22. 東国に逃れた上宮王家と壁谷

史書には聖徳太子の上宮王家は滅んだと記録される。しかしそれは事実ではないだろう。多くの歴史学者もそう語る。上宮王家は密かに生き延びていた。前稿では各種の古資料や史実そして数々の聖徳太子の伝説から、栃木の地に上宮王家の一大拠点があった可能性が大変高いことを示した。蘇我入鹿は上宮王家の一族を滅ぼしたのではなく、当時は東の王都だった栃木の地に逃がし、かくまったのではないだろうか。


引き続き本稿では、飛鳥の時代から平安時代にかけて幾多の権力闘争に巻き込まれた上宮王家の生き残りが、栃木の地に逃れてき生き延びた蓋然性をさらに考察していく。また上宮王家と天武天皇との強い関係、そして桓武天皇の時代以降に抹消されて、その後に地方に定着していった蘇我氏や聖徳太子・天武系の伝説や痕跡にも触れ、栃木の地に残った聖徳太子伝説を補強する。


※本稿は長編となった第21稿の内容を「上宮王家と壁谷の関係」、「上宮王家が逃げ延びた栃木・埼玉の地」「東漢氏の出自と桓武天皇との相克」の三篇に分け、二番目の内容を抜きだして再構築するものである。史実と伝説を追うことで、東国最大の拠点だった現在の栃木の地に上宮王家の一部が居着いたことを考察し、第21稿を補強する。内容は若干難解となる一方で、壁谷そのものの去就については「法隆寺と壁谷」の稿その他に譲る。

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上宮王家「山背大兄王の変」

蘇我入鹿が独断で山背大兄王(やましろ-おおえのおう)ら上宮(かみつみや:聖徳太子)の御子たちを廃そうとした。『日本書紀』はそう強調する。皇極天皇2年(643年)11月1日、入鹿の命をうけた「巨勢徳太(こせのとこた:徳佗、徳多)」が精鋭百名を引き連れて山背大兄王を深夜に急襲。この攻撃を「一人当千(一騎当千)」の奴(召し使い)が防ぎきった。その間に山背大兄王は馬の骨を寝所に投げ込んで斑鳩宮(いかるがのみや)に火を放ち、妃や子弟そして臣下らを率いて逃げ延びた。巨勢徳太らは焼け残った骨を見つけ、山背大兄王が死んだとして兵を引いた。このとき焼け落ちたとされる斑鳩宮は、現在の法隆寺の東院伽藍の下に発掘されている。


山背大兄王らは胆駒(いこま)山に逃げ延びたとされる。それは現在の奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にまたがる生駒(いこま)山で、延喜式にも載る神聖な山だ。そこで臣下が山背大兄王に進言した。「さらに北上して深草郷(現在の京都市東山区の清水寺付近)まで行き、馬に乗って東国へ逃げ乳部(みぶ)を頼りに戦いましょう。」しかし、この提言は受け入れられなかった。「自分のために万民を苦しめたくない。この命は入鹿にくれてやる」山背大兄王はそう答えた。

※「乳部(みぶ)」は上宮王家の領地や領民を指しており「壬生(みぶ)」ともかかれる。現在の京都市にも壬生の地名があるが、もちろん東国ではない。一方で川を挟み栃木市と隣接する地に壬生(栃木県下都賀郡壬生町)がある。


『日本書紀』皇極紀二年十一月朔(ついたち)の條から引用

「請ふ、深草屯倉に移向(ゆ)きて、兹(ここ)より馬に乗りて、東国(あずまのくに)に詣りて、乳部(みぶ)を以て本(たより)とし、師(いくさ)を興して還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」。山背大兄王等対へて曰(のたま)はく、「卿が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ず然らむ。但し吾が情に冀(ねがはく)は、十年百姓(おおみたから)を役(つか)はじ。一の身の故を以て、豈万民を煩労(わづら)はしめむや。又後世に、民の吾が故に由りて、己が父母を喪(ほろぼ)せりと言はむことを欲(ほ)りせじ。豈其れ戦ひ勝ちて後に、方に丈夫と言はむや。夫れ身を損てて国を固めば、亦丈夫にあらずや」とのたまふ。

※深草屯倉とは山城国紀伊郡深草郷(現在の京都市東山区清水周辺。)『日本書紀』欽明即位前記では、聖徳太子の祖父、欽明天皇に重用された秦大津父(はたの-おおつち)が領していた地だ。秦河勝(はたの-かわかつ)は聖徳太子の側近であり、秦石勝(いわかつ)も天武天皇のもとで活躍した。当時の山背国(やましろのくに)は秦氏の勢力下にあり、深草屯倉は上宮王家にゆかりの深い地だった可能性が高い。後にこの深草の地には坂上田村麻呂が清水寺(きよみずでら)を建立している。なお「深草土」は三河の「三州土」と並んで神社仏閣を作るために使う代表的な土とされ、深草郷(山背国紀伊郡)も神木の切り出し地だった。奈良や愛知(三河)に残る壁谷との関わりが推測できよう。


しばらくして山背大兄王らが胆駒山に潜んでいるという情報が入ると、驚いた入鹿は自ら出陣しようとして「古人大兄皇子(ふるひとの-おおえのみこ)」に制止された。そこで「高向国押(たかむこのくにおし)」に追討を命じたが、皇極天皇の周辺を守るため手が離せないと断られてしまう。仕方なく無名の将軍に山中を探索させていた。しかし山背大兄王らは、そんな探索網をやすやすとくぐり抜け、斑鳩の地まで戻ると、そこで全員が自害したという。それを聞いた「蘇我蝦夷」は息子の愚かさを罵り、入鹿の命も危ういと嘆いたとしている。そして2年後「乙巳の変」が発生、蝦夷と入鹿が誅されて「大化の改新」を迎える。


『日本書紀』皇極紀二年十一月朔(ついたち)の條から引用

(山背大兄王は)終に子弟(うから)妃妾(みめ)と一時(もろとも)に自ら經(わなき)て倶に死(みう)せましぬ。時に 五色幡蓋(はたきぬがさ)種々の伎樂(おもしろきおと)、空に照灼(てりひか)りて、寺に臨垂(のぞみたれ)り。衆人(もろびと)仰觀て稱嘆(なげ)きて、遂に入鹿に指示(さししめ)す。其の幡蓋等、變(変)えりて黑き雲に爲りぬ。是に由りて、入鹿見ること得るに能はず。終に子弟・妃妾に蘇我大臣蝦夷、山背大兄王等、総(すべ)て入鹿に亡(ほろぼ)されるといふことを聞きて、瞋(しん)に罵りて曰はく、「噫(あぁ)、入鹿、極甚だ愚癡(おろか)にして、行專惡(たくめあしきわざ)す。儞(い)が身命、亦殆(あやう)からずや。」

※カッコは筆者がつけた。読み下しは岩波文庫版による。

※岩波版『日本書紀』で「伎樂(おもしろきおと)」と訳者が訓じているのは、聖徳太子やのちの聖武天皇もこよなく愛した「伎楽(ぎがく)」であろう。講談社学術文庫版の『日本書紀』ではこの部分を「雅楽(ががく)」と現代語訳している。

※「幡蓋(はたきぬがさ)」とは、高貴な人が使う「幢幡(どうばん)」とよばれる昇り旗と「天蓋(てんがい)」という移動式の屋根をあわせて指す。中国道教の影響が見えよう。古来は五穀豊穣の神事であった相撲でも、中央の「黄色」となる土俵と四方に下がる「四色」の総(ふさ:房)がある。中央の黄色は天地をつなぐ龍であり、北の黒総(くろふさ)は玄武を、南の赤総で朱雀、南の緑総で青龍、西の白総は白虎をあらわし、あわせて五行を構成する。「はっけよい」も、発揮揚々が語源とされるが本来「八卦良い」もしくは、いかにも行司が着るのにふさわしい道家の衣装「八卦衣(バッカヨイ)」であろうか。


不自然な記述

山背大兄王は『上宮聖徳法王帝説』などに聖徳太子の子と書かれる。しかし『日本書紀』には何故かそのような記述は一切ない。にもかかわらず、推古天皇の崩御時に皇位継承候補として浮上、次期天皇として即位する意思を表明し皇位争いとなったと記録される。群臣の意見は山背大兄王と田村皇子に二分され、田村皇子(舒明天皇)が皇位に着くこと決したが、大きなシコリを残こしていた。


山背大兄王は有力な支持者だった長谷王(はつせおう:聖徳太子の弟)、境部摩理勢(さかいべの-まりせ:有力な蘇我氏の一族、馬子の弟とも)を失っていた。そんな時期、山背大兄王と以前も皇位を争った舒明天皇が崩御した。このあとがあわただしい。『日本書紀』によれば、葬儀では大派王に代わって巨勢徳太が、軽皇子に代わって粟田細目が、蘇我蝦夷に代わって大伴馬飼が誄(しのびごと)を詠んだ。一週間後に日嗣(ひつぎ:皇位継承の儀式)で皇后の宝姫が皇極天皇として即位、なんと翌日には葬られている。(皇極元年12月13日の条)


全て代理で天皇の葬儀が進んだことや、殯(もがり)の儀礼や期間も省き、すぐに埋葬されたのは極めて異例。おそらく山背大兄王が狙われるだろうという、極めて緊迫した状況下にあった可能性が高い。過去に繰り返された教訓があったはずだ。そんな時、山背大兄王を守る兵が誰一人いなかったというのは、俄かに信じがたい。


襲撃を命じられた「巨勢徳太」は、舒明天皇の葬儀で代わって誄(しのびごと)を詠んだ高官であり将軍でもあった。皇位継承者である山背大兄王の抹殺に失敗すれば、地位を追われるどころか命も危うい。繰り返される修羅場に慣れており、慎重を期して襲撃計画を練ったはずだ。にもかかわらず、おそらく大きかったろう邸宅を、わずか百人の兵で深夜に襲撃したとは。暗闇の中で取り逃がすことは想定内だったはずだ。しかし、多数の貴人らにやすやすと逃亡され、焼け残った骨を見て人馬の区別さえつかぬとは。

※漢代に成立した『戦国策』には「死馬の骨を買う」という故事がある。古来馬の骨は、何ら価値のないものの代名詞でもあった。漢文を駆使した『日本書紀』の編者がこれを知らなかったわけもなかろう。


実はそのころ、大量の木材伐採で周辺の山はほとんど丸裸だったのだ。貴人たちは、どこから見ても目立つ登り幡(旗)や移動式の天井、楽器といった備品を携え、女子供そして従者までも引き連れていた。そんな状態で、捜索にすら見つからなかったのは何故なのか。すこし遡るが、『日本書紀』舒明即位前記では、山背大兄王を支持した境部摩理勢の子で、ただ一人生き延びた「毛津」が「木立薄けど頼みかも」と畝傍山に逃げ込もうとしたが「走(に)げて入るところなし」と知り、自害したと記されてる。


しかも時期は十一月朔日、現在でいえば真冬の12月だ。「生駒おろし」と呼ばれる強風が吹きあれ、山中は氷点下にもなる。こんな過酷な条件のもと、入鹿が放った山中捜索網に誰一人として引っか掛かからず、食べるものもない状態で数日にわたって山中で生き延び、無傷のまま斑鳩の地まで舞い戻って来れた理由はなぜなのだろうか。

※『日本書紀』は十一月朔日(11月1日)とするが『上宮聖徳法王帝説』には10月14日、『大織冠伝』には「冬十月」から「某月日」とある。


このような大失態を招いた巨勢徳太を始め、探索指令を断った高向国押らも入鹿に責任を問われた形跡はない。それどころかその後も最有力な将軍として高い地位(官位)と権力を保っていた。一方で、名誉挽回を託され、山中の探索に向かう重責を担ったのは、資料に名すら残さない無名の将軍にすぎなかった。


巨勢徳太と同じく高官だった土師娑婆連(はじのさばのむらじ)もこの夜襲に派遣されていたが、奴にあっけなく殺されていたことは結末を暗示しているといえよう。実は父の土師磐村(はじ のいわむら)が用明天皇の崩御(587年)の直後、蘇我馬子の命を受けて、有力な皇位継承候補だった穴穂部皇子(欽明天皇の皇子)の誅殺に成功し、崇峻天皇が皇位につくことになった。


入鹿側にいた古人大兄王

入鹿が自ら出陣するのを制止した「古人大兄皇子」は、『日本書紀』では太子(ひつぎの-みこ)と書かれている。また、2年後の645年「乙支の変」の時に皇極天皇(前天皇の皇后)の傍らにいたことも記録される。現在でいう皇太子の立場にあり、前天皇だった舒明天皇の第一皇子だったことは、おそらく間違いない。そんな高い地位にあった人物が、入鹿の独断とされた行動に味方していたのは、いったいなぜなのか。


古人大兄皇子の実母は蘇我馬子の娘である法提郎女(ほほてのいらつめ)、つまり蘇我入鹿の従弟でもあった。山背大兄王と同様、やはり蘇我氏の一族だったことになる。つまり山背大兄王の襲撃は、皇位継承の争いとともに、蘇我氏内部の権力争いが複雑に絡んだ事件であり、入鹿は蘇我氏を率いるものとして、この難題をクリアしないといけない微妙な立場だったことがわかる。


中大兄皇子は、天皇の傍らにいた古人大兄皇子と違い「乙支の変」の時には中臣鎌足らとともに臣下の席に控えていた。中大兄(なかの-おおえ)の「中」は実名ではなく、抽象的に「中位の皇子」を表し、後の天智天皇をさすようになったと思われ、少なくとも皇位継承権は古人大兄皇子より低かった。(『日本書紀』では古人大兄の異母弟で葛城王だと記録されている。)しかし入鹿が誅されたことで古人大兄は最強の支援者を失い、中大兄の発言権は急速に高まったろう。


実は古人大兄皇子はその後がはっきりしない。『日本書紀』は、「一書(或る本)」には古人太子と呼び、また「一書」では吉野に潜んだことで吉野太子とも記録する。太子(ひつぎのみこ)とは皇位継承の第一位、つまり皇太子をさしている。にもかかわらず、後年に蘇我、物部、吉備(きび)、東漢、秦(はた)氏らとともに謀反を企て、中大兄皇子に攻められ最期を迎えたと記録される。

※吉野に潜んだとされるのは、のちの天武天皇、後醍醐天皇がいる。天武天皇が皇位継承おを子に誓わせた「吉野の誓い」は有名だ。吉野宮は『日本書紀』で第15代応仁天皇、第21第雄略天皇というエポックとされる天皇の時代に記録に登場し、日本列島の別名である秋津島(あきづしま)の地名起源説話も記される。古来神仙の住む場所とされていたようだ。中大兄皇子の時代に斉明天皇も宮を造り、後の持統天皇も生涯で三十四回も行幸した記録がある。聖武天皇も一時この吉野の地に行宮(あんぐう)を構えた。


第一皇子であり皇太子でもあった古人大兄皇子が、何故、誰に対して謀反を企てる必要があったのだろうか。しかも蘇我、物部、吉備、東漢、秦氏らは、これまでの天皇家を支えてきた主流ともいえる豪族たちだ。「皇太子が謀反」で抹殺されるという異常事態について、しかし『日本書紀』はほとんど全くといっていいほど記録をのこしていない。「山背大兄王の変」がここまで詳しく語られていることに比べて極めて不自然だろう。


この時期大量に渡来していた百済勢力と新羅勢力に大きく左右されるようになっており、天皇家や蘇我氏、古人大兄皇子や中大兄も巻き込まれ、二分して争っていたはずだ。歴史に残されないが、この時代の政変には韓人(からひと:渡来人)の帰趨が大きく関わっていたことは間違いない。『日本書紀』は後日「乙巳の変」を目の当たりにした古人大兄皇子の言葉として、入鹿が「韓人(からひと)に」襲われたとする発言を記録する。襲ったのは中大兄皇子や中臣鎌足らだったはずだ。すると韓人とは、いったい誰だったのか。

※中大兄皇子は実は百済王の子「豊璋(ほうしょう)」であり、藤原鎌足も百済王の甥である「翹岐(ぎょうき)」だったという説もある。(『日本書紀の暗号』などによる。)豊璋や翹岐は『日本書紀』に何度も登場し、実際に日本で活躍している。各種の資料の解析からある程度の説得力があり、古人の「韓人」発言とも合致するともいえよう。このことは、後に中大兄皇子の孫となる光仁天皇が百済系の渡来人を夫人とし、その子が桓武天皇となったという史実とも繋がってくる。


現在にも伝わる万葉集では、中大兄皇子は「皇子」と記されず「中大兄」と呼び棄てて記録される。しかも、その詠んだ歌は「歌」としか記されない。これは、万葉集では天皇の歌が「御製歌」他の皇族の歌が「御歌」とされるのに比較して、明らかに格下げであり、違和感がある。ここに桓武天皇や藤原氏の時代になって以降、中央から追い出されつつあった万葉集編者、大伴家持らの意図が隠れているともされる。(『捏造された天皇・天智』上巻など)


「中大兄」だけでなく「古人大兄」の名も、あくまで天智天皇側の視点に立った編纂者による潤色に過ぎず、古人とは「過去の人」という意味かもしれない。その後がはっきり記されていない古人大兄皇子は、生きていて実は大海皇子(後の天武天皇)だったとする説を展開する歴史評論家も複数いる。


仮にそうであったなら、山背大兄王の変・乙巳の変で一連の登場人物に古人大兄皇子がいる一方で大海皇子(後の天武天皇)がどこにも登場しないこと。皇極、孝徳、斉明(皇極の重祚)と天皇位が移りながらも、実力者とされた中大兄皇子がすぐに天皇になれなかったこと。入鹿が誅された乙巳の変の後の孝徳天皇(在位645-654年)の時代も蘇我倉山田石川麻呂(入鹿のいとこ)ら蘇我氏の実力者が朝廷の中枢に多数いたこと。中大兄皇子の弟とされる大海皇子が、中大兄皇子より年長だったとする記録が残ること(『本朝皇胤紹運録』など複数)。そして後に壬申の乱が起きることなど、この時代以降の歴史の流れについても、合理的に説明できそうで大変興味深い。

※大海人皇子(のちの天武天皇)は『日本書紀』にかかれる伊梨柯須彌(いりかすみ)とする説もある。彼は「高句麗」の末期に政権を掌握していた宰相、淵蓋蘇文(えん がいそぶん)であり、高句麗滅亡で日本に渡来し、その能力を生かして朝廷に深く関わったとする。これも時代背景や、『日本書紀』に記される伊梨柯須彌と天武天皇の言動が極めて類似する部分があること、天武天皇の時代の古墳などから高句麗由来の遺物が発掘されていることなどからも、ある程度説得力ある説だろう。(『聖徳太子の真相』による。)桓武天皇の時代に高句麗の後継国だった渤海国では、日本道に壁谷県があり渤海使と坂上田村麻呂との関係も深かったことは別稿で触れる。


『日本書紀』は鎌足の次男、藤原不比等が実質的に監修したといわれる。そこには歴史を意図的に改竄した形跡があるとされ、良心的な執筆者がそれを示唆す情報を密かに「暗号」として埋め込んだことを指摘し、具体的に解析を試みる歴史評論家も多い。また『万葉集』も有力な編者とされる大伴家持らの一族が、藤原氏に排斥されており、編纂の過程で同様の暗号が組み込まれているともされる。


こうした論点を展開する「日本書紀の暗号・謎」「万葉集の暗号・謎」の類の出版物は現在も数多い。これらの不自然な点は、わずかに残された一次資料から解明されることは永久にないだろう。そこから窺い知ることができる山背大兄王も謎だらけだ。本当は最期など迎えていなかったのではないだろうか。


東漢氏の七つの罪

もうひとつ気になることがある。山背大兄王との戦いに、東漢(やまとの-あや)氏とはっきりわかる将軍が、参加していないことだ。山背大兄王を襲撃した巨勢徳太は、巨勢(こせ)氏の血筋とされており、東漢氏とは一見して関係がない。(後述するが、実は東漢氏と密接な関わりがあったと思われる。)一方で、追討の指令を断って参加しなかった「高向国押」は「追従七姓」といわれる東漢氏の主力の一族だった。もちろん、山背大兄王の警護に東漢氏が当たっていなかったとされること自体も、極めて不自然と言えよう。


『日本書紀』天武六年(677年)の詔では、天武天皇は東漢氏を激しく指弾し、推古朝から天智朝まで東漢氏が政治的陰謀の影で働いていた「七つの罪」があるとした。具体的な事例を挙げてはいないが、少なくとも592年の崇峻天皇の暗殺、645年の乙巳の変(大化の改新)そして天武天皇自身が戦った672年の壬申の乱、少なくともこの3つでは東漢氏の主力を味方につけた側が最終的に雌雄を決した事実がある。その一方で、「(名族を滅ぼしたくないので、東漢氏の罪を)今回だけは許す」と、天武天皇とは思えない弱腰の姿勢も見せている。東漢氏を敵に回さず、恩恵を与えることで味方に付けるのが得策と判断したに違いない。

※『孟子』告子編では、天子の命を受けず覇者となったものは罪人だとする。すると東漢氏は常に罪人の片棒を担いできたことになる。


『日本書紀』天武天皇七年六月の条から引用(岩波版)

是月(6月)に、東漢直等に詔して曰はく、「汝等が党族 、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田(推古天皇)の御世より、近江(天智天皇)の朝に至るまでに、常に汝等を謀るを以て事とす。今朕が世に当りて、汝等の不可しき状を将責めて、犯の随(まま)に罪すべし。然れども頓(ひたぶる)に漢直(あやのあたい)の氏を絶さまく欲せず。故、大きなる恩(めぐみ)を降して原(ゆる)したまふ。今より以後、若し侵すものあらば必ず赦さざる例に入れむ」とのたまふ。

※かっこ内の説明は解説に基づき筆者がつけた。


飛鳥時代に蘇我氏が権力を維持できていたのも、東漢氏が武力を掌握していたからだ。東漢氏は暦年の皇位継承を左右する戦いでは必ず雌雄を決する重大な働きをしてきた。乙巳の変(大化の改新)で入鹿が誅された時も、蘇我蝦夷(入鹿の父)はあっけなく自ら最期を迎える決断をしている。その理由は、東漢氏が味方に付かないことが分かったからだと『日本書紀』は記録する。ではなぜ山背大兄王の襲撃という大きな賭けに、東漢氏が関わったという記録を残さなかったのか。


入鹿は山背大兄王を東国に逃がしたのでは

山背大兄王の父方の祖母は欽明天皇妃の「蘇我堅塩媛(きたしひめ:蘇我稲目の娘)」であり、母方の祖母は「蘇我子姉君(こあねぎみ:蘇我稲目の娘)」、そして山背大兄王の実母(聖徳太子の妻)は蘇我馬子の娘「蘇我刀自古郎女(とじこ の いらつめ)」であった。つまり上宮王家と蘇我氏は事実上同族とも言える。入鹿と山背大兄王は従妹でもあった。


蘇我馬子・聖徳太子らを中心とした推古天皇の時代は35年も続いていた。現在の通説では、勢力が強くなりすぎた蘇我氏は反感を買いがちだったともされる。山背大兄王は優秀だったともされ、さらに勢力を強めることが警戒された事情もあったとされる。推古天皇の次の天皇として、蘇我氏に近い山背大兄王でなく、田村皇子(のちの舒明天皇)を皇位に着けたのは、諸説あるが蘇我蝦夷(入鹿の父とされる)らが蘇我氏の力が強くなり過ぎて、周囲から反感を買うのを避け自重したからともされる。その結果、蘇我氏の血を濃く引く皇位継承者であった山背大兄王が狙われることは当然予想され、蘇我入鹿も無言の圧力に苦しんでいた可能性が高い。皇后だった皇極天皇が、すでに説明した異例ずくめの状態で即位したのも、一時的に皇位争いを回避するためだったはずだ。

※当時の皇位継承は血縁の近いものから群臣の協議(妻や母親の家系につらなる有力な豪族による支援)を得て選ばれ、一方では殺されていた。たとえば敏達、用明、推古、崇峻、穴穂部皇子の5人は兄弟であり、穴穂部皇子や崇峻は馬子によって殺されている。


私見ではあるが、山背大兄王の逃亡を画策したのは、攻め滅ぼした張本人であると『日本書紀』で名指しされた蘇我入鹿その人であり、それを支援したのは、東漢氏や秦氏だったのではないだろうか。入鹿が襲撃を指示したのというのは偽装に過ぎず、実は東国への逃亡を支援していたのではないだろうか。「巨勢徳太」に強襲を指示したが実際には動いていない。当代随一の武力を誇る東漢氏が、大きな政変に全く参加した記録がないないのは不自然だ。逆に背後で山背大兄王の一族(とくに男王)を東国の東漢氏の拠点に逃亡させるため、支援に廻したのではないだろうか。


山背大兄王を匿うことは入鹿自身にとって大きなメリットがあった。古来から皇位継承争いに絡んで、最有力とされた豪族が次々と廃されてきた歴史があるからだ。その当時、蘇我氏内部の有力者も実際に抹殺されていた。奈良時代初頭に藤原氏が記録した『藤氏家伝』では、入鹿を賢いと評すると同時に、常日頃からたいへん用心深い性格だったとも評している。いざという時は入鹿自身も逃げ延びる具体的な策を考えていたに違いなかろう。のちに天武天皇がそうしたように、万一のとき、自らが東国に逃げ延びるために、東国に有力な味方を確保しておくことは大切だったはずだ。


入鹿は「害さん」とわざわざ公言して群臣を欺き、山背大兄王を密かに東国に逃がしたうえで、当時皇太子格だった古人大兄皇子を無難に即位させることで、東西(京と下野)の拠点において蘇我氏一族の安泰をはかろうとしたのではないか。山背大兄王が実は生きていると噂を流したのも、このような入鹿の画策に気が付いた敵方だったのではないか。驚き慌てて自ら出陣しようとしたとされる入鹿も、本心では「まずいことになった。」などと考えていたかもしれない。


そう考えると『日本書紀』の数々の不自然さや疑問点もうなずけるところがある。『日本書紀』の編纂者は、これらの事実を十分知っていたが、表立って記すことができなかったかもしれない。それが不自然な記述に繋がっているのではないだろうか。『日本書紀』は天武天皇の時代から編集が始まり、当時の一流の学者らも参加しているが、最終的には入鹿を滅ぼした、中臣鎌足の次男である藤原不比等らが事実上中心になって纏めたとされるからだ。


上宮王家 東国逃避の傍証 その1 (蘇我氏の立場)

『日本書紀』の編纂を主導したのは、藤原氏の実質的な祖とされ、後の藤原氏の繁栄の礎を築いた藤原不比等であった。その孫、藤原仲麻呂がまとめた『藤氏家伝』は同時期に記録されながら『日本書紀』や『続日本紀』にない独自の記述があることから貴重な資料とされる。


『藤氏家伝』のうち鎌足について記した「鎌足伝(大織冠伝)」では、鎌足を高潔で見識高い人物と持ち上げる一方で蘇我入鹿を傲慢で専横な悪人とする、明らかに偏頗な記述が目に余る。これは藤原氏の家伝という性格上仕方がないのだろう。しかし仲麻呂の祖母が蘇我氏の娘であったこともあり、蘇我氏の実情をより真実に近い形で書き残している部分もあるとも推測できよう。記述をそのまま受け取らずに、冷静になって、差し引いて読むと、少しでも蘇我氏の真実が伝わってくるはずだ。たとえば『藤氏家伝』鎌足伝では、入鹿を次のように評した部分がある。


『藤氏家伝』鎌足伝(大織冠伝)より引用

寵幸臣宗我鞍作(そがのくらつくり:入鹿)、威福(思いのまま人を動かすこと)すでに自ずからし、権勢朝を傾けむ。咄咤に指麾(しき)して靡(した)がざる者なし。ただ大臣(鎌足)を見るに自ら粛たるが如し。心、常にこれを恠(あや)しむ。甞(かつ)て群公子、咸(みな)旻法師の堂に集いて、『周易』を讀みき。大臣、後に至るに、鞍作(入鹿)起き立ちて抗禮し倶(とも)に坐す。講訖(おわ)り將に散んとするに、旻法師、目を撃ちて留む。因りて大臣に語りて云いき「吾が堂に入る者、宗我大郎(入鹿)に如くはなし。ただ公(鎌足)の神識・奇相は、實にこの人に勝れり。願はくは深く自愛せよ」と。 

※原文は漢文のため、筆者による読み下しを記載する。過ちは許されたい。蘇我は宗我と書かれる。『周易』とは古代中国で形成された道教占術で周王朝時代の作とされる「易経」に残されている。


『藤氏家伝』鎌足伝(大織冠伝)より引用 拙訳

たまたま寵臣となった蘇我入鹿は群臣を思いのままに従わせ、その権勢は朝廷を傾けるほどで、誰一人逆らうものはいなかった。ただし中臣(藤原)鎌足と会ったときだけは、自ずから粛然として畏まってしまい、入鹿も不思議に思っていた。以前入鹿といっしょに周易を学んだとき、師の旻法師が次のように鎌足に耳打ちした。「私の堂に出入りするもので入鹿に及ぶ者はいない。ただしその神識とたぐい稀な相は鎌足の方が勝っている。深く自愛するように。」


旻法師とは608年小野妹子と共に隋に隋にわたり、20年以上学んで帰朝し、のち国博士(くにのはかせ)となって「大化の改新」を支えた学僧である。この内容から、鎌足を誉め讃える部分と、入鹿を蔑む部分を差し引いて読み込むと、ひとつ浮かび上がることがある。それは他に及ぶものがないと旻法師が認めるほと、蘇我入鹿が賢かったことだ。このことは、当時蘇我入鹿が政権で重用されていた本当の理由を、ある種正直に物語っているとも言えるだろう。


次いで同じ『藤氏家伝』で、山背大兄王の乱の部分を見てみよう。当時の蘇我氏の勢力を二分したのが蘇我蝦夷と境部摩理勢(さかいべのまりせ:蘇我馬子の弟、もしくは従弟といわれる)であった。推古天皇の崩御ののち、蘇我氏の血を引く山背大兄王の即位を摩理勢らが推していた。しかし蘇我蝦夷は他の勢力との摩擦を防ぐため、舒明天皇の即位を推したとされる。これを実現するため蘇我蝦夷は一族の境部摩理勢を攻め滅ぼしていた。『藤氏家伝』では、このような事態の再発を防ぐため、入鹿は山背大兄王の排除を諸王と協議していたとする。


同じように藤原氏の家伝であることを意識し、距離を置いて読み込むと、わかってくることがある。それは、山背大兄王は皇位継承者として、ふさわしいと思われていたことだ。そして蘇我入鹿ひとりに責任を押し付けた『日本書紀』とは異なり、入鹿は諸王と公式に協議し、皇位継承の争いを避けるためと山背大兄王を撃つ決議をしていたことだ。これで『日本書紀』にあった皇太子格の古人大兄皇子が入鹿側にいて山背大兄王の襲撃に加担していたとする記述も納得がいく。これが『日本書紀』があえて書かなかかった、真実である可能性は充分に高いだろう。


入鹿は、のちに発生し都を焼き尽くした「壬申の乱」のような天下を二分する争いが勃発するのを避けるため、より有力な皇位継承者となった古人大兄皇子を即位させ、あわせて蘇我氏一族の結束と安泰も図ろうとしたのではないだろうか。そして、このような協議が公然と群臣らとともに行われているならば、山背大兄王にも漏れて逃亡されることは当然ながら予想できたはずだ。実際に後の大海王子(天武天皇)も、攻撃されるという情報を事前に得て逃亡している。入鹿は、本当は親族でもある山背大兄王を東国の拠点に逃がすことを、画策していたのではないか。


『藤氏家伝』鎌足伝より

後の崗本天皇(皇極天皇)二年、歳は癸卯冬十月に次ぎし。
宗我入鹿と諸王子と共に謀りて、上宮太子(聖徳太子)の男、山背大兄等を害さんと欲して曰く、「山背大兄は吾が家に生まれき。明徳惟(これ)馨り、聖化猶(なお)餘れり。崗本天皇(舒明天皇)、位を嗣ぎたまひし時、諸臣云ひて、舅(蘇我蝦夷)甥(山背大兄王)、隙(すきま)有りと云ふ。また、坂合部臣摩理勢(さかいべのまりせ)を誅せるに依りて、怨望已に深し。方(まさ)に今、天子(舒明天皇)崩殂りたまひて、皇后朝(皇極天皇)に臨みたまふ。心、必ずしも安くあらず。焉(なん)ぞ乱無けむ。外甥の親(聖徳太子)を忍ばずも、以て国家の計を成さむ」と云ひき。諸王然りと諾ひき。但し、従はずは、害身に及ぶを恐れり、所以に共に許すなり。某る月日を以て、遂に山背大兄を斑鳩の寺に誅しまつりき。識者はこれを傷む。

※藤氏家伝は漢文のため、読み下し文や解釈は筆者による。カッコや鍵かっこは筆者が付けた。誤読等についてはひらに許されたい。

※「舅」は「しゅうと」とも「おじ」とも解されるが、一般にここでは「おじ」の蘇我蝦夷と解釈するのが正しいとされる。蘇我馬子の娘、法提郎媛(ほほてのいらつめ)は古人大兄皇子の生母で、同じく馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は聖徳太子の妃であり、山背大兄王の生母でもある。入鹿にとっては、古人も山背も同じ蘇我氏の一族だった。


『藤氏家伝』山背大兄王の乱の部分。拙訳(意訳)による。

皇極二年、蘇我入鹿は諸王と謀り、山背大兄王の排除を企ててこう言った。「山背大兄王は吾が家(蘇我氏)に生まれた一族であり、天皇によりふさわしい器量を放っている。しかし舅(叔父の蝦夷)甥(山背大兄王)の仲が悪いと群臣に言われ、そのため山背大兄王の皇位継承を推していた境部摩理勢(蘇我一族の有力者)も(蘇我蝦夷に)誅されてしまった。いま舒明天皇の崩御で皇后(のちの皇極天皇)が継ぐことになり、再び皇位継承争いが起きようとしている。聖徳太子(山背大兄王の父)を思うと忍び難いが、争いを避けるため山背大兄を撃つことで国家の計を成さんとする。」諸王はみな承諾したが、それは入鹿に逆らうと自らに害が及ぶと思ったからだ。その後、山背大兄を斑鳩の寺に襲撃して殺した。

※仲麻呂の祖母は蘇我娼子でもあった。そのため『日本書紀』に書かれる各種の出来事についても、その記述を否定し、別な視点でも書き残している。しかし「仲麻呂の乱」で政権を追われると、藤原氏の中に残った蘇我氏の血脈も消えていくことになる。


上宮王家 東国逃避の傍証 その2 (上宮王家側の資料から)

『日本書紀』皇極紀もよく読むと「(山背王兄王は)終に子弟妃妾と、一時に自ら経して倶に死する」とされているだけで、そこで自死した人数は触れていない。また「山背大兄王等、総(すべ)て入鹿に亡(ほろぼ)されるといふことを聞き」とも書かれ、上宮王家の一族全滅はあくまで「聞いた話」としている。実は上宮王家が全滅したという確かな記述はどこにも書かれていない。にもかかわらず何故、歴史上は上宮王家が滅んだとされていたのだろうか。


世に出ず長年秘蔵され、天下の孤本とまで言われた『上宮聖徳法皇定説』(以後『帝説』とかく)があった。驚いたことにそこには明確に上宮王家の全滅が明記されていた。山背大兄王の子は合わせて「十四皇子」と示した上で、山背大兄王とあわせて「十五皇子等」が「ことごとく滅する也」と書かれている。つまり、山背大兄王一族が全滅したことは、当時者側として、はっきりと記録されていたことになる。しかし、実はそれは後世に修正加筆されたもので、実際はどう表記してあったかはっきりしない。上宮王家の全滅は触れることがタブーとなる微妙な問題だったことを示している。


『上宮聖徳法皇帝説』東野治之校注 岩波文庫より引用

飛鳥天皇(皇極天皇)の御世、癸卯年(643年)十月十四日、蘇我豊浦毛人(えみし)大臣の児、入鹿臣□□林太郎、伊加留加(いかるが)に坐ます山代大兄(山背大兄王子)及び其の昆(兄)弟等、合わせて十五皇子等□□□□□。

※読み下しは岩波(校注 東野治之)版による。上記の引用中「□□」の部分は削られ判明しない欠字で、祖本に何と書かれていたかは不明。しかしこの欠字の部分は、後年に加筆され「悉滅之也(ことごとく滅する也。)」と補ってある。なぜ最も重要な部分が削除されて、後年に加筆修正されたのだろうか。


※『宋書』で倭王武(雄略天皇)の記録にあるように、毛人とは東国の民を指す。入鹿の父蝦夷は豊浦大臣ともいわれたが「蘇我豊浦毛人(えみし)」とするのは、東国の蝦夷(えみし)を饗応した記録があるからともされる。『帝説』でも蝦夷は「毛人」と書かれている。蘇我氏は毛人と親交が深く、下野付近(「毛野」)の地に地盤を持っていたことも推測できる。ここでも蘇我氏と上宮王家との関係が見えてきそうだ。群馬・栃木の地は、当時は毛野(けぬ/けの)と呼ばれ、そこには毛人が住んでいた。のちの上毛野(かみつけぬ:群馬県)、下毛野(つもつけぬ:栃木県)にわかれる。蘇我入鹿(名は林太郎)もその名が一部削られているが、斑鳩(いかるが)と入鹿(いるか)の名の音の近さも合わせて興味深い。これらのことから、上宮王家とは実は古代の倭の五王時代の天皇家から蘇我氏、高句麗系の渡来人そして天武天皇系ら古代天皇家を輩出した血脈集団だった可能性もあると筆者は考えている。


後世に書かれたとされる異本『上宮聖徳太子伝補闕記(ほけつき)』(以後『補闕記』とかく)では山背大兄王の親族として、「太子子孫男女廿三王」と23名もの王が列挙してあり、643年11月11日に「宗我大臣林臣入鹿(蘇我入鹿)」が山背大兄王の一族を殺したとあり、その時たった一人生き延びたのは「弓削王(ゆげおう)」だったとされる。しかしその弓削王も6日後に、ある「僧」に殺害された。これで山背大兄王の一族23王すべてが亡くなったとしている。


延喜17年(917年)に書かれたとされる『聖徳太子伝暦』(藤原兼輔、『伝暦』とかく)では、さらに増えて25王いたとされ、その名も載るが、やはり全滅したと明記されている。こうして見ると、上宮王家が滅亡したとする記述は、上宮王家側の立場に立って書かれれた文献にのみ存在し、かつ後世になってハッキリ全滅したと記された(修正された?)可能性も高そうだ。しかもその一族の人数は後世の文献になるほど増え、上宮王家側が全滅したということを意図的に強調しているようにも思える。


『上宮聖徳法皇帝説』の解説では、東野治之は「(上宮王家の)太子子孫の全滅は史実ではないだろう」としている。その根拠のひとつとして『補闕記』の記述で全滅したと記される23王子の中に「片岡女王」があることを示している。片岡女王は現在の奈良県王子寺町の片岡王寺(現在の放光寺)を建立した実在の人物であり、つまり生き残ったことは明確だとする。天武朝以降に再建された「法隆寺」にある「片岡御姐命納め賜ふ」とされる片岡御姐命は、この片岡女王その人であるとも指摘している。だとすれば、片岡女王を含めに23王すべてが亡くなったとする『補闕記』をはじめとした上宮王家全滅の話は、すべて間違いだったことになる。


さらに『補闕記』では「弓削王」は、一旦は生き延び6日後にある僧によって、別な場所で秘密裡に殺されたとする。これで上宮王家は滅亡したとするのだが、なぜ別な日に別な場所で秘密裡に殺されたのか不可解だ。さらに「秘密裡に」とするなら実は殺されていなかったことをわざわざ類推させる。後述するが実は「弓削王」は上宮王家が生き延びたとする話で後世に何度か名が上がってくる。聖徳太子の生まれ変わり伝説は多数あり、最澄(天台宗の開祖)のように聖徳太子の生まれ変わりを自称したものもいる。弓削王を殺して生き延びたとされる僧とは伝説の上での聖徳太子の生まれ変わり(上宮王家の一族)かもしれない。後年の弓削道鏡(ゆげの-どうきょう)と称徳(しょうとく)天皇の事件も関わるのかもしれない。その「しょうとく」の名と天武系の血筋が途絶えたことが興味深い。


聖徳太子関連の書は多くが後世の書であり、記述された情報は慎重に判断する必要があるが、同時にその当時には決して書けなかった史実のヒントが敢えて書き残された(あるいは書き加えられた、書き換えられた)可能性も否定できない。それらを踏まえた上で、検討する余地はあるだろう。


上宮王家の一族が生き延びたという可能性は、これだけにはとどまらない。聖徳太子の一族は、当然ながら沢山いて、各地に派遣されていたからだ。『上宮聖徳法王帝説』では聖徳太子に従う兄弟姉妹の王も6人記録され、久米(くめ)王、殖栗(えくり)王、茨田(ますだ)王、多米(ため)王、当麻(たぎま)王、そして女王が一人いた。このうち男王の二人は新羅征伐の大将軍として筑紫(福岡・北九州)に派遣され、また女王だった須加氐古女王(古事記では「須賀志呂古」)も斎王(さいおう)として伊勢神宮(三重県)に派遣されていた。


山背大兄王のほかに聖徳太子の子と記録されるのは、白髪部王(白壁王)、財(たから)王、長谷(はつせ)王、三枝(さきくさ)王、伊止志古(いとしこ)王、麻呂古(まろこ)王、日置(へき)王、厩戸女王、馬屋古(まやこ)女王など14王とされ、異本では20人以上の名前が記録されている。聖徳太子の孫になると、る山背大兄王の子だけでも20人以上、その他の王の子たちを含めると上宮王家の当時の生存者は100人以上はいた可能性は十分にある。これだけの人数がいたことを考えると、中央で権力を失うことになった上宮王家の一族のうち一人が、当時の上宮王家や東漢氏の拠点だった東国の下野に逃れたという可能性はさらに高まることになる。


聖徳太子の次男とされる長谷王(初瀬王)は、山背大兄王の即位に力を尽くしていた境部摩理勢を匿って支援したが病死(その子がいた記録も残る)山背大兄王を推す勢力は、大勢とはならずこれが境部摩理勢を追い込むことになる。その後、蘇我蝦夷は摩理勢を攻め滅ぼしたとされる。実はこれも無駄な争いを未然にさけ、山背大兄王の前に部摩理勢も東国に逃がしていたとすら推測することもできるかもしれない。下野(栃木)の地が、当時京に劣らぬ繁栄を誇っていたという、現代は俄かに信じ難い事実は、これらを裏付ける一面でもあろう。


既に風水の稿で触れたが、平安時代の『大鏡』や『聖徳太子伝歴』、鎌倉時代末期に書かれた『徒然草』には、聖徳太子がみずからの子孫が絶えることを祈ったとされる伝承が残っていたことを記した。当時の貴族たちも、同じようにみな自らの子孫が絶えることを祈ったと記録されている。この時代多くの貴族の子孫が、謀略や抗争にに巻き込まれ、処刑されて滅ろびていった。実力者の子孫が生き残ることは、子孫の命が危ないことも意味していた。しかし、子孫が絶えたと広まれば、身の安全と安寧をはかることができたはずだ。これが本当の狙いだったのかもしれない。



「五世の孫」と皇統を継ぐ言霊(ことだま)

『孟子』離婁上の私淑に「君子の沢(たく)は五世にして斬(た)え」とある。当時の日本でも、天皇の五世の孫まで皇位を継げることが前例となっていた。日本で「五世の孫」と称し皇位を得ことが正史に最初に記録されるのは第26代継体天皇だ。先代の武烈天皇は極めて異常な結末が記録され、次に即位したとされる。(紀元三世紀ごろ)だ。彼は応神天皇の「五世の孫」とされるが、越(こし:現在の福井県)に住みみ血縁も遠く離れ、皇位継承など望むべくなかった。しかし群臣に推され、24代仁賢天皇の皇女(武烈天皇の姉)を后として迎えて、皇統を継いだのだ。


この前例以来「五世の孫」までは皇統争いの中で常に警戒され、消される運命にあった。奈良時代の末にも、天武朝系の皇統を継ぐ「五世の孫」他戸親王が消されている。母は聖武天皇の娘で天武天皇の「四世の孫」だった井上(いがみ/いのえ)内親王で、天智天皇の孫である白壁王に嫁いだ。この白壁王が62歳と異例での即位となった光仁天皇である。しかし、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとの密告により、皇太子と共に幽閉され同日に急死した。間もなく高齢の夫を継いで天皇になる皇太子を抱え、夫を呪詛する必要があったろうか。こうして天武天皇の嫡流は事実上完全に途絶える。代わって光仁天皇の宮人(くにん)と地位の低かった百済系渡来人の和新笠(やまとのにいがさ)を夫人(ぶにん)に昇格させ、新たに「高野新笠」の名を与えた。実はこの高野とは、先代で天武系の最後の天皇となった称徳天皇の名前(諱)だったのだ。その子がのちに、桓武天皇として即位する。


桓武天皇には天武の血が混じらず、「壬申の乱」で破れた天智天皇の皇統が復活することになった。武力や策略で前皇統を絶ち切って新たな皇統を奪った場合、日本古来の「言霊(ことだま)」で継ぐ手法が使われたと推測できる。前皇統との血縁関係を名前(言霊)で引き継ぐという手法だ。これ以降、蘇我氏の強い血脈を引く上宮王家や天武天皇の皇統は、桓武天皇の皇統と結託した藤原氏によって、徐々に中央から排除されていく形になる。


このあとも五世の孫の悲劇は続く。桓武天尾の「五世の孫」であり新皇と名乗ったのは平将門がいる。母系だが順徳天皇の「五世の孫」と言われた室町幕府の三代将軍足利義満もいる。義満は我が子を天皇にと画策した説が有名だ。そんな将門や義満は、共に全盛の最中、あまりにあっけない最後を遂げている。


逆に言えば、そんな血筋を持つなら皇統争いの過程で、いつか消されてしまう運命も待っていよう。上宮王家にもし生き残った者がいたとすれば、地方に逃げ延び、血筋を偽り、祖先である太子の霊を護ることに専念したのかもしれない。『上宮聖徳法皇帝説』『伝暦』など各種の記録では、上宮王家が全滅したと書かれているのは、生き残った一族がいたことを、当事者として必死に否定していたのかもしれない。皇統争いの続く中、旧勢力との争いを避けて権力を維持するため、古代から現代まで世界的に続く習慣のひとつに、入り婿がある。日本でも過去に皇統が切り替わったときは、皇后(正妻)を前皇統から迎えるなどで安寧を保った。いわば政略結婚だ


聖徳太子の子に、白髪部王(白壁王)がいたことも興味深い。関東の地に拠点を開いた雄略天皇の子に、白髭王(のちの第22代清寧天皇)がいて、のち聖徳太子や蘇我氏の拠点となる桜井(現在の奈良県桜井井市池之内)に磐余甕栗宮(いわれみかくりのみや)を持ったとされる。「白髭」はのち「白壁」とかかれたが、その白壁は、桓武天皇の父だった光仁天皇が継いだ名でもある。光仁天皇は、白壁王と記録されたことで、清寧天皇や上宮王家の血脈を絶ちながらその皇統を受け継いだともみなせる。

※白壁の名はち桓武天皇によって「真壁」と改称された。常陸の真壁氏は室町時代に関東各地に勢力を伸ばしたが没落し、江戸時代は水戸家の重臣として残った。この真壁には神谷や壁谷に関わる複数の可能性が見え隠れしており別稿で触れる。


言霊で継ぐ例は他にも見当たる。歴史上は室町時代の南北朝統一とされたとき、実は両統交代で天皇位につく約束だった。しかしそれは反故にされてた結果、歴史上は南北朝が統一されたことになる。その当時の北朝の天皇「称光天皇」は自らの名を「實仁(みひと)」に改名している。しかしその改名した名は、最後の南朝の皇太子、實仁親王そのもので、同名でかつ同字であった。ここでも新たに皇統を継いだ側が、それまでの皇統の名称の「言霊」をそのまま一方的に引き継ぐ一方で、それまでの皇統の「血脈」は完璧なまでに断ち切っていった。

※光仁天皇にみられる「光」は、のちの光孝天皇、光格天皇など皇統が新しく切り替わった天皇の名前として正統を意識するものだ。初めて人臣で皇后になった藤原不比等の娘「光明皇后」にも「光」がつく。その光明皇后の諱は「 安宿姫(あすかべ-ひめ)」とされ、その名は不比等により廃された天武天皇の三世の孫(長屋王の子)、安宿王の名前と同じでやはり天武の皇統を断ち切っていた。女帝だった高野天皇の名が、桓武天皇の夫人の高野という名前に重ねられたのも同じであろう。日本では、名と本人は一体という「名実一体」(『名前の禁忌習俗』による)という考えが古来からあったという。


皇統争いの再発を避けるためには旧皇統は完全に抹殺される運命にあった。のちの南北朝では皇統を残したため長い年月渡る騒乱を招いている。聖徳太子は皇太子であったが、記録上は推古天皇の摂政とされ(当時「摂政」という職はなかったとされるが、そのような地位にいたのだろう)天皇にはなれなかった。その名は厩戸皇子とも記録されている。『上宮聖徳法皇帝説』によれば兄弟に他に5人の男王がいて、それぞれ、久米(くめ)王、殖栗(えくり)王、茨田(ますだ)王、多米(ため)王、当麻(たぎま)王とされる。日本では麻は神にささげる布とされ、古くから麻畑が広範囲に広がっており、当麻はタイマとも読み麻と考えられる。すると、なぜか厩戸王とされる聖徳太子だけが田畑に絡んだ名を持たない。

※中国には天子の「感生伝説」がある。殷の祖である契(せつ)は玄鳥(つばめ)の卵を飲んで解任したとされ、周の始祖である后稷(こうしょく:姫姓)は巨人の足跡を踏み懐妊し、漢の高祖である劉邦(りゅうほう)も母親が夢で龍と交わって生まれたとされる。天子となるべき聖徳太子も、こうして生誕伝説が作られたのだろう。


聖徳太子やその一族の不可解な薨御(こうぎょ)は特記できる異常さがあり、法隆寺の近くにある藤ノ木古墳の被葬者の謎もいまだ解明されていない。聖徳太子に劣らず、山背大兄王の人望は高かったと記録されている。しかし即位したのは「田村皇子」だった(後の舒明天皇)。私見ではあるが、もしかしたら厩戸皇子(聖徳太子)とは伝説に基づき後年に付けられた偽りの名前で、本来の名はこの「田村皇子」で、その名は「言霊」として後に天皇になった舒明天皇に奪われたのかもしれない。

※空海の『声字実相義』では、音声と文字とはそのまま真理(真言)を表すとしている。この思想によって、文字にも言霊が宿ると見なされることになる。


もし聖徳太子の本来の名が田村皇子だったとすれば、聖徳太子の6人兄弟すべての名がきれいに全員農耕で揃うことになる。そして田村であれば、発掘により判明した下野の国府があった場所が、朝廷と関係が深いとされた「河内郡」ではなく、大方の予想に反して上宮王家の力が強い都賀郡の「田村」(現在の栃木県栃木市田村町)にあったことが発掘で判明していることとも説明できそうだ。


田村とは、武力でその地を占領し、新田を開発して村を作る、すなわち新たな領地の開拓のためつけられた名前だったのかもしれない。:倭の五王の一人とされ、武家の守り神とされる八幡神社の主祀神は応神天皇であり「誉田(ほむた)」の名を持つ。東漢氏の末裔、坂上氏で武勇で鳴らした「坂上苅田麻呂」、「坂上田村麻呂」の親子二人も、その名に「田」が備わっている。田とは武力や政治力の象徴だったのかもしれない。

※最近の発掘や研究の成果から、古代の農耕用具に鉄器は使われず、実は木製だったことが判明してきている。実は鉄器は農耕器具を効率よく精密に作成するため、もしくは武器や、木製の鎧などの防具・馬具などの加工に使用されたていたことが判明してきている。鉄器を使った新領地の武力開拓は、田畑の開墾とセットだったと思われる。

※蘇我氏は渡来人の力を活用して武力だけでなく事務処理能力も高めていた。これにより朝廷の倉庫番として租税を管理し強大な資金も得たとされる。私見ではあるが「蘇我」氏の名は「穀物を税として治める」ことを意味する漢語「租莪(そが)」である可能性があるだろう。


上宮王家 東国逃避の傍証 その3(下野の地名)

『日本書紀』には山背大兄王は「胆駒山」に一度逃げたとある。河内と斑鳩の境にある現在の「生駒山」だ。さらに北上すれば、かつて聖徳太子が物部守屋討伐の際に、毘沙門天から勝利の秘法を授かったとされる生駒「信貴山」がある。生駒の名からは軍馬が飼育されていた可能性もうかがえる。もしこれが、居高麗(いこま:渡来人の居住地。)であれば、当時最強の軍事力を誇った渡来人(主に東漢氏、秦氏ら)の拠点をも意味しよう。実際にこのあたりは渡来人が開拓した土地だったからだ。


山背大兄王の臣下が語ったとされる、「深草から馬に乗って東国に向い、壬生を本(頼)りとして戦いを起こせば勝てる。」この記述は、十分に示唆に富む。実際のところ山背大兄王は皇位継承を狙える地位にあった。たとえ攻められても、拠点である東国に一度逃げ、再決起すれば勝てる可能性は十分にあったろう。この深草郷から琵琶湖の南岸を東に進めば不破道(のちの東山道)を通って確かに東国に達することができる。数日にわたって山中を彷徨い、山背国の深草屯倉(深草郷)に逃げ、さらには東国まで逃げようという提案が説得力を持つためには、馬が必要だった。

※深草郷は、現在の京都市東山区であり清水寺の前に「馬町」の地名も残る。深草郷は聖徳太子の重臣であった秦氏の本拠地でもあり、聖徳太子も「甲斐の黒駒」とよばれる名馬に乗っていた。


実はこの戦略は、約29年後の672年「壬申の乱」で成功している。「大海(おおあま)皇子」は、皇位争いが起きるのを事前に察知し一度は吉野に隠遁した。しかし襲撃されるとする情報を得ると、まさに不破道(のちの東山道)を抜け東国へ逃げていた。そこで兵を集めると琵琶湖畔から逆に攻め入って「 瀬田の唐橋(現在の滋賀県大津市)」で近江朝廷(天智天皇の子、大友皇子)の軍を撃破して大勝、第40代の「天武天皇」に即位した。この際、都の大半が焼け野原になったともされる。


もし山背大兄王が後年の天武天皇のように兵を集められずとも、さらに東に逃げて下野(つもつけ)の河内郡・武蔵埼玉郡あたりまでに到達すれば「池辺」や「壬生(みぶ)」という、上宮王家最大の本拠地が待ち構えていた。そこには、京とは違って龍のように山を飛駆る駿馬が揃い、幾多の戦いに慣れた勇猛果敢な兵士たちが揃っていた。しかも隣国である武蔵国には、中央の政権にも並ぶとも劣らない繁栄を迎え、強い権力を誇ったとも記録される「物部兄麻呂」がいた。この兄麻呂は、元は聖徳太子の舎人(とねり)という経歴をもつ上宮王家の旧臣でもあり、山背大兄王にとっては心強い味方でもあるはずだ。


もともと近畿圏には馬はほとんどなく、東国にしかいなかった。下野(栃木県)の「都賀(つが)郡」にも「生馬(いこま)郷」がある。下野の都賀の生馬で育てた馬が、東漢氏らが使う馬として奈良の生駒山で飼われていた可能性は十分にあるだろう。山背大兄は「胆駒(いこま)山」に逃げたのではなく、すでに下野にある「生馬(いこま)郷」にまで逃げのびていたとするのは、まさに行き過ぎだろうか。


『和名類聚抄』(巻七)東国の「下野都賀郡」の郷

布多(ふた)、高家(かきいえ)、「山後(やましり)」、山人(やまと)、田後(たしり)、「生馬(いこま)」、委文(しとり)、高栗(たかくり)、小山(をやま)、三嶋(みしま)、駅家(うまや)

※山人は山門(やまと)として山後(やましり)と対の地名とする説もある。なお駅家(うまや)は、馬と乗り手が常備され、宿泊施設もあり往来の拠点となった地域である。律令によって各地に設けられていた。


注目すべきは下野の都賀郡に「山後(やましり)郷」も存在していることだ。山後は山背とも書き、山背大兄王の名とも一致する。山背大兄王は『上宮聖徳法皇帝説』では「山代(やましろ)大兄王」と記し、『上宮記』では「山尻(やましろ/やましり)王」と表記されている。山後郷は、山背王兄王の直轄領だった可能性があるのではないだろうか。

※上記の小山郷は前稿で記した栃木の藤姓小山氏の名の興りになった。その一族長沼氏が構えた鎌倉時代の古城とされ、栃木のまさに聖徳太子神社の目前にあった壁谷城について前項で記している。


坂上田村麻呂の出身氏族である東漢氏も、この栃木の地に上宮王家にも勝る広大な拠点を築いていた。『新撰姓氏録』によれば、「東漢氏」の祖は、前出の雄略天皇の時代の渡来人「都賀使(つがのおみ)」であり、その名はこの下野国の「都賀郡」と一致している。「委文(しとり)郷」は「倭文」とも書かれるが、これはまさに「東漢(やまとのあや)」の音そのものにも見えよう。東漢氏の一族に「東文(やまとのふみ)部忌寸」も記録されている。


追っ手を掻い潜り、小勢力で東国まで逃げ切り、そこで生き延びるのは至難の業かもしれない。しかし文官、武官として強力に蘇我氏をささえていた強大な東漢氏、そして莫大な財力を持った秦氏の支援があれば実現は十分可能だろう。上宮王家の一族は本当は栃木の地まで馬で東上し、この地で生き延びたのかもしれない。


上宮王家 東国逃避の傍証 その4(下野の「大阿久主馬源有経」と「太子館」)

栃木の地で「聖徳太子神社」を開いたとされる「大阿久」家の祖は、鎌倉時代の「大阿久主馬(しゅめ)源有経」と伝承されていた。「源」姓は清和源氏だけにとどまらず、皇子が臣籍降下し家臣となるとき与えられる姓であり、天皇家の血筋を引くことを意味する。上宮王家の生き残りだとしても一度臣籍降下したならば皇位継承権がなくなり、皇位争いから逃れることもできた。しかし前例から少なくとも五世の孫までは不安だっただろう。後に平氏として臣籍降下していた平将門も、五世の孫として一時関東で政権を打ち建て、新皇を名乗っている。(「承平天慶の乱」)


大阿久の名字は「大悪」であり、おそらく恐れを知らぬ強者(つわもの)を意味したと推測する。「悪」は古来から強い武力を意味しており、それは覇権を確立した倭王武とされる雄略天皇の異名にある「大悪天皇」、そして平安末期に東国でその武勇が恐れられた源頼朝の兄「悪源太」源義平(よしひら)、さらには楠木正成らの名称「悪党」にも表れている。なお「主馬」は、馬や輸送に関わる朝廷の官職であり、馬を駆使できることを誇示したのかもしれない。


栃木の「聖徳太子神社」を守る「太子館」の入り口に掲げられている紋章も、天皇家由来の「五七の桐」である。現在天皇家で使用されている「菊の御紋」は、鎌倉時代の後鳥羽天皇(後に「承久の乱」で流罪)から使われたとされているが、それ以前の皇族が使用していた紋章はこの「五七の桐」だった。後年になると源姓の本流に対し朝廷(もしくは足利将軍家)から「五七の桐」の紋の使用が認められた権威ある紋章だった。太子館でいつからこの紋を使っているのか定かではない。しかし「五七の桐」はそう簡単に掲げられる紋ではなかったはずだ。

※「源有経」には平安末期の「源義経(よしつね)」の伝承が混じっている可能性もある。源義経は後述する聖徳太子流兵学を使ったとも伝承される。これは根拠のない付会の説とされるが、たとえそうだとしても、武力(兵学)の世界で長年にわたり聖徳太子伝説が引き継がれ、畏れられていたことは事実である。当時の人々の考え方を考える上でも大変興味深い。その義経をかくまったのは平泉に拠点をもった藤姓秀郷流の奥州藤原氏だ。平泉の中尊寺も、中国五台山の壁谷玄中寺で修行した円仁が開基である。円仁は、現在の栃木県出身でその出自は壬生氏とされ、聖徳太子伝説を大きく広めたことでも有名だ。



「太子館」の名も、聖徳太子の館(やかた:中世では城)を意味しよう。聖徳太子は斑鳩で現在の法隆寺の東伽藍があった地にすみ、そこで斑鳩宮を立て山背大兄王に譲っていた。それが本稿の最初に登場した急襲された斑鳩宮だった。昭和に入っての発掘調査で、法隆寺東伽藍の下に、焼け落ちた斑鳩宮の遺跡群が発見されている。栃木の太子館とはつまり山背大兄王がいた斑鳩宮を象徴していよう。


巨勢徳太と乙巳の変(大化の改新)

蘇我入鹿の命を受けて山背大兄王を攻めたとされる「巨勢徳太(こせのとこた)」は、2年後の645年に「乙巳の変」では隠れたキーマンとして登場する。蘇我入鹿に最も重用された側近だったにも関らず入鹿が殺されたと知ると、一転して反撃を開始しようとした東漢氏の一族をことごとく説得し切って、中大兄皇子側に寝返らせていた。入鹿の父、蘇我蝦夷は頼みだった東漢氏の支援が得られないと知ると、屋敷に火を放って自害した。蘇我本宗家はこれで滅び、蘇我氏は大きく力を失ったとされる。この功績か巨勢徳太は、大化5年(649年)には左大臣にまで昇進する。実際には中大兄に味方した蘇我氏の一族、蘇我倉山田石川麻呂が力を持つことになり、結局は蘇我氏の間の権力争いだったともみなせる。


入鹿を誅した乙巳の変の直後、中大兄皇子らは、飛鳥寺(法興寺)を占拠して城として備えたことが記録されている。蘇我氏が心血を注いで作った当時の飛鳥寺は、周りを「白壁」で囲まれ、当時は他にない最先端の防御を誇る頑強な城としても機能した。『帝説』では蘇我善徳(蘇我馬子の長男)など蘇我氏本宗家の一族は飛鳥寺の僧となっていたことも記録される。有名な入鹿の首塚も、その飛鳥寺のすぐ横に、ポツンと建っている。根拠のない私見であるが、乙巳の変とは、実は蘇我氏の一族が飛鳥寺で人質に取られ、それがために東漢氏も東漢氏も動けなくなり、結果的に蝦夷の自死と当時の蘇我本宗家の滅亡につながった可能性もあるのではないだろうか。現在の入鹿の首塚は地域の人に長年守られてきて、現在もその地を見守っている。

※飛鳥寺(あすかでら)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子ないし聖徳太子が立てたとされ、初代の僧侶に蘇我善徳(馬子の長男か)が記録される。法興寺(漢風の名称、現在の元興寺)とも呼ばれ、仏法の「興隆」から、法興寺と法隆寺は対をなす寺ともされる。


『藤氏家伝』から「乙巳の変」の後のところを引用

(入鹿が誅されたあとも)豐浦大臣(蘇我蝦夷)なお在り、狡賊未だ平らからず。即ち法興寺(飛鳥寺)に入り城と爲し、以って非常に備う。公卿大夫(臣下ら)悉く皆隨(したが)う。人をして鞍作(入鹿)が屍を豐浦大臣に賜いしむ。ここに漢直等(東漢氏ら)、族黨を摠聚(総て集)し、甲(甲冑)を環き兵を持ち、將に大臣を助けんとして、軍陳を分かち設けぬ。中大兄、巨勢臣德陀(巨勢徳多)を使して告げしめて曰く、「吾が家國の事は、汝等に依らず。何ぞ天に違いて抗捍(こうかん)し、自ら(東漢氏の)族の滅ぶを取るや」と。(東漢氏の)賊黨高向國押(高向国押)、漢直等に謂いて曰く、「吾が君の大郎(入鹿)は已に誅戮せらる。大臣(蝦夷)は徒然にその誅決を待つのみ。誰が爲に空しく戰い、盡く刑せられんや」と。言い畢(おわ)りて奔走る。 賊徒また散らけむ。豐浦大臣蝦夷、自ずからその第(邸宅)に盡きたり。

※漢文の読む下しは筆者による。カッコ内は筆者による説明。


しかし、東漢氏の一族を一斉に寝返らせることができたとされる「巨勢徳太」とは、いったい何者だったのだろうか。巨勢氏は第6代孝元天皇の末裔ともされている古代ヤマト政権の古代豪族ともされているが、その系譜は実際には明確ではない。同族と思われる許勢臣(こせのおみ)は、朝鮮半島の任那日本府にも派遣された主要人物でもある。また巨勢比良夫は蘇我氏と物部氏の仏教論争で名高い「丁未(ていび・ひのと)の乱」で、蘇我馬子の命に従い厩戸皇子(後の聖徳太子)らとともに物部守屋の追討軍に参加している。この時代の巨勢氏は、東漢氏だけでなく蘇我氏や聖徳太子とも強い関係があった。


巨勢氏は「高市郡巨勢郷」に地盤を持ったとされているが、そこを通る「巨勢道(こせじ)」という大道がある。この道は「紀道(きじ)」ともいわれ、古代の大和(奈良)と紀伊(和歌山)を結ぶ幹線道路であった。(現在のgoogleの地形図でも谷間を貫く幹線道路がはっきり見え、なるほどこの道かと気が付く。)


この巨勢道に高楼をたてた人物の記事が『日本書紀』の欽明天皇七年七月の条にある。それは「檜隈邑(ひのくまむら)」の「川原民直宮(かわはらのたみのあたいのみや)」という人が、紀伊の漁夫から良い駒(馬)を買い取りのちに見事な駿馬に成長し、龍のように飛び、鴻(おおとり)のように舞い「大内丘の谷を超えて渡った」と言う記事だ。


高貴な人と思われる「宮」は、高い「楼」から道を見下ろしていて天皇に貢く海産物を運ぶ馬を見て買い取ったのだ。この「檜隈邑」はもちろん大和国武市郡檜前郷(現在の奈良県武市郡明日香村)であり、また大内丘は、『日本書紀』が書かれた当時にすでに存在していた「天武・持統天皇稜」がある明日香村野口である。


「川原民直宮」が誰なのかは不明だが「宮」とされること、幹線道路に高楼を持っていたことから、相当に地位が高い人であり『渡来人の謎』では「川原民直宮」は有力な渡来人だった「東漢氏」の一族、「民(みたみ)氏」だと断言している。大和国で「武市(たかいち)の檜隈(ひのくま)郷」一帯を拠点としていたのは東漢氏であったからだ。


駿馬とは、これらの戦いに使われた東漢氏の力を象徴し、そして東漢氏はこの争いの中を乗り越えたのだろう。また厩は学びの舎であり東漢氏の知力(兵法、戦略、占い)の象徴でもあり、つまり駿馬を持つことは賢いことも意味していた。


「檜隈部(ひのくまべ)」は宣化天皇は「檜隈廬入野(ひのくまのいほりの)にあり、そこには東漢氏の氏寺とされる古代寺院、檜隈寺(ひのくまでら)があった。(現在も跡地が残る)そして、東漢氏の本拠地である檜前(ひのくま)と河内を繋ぐ大道は、檜前から南西に抜ける「巨勢道」と、北西に抜ける「太子道」の2本があった。この2本の道以外で、河内や紀の国に抜けられない。(険しい山を越える必要がある)この2本が主要な幹線道であったことは、現在もこの付近の地形図を見れば一目瞭然だ。この皇統争いは後の天智・天武の皇統争いにも波及した。


巨勢道という名も、643年、645年の政変でもキーマンとなっていた「巨勢徳太」との関係を連想する。『日本書紀』では巨勢徳太は「乙巳の変」の直後に即位し、中大兄皇子に見捨てられた「孝徳天皇(軽皇子)」とほぼ同時に亡くなったされるが、その事情の説明はない。巨勢徳太の不可解にも見える動きの裏にあるだろう事情は、山背大兄王の変や、乙巳の変の真相や、そして天智・天武系の争いに繋がってくるため大変興味深いのだが、本稿の主題から外れるので、できれば別稿で触れたい。

※『天皇記(すめらのみことのふみ)』『国記(くにつふみ)』は、『日本書紀』によれば推古天皇28年に聖徳太子と蘇我馬子によって編纂された。『天皇記』は「乙巳の変」の際に蝦夷邸の炎上で失われ、『国記』は持ち出され中大兄皇子に渡ったとされる。このことは過去の正しい皇統の記録が、このとき失われたことを示唆するが、のちの『日本書紀』は『国記』などを土台にして編纂されたと推測できる。


巨勢氏も実は東漢氏と大変近い一族で、この時代は強い血縁関係があったか、もしくはその軍事基盤において東漢氏と極めて強い結びつきがあった可能性が高い。この関係で、巨勢徳太は「乙巳の変」で反撃体制をを整えようとする東漢氏一族を説得しきることができ、蘇我氏本宗家が滅びたとされることになったのだろう。


朝鮮半島の動乱と「山背大兄王の変」「乙巳の変」

『日本書紀』では川原民直宮の話のような長閑な話が、不自然といえるほど唐突に載っている。なぜならその前後は、ひたすら朝鮮半島の戦乱が激化し、時の政権が数年間にわたって振り回されている記事で埋め尽くされている一方で、日本国内で何が起きていたの記載がないかからだ。「川原民直宮」が馬を買い取ったとされる直前の記事、欽明5年(552年)春は、朝鮮半島では大変な戦乱がおきていたと記録されて、欽明7年「その馬が駿馬となった」とされた次の記事には「この年、高麗おおいに荒れ死者二千人」とし『百済本記』(現存せず)が伝える史実を詳しく紹介している。


『日本書紀』は触れないが、この時期は日本は大変な事態に巻き込まれていたことは間違いない。たとえば『元興寺縁起』や『上宮法皇聖徳帝説』など聖徳太子系の古文書、そして百済の史書『百済本記』(逸文)と『日本書紀』の記述や年号に、欽明天皇の即位年の記述の違いがある。また『百済本記』の記載から、「欽明天皇」と「安閑天皇・宣化天皇」が同時に即位して、二つの王朝が対立していたとする説もある。これらの記述は『日本書紀』には書くことができなかった皇位継承争いがあったとことが推測できる。詳しく触れなかったのは、現存する皇統の正統性に疑念をいだかれるからだろう。


欽明天皇の和風諡号は「天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)」であり、「排開」には排除した意味がくみ取れる気もする。『日本書記』では欽明天皇は兄の宣化天皇が崩御した後、539年に即位したとされてる一方で、『百済本記』には「又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」とあり日本で天皇、皇太子、そして皇子が辛亥の年(531年)に当時に死んだと百済に伝わったとする記述もある。このことから日本の史実として消された皇位継承に関わる争い「辛亥の変」(531年)があったのだろうという学説を支持する専門家も多い。もちろん『日本書紀』本文ではこの点に一切触れていない。

※現在最古の朝鮮半島の歴史書は、高句麗・百済・新羅の三国を記した『三国史記』である。これは高麗時代に完成したが、今は失われている百済三書(『百済本記』『百済記』『百済新撰』)を参照して編纂されたとされる。531年は『日本書記』では継体天皇の崩御の年であり、すると次に天皇になったとされる安閑天皇、宣化天皇も同時に没し、勝利したのは蘇我氏と手を組んだ欽明天皇だった可能性もある。


藤原式家の台頭と下野の変化

時代が下って奈良時代の神護景雲3年(769年)、『続日本紀』によれば、太宰府の宇佐八幡宮の神託があったされる。その神託では「称徳(しょうとく)天皇」が寵愛していたとされる「道鏡(どうきょう)」を皇位に就かせれば天下泰平になると奏上された。世に名高い「宇佐八幡神託事件」はこうして勃発した。


当時の天皇も、やはり女帝であった「称徳(しょうとく)天皇」で「聖徳太子」に深く帰依した「聖武天皇」が彼女に皇位を託していた。その名も聖徳太子と同じ「称徳(しょうとく)」の響きを持つが、他の天皇のように死後送られた諱ではなく、即位時に与えられた尊号「宝字称徳孝謙皇帝」からきており、生前から生粋の「しょうとく」を備えていたことになる。死後には正式に「高野天皇」が追諡されたため『続日本紀』などでは高野天皇と記されている。したがって本来は高野天皇というべきだが、すでに記したように後継となった光仁天皇の夫人(ぶじん)が高野新笠と命名され、のちの桓武天皇の実母であった。後世に高野天皇の名は使用されなくなった理由は、ここにもあるかもしれない。

※「徳」の名の付く天皇は、多くが寂しい最期を遂げている。称徳天皇の他に徳がつく天皇は、は中大兄皇子に置き去りにされ寂しく世を去った「孝徳」天皇、保元の乱に敗れた「崇徳」天皇(当時は上皇)、壇ノ浦に沈んだ「安徳」天皇、そして承久の乱で島流しとなった「順徳」天皇と「顕徳」上皇(在位時は後鳥羽上皇)などがいる。そして不自然な最期が記される「聖徳太子」にもこの徳の名がついていた。


さて、称徳天皇が皇位を譲ろうとしたのは「道鏡」であり。それを推したのも宇佐八幡神からの神託であった。宇佐八幡の祭神は「雄略天皇」の源流となった河内系の「応神天皇」だ。応神天皇は当時は皇祖の大本流とも崇められた最も権威ある天皇であった。称徳天皇の父、聖武天皇が奈良の大仏を建立した際も、宇佐八幡の活躍は記録され、この時期の宇佐八幡の朝廷への影響力は大変大きかった。

※宇佐八幡を始めとした八幡(はちまん)神社は、本来は渡来氏族である秦氏の氏神と言われ「八幡(やわた)」は「矢秦(やはた)」からきているともいう。


「道鏡」の話は、後世に相当捻じ曲げられていることが推測されるが、その話と関わりなく、ひとつの根本的な疑問がある。これまで話したように、天皇の五世の孫までが、皇位継承権を持つというのが慣例だった。そんな血筋はない「道鏡」が天皇の地位に就く、宇佐八幡からそのような神託が出たことや、称徳天皇も皇位を継承させようさせたことは常軌を逸する気もする。しかも群臣の多くがこれに反対した記録も特に残されていない。


道鏡を法王としたことにつき、称徳天皇はどのように考えていたのだろうか。論文『称徳天皇の「王権と仏教」』では「法王とは聖徳太子の如く天皇の万機の政の摂行する者の名称であり、皇太子監国の地位と仏教の教主としての天皇の地位を兼ね備えたものであり(中略)聖徳太子がかつて有していた機能を道鏡に与えた」とする滝川政次郎の説について、実際に称徳天皇が書き残した写経などを分析して論じている。


それによれば、称徳天皇は最勝王経に登場する「法王」感で、皇位継承や皇太子の関係を捉えていたとする。これは光明子や橘美千代らによる聖徳太子信仰の深さだけででなく、阿部内親王(のちの称徳天皇)が前代未聞の女性皇太子とされたことに関わっている。ちょうどこのころ、阿倍内親王のために最勝王経などの書写が開始され、上宮王院(現在の法隆寺 東伽藍)の建立が始まっており、これも阿部内親王の立太子への根回しの一貫だった。そして上宮王院(法隆寺東伽藍)の造営のための法華経講は、聖徳太子の命日とされる2月22日に始まっており、聖徳太子が作ったとされた法華講を念頭においたものだった。


法華経講とは、女帝であった「推古天皇」に「聖徳太子」が講じたもので、その姿は「僧」のようであったとされる。聖徳太子は奈良時代には聖徳王と呼ばれており、それが「僧形」に見えたというのは、まさにのちの「称徳天皇」と僧である「道鏡」との関係を類推させ、道鏡が立太子する素地はこのときからできていたものと思える。


かつて推古天皇は病で臥せっていたとされる聖徳太子のもとに田村皇子(のちの舒明天皇)を見舞いに行かせている。聖徳太子は永代の帝王(天皇)ために羆凝(くまごり)道場を大寺にする誓願を立てながら「羆凝寺(現在の大安寺)を以て汝に付す、宜しく承りて、三宝之法を永伝すべし」とした。これは寺などの「財物」は永く保つことはできないが、仏教である「三宝之法」は絶えずに永伝できるとするものだった。これに応えた田村皇子は「永く三宝を興し皇祚窮すること無し」と誓ったとされ、それを受けて推古天皇によって田村皇子が皇位継承者に決まったとする。(『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』)このような考えは、当時の太子信仰に基づくもので、聖武天皇や光明子、そしてのち称徳天皇となる阿部内親王にも大きな影響を与えただろうとする。


『称徳天皇の「王権と仏教」』より

聖武天皇と光明子の期待を背負った異例の女性皇太子という存在は、草壁(天武天皇の皇子)皇統という血筋を伝えるという課題を持つと同時に、「皇太子」であった聖徳太子から発した「三宝之法永伝」という課題を引き継ぐことでもあることを、阿倍内親王(称徳天皇)も太子信仰の形で受け入れていったと考えられる。(中略)(しかし)皇位継承については、「諸聖天神地祗御霊」の授ける地位であり、三宝からの承認だけでなく、当時は三宝より下位に位置付けたとはいえ、天神地祗からの承認を必要とした。このために宇佐八幡託宣が行われた。

※本論文の論考は、道鏡に皇位継承権を認めた背景についてさらに深く考察し、称徳天皇は後年になって皇統の血脈より三宝の永伝に重きを置いたと論じている。興味のある方は、原論文を参照されたい。

※聖徳太子は中国の天台宗開祖の慧思の転生とされ、それを信じた鑑真が来日したと記録されていることは既に記した。『宋高僧伝』巻十八の唐京兆法秀伝でも、玄宗皇帝が終南山(ついなんざん)の聖僧の転生であったとある。


その称徳天皇の意を受け、大宰府まで直接ご神託を確認しに行って京に戻ってきたのは、和気清麻呂だった。しかし称徳天皇の意思に忖度することなく、ご神託を否定している。『続日本紀』によれば、称徳天皇はこれに激怒し、和気清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名させて大隅に遠島とし、その姉までも「別部広虫売」(『日本後紀』では「別部狭虫」)と改名して備後に遠島としている。


前例を重視していた朝廷で、道鏡に皇位継承権がないなら、わざわざ「和気清麻呂(わけのきよまろ)」を、はるか大宰府の「宇佐八幡」にまで派遣して、直接ご神託を確認させる必要などないだろう。本当に道鏡には皇位継承権はなかったのだろうか。和気清麻呂も、下手をすれば死罪を免れないと知りながら、なぜ称徳天皇に忖度せず、わざわざ意に反した行動をとったのだろうか。


その後まもない宝亀元年(770年)5月、称徳天皇はなぜか職務をこなせないほど不調になった。何が起きたか不明だが、職務は臣下らにより百日間に渡って代行されたと記録される。称徳天皇はそのまま53歳で崩御した。こうして皇統が途絶えると、代わって即位したのは予想に反して天智系の皇統を引く光仁天皇であった。清麻呂の姉だった和気広虫は許され、無位無官だったにも関わらず従五位下に列するほど出世した。さらに翌年、和気清麻呂も復官し、数年後に光仁天皇の子「桓武天皇」が即位すると、四階級特進という異例の昇進を遂げている。清麻呂らが担った役割が推測されよう。


皇位継承と「不改常典」

実は古代からの前例で、大王(後世の天皇)は群臣の協議の上で決められていたようだ。上古の習慣から、子は母の家で育てられる。そのため外戚となる母親の実家が権力を持つことになった。ごれが貴族や皇子の名に実家の名字や領地の名がつく理由であり、蘇我氏や藤原氏といった天皇家の実家が力をもつことに至った背景に繋がる。当時に大王(天皇)位の継承の争いが絶えなくなった一面も物語っている。


しかしこの時代には天智天皇が決めたとされる「不改常典(ふかいのじょうてん)」があったとされる。『続日本紀』元明天皇慶雲四年(707年)の元明天皇即位の際に「天地と共に長く日月と共に遠く、改るまじき常の典」と示されたものがそれで、通称「不改常典」と呼ばれる。もちろん現存しておらずその内容は不明だが、皇位継承の順位に関する決まり事が記されていたとされる。皇位継承に関して協議がされるとしても、最も正統たるものが皇統を維持することが強く意識されていたようだ。


この「不改常典」が使用されたことが最初に記録されるのは、持統天皇10年(696年)のことだ。壬申の乱の最大の功労者でもあり、天武天皇が最も信頼し皇位継承者ともされた「高市皇子」が薨去し、皇嗣選定が群臣で協議されることになった。(高市皇子の子にはのちに不比等らによって廃される「長屋王」がいる。)『懐風藻』によれば、協議の際に天智天皇の孫「葛野王」が、発言しようとした天武天皇の第九皇子「弓削(ゆげ)王」を叱責したとする記録がある。そのときの根拠にこの「不改常典」が持ちだされ、それによれば皇位継承者は決まっているとされた。これに反論できる皇子はだれ一人いなかったとされる。この協議の結果、皇位継承者が決まったことになる。


この「不改常典」は『日本書紀』には記されていない。『続日本紀』の元明天皇のとき、はじめて記録されている。このことから「不改常典」は、藤原不比等らが考え出したもので後世に伝わり『懐風藻』に記録された可能性が高いとも推測されている。そであれば、不比等の子孫である藤原氏の力が大変強くなっていた「道鏡」のころ、皇位継承は「不改常典」に縛られるという風潮があった可能性は高い。だとすれば、道教が皇位継承者となるような話が議論に上がっていたとすれば、道鏡には「不改常典」に抵触しない正当性な血縁があり、それは天智系の皇統よりも、称徳天皇に近かったとも読み取れる。


上宮王家 東国逃避の傍証 その5(栃木と弓削王、物部氏)

もしそれが事実であれば、道鏡に皇位継承権があったという可能性も否定できない。「不改常典」があったにも関わらず「宇佐八幡神託事件」に発展した事情も十分に説明がつく。


道教は「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」とされ、俗姓は弓削氏ともされる。古来は武器の「弓」を製作する部だったともされ、物部氏の一族に連なる系図が残されている。仏教論争の末「丁未(ていび)の乱」で蘇我馬子に滅ぼされたとされるのは物部宗家の「物部守屋(もののべのもりや)」だった。実はこの守屋の名も「物部弓削連守屋(ゆげのむらじ-もりや)」である。そして蘇我馬子の妻であり、蘇我蝦夷の実母である「太姫」は、物部守屋の実妹でもあったともされる。物部氏の族長である弓削守屋を破って妹を妻に迎えたことで、蘇我氏は物部氏を排除したのではなく、物部氏を吸収してさらに強大になったと筆者は推測する。実際に物部氏の大半は蘇我氏との協力体制にあり、既に示したように物部氏の一族である「物部兄麻呂」は聖徳太子の舎人となって、のちに武蔵国の国造になり大国武蔵の国を支配していた実力者でもあった。

※以前は偽書とみなされていたが、最近再評価されている『先代旧事本記』には、かつての大和王権時代、最も有力な大王家のひとつが物部氏だとされている。


天武天皇の第九皇子「弓削(ゆげ)王」がいたことも忘れていけない。持統天皇10年の「不改常典」の話では、この弓削王が天武系の皇族にいて、天武天皇の崩御後の皇位継承に盾をつこうとしながら身を引いたと記録されている。また『補闕記』で上宮王家のだた一人の生き残りとされ、六日後に「僧」によって殺害されたとされるのは、聖徳太子の孫である「弓削王」だった。この弓削王の一族が生き残っていて、その子孫が道鏡である可能性を指摘する説も一部にはある。弓削の名は、物部氏や蘇我氏、そして聖徳太子に近い支援勢力の一族で、弓削の名を引く王は母系で、蘇我氏や聖徳太子、天武天皇の血を引いていた可能性も否定はできない。

※『日本書紀』で妹が蘇我馬子の妻だったとされる物部守屋の名も「弓削」であった。弓削氏と皇族、そして有力豪族の母系での血縁関係は深い。


称徳天皇の崩御後、「道鏡」は、聖徳太子ゆかりの下野薬師寺に左遷されている。この事件で責任を問われた「奈良薬師寺」の大僧都「行信(ぎょうしん)」や、宇佐神宮の神主「大神多麻呂(おおみわのたまろ)」も、同じく「下野薬師寺」に左遷されている。聖徳太子信仰の強かった聖武天皇・光明皇太后らの時代には、下野の地は東国の中心地となり京に負けないほどの繁栄を誇っていた。当時天皇に次ぐ地位ともいえる「法王」の道鏡を左遷するとすれば、上宮王家が地盤を持ち当時東国一の隆盛を誇っていた下野であったことも一定の説明がつく。


逆にいえば、新興の桓武天皇や藤原氏の勢力が古来の仏教・神社勢力をはるか遠方の下野に追い出したものとも取ることができる。以前は平安遷都の理由の一つは奈良の旧仏教勢力から逃れるためだったとする説が有力だった。そのような事情があったことは現在も否定できないだろう。藤原氏らは世を忍んで陰に隠れて生き延びていた天智系の天皇と組んで、多くの旧勢力を下野に追い出し、さらには都を京に移して、奈良を置き去りした。これは、かつて大火の改新後に皇位につい孝徳天皇を、中大兄皇子(天智天皇)が難波宮に置き去りにし、皇后を始めとした皇族や群臣を引き連れて都をさったこととも似てもいよう。孝徳天皇は、依然として蘇我氏を重く用いていた。


天皇を前にして「和気清麻呂」が流罪(場合によっては死罪)を覚悟で称徳天皇の意に添わない発言をしたこと、そして復帰後に驚異的な昇進をしたことは、次稿で紹介する皇統の切り替わりの一連の政変を影で主導したともされる稀代の策士「藤原百川(ももかわ)」らの存在から氷解するだろう。


「天下三戒壇」の一つとされた下野

僧になるためには「戒壇」で受戒するのが条件だったが、日本には戒壇がなく、中国まで行く必要があった。そのため日本に授戒できる戒壇を開く必要があった。日本の最初の受戒は来日しのちに唐招提寺を創建した「鑑真(がんじん)」だった。「聖武天皇」も鑑真によって受戒し僧になっている。鑑真やその弟子たちにより、戒壇の仕組みは日本でも整えられ、その後聖武天皇により「天下三戒壇」が定められた。


天下三戒壇というからには、日本でたった三か所しかない。「奈良東大寺」「下野薬師寺」「筑紫観世音寺」の三か所のみが受戒できる地となっている。戒壇を開くための戒律を日本に伝えたのは鑑真である。鑑真が何度も来日に失敗し、遂には失明までしながらも4度目の渡航で日本渡来してきた理由は、実は「聖徳太子」の意思を継ぐことだったされる。


このことは鑑真の弟子らが記した伝記により語られている。それによれば中国天台宗の開祖である中国僧の「慧思(えし)」が日本の王子つまり「聖徳太子」に生まれ変わったとされる伝承(「聖徳太子慧思託生説」)が「唐」にあったとされる。このような聖徳太子の伝説が、当時の日本から中国大陸に伝わっていた可能性は俄かに否定はできない。


『唐大和上東征伝』(弟子らによって書かれた鑑真の伝記)より引用

是の歳、唐の天宝元載冬十月(日本天平十四年歳次壬午なり)時に大和尚、揚州(中国南部、江蘇省)大明寺に在りて、衆の為に律を講ず。栄叡・普照、大明寺に至り、大和尚の足下に頂礼して、具さに本意を述べて曰く、「仏法東流して、日本国に至る。其の法有りと雖も、法を伝ふる人の無し。日本国に、昔、聖徳太子といふひと有り、曰く、「二百年後、聖教日本に興らむ」と。今、此の運に鍾る。願はくば大和尚、東遊して化を興したまへ」と。大和尚、答へて曰く、「昔聞く、『南岳の思禅師、遷化の後、生を倭国の王子に託して、仏法を興隆し、衆生を済度したまふ』」と。


聖武天皇は聖徳太子を深く崇敬しており、現在に残される聖徳太子伝説の多くが、聖武天皇や光明皇后の時代に作られた可能性が大変高い。聖武天皇・光明皇太后はその後も聖徳太子に深く帰依し、法隆寺の再興などにも力を尽くした。このときは下野の繁栄も絶頂期だったに違いない


「大乗戒壇」と平安初期の壬生の底力

奈良時代末に日本の天台宗の開祖、伝教太師「最澄(さいちょう:766-822年)」も鑑真と同じく、聖徳太子が慧思大師の生まれ変わりだと信じていたとされる。四天王寺の上宮廟(聖徳太子の墓)に詣でると、目前で自らを聖徳太子の「玄孫」つまり、聖徳太子の子孫だと語っている。


『伝述一心戒文』中巻より「最澄」が作った漢詩に関する序文から引用

今「我が法華聖徳太子は是れ南嶽慧思大師の後身なり」、厩戸に生を託し四国を汲引す。持経を大唐に請い、妙法を日域に興し、木鐸を天台に振い、其の法味を相承する「日本の玄孫、興福寺の沙門 最澄」愚なりといえども願くば我が師教弘めんことを渇仰の心に任え謹んで一首を奉る

※「」は筆者がつけた。なお最澄が造ったとされる漢詩の原文は「求伝法華宗詩 海内求縁力 帰心聖徳宮 我今弘妙法 師教令無窮 両樹随春別 三卉応節同 願惟国教使 加護助興隆」である。上記の序文はこの漢詩を詠んだ背景を説明している。


その後、弘仁13年(822年)天台宗の開祖「最澄」の死後、「円澄(えんちょう)」が第二代天台座主となった。その年、天台宗が比叡山延暦寺で独自の戒壇を開くことが朝廷に認められている。これを認めたのは、桓武天皇の子、平城天皇だった。今までは聖武天皇が認めた「天下三戒壇」だけだった。しかし、天台宗の戒壇が新たに追加され「大乗戒壇」となっていく。「大乗戒壇」は中国では正式に戒壇とは認められなかったが、平安時代は日本の仏教は真言宗・天台宗といった密教とを中心として独自の発展をしており、中国に認められずとも大きな問題にはなることはなかった。


この二代座主「円澄」も出家前の俗姓が「壬生氏」とされ、やはり当時の関東の中心地のひとつ「武蔵國埼玉(さきたま)郡」の出身である。そして第三代天台座主は慈覚大師 「円仁(794-864年)」だ。彼も下野国都賀(つが)郡壬生の出身であり、やはり俗姓は「壬生氏」となる。円仁は入唐して「壁谷玄中寺」にて修行し、壁の中に光り輝く文殊菩薩に出会い、そこで多くの経典を得て日本に戻った記録を残している。(円仁『入唐求法巡礼行記』による。)平安後期の奥州藤原氏の繁栄を象徴する、平泉の中尊寺も円仁の開基だ。最澄とともに日本で初めて清和天皇から「大師」の諡号を贈られている。この円仁なくして後年の天台密教の繁栄はなかっただろう、最大の功労者の一人である。

※現在も中国南部にある壁谷玄中寺を開いた浄土宗第二祖「曇鸞(どんらん)」については別稿で触れた。空海、親鸞、円仁を始め著名な高僧の多くがこの壁谷玄中寺で修業しあるいは曇鸞を祖と崇め強い影響をうけている。



聖武天皇以来の「天下三戒壇」に縛られることなく、天台宗が日本独自の「大乗戒壇」を開けたことは、聖徳太子由来とも思える「壬生氏」の出身者が高僧となって天皇に仕えたことも根拠のひとつになっただろう。これ以降は天台宗に続き、真言宗が朝廷へ浸透し始める。一方で権威を奪われた形となった「天下三戒壇」とくに東国の下野薬師寺は急激に衰退の一途をたどり、これを境に下野の繁栄には大きく陰りがさすようになってくる。


桓武天皇の時代以降、天台宗は平安時代には朝廷の中に食い込み、朝廷行事を取り仕切ったともいえる。こうして隆盛を迎えた「天台密教」は、日本で聖徳太子の後裔と自ら称する高僧たちによって育くまれていったのだ。江戸時代に至っては徳川家康の側近となった「天海」を生むことになる。

※現在の栃木県下都賀郡壬生町太師町に、紫雲山「壬生寺」がある。江戸時代初期の天真親王が時の壬生城主に命じて大師堂を建立しさせたのが始まりとされる。そこには円仁誕生の産湯の井戸があり、円仁を祀る太師堂に親王命で作られた円仁像が安置されている。


このほかに弘法大師「空海」、「日蓮」、「親鸞」などの高僧も聖徳太子伝説を信奉し、また黄檗宗・曹洞宗を始めとした禅宗も日本では聖徳太子伝説に強い影響を受けていた。それは『日本書紀』が書き残した「片岡飢人」の説話が、後世になって禅宗の開祖達磨(だるま)と聖徳太子との聖人伝説となって広まったことに始まる。これらについては、別稿で再び詳しく触れたい。


戦国時代の壬生氏

さてここからは、武士の時代の壬生の話に入ろう。室町時代にも壬生の名を引きづく壬生氏がいて、下野の地で壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町)、鹿沼城(現在の栃木県鹿沼市)を拠点とした。初代は「壬生胤業(たねなり)」とされ、天正十八年(1570年)秀吉の小田原攻めの際に北条氏とともに滅亡するまで、五代百五十年の間勢力を誇ったとされる。この壬生氏の出自も、はっきりしてない。


当時の壬生氏が差し出した資料によれば、公家だった壬生胤業(たねなり)が武家を望み関東に下向して興した家だという。本姓(ほんせい:出身氏族のこと、名字とは別)を小槻(おつき)といい昇殿を許されていない中級ともいえる公家だった。このような一族が、遥か遠方の関東に下向し、これだけの勢力を得ることは常識的に考えられない。そのため『壬生町史』では、二荒山(ふたらさん:のち漢音で表記され日光山)の別当職だった宇都宮氏一族の横田朝業(ともなり)が壬生三郎と記された記録があることから、「壬生胤業」は横田氏だとする説を示している。

※「業」は横田氏の通字であることも根拠の一つとされる。私見だが「胤」は千葉氏の通字としてあまりにも有名だ。千葉氏との関連の可能性も否定できない。鎌倉初期の千葉常胤は頼朝の挙兵を支え、幕府設立の立役者だった。のちの室町幕府でも侍所別当を務め、三管領四職に次ぐ重臣とされ、特に尾張より東(関東)から奥州(東北)にかけてで室町中期まで大きな勢力を誇っていた。


室町時代の初期の応永元年(1394年)に日光山座禅院別当(当時の日光山座主が鎌倉におり、その後坐禅院別当が代理を務めた。)とされた昌瑜(しょうゆ:日光山38世)も壬生氏の出身とされ、横田氏との関係も深いとされる。このことから「壬生胤業」より50年以上前にすでに下野の地で壬生氏が勢力をもっていたとしている。「壬生胤業」の孫であり関東の名族ともされる宇都宮氏も破って宇都宮城を奪い、壬生氏隆盛の礎を築いたのは壬生氏第三代の綱房だった。その二男、昌膳(しょうぜん:日光山48世)も、日光山を掌握した座禅院別当を務めている。壬生氏については、このほか古代壬生氏の末裔とする説もあるがいずれも決定打はない。(『シリース藩物語 壬生藩』による)すくなくとも古代壬生氏の伝承の強い影響下にあって、聖徳太子伝説がこの地で強い影響力をもって生き続けていった可能性は大変高い。


北条氏と敵対した壬生氏は第五代の義雄のとき北条氏の傘下となった。第20稿で記した、皆川広照と同様に北条側が下野に攻め込まれ、徳川家康と佐竹義重のとりなしで、北条側に着くこととなったと思われる。しかし天正十八年の小田原攻めでは、皆川広照と共に小田原城に籠城して戦った。北条氏とともに滅亡したが家康側に寝返って本領安堵された皆川広照によって、実は謀殺されていたともされる。(『シリース藩物語 壬生藩』による)のちに投秀吉の小田原征伐による宇都宮仕置きで、壬生の地は結城秀康(家康の二男、秀吉の養子となった)に与えられ、その結果、壬生氏は改易、日光山も同類とされその領地を没収された。

※実は皆川広照の側室は、壬生氏第五代義雄の妹、鶴子だった。つまり、皆川広照は壬生義雄の義弟だったことになる。なお、壬生氏は、日光山座禅院51世の昌淳(しょうじゅん)が継いだとされる。

※秀吉による東北の戦後処置を「奥州仕置き」というのに対し、関東の戦後処理を「宇都宮仕置き」という。宇都宮城で行われたことに由来する。


江戸幕府の壬生藩 

壬生氏は改易となったが、江戸時代にはその地を引きついだ壬生藩があった。壬生藩の石高が最大となった松平輝貞のとき、隣接する河内郡も一部含んだが、ほとんどが中世から続く壬生氏以降受け継がれてきた「都賀郡」が中心である。江戸時代初期には、将軍秀忠や家光などが何度か日光社参りしており、壬生城はその際の宿にもなった。江戸後期には現在の栃木市、小山市の領域も含み、壬生藩主となった鳥居氏は、幕府老中や若年寄りを歴任し、壬生藩は江戸幕府にとっても重要な位置づけを持っていた。有名な「宇都宮城釣り天井事件」もこうして発生している。


『寛永諸家系図傳』より引用

元和三年台徳院殿(徳川秀忠のこと)、将軍家日光御社参の時、数度壬生に渡御あり

『寛政重修諸家譜』より引用

元和三年、台徳院殿、大猷院殿(徳川家光のこと)日光山にまうでたまうのとき、壬生城に渡御あり。其後もしばしばわたらせたまひて物をたまう


伝説の兵術「聖徳太子流」

聖徳太子は、政治や仏教だけでなく、兵学や医学に長じていたともされ、その後の数々の伝説でも語られる。『上宮聖徳法皇帝説』では、「並びに天文、地理の道に照(あきらか)なり」とある。『日本書紀』では推古朝で日食が記されており、当時の学者に天文の知識があったのは間違いないだろう。当時の天文とは「天文風水」と意味した。また、地理も「地理風水」つまり「地の理(ことわり)」を意味し、現代語の「地理」とは意味が全く異なる。どちらも中国南部から伝わった道教風水に基づくものである。(なお聖徳太子の伝説にある医術もやはり受け継がれており、「壬生の医術」も江戸時代のには全国各地に知れ渡っていた。このことは、機会があれば触れたい。)


中世の兵学とされるものに「聖徳太子流」があった。楠正成(楠木正成:くすのきまさしげ)の流れを受けているともされ、神威で天皇を守るとも伝わるのだろう。室町時代に甲州武田家家臣の望月相模守定朝(さだとも)が中興したと伝承される。その定朝は夢に現れた聖徳太子から、兵学の軍要を伝えられその奥旨・奥儀を得たとされている。この伝承は『上宮聖徳法皇帝説』の以下の話を彷彿させる。

※甲州(現在の山梨県)に聖徳太子や田村麻呂、壁谷に関わる地があり、室町時代以前の記録が残る。別稿で触れる。


『上宮聖徳法皇帝説』から引用

上宮王、高麗の慧慈(えじ)法師を師とす。(中略)太子問うところの義、師の通ぜざる所有らば、太子、夜夢に金人の来たりて解けざるの義を教うるを見る。太子窹(さ)むざる後、卽ち之を解く。


聖徳太子流とされる兵学については、確かな資料がなくはっきりとは分からない。『日本武術諸流集』『武芸流派大事典』などに記載があるとする文献があるが、筆者はまだ確認できていない。後日詳しく調べてみたいが、Wikipediaの記述などから断片的解説を試みてみる。


Wikipediaからの引用

聖徳太子流(しょうとくたいしりゅう)は、望月定朝が開いたとされる軍学と武術の流派である。軍法(軍学)の他、剣術、薙刀術などを伝えた。太子流とも呼ばれた。薙刀術は静流とも呼ばれた。


定朝は室町時代に甲斐の武田信玄の家臣であって、騎馬を使い少数で奇襲する攻撃で数多くの軍功を挙げたが、天正三年(1575年)の長篠の合戦で戦死したとされる。甲斐武田家が滅亡し、豊臣秀吉の宇都宮仕置き・奥州仕置きで、その遺臣たちも東北に散った。しかし会津を領した芦名盛氏(あしなもりうじ:1521-1580)の地頭となった定朝の門弟たちが、聖徳太子流を各地に広めたとされる。(芦名氏は鎌倉時代の平姓良文流ともいわれる三浦氏を祖とし千葉氏とも同族の平姓である。その後会津を居城とした戦国大名となった。戦国時代に須賀川の二階堂氏の嫡子が盛隆と名のって芦名氏を継ぎ、二階堂家と組んで伊達政宗に対抗している。)


定朝の子孫のひとり、望月安光は江戸時代に会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)に取立てられ、聖徳太子流は幕末に会津若松藩に広まった。安光の子の望月安勝からは、高名な山崎闇斎(儒者でもあり垂加神道の創始者)も学んだとされる。その流儀は保科正之以来、会津藩で正式に採用され「太子流」と呼ばれる「会津五流」のひとつとして、藩校日新館でも教えられた。戊辰戦争の白虎隊もそこで学んだと記録される。聖徳太子流は幕府の警護に深く係った仙台藩や当地の壬生藩(現在の栃木県下都賀郡壬生町付近)にも広がり、尾張藩にも聖徳太子流剣術が伝わっていたとされる。


聖徳太子流は底流にながれる軍法のもと、騎馬上での剣・薙刀・長太刀・入身(いりみ)を得意としたとされる。この「入身」とは日本古来の武術の基本とされ、古武道で敵の身中に飛び込んで瞬時に敵を倒す手法、あるいはその構えさしていたと思われる。また聖徳太子流の薙刀(なぎなた)術は、静流(鈴鹿流)とも呼ばれ、会津藩、仙台藩に広まっていた。明治になって武道の振興を目的として設立された大日本武徳会(政府の外郭団体:戦後GHQにより解体された)の第一回武徳祭大演武会でも、聖徳太子流の剣士が表彰された記録が残っている。


日本独自の芸能である「能」も、この入身を取り入れていたようだ。江戸初期に書かれた能楽書『舞正語磨(ぶしょうごま)』には能では武道から学ぶことが必要として「修羅のはたらき(戦場における修羅場での動き)は、みな兵法にて、勝身、入身(いりみ)を かんがへ、能にはまぬる事、習也」としている。この入身とは、肉体と精神を鍛えて初めてできる「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の術だったのかもしれない。現在の合気道でも技の名に「入り身投げ」がある。あえて相手の身中に飛び込み、片手で後襟を引いて相手の体制を崩す。崩れた体制を立て直そうとした相手の力を使ってもう片方の手で引くことで、敵を軽々と捻り倒すことができる。これは敵の懐に忍びこみ、敵の力を利用してわずかな力で敵を倒す華麗な技だ。この技は聖徳太子流兵学の根柢にある考え方を象徴している。


神道無念流と聖徳太子流

聖徳太子流によって、壬生藩は剣術で後世にも名を残した。「小幡景憲」が創始したとされるのが甲州流軍学である。小幡はその後徳川秀忠や、井伊直正に仕え、関ケ原や大阪の陣では、その智謀と軍略を駆使して勝利を導き徳川幕府成立の陰の立役者ともされる。


武田信玄遺臣の山本晴方は、武田信玄の軍師として有名な山本勘助の縁者ともされる。浪人ののち常陸土浦藩(松平氏)に仕官してから甲州流軍学を学び『甲陽軍鑑』の成立にも関与したとされる。主君、松平輝貞が元禄四年(1691年)に、壬生に転封となると、山本晴方は壬生城代、ついで城代家老となり、将軍家が日光社参の度に登城していた壬生城の改築も担当した。その築城には甲州流軍学の知識を駆使したと思われる。松平輝貞は五代将軍綱吉や、八代将軍吉宗につかえ、幕府老中格として幕閣を支えた要人でもあった。


この流れは幕末の「神道無念流」に繋がる。壬生で生まれた福井兵右衛門が興したものだ。この流派の斎藤弥九郎が現在の九段下の靖国神社がある敷地に「練兵館」を開くと、江戸三大道場のひとつ数えられるほど隆盛を誇った。この道場で学んだ弟子筋にあたるのは、水戸藩主で徳川斉昭の側近で「尊王攘夷」を唱えた儒者として有名な「藤田東湖」、田原藩の家老で同じく儒者で画家・文人としても有名な「渡辺崋山」、そして新撰組局長の芹沢鴨、長州藩士の「伊藤博文」、「桂小五郎(のちの木戸孝允)」、土佐藩士の「谷干城」などそうそうたるメンバーが並ぶ。江戸三大道場は、ほかに桃井直由の鏡新明智流「士学館」、千葉周作の北辰一刀流「玄武館」である。この3つの道場の門弟には、それぞれ後の維新の志士が大勢いた。


万延元年(1860年)幕末の尊王攘夷の志士として名高い、「高杉晋作」は、桂小五郎、久坂玄端と別れてひとり剣の修行の旅に出た。あまり語られないが、実は彼も柳生新陰流の免許皆伝の腕をもつ剣客であったとされる。神道無念流で全国に名の轟いていた壬生の地に9月に着くと、剣客として全国にその名を轟かせていた松本五郎兵衛に他流試合を挑んでいる。当時は他流試合の際、対戦相手に名を記してもらうことが広く行われており、高杉晋作が持っていたそのときの「他流試合名士帳」もこの記録が残っている。


そこには「野州(下野)壬生藩 聖徳太子流 松本五郎兵衛門人」ほか11名の名前が記録され、確かに勝負したことは間違いない。しかし日記形式で記されていたその内容は、試合の当日から種々雑多で断片的な内容の寄せ集めになってしまう。なぜ試合の結果を詳しく記さなかったのかは、現在も謎ともされている。


壬生町立歴史民俗資料館のHPによれば、高杉の対戦相手とされる五郎兵衛の子孫に伝わる話に、高杉晋作は五郎兵衛にまったく歯が立たなかったとされている。「(高杉晋作は)何度挑戦しても(五郎兵衛から)一本も取れず学問の道へと進ませた」という。この試合で高杉晋作は剣の道を諦め、その志を新ためて幕末の志士として名を残すことになったのだろうとしている。


この松本五郎兵衛は、幕末に行われた日本初の砲術演習(徳丸原:現在の東京都板橋区)にも参加した清水赤城の弟子として、甲州流、山鹿流、長沼流兵学にも通じていた。これらは聖徳太子流の流れを汲む流儀であり、江戸時代には会津若松の藩校日新館で教えられ、幕府講武所の頭取となった男谷精一郎、そして勝海舟も学んでいる。


幕末の水戸藩尊攘派の過激組織だった天狗党(藤田東湖の子らが率いた)に対して、幕府から追討令が出されている。壬生藩の飛び地の領地だった山川(現在の茨城県結城市)雲雀塚(茨木県ひたちなか市)などで天狗党を破っている。このときの壬生藩士の圧倒的な強さは江戸末期に狂歌となって広まったほどだ。


江戸末期の狂歌で、壬生藩の強さを示す一例

江戸で荘内(将軍家を警護した庄内藩)京都で会津(京都守護となった会津若松藩)雲雀塚では鳥居さん(壬生藩のこと)
千早ぶる、神の業かと天狗らは、鳥居(壬生藩のこと)の旗におそれこそすれ


すでに説明したように、栃木の壬生は医術でも有名であった。古来戦場で負傷した兵馬を救命して再び戦えるようにすることは常に戦に勝つ上で大変重要だったからに違いない。また医学的な知識がなかった当時、戦いで傷ついた命を救うことはまさに神の技とされたのかもしれない。これも古来に中国から伝来した道教風水の賜物であったのだろう。聖徳太子も医術に関する数々の伝説がのこる。機会があれば、壬生の医術についても触れたい。


課題

1)『日本書紀』では皇極天皇3年(644年)11月に、蘇我氏が甘樫丘に邸宅を建て、蝦夷を「上(うえ)の宮門(みかど)」、入鹿を「谷(はざま)の宮門」と呼んだとする。当時の実力者の二人ををあわせると「上谷(かみや)の帝」とも読め、上宮(かみや/じょうぐう)ともかける。この当時、上宮王家には山背大兄皇子がいた。


またこの時代に「谷」が地名として用いられており、後に名字の地として「谷」が存在していたこともわかる。名字に変化したことも当然なのであろう。


2)山背大兄王が逃げ延びた生駒山と似た立地にあるのが後世の赤坂城(現在の大阪府南河内郡)だ。1331年鎌倉幕府の大軍に囲まれた「赤坂城の戦い」で、楠正成(楠木正成)が城に火をかけて逃げ切った。幕府側は焼け残った骨を見て正成と見なし、同じように撤退したと記録されている。楠正成は聖徳太子を崇敬していたことが数々の記録に残る。そういえば法隆寺の秘仏とされ、聖徳太子の等身大立像ともされる救世観音像も「樟(くすのき)」の一本作りであった。


3)聖徳太子の作と伝わる、『勝鬘経義疏』(『三経義疏』のうち一つ)には次のような記述がある。山背大兄王が「入鹿にくれてやる」と言ったことは、この記述にある「捨命と捨身」を指している。この記述をもとにして、入鹿を悪者にし、山背大兄王の行動を理想化するために、後世の『日本書紀』の編者が潤色した可能性もある。


『勝鬘経義疏』から引用

「旧(ふるきひと)釈すらく、身を捨すとは、謂(いわ)く自ら放(ほしい)ままに奴と為ると。命を捨すとは、人の為に死を取るなりと。今日く、捨命と捨身とは皆是れ死也。但し意を建つること異る耳(のみ)。若し身を餓鬼に投ずるが如きは本(も)と捨身に在り。若し義士の危きを見て命を授くるは、意(こころ)捨命在り。財を搭すとは、請く身外之物なり」(読み下しは法隆寺蔵版昭和会本『勝鬘経義疏』による)。


4)山背大兄王が逃げ込んだ生駒山は付近一帯を鳥瞰することができた。河内と大和の境にある生駒山系に登れば、河内から大和一帯を360度にわたって見下ろす大パノラマが眺望できる。そこからは、現在の法隆寺や、大和川も見下ろせ大和三山、三輪山そして東大寺の屋根も見える。その生駒山の山頂には、延喜式に載る伊古麻(いこま)山口神社がある。祈雨八十五座(神)に属している。その由緒ははっきりしないが、古くから、水を司る神として朝廷から重要視され、宮殿や神社などの建築に使用する樹木を守る神ともされていたようだ。その祭神は、素戔嗚(すさのお)と櫛稲田姫だが、おそらく他の山口神社と同じように、大山祇神であった可能性がたかい。


参考文献

  • 『舞正語磨』 秋扇翁 1658 
  • 『壬生剣客伝 幕末の風雲児、高杉晋作が挑む』壬生町立歴史民俗資料館 2010年
  • 『シリース藩物語 壬生藩』中野正人・笹崎明 現在書館 2019年3月
  • 『説文解字』『延喜式』『常陸国風土記』『今昔物語』
  • 『新撰姓氏録』『尊卑分脈』『扶桑略記』『水鏡』以上日本文学電子図書館など
  • 『藤家家伝』『大織冠伝』藤原仲麻呂(『群書類従』)
  • 『懐風藻』天平勝宝3年(751年)江口孝夫 全訳注 講談社学術文庫 2000年
  • 『竹取物語』全訳註上坂信男 講談社学術文庫 1978
  • 『新訂 官職要解』和田英松・所功 講談社学術文庫 1983
  • 『新訂魏志倭人伝後漢書倭伝宋書倭国伝随書倭国伝』石原道博編訳 岩波文庫1985
  • 『倭国伝』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 2010
  • 『日本書紀』全現代語訳 講談社学術文庫 1988
  • 『日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 岩波文庫 1994
  • 『古事記』倉本憲司 岩波文庫 1963
  • 『日本書紀の世界』山田英雄 講談社学術文庫 2014
  • 『続日本紀』全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫 1992-1995
  • 『日本後紀』 全現代語訳 森田悌 講談社学術文庫 2006
  • 『日本霊異記』景戒(薬師寺僧)(787年-822年ごろ成立)講談社学術文庫1978
  • 『和名類聚抄』源順  国立国語研究所 二十巻本古活字版
  • 『新訂官職要解』 和田英松著 所功校訂 講談社学術文庫 1983
  • 『上宮聖徳法皇帝説』花山信勝・家永三郎 校訳 岩波文庫 1941
  • 『上宮聖徳法皇帝説』東野治之 校注 岩波文庫 2013
  • 『聖徳太子伝暦』藤原兼輔 延喜17年 (917 年)
  • 『上宮聖徳太子伝補欠記』
  • 『興福寺縁起』『元興寺縁起』
  • 『伝述一心戒文』光定
  • 『藤氏家伝』藤原仲麻呂 群書類従
  • 『寛永諸家系図傳』
  • 『寛政重修諸家譜』国会図書館
  • 『大日本地名辞書』吉田東伍 明治13年
  • 『上宮聖徳太子伝補闕記の研究』新川登亀男 吉川弘文館 1980
  • 『蘇我氏』倉本一宏 中公新書 2015
  • 『謎の豪族 蘇我氏』文芸春秋 2015
  • 『天孫降臨の夢 - 藤原不比のプロジェクト』大山誠一 NHKブックス 2009
  • 『図説栃木県の歴史』責任編集 阿部昭・永村眞 河出書房新社1993
  • 『図説群馬県の歴史』責任編集 西垣晴次 河出書房新社 1989
  • 『図説茨木県の歴史』責任編集 所理喜夫・佐久間好雄他 河出書房新社 1985 
  • 『図説埼玉県の歴史』責任編集 小野文雄 河出書房新社 1992
  • 『新編武蔵風土記』昌平黌 地理局総裁 林述斎編 寛文九年(1669)
  • 『埼玉県の歴史』第二版 森田武編 山川出版 2010年
  • 『栃木県の歴史』安倍昭 編 山川出版 1998年
  • 『シリース藩物語水戸藩』岡村青 現代書籍 2012
  • 『聖徳太子の歴史学』新川登亀男 講談社選書メチエ 2007
  • 『万葉集があばく 捏造された天皇・天智』上・下 渡辺康則 大空出版2013
  • 『こうしてクニが生れた』加藤健吉・仁藤敦史・設楽博己  NHK出版 2013
  • 『隠された十字架』梅原猛 新潮文庫 1981
  • 『海女と天皇』梅原猛 新潮文庫 1995
  • 『聖徳太子の本』学研 1997
  • 『聖徳太子は蘇我入鹿である』関裕二 KKベストセラーズ 1999
  • 『聖徳太子と物部氏の正体』関裕二 小学館新書 2014
  • 『渡来氏族の謎』加藤謙吉 祥伝社新書 2017
  • 『推古天皇・聖徳太子』本郷真紹監修 歴史展示企画会議 奈良県 2017
  • 『聖徳太子の真相』小林恵子 祥伝社新書 2017
  • 『聖徳太子慧思託生説と百済弥勒寺「金製舎利奉安記」』蔵中しのぶ 日本学術振興会科学研究費補助金基盤研究 2013 
  • 『称徳天皇の「仏教と王権」』勝浦令子 国文学解釈と鑑賞 69 2004
  • 『鑑眞は來日以前に聖徳太子慧思後身説を知っていたか』伊吹 敦 印度學佛教學研究2013
  • 『詳説日本史研究』山川出版
  • 『聖徳太子-再建法隆寺の謎-』上原和 1987 講談社学術文庫
  • 『名前の禁忌習俗』豊田 国夫 1988 講談社学術文庫 

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。