がちらつく。
本稿ではまず現在の栃木・埼玉北部が鉄や食料の一大生産地として、古代に大きく繁栄し、西の大和の朝廷に迫る力を蓄えていたこと。そこには古代豪族の蘇我氏や聖徳太子の一族「上宮王家」と東漢氏が広大な直轄領を確保して近畿圏以外でほぼ唯一の拠点としていたことを示す。次いで、現在の古地名や上宮王家の伝承、そして古代道教風水その他の関連古書を考察し壁谷と聖徳太子の間に潜む謎に関する手がかりを探る。
近年は教科書から「聖徳太子」の名は消え「厩戸王」と過少にも記される。しかしその死後100年ほどで書かれた『日本書紀』で既に超人伝説が書かれ、『播磨国風土記』(715年ごろか)や法隆寺に残された『上宮聖徳法皇帝説』では「上宮聖王」「聖徳王」としている。そして『懐風藻』(753年ごろ成立)や『日本三代実録』(910年成立)は繰り返し「聖徳太子」が登場する。かつて「聖徳太子」という偉大な人物がいて、千数百年に渡り日本の政治・文化の形成に計り知れない影響を与え続けたとされた。その伝承を抜きに歴史の流れを正しく理解することはできまい。本稿ではあえて「聖徳太子」と記し、後年形作られたその伝説も追いながら考察を進める。
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※本稿は煩雑かつ長編となったため「栃木の上宮王家と壁谷の関係」、「上宮王家が生き延びた栃木・埼玉の地」「東漢氏の出自と桓武天皇との相克」の三篇に分け、第22稿、第23稿に分割して整理・再構築中である。内容は若干難解となる。
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木と水と鉄 そしてヤマト政権
『古代研究の新地平』では、湊(みなと)が「水の門(と)」を語源とするのと同じように、「ヤマト」の名は本来「山の門(と)」もしくは「山の処(と)」が語源となる普通名詞でとする。そして各地に複数あった「ヤマト」の一つが邪馬台国(本来はヤマト国と読むはず)だったのではないかとする。この説明には説得力があり、いくつかの疑問も解決できる。山岳地が多い日本で、ヤマの麓(ふもと)にある「谷」を起点として発する川は大河となり、広大で肥沃な扇状地を眼下に広げていた。古代の数々の権力者はそこを開拓して地盤とし、お互いに覇権を争ったことが推測される。
紀元三世紀ごろ古代ヤマト政権があったともされるのは現在の纏向(まきむく)遺跡がある桜井の地(現在の奈良県桜井市)だ。巻向山のふもとの西側に広がる台地は山辺(やまべ)とも呼ばれ、豊かな水を湛えた巻向川が流れていた。柿本人麻呂も『万葉集』で懐古の念を詠っている。
『万葉集』から引用(柿本人麻呂)
1100 巻向の痛足(あなし)の川の行く水の 絶ゆることなくまたかへり見む
1101 ぬばたまの夜さり来れば 巻向の川音高しもあらしかも疾き
1269 巻向の山邊とよみて行く水の 水沫(みなあわ)のごとし世の人我れは
権力者が山辺で豊富な水資源が確保できる地を地盤としたことは、関東でも同じだった。関東は気の遠くなるような長い年月に渡って日本列島を形成させた強大な圧力をど真ん中に受け、あたかも龍の背のような奥羽山脈がそこに突き刺さる、鉱物資源が豊富な土地でもあった。
歴史上「鉄を制するものが天下を制す」は定説である。(『鉄から読む日本の歴史』、『銃・病原菌・鉄』など)この時代、日本の製鉄技術は中国南部から伝来した「たたら製鉄」であった。それは地中に穴を掘り周りを土でかためた洞(ほこら)を溶鉱炉にして、原料となる砂鉄と木炭(主に松、栗、槙、杉、ブナ)を放り込んでは火をつけ、高温で溶かして鉄を作った。高品質の鉄を得るためには、石英などを含む砂の中から、砂鉄を分離抽出する必要があった。また最後に急速に冷却する必要があり、「鑪(たたら)水/蹈鞴水」と呼ばれた大量の流水も必須だった。
このことは古代に作られた溶鉱炉が水が豊富に存在する山岳の間の「谷」地に造られた理由でもある。そんな溶鉱炉は「井壁(いかべ)」と呼ばれた。中国語の「井壁」には鉄鋼を溶かして製鉄を行う「高炉(溶鉱炉)」の意味がある。
※壁谷と水、雷、火山、そして古代製鉄の関係は、現在筆者が中国そして日本各地に残る壁谷の痕跡を追うときの主要なテーマのひとつである。
紀元前の時代から広範囲で千年を超える長い戦国時代が続いた中国大陸では、製鉄の燃料とするため緑地が切り崩されて乾燥した黄土がむき出しになった荒地が広がり、早くから森林資源が枯渇していた。その一方、高温多湿で山岳地が多い日本は、木材の育ちも早く水の豊富な峡谷が多く存在していた。権力者は長年に渡り日本各地で、水と木材、そして鉱物資源に富んだ鉄の生産に好都合な土地を求めて争った。ヤマト王権が朝鮮半島に攻め上ったのも、さらなる鉄資源の獲得のためだったとも言われている。
東国の「毛の国」と穎(かび)
栃木、群馬、長野の山岳地から下った地には、水とミネラル(鉱物資源)に富んだ肥沃で広大な扇状地が形成されている。これは武器となる鉄の生産だけでなく、食料を供給する一大生産にも適していた。これは長期にわたり兵士を含んだ多く民が居住して地域が発展することも意味した。現在の群馬・栃木の山際の地に古代の権力者が注目したのは当然でもあっただろう。
古代政権に税として上納され正倉に蓄えられたのは米の種籾(たねもみ)であった。精米しなければ長期保存ができたからだ。種籾にあるトゲのような突起「禾(のぎ)」は通称「毛」と呼ばれ、「毛」はやがて食料の意となった。ヤマト政権で大王(天皇)の食すものを産する直轄領「屯倉(みやけ)」のある地は、「御食野(みけぬ)」または「三毛野(みけぬ)」とも書かれた。
実際に古代の毛野(けぬ)国は、関東平野の大部分を占めていたとされる。その範囲は現在の栃木県・群馬県だけでなく神奈川県の一部(のちの相模国)、そして埼玉県・東京都のほぼ全域(のちの武蔵国)まで(つまり関東の大半)が「毛野(けぬ/けの)」として一体だったとされる。
『常陸風土記』や『続日本紀』に「毛野川(けぬがわ)」と書かれたのは現在の鬼怒川だ。現在の鬼怒川は江戸時代に大規模な工事で利根川の支流とされ、それほどの大河ではなくなっている。しかし古代の鬼怒川は鬼怒湾(現在の鹿鳥灘、千葉県銚子市沖)から太平洋に注ぐ日本最大級の大河で、度々氾濫しては関東一円に「毛野」とも呼ばれる広大な湿地帯を作り出していた。
当時の鬼怒川の最下流には暦年に渡って武神として崇拝され続けた出雲・物部氏系の「香取神宮」(千葉県香取市)があった。その出雲系の神に国譲りを迫って勝利したとされる建御雷神(たけみかづち:古事記表記)を祀るのは「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)である。この二社は伊勢神宮などと並び、天皇家の公式行事である「四方拝」に含まれている。「四方拝」とはは中国古代道教の祈拝のひとつで、『日本書紀』斉明紀にも記録が残されている。このような天皇家にとって重要な二社が、都から遠く離れた関東の毛野川の下流にあった意味は大きい。
※「毛」は稲の種籾を意味し「牙(かび)」「穎(かび/かひ)」とも書かれた。『日本書紀』では、天上から天照大御神が天孫を下した際に、稲穂のたねを託している。これを起源とするのが、春に五穀豊穣を祈る皇室行事「祈年祭(としごいのまつり/きねんさい)」であり、それは秋の豊穣を喜ぶ「新嘗祭(にいなめさい)」とセットになる。祈年祭は平安初期とされる『古語拾遺』にも登場し、現在にも伝わる「祈念祭」の祝詞(のりと)にも「穎」は繰り返し登場する。「穎(かび)」や「鹿島神宮」と壁谷の関りについては別稿で何度か触れている。
倭王武と毛人
中国の『宋書』に登場する倭の五王の一人「武(ぶ)」が中国の皇帝に送った有名な上表文にもこの地の住人とみなせる「毛人」が登場する。ここでは、政権の地である畿(倭の五王時代は大阪平野と推測)から遠く離れた地方を制圧し、関東の「毛人」も倭王「武」の祖先に従うようになったとする。
現在の関東北部に位置する毛野(けぬ/けの)国には、全長200mを超える東日本最大級の古墳など多くの古墳群が存在する。ほぼ同時期とされる倭王「武」の時代の巨大古墳群がある大阪平野の状況に近いのは、征されたかどうかは別として「畿」と「毛野」が共に強大な勢力を誇り、かつ強い協力関係にあったことを裏付けている。
『宋書』巻九十七 夷蛮伝・倭国(通称『宋書 倭国伝』)
興死して弟「武」立ち、自ら(中略)倭国王と称す。順帝の昇明二年(西暦478年)使を遣わして表を上(たてまつ)る。いわく「封国(自らの倭国のこと)は偏遠にして、藩(属国のこと)を外に作(な)す。昔より租禰(そでい:祖先のこと)躬(みずか)ら甲冑を擐(つらぬき)、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょに)に遑(いとま)あらず。東は「毛人」を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遙かにす。
※句読点やカッコ、鍵カッコは筆者が付けた。読み下し文は岩波版を採用した。
※開拓の意味を持つ「廓く」は、開闢(かいびゃく)で使われる「闢(ひら)く」や、「辟(ひら)く」の文字も使われ武力征服も意味した。なお毛人は『上宮聖徳法皇帝説』などでは「毛人(えみし)」と読ませ蘇我蝦夷(そがのえみし)を指しすが、その蘇我氏は蝦夷(関東・東北の毛人たち)と友好な関係を維持していたことが『日本書紀』には特記されている。
「天皇(すめらみこと)」や皇子の文字が使われたのは天武天皇以降とするのが定説で、それ以前は「大王(おおきみ)」「王」あるいは「女王」と呼ばれていた。律令が整備される過程で、日本では行政にかかわる地名、役職名などが大きく変遷した。地名は「評(こほり・ひょう)」から大宝元年(701年)に「郡(こほり・ぐん)」に切り替わったことが発掘された木簡で判明している。その後、和銅6年(713年)の太政官令「諸国郡郷名著好字令」(以後「好字二字令」とする)で全国の地名を二文字とすることが決まり、地名は大きく変わった。
毛野国は、下毛野国(しもつけぬくに)、上毛野国(こうずけぬくに)の2つに分かれ、それぞれ下野(しもつけ)、上野(かみつけ/こうずけ)とされ、さらに相模(さがみ)国、武蔵(むさし)国が分かれていった。律令制定後は地名や役職名には大きな変化はなくなった。名字は地名が発祥であり、日本で名字(みょうじ)に二文字が多い理由につながる。日本人の名字の多くは、このころの地名に由来する。
※『日本書紀』崇神天皇紀には、第11代垂仁天皇の兄が東国(毛野か)を治めることになった経緯が記され、その末裔がそれぞれ「上毛野」「下毛野」を称したとされる。『日本書紀』天智二年には将軍「上毛野君稚子(かみつけの-きみ-わかこ)」が新羅(朝鮮半島)の二城を落としたとありその後も武力が高く評価されていたことがわかる。「君」の名は出自が皇族だったこと意味し『新選姓氏録』でも皇別とされ後年に臣(おみ/まえつきみ)を称した。
「雄略天皇」と毛野国(上野・下野、そして武蔵)
毛野国の統治の中心となる政庁があった「国府(こくふ)」は毛野の中心地にほど近い「埼玉(さきたま)郡」にあった。そこは現在の埼玉県の北端となる行田市である。国指定史跡「埼玉(さきたま)古墳群」には5世紀後半とされる「稲荷山(いなりやま)古墳」があり、金象嵌文字(きんぞうがん:刻んだ凹部に金を埋め込む技術)の鉄剣が発掘され「100年に一度の大発見」と当時の新聞紙上を賑わせた。埼玉古墳群にはまだまだ未調査の古墳が多く存在し、今後の発掘の期待も大きい。
この鉄剣には「辛亥(かのとい/しんがい)七年」の年号と「獲加多支鹵(わかたける)大王」が書かれていた。「わかたける」は『日本書紀』で「大泊瀬幼武尊(おおはせーわかたける-の-みこと)」『古事記』では「大長谷若建命(おおはせ-わかたける-のみこと)」と記されている第21代「雄略天皇」とするのが定説だが、前出の『宋書』において倭の五王のうち最後となる「武」とされるのも、やはりこの「雄略天皇」だった。
※『倭の五王』などでは、武を雄略天皇とする根拠が万全ではないとして見直そうとする学説もある。
「雄略天皇」は日本最古の和歌集『万葉集』の最初にその御歌が掲げられ、日本最古の説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』でも冒頭で登場。『日本書紀』でもその扱いは際立っており「有徳天皇」「大悪天皇」の異名で語られる。雄略天皇(大王)の時期に歴史的に画期的な出来事があった事は、古代政権で共通の認識となっており後世の政権に長く語り継がれた可能性が高い。
「やまと」と呼ばれた山のふもとで水の豊富な広大な地形。そのような台地は中国からはいった道教思想によって「谷」と呼ばれただろう。第21代雄略天皇の和風諡号(しごう)は、『日本書紀』で「大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)『古事記』で「大長谷若建(おはつせわかたける)」である。雄略天皇の宮は、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)であり現在の奈良県桜井の地にあったとされる。この長谷(はつせ)は平安時代の地名にも多く見られる。
一方で、戦前の教育を受けた人には「神功皇后(じんぐうこうごう)」 の御子で胎中天皇ともされた応神天皇は、決して忘れられない存在に違いない。実在が確実な最初の天皇ともされる「応神天皇」は日本で最も多い神社とされる八幡神の主祭神ともされ、日本最古の漢詩集『懐風藻』も応神天皇の時代に初めて統一政権の体制が整ったと捉えている。この「応神天皇」から「雄略天皇」に至る時代が、5世紀中ごろから6世紀初頭にかけての「倭の五王」の時代で、後世の日本の政権に語り継がれた伝説だったのだろう。
前方後円墳と道教風水
前方後円墳には謎が多いが、古代風水の影響は無視できない。松本清張は『遊古疑考 』で前方後円墳は古代風水の影響によるものであり、風水には人によりそれぞれの吉方があるため3-4世紀ごろのの古墳の方向がまちまちであることを指摘している。その後も『蓬莱山と扶桑樹』では岡本健一が、前方後円墳を「壺」の形とみなし、やはり風水の影響を指摘している。
※本来の風水では、人はそれぞれ本命卦とよばれる吉方、凶方を持っているとされる。したがって、風水に基づいて古墳を作れば方角がまちまちになる。
『天皇・天皇制を読む』では「一つの血統による王位世襲は5世紀までには確立していなかった」としている。これは天皇をはじめとする古代豪族の家系が、すくなくとも5世紀後半までは母系、父系の両方で引き継がれたきたことを意味する。『日本書紀』『古事記』における神代の記事ではスサノオや大国主(おおくにぬし)命、ヤマトタケルなどが各地に遠征しては現地の妻を迎えているが、おそらくはその妻の子孫たちが現地で最有力者の地位を引き継いだ(女系の王統)ことを物語っているだろう。
『古代国家はいつ成立したか』では、古墳の被葬者の骨の分析を長年行ってきた田中良之の研究成果から、弥生時代から5世紀にかけての墓や古墳の被葬者は兄弟姉妹であり配偶者が含まれない(これを「兄弟原理」と呼ぶ)ことに触れ、その結果として被葬者は男女がほぼ同じ数である(男女双系)としている。しかし、倭の五王時代の5世紀後半になるとこの状況は一変する。被葬者は男性のみ(父系)に限られてくる。このことから5世紀後半に、日本で皇統の父系化の流れが始まっていることを示している。「雄略天皇」のころから、血族を男系で継いでいくという社会構造の大きな変化がおきていた可能性が高い。
父系に代わったことは、古代道教・風水や神仙思想に基づく巫女などを含めた呪術的な支配から、男王による圧倒的な武力を行使した強権支配にシフトしていったのかもしれない。かつて日本独自といわれた前方後円墳は、この5世紀後半から6世紀に朝鮮半島の南部にも存在していたことが判明しており、やはり雄略天皇の時代に強大化した日本の覇権とその影響力は、朝鮮半島の南端にも及んでいた可能性が推測できる。
古代中国道教と埼玉
大王家がそのつながりを意識していった過程で、その大王個人ではなく、大王家の家系としての風水が考えられることになっただろう。すなわち地理風水であり、その地の山岳、川などの地形や方位に強く影響されるようになる。
5世紀後半から6世紀初頭までのヤマト朝廷の巨大な前方後円墳は古墳には、揃って真南から西に約30度傾くものがある。大仙陵古墳(宮内庁が「仁徳天皇稜」に比定)や、百舌鳥耳原北陵(伝反正天皇陵)、「雄略天皇」の真陵ともされる「岡ミンザイ古墳」(宮内庁比定は異なる)や、同時期の埼玉(さきたま)古墳群も、やはり揃って前方が真南から西に約30度傾いている。これらは強い血縁関係がある一族だった可能性もあろう。当時の大王(天皇)は、複数の家系があり、その中から大王が選ばれていたらしいことは多くの研究者が指摘することである。西に約30度傾くことを特徴とした、有力な大王を輩出する家系があったのではないだろうか。私見ではあるが、この南から西に30度傾くという条件を満たした地であったことが、埼玉(さきたま)が古代の東国の中心となった条件のひとつだったのではないだろうか。埼玉(さきたま)の語源は、当時の「幸御魂(さきみたま)」だったのでははないか。
※大仙陵古墳(伝仁徳天皇稜)は南を向くと解説されることが多いが、これは正確ではない。後世の天皇陵は確かに南面するようになるが、大仙陵古墳ら5世紀の巨大古墳は、いくつか南から西側に30度傾いた方向となっていることが、Googleマップなどを見れば実際に確認できるだろう。
埼玉古墳の前面の丘陵から南西約30度の延長線上には、富士山頂がぴたりと重なる。その線分上、つまり埼玉古墳から南から西へ30度、富士山頂に至るラインの線上には古来から巨大な「金鳥居(かなとりい)」(「唐銅鳥居」山梨県富士吉田市)がある。つまり、この鳥居から富士を見てもと、やはり南から西に30度の傾いた角度となる。
この金鳥居の製法は古代に唐から伝わったとされ、霊峰富士(浅間大社)に向かう入り口とされていた。現在も富士吉田市のシンボルともされ、この鳥居をスタート地点とする「富士吉田の火祭り」も有名だ。その起源は記録から少なくとも400年以上前からあるといわれている。
※この富士吉田の地にも、壁谷の痕跡が現在も残っており別稿で触れる予定だ。また同じく燃え盛る巨大な松明を掲げる火祭りで有名な「松明あかし」は福島県須賀川市にもある。同じく400年以上の歴史があり、やはり須賀川にも壁谷の旧家がある。
私見ではあるが、「壁谷(かべや)」の名は、上宮の和名である「上宮(かみや)」が由来のひとつであり、現在も福島県に残る吾妻言葉とも思われる「神谷(かべや)」はその変化した形のひとつなのかもしれない。中国南部に現在も伝わる、中国古代周王朝の姫氏の一族とされる「堂號(どうごう:名字か)」に「壁谷」があり、「郡望(ぐんぼう:地名か)」に「上谷」があることと、何か関りがあるのかもしれない。奈良法隆寺にも「上宮(かみや)」地区がある。そこは聖徳太子とかかわりの深い宮殿の跡と記録されている。
※倭の五王の時代が終わったと思われる6世紀ごろには、記録上中国との交流がぴたりと止まっている。このころは再び古墳が南西30度を向くことはなくなる。これは国内政権が再び乱れ、男王による皇統の承継が途切れたことを示すのかもしれない。『日本書紀』や『古事記』その他が記録する系譜や、残された記録から、その時代から皇統争いが再び激化していたことが分かっている。『百済本紀』では、日本で天皇と皇太子が同時に亡くなったことも記録され(日本の史書には記録されない)皇統が分裂した古代の南北朝時代があったという説もある。その後も『日本書紀』などには、崇峻天尾の暗殺や、山背大兄王、長屋王などの皇位継承者の抹殺、壬申の乱も発生、これらの争いを収めるため再び女帝が増える傾向がみられる。こうした皇統争いが最終的におさまるのは、8世紀末の(平安時代)の光仁・桓武天皇以降まで待たないといけない。
「壁宿」と「聖徳太子」
ここまで古代日本は道教の強い影響下にあったことを記して来た。風水は道教から発生したものである。別稿で触れたが、古代中国道教の風水による「二十八宿(しゅう)」には「壁宿」がある。紀元前の古代中国(周王朝)で「辟(きみ)」は皇帝を意味した。その後「辟」は中国で「壁」として通用するようになった。
古代の「壁宿」は、王とくに皇太子を守るとされ、古代道教で皇帝を守るとされる北の「玄武」の位置にあった。また「壁宿」に隣接するのは、王妃を守るとされる「室宿」であり「壁宿」と合わせて「北方玄武の別棟」と称された。
中国河北省の曾侯乙墓(紀元前455年ごろとされる)で発掘された古代の漆器には「東縈」「西縈」と書かれている記述が見つかった。これはそれぞれ「壁宿」と「室宿」の古代の名とされ、やはりペアであった。この「縈」には「めぐる」「取り巻く」という意味があり、中国の勅撰辞書『集韻』によれば「縈」は「營」と同音でかつ同義とされている。『史記』の「天官書」ではこの「營」が使われ「營室」と書かれた。この「營室」は皇帝の離宮を指しており「壁宿」と「室宿」は皇帝の離宮が由来だったことになる。
さらに時代が下り、西暦1世紀ごろに成立したとされる『淮南子』では、「壁宿」と「室宿」はそれぞれ「東壁」「營室」と書かれている。「東壁」とは南面する皇帝の東に位置する「東宮(皇太子)」を意味し「營(営:いとなむ、めぐる)室」とは「王妃」をさしていた。
そのころの歴史が後世になって記述された『晋書』(644年頃成立)にも「天文の二十八宿」に「東壁」「營室」が登場している。そこでは「營室」は「天子の宮、軍糧(軍の食料)之府」とされ、その星が明るいとき国家が栄えるとされている。一方の壁宿に相当する「東壁」は皇帝の命令や史書が書かれる「天下の圖書(図書)之祕府」とされ、その星が明るいとき王者が興きて国が栄え、暗くなると争いが起きると書かれている。
『官職要解』によれば、大宝律令では天皇の正倉である大蔵省の本省に隣接し、兵部寮と図書寮があったとする。それぞれが軍隊を意味する室宿と、学問を意味する壁宿との関係があることは大変興味深い。以下に『晋書』の引用部分を引く。この記述は、ぼぼそのまま江戸時代の百科事典ともされる『和漢三才図会』にも引用されている。
『晋書』卷十一 天文 二十八宿
「營室」二星、天子之宮也。一曰玄宮、一曰清廟、又為軍糧之府及土功事。星明、國昌。小不明、祠祀鬼神不享。離宮六星、天子之別宮、主隱藏休息之所。
「東壁」二星、主文章、天下圖書之祕府也。星明、王者興、道術行、國多君子。星失色、大小不同、王者好武、經士不用、圖書隱。星動、則有土功。
※鍵カッコは筆者がつけた。「東壁(壁宿)」と「營室(室宿)」で構成される明るい四星は、日本では「秋の大四辺形」と呼ばれる。西洋の星座ではペガスス座(日本ではペガサス座ともいう)を構成するが、その中にほとんど星が見えないため、天上から「神の覗き窓」ともされる。ベカススはギリシャ神話の最高神であるゼウスの「雷矢」を背負う役目を担っているが、ギリシャ語では「泉」を意味する。このことも大変興味深い。(岩波文庫『ギリシャ・ローマ神話』による)
この壁宿に所属する「星官」(天空の星を官人に例えるもの、天官とも呼ばれる)には鉄を使った「鈇鑕」がある。これはノミともクワともされることがあるが、鉄の刀と木材の台を組み合わせた切断機であり、鉄を使用した武力と懲罰を意味したかもしれない。また他の星官には、学問と軍法を学ぶとされた「図書館」や「天厩」もあった。後者の「厩」は、古代中国では学問(特に兵学)を学ぶところとされていた。
風水二十八宿「玄武」の「壁宿(なまめぼし)」にある「六つの星官」
壁(主星) 壁・図書館(アンドロメダ座/ペガスス座 γ2)
土公 土木工事(農耕)の役人(うお座 2)
霹靂 雷の神 (うお座 5)雲雨 雲の雨 (うお座 4)
鈇鑕 まぐさ 飼料を切るノミ、畑を耕すクワ、あるいは武器(くじら座 5)
天厩 厩(うまや)または厩の管理人(アンドロメダ座3)
※上記では「鈇鑕」を農耕具とみなしているが、最近の研究では古代は鉄器は実は農耕に使われていなかったことが分かっている。鉄器が使われたのは精巧な木製農耕具の加工用と武器だったとされる。したがってこの「鈇鑕」は実際は農具ではなく、武器を意味していた可能性も高い。土公も農耕というより、軍事的な開拓の役人だった可能性がある。また「土公」を農耕の役人としているが、これも古代に盛んにおこなわれた土を使って城壁や古墳を建造する土木工事(版築といわれる)の役人だった可能性がある。また壁宿の和名は「儺(なまめ)」が由来とする説がある。儺は節分で使われ、厄除けの意味がある。
天武天皇を含む、それ以前の古代の政権では道教の影響がたいへん強く見てとれる。『日本書紀』には聖徳太子の父である用明天皇が道教風水を重視して人工池を作ったとされており、聖徳太子とともに政権を担ったとされる「蘇我馬子」も自宅の庭に池を作り、その中に嶋があったことから嶋大臣とも呼ばれ、その墓は「桃原の墓」と『日本書紀』に記録されている。桃は道教で厄除けに使われ、現在の中国でも桃には魔除けの意味がある。最近の発掘調査で、用明天皇の人工池らしき遺構が発掘され、また纏向遺跡では多数の「桃」の種が発掘されている。飛鳥時代は中国古代道教の影響が強かったことが発掘調査で実際に裏付けられてきている。
後の斉明天皇も『日本書紀』には天に祈って五日間の雷雨を巻き起こした記録がありこれは道教の「遁甲方術」であろう。飛鳥にある須弥山石渡辺康則は、斉明天皇時代に漏剋(水時計)を作ったのも、皇太子時代の天武だったとしている。それは漏剋とされる飛鳥の遺跡の周辺が、天武天皇の宮「飛鳥浄御原(あすかきよみはら)」の可能性が高いとされていることにも関わるが、それ以外に渡辺は数々の傍証を示している。(『捏造された天皇・天智』による。)『日本書紀』では天武天皇と道教風水の関係が、ハッキリと記述されている。
『日本書紀』「天武天皇 即位前記」
天文、遁甲を能くす。
『日本書紀』「天武天皇四年」
庚戌に初めて占星臺を興す。
天武天皇は道教の仙人「真人(まひと)」の名を名乗り「八色姓の姓」などの政策には道教思想が色濃くにじみ出ている。天武・持統陵とされる野口王墓は道教を象徴する「八角墳」であり、同時期とされる「高松塚古墳」「キトラ古墳」などの壁画に道教風水の四神「玄武」が登場する。さらに天武天皇が初めて使ったとされる「天皇」の名も、そのもとになったと思われるのは道教の「天皇大帝(北辰、北極星)」であったとされる。
※『道教の神々』によれば、玉皇上帝、天帝玉皇、昊天玉皇上帝のほか天公、天帝、玄霊、雷神、竜神など数々の呼び名があり、中国六朝時代の高名な学者陶弘景(456-536)の時代にはすでに天帝とされていたとされる。
天武天皇の皇統を継いだと思われる淳仁天皇(淡路廃帝)の時代、藤原仲麻呂が作った光明皇后の最高行政機関「紫微中台(しびちゅうだい)」の名も道教風水の紫微宮からきている、それは後の武家社会における北辰信仰、妙見信仰にそのまま繋がったと思われる。日本人に末広がりとして現在も好まれる「八」は、古代から数が多いことを示すのにも使われた。『古事記』でも万物に宿る神は「八百万(やおろず)の神」「八十(やそ)神」と呼ばれている。これらも道教由来なのかもしれない。
※紫微宮は北極星を守るとされる紫微大帝の宮殿で、天上にある。私見だが、「中台」は「宮」の文字を分解したようにも思える。
じつは風水の類は、藤原不比等が中心になって完成させた『養老令』によって学ぶことさえ禁じられていた。藤原仲麻呂は祖父不比等の方針に逆らって、天武系の皇統を支持したことで排斥されたともみなせよう。
『養老令』より抜粋
凡玄象器物、天文、図書、讖書、兵書、七曜暦、太一雷公式、私家不得者、違者徒一年、私習亦同(職制律)
凡秘書、玄象器物、天文図書、不得輙出、観生不得読占書(雑令)
農作との関係
「壁宿」には、農作の神である雷神や、雨、農耕の設備が揃っている。「稲光り」とされり雷は稲に実がなる条件であり古代には「霹」とも書かれた。『上宮聖徳法皇定説』によれば、聖徳太子の6人の兄弟の名前も、「久米(くめ)王」「殖栗(えくり)王」「茨田(ますだ)王」「多米(ため)王」「当麻(たぎま)王」とあり、聖徳太子以外はすべての名に田畑農耕との関わりが漂う。(後に触れるが実は聖徳太子の名も、田畑農耕に関わっていた可能性があるのかもしれない。)
※多米王は、聖徳太子の異母兄とされるが、父用明の崩御後に聖徳太子の実母だった穴穂部間人皇女との間に子をもうけたとする記録がある。(『聖徳太子平氏伝雑勘文(下ノ三)』の「上宮記逸文」)当時はこのような事例は珍しくはなかった。多米王の別名は豊浦皇子ともされるが、豊浦大臣といわれたのは蘇我蝦夷だった。蘇我氏との関係はいたるところにでてくる。
雄略天皇の嫡流を生んだ始祖である応神天皇の時代も稲作・農作に関わる名前が多く、なにより武神として崇められた(八幡神社の祭神)応神天皇自身の和名(和風諡号)も「誉田別(ほむたわけ)」であった。そのあとをついだ仁徳天皇も五穀豊穣を招いた天皇と『日本書紀』記録される。しかし男の兄弟の王子の名前ほぼ全員が稲作(農耕)に関わる名をもつ例は、おそらく初代神武天皇と、聖徳太子以外にいないかもしれない。
※中国では「桃」は現在も不老長寿の象徴である。日本では奈良時代初頭に桃のイメージは桜に変化し、その後象徴する意味も変わっていく。こうして後年の武士に好まれるようになったのではないかと筆者は推測している。
「なまめぼし」と「かべやど」
壁宿の和名「なまめぼし」の由来については不明とされており、菜豆(なまめ)など農耕に由来するとする説がある。筆者はこれに対し、同じ位置に「神が覗く窓」があるという西洋の伝説に由来して「生目(なまめ)」ではないかとも推測した。ヨーロッパの文化はササン朝ペルシアから唐を経由して日本に入ってきており、正倉院宝物にもその痕跡は残る。まんざら間違いでもないかもしれない。それが正しければ壁谷と古代神の関係がここにも垣間見える気がする。
その一方で、壁宿を素直に「和名」で「なまめ」と解するのは理解しがたい。素直に読めば「壁宿(かべのやど)」もしくは「壁宿(かべやど)」であろう。少なくとも中世にはそう読まれたことがあったのではないか。各種の古語辞典や漢和辞典によれば、日本では宿は、屋戸(やど:家や、主人のこと)、屋外(やど:家の庭などのこと)、屋処(やど:家の周辺の地域)から発生している。当時の「宿」とは自分の住居、つまり家のことだ。「宿」を旅人が宿泊するところと解する現在の意味は、後世になって「宿り」という言葉から派生して発生したとされる。
『学研全訳古語辞典』「宿り」から引用
「宿り」は、住居をさす「やど」「すみか」とは異なり、旅先の・仮の意を含んでいる。
風水における「宿」も実際に、夜の空を支配する主人である「月」が、定期的に泊まる自らの宿を指している。この「屋戸(やど)」は「屋敷(やしき)」「屋形(やかた)/館(やかた)」と並んで古来の地名として現在も全国各地に残っており、それらは中世に貴族や武士の居館があったとされる場所が多い。武士が水利に富み防御に有利な谷地に居を構えて、自らの名字に「谷(やつ/や)」を付けたとされていることと合わせて考えると興味深い。
※屋形は室町時代の守護大名の呼称だった。
聖徳太子に関する、道教・風水に係る伝説は、枚挙にいとまがない。そして壁宿には学問を学ぶともされる「厩」があった。そして「厩(うまや)」と名の付く皇太子(皇族)名は、聖徳太子以外の人物を筆者はいまだに確認できていない。壁宿と聖徳太子との関係には大変強いものを感じることができうる。
※風水二十八宿は紀元前には成立していたとされる。5世紀ごろ成立の『後漢書』でも触れられ後漢(西暦25年-220年の初代皇帝「光武帝」二十八将はこれに由来すると推測される。西暦644年ごろ成立とされる『晋書』でも紀元前の晋の時代に二十八宿の「東壁」「營室」(のちの「壁宿」「室宿」)が記されている。当時の道教風水が広まっていたことから、王族とくに皇太子を守った一族に「壁宿」の名(つまり「壁谷」?)が利用されるようになった可能性もあるかもしれない。別稿で触れているが、風水の影響が強い中国南部では、壁谷の形跡(堂號)が数多く残り、壁谷の名はその子孫に現在も受け継がれている。
「上宮」とは中国では皇太子を意味していた
聖徳太子の一族が上宮王家とよばれる理由は『日本書紀』などでは「上にあった宮」が理由と説明されている。しかし『聖徳太子の歴史学』によれば、これは正しくないとする。その根拠は、日本の古代文献にはそれ以前に「上宮」という言葉が確認できないことや、「上宮(じょうぐう)」と漢音で発音されるのは中国由来であり、もし和音であれば「上宮(かみのみや)」あるいは「上宮(かみつみや)」と発音されたはずだだからだとしている。
古代中国で紀元前成立とされる『孟子』では、「上宮」は、賓客を迎えるために構えた楼閣を意味し、古代から貴人が対象になる言葉とされる。630年に唐僧「法淋」が書いたとされる『弁正論』では、「太宗皇帝」に「上宮」があることが記される。660年には成立とされる唐書『翰苑(かんえん)』にも高句麗や百済に「上部」という東方に関する組織があるとしている。これら複数の文献の記述から、中国での「上宮」とは日本語の現在の「東宮」つまり「皇太子」の意味に近いとしている。
『日本書紀』推古天皇元年四月の條では聖徳太子は後継主権をもっ「皇太子(ひつぎのみこ)」そして「摂政」としているが、まだこの時代に「摂政」「皇太子」という言葉はなく、『日本書紀』による潤色とされる。聖徳太子が皇太子だったことから、当時流入して来た漢語で上宮と呼ばれたとも思われる。推古天皇8年(600年)あるいは15年(607年)が最初の遣隋使として記録されている。隋から中国文化が大量に到来してきたのは、ちょうど聖徳太子の時代だった。
別稿で触れたが、中国の古代の皇帝の子孫とされる「黄」姓は、現在も中国南部に大量に存在する。中国南部や台湾において「黄」姓の最大規模の「堂號」に「壁谷」があり、一方では「郡望」に「上谷」がある。中国古代は「姓」は血族(主に母系か)であり、「堂號」とは王から与えられた名字であった。そして「郡望」とは過去に住んでいた地域の名称をさしている。
これらのことは、紀元前の時代の中国でも、壁谷と上宮の間に関係があった可能性も示唆している。群望にある上谷は、中国語で「上谷(しゃんぐぅ.)」と発音し「上宮(じょうぐう)」に近い。また上宮を倭名で読めば「かみつみや」や「かむのみや」、あるいは「かみや」とも読める。日本では聖徳太子と「かみや」がどこかで結びつくことになったかもしれない。『姓氏家系大辞典』で平安末から室町時代にかけて、磐城国磐城郡の「神谷邑」で発生したと記録される平姓「神谷(かひや/かべや)」氏、そして室町時代以降に全国各地に発生し、将軍や天皇の近習として活躍した記録を残す武家の神谷氏との関係も興味深い。
※「谷」は漢音で「ぐう」と発音する。壁谷は「びぃぐう」だが呉音では「ひゃくぐう」となり発音は意外と近い。
幼武(わかたける)と若建(わかたける)
倭王「武」とされた雄略天皇は、和名で「幼武」、「若建」も記録される。どちらも同じく「わかたける」と読まれる。このような漢字表記は単に漢字を借りて発音を表記した「借り字」に過ぎない。古代日本では文字が使われる機会は少なく、日本で使われていた言葉(地名や人名)はもともと、その日本語の発音音(和音・呉音)に意味があった。
その結果残された文字をどう発音するかは後世にはわからなくなり、「万葉仮名」が生み出された。全文を漢文で記した『日本書紀』でも例えば神代の記述では「日本これを耶麻騰(やまと)と言う」(原文:「日本此云耶麻騰」)と記しており「やまと」の音にあて、漢字で「日本」を使ったと説明している。ここから「日本武尊」は「やまとたけるの-みこと」と読まないといけないことになる。
雄略天皇の「幼武(わか-たける)」は「日本尊(やまとたける)」の再来の意味があったのだろう。「たける」には権力者の意味があり、文章で使われるときは「尊」「武」「建」「猛」などと多数が使い分けられた。「尊」は非常に高い地位を伴い「武」は力を意味し「建」は創造者であり、そして「猛」は荒くれものであった。
同じ意味でも、異種の漢字表記が存在するため、奈良時代以降文字が本格的に使われるようになると、今度は漢字の意味から二次的に派生した言葉としても固有に進化していった。たとえば、和音の「やはた」は漢字で「八幡」や「矢旗」などとも書かれていたが、後世に密教の影響を受けると平安期以降には「八幡(はちまん)」と漢音で読まれるようになった。栃木の「二荒(ふたら)」も「二荒(にこう)」と読まれるようになり、後に「日光(にっこう)」となったのも似た事情である。
一方で中国古来から入ったものは「漢語」をそのまま使用して漢字表記された。この場合は、発音ではなく漢字表記そのものに意味があることになる。地域名をあらわす「蕃(ばん)」「郷(ごう)」などは漢音で発音された。古代の文字は文字と発音のどちらに本当の意味や意義があるのか、そして本来どういう意味を持つのか、そして時代の変化にあわせてどう意味が変わったのか考える必要がある。
※古代から地名や役職名、天皇名などが頻繁に変わっている。混乱を避けるため本稿では直接の引用や説明のため必要な場合などを除き、できる限り後世に使われた天皇名、官職名、行政組織名、地名などを用いて表記する。
東山道と下野(しもつけ)
京から関東・東北に至る道は古代から山岳地帯の谷間を抜けていく「東山道(やまつみち/あずまみち/とうさんどう)」が中心だった。古代の東国はその道に沿った地域で繁栄したとされる。平安時代中期に編纂された『延喜式』によれば、「東山道」は美濃(岐阜県)の関ヶ原から信濃(しなの:現在の長野)を天竜川沿いに北上し、諏訪を通過して、上野(こうづけ:現在の群馬県)に入ると、現在の佐久・軽井沢を通って「下野(しもつけ:現在の栃木県)」の足利、栃木市を経て関東平野の北部に繋がり、陸奥の国の入り口である現在の福島県の白河の関に通じていた。(この東山道沿いの各地には壁谷の古地名が残り、壁谷も多く住む。)
「東山道」は山中を通り抜ける険しい峠越もあり、太平洋岸を通る「東海道(うみつみち/とうかいどう)」より遠回りになった。しかし東海道は長良川、木曽川、天竜川、大井川、安倍川、箱根の山、多摩川、利根川などの難所を超える必要があった。江戸時代に航路が開かれるまで、人馬が主な輸送手段だった日本では、東山道は主要幹線として発展した。このため東山道に面する地域は、山岳地だったにも関わらず早くから開拓されたようだ。
※古代の東海道は現在とは違う経路を通った。三浦半島から浦賀水道(東京湾)を舟で渡り天羽(現在の千葉県富津市)に至ってから房総半島を北上した。このため現在の千葉県の下の部分が「上総(かずさ)」とされ、上部が「下総(しもうさ)」と呼ばれた。より京に近い地名に「上・前・近」がつき遠い方に「下・後・遠」が付けられていたことによる。
※豊穣な土地だった上総(千葉南部)・常陸(茨木)・上野(群馬)は平安初期の826年「親王任国」(親王が国司となる)とされ、天皇家の直接支配とされた。ここで、武蔵(東京・埼玉)、下野(栃木)、下総(千葉県北部)が入らなかったのは、天皇家に対抗する強い勢力があった可能性を示唆する。関東の独立性を保とうとする勢力が、のちに将門の乱がおきる素地となったかもしれない。
奈良・平安期の東山道は実際に何か所か発掘されている。『図説栃木県の歴史』によれば、その道幅は6mもあり、山側は削られ(「切通し」という)路面は平坦に整備され、道の両側には測溝まで整備された大通だった。予想に反して曲線が少なく最短距離を結んでおり、古代には陸路で相当の交通量があったと推測されている。
壬申の乱で吉野に逃れた大海皇子(後の天武天皇)もこの東山道(当時は不破道)を通って関ヶ原に陣を張った。江戸から関ヶ原に向かった徳川秀忠(後の2代将軍)もこの道を通っている。江戸時代には海上航路が整備される一方で、東山道は「中山道(なかせんどう)」「日光街道」「奥州街道」へ分化して、陸上流通経路としても使われた。戊辰戦争で鳥羽伏見から奥州に北上する際に官軍も使用している。
最初の「地名」と「壁」
渡来人たちによって開拓された土地は、のちに御食(みけ)として政権の直轄領とされ、皇子(王子)たちに与えられた。そのため、古くから人が住んでいた豊かな土地の「地名」には、古代のヤマト政権時代の王子の名前が発祥とされる例が多い。こうして直轄領となった地は、古代王家に代々受け継がれ、受け継いだ皇子たちもその土地の名を名乗るようになった。このため、時代を越えて同じ名をもつ皇子が複数存在することになる。
皇子の一族も皇子を支える一団を現地で構成する家臣団となったと思われ、現地の実力者と縁戚関係を結んで組織化したことが推測できる。かれらはその土地、皇子の名を冠して「御名代(みなしろ)」、「部民 (べのたみ)」とも呼ばれた。その名称には「部(べ)」「家(べ)」「壁(かべ)」「辺(のべ)」とついた、
『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』20巻本には平安時代中期の、各国の郡に属する「郷(こおり)」の名が記されている。ここでは皇子の名代部と思われる「壁」「辺」などの名称には、万葉仮名では「加倍(かべ)」「乃倍(のべ)」などと仮名がふられている。
土地名に「壁(かべ)」とつくことは「壁谷」の名の起源を考える時大変興味深い。前稿で示したように、平安後期に発生した武士は、戦略的な事情で背後に防衛に適した急斜面を持ち、水が豊富で日当たりのいい谷地や窪地に館を構えることが多かった。その地は吾妻言葉(あずまことば)で、「ケ谷(がや)」や「谷(やつ)」と付けられた。地名はそのまま武士の名字となったので、東国ではは「谷(や)」のつく地名や名字が、平安末期から鎌倉時代にかけて多数発生している。
※日本国史大系『常陸国風土記』では「夜刀の神」の「夜刀」についても「やつ」とカナをふっている。夜刀の神は蛇神ともいわれ、田を切り開いた土地を神の土地の境に鉾をたて、神社となしたとある。その地には現在も、鹿島神宮(茨木県鹿島市)と香取神宮(千葉県香取市)が鎮座する。(講談社版『常陸風土記』では「やとの神」とする)
ここで面白い可能性がひとつ浮かんでくる。たとえば皇族などの支配下にあった「壁」の名を持った集団(部民)が、平安時代から鎌倉時代の戦乱の時期に、東国の地で「谷」地に砦や館(やかた)を構えて武装したする。畏れ多い朝廷由来の文字を忌避して「好字二字令」の慣習で二文字化、そこに住む者の名字は「壁谷」となったのかもしれない。
実は平安中期までは、地名や人名に「谷」を使う例は、ごく一部の例しかなかった。当時の近畿圏の姓氏名を整理した『新撰姓氏録』には、谷のつく名字は「長谷(はつせ)」しかみあたらず、全国の地名がかかれた『和名類聚抄』では、大和と越中、備前などにある「長谷(はつせ)」、そして三河の「谷部(はせべ)」、信濃の「小谷(おうな)」そして讃岐の「三谷(みたに)」である。どれをとっても「谷(や)」とは発音しない。これらのことから単純に推測すれば、日本国内で「壁谷(かべや)」と発音するのは平安末期以降に発生した東国の武士が起源である可能性が浮上してくる。
※後述もするが多数の古地名から「谷(や/やつ)」の音は、「館(やかた)」「屋形(やかた)」「屋戸(やど)」といった発音の意味も含むと推測する。
血族による姓、地名による名字
中国古代王朝から日本に氏姓が伝わってきた。以来祖先との血の繋がりは「姓(せい/しょう)」であり、出身とされる姓は、本姓(ほんしょう)とも言われる。「藤原」「源」「平」「橘」などは、この血族を意味する。「本姓(ほんしょう)」が代々にわたって尊重されたのは事実である。足利氏も徳川氏も公式には本姓の源姓を名乗り、足利義満や徳川家康も文書には「源」と書きともに「源氏長者」にもなっている。前稿で登場した長沼荘を領した長沼氏も『吾妻鏡』には本姓を使って「藤原」と書かれている。坂上田村麻呂の末裔と称した室町時代の大名田村氏も、本姓を平姓として神社に奉納した記録が残っている
一方で土地や役割にもとづいたものが「名字(みょうじ)」であり「氏」とよばれた。もともと「名字」は地名である「字(あざな)」に基づいている。そのため同じ源姓でも、栃木の下野国足利郡の足利荘に拠点をもった一族は足利氏を名乗り、三河の額田郡細川郷を領した一族は細川氏を名乗った。一方で藤原氏(藤姓)にも同じ足利荘を領した一族がいて、やはり足利氏を名乗った。足利氏には、実は源氏と藤原氏の両方がいたのだ。その地の支配者になったものが、地名を名字にしたことを如実に示している。
※その地の権力者が入れ替わった際には旧来の実力者との融和を図るため、縁戚関係を結びお互い共存を図った例は多い。従って同じ名字の場合は、実質的に血縁関係がある可能性が高い。(このことが姓が本来母姓の血族を意味したとされることに繋がっている可能性がある。)
※ヤマト政権時代は一時期「姓(かばね)」という地位・役職が存在したが、意味が全く違なっておりその後使われなくなった。
明治8年「平民苗字必称義務令」が発せられ、日本国民は全員が苗字を名乗ることが義務となった。これは「土地」の名による「名字」から、祖先の「苗(びょう)」を継ぐとする「苗字」と呼ぶことにしたものだろう。従来土地に縛り付けれらていた人を、切り離して管理しようとしたともいえる明治政府の大改革「地租改正」と関わりがある。それ以来、苗字とは、血族を意味するようになったと推測される。
※以前は農民などには名字がなかったされていたが、現在では否定されている。江戸時代以前も一部の例外を除き名字を持っていたが、表だって名乗ることが許されなかっただけだととされている。
上宮王家の「名代部(壁)」が集中する「下野」
『和名類聚抄』は平安時代の中期に作られた辞書であり、その中には全国各地の地名も掲載されている。抜粋された写本が何種類か現在の残されているが、このうちニ十巻本とされるものから、下野の中心地だった、河内郡、芳賀郡、寒川郡の郷名を列記する。とくに「下野」の「河内郡」にはヤマト朝廷の皇子の「名代部(なしろべ)」と一見してわかる郷名が多数在する。
『和名類聚抄』(巻七)「下野国河内(かふち)郡」の郷
丈部(はせつかべ)、刑部(おさかべ)、大續(おおつき)、酒部(さかべ)、三川(みかわ)、財部(たからべ)、眞壁(まかべ)、輕部(かるべ)、池邉(いけのべ)、衣川(きぬがわ)、駅家(うまや)
『和名類聚抄』(巻七)「下野編芳賀(はが)郡」の郷
古家(ふるべ※)、廣妹(ひろも※)、遠妹(をみも※)、物部(もののべ)、芳賀(はが)、若續(わかつき※)、承舎(※不明)、石田(いわた/いしだ/いしき)、氏家(うじや※)、丈部(はせつかべ)、財部(たからべ)、川口(かわくち)、眞壁(まかべ)、新田(にふだ)
『和名類聚抄』(巻七)「下野編寒川(さんがわ)郡」の郷
眞木(まきのき※)、池邉(いけのべ)、努宜(ぬぎ/ねぎ※)、※2鴨部(かべ)
※本書にある万葉仮名を「ひらかな」で()内に示した。異音は「/」でわけた。発音には異論もあり、筆者の推測によるものは(※)を付けた。
※「承舎」の音は万葉仮名の記述がなく不明。承舎六郎が戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に下野続谷(つづきや)城を作った記録がある。
※寒川群の「鴨部(かべ)」は大田亮『姓氏家系大辞典』による。「かいつぶり」という小型の鴨(「鸊」または「鷿」と書く)を使い、古代に行われたとされる急流での漁獲(鵜飼の一種)を指しているのではないだろうか。なお鴨は神(かむ)が変化したという説があり、鴨部(かむべ)後世には「かんべ」と呼ばれた可能性がある。
※後述するが「眞壁」は桓武天皇が改名を命じるまでは「白壁」と呼ばれていた。白壁・真壁と壁谷・神谷の名字の間には、いくつかの接点があることは別稿でも触れている。
この寒川群はのち寒河となり、伊勢神宮の御厨(直轄領)となったが鎌倉時代初期に小山氏・長沼氏の領地となっており、その地に壁谷城があったことは前稿で示した。
「河内」は『古事記』などに見える川内(かふち)に由来し、川に挟まれた肥沃な扇状地を意味するとされる。畿内の河内国(現在の大阪府の一部)は当初渡来人らによって開拓され、のち15代応神天皇位以来の直轄領となった。本稿で重要視する倭の五王時代の中心地である。現在も全長480mを超える大仙陵古墳(宮内庁が「仁徳天皇稜」に比定している)など日本最大級の古墳が並ぶ。その本拠に近い「河内国(かふちの-くに)」(現在の東大阪)以外に、同じ名を擁した「河内郡(かふち-ぐん)」が、この下野に存在していたことになる。
大仙陵古墳がある河内国以外で、「河内郡」と名の付く場所は、全国でたった2か所しかない。それは山道(やまつみち)の「下野」と、海道(うみつみち)の「常陸」だけだ。この2箇所は、ともに古代ヤマト王朝の拠点だった可能性がある。しかし常陸国の「河内郡」には皇子名とすぐに判断できる名称は「眞壁(真壁、旧名称は白壁)」ひとつにすぎない。それに比べ、下野には「眞壁」以外にも多数の古代の皇子名がきら星のごとく並んでおり、下野が当時のヤマト政権にとっていかに重要な地であったかがわかる。
地名と聖徳太子の関係
下野には特に聖徳太子との関係が強く見える。河内郡、芳賀郡、そして寒川郡に、聖徳太子自身、そしてその皇子の名代部が多数重なって存在している。下野国河内(かふち)郡、下野国芳賀郡に存在する。聖徳太子の時期には、下野の地は、直轄領が固まって存在していた。
河内郡、芳賀郡の両方にある「丈部(はせつかべ)郷」は聖徳太子の一子「長谷(はつせ)王」の名を冠した名代部だ。この長谷王は(異母弟である)「山背大兄皇子」の皇位継承を強く望んだ。『日本書紀』舒明紀によれば、山背大兄皇子の強力な支援者だった境部摩理勢(さかいべのまりせ)が追われると「我ら父子(聖徳太子と自分)並びに蘇我より出づ」と蘇我氏の血を意識しながら、強く団結を誓っていたが、直後に急死している。その後、境部摩理勢も討たれて、山背大兄皇子の強力な後ろ盾は次々と失われてしまっていた。
※境部摩理勢は蘇我馬子の弟または従弟とされる。蘇我氏だったが「軽」の地の「境部」に拠点を持ったためこう呼ばれた。
聖徳太子の弟たちには、他に「白髪部(しらかべ)王」や「財王(たからおう)」がいる。彼等も下野の「眞壁郷(旧称は白壁郷もしくは白髪郷)」そして財部(たからべ)郷」を直轄領としていたはずだ。そして、下野の河内郡や寒川郡にある「池邉(いけのべ)」の地は、上宮王家がピンチを迎えていたその時、実は上宮王家の最大の拠点でもあったのだ。
上宮王家の最大の拠点だった「池辺(いけのべ)」
聖徳太子との関係で、最も重要なのは「池邉(いけのべ)」(以後「池辺」とかく)という郷が下野の「河内郡」そして「寒川郡」にあることだ。
『元興寺縁起』では「池辺王」は「用明天皇」の名だとしている。また『上宮聖徳法皇帝説』でも「用明天皇」は「池辺天皇」と表記されている。『日本書紀』の用明天皇紀では、磐余の「池のほとり」(現在の奈良県桜井市)に、この用明天皇が「池辺双槻宮(いけべのふたつきのみや)」を持ったとされており、その「上殿」には長男だった「聖徳太子」の住まいがあったとしている。
※人工の池が造られた事情は古代道教・風水の思想によるものとされている。文献から想定される位置を発掘した2011年、人工池の跡が見つかり、用明天皇の宮殿の跡ではないかと話題になった。
『日本書紀』推古天皇元年夏四月の条には「厩戸豊聰耳皇子を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とす」とある。用明天皇の子だった聖徳太子は現在でいえば、皇位継承順位が一位の皇太子となったことになる。しかし次の天皇は世代を一つ飛ばして、舒明(じょめい)天皇となり、皇統は次の甥の世代に移ってしまった。このため聖徳太子は天皇になれずに、これ以降の用明天皇の子孫(上宮王家)は皇統から取り残された。
このため「池辺」の直轄領を継いだのは用明天皇の嫡子となる聖徳太子となる。さらにそれを継いだのは山背大兄皇子だっだ。つまり池辺は、上宮王家の主要な直轄領として代々その一族に引き継がれていた。池辺の地名は、関東以外では、「丹波国桑田郡」と「讚岐国三木郡」だけにぽつんと見えるだけだ。畿内の斑鳩の本拠地を除けば、この下野河内郡そして寒河郡に存在すしていた。
※丹波国桑田郡と讚岐国三木郡にはともに井戸、製鉄に関わる伝説が残る。丹波桑田郡(現在の京丹波市)近辺には、古代に「山背湖」や「壁谷城」があった形跡があり別稿で触れたい。
上宮王家の隠れた拠点「壬生(みぶ)」
さらに上宮王家の領地とされる名代部はあった。それが「壬生(みぶ)」である。壬生は、「水辺(みぶ)」や「乳部(みぶ)」が語源ともされる。『古事記』仁徳天皇紀に「太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命(いざほわけのみこと:後の履中天皇)の御名代(おなしろ)と為て、壬生部を定め」とあり、『日本書紀』仁徳天皇七年八月九日の条にも同じく太子のために「壬生部を定めた」という記事がある。その起源は古い。そして推古天皇15年2月条に「壬生部を定む」とあり、この時期の皇太子は聖徳太子であった。
したがって壬生部は聖徳太子の嫡子である後年の山背大兄皇子(もしくは聖徳太子自身)のために設けられたと推測される。また『日本書紀』皇極紀元年の条に、蘇我氏の蝦夷・入鹿父子の双墓(ならびのはか)を作ったとあり、その役務を担ったのは「上宮の乳部(みぶ)の民」とし、「上宮大娘姫王(いらつめのみこ)」が蘇我氏が無断で上宮の民を使役したと嘆いたと記されている。この記事自体は、蘇我氏の横暴を際立たせるための『日本書紀』の作者の潤色が推測されることはがさておいて、上宮大娘姫王は上宮王家の娘の年長者を指していることが重要だ。『日本書紀』の著者がこの記述に説得力を持たせるために、当時の「壬生(みぶ)」が上宮王家の管理下だったことが前提でなくてはいけないからだ。
また『日本書紀』皇極紀二年十一月の條では、聖徳太子の子、山背大兄王が蘇我入鹿の命を受けた将軍に攻め込まれて逃げた際、家臣からに進言が記されている。それによれば「請ふ、深草屯倉に移向(ゆ)きて、兹(ここ)より馬に乗りて、東国(あずまのくに)に詣りて、乳部(みぶ:壬生のこと)を以て本(たより)とし、師(いくさ)を興して還りて戦はむ。」ここには、東国の壬生に逃げ、そこを本拠地として再び京に攻め込もうと臣下が進言したことがかかれている。このことから、東国に上宮王家の一大拠点、壬生の地があったと当時認識されていたことはず間違いないだろう。これらのことから、多くの専門家の見解で「壬生」は当時は上宮王家の直轄領であったとされている。実際にこのあと「壬生」は聖徳太子伝説に連なる数々の伝説の中で広まり、語られ続けられていく。
しかし『和名類聚抄』の河内郡や都賀郡の郷には、なぜか「壬生」は存在しない。一方では江戸時代には「壬生藩」が存在しまた「栃木県下都賀郡壬生町」という形で現在も「壬生」の地名が残る。この下野都賀郡からは後世に名を残す有名な「壬生氏」の一族が何人も登場してくる。この下野国芳賀郡には確かに、かつて「丈部」「財部」「眞壁」という聖徳太子の一族の名代部があった。そして「池辺」もあった。おそらく、この時期「壬生」の地名もあったとしても不思議ではない。
※広島にも「壬生(みぶ)」の地名が現存する。山陰道と東山道は皇族の直轄領が点在する地域であり、ともに鉄の生産と関りが高い。
時代が下って奈良時代末から平安初頭にかけて、二人の天台座主「円澄」「円仁」は聖徳太子と関係の深い壬生氏出身で、それぞれ武蔵国埼玉郡、下野国都賀郡(現在の栃木県下都賀郡壬生町大師町)の出身である。下野・武蔵の両国には、上宮王家に関わる勢力基盤がすくなくとも平安時代中期位までは残っていたと推測できる。天台密教は、ここから朝廷の行事を一手に担い、その流れは武家政権にも続く。これはあたかも上宮王家の復活の一面をみるかのようだ。
※平安後期になると、藤原姓北家中御門(なかみかど)流が畿内で「壬生氏」を名乗っている。壬生の勢力も藤原氏の支配下に入って行った歴史の変遷を物語っているのだろう。以後、代々の壬生氏が、東大寺別当(別当は最高位)という仏教界最高とも言える地位を継いでいるが、これは聖徳太子伝説、そして鑑真の流れを引き継ぐことともなった。奈良にある鑑真が開し、現在も平城京当時の遺構がそのまま残るとされれる唐招提寺も、藤原家が代々引き継いで守っている。(おそらくだが明治以降、藤原姓に戻したのではないだろうか。この藤原氏は某天皇陵の近隣に居住されていた。筆者も数十年前に特別なご配慮をいただいてお世話になったことがある。)
※神話の時代になるが『国造本記』に第十代崇神天皇の時代の「知々夫彦命」がおり知々夫(ちちぶ)と名付けたとされ、『新編武蔵国風土記』では、これがのちに武蔵国の一部になり、これが現在の地名「秩父」につながるとの記述がある。「壬生(みぶ)」と「乳部(みぶ/ちちぶ)」との関係も何かあるのかもしれない。
背後の武蔵には 上宮王家の最大・最強の支援者がいた
下野の周辺の地区で聖徳太子の一族が勢力を持っていたことを推測できる情報は他にもある。推古天皇の時代、聖徳太子の舎人(とねり)つまり側近として仕えていた一人で、蘇我氏との信頼関係も強かったとされるのが「物部兄麻呂(もののべのえまろ)」である。622年に聖徳太子が世を去って後、633年に武蔵国造(くにのみやつこ:地方行政の長官)となった記録がある。
この時代は蘇我氏の全盛の時代だった。物部氏は蘇我氏と反目したともされるが、それは正確な事実を伝えていない。推古天皇時代の最大の実力者だった「蘇我馬子」の妻は、物部の宗家であった「物部守屋(もののべのもりや)」の妹「太媛(ふとひめ)」だった。つまり、蘇我蝦夷を始めとした蘇我本宗家の家系は物部守屋の妹「太姫」の流れを汲んでおり、物部氏と蘇我氏は強い血縁関係で結ばれていたのだ。『日本書紀』では、この事実を蘇我氏を貶める形で、歪めて載せている。
『日本書紀』巻二十一「崇峻紀」即位前秋七月
時の人相語りて曰はく「蘇我大臣[馬子]の妻は、是物部守屋大連の妹(いろも)なり。大臣[馬子]、妄りに妻の計(はかりごと)を用いて大連[守屋]を殺せり。」といふ。
※( )は岩波版による解説。[ ]は筆者がつけた。
物部兄麻呂も、蘇我氏系の皇族だった聖徳太子の忠実な舎人として働いていたが、太子の亡き後武蔵の国司となった。彼と関係が指摘される古墳が、埼玉古墳群にある7世紀とされる八幡山古墳だ。周辺の開発が進んで現在は石室が露出しており、その形状が奈良にある石舞台(蘇我馬子の古墳の石室といわれる)に似ていることから、文字通り「関東の石舞台」とも言われている。直径80mほどの円墳だったのではないか推測されているが、古墳が縮小化していた7世紀において、これだけの規模の古墳は、当時の中央の皇族を大きくしのいでさえいるともいえよう。発掘調査では当時は皇族にしか用いられなかったと推測されている漆塗木棺の破片も発掘されており、その権威の高さを物語っている。
もしこの古墳が物部兄麻呂のものであれば、東国にあって、朝廷に並ぶかあるいはそれを超えるとも思わえる実力者であったことが十分推測できるとされる。『栃木県下野市のホームページ』によれば、後に聖武天皇に天下三戒壇に指定された大寺院「下野薬師寺」もこの物部兄麻呂が建立したものとしている。この寺院の建築には畿内からも専門の技術者が多数派遣された記録が残っている。下野の芳賀郡に、聖徳太子の皇子の名を持つ丈部、財部、眞壁の郷とならんで、物部郷がある。このことから物部氏も(もしかしたら同族とも思える蘇我氏)も、武蔵から下野に強力な拠点を持っていたことが推測できる。下野には、物部という地名があった記録も残されている。
『和名類聚抄』(巻七)「下野編芳賀(はが)郡」の郷
古家(ふるべ※)、廣妹(ひろも※)、遠妹(をみも※)、物部(もののべ)、芳賀(はが)、若續(わかつき※)、承舎(※つぎや)、石田(いわた/いしだ/いしき)、氏家(うじや※)、丈部(はせつかべ)、財部(たからべ)、川口(かわくち)、眞壁(まかべ)、新田(にふだ)
※が付く部分は、万葉仮名が降られておらず筆者の予想した発音になる。
※物部氏と蘇我氏が相争い、物部氏が滅んだとする見方は正確ではない。物部氏の歴史書といわれる『先代旧事本記』では蘇我氏と対抗した記録はない。実際には実力者となった一族内部での主導権争いだろう。蘇我入鹿を討ったメンバーには、蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだいしかわまろ)がいた。その石川麻呂を陥れたのも、蘇我日向(ひむか)であった。これはいつの世も同じこで、目的を達するために他の有力氏族と手を組むのは常套手段だった。古来から数えきれないほど見られる事例であり、藤原氏の一族や、(あったとして)天皇家一族、平氏や源氏、そして徳川氏も同じく一族で争い、生き残った家がその後の権力を維持している。
将門の乱と栃木の壁谷
桓武天皇以降の政策変化で、仏教は朝廷の支配から放たれた。逆に密教が朝廷のなかに深く食い込んで行き真言宗・天台宗が朝廷に強い勢力をもつようになった。これにより天下三戒壇の権威も失われ、そのひとつ下野薬師寺も存在価値が急激に低下していった。
承平天慶の乱で平将門が新皇につき、平安末期に天慶3年(940年)「平将門の乱」(承平・天慶の乱)では、東国の地を納めていた下野(しもつけ:現在の栃木県)にあった「国府」は全焼し「下野薬師寺」も倒壊し、ともに2度と再建されることはなかったことが発掘調査で判明している。(『図説栃木県の歴史』による)
武蔵国にいた壬生氏ら上宮王家と関係の深い一族は、一部はこの地に残り、一部は山岳地に退却して潜んだと思われる。そのとき、下野國河内郡のすぐ上(北)にあった都賀郡は東漢氏一族、すなわち坂上氏の本拠地でもあった。(次項以降に示す)
このとき、武蔵や下野の都賀郡、河内郡にいた上宮王家の一族や坂上氏の一族はおそらく、山岳地に逃れて潜むことを余儀なくされただろう。その名残が現在の栃木市の山岳のふもとに近くに残る聖徳太子神社と壁谷なのかもしれない。鎌倉時代以降ここには将門の乱を制圧した秀郷流の小山(おやま)氏の一族らか勢力を維持する。壁谷は小山氏、その後裔の長沼氏、そして須賀川、会津から当地に戻ってきた皆川氏らの家臣として、この地になんとか生き伸びたのではないだろうか。
栃木市にある「壁谷城」は「御辺(ごへん)城」の解説に登場する。ここでは「御辺城」もしくは「箱守(はこもり)城」の名も残されている。(壁谷城と御辺城は同一ではない)この「御辺(ごへん)」の意味は、当時で言えば「貴殿」、現代で言えば「あなた」にもあたる二人称の代名詞だ。「御辺」は平安時代後半になると、武家で普通に使用されていたことが『源平盛衰記』などで、武士に話しかける際に使われていることからもわかる。
しかしこのような名称が地名(城の名)の由来だとすれば違和感がある。御辺(ごへん)は明らかに和音ではない。「御辺城」の和音はなんだったのだろうか。そう考えて読みを推測すると、「御辺(みべ)」あるいは「みぶべ」と呼べることに気が付かないだろうか。もしかしたら「御辺城」は「壬生(みぶ)」もしく「水辺(みべ)」ではなかったろうか。すでに指摘したように、『和名類妙抄』の下野国都賀郡には「壬生(みぶ)」の地名がないのはおかしい。一方で江戸時代にはこの地に壬生藩があり、現在も栃木県下都賀郡に「壬生」の地名がある。この周辺には「みぶ」「みべ」という名称が残っていて、その地名は意図的に消されていた可能性もある。
「御辺城」の別名として現在も残っているのは「箱森(はこもり)城」である。そこは壁谷城との関りが指摘される鎌倉時代の長沼氏の支族とされる「箱守」氏の領地でもあった。「箱守」は神官もしくは墓守(はかもり)が由来とする説もある。すると、古代の上宮王家(聖徳太子の一族)の墓守だったのかもしれない。参考までに箱森の名字についての解説を以下に引用する。なお秀郷流「小山氏」の支流である「長沼氏」は別稿で記したように、鎌倉時代から室町時代にわたる長年の深い関係が推測される。ここでは「中沼氏」とも書かている。
※箱守(はこもり)の名を墓守と読み取れば、小山(おやま)の名は先祖の陵(みささぎ)もしくは聖山としての御山(おやま)が由来とも推測できる。また、古代風水における明堂(エネルギーが湧き出す地)の条件には、風水で「砂(さ)」と呼ばれる「小山」に囲まれた「谷」となることが必須であり、そこには風水の「気」となる泉が湧く。それは山脈が平地に突き刺さる地、まさに栃木の地を指している。
『日本姓氏家系大辞典』箱森に関連して(筥村、筥室、箱森、箱守)を引用
筥村 ハコムラ
秀郷流藤原姓、中沼氏[長沼氏]の族にして一に筥室に作る。結城系圖、及び長沼系圖等に、「長沼淡路守時宗―時村(筥村七郎)」と見えたり。
筥室 ハコムロ秀郷流藤原姓にして、前條氏に同じ。尊卑分脈に「秀郷八世中沼宗政-淡路守時宗―時村(筥室七郎)」と見ゆ。又時村の子時奏は筥室佐太夫と偁(しょう)す。」と載せたり。猶ほ、次項を見よ。
箱森 ハコモリ ハコノモリ
1 秀郷流藤原姓 下野國都賀郡箱森より起る。筥村、筥室に作る。前二條を見よ。一本長沼系圖に「淡路守時宗―時村(筥室七郎、皆川荘筥森郷を領す。)」と。
2.同上御館流 清政を祖とすと云ふも詳かならず。
箱守 ハコモリ
常陸國新治郡閥城八幡宮別當大龍庵は還俗して箱守氏と偁す。
※長享元年(1487年)とされる『武鑑』には小山正光の二男宗政の一族を称した「秀郷流の中沼氏」とある。この時期、中沼宗常が下野國都賀(’つが)郡中沼荘、上野國邑樂(はうら)郡、武蔵国埼西郡庄田荘、淡路三原郡大野木など多数の領地を各地にもっていたと記されている。
古代は古墳は権力者の象徴であり一等地に作られていた。そしてその墓を守り維持するために多くの家臣が働いていた。646年に出されたされる「薄葬令」などから奈良時代にかけて古墳が急激に小規模化する。そして、律令では「墓守」として身分が規定され代々墓守を続けた家系は稜戸(りょうこ)などとされて代々固定された。
しかしその制度も平安時代末期までには事実上消え失せ、逆に土地を支配していたことから地元の有力者になった例もあったろう。とくに名門の皇族や武家の墓守にも、武力が必要だったはすだ。武家の勃興してきた平安末期から鎌倉の時代、彼らは名門家の支配した荘園や伝説の力を背景にして、武力を強化して地元の実力者になることにも繋がったのではないか。秀郷流の藤原姓が地元の箱守氏の娘を迎え、地元で権力者としての地位を確立し、箱森を名乗ったことも考えられる。中国古代道教の強い影響を受けた日本では、子孫の繁栄のために、まず先祖代々の墓を守ろうとしたため墓守は大事だった。(陰宅風水である)その流れは先祖の冥福を祈るという行為として、現在も生きている。この話は、鎌倉時代に長沼氏が城を構えた現在の福島県須賀川の地で、壁谷が室町時代以前とされる城主の墓を代々守り続けてきたとされる伝承ともどこか繋がっているのかもしれない。
上宮と神谷(かみや・かべや)と壁谷
「上宮(じょゆぐう)」は漢語由来の漢音であり、和音ではない。これを和音で発音すると「上宮(かみのみや)」もしくは「上宮(かみや)」となる。現在も奈良県斑鳩町には「上宮(かみや)」の地名が残る。
聖徳太子は「丁未(ていび)の乱」で蘇我馬子らと物部氏を攻めた際に、四天王の像を掘り戦勝を祈った。すると多聞天(毘沙門天)が現れて必勝の法を授かったとされる。圧倒的に不利だった戦いは、勝利して物部氏は事実上滅亡したとされる。聖徳太子はのちのに日本初の勅願寺となる四天王寺を建立したとされる。この話は、上宮王家を武神とみなすことにつながっていく。
室町時代には岩城氏、千葉氏(あるいは佐竹氏)の配下に「神谷(かべや・かみや)」氏がいたことは別原稿で記した。その神谷氏は、千葉氏の信奉した妙見信仰を支えた神谷館の館長(城主)を務めていた記録がある。平氏の末裔である平姓千葉氏は、「侍所(さぶらいどころ)」の別当(長官)として、室町幕府の軍事・警察を統括していた。室町幕府の「三管領職(さんかんれいししき)」に準ずるとされる高い権威があった。その領地も当時は関東とされた。千葉氏派美濃から奥州まで、東海道の各地に分散して関東(東国)を抑えていた。現在も福島県いわき市には「神谷(かべや)」の地名が残っている。
※関東とは三関といわれる、不破(現在の岐阜県不破郡関ケ原)、鈴鹿(現在の三重県亀山市)、愛発(あわりち:現在の福井県敦賀市)そして逢坂(現在の滋賀県大津市)より東の地域を指す言葉である。現在の感覚とは違い、岐阜県や愛知県から東はすべて関東であった。
『群書類従』28巻に残る室町時代の『康正二年(1456年)造 内裏段銭并国役引付』には「神谷四郎殿、伊勢國朝明郡太子堂断銭」とある。伊勢國朝明郡(現在の三重県四日市市)にあった「太子堂」を所領としていたのは、室町幕府の奉公衆(将軍側近)で最も由緒ある「一番」に所属した「神谷四郎」であった。太子堂は、聖徳太子伝説の広がりに合わせて鎌倉時代・室町初期に全国で建築されていた。千葉氏の信奉した妙見信仰をささえたとされる神谷(かみや/かべや)氏との関わりは興味深い。どちらも戦勝祈願する神として存在していたからだ。他稿でも記すように、現在も「太子堂」は各地に存在し、その地名が残る地は多い。そして付近に壁谷が住む例がいくつか見つかっている。
下野の地名に繋がる皇族の歴史
本稿の最後として、皇子名の名代部の地名の由来は何か、どう継承されていったかについて、触れてみたい。下野の名代部の地名がいかに伝統がある名前か、そしてその伝統には古代皇族の皇統の流れが関わり、その変遷も見えてくる。この皇統争に巻き込まれた古代氏族多く、東漢氏の一族(田村氏)や壁谷氏もその例に漏れないと思われ、大変興味深いテーマである。
「下野国河内郡」での冒頭に登場する「丈部(はせつかべ)」とは倭王「武」であり「大長谷(おおはつせ)王」ともされたとされた第21代「雄略天皇」に由来する由緒ある名代部であった。「長谷部(はせつかべ)」が後の「好字二字令」の慣習で「丈部」となり、格式の高い名代部として代々受け継がれたものだ。舒明天皇と蘇我馬子の娘「子姉君(こあねぎみ)」の子である第32代「崇峻(すしゅん)天皇」も「長谷部(はつせべ)皇子」であった。
※初瀬(長谷)には神が潜むとも言われ、枕詞「隠恩(こもこく)の」がつく。すでにこの時代には神格化されていた。
都賀郡で次に登場する「刑部(おさかべ)」は「忍壁(おさかべ)」とも書かれる。同じく「押坂部(おしさかべ)」が二文字となったものだ。やはり有名な皇祖である第26代継体天皇の嫡流を継ぎ、奈良時代前半まで皇統の正統だった格式の高い名代部のひとつである。後に「皇祖」とも崇められるのは、敏達天皇の第一皇子「押坂彦人大兄皇子」である。(聖徳太子の祖父、蘇我馬子と同一人物とする説がある。)その嫡子の田村皇子は「上宮王家」の山背大兄皇子を抑えて「舒明天皇」となり以後の全ての皇統の祖となった。奈良時代の律令制定の責任者も「刑部(おさかべ)親王」がいた。奈良時代末期に62歳と異例の史上最高齢で即位した「光仁天皇」も、跡を継ぐ皇太子に権威ある「他戸(おさべ)親王」が居たからこそだった。
「酒部(さかべ)」は「坂合部(さかいべ)」「境部(さかいべ)」のほか、「草壁(くさかべ)」とも書く。その起源は相当に古くはっきりしない。初代とされる神武天皇が東征のとき河内国草香(くさか)邑に上陸したとき、生駒山の草香地方から太陽が昇ったとされる。そこから「日下の草香(ひのもとの くさか)」と呼ばれるようになったとされ、日下(ひものもと)つまり「日本」そのものを意味するとも言われる。
第16代仁徳天皇の子で雄略天皇の皇后となった「草香幡梭姫皇女(くさかのはたび-ひめみこ)」の部の民が古代の日下部(くさかべ)氏だったともされ、この皇后は『古事記』では「若日下(わか-くさかべ)王」とも書かれる。兄の「境黒彦(さかいのくろひこ)皇子」が皇統争いに巻き込まれて命を失っている。
天武天皇と持統天皇の子にも「草壁皇子」がいて、最有力の皇位継承差であったが急死してしまう。その妻はのちに元明天皇となり、その子は元正天皇、そして文武天皇となった。孫には聖武天皇、そして曾孫に孝謙天皇(称徳天皇として重祚)がいる。奈良時代後半の皇統は一時この系統が必死に守っていたことになる。
※埼玉の春日部(粕壁)に繋がった可能性もある。刑部と同一だった可能性もある。
これらに対し、当時は主流とはいえない名代部もあった。「軽部(かるべ)」は「珂瑠(かる)」の地名に由来する。この名を持つ皇子は、雄略天皇の兄である「木梨軽(きなしかる)皇子」に由来する。代々が皇統争いで反骨の名代部ともいえる。645年(大化元年)の「乙巳の変(いっしのへん)」直後に即位した孝徳天皇、さらには天武天皇のそれぞれ孫・曾孫である、文武天皇・聖武天皇がそろって「珂瑠(かる)皇子」または「軽(かる)皇子」を名乗っており、この3代はいずれも天智天皇の系統や藤原氏との確執を引きずって生涯密かに悩み苦しんだ。
「眞壁(まかべ)」実は日陰の存在だった。この眞壁は実は当時「白壁(しらかべ)」だった。奈良時代末期にも「白壁王」がいて『日本霊異記』では「白壁天皇」と呼ばれているが「光仁天皇」である。皇統を継ぐ可能性はほとんどないとされていたが、しかし予想に反し天皇となるとその子の「桓武天皇」が「白壁」を「真壁」に変えてしまった。父王の名を持ち地名は、畏れ多きことだという理由だった。このことは『続日本紀』に記録され、『新編常陸国誌』も言及している。
『続日本紀』宇治谷孟(講談社学術文庫)桓武天皇四年五月三日の条より引用
五月三日、[桓武]天皇は次のように詔した。[中略]臣下の令として必ず君主の諱を避けるものだが、この頃は先帝(光仁天皇)の御名や朕[桓武天皇]の諱を公私ともに犯している。やはり聞くに忍びない。今後は諱にふれる名は皆改めて避けるようにせよ。そこで白髪部(しらかべ)の姓を、間髪部(まかべ)と改め(光仁天皇の諱の白壁と音が通じるため)、山部(桓武天皇の諱)を山と改めた。
『新編常陸国誌』
続日本紀,延暦三年詔、先帝ノ諱[いみな]ヲ避ケ白髪部[しらかべ]姓ヲ改メテ真髮部[まかべ]トセリ。本郡白壁ヲ真壁ト更[あらた]メシモ、蓋[けだし]此時ニアリ
※( )は本書にある解説。[ ]内は筆者がつけ加えた。
実はこの「白壁」の名の起こりも、雄略天皇の第一皇子だった「清寧(せいねい)天皇」の名である白髪(しらかの)皇子に由来する。もされた)和風諡号は「白髪武広国押稚日本根子(しらかの-たけ-ひろくにおし-わか-やまと-ねこ)天皇」であり、その名からも雄略天皇に匹敵するほどの権力を持ち実績を上げたと筆者は推測する。しかし残念ながら子が無く、応神天皇以来の「倭の五王」として継いできた雄略天皇の血筋は途絶えてしまった。したがってその一族や家臣が名代部を継いだのが白壁の地と思われる
白髪皇子は生まれながら毛が白かったとされ、古来白いのは神の仕業とされた。雄略天皇の男系の血筋は途絶えたが、子には春日大娘(かずがのらつめの)皇女がおり、さらにその子は小長谷若雀命(後の武烈天皇)と手白髪皇女がいた。そして手白髪皇女は越から迎えられた継体天皇に嫁ぐと、欽明天皇の母となっている。このように、皇統を引き継いだのが実は白髪(白壁)だったともいえる。白壁王(のちの光仁天皇)はその名を与えられていたことになり、このことは皇位継承を運命づけられていたとも見なせる。だとすれば白壁の名は記紀編纂時の改竄の可能性もある。
※白髪(白壁)は神話時代に登場する猿田彦(さるたひこ)や古代の天皇家の繋がりがあり、中央から遠ざけられた王家ともされる。このことから雄略天皇の家系が途絶えた()時に、白髪皇子の名が与えれらた可能性もある。
※鎌倉時代に栄えた平姓繁盛流では真壁の地を領すると「真壁氏」と名のり源姓義光流の名門「佐竹氏」の家臣となった。江戸時代は秋田の久保田藩に移封されている。『姓氏家系大辞典』によれば上野国の「真壁郷」を領した「神谷(かみや/かべや)氏」がいたとされ、その本姓は藤姓秀郷流もしくは源姓義光流の佐竹氏とされる。佐竹氏家臣に壁谷氏がいた可能性について触れている。
なお桓武天皇の即位前の名である「山部王」の名も目立たない存在である。万葉集で有名な山部赤人も聖武天皇の臣下として随行することが多かった。山部は「山邊(山辺)」からきていると思われ、やはり谷川の水辺を意味し纏向の周辺も山辺と呼ばれる。品部として山部は軍事的な渡来人の一団だった可能性がある。『日本書紀』を遡れば、壬申の乱で期ぜずして天智側の大将軍となるも、味方に暗殺されたと記録されている。法隆寺に残された記録をもとに、山部は「上宮王家」と関係が深かったことを指摘する説もある。もともと古来は天智側とは反目していた(隠れ天武派)として奈良時代末期には白壁と同様の格の名代部だった可能性があり、また古来「ヤマト」の名に繋がる由緒ある名前だった可能性もある。
これらの名が天智系の皇族であり、ともに天皇になれるはずのなかった真壁王(光仁天皇)とその子、山部王(桓武天皇)とされていることは興味深い。
「財部(たからべ)」は、朝廷の「財部」は金銀や水銀(朱砂:すさ)などが産出し、古代の朝廷の財力の象徴だった可能性がある。下野は遥か古代に山岳地が沈み込んだ特徴的な地形のため、多くの鉱山が存在していた。北部には足尾を始めとした銅鉱があり、芳賀郡には土木建築において版築(はんちく)の強度を増すために使われた石灰や、古代の顔料(色素)や神事に使われたマンガン(黒)やアンチモン(白)などの鉱山群があった。
この「財部」は「宝皇女(たからのおうじょ)」の名代部とされる。大化の改新の前後に天皇位にあった後の斉明天皇(皇極天皇の重祚)であり、和風諡号も文字通り「天豊財重日足姫(あめとよたから-いかし-ひ-たらしひめ)」とされ、巨大な土木事業を次々に行っていた記録が残る。
『日本書紀』斉明天皇二年(686年)の条から引用
是の歳、飛鳥の岡本に、更に宮を定む。(中略)時に興事(おこしごと)を好む、廼(すなわ)ち水工をして渠(みぞ)穿らしむ。香山(かぐやま)の西より石上山(いそのかみやま)に至る。舟二百隻を以て石上山の石を積みて流れの順(まま)に控え引き、宮の東の山に石を塁(かさ)ねて垣とす。時の人謗りて曰く「狂心(たぶれごころ)の渠、功夫(ひとちから)を堕とし費やすこと三万余。垣造る作る功夫を費やすこと七万余。宮財爛(ただ)れ山椒(やまのすえ)埋もれたり」と。又謗りて曰く「石の山岡作る。作る隋(まま)に自ずから破(こぼ)れなむ。」といふ。(中略)岡本の宮に災(ひつけ)り。
天の香久山は神山であり、石上山には石上神宮がある。その他に高楼なども作った。一説で斎王(巫女)ともされる「斉明天皇」は中国から入った道教や風水に基づいて大金を投じた巨大な土木建築を伴った公共事業を行ったと推測されている。一連の巨大土木建築は浪費と非難もされ政争の具にも利用され、後の「有馬皇子の変」の誘因にもなっている。
※『捏造された天皇・天智』によれば、この時の皇太子は『日本書紀』に記される中大兄皇子でなく、大海皇子(のちの天武天皇)であるという。このとき作られたとされる水時計(漏剋)も大海皇子によるものだという。この書の推論は大変興味深く、これが正しければ、道教の強い影響を強く感じる理由もわかる。
今後整理すべき課題
1)現在の東京都世田谷区三軒茶屋には「円泉寺 世田谷太子堂 八幡神社」がある。室町時代に大和の久米寺から聖徳太子像を背負って関東に下った僧が、武蔵国の円泉ケ丘に「霊泉」が湧きだしているという夢のお告げを受け、その地に円泉寺を建立したという伝承が残る。大和の久米寺は聖徳太子の弟「久米王」が開基とされ、円泉寺が建てられた地は『和名類聚抄』にも記録された武蔵国の荏原郡(現在の東京都世田谷区)であった。鎌倉時代から南北朝時代に、すでにこの地に聖徳太子像が安置されていたという伝承も一方では残っており、この地の聖徳太子伝説はさらに古い可能性がある。
この伝承は栃木の聖徳太子神社や太子堂の話と大変よく似ていて興味深い。三軒茶屋の「太子堂」には、手打ちそばを提供している茶蕎庵「かべや」があった。かつて勤務地が近かった筆者も不思議な縁に引き寄せられて立ち寄ったことがある。そこにあったと記憶する古い灯篭はもしかしたら何かを物語っていたのかもしれない。別稿でも記したが、壁谷と蕎麦屋に深い関係が垣間見える。機会があればまた行ってみたい。
室町幕府で将軍の周りをかためた「一番衆」には神谷四郎や神谷左近將監が記録されており、この神谷は平安末期の岩城国の「神谷(かべや・かびや)」氏が出自の可能性がある。神谷四郎については、『康正造内裡引付』(1456年)に「伊勢國朝明郡太子堂」を領していたことが記録されている。
2)『和名類妙抄』二十巻本の巻六から巻八には、日本各地の地名が掲載される。そこでは「壁」の発音は「加倍(かべ)」と書かれている。たとえば摂津国の有馬(ありま)郡の「忍壁(おしかべ)」郷は「於之加倍(おしかべ)」と振られ、同様に参河國渥美郡の「大壁(おほかべ)」は「於保加倍(おほかべ)」、駿河国の有度郡そして常陸国の真壁郡にある「真壁(まかべ)」は「万加倍(まかべ)」とされる。なお古来「穂の国」とされた参河國渥美郡に「大壁(おほかべ)」という地名があったことは興味深い。「大(おほ)」は偉大であることを示すと共に、「大酒(おほさけ)」「大避(おほさけ)」とならんで畏れるべき祖先や神に繋がる名である。この地の愛知県の渥美半島は近辺は、壁谷が多く集中して住む地域でもある。
3)都賀郡(現在の栃木県栃木市)では関東有数の「再葬墓」の遺跡が上都賀郡に存在する。(柴工業団地内遺跡、戸木内遺跡など)墓を掘り起こして違う場所に移す行為は、古代中国の古来の陰宅風水の影響が窺える。おそらく弥生時代からこの地には強い中国道教・風水の影響があったと推測される。その後5-6世紀になって雄略天皇ら倭の五王の時代に入ると、前方後円墳が大量に出現する。近くの小山(おやま)市にある「魔利支天古墳」「琵琶塚古墳」は、120m級と巨大であり、ヤマト朝廷側の支配下にあり有力拠点だったとされている。
4)『日本書紀』には、第10代「崇神天皇」の18年4月17日の条に、第一皇子「豊城入彦(とよきいりひこ)命」に東国を納めさせたとあり、『新撰姓氏録』では上毛野氏、下毛野氏の祖とされている。一部の伝承では、紀の国(現在の和歌山県)に似ている現在の栃木地方を「遠津木(とおつ-き)」と名付けたとしている。「豊城(とよき)」を含め栃木の語源とされる話は他にもあるし「杤(とちぎ)」など別な字で書かれることもあるが、「とおつぎ」は千年以上を超えて現在の音に近い。生母は紀の国(和歌山)出身とされている「遠津年魚目妙姫(とおつ-あゆめ-まぐわしひめ)」であり、遠津木はここから連想できるが、「魚」は伊勢(三重)・尾張・参河(愛知)・遠江(静岡)・総(千葉)・常陸(茨城)と東海・関東の海岸を連想させる名である。
『古事記』では東国十二国を納めたとされるのは、崇神天皇の甥で(そのため時代が少しずれるかもしれないが)「 武渟川別(たけぬなかわ)命」とされ、その十二国は、伊勢、尾張、参河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(ふさの国:のちの上総・下総)、常陸、陸奥とされ当時の東京湾をわたる東海道(うみつみち)であり、東山道(やまつみち)となる信濃・諏訪・毛野などの関東北部が入っていなかった。しかし武渟川別命は『日本書紀』では東海を納めたとあり、おそらく混乱していたものと思われる。
さらに前になるが崇神天皇の外祖父ともされるて『日本書紀』の「大彦命」(『古事記』では「大毘古命」)と建沼河別命が出会った地が「相津(あいず)」とされ、現在の福島県の会津地方である。『古事記』では同名の「豊木入日子(とよきいりひこ) 命」がいる。
6)東国で多数存在する皇族の部の民であった「加倍(かべ)」と東北に大きな勢力を誇るよになる「阿倍(あべ)」の関係も興味深い。阿倍氏は、平安期以降は「安倍」を名乗っているが、『新撰姓氏録』では第8代孝元天皇の皇子「大彦命」を祖先とする皇別氏族とされるが、これは他の氏族と同様に光仁・桓武帝の潤色と思われる。この「安倍」氏の拠点は、の桜井(現在の奈良県桜井市)にあって現在も「安倍文殊堂」などが残る。次稿で触れる桜井の「辟田首」の祖先との関わる可能性がある。
7)後三年の役の主役となった清原氏に残る『清原系図』によれば、磐城地方の神谷(かべや)氏の祖となったのは、平安忠の次男の「平成衡」とあり、一時は清原家に養子に入り「清原成衡」を名乗ったともされる。このことは『奥州後三年紀』にある平成衡を清衡真衡の養子としている点でも一致する。この清原氏は「淳仁天皇(じゅんにんてんおう)」の後裔であもある。
「廃帝」とされた「淳仁天皇」は「壬申の乱」で「天智天皇」系の政敵となった「天武天皇」の血筋であった。その子孫も天智系列の「桓武天皇」と「藤原百川(ももかわ)」らによって一掃された。やはり逃げる先は東国そして、平安時代末期の奥州だったのだろう。それが清原氏と名のっていたという可能性も、確かにないとは言えない。
さらに考えると、蝦夷の本質とは、政権からこうして追い出されていった過去の皇統の生き残りであり、桓武天皇が目指した蝦夷遠征とは、それらの一掃であったのかもしれない。そう考えると、偽書ともされる『東日流外三郡誌』の古代の東国に正統な政権があったとも読める記述が興味深く見えてくる。
8)「日下部(くさかべ)」の祖とも言われる「狭穂彦王(さおひこ:第9代開化天皇の孫)」は古事記では皇統争いでのちに甲斐(現在の山梨県)に逃れたとされ、その後は東国に拠点を持ったと思われる。甲斐は山の「峡(かひ)」もしくは東海道、東山道の枝点の「交(かひ)」が由来との説があり、下野と並らぶ要所である。別稿で触れるが甲斐の奥深くの谷川の地にも「壁谷」の地名が残っている。壁谷は当時、交谷(かひや)であったのかもしれない。平安末期に登場する穎谷(かびや)氏が、室町時代に神谷(かべや)と名を変えたという記録との類似性も若干気にになる。「日下部(ひさかべ)」も「穎谷(かひや)」もその名前は稲の神に関わっている。
9)日下は、現在の東大阪と奈良盆地の間を隔てる生駒山を越える峠の道にあった。地は以前は「孔舎衙(くさか)村」と書かれており(その名残は現在も学校名など一部の地名や施設名に残っている)「孔舎」は『日本書紀』では神武天皇の東征で、兄が負傷した場所として「孔舎衛坂」が登場する。この「衛」が、役所の意味がある「衙」となった可能性もある。そしてこれが「日下」になったいきさつは、わからない。
『地名の謎』では、河内平野の東の端で、太陽は生駒山の向こうから登ってくることから「日の下(ひのもと)」そして「日下(くさか)」となったとしている。これは枕詞として「日の下の草香」としながら、異説も紹介している。それによれば、日の字が単に草の字の簡体字であったからともしている。
日下については、『古事記』が書かれた時点ですでに、なぜ「日下」を「くさか」と読むか分からなくなっていた。古事記の序文を記した太安万侶(おおのやすまろ)は、そのまま記したとしている。「日の下(ひのもと)」は古来、日本の代名詞でもあり、日下(くさかべ)草壁(くさかべ)に潜んでいる意味は実は深いのかもしれない。
『古事記』の序文(岩波文庫 倉野憲司校注)から引用
已に訓によりて述べたるは、詞心に逮(およ)ばず全く音をもちて連ねたるは、事の趣更に長し。ここをもちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓をもちて錄(しる)しぬ。すなはち、辭理の見え叵(がた)きは、注をもちて明らかにし、意況の解(さと)り易きは、更に注せず。また姓におきて「日下」を「玖沙訶(くさか)」と謂ひ、名におきて帶の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如き類は、本(もと)の隨(まにま)に改めず。
※カッコ内は筆者が本書の解説によりつけた。
10)現在の群馬県北西部にある中之条にも壁谷の古地名が残ることは別稿で記す。この地には縄文時代から古墳時代にかけての数多くの遺跡があり、壁谷遺跡や、壁谷の泉(「ぼくぼく弁天」)と呼ばれる名水があり、壁谷の寄合もある。壁谷の地には、古くから壁谷の地に人が居住していたと思われる。南北朝時代に成立したとされる『神道集』では、この地を「山代(やましろ)庄」と呼んだと記録されており、やはり上宮王家との関係が見え隠れする。その後この地は武田信玄の支配となり家臣の真田昌幸(真田幸村の父)が領した。真田家はのちに徳川家家臣となっている。武田旧臣はその後徳川家の家臣になった例が多く別原稿で記した勝海舟の祖先(勝家)もその一例に過ぎない。
11)5世紀の大王の古墳や、その後に作られた創建法隆寺(若草伽藍)、斑鳩宮の遺跡が、南から西に向けて約30度傾いていたのは興味深い。これらは冬至の時期の太陽の動き(天道)である「黄道座標270度」を指しており、そこを太陽が通過した瞬間が「冬至」とすると定義されている角度と関わる可能性がある。地上の方位に直すと、西から南に約30度傾いた角度だ。冬至は太陽のエネルギーが最も弱くなる時期であり、一部の動物は冬眠する。それは冬に魂の力が弱まって仮死状態になるからとされ、春に冬眠からさめて活動を再開する。死者となったかつての男王を復活させようとした儀式が、後の「殯(もがり)」だったのではないか。天皇の死後も長期にわたって遺体を安置した殯の記録は『日本書紀』に多数残る。古墳とは埋葬後に復活を祈ったものだったかもず、山背大兄王も斑鳩宮で自決したと『日本書紀』に記録されていることを合わせて興味深い。
古代天皇家では冬至の日に魂を奮い立たせ復活を祈った。それが「御魂振(みたまふり)」であり、それは五穀豊穣を祈る「新嘗祭(にいなめさい)」に発展して早くから国家行事に組み込まれた。この新嘗祭は『日本書紀』仁徳天皇40年の条にも記録されている。仁徳天皇は、倭の五王の初代とされる「讃(さん)」の候補でもある。現在の神社本庁の「神社祭祀規程」でも各神社のお祭りである「例祭」以外に「祈念祭」と「新嘗祭」の3つを最も重要な「大祭」と規定している。天皇践祚(即位)のあとに最初に行われる新嘗祭は、とくに「大嘗祭(おおなめさい/だいじょうさい)」とされ、戦国時代などを除いて天皇即位の際には必ず行われてきたともされる。
※『延喜式』神祇令では、新嘗祭において「新嘗」は十一月の下の卯の日とされ「御魂振」はその前日の寅の日に実施すると規定されている。虎(寅)は「千里を往って千里を還る」とされ旅立っても必ず帰ってくる、つまり復活を意味する日だった。
※旧暦では冬至は11月だった。明治6年に太陽暦の11月23日が機械的に選定されて「新嘗祭」の日とされ、国民の休日に決まった。しかし、戦後はその豊穣を喜ぶという意味から「勤労感謝の日」と名を変えている。一方で本来冬至の日であった旧暦の11月15日は、そのまま新暦の11月15日に固定されて子供の健康を願う七五三の日となった。新嘗祭が別な日に変わった一方で、実際の冬至の日には現在も「ゆず湯」につかり「冬至粥(とうじかゆ)」を食す、また鶴亀があしらわれた「千歳飴」に長寿の願いがこめられ、現在に伝わっている。
12)奈良にある法隆寺は『日本書紀』に西暦670年、一夜も残すことなく焼失したことが記されている。その前年には落雷で一部が焼けたと記述されているが、670年の全焼の事情はなぜか一切説明されていない。そのためこの記述をめぐって、法隆寺再建・非再建の論争が、長年続いていた。昭和14年、焼け落ちたと思われる創建時の法隆寺の跡(若草伽藍跡)や山背大江王の宮殿跡(斑鳩宮跡)が発掘され、現在は法隆寺再建が確実とされている。その発掘調査の資料を見れば、創建時の法隆寺とされる若草伽藍、そして宮殿といわれる斑鳩宮は、現在の法隆寺よりもわずかにずれた方角、南から東に30度傾いていた。斑鳩の法隆寺の門前に、壁谷が少なくとも江戸時代から住み続けていたことが分かっており、栃木の壁谷との類似性に改めて注意が必要と思われる。法隆寺の壁谷についても別稿で触れる。
※法隆寺再建については、実際には一筋縄ではいかない謎が現在も残されているが、ここでは触れない。
さて、栃木の壁谷城のある立地も気になる。北西に二龍、あるいは三龍の山脈を抱え、南東に川の流れる地形は風水の明堂とよばれる風水好地である。この地形を、奈良県にある法隆寺の周辺の地形と照らし合わせると、驚くほど似ていることに気が付くだろう。(法隆寺も創建当時は、川が流れていたが、後世にその谷は埋められている。)李氏朝鮮時代に作られたとされる韓国の首都、現在のソウルは、当時の風水師によって計画的に作られた、風水明堂とされる。ここの地形も、その山岳の迫る方向、その谷間に存在すること、川が流れていることなど、方法隆寺のある斑鳩や、ここ栃木の壁谷の地と一見して驚くほど似ている。googleなどで地形をみると気が付くだろう。
参考文献
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『図説茨木県の歴史』責任編集 所理喜夫・佐久間好雄他 河出書房新社 1985
『図説埼玉県の歴史』責任編集 小野文雄 河出書房新社 1992
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『大武鑑』長享元年「足利武鑑」
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『銃・病原菌・鉄』シャレド・ダイアモンド 草思社文庫 2012
『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎 講談社学術文庫 2003
『道教の神々』窪 徳忠 講談社学術文庫 1996
『天皇・天皇制を読む』「女帝と女性天皇」義江明子 東京大学出版会 2008
『骨が語る古代の家族-親族と社会』田中良之 吉川弘文館 2008
『古代国家はいつ成立したか』津出比呂志 岩波新書 2011
『古代研究の新地平』工藤隆 三弥井書店 2013
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