まとめ2
飛鳥・奈良時代の故地名 壁谷
中国五台山にあった壁谷玄中寺の曇鸞(どんらん:476 - 542)を「浄土五祖」の筆頭にあげるのは、法然(1133-1212)である。(『類聚浄土五祖傳』第一位曇鸞伝による)親鸞(1173-1262)も、同じく曇鸞を「七高僧」の一人として崇めている。その曇鸞とは、『浄土往生伝』(1087)などに「壁谷釋曇鸞」(壁谷の僧曇鸞という意味)と記録され、日中ともに浄土宗の開祖とされている高僧だ。実は「浄土五祖」そして「七高僧」のどちらにも名が挙がる曇鸞、道綽、善導の三人は、いずれも壁谷玄忠寺で修業した高僧だったのだ。「壁谷」とは、中国の南北朝時代(439-589)に五台山の奥深くにあった地名であり、今も日中における仏教(浄土教)発祥の地と伝承されている場所だ。(現在の山西省忻州市五台山石壁山)仏教を学ぶため、日本から中国に向かった多くの修行僧たちが目指したのも、やはり五台山だった。五台山の地名の由来は、周囲が五つの木の生えない峰々(石壁と呼ばれる)によって囲まれているからだとされる。その神々しい峰々に囲まれ、なんとか人が居住できる谷こそが「壁谷」であったのだろう。
『隋書』では、曇鸞の出身地とされる雁門(中国山西省)にあった地名としても「壁谷」を記録する。そこは煬帝(唐第三代皇帝)に抗し、弥勒菩薩と称して世の改革を迫った壮士の集団が立てこもった場所だ。次の唐の時代を記録した『長安志』にも唐の都長安に面した南側に「壁谷」の地名が記録されている。(現在の陝西省西安市長安区雷村)そこは壁谷玄忠寺から移った善導(浄土五祖の三位)が、長安の都に布教するために新たに寺を開いた場所だったことが、古地図と見比べることで推定できる。さらに遡れば、秦や漢の時代にも中国雲南省に「壁谷」の地名があったことが『雲南通志』に記録されている。時代は下るが、朝鮮半島にも壁谷県が記録される。それは「海東の盛国」と称された渤海(698 - 926)の都であり、日本に向かう道(日本道)とされる東京龍原府のにある地名だった。このように壁谷の地名は、古代から最近の清の時代に至るまで、中国本土から朝鮮半島にかけて多数記録されている。(「まとめ」で触れている。)
振り返ると日本でも「壁谷」の地名が残されていることに気が付く。日本で最も古い「壁谷」の地名が残るのは、おそらく古代に「越(えつ)」と呼ばれた現在の富山・福井・石川・新潟付近であろうか。日本海に突き出た特異な地形に沿って流れる世界有数の海流にのり、古代から少なくとも数万人の渡来人が中国大陸や朝鮮半島から日本に上陸してきた。「越」は大陸文化の到着点として、古代日本に画期的な時代を切り開いた源流の地であり、のちの遣隋使や遣唐使そして渤海使が到着する代表的な地でもあった。現在の天皇家の直系の祖先とされる第26代継体天皇(古墳時代)も、この「越」の出身であった。その子、欽明天皇の時代に日本に伝来したと記録されるのが仏教である。蘇我馬子や第33代推古天皇(継体天皇の孫)になると、急激に浸透し、にわかに国家鎮護のよりどころとなっていった。
近年の遺跡調査により、飛鳥時代の「法光寺」の跡地が特定されている。その故地名にかつて「字(あざ)壁谷」があった。(地籍調査資料によって確認済み。現在はその地名はない。)その「放光寺」を開いたのは「泰澄(たいちょう)」とされる。伝説によれば、泰澄は天武・持統天皇の子であった文武天皇(もんむてんのう)から国家鎮護の命を受け、元正天皇(聖武天皇の叔母)の病気平癒や、当時都で大流行した疱瘡(天然痘)の終息を祈祷した。その功によって正一位大僧正という人臣としての最高位に上り詰めている。しかし、その最大の功績は後世の仏教界に多大な影響を与えた白山(はくさん)を開いたことだろう。NHKの「ゆく年くる年」でも放映される曹洞宗(そうとうしゅう)大本山、永平寺(福井県永平寺町)も、この白山権現を守護神としている。
さらに高原山山頂より約500m北方の標高282mの山頂には広さ約300平方米の開削平地がある。そこには「高原山法光寺跡」との棒示杭が立つ。その地名は、かつて越前市国中町字壁谷であった。(現在は地籍71番地とされる。)ここは泰澄修法地との伝承地とみられている。(『三里山を取りまく泰澄開創社寺につい』若越郷土研究 福井郷土史懇親会による)恐竜の町としても有名な、福井県勝山市平泉寺町には、まだ「字(あざ)壁谷」の地名が残る。 そこは、やはり泰澄大師によって、養老元年(717年)に平泉寺が開かれ、その後の白山信仰の拠点となった場所だ。そこは平安後期には天台宗比叡山延暦寺の末寺として発展した。戦国時代から江戸時代にかけて、寺領9万石と中堅大名なみの石高を誇ったが、明治の神仏分離令によって解体されて大きく衰退した。現在は白山神社として、わずかにその形跡を残している。どうやら泰澄と日本の壁谷の地名には、少なからず縁がありそうだ。
隣接する越中砺波郡(現在の富山県高岡市)では、文明3年(1471年)に、本願寺の中興の祖、蓮如(れんにょ)が砺波郡壁谷庄(かべやの-しょう)土山に、土山御坊という寺を建立した記録が残っている。(後述するが壁谷庄は、蟹谷庄と記録される。)それが現在の「勝興寺」である。その後も加賀前田家によって守られ続けた日本有数の規模を誇る伽藍には、現在も多くの国宝・重要文化財が残されている。境内には大伴家持が国守として実際に滞在していた国衙(こくが:官庁)の跡地も見つかっている。その近くには、九頭竜水系のダム建設で水中に沈むことが既に決まった「字壁谷」の地名もある。おそらくは、そこにも寺があったかもしれない。発掘調査された記録は現在までのところ確認できていない。
※『放光寺古今縁起』によると、「放光寺」は第30代敏達天皇(第33代推古天皇の夫、聖徳太子の叔父)の勅願による定額寺(官寺のこと)として全国各地に作られていた。上記はその一つと推定される。放光寺にはのちに用明・推古・舒明・孝徳天皇そして聖徳太子(厩戸皇子)など多くの皇族が深く関わり、奈良時代には聖武天皇らが興隆に尽くした記録がある。実は「ほうこう」という響きは極めて興味深い。たとえば同じ発音に、日本最古の寺院とされ、蘇我馬子が建立した「法興寺(現在の飛鳥寺)」がある。その法興寺の発掘調査では「方光」と書かれた瓦が発掘されている。日本最古の元号は、教科書では「大化」とされる。しかし、実はその20年以上前に「法興(ほうこう)」という元号があったと、法隆寺の釈迦三尊像の光背には記録されている。(事の真偽の議論は極めて興味深いが、その点は別稿にゆずる。)中国から入ってきた漢字表記は当時はまだほとんど使われておらず「ほうこう」という発音・響きにこそ大きな意味があったと推測できる。後に蓮如が開いたとされる「勝興寺(しょうこうじ)」の発音も「ほうこう」に近い(発音が後世に変化した例は多い)と考える事もできるのかもしれない。
※実は「ほう」は飛鳥時代に最も重要なキーワードの一つだろう。聖徳太子の『17条の憲法』にも「何れの世、何れの人かこの『法』を貴ばざる。」とある。聖徳太子のいう「法」とは、紀元前のインドで幅広く仏教政策を推し進めたアショーカ王が石柱に刻んだ「人類が生まれる前からある、守らなければならない不変の倫理」のことも意味していると筆者は推測している。当時の時代背景や仏教文化流入の経緯からして、聖徳太子はアショーカ王の政策に大きな影響を受けたことはおそらく間違いないと推定できるからだ。(中国語の「辟」には、本来的に「法・掟」の意味があり、そこから「天子」の呼称ともなった事を心に留めておきたい。)一方「こう」はは仏教で智慧や慈悲の象徴として「放」たれる「光明」のこととされる。(いわゆる後光である。)聖武天皇の皇后が生前から名乗っていた光明子(光明皇后,安宿媛-あすかべ-ひめ)の名も、おそらくこれに関わるのであろう。飛鳥(あすか)の名も、「アショーカ王」から来た可能性があると考えている。その飛鳥の枕詞「飛ぶ鳥」とは、極楽浄土で念仏を唄い広める霊鳥、カラヴィンカをさしていると筆者は推測する。仏教政策を推し進めていた飛鳥・奈良時代の朝廷にとって「ほう・こう」の響きには、大きな意味があったはずだ。
一方で紀元1世紀ごろ、中国で漢の時代に編纂された『説文解字』では「辟」は「法なり」と説明されている。同じ『説文解字』では「土」は神の依り代として「地上の万物の始まり」とされる。この2文字をあわせると「壁」になることは興味深い。紀元前後のインドでは「法」のもとインドで仏教が発展した。その仏教を中国そして日本へと広め、今なお仏教発祥の地とされるのは、先に触れた中国(南北朝時代)五台山「壁谷」の地にあった玄忠寺であり、また唐の時代、都だった長安の、おそらくは「壁谷」の地にあった香積寺である。日本でも仏教興隆の為に勝てた寺の地名に「壁谷」とつけた可能性は十分にあろう。
※放光とは、寺院の漆喰の白壁が光を放って(光って)見え、それがお釈迦様が放つ光になぞらえられたのかもしれない。
※壁谷庄は蟹谷庄とも書かれる。『地名用語辞典』などによれば、「蟹」の地名は「(浸食作用によって地面が)剥落しやすい土地」を意味する「カニ」から来たものともされる。日本各地にある壁谷と名の付く土地は、どこも川が流れる谷地・崖地であり、岩石がむき出しになっている場所である。したがって当然「カニ」がいただろう。またアイヌ語で「カニ」は金属を意味する。それは日本語の金(かね:金属)につながったもされる。崖地から豊富な地下資源が容易に採取できたことは、地殻変動の影響が如実に見える能登半島の地形からしても想像できよう。実際に石川県珠洲市には能登鉱山、若山鉱山があり.また生神(うるかみ)地区には富来鉱山もあった。この辺りは鍛冶(かじ)屋が多く存在し、日本有数の鋳物の産地でもある。江戸時代に加賀藩が鋳物師の支援をし、産業の保護を行ったことが始まりとされるが、このような産業振興策を行った背景には.豊富な鉱物資源とそれに伴う鉱業職人の芽吹きが背景にあったことだろう。現在も国産銅器の9割はこの地域にある高岡市の生産と言われる。なお、この「鍛冶屋」がなまって「蟹谷」になったなどという説は安易かもしれないが、金属の「カネ」がなまって「蟹(カニ)」となったという伝承は各地にある。
※沢蟹が多い場所として蟹(カニ)の名がつけられたという説が一般に流付されている。その可能性も、もちろん否定はできない。実は蟹は神仏の使いだとする伝承が各地にあった。平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語』には、蟹が恩返しする仏教説話もある。
※全国各地の壁谷の地は、白山権現、熊野大権現と関わることが多いようだ。それらを祭る十二神社(十二社神社)の地にも、高知、兵庫、奈良、新潟、神奈川、栃木、千葉、青森などの地に壁谷の地名が残り壁谷が住んでいるようだ。それらは工藤・二階堂の地名ともかかわりが深い。当時の巨大な社(やしろ)ないし寺院(当時は屋敷とよばれた)が、二階(の構造、高さ)の大堂だったので、それに由来して二階堂と名乗ったたとされている。(通説では鎌倉に来てからとされるが、それ以前から二階堂と名乗っていた可能性が高い。)二階堂と壁谷のかかわりは鎌倉時代以降に急速に高まり、熊本・大分から福島・青森の全国各地に広がる。
現在の群馬県吾妻郡中之条大塚にも「字(あざ)壁谷」の地がある。そこでは室町時代に足利将軍側の兵が常駐し、鎌倉公方の大軍と戦っていたことが、真田家家臣による『加沢記』に記録されている。この中之条という地は豊富な飲料水が得られ、温泉地としても有名だ。東国を平定した平安初期の征夷大将軍「坂上田村麻呂」や、同じく平安後期の前九年の役の「源頼義(みなもとの-よりよし:八幡太郎義家の父)」の伝説が残る土地でもある。この壁谷の地では坂上田村麻呂の後裔を称する尻高(しったか)氏が、室町時代に壁谷壘(かべやのとりで:壁谷城)を築いた記録もある。近年の開発で、明治時代には豊富な流出水を利用した壁谷発電所が作られた。現在も「壁谷の泉(別名:ぼくぼく弁天)」から湧き出る豊富な水は、市民の水源となっている。ひとつ山を越えた栃木県栃木市にも、字壁谷の地名が残っている。そこは鎌倉幕府の重臣だった長沼氏が、鎌倉時代に「壁谷城」を築いたともされる場所でもあり、傍らには現在も聖徳太子の名を冠した神社が建つ。また栃木県鹿沼市清洲地区にも「字壁谷」の地名があったことが、江戸時代の古文書(『鈴木章家文書』)で確認できる。そこにも聖徳太子が自ら建てたという縁起が残る寺があり、聖徳太子の立像(栃木県指定文化財)が残されている。(第15,17,18,20講など)
壁谷の地名はいつできたか
大宝律令(701年)によって各地の国名が二文字に改められたのに続き、和銅6年(708年)全国津々浦々の地名を表記し直す命令が出され(「好字二字令」)、当時流行した唐風(中国風)の漢字二字が好字とされ、各地の地名にあてられることも多かった。現在の日本の地名は、これが起源となっているとされる。紀元前から中国各地の交通の要衝や戦略拠点に記録されていた「壁谷」という地名は、おそらく日本でも好字とされ、各地の地名につけられたと推定される。特に、仏教(浄土教)の開祖とされる曇鸞らが修業した、中国五台山の「壁谷」の地名が日本各地でも仏教聖地の地名として使われた可能性は高い。文武天皇・聖武天皇・嵯峨天皇の時代などに全国に作られていた定額寺(官寺)だった「法光寺」「観音寺」などの旧跡に「壁谷」の古地名があったことも四国・関東・信越などで確認できている。中国五台山にあった壁谷玄忠寺の三高僧を開祖と仰いでいた法然・親鸞・円仁らよって、仏教聖地としての壁谷の地名が日本各地に広っがったことも推測される。
「字(あざ)壁谷」の地名は、現在確認できるだけでも九州熊本から東北宮城まで全国各地に数十か所残っている。『国史大辞典』によれば、この「字」の地名は平安時代の荘園文書にも残り、太閤検地の検地帳(『御縄打水帳』)にも使用されたとされる。民俗学者の柳田國男は『地名の研究』で、「字」こそが古来の地名の本質であるとしている。(「大字」は明治時代などに合併のよって作られた地名である。)現在は奈良・平安時代の荘園の研究において、「字」を使うことは研究者の間でも一定の評価を得ている。奈良時代に朝廷によって私有地が認められ(墾田永年私財法 )、有力者が各地に荘園を開拓して私有地とした。その荘園は平安末期から鎌倉初期に事実上武士の支配となり住み着いたことで、その場所の名前が一族代々の名字となった(名字の地)一所懸命に守った領地には人が住み集まって一定の人口が保たれ「村/邑(むら)」となった。鎌倉初期に決められた流れによる領地の支配体制が続き、互いに血縁関係を結ぶことで争いを避けていたのだ。しかし、室町末期の戦国の世となると土地の争奪戦となり、かつての名家の多くが私領を失い滅亡した。そして江戸幕府による大規模な配置換えがされることになった。(なお「大字」の地名は、江戸時代の村名を基にして明治時代以降に新たにつけられた地名である。)
※古来の地名の多くが現在は失われている。明治17年に内務省が旧来の地名を集めた『郡村誌』があったが、それも今や失なわれている。現在の土地登記簿(法務省)には地名の変遷の履歴記載があったが、コンピュータ化によって閉鎖されてしまった。このため現在は古地名を探すのは難しくなっており、わずかに古地図や学術資料、道路河川の工事などの行政文書の公開から、わずかに知ることができる。そこでは全国各地に字壁谷の地名があったことが確認できる。太閤検地の『御縄打水帳』の断片が各地に残されており、そこには当然ながら古地名が記録されている。そこにも「字壁谷」という地名が確認できる。ほかにも江戸初期から江戸中期の古文書に、現在の群馬県中之条、栃木県鹿沼などにおいて「字壁谷」の地名があったことが確認できる。「字(あざ)壁谷」の地名は、遅くとも室町後期にはすでに存在していたとみなせよう。
現在の日本に残っている「壁谷」の古地名、そして壁谷が居住する地域は、磐城(いわき:現在の福島)の会津・田村・須賀川・仙台、越(こし:福井、富山から東北の日本海側)、能登(石川)、丹波(兵庫)、常陸(関東、東北の太平洋側)、毛野(群馬県・栃木県)、武蔵(埼玉・東京)、甲斐(山梨県)、総(ふさ:千葉、茨木)、穂(ほ:愛知県東部)、出雲(中国地方)などを中心に、東北・北陸から関東各地そして九州大分・福岡、沖縄に至る。その多くが『日本書紀』や『風土記』などに地名の由来が記録され、周辺には遺跡や古社が散在する。多くが古代の大道に面する渓谷、あるいは水が豊富な川谷の扇状地にあって、古代に地方の拠点とされていたようだ。また山中にあってやはり水の豊富な壁谷の地では、神像筒形土器(土偶)や堀之内式土器、阿玉台(おたまだい)式器など、そして竪穴式住居跡など縄文時代の遺物・遺構が発掘されている。山間の谷間にあった壁谷の土地は、今はさびれ、人もまばらなってはいるが、実ははるか古代、人々の生活拠点の中心だったことがわかる。(群馬中之条大塚壁谷遺跡、山梨都留壁谷遺跡など)
私有地が認められるようになった平安期から鎌倉期以降、そんな壁谷の地を代々守ることを宿命とされた一族は壁谷の名字(なあざな/みょうじ)を称し、地元で有力者と血縁関係を強化してその神威を守り続け、現在の各地の「壁谷の直接の祖先」となったと推測される。(名字の地)いくつかの傍証から、壁谷の地名は、おそらく奈良時代初期に全国に広まったと筆者は推測している。「地名の発音」は権力者による改名など特殊な事情がない限り、古来から明治に至るまで変わらず、また変える必要もなかったろう。たとえば北海道の地名はほとんどがアイヌ語の現地の名称に由来して、それを日本語表記(音写という)したものだ。北海道が日本の支配下に事実上組み込まれたのは江戸初期の松前藩によってだった。つまり室町時代以前の地名が、現在も使われていることになる。
水道設備などない当時、人が住める地は自然の水が得られる「谷」地しかなかった。日本古来の発音は「や」もしくは「やつ」であっただろう。『常陸国風土記』や『十六夜日記』にも「谷」は人の居住地の名として使われ、すくなくとも関東(当時は現在の岐阜県の「関ケ原より東側の土地」)では「谷(やつ/やち)」などと発音していた。これは一般に東国の方言とされているが、本来はサンスクリットの「谷/段(ghāṭī:ガーッ‣ガーチ)」が「ガヤーツ/ヤーチ」などと変化し、日本で古来使われていたとと筆者は推測している。(インド・サンスクリットと日本語の古来の発音の関係の深さは現在解明されてきている。)現在も鎌倉の地名に「谷(やつ)」が数十か所残っている。アイヌ語で「谷」を意味する「やち」などと呼ばれる地名にその名残が残り、東北では地名に「屋戸(やと)」がある。このため神に仕える「神戸(かんべ)」や、渡来人の一族「漢部(かんべ)」そして豪族の民「壁」が居住した地の名前は、「谷」と融合し「壁谷(かべや)」となった可能性も十分にあろう。壁谷と鹿島神の関係も深いため「鹿部(かべ)」が由来の可能性もあろう。雄略天皇(倭王「武」とされる)のころ栄えた現在の埼玉、群馬県には「壁(かべ)」の名字や「壁谷戸(かべやと)」「壁ケ谷戸(かべがやと)」などの地名も残っている。関東平野の山間部は、馬の一大生産地であり、渡来人が移住して本格的な開拓を進め、飛鳥時代から奈良時代にかけて蘇我氏や東漢氏、秦氏をはじめ多くの豪族の拠点となっていた。聖徳太子も甲斐(現在の山梨県)から馬を調達している。そんな時期に居住地だった「谷戸/屋戸(やど)」(つまり壁宿、壁屋戸)から壁谷が発生した可能性があろう。たとえば鎌倉幕府の重臣だった比企(ひき)氏の居住地は現在も鎌倉に「比企谷(ひきがやつ)」、上杉扇谷家の扇谷(おうぎがやつ)などがある。また江戸幕府の「井伊」氏の初代は、11世紀(平安中期)に「井伊谷(いいのや)」の庄(現在の静岡県浜松市引佐町)に移り、井伊谷城を築き井伊共保(いい-ともやす)と名乗ったとされている。(9稿・21稿、さらに追記予定)
※現在の関西から九州・沖縄では「谷(たに/たん)」とも発音する。これは「谷(たに)」の発音は古代朝鮮語(高句麗語)にあった「谷(たん)」の影響の可能性が高いと推測する。「たに」と表記されている地域でも、現地の古老は「たん」と発音する傾向があるとされている。おそらくは古墳時代から飛鳥時代にかけて朝鮮半島経由で日本に来た渡来人の影響であろう。対馬海流にのって古の大陸からの使いが、福岡・富山・石川の地に着いた歴史があるからだ。高句麗民族の建国した渤海には、日本道に壁谷県があり、奈良・平安時代になっても日本との交流が盛んだった。渤海使は30回以上も日本に訪れ、藤原仲麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真などが天皇の勅命を受け、都で饗応した記録が残っている。こうして朝廷に近い地域では「谷(たん/たに)」と発音されるようになったのだろう。その一方で「谷(たに)」という発音は全国には広まらず、近畿・中国・九州地方に留まったようだ。アイヌ語では「ヤチ」といった。これは日本古来の発音だったのではないだろうか。また『常陸国風土記』では「谷(やつ)」とされており、その後も関東では「谷(やつ)」と発音されている。鎌倉では鎌倉時代からの地名として「比企が谷(ひきがやつ)」など現在も「谷(やつ)」と発音する地名が非常に多数のある。関東に地盤を置いた武家ではこの呼び方がその後も主流だったと推測される。南北朝の時代には、九州から東北まで日本全国を遠征する戦いが繰り返され、武家勢力が全国各地に居ついた。
石川・福井・富山などでは地名では「壁谷〈かべやたに/へきたに)」としながら、名字として「壁谷(かべや)」「壁屋(かべや)」「可部谷(かべたに/かべや)」が現在も残る。「壁屋」とするのは大変少ないが、谷を「たに」と発音する地域で、「かべや」の音を表現するための一手段だったろう。(「壁屋」「壁矢」の名字が集中的に多いのは福岡だ。九州でも谷は「たに」と発音する。)明治政府の命令で、名字を登録することになったとき、漢字で「壁谷」と登録すれば一般に「かべたに」と読まれることは、その地方では常識だ。戸籍には発音(ふりかな)は降られない。古来尊重されていた言霊から、発音を変えるのは一定の勇気が必要だったはすだ。そのため「壁屋」とした可能性もあるだろう。それが「壁谷」にくらべて「壁屋」が圧倒的に少ない理由とも思える。一方で「壁屋」という名字こそ、古来の(奈良時代以前の)名字だったと考えることもできよう。たとえば、福岡には古墳時代にヤマト王権に献上された「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」が記録されるからだ。そこでは物部氏との関係も示唆される古墳時代後期の大形建物群などが発掘されている。福岡の壁屋が現在居住している地域はこういった古体遺跡のある地にたいへん近いところに固まっている。
※糟屋の地名は、京都の妙心寺にある国宝の梵鐘の銘文に西暦698年にこの地名があったことが記されている。『日本書紀』の他にも『筑前国風土記』逸文、『延喜式』『倭名類聚抄』などにも登場する。この糟屋郡にある現在の志免町(しめまち)には古屋敷(ふるやしき)、居屋敷、新屋敷、屋敷、大府、別府、西ノ府、東ノ府、南ノ府などの地名が残されている。この地に古代の行政府や神社が所有した大きな屋敷や倉があったと推測される。壁のある造り自体がなかった当時「壁屋」とは大陸から伝来した漆喰の技術を使って強固な壁を誇った蔵(場合によっては城)を意味していた。なお、この糟屋の地は、朝鮮半島との交流の拠点だったとされている。西暦603年、朝鮮に出兵のため2万五千の兵を引き連れこの地を訪れたのは征新羅大将軍、来目皇子だった。(久米王とも書く)彼は聖徳太子の弟であったが、惜しくも糸島(現在の福岡県糸島市)で病没している。「筑前国続風土記」では糟屋の「別府」は聖徳太子の弟、来目皇子の領地であったことが記録されている。
また加賀藩や明治新政府の政策で、能登半島から青森・北海道に開拓団が派遣されている。この関係で青森の北部・北海道の札幌付近・道東部などの特定地域には開拓で派遣された壁谷・壁屋が現在も居住している。壁谷に比べて壁屋の名字は極めて少なく、ネット上に複数ある情報でカウントするなら、わずか数百人ほどだ。そのほとんどが福岡・能登・青森・北海道にいる。青森、北海道の壁屋は、江戸末期から明治にかけて行われた、主に能登地方からの開拓移住政策によって、現地に向かった人々と思われる。それぞれの居住地が特定地域(開拓が進められた地域)として古記録に残っていることから、おそらく間違いないだろう。
※アイヌ語で「谷」を「ヤチ」と発音するのはサンスクリットの「ガーティ」由来と推定している。サンスクリット語では山(山神)は「ヤーマ」、海(海神)は「ウㇽーミ」、道(道神)は「ビィーティ」など、現在の日本語の発音と近い。これらの多数の神々をひっくるめて「カービィ・サマヤ」という。(『サンスクリット詩人の慣用表現』による)それは日本語の「神様」の発音に似ている。他にも僧はサンスクリットで「サンギャ」と発音し、袈裟(けさ)は「キャーシャ」、鳥居は「トラーナ」、瓦は「カバーラ」と言う。また木曽義仲の戦いで有名な倶利伽羅(くりから)峠は、この世に現れた不動明王を表す「クリカラージャ」から来ているという。(『サンスクリット入門』による。)このようにサンスクリットは、音写されて中国南部の呉音になり、それが現在の日本語の訓読みになったと思われる。この傾向は東南アジアにも多数ある。たとえばシンガポールは、マレー語で「シンガプラ」というが、これはサンスクリットでライオン(シンバ)の城(プロ)とから来ているという。(同じく『サンスクリット入門』による。)
鎌倉・室町時代になると仏教から発展した密教が、台頭してくる。鎌倉時代初頭に順徳天皇が著した『禁秘抄(きんぴしょう)』によれば、宮中の儀式は密教の僧によって行われるようになっており、旧来の伝統的な神祇官(かんつかさ)による儀式は、伊勢神宮の行事へと移されてしまっていた。中国の大軍が攻めてきた「元寇(げんこう)」(文永・弘安の役)の際には、亀山法皇(当時は上皇)が西大寺の長老(代表者のこと)「叡尊(えいそん)」に、先に記した「大元帥法」を行わせたとされる。『増鏡』などによれば、このとき世に言う「神風」が吹き、元の数十万の兵を乗せた大船団は玄界灘で海の藻屑(もくず)と消え去ったと伝わる。人知をはるかに超える密教のすさまじい威力は、貴族だけでなく武家から一般の人々まで幅広く世に知れ渡り畏敬された。鎌倉時代以降の武家にとっては、この密教を駆使することが、戦いに勝利することにつながったことが容易に推測できる。また、寺院勢力は強大な権力を握り、広大な寺領を領すことになり、それは江戸時代を通して維持された。実際にそのった寺院勢力を寺領を得るため武士がこぞって出家して、僧となっている。これは壁谷が武家として前面に登場してくる大きな要因となっただろう。平安時代以降に僧兵を雇った興福寺、延暦寺、本願寺など、一時期は一国を領するほどの勢いがあった。家康も三河一向一揆に苦しめられている。
※日本では近世に庶民の「名字」を名乗ることは禁じられ「苗字」とも書かれるようになった。それは「名(みょう)」が私領を意味するからであろう。私有地である荘園は古来「名田(みょうでん)」と呼ばれ、その主は「名主(みょうしゅ)」とされ、広大な領地をもつものは「大名」となった。一方、名字の「字(じ)」とは通称名(他人から呼ばれる名前)をさしている。
果たして壁谷は職業姓か
壁谷の名字を説明する多くの資料では「壁谷」を「壁屋」の異形とし、壁塗りや大工などの職業姓だとする。しかしそれは、後世に作られた付会の説に過ぎない。実は、江戸時代の資料をみれば、壁塗りの職業は「左官」とされており、「壁屋」とした記録は、まずほとんど見つからない。(後述するが、江戸初期の一部の大名が家臣に下した文書に、壁屋と呼んだ記録が確認できる。)このような誤解が広まった理由は、いわゆる「明治新姓」で屋号(職業名)の「屋」を「谷」に変えて名字とした例が多数あったという、まことしやかな説が広まっていたからだろう。現在は根拠がなく、誤りとされている。屋号の「〇屋」を「〇谷」に変えて名字にしたという例は、ほとんどなかったというのが、現在は定説となっているのだ。記録がしっかりと残されず、情報収集もままならなかった明治初期という時代の事情はいまも詳細にはわかっていない。そのため後世の人々がいろいろと推測して不正確な事情を広げることになってしまったのだ。
筆者の記憶が正しければ2020年ごろ、某公共放送の名字を主題にした有名TV番で、名字の専門家と称する方が、次のように説明していてた。それによれば、江戸時代は檀家制度により各家がお寺に管理されていたが、江戸末期に僧侶が各人に屋号をつけ、明治になってその「屋」を「谷」に変えたのが苗字(現在の名字)となったものだという。一例として、某寺院の古文書が画面に映し出された。そこでは人の名前の上に、ことごとく「〇屋」と書かれていた。さらには、当時の僧侶の名字に「谷」さんが多かったことから、各人の屋号の「屋」を「谷」にかえたのが現在の名字につながったのだろいう。もっともらしい話でもある。同じようなことは、WikiPediaにも書かれている。当時は屋号をそのまま名字(苗字)にすることが認められなかったので、「屋」を「谷」に変えた、という記述だ。
しかし実は職業に「屋」が付くといった解釈は正しくない。江戸時代の『宝船桂帆柱』にかかれた「職人尽」によれば、職人には固有の名称があり、多くの職人名に「師」が付くか、あるいは古来からの名称がついていた。職業名の例をあげよう。たとえば、大工、鋳物師、弓箭(きうせん)師、具足(ぐそく)師、旋物師、大経師、時計師、錺(かざり)師、挽物(ひきもの)師、版木師、陶工、仏師、建具師、 瓦師、仕立物師、縫箔師、石工、そして左官などだ。この「左官」こそが壁を塗る職人の名称だ。(「壁屋」という職業名は存在しなかった。)
「谷」とは特に関東地域で居住地をさしていたのだ。関東とは、不破の「関」(現在の岐阜県関ケ原)より「東」を意味し、大まかに言えば現在の京都より東を指す。古代に人が住めるのは、自然の水が豊富に得られる低湿地つまり「谷」地しかなかったのだ。したがって居住地に「谷」が付くことは意外と多い。アイヌ語でも居住地は「ヤチ」と発音し、一般に「谷地」と書く。鎌倉では現在も「谷」の付く地名が大変多くそれらはほぼ全て「やつ」と発音される。たとえば扇ヶ谷(おうぎがやつ、比企ヶ谷(ひきがやつ)などだ。これらは名字にもなっている。
「壁谷」という地名は全国各地に多数存在する。その場所は、なぜかほとんどが山奥の僻地にあって、古くから人が住むとされる伝説であり、壁谷遺跡と名付けられた場所も複数ある。字の地名は平安時代に起源があるとされ、太閤検地の検地帳には「字壁谷」の地名が載っている。早ければ奈良時代に、どんなに遅くとも室町末期までには各地に「壁谷の地名」が複数あったことになる。地名と名字は深いかかわりがある。(名字の地という)おそらくは古代から、壁谷の名字はあったものだろう。詳しくは後述するが「壁屋」と「壁谷」の意味は全く違っていた。
屋号とは何だったか
「屋号」は本来職業を意味していなかった。日中う共に、古来「屋」とは建物そのもの、そしてその敷地を指していた。一方で『古事記』『日本書紀』などには高貴な人々の人名に「屋」が記録されているもある。たとえば大国主の妻である「神屋盾姫」、天皇の子孫である「蚊屋皇子」、「長屋王」などだ。また継体天皇21年(527年)九州には「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」が記録される。屯倉とはヤマト王権における直轄地の名称だ。(現在の福岡県糟屋郡粕屋町あたり)常陸国真壁郡粟屋郷(現在の茨城県筑西市)が平安期の『和名類名抄』にも確認できる。鎌倉時代以降にその地を領した源義光流の武士が「粟屋」氏を名乗っている。このように、古来の「屋」は明らかに職業とは関係がなく、地名に過ぎなかった。おそらくは、外から見た荘厳な建物(邸宅)や高貴な人々の居住地域を「屋」と呼んだと推測できる。
『正倉院文書』では、奈良時代の天平9年「豊後国正税帳」に「塗壁屋」が登場するが、やはり職業名ではない。これは当時は珍しかった土壁で作られた建物、特に政府の倉庫「正倉(しょうそう)」を指している。租税として納められた穀物や貴重な財物などを保管する蔵)を「壁屋」といったのだ。当時の倉庫は一般に通気性をよくするため寄木造りで造られていた。しかし当時の治安を考えれば、盗賊に破られず火事にも強い頑強な倉庫は必須でもあった。
また室町末期の慶長2年(1597年)『長曽我部元親百ヶ条』には壁を塗る職人の名称として「壁塗」が登場する。当時の壁塗りは「左官」が一般的だったが、この「さかん」という名称は朝廷の官職と同音だった。後世に伝える重要な武家文書として、朝廷の官職名に相当する「左官」を避けた可能性があると筆者は考えている。もちろんこのときも「壁屋」は使われていない。
「屋」が職業(屋号)の意味に解されるようになるには、どんなに早くても室町末期から江戸中期まで待たないといけない。室町後期ごろ船で商品を運ぶ「問丸」がたいそう繁盛するようになり、彼らは「問屋(といや)」と呼ばれるようになった。おそらくその種の職業の人々の拠点となる建物が川べりに点在し「問屋」と呼ばれたことが始まりであろう。これが「屋」が職業と解されるようになった初期の例であろう。その後「問屋」は出身地から、個別に「三河屋」、「越後屋」などと出身地の名称で呼ばれるようになる。いつの間にか建物の名は、そこに居住して働く人々の代名詞になっただろう。江戸時代は特に許されない限り、公式に名字(当時は苗字と言った)を使うことが厳しく禁じられていた。特に許されたものだけが「苗字帯刀を許され」たのだ。したがって「三河屋」「越後屋」という屋号は、現在の名字に変わって使われたことだろう。江戸時代は寺請制度によって寺院が庶民を管理していた。人口が増えると地域の住民を管理するのが大変になった。そこで各家に便宜的につけられたのが「屋号」だ。年貢逃れの逃散を防止するために、厳しく住民を管理する必要があり、屋号は必要だった。従ってその家の特徴や町内の役割分担などによって、ぼぼ全家に付けられた。そのため、後世に屋号のついた宗門人別改帳などの記録が残ることになった。これが後世に屋号が名字のもとになったという大きな誤解を生む切っ掛けとなったと推測される。(寺請け制度はこれは現在の戸籍制度につながっている。実は戸籍制度を持つ国は世界でも珍しい。)
一方で多くの人が、先祖から伝承された名字をもっており、庶民は公式に使えなかったことが、すでに判明している。(古来から、名字は領地を意味する。したがって権力者は庶民に名字を許さなかった。)明治初期に、晴れて名字が名乗れるようになって、祖先から代々伝承されてきた名字を捨て、他人に勝手につけられた「屋号」をわざわざ「谷」に変えてまで、子孫に伝える新しい名字(苗字)に採用するとはほとんど考えられない。教の政策もあって、当時は今とは大きく違い儒祖先報恩(祖先を大事にする)の思想が広くいきわたっていた。古来から伝承された名字を捨てるとするなら、ご先祖さまに決して顔向けできまい。
例を挙げよう。歌舞伎役者では江戸時代からの屋号を現在も名乗っている。たとえば 市川團十郞は元禄八年 (1695) 『成田不動明王山』を演じて大好評を博したことで「成田屋」と呼ばれるようになったとされる。しかし市川團十郎の本当の名字は、実は「堀越」である。歌舞伎の屋号は百数十あるようだが、屋号と名字が一致するの中村屋の中村さんだけだ。しかし、中村芝鶴は吾妻屋だ。他に中村を名乗る役者は、梅髙屋、蛭子屋、加賀谷、京屋、堺屋、栄屋、松鶴屋、新駒屋、末広屋、髙砂屋、天王寺屋、成駒屋・・・中村の名字を持つ歌舞伎役者家は十家以上いる。こららの屋号は、互いを区別するために使われていたと容易に推測できよう。他にも,江戸の花火師に同じ例がある。鍵屋と玉屋が有名だが.それぞれ江戸初期にお稲荷さんくわえている「鍵」と「玉」から名づけた屋号とされる。鍵屋の初代は弥兵衛と伝わり、現在は15代目鍵屋が伝統を継いでいる。しかしその名字は鍵屋でも、鍵谷でもない。天野というちゃんとした名字がある。
もうひとつ例を出そう。相撲で勝負を判定するのが行司(ぎょうじ)だ。相撲好きな方ならご存じだろうが、行事には式守伊之助、木村庄太郎、式守勘太夫などがいる。この名前は江戸時代から代々引き継がれたもので、たとえば式守伊之助となろったととしても,その人の名字は式守ではない。実はもともと多数の行司家があり、その家に入門したものが,代々名前を継いでいた。現在は式守家と木村家だけが残ったという。そういうわけで、相撲の行司の名前には、式守と木村という「名字」しかない。もちろん代々の行司は、皆それぞれが個別に本当の自分の名字を持っている。弟子入りして行司の名跡を継ぐことで、式守や木村を名乗るのだ。これも屋号の一つであろう。屋号はもともと名字が使えなかった江戸時代に、同じ地域(集団)で互いを区別するためにつけた仮の名称に過ぎなかった。それぞれ自分の名字はもともと別にあったのである。つまり、江戸時代の屋号が現在の名字になったのは、きわめて稀な例でしかなかったことがわかる例だろう。
壁塗りの職名として初めて「壁屋」が登場するのは江戸時代三代将軍、家光の時代(1630年)の記にある「壁塗」「壁屋」であろう。江戸時代末期(天保のころ)の『興福寺福智院家文書』にも、職業としての「壁屋」が登場する。当時の職業名だった「左官」をなぜ避けたのだろうか。この文書を残した福智院家は、摂関家や将軍家の子弟が代々跡をついでいた大門跡(もんぜき)大乗院の坊官(事務職役人)を代々務める家だ。この興福寺大乗院は全国に多数の荘園をもち法隆寺や清水寺、長谷寺をはじめとして全国に百以上の末寺を抱えていた。このように「壁屋」は、権威ある地位からの呼称として記録されたものだ。これは当時は地位が高いとされた貴族(僧)や武士から見て、下位にあたる工人(職人)に対し、朝廷の官職の名である「左官」の名称を避け「壁屋」と呼んだと推測することもできる。
江戸時代の屋号は必ずしも職業を意味しなかったという解釈が現在は一般的だ。一般に使われた屋号とは、その家を区別するための別名だった。名字を名乗ることが禁じられた当時、人口が増え都市部に人が集まって街ができるようになると、名前だけではどこの誰だがわからず不便だったからである。『興福寺福智院家文書』においては、ほぼすべての人に屋号がつけられていたことがわかる。例を挙げれば、菊屋、布屋、塩屋、薪屋、墨屋、木屋、灰屋、糸屋、桶屋、畳屋、米屋、魚屋、薬屋、畑屋、紬屋、紙屋、絈屋、縞屋、荒物屋、八百屋、醤油屋、田原屋、茶碗屋、井戸屋、香具屋、小松屋、扇子屋、古着屋、三木屋、かうやく屋、きせるや、さし物や、たばこや、まきゑや、かきや、こまや、かせや、丹波屋、太和屋、越後屋、山城屋、明石屋、播磨屋、伊賀屋・・・。屋号のない者はごく一部で.その場合は用人、半役、大工、縫物師、番人、西坊、浄休娘(巫女か占い師だろうか)と役割(職業)名がつく。屋号とはまさにその家の建物(家屋)の名称だった。しかし、これらの屋号が現在の名字となっている例は、あっても極めて稀だ。そして壁屋の屋号も見当たらない。後述するが、当時は左官と呼ばれていたので、壁屋という屋号は不要だったはずだ。
※「まきゑや」は蒔絵屋で美しい装身具や小物入れを作ったのであろう。「こまや」は馬を飼っていたか駒を作っていたのだろうか。「かきや」は鍵屋と思われる。古来からの習慣を引きずり文字に濁点が書かれないことは多かった。また「かせや」は糸紬むぎで糸を巻き取る道具、綛(かせ)のことと推測する。
江戸時代の職業名については『宝船桂帆柱』などにかかれた「職人尽」から読み取ることができる。そこでは、職業名に、木履(ゲタ)屋,桶屋、提燈(ちょうちん)屋、足袋屋、金物屋、米屋、酒屋、質屋、古着屋など日常生活に関わる職業ものが半数を占める。しかし職人には固有の名称があった。たとえば、大工、鋳物師、弓箭(きうせん)師、具足(ぐそく)師、旋物師、大経師、時計師、錺(かざり)師、挽物(ひきもの)師、版木師、陶工、仏師、建具師、 瓦師、仕立物師、縫箔師、石工、そして左官などである。こうしてみると職人には「屋」がつかないことがわかる。江戸時代は「屋」をつけた一般の町人(商人)と区別し、職人の多くに「師」をつけるか、あるいは古来の名称を使っていたのだ。江戸初期の『宇都宮大明神御建立御勘定目録』には「左官」が記録されている。遅くとも江戸初期には「左官」の名が一般には通用していたことが推測できる。
※錺師は元はもとは鎧を作った職人で、寺院の巨大灯篭から簪(かんざし)、タバコ入れなどに至るまで金属を精緻な彫りで仕上げた小物を作った。また挽物師は木地師ともいわれ、ろくろを使い食器などを作った。弓箭師、具足師は武士の弓や鎧の作成修理に当たった。縫箔師は着物に金銀を混ぜた刺繡を施した。いずれも高度な技術を要した伝統職人である。大工、石工、左官はこの種の高度な職人とみなされていたと推測する。
ちなみに士族だったと伝わる筆者の本家においては(筆者は分家の、さらに分家の長男である)、本家の屋号が糀屋(こうじや)であったことが伝わっている。いつからこの名を名乗っていたのかはわからない。同じ地域に壁谷の分家も複数あったが、糀屋というのは本家だけが名乗った屋号だった。つまり同じ壁谷の名字でも、屋号はそれぞれ違ったらしい。筆者がしる限り昭和40年ごろには、味噌醤油の販売のほか、煙草屋もやっていた。煙草は江戸時代は現地の藩の管理下で販売されていたと古資料でみたことがある。昭和の時代も国の専売公社による許可制だった。江戸時代から味噌醤油,煙草の販売をしていたのだろうか。他の地域にも、かつて糀屋の屋号をもっていた壁谷がいることを確認しており、壁谷と「みそ」、「こうじ」との関係は今後調査してみたい。
壁谷の名字はどこから来たか
中国・台湾・朝鮮半島では、5,6世紀には由緒ある地の名として「壁谷」の記録が中国・朝鮮半島の各地に残っており、数千年前にあったとされる古代の名字(堂號:どうごう)として「壁谷」が、現在の中国南部・台湾などの旧家に今も伝わっている。遣唐使廃止以前の日本は、そんな中国文化の強い影響を受けて、政治・文化から一般の風俗まで大きく変わったといわれる。奈良時代初期の713年「諸国郡郷名著好字令」(通称 好字二字令)で、全国各地の国名・地名を改められていった。そこで決まった地名は、現在の地名につながっている例が多い。当時は唐風の「名字の地」が好まれたとされ、中国に多数あった「壁谷」の地名がが好字とされて日本の地名に採用された可能性を疑うのは、充分に合理的だろう。実際に奈良時代以前の官寺(天皇の勅願寺)があった旧跡の地名として「字壁谷」が北越・関東などに多数確認できている。
壁谷の名字の起こりとして、まず第一に考えるべきはこういった地名からであろう。唐の文化が日本に流入した時代「壁谷」には現在とは違う意味があった。中国で言う「壁」とは自然によって形成された眼前にそそり立つ絶壁、あるいはそれに譬えられるほど長大な城壁をさしている。全国各地の地名が付けられたのは奈良時代だ。そのときつけられた「壁谷」という地名は,その場所の地形をさしていたと推測される。実際に日本でも「壁谷」と名付けられた場所は、そのほとんどが山中奥深くで、その中心に川が流れる谷地にあった。そこは水が豊富で人が居住できる地だったが、同時に川の氾濫や山崩れなどで災害の多い土地でもあった。
「壁谷」という地名は、古代中国に多数残されている。中国で「壁」というのは、自然が作り出した圧倒的な絶壁や、それに例えられるほど長大にそそり立つ城壁を意味する。日本語の「壁」とは全く意味が違うのだ。そこには神秘的・強権的な意味があった。日本の「壁」を耳する文字は、中国語で「墙(墻/牆)」と書き「壁」とは区別される。すでに記したように「辟」が使われる文字は、中国では神仙・皇帝に直接関わる、あるいは直接皇帝をさす文字だったのだ。一方でkabeya(カベヤ)の名字は、インドだけでなく東南アジア、中東、アフリカ大陸中央部、そしてアメリカ・カナダにまでも広がっている。日本では数少ないこの名字は、世界では少なくとも数万人以上はいると推測できる。すでに記したが、古代中国にあった「壁谷」の地は、仏教発祥の地であった。そして古代インドで受け継がれた口伝の叙事詩(Kavya:カービヤ)は神話的な宮廷文学となっていた。「カベヤ」の音は古代インドから、「壁谷」の文字は古代中国から入り、神仙・道教・仏教を通しその神秘的・宗教的な意味において、日本で融合したと考えるのも十分合理的ではないかと筆者は考える。
仏教は、平安時代から室町時代中盤まで日本で密教として全盛を迎え、中国古代道教・神教とも融合した。それは武神となって戦いに明け暮れる武家に崇拝され、神風を吹かせて外敵を撃退した。そうした流れの一つが、鎌倉時代に現在の福島県浜通りを治め、室町時代の前半まで活躍の記録が残り、武神として妙見神を掲げた「神谷(かべや)」氏であろう。(『寛政諸家譜』から。)古代は発音が重要だった。「かべや」の音はインド・サンスクリットの地底神であり、密教のもとで北方を守る武神となった毘沙門天「クーベラ」にも似ている。その「かべや」という発音から「神谷」は後年の表記の一つであり、本来は「壁谷」であったと推測している。)
すでに触れたように、遅くとも太閤検地の時期までに「壁谷の地名」が全国各地に存在していた。また遅くとも江戸期には「壁谷の名字」をもった武士や神官の記録が各地の古文書に残されている。その記録は、果ては九州から東北まで全国各地に幅広く分布している。「壁谷」が武士だったとする情報に至っては、インターネット上をどれだけ検索しても存在しない。(2018年4月15日現在)しかし筆者は少なくとも三春藩(現在の福島県)の士族名簿に壁谷の名字を見つけ出している。徳川一橋家の古文書にも壁谷太郎兵衛などがいた記録を確認できている。すくなくとも江戸時代に「武士だった壁谷」が全国各地に複数存在していたことは、記録からすでに明らかだ。。もし「壁屋」が「壁谷」に変わった「明治新姓」だとするなら、すくなくとも江戸時代に「壁谷」の名字があったことが証明されたことで、根拠を失うことになる。
壁谷の地名は、日本各地の古来から人が住んでいたとされる山間の谷地(一般には山奥の僻地となる)に多く存在する。縄文時代の遺跡が見つかっている壁谷遺跡も関東に数か所ある。いずれも水が豊富にあり、外敵の侵入も防げる狭い谷地でありることが多い。多くの地で豊富な木材、石材、鉱石などの資源を産出する。果たして、こんな場所に、壁塗りという職業が必要だったろうか。壁谷の地は、大河のはるか上流となる岩壁に挟まれた渓谷で、古代に資源を採取するため、そしてそこで生活するために人が集まった要衝だった、と考えたほうがすっきりする。壮大な自然の中から無限とも思える資源を生み出す地は、その絶壁の近寄りがたき畏れを招き、古来の自然神の思想と相まって崇敬の対象となっただろう。
※現在の中国語でも「壁谷」は、垂直にそびえたつ巨大な絶壁のある特異な地域を意味する。なお神仙や仏教において道を究める修業に用いられる絶食も、中国語では「壁谷(辟穀)」という。
古くからいた左官
日本では「壁塗り」という職業は、一般に不要だった。『国史大辞典』巻3(1999年)で「壁」を引けば「日本では古くは板壁であったが、大陸建築の伝来によって、土壁が寺院や宮殿に使われるようになった。(中略)民家は昔から、近くの土を塗り付けるだけで、特別な職人を必要としない土壁が使われ、今日まで続いている。」としている。平安末期に書かれた『信貴山縁起絵巻』には、庶民の家の外壁に土壁が使用された例が見つかっている。しかし、この土壁はくすんで汚れた様子が描写されており、白色の仕上げ(上塗り:漆喰か)がなされていない。これらは職人によって作られた壁ではないとされる。同じ絵巻でかかれる貴族の家は板張りであり、近くには校倉造りの(木を互いに組み合わせて通気性をはかった)倉庫らしきものも見える。一方で奥に大きな仏像が描かれる寺院の壁は,白く仕上げた良質の土壁でできており、そこに入ったヒビまで細かく描写されている。
土壁は大変重く、メンテナンスも大変だ。バランスが悪いと倒壊の危険すらある。それを防ぐ頑丈な壁を作るには時間もコストもかかってしまう。『世界百科事典』で日本建築を引けば「建物の大きさはある程度に制限され、大規模なものはごくまれである。柱と梁とが主要な構造材であるから、壁は仕切りにすぎず、構造的な意味はない。」ともしている。現在のユニット(組み立て)工法ならいざ知らず、古来の日本建築では、室内に土壁を作ることは無駄だったともいえよう。絵巻などに書かれている貴族の邸宅ですら、その仕切りに壁はない。
時代を下って江戸時代の一般の家では、屋根や壁そして床も板張りで、畳はひかず筵(むしろ)を敷いていたという。江戸後期になると土間や台所などに家の一部に漆喰(土壁の一種)が使われたが、それも特別な職人ではなく大工が作ったとされている。
※筆者がWebで検索した限りでは、アフリカやインドでは古くから家つくりに土を乾燥させて固めたレンガを使っていたようだ。そこでも人々は自ら家を作り、もっぱら日常的に修復も試みているという。ここでも土壁造りの職人は不要だった。
一方で、民家と違い権力者の建造物は頑丈で美しく、巨大なことが要求された。そこで壁塗りを仕事とする者(国の職人)については、古代からあった。古くは『日本書記』で欽明天皇15年(547年)に営壁(いりほそこ)と記録される。『古事記』では神武(初代天皇)の祖母、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の産屋を作るために、壁を塗った様子が事細かに書かれており、古代から朝廷の周りで壁を作る仕事を担った専門集団がいたようだ。彼らは「土部(はせべ)」に属し「はせつかべ/はしひと」と記録されている。これは「丈部 (はせつかべ)」「長谷部」とも書かれ、朝廷の警護も務めた集団であった。つまり壁を作ることは、厳重な警護と同じ意味があったといえよう。飛鳥時代には「土工」「白土師」「石灰工」の記録があり、律令下では宮内省に「土工司(つちたくみのつかさ)」という官職があって「土工(つちたくみ)」とも呼ばれた。奈良時代の長屋王の遺跡から出土した木簡には「土塗」ともある。平安時代の城郭や貴族の屋敷が形を整えるに従い、その役職についた官名から「属(さかん)」「目(さかん)」と呼ばれるようになったようだ。この土部(はせべ/はせつかべ)の血脈を継いだ末裔には、平和になった時代に文官となり後世に名を成したものも多い。たとえば平安時代の菅原道真、鎌倉幕府の大江広元などがいる。
その後「左官」とよばれた壁塗りをする朝廷の職人が奈良時代前後にいた。『官職要解』によれば、養老・大宝律令で宮内省の「十三司」に、「土匠(つちたくみ)」と呼ばれる官職があったとされる。土木・壁塗り・造瓦をつかさどるとされている。のち宮内省の内匠寮(うちたくみのりょう)「八官(八司)」に再編され「土匠」のほか「鍛冶(かぬち:銅・鉄・雑器を作る)」、「園池(そのいけ:御苑池を作る)」、「内掃部(うちのかにもり:殿中の畳・むしろ・舗設を掌う)」、「内染(うちのそめもの:御用の染物を掌る)」などがあった。これらは平安初期までに、主殿寮、大膳職、木工寮、内膳司、掃部寮に吸収再編されている。しかし、なぜか「土匠」だけが廃されている。なせ廃されたのか。このことから、ある事情がくみ取れるのではないかと筆者は推測する。頑丈な壁をもった建物が作られることは、防衛力を高めることにつながる。いわゆる「城」を作ることになるのだ。平安中期になって、争いごとは好まれなくなった。実際に、武力で朝廷に仕えてきた氏族は、中央から追いやられていった。江戸時代も家は板張りとされ、土壁は禁止されていた。そのため江戸は大火に悩まされることになり、江戸後期には土壁造りの家が表れることになる。
「左官」は平安時代の東大寺大仏修復の文献にも登場する特殊な専門官職で、その由来は律令下における宮内省の内匠寮(たくみのりょう)官職「属(さかん)」ともされるがはっきりしない。左官は、大陸から伝来した高度な知識と熟練の技術を駆使し、全国各地から良質な土や石灰などの素材を選りすぐんで吟味して加工、竹で編んだ下地の上に塗っては乾かすことを時間をかけ何度も繰り返した。(湿式工法)それは美しい外観を保つ白壁を施工を可能にし、同時に現在のコンクリートにも負けない耐火性と堅牢さを誇る建築物を作った。この特殊な技術は、巨大建造物の基壇、回廊、外塀に使われ、数百年から千年以上にも渡って風雪に耐えた。
こうして作られた建造物は、時として堅牢な城と変じ、歴史に残る大きな戦いで陣を張った場所にもなっている。実際に、中大兄皇子や中臣鎌足も、入鹿を討ったあと法興寺に立てこもって蘇我氏との戦いに挑もうとしていたことが記録に残る。また平安時代初期の大同元年(806)「勅。備後・安芸・周防・長門等国駅館、本備蕃客、瓦葺粉壁。」とある。(「日本後紀』五月丁丑条)「勅」は詔(みことのり)のことであり、平城天皇のお言葉である。駅とは当時の官庁施設だった。そういった施設は、蕃客(海外からの施設)に備えるため瓦葺とし壁を備えよと指示したものである(「壁」とは「白壁」のこと。父の桓武天皇は「白壁」という言葉を禁止していた。)この時代に「瓦」と並んで「壁」は、頑強な官庁設備をつくり、同時に国威を象徴するため欠かせないものでもあったはずだ。
※『漢書』楚元王伝には、孔子の旧宅を改造して宮殿にしようとした景帝(紀元前157年- 前141年)が、壁の中に大量の古文尚書を発見した故事が載る。それは秦の始皇帝の焚書を避けるため、孔子が壁の中に隠したものだったとされている。当時から、壁はそれほど頑強で長年の風雪にも耐え、後世にも残ると見なされていたのだ。
この仕事をこなしたものに、古代豪族土師氏や秦氏の末裔が多く、彼らは官僚としてあるいは武官として蘇我氏や東漢(やまとのあや)氏に仕えたとされる。しかし長い平安が続いた時代、千年以上ももつ巨大で強固な建造物を作りあげる技術は、中央政府から見て脅威とも受け取られただろう。その結果多くが地方に追われ、あるいは文官へと転じた。文章博士として有名で、今は天神さまとされている、菅原道真も土師氏が出自である。(第25稿など)
のちの江戸幕府も、家は板張りとし、壁のある土蔵造りは禁止していた。つまり「左官」を必要としたのは神社仏閣を始めとする堅牢で巨大な建造物を作ったごく一部の権力者だったことになる。その目的は権威の象徴、そして時には城ともなる現実的な防衛だったろう。当時の寺院は武家にも劣らぬ地位と武力を持ちわせ、たびたび大名までも脅かしていた。江戸初期の『宇都宮大明神御建立御勘定目録』には「左官」が記録され、少なくとも江戸初期には「左官」の名が通用していたことが推測できる。幕府が江戸の度重なる大火災に対処するため、仕方なく瓦ふきや土壁を認めたのは、江戸時代後期の享保6年(1720年)の「土蔵. 作り或は塗家并瓦屋根に仕候事(中略)可為勝手次第候」というお触書が出たのが、初めてであろう。つまり、1720年以前は土壁造りの家は、一般に禁止されていた(ご法度だった)のだ。江戸時代後半になって初めて、江戸を中心に土壁造りの家が作られだした。その多くが豊富な財力を蓄えた商家だった。特に地震の多い日本では頑丈に造る必要があって土壁はコストがかかったからだ。現在われわれが江戸時代の風情と感じてい土蔵つくりの町並みは、実はこういった経緯でつくられた江戸末期の商家の名残だったのだ。
※現在でも家の外壁を漆喰などで塗装すると相当な金額がかかる。しかし防火や省エネ、ヒートアイランド対策など多くの効果あることから、補助金(助成金)を出す自治体は全国で多い。
江戸時代も中期以降になると、商業が発達して大都市化した。密集した木造の家に火事が広がって大きな問題となった。このため商家を中心に、蔵造が普及するようになっていった。それでも白壁にすることは贅沢だと禁止された。今に伝わる江戸時代の商家は、確かに黒壁が多い。海鼠壁(なまこかべ)と称される場合も、やはり黒い色が塗られている。また明治以降になっても、神社仏閣に関わっていた「左官」が民家の壁を塗ることは、禁じられていた。穢れるとされたからだ。彼らは、権力者に雇われ、美しく頑強で巨大な建造物を作り維持することで防衛(場合によっては攻撃)をも担当した専門集団で、一般の人々とは大変遠い位置にいた可能性が高い。壁谷の名は、宗像大社、出雲大社、伊勢神宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社を始めとした歴史の古い神社、そして富士山や白山、日光など霊峰を始めとした古代の石神思想や神仙道との関りが見えてくる。壁谷の名は、おそらくそんな寺社や神道を護ってきたことと関わりがあるのだろう。それらは本論で示していきたい。
※「しらか」は天皇家に引き継がれた名前で、後年「しらかべ」に変わったとされる。清寧天皇(白髪:しらか)、現在の天皇家の直系の祖先で、地方にいた継体天皇の即位を可能にした姫、手白香(仁賢天皇皇女)などがいる。そして現在の天皇家の直接の祖先といわれる桓武天皇の父、光仁天皇の名も「白壁王」だった。『日本書紀』には「白壁(しらかべ)」と名乗るのは不遜だとし「真壁(まかべ)」と名を変えさせた、桓武天皇の詔が記録される。その「真壁」の地は、主に伊勢神宮の寄進地系荘園(御厨)だった栃木や茨木、愛知などに記録され、それらの地名から「壁谷」や「神谷」の名字が生まれたとする資料が複数ある。
律令下で紙を作る役所を「紙屋」といった。所属する造紙手のことも紙屋と言った記録がある。また平安中期の『西宮記』では、律令下において文書を管理する図書寮(ずしよりよう:『和名抄』では「書司:ふみのつかさ」)に付属する紙すき所を紙屋院(かうやいん/かんやいん)と呼んでいる。そこで働く役人に造紙手(『養老令』では4人)がいて、山背国の50戸がその下で働く紙戸とされた。しかし、これらは官職であって、職業ではない。製造された紙はすべて朝廷に収められるものだった。そして紙屋とはh本来紙すきを行った場所の名称であった。朝廷の力が弱まった室町時代ごろ紙屋院は自然消滅し、その技術は民間の職人に受け継がれ、新たに「紙座」として発展した。一方で同じ平安時代に、全国各地の港湾において荘園領主と契約し、保管や舟での輸送を引き受けたもの(職業)は「問丸(といまる)」と呼ばれていた。おそらく舟を使ったからであろう。商業が発達しだした室町時代に「問丸」は権力者と結びついたが、そのころ「問屋(といや)」と呼ばれるようになった。これは、権力者から許された職業名(役割名)である。「問屋」の中に「木屋」や「納屋」が新たに登場、さらには出身地域から「三河屋」「駿河屋」「紀伊国屋」などと呼ばれ、独占的な商いをするようになった。これらは江戸時代に公儀から独占的な商いを認められる権利という、株仲間に発展した。(現在も相撲親方の株に残っている。)ここで「屋」は古来からの官職に類似する形だったのだろう。このように「屋」を職業とする考えは、室町時代末期ごろに芽生えてきたものといえよう。商業の独占権を認めた屋号は、現在の日本の法律(商法・会社法など)に引き継がれている。
土・石材・鉄(鉱物)の産地と壁谷
実は古代からあったと思われる壁谷の地名は、山岳地の奥にあり、良質な石や鉱石そして土の産地であることが多い。日本には、関東以西の地を横断する中央構造線、そして関東地区を縦断する糸魚川静岡構造線や柏崎千葉構造線など日本有数の断層地帯がある。そこには壁谷の古地名が残る。これらの構造線上では岩石が露出し、泉が沸き川が流れることで古代から人が住める地でもあった。朝廷の政治が安定しだして、日本各地の開拓や移住が進んできた時代には、川となって流れる谷地の下流にできた扇状地の川べりや、窪んだ谷地が長く続く場所には、人が多く住むようになり、大道も容易く作れ、また自然の良港もできた。この長く深い断層が続くおかげで、高い山に囲まれた長野県の諏訪の奥地でも富士山が見事に見える。これは戦国時代に武田信玄が進軍に利用し、周辺の攻略に生かしたことでも知られる。
※ダムの湖底に沈み消えてしまう壁谷の故地名も確認できている。
同時に、断層の周辺にある切り立った地形には、権力者が巨大建築物に盛んに使った、白くて美しい、みかげ石(花崗岩)や石灰石(大理石)が露出していた。これらは脆く風化して白砂(真砂:まさ)となり、流れ出た水を浄化して美しい「清水」となった。実はこれらの地では、銅、鉄、鉛などの貴重な鉱石もとれた。鉱石が表面に露出した石壁からは、古代の技術でも簡単に掘り出すことができた。長大な坑道など掘らずとも貴重な資源を採掘できたのである。急峻な山壁は、古代製鉄(たたら製鉄)の溶鉱炉を作るに適し、豊富な木材と水・土は、燃料と冷却用の水や土を同時に得ることができた。(中国では溶鉱炉を「井壁」ともいう。)もしかしたら、このような地が、壁谷の地名の始まりだったかもしれない。(同じ傾向が、唐代以前の中国にもある。)
「山尻(やましろ)」とも書かれる京都の山背(やましろ)には古来最上級の土が採れたとされる深草(現在の「清水寺」から大亀谷付近)がある。法隆寺が作られた斑鳩の地も、みかげ石の細粒ででできた白い砂が広がる道が至るところに広がっていたとされる。(『斑鳩の白い道の上に』による)そういえば、聖徳太子の長子も山背(山尻とも書く)大兄王であった。「背」や「尻」は「しろ」と発音し「白」や「城」とも書かれた。白い石壁に守られた高い「山城」に繋がったかもしれない。田村麻呂に従軍したとされる「尻高(しったか)」氏は群馬の地に壁谷城を築いている。この尻高とは、山背(やましろ/やましり)と同じ意味であり、同時に貝の名称でもある。粉砕した貝殻からも同じく石灰がとれ、古代の建築材料に使われた。青森県にある「尻屋」も、アイヌ語の発音では山壁、絶壁の意味があり、同じく石灰の産地かつ石灰運搬の拠点でもあった。現在も三菱セメント工場がある。
※山背(やましろ)国の深草は、京都の太秦(うずまさ)に名を残す渡来人「秦氏」の最大の拠点のひとつだった。東大阪や東三河、出雲なども秦氏の移住した一大拠点の一つだ。秦氏はヤマト政権時代に活躍した古代最大の渡来人系の氏族で、0秦の始皇帝の血を引くと称する。その一族は欽明天皇、聖徳太子、天武天皇らの側近をつとめた、秦河勝、秦石勝父子の名が『日本書紀』に残る。後年には桓武天皇のもと平安京などの巨大な建造物の建築を一手に引き受けた。「八幡(やはた)神社」も秦氏由来の神社とされ(矢秦神社)る。後に「八幡(はちまん)神社」ともされ、武家に尊崇され全国各地で信奉されることになる。
※亀谷という地名は武家源氏にゆかりのある地名でもある。源氏が関東に地盤を築くことになった源頼義のゆかりで源義朝が居館を移したのが鎌倉の亀谷の地であることは鎌倉幕府の正史である『吾妻鑑』にも記されている。(現在の鎌倉市扇谷)頼朝もその周辺に幕府を開いた。頼朝の次女の乳母を務めた亀谷禅尼も記録される。いつのまにかその周辺は扇谷と呼ばれるようになり、室町時代は関東管領の上杉氏が居館を移すと、扇谷上杉と呼ばれるようになった。
全国の壁谷の8-9割が集中して居住するともされる愛知県東部(東三河)は、日本最大の断層である中央構造線が横切り、太古の地層が東西に渡って露出している。そこにはサンゴや貝の堆積物から良質の白い石灰石(大理石)や建築用土(三州土)が大量に取れることで古くから有名だ。愛知県蒲郡市の形原・西浦地区で取れるのは西浦石と呼ばれ、大坂城や名古屋城の築城で使われたと伝承があった。実際に福島正則や池田輝政の刻印が入った採掘途中の石が蒲郡市西浦で発見されたことが報道されている。(壁谷善吉氏による)また愛知県岡崎市近辺でとれる花崗岩からは雲母が採取され、奈良時代の和銅6年(713年)には朝廷に献上されたことが『続日本紀』に記録される。他にも石の産地として、福島県阿武隈、栃木県葛生、山口県秋吉台、広島県庄原市、福岡県平尾台、沖縄県本部町なども有名だが、その近くにはやはり壁谷の集中居住地がある。
※日本三大瓦は、三州瓦(東三河、愛知県)、石州瓦(岩見、島根県)、淡路瓦(淡路島)とされ、いずれも良質の白土が採れ名産となっており、いずれも壁谷の地名が残るか、壁谷が多数居住する地である。(同時に金属や石英の産地でもある)そのなかでも三州土を使った愛知県の瓦の全国シェアは現在もナンバーワンであり、その土を使った愛知県瀬戸市の陶磁器は、「瀬戸物(せともの)」とよばれ、陶器の代名詞ともなった。
日本有数の石材の産地として古代から最も名高いのは、福島県であり、古くは「石城(いわき)」とされ平安時代以降は「岩城」、江戸時代以降も「磐城」と書かれた。(昭和の時代に「いわき」と改名。)各地に古代から守られた磐座(いわくら:神の宿る石)が残っている。その福島を中心に、宮城・栃木には各地に「石森(いしのもり)」や「屋敷(やしき)」と隣接する「壁谷」「神谷」の古地名が残り、現在の「いわき市」には鎌倉時代には「神谷(かべや)」氏が治めていた(いわき市公式HPによる)とされる地名が残る。その周辺には現在も神谷(かべや)、壁谷(かべや)の名字を持つものが局在している。石森の地名の近くに壁谷が居住する例は、他にも愛知・静岡・山梨などもある。おそらくそれらの地には、奈良・平安時代以前から続く蝦夷征伐で作られた拠点の城(柵)や神社仏閣、権力者の政庁や蔵(正倉)など、石材で作られた堅固な建造物(「大壁」造り)が並び、それは神社仏閣(杜:もり)でもあったのだろうか。あるいは大河を渡した港を経由し、京や伊勢に巨大な建造物を作るための石を採取し、運んだ拠点だったのだろうか。
なお「石森」は「石守」とも書かれる。石は古来より墓石にも使われており、「壁谷」とは主(あるじ)もしくは祖先を「守る」こと(箱守、墓守)で家を繁栄させることを願う古代の「隠宅風水」と関りが深いとも推測できる。隠宅風水の風習は、日本でも少なくとも鎌倉時代までは明確に残り、沖縄や奈良県の一部ではつい最近まで残っていた。現在もその慣習が残るとされる台湾において、黄姓の堂號(古代の名字)で「壁谷」とともに際立って多いのが「紫雲」である。(この二つで一位と二位を占める。)紫雲も壁谷と同じく神仙・道教思想に由来する。紫雲とは阿彌陀仏(あみだぶつ)が乗って来迎する瑞雲(めでたい兆しを顕す雲)をさしている。徳の高い君子(皇帝)のときに現われ、同時に浄土往生を象徴するものとされる。なお継体天皇の名にある「磐余(いわれ)」は鉱物の採掘場を意味するという説もあり「石寸」「石村」とも書かれる。「石森」「石守」との類似性が興味深い。各地の石森地区には志半ばで斃れた日本武命(ヤマトタケル)東征の伝承も残る。
※日本石材工業新聞のHPによれば、石材の「日本三大産地は、福島県、愛知県、茨木県」だとする。特に有名なのは、福島県では田村・須賀川・伊達・相馬・白河などであり、愛知県では岡崎・豊田など、茨木県では茨木、真壁などだろう。他にも栃木県に大谷(おおや)、宇都宮葛生(くずう)などがあり、また宮城、福岡などにも有名な産地がある。こういった石の産地付近には、現在も壁谷が集中的に住み、やはり壁谷の地名が残っている。実は、海を越えた中国福建省も、同じくみかげ石(花崗岩)の有数の産地であり、建築用、墓石用などとして、現在も大量の石材が日本に輸入されている。そこにはかつて石鎮壁谷村の地名が存在し、現在も壁谷の古代名字(堂號)が最も多いとされる地域である。そう言えばコバルト、タンタルといった金属の産出量世界一(外務省ページによる)といわれ、世界有数の金、銅、ダイヤモンドの産地でもあるコンゴ共和国のカサイ州も、州知事の名前はkabeya氏であり、その州にはkabeyaと名付けられた高山都市がある。
※中国では、秘境などの地で目前に高く垂直にそびえ立ち、神々しき異彩を放っている岩壁や石柱は、現在も「壁谷」と形容される。また、また日中ともに神仙の修行に必須とされた「五穀断ち」も「壁谷」と形容される。後者については、中国語で「谷」が「穀」を意味する代字として長く使われ、現在も「穀」の簡体字(通常使う文字)が「谷」であることによる。なにやら神仙とかかわる壁谷のイメージはここにもある。
古代中国における「壁谷」の地名は多くは都に存在した。そこは超然とした自然や神仙と交わる地で、「雷」や「水」に大変関わりが深く、風水では天地を繋ぎ皇帝を象徴するとされた「龍」を連想させる。一方で、中世以降の「壁谷」の地名は、海洋により近い水上交通の要衝で、産業や軍事の拠点となった地に移る傾向がある。水運による大量輸送を容易にし、いざというときは防衛の拠点となることがその根底にあったと推測する。同様の傾向は、日本でもみられる。奈良時代初頭の国衙(こくが:国の政庁があった場所。国府)や官寺のあった地に壁谷の古地名が残り、現在も壁谷が居住している。例をあげれば、山口県防府市(周防国衙)、兵庫県あわじ市(淡路国衙)、愛知県蒲郡市古城(穂の国国衙)、三重県鈴鹿市(伊勢国衙)、栃木県栃木市田村町(下野国衙)、福島県須賀川(奈良時代初期の石背国衙)などであろう。しかし鎌倉時代以降、壁谷の居住する拠点は海岸線に近い交通と軍事の要衝にも移る。普段は海運の盛んな地として産業を発達させ、いざとなれば軍事拠点と化し敵を迎え撃つ防備を固めていたからだろうか。江戸末期に江戸に集まった壁谷もその一つかもしれない。どちらにせよ日本、中国ともに、古来から近年まで、「壁谷」の地名と「水」は切っては切れない縁があり、また都や重要拠点の南側に位置して「護る」という共通点があるようだ。(日本海側で壁谷の地名がある地域を除く)
※奈良時代に端を発した国衙は中央政府から派遣された国司が政務をとる場所で、周囲には土塁が張り巡らされ東西南北に門があったとされる。その後国司は赴任せず代わりに現地の下司(げす)に支配させる、そこから武士が発している。(名字の地)国衙領は、荘園とともに鎌倉初頭に守護・地頭の支配下となり、最終的には大綱検地のときに姿を消している。
古代王権の確立
戦乱に開け暮れた中国大陸・朝鮮半島を避け、多くの渡来人が日本に渡ってきた。彼らは世界有数の急流とされる対馬海流に乗って、日本海側の出雲・能登半島から秋田に至る地域に到着し、太平洋側の海路(うみつみつ)もしくは東山道(やまつみち)を使って都に向かったと考えられる。その数は『日本書紀』に公式に記録されるだけでも数万人に上る。彼らは仏教とともに「水、稲作、雷、火、土木、鉄」に関わる神事(道教風水)や、先進の農業・武器の道具製造、土木技術などを日本にもたらした。これは古代日本に急激な発展をもたらした。彼らを積極的に活用し、強い血縁関係を結んだ有力な豪族たちは卓越した知力や武力を蓄え、壮大な建築物も作り上げた。やがて古代ヤマト王権を確立すると、地方制圧にも乗り出して日本の主要部分を統一した。
強大な武力と高い知力をもってヤマト王権を支えたのは、渡来人の東漢(やまとのあや)氏で、その一族は「漢部(あやべ)」とされ朝廷の財務・防衛を担い、のちに「漢部(かんべ)」とも呼ばれた。また高度な土木建築技術と、養蚕・機織・採鉱・製鉄などで、革新的な生産力の向上をもたらしヤマト王権を背後で支えたのは、その名を京都の太秦(うずまさ)に残す渡来人の最大勢力、秦(はた)氏であった。東漢氏と、秦氏は互いに協力し、その武力と財力そして高度な技術を生かすと、日本の国力を驚異的に高め、巨大な神社仏閣や新たな都(みやこ)を次々と建設、その守護・防衛も一手に担うことになった。『古語拾遺』によれば、倭王武とされる雄略天皇の時期に大和政権の三つの蔵(齋蔵・内蔵・大蔵)が設けられ、東漢氏は「内蔵」、秦氏は「大蔵」の出納・勘録を担当したという。このことは『日本書紀』などにも記録が残り、大和政権の発展の礎を築いた伝説として、後世に語り継がれた。内蔵と大蔵は奈良時代以降の律令制の中で、それぞれ宮内省内蔵寮、大蔵省として引き継がれている。
東漢氏と秦氏が政権を支えた蘇我氏や聖徳太子の時代、そして天武天皇の時代には、中国から伝来した道教風水や古代仏教の強い影響を受けた文化が栄え、日本古来の神教と融合していった。西暦672年、「壬申の乱」に勝利した「天武天皇」は古代豪族の勢力や聖徳太子の文化・権威を復活させ、敗れた「天智天皇」側の勢力とも融和をはかろとうと試みた。とくに天武天皇は強い影響を受け『日本書紀』などに自ら道教風水の秘術を行い、八色の姓など道教色の濃い政策をおこなった記録が残る。八角形だった天武天皇陵や高松塚古墳など飛鳥にのこる数々の遺跡には、数多くの道教風水の痕跡が見られる。
天武天皇なきあと、藤原氏が徐々に中央で権力を掌握。専制君主制から官僚統治制へ向かう大きな変革が始まった。奈良時代の「藤原仲麻呂の乱」が制圧された764年、称徳天皇の勅命によって殺生が禁じられ、神に仕える「神戸(かむべ)」と呼ばれる人々のみが唯一武器を持つことを許された。彼らは争いごとを嫌った中央政府から避けられるようになり、地方の「兵庫(つわものぐら)」にその武器を蓄えた。その後は伊勢神宮、鹿島神宮、諏訪神社などの荘園を支える領民もしくは下司(現地の管理者)などとなり、時には武力を行使して神威を守った。平安末期ごろ、神戸(かむべ)は「神部(かんべ)」と呼ばれるようになった。この神部から後の神官や武士が生まれたことが容易に推測できよう。さらに平安時代の『和名類聚抄』には関東の上野国寒川郡(現在の栃木県)、四国の讃岐国寒川郡のほか伊予・土佐そ、伯耆(現在の島根県)などにに「鴨部(かべ)」の地名が記録され「鴨部(かんべ)」とも呼ばれた。源平の合戦では鴨部源次が記録されている。鴨部の由来ははっきりしないが、加茂(かも:賀茂)神が由来なのではないだろうか。讃岐の阿野郡加茂町には天平のころ加茂雷神社を勧請したといわれる、東鴨神社、西東鴨神社がある。そこには神谷(かんだに)神社も隣接する。
※加茂神は古代豪族秦氏との関係が深い。
一方では東漢氏の流れをくみ「漢部(あやべ/かんべ)」と呼ばれるようになった渡来人の一団、そして「神戸・神部(かんべ)」と呼ばれた神に仕える民、そして「壁(かべ)」と呼ばれた王家に仕える民、さらには「鴨部(かべ/かんべ)」、この4つは発音だけでなく、権力者(朝廷・神社など)を守る民として、役割が類似するところがある。長い歴史の変遷の中で次第に混同されていったことが想像できる。
※「壁」は古代に宮殿を守る常夜灯または狼煙(のろし)に火を灯し、日夜守りに徹する兵ともされる「火部(かべ)」「鹿火(かび)」あるいは「火置(ひき/へき)」の代字でもあった可能性もあろう。なお「鴨部」は、高知県など一部では現在「鴨部(かもべ)」と発音されている。
「好字二字令」の影響から「かべ」を漢字二文字にした「可部/加部/加辺」あるいは「白壁」も使われただろう。中国最初の漢詩集『文選 (もんぜん) 』には現在の「玉にきず」の語源となった「白璧の微瑕」がある。「白璧」とは本来近寄り難い尊厳があるものだった。白壁は中国の地名とも合致し、古代から天皇の名にも何度か使われてきた。また当時は貴重だった石灰(大理石)やチャート(石英)を使った、白く美しく輝き、近寄りがたかった「石壁」を指していたとも推測できよう。しかし平安初期、「白壁」は不遜とされ、桓武天皇によって「真壁」と改称させられている。父、光仁天皇の名前が白壁王だったからだ。真壁は日本建築の様式の名称や、関東を中心とした日本の地名にいくか残っており、その地から神谷や壁谷が発生したとする資料もある。
※白壁の名は古代天皇家に代々継がれた名前であり、聖徳太子の子にも白髪部王(白壁王)がいた。
770年天智天皇の血を引く白壁王が「光仁天皇」として即位、しばらくして「天武天皇」の皇統は無念にも完全に断やされた。これは壁谷にとって非常に大きな意味をもつことになる。光仁の子「桓武天皇」は平安京に移転し、平安時代が始まった。このとき壮大な都の建設には、古代豪族「秦氏」の強大な財力と、土木建築を主とした高い技術力が大きく貢献した。その後、藤原氏による官僚政治の時代が本格化し、武力の行使や強大な土木作業の必要性が薄れた。藤原氏との争いのなかで、天武天皇の皇統と関係が深かった古代豪族は中央から追いやられていった。一方で新らしい仏教勢力である真言・天台の「密教」が朝廷行事に深く食い込み朝廷行事を独占し、旧来の朝廷神事は伊勢神宮あるいは、諏訪、鹿島などの官社の行事へと移されていった。こうして、壬申の乱以前から朝廷に仕えてきた古代豪族たちは古代神教・道教とともに地方の拠点に下向することになった。
期せずしてこの流れを大きく進めることになったのは、主に北陸・関東・奥州を治め、あるいは制圧する将軍として派遣された大伴家持や文室綿麻呂、そして渡来人の雄、東漢氏の族長とされた坂上田村麻呂らだった。東漢氏や秦氏と深い関係があった「壁谷の一族」は、こうして中央から排斥された古代豪族の末裔らに従属し、地方に拠点を作って移り住み、開拓に従事した。それが現在の「壁谷の源流」だと筆者は推測する。このことは関東・東北各地の壁谷の旧家に現在も伝わる、坂上田村麻呂に従軍したという伝承からも類推できる。また壁谷の地名が九州(薩摩、豊後、筑紫)、中国(安芸、周防、出雲、伯耆)、四国(土佐)に残ることも秦氏の影響と思われる。(第21・22・23稿など)
辺境にあって未開の荒れ地に過ぎなかった現在の関東は、数万人規模の渡来人らの力で一気に開拓が進み、広大で肥沃な土地へと生まれ変わった。そこは桓武天皇の三皇子が治め、親王任国とされ朝廷の最大の収入源となっていった。高望王はその後の桓武平氏の隆盛の基盤を作り、孫の平将門(たいらの-まさかど)は「新皇」を名乗ると関東の独立を宣言した。その将門が敗れたあとも、平氏(坂東平氏・常陸平氏)は関東全域から東北に至るまでを事実上の支配下とし、さらなる隆盛を誇った。大河を渡る橋もない当時、関東から伊勢や京に資材や穀物などを大量輸送するために、舟で川や海を経由する海道(うみつみち)が発達した。その中継・一時備蓄の拠点として大いに栄えたのが、静かな港湾と広い平地を持った三河(愛知県)だった。とくに東三河の宝飯郡(現在の豊橋市、蒲郡市近辺)は国府(国の役所)もあって大いに発展した。平氏の一流は、この海道も抑えると、さらに西上して伊勢にも進出、伊勢平氏となって平安末期には平清盛を生むことになる。
武士に必須だったのは、神威と兵糧だった。中国風水の流れを汲む占筮(せんぜい)や古代中国の道教に由来する北辰・妙見神は、日本古来の出雲・諏訪・伊勢・熱田などの古代神や、武神とされた鹿島・香取神とも融合した。特に後者は各地方で勢力を誇った武家に畏敬された。壁谷は古代からの神威を引き継いで守護することで、武家の棟梁に従って平安末期の不穏な時期に日本各地で繰り広げられた源平の戦いを生き残った。その後、関東で蜂起した頼朝は、関東の武士団を結集し鎌倉幕府の体制を整えた。また奥州平泉の隆盛を見て影響を受け、鎌倉の発展に生かそうとした。下野(栃木)・常陸(茨木・福島)・下総(千葉)などに居た壁谷も結集してこれに尽力し、鎌倉幕府の重臣となった二階堂氏(藤原氏)もしくは大江氏(のちの毛利氏)と強い関係を持つことになった。その後、壁谷が仕えたのは鎌倉幕府や室町幕府の重臣だった二階堂氏、そして平安末期から鎌倉時代に関東に覇権を確立した藤姓秀郷流などの奥州藤原氏・藤姓長沼氏、そして常陸大掾・坂東平氏などの流れをくむ平姓千葉氏・岩城氏、毛利氏、さらには関東の雄、源姓義光流の佐竹氏・武田氏らだったと推測される。こうして武家に仕える壁谷の集団が構成された。
鎌倉初期の「承久の乱」を切っ掛けに、藤原氏や伊勢神宮などが持っていた荘園は、事実上武家の支配へと大きく変化した。それまで藤姓二階堂氏の支配下にあった三河・駿河(現在の愛知県・静岡県)で実権を得たのは足利氏だった。その後、足利氏は急速に力を蓄え、三河・駿河にいた壁谷の一族もその傘下に入ったことだろう。室町時代に入り、足利氏が京都に幕府を開くことになると、三河は京・伊勢と関東を結ぶ重要拠点としてさらに大きく発展した。南北朝に入ると、密教と神仙道を駆使した後醍醐天皇や、聖徳太子流を使ったとされる楠正成など、呪術や密法、忍術などが南朝側に多用され、北朝側も目に見えない敵を畏怖し神仏に頼ることになった。壁谷(かべや)は激しい戦いの中にいて、穀物に関わる武神(稲荷・荼枳尼天)から穎谷(かびや/かべや)あるいは鹿島・香取神などから神谷(かべや)とも書かれた可能性がある。神谷氏は武家勢力の守護神として、各地に妙見館(神谷城/壁谷城)を築き、平安末期から室町期の南北朝時代にかけ、関東・東北から三河・駿河・伊勢を中心に全国各地を転戦した。(6稿、13稿、24稿)
室町中期になると京都将軍家(京都にいた室町幕府将軍)と関東の鎌倉公方の内乱が激化し、関東(長野・山梨・群馬・栃木・千葉)にいた壁谷はこの争いに本格的に巻き込まれ、主家に従い長年にわたって戦った。東西の戦略拠点となった尾張・美濃・三河は時代の趨勢を左右する最重要の拠点となり、のちに信長・秀吉・家康を生むことになる。戦国時代に突入してからは、神仏の畏れをものともしない戦国大名が覇権を争うようになった。神威で主家を守った武家は没落することになり、平氏の名門、千葉氏も事実上滅び去った。こうして鎌倉時代からの伝統を誇った旧家は次々と滅ぼされた。鎌倉・室町幕府の重臣として幕政を支えてきた二階堂氏も奥州須賀川に退き、戦国時代に末路を迎えている。こうして旧家(足利、小山、岩城、佐竹、千葉、二階堂、長曾我部など)に従った壁谷の多くは主(あるじ)を失い路頭を彷徨った。あるいは関ケ原以後にはるか遠隔の地に転封された主に従い、武士として新たな活路を開いていった。毛利氏、島津氏に従った壁谷がいて武士として残った可能性はある。(第2稿、5稿、7講、13稿、20稿、24稿など、さらに追記予定)
室町末期から現在までの壁谷
肥沃な土地を確保できた壁谷は、武士を捨て、地域の有力者として名主・庄屋の道(農業)を選んだだろう。あるいは林業、漁業を選んだかもしれない。そうした壁谷は広大な土地を抱え、あるいは富を蓄えて大いに発展したようだ。愛知や栃木の壁谷は、おそらくこの代表的な例であろう。現在の愛知県蒲郡市西浦町の壁谷にはその伝承が残っている。秀吉・家康が行った関東・東北の大規模な配置換えと兵農分離はこれに拍車をかけた。一方で、旧家の伝統を守ろうとした壁谷は、奥州三春藩(田村氏の旧領)秋田家、会津藩松平家、白河藩松平家、そして仙台藩伊達家、水戸藩徳川家などにそれぞれ仕え、武家の窮乏に耐えながら細々と生き延びていくことになった。一部の壁谷は福島白河藩主だった松平定信につき従い、江戸深川などに移住して幕臣となったと推測される。その一流が徳川一ツ橋家の勘定役の元締めと記録された「壁谷太郎兵衛」や「壁谷直三郎」、そして「壁谷兎一郎」らであろう。後述する宮内省官吏の壁谷とつながるのかもしれない。(第4稿・10稿・16稿、さらに追記予定)
再士官すら叶わなかったものは、壁谷古来の伝統を守り、神仏に仕えあるいは学問に生きようとしたようだ。そのため江戸時代は僧や神官と記録された壁谷も多い。(主に曹洞宗・浄土宗・諏訪神・鹿島神・伊勢神)当時は寺社とされ、神社もすべて「寺」だった。(神仏習合)江戸時代の寺の地位は現在は予想もできないほど高かった。寺社領を与えられ、大名にも劣らぬ勢力を誇り、地元民の管理も担っていたのだ。(「寺請制度」による「宗門人別改帳」、のちの「檀家制度」に繋がる。)江戸中期には「壁谷由太夫正重」を始め伊勢神宮や、鹿島、諏訪神の禰宜(神官)として活動した記録が残る。また壁谷の女子は「お神明様」(一種の巫女)としてお伊勢さま(伊勢神)に仕えた記録が多数残っている。なお愛知の壁谷は奈良・平安時代の秦氏、鎌倉時代の伊勢神宮や熱田神宮、豊川稲荷との関係が大変興味深い。現在の豊川稲荷は神社ではなく、謎の秘仏「荼枳尼(だきに)天」を祀る曹洞宗寺院である。(荼枳尼については第13稿などを参照。)
※東三河(愛知県東部)は室町時代から曹洞宗の地盤で、西三河の浄土真宗と一線を画していた。家康の三大危機のひとつともされる三河一向一揆の際も、実は東三河では一揆がおきていない。室町時代以降の影響と思われるが、現在の壁谷は、愛知だけでなく、奈良・石川・富山・東京・福島などでも曹洞宗寺院と関係が深いようだ。
明治維新となると、旧幕府は静岡藩60万石とされた。これに伴い幕臣だった壁谷は静岡へ強制的に移住させられた。「静岡県貫族士族 壁谷鹿馬」の記録が残る。元尾張藩主「徳川慶勝」の面倒を見た記録が残る「壁谷伊世」も興味深い。官軍に逆らわなかった水戸藩、一ツ橋家、三春藩などの壁谷は、明治政府によって東京府や千葉県などに派遣され、官吏として活躍した記録が残る。そのなかでも、伊藤博文の片腕として働き、日本初の憲法解釈書を著した内務省官吏「福島県士族 壁谷可六」や、明治・大正天皇に仕え、英国王からビクトリア勲章も得た宮内省官吏「東京府士族 壁谷壽永」らの活躍が際だっている。一方で、戊辰戦争で敗れた会津・仙台両藩にいた壁谷の一部は士族権も剥奪されて、青森の下北半島の北端、北海道の伊達・登別などに開拓民として強制移住させられた。その開拓の困難さから多くが地元に戻ったが、現在も現地に残っている者もいる。(第3稿、19稿、さらに追記予定)
※青森の壁谷は鎌倉幕府に地頭代(現地の事実上の支配者)として派遣された工藤氏、曽我氏らともに青森地方に住み着いた可能性も否定できない。
現在の壁谷の居住地は遥か古代に遡った関東開拓時代から江戸時代にかけて壁谷に関りが深い埼玉・神奈川(武蔵)栃木(下野)、山梨・長野(旧武田領)、福井(越前、旧浅井・朝倉領)、東京・埼玉・栃木・長野・茨木(のちの江戸幕府天領、一橋領、水戸徳川領)、東北では福島(会津藩、三春藩・白河藩・磐城平藩)、宮城(伊達藩)など一定範囲の地域に集中して局在する。また平家や藤姓工藤氏(二階堂氏)が領し、鎌倉・室町時代には足利氏の本拠地だった愛知(三河)静岡(駿河、旧今川領)は、現在も壁谷が日本一多く居住する地域である。一方で明治初期に士族権をはく奪され、原野の開拓を担わされた壁谷は、青森県の下北半島(元会津藩士の斗南藩 )、北海道の伊達・登別(元仙台藩の亘理伊達家家臣)そして中標津・別海(旧会津藩)、網走(おそらく元尾張藩)など一部特定の地域に局在している。一方で、畿内に残る壁谷は、古墳時代・飛鳥時代の渡来人流れ、聖徳太子との関係が推測される。彼らは京の藤原氏(とくに工藤氏、のちの二階堂氏)と強い関係を結んでおり、その後鎌倉・室町幕府の家臣となった可能性がある。なお筑紫(博多)や中国地方の壁谷は、古くは白村江の戦い、もしくは元寇、南北朝、戦国の時代に派遣された壁谷の一族が居ついた可能性がある。沖縄に残る壁谷は、九州から移動した飛鳥時代の以前の流れか、場合によっては現在も中国・台湾に残る古代中国から伝わった壁谷の名を名乗ったのかもしれない。
全国各地の壁谷の旧家には、明治のころまで代々語り継がれていた伝承がいくつか残る。奈良の壁谷では祖先は大陸から渡ってきた渡来人(おそらく秦氏と推測)と伝わり、関東・東北の壁谷では平安初期に田村麻呂に従って東征し、その地に居ついたと伝わる。(ヤマトタケル、秦氏や田村麻呂・源頼義の伝説がある旧跡に多い)また東海では壁谷は平家の末裔と伝わっており、おそらくは平姓の千葉氏・岩城氏流のひとつであろうか。奥州藤原氏の血が混じっているという話もいくつか聞く。また壁谷が住むところには、秦氏の名の名残ともとれる「端(はた)」「幡(はた)」などの字のつく場所も多い。実はこれらの伝承は、壁谷の名字を背負うものが古代に各地に分散して定住、幾多の困難を乗り越え独自に発展、千年以上の時を超えて、それぞれの伝承を背負って代々生き残って来たものと推測する。当地の権力者と強い血縁関係を結び、あるいは養子を迎えて壁谷の名字を絶やさず、累々と今に伝えているのだろう。しかし現在は大きな変革が起こりつつある。各地に残った壁谷の伝承、古地名や遺跡、これらが次々と失われているのだ。筆者が知りえた各地の「壁谷の本家」も、いくつかは既に途絶えた。あるいは現在跡継ぎがなく、まさに今途絶えつつある。これも時代の流れなのであろう。そんな現在、壁谷の本家の伝承や遺跡を直接見聞きした人々の情報や、古記録に残された壁谷の情報などを発掘して整理し、少しでも後世に残す意義は大きいと筆者は思う。
日本における壁谷の文字と発音
古墳時代から平安初期まで、日本は中国の文化に極めて強い影響を受け、大きく変革した。「壁谷」とする漢字の名字は、大陸から日本に入って来たことは、おそらく間違いなかろう。当時は「壁谷」の文字が大きな意味を持ち、発音は各地で違った可能性も高い。現在壁谷の名字や地名は、一般に「壁谷(かべや)」と発音する。「かべ」は中国の漢音での「壁」の発音「ヴィー」が「かび/かべ」の音になったのかもしれない。おそらく呉音の「壁(ひゃく)」の音は、音読みの「へき」のもとになったのだろう。一方で、前述したように、古代インドの「Kavya(カービィヤ)」の音が「壁」の訓読みの発音につながったと考えることができそうだ。
「谷」はヤマト政権のころ日本語の意味から「谷(せ:瀬のこと)」の発音にあてられたが、その後はこの発音は激減する。「谷(や)」は関東やアイヌで古代から使われていた湿原つまり人が住める地を意味する「谷(やつ)」が由来であろう。(同じく古代インドの影響は無視できない)鎌倉時代以降、武家を中心に爆発的にこの発音が増える。一方で古代朝鮮語「谷(たん)」や、密教の影響からか仏教聖地の和音である「谷(たに)」の影響を受けた地域は関西以西に多い。壁谷の「谷」は、大まかにいえば、京都以西では「たに」、東では「や」と発音する。なお漢音では「谷」は一般に「グゥー」と発音する。「穀」も「グゥー」と発音し、中国語では「谷」が「穀」の代わりに使われている。ここから、仏教修行などで五穀を避ける「辟谷(へきこく)」は「壁谷」と書かれることに繋がった。日本音の「谷(こく)」の発音もここからできているのだろう。
※アイヌでも、谷を「せ」と発音することがあるかもしれない。筆者が子供のころは北海道根室にいた。アイヌの同級生が何人もいたが、知っている範囲では全員が(日本名が?)長谷川(はせがわ)という名字だった。
現在日本の壁谷の名字では「かべや」の発音が9割以上を占める。これは現在の岐阜県関ケ原付近にあった「不破の関より東」つまり関東に移住した「壁谷(かべや)」と発音する一団が、その後の武家社会の興隆を受けて大きく繁栄したことが推測できる。一方で京都以西の一部で「かべたに」や「へきたに」と発音するが、その数は極めて少ない。
しかし遣唐使の廃止(894年)以降、中国の影響は急速に影を潜め、名字も漢字の表記より、日本本来からあった発音に再び拘束されるようになった。文字の読み書きができる人は極めて少なく、古代からの言霊(ことだま)の影響が強く復活したことが推測できる。また普段から文字は使われず、文字を使う時は筆で書かれたことによる。画数の多い文字では簡単な文字が代わりに使われていた。それを「代字」・「借字」という。平安後期以降は、これらの影響を受けて「かべや」「かべたに」の音をそれぞれ残しながら、今度は似た発音の「違う漢字表記(代字・借字)」の名字へと変化したことが推測される。画数の多い「壁」は名字として長い間生き残るのが相当に不利だっただろう。唐の影響を受けたとされ、室町初期まで残った「穎谷」(かべや/かびや/かひや)と書く名字は、消え去ってしまったと推測される。
「神谷」「貝谷」「仮谷」「刈谷」「上谷」「蟹谷」「亀谷」「紙谷」などの名字は、関東から中央に移住した壁谷が、後に濁点がとれ「かひや」「かみや」「かにや」「かめや」「かひたに」などと変化し、あるい簡便な文字(代字・借字)に置き換えられ、変化した可能性もあるだろう。これらの名字は、現在の「壁谷」の居住地が重なる傾向が見え、あるいはその地で混在しているからだ。もちろん独自の名字である可能性は、当然ながら否定できない。
なお関西や九州の一部に地名で和音ではなく、呉音で「壁谷(へきたに)」と音する地名がある。その一方で、隣接する地名に「上壁(じょうへき)」もある。これらは呉音の「上(じょう)」「壁(ひゃく)」が由来だろう。一方で隣接地域の地名は「上(かみ)」と和音で発音されており、一線を画している。「壁谷(へきたに)」の地の周辺の限られた地域だけが、和音でなく呉音で発音されるのは、古代中国の強い影響をうけた奈良時代以前の権力者が、呉音で名をつけた可能性があろう。(後述する)そのような場所であっても、人名では一般に「かべや」と発音されるようだ。これは武家である足利氏や細川氏・今川氏らが大挙して九州に移動した南北朝時代の影響なのかもしれない。なお名字としての「壁谷(へきや)」は存在する可能性があるが、「壁谷(へきこく)」はおそらく存在しない。
※呉音は古代中国の発音で、中国南部に今も残る。一方で漢音は、中国での唐の時代以降の発音で現在の中国語の発音に近い。漢音は平安初期の桓武天皇によって奨励された。それ以降、一部の知識層では日本古来の発音や呉音は卑下され、漢音を好んで使う時代となり、儒学でも漢音を使うことが強要された。日本では平安時代から明治時代くらいまでは、一定の地位に上り詰めた者や知識人の名を、漢音で呼ぶ風習が根強くあった。(有識読み)
また、たいへん希少な名字に「壁屋」や「壁矢」がある。これらは福岡、栃木、石川、青森などに少数点在している。中国語では「屋」とは家屋を意味し、それは日本でも同じだ。屋が職業の意味となるのは、どんなに早くても室町末期で一般には江戸時代中期と言えるだろう。「壁屋」はおそらく隔たれた(辟)居館(屋)であり、後に城や館(やかた)兵庫(つわものぐら:兵器の蔵)を意味したのだろうか。律令でも兵庫寮がある。はまた「壁矢」に使われる「矢」は、『古事記』の時代から神事や厄除けの場で使われ、邪穢(穢れや邪悪)を祓い清め、あるいは正義を見分ける(占う)意味があった。後に「矢」は武器となり、砦や城壁から発する弓矢となった。これは「辟邪/壁邪(へきじゃ/かべや)」ともされ、守護・防衛の意味を持ったことが推測される「壁谷」の名字の趣に違わない。
福岡では磐井の乱(521年)の戦いでヤマト王権が獲得した「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」が『日本書紀』に記録される。(福岡県糟屋郡粕屋町あたりと比定)この周辺は当時も中国や朝鮮半島との交流の拠点であり、発掘調査でも政庁跡、正倉跡などが見つかっている。おそらく地方統治の要になる大きな「屋敷」があり、それは当然ながら政治や防衛の拠点でもあったのだろう。鎌倉時代には元寇に備えた警備も強化されており、この付近の軍備は増強されていた。各地に鎌倉時代以前の政庁があったとも推測される「古屋敷」という地名が残っており、その周辺には壁谷が居住している傾向があり、関係があるのかもしれない。(愛知県、福島県、青森県など)
福岡の「壁矢」も古代遺跡「鹿毛馬神籠石」の周辺に居住する。そこの地は白村江の戦い(663年)のころ作られた城跡に比定されている。聖徳太子の一族(上宮王家)と壁谷の係わりの深さは各稿で触れている。602年福岡に数万の兵を率いて、この地に陣を敷いた聖徳太子の弟、久目王(久米王)との関係も興味深い。また神屋(かむや)との関係も捨てきれない。出雲では『古事記』には神屋盾(かむやたて)姫が、有名な大国主(おおくにぬし)命の妻として登場しており、姫の名の「神屋(かむや)」は神殿を意味するとされる。盾は神殿を守った武器(盾)もしくは城(館)であろうか。
※古代王権とかかわりが深い中国地方(出雲・吉備)から福岡(大宰府)にかけては「壁矢」を逆にした、「矢加部」「矢壁」の名字もある。広島県「神石郡神石高原」には「矢壁谷」の地名もある。
なお、京都以西とくに中国地方で「かべや」の音を残した名字に、「可部屋」「加辺屋」「加部屋」などがある。平安時代の『和名類聚抄』でこの地域の地名に「可部(かべ)」があったことが記録されている。(現在の広島県安佐郡など)朝廷の部の民(べのたみ)の居住地だった「壁(かべ)」もしくは「漢部(あやべ/かんべ)」が、平安時代に好字二文字化された地名に由来すると思われ、のちに屋敷を意味する「屋」が付いた可能性もあろう。なお可部屋(かべや)は鑪(たたら)製鉄の旧家として江戸期に出雲松江藩主松平家から下された、由緒ある屋号でもある。秦氏や壁谷の製鉄との関係が興味深い。
※「可部」「加辺」「加部」などの名字は、現在の群馬、埼玉、東京などにもみられる。これはおそらく東漢(やまとのあや)氏による漢部(あやべ/かんべ)が由来だろう。同じく「壁谷」の居住地と重なる。
明治になって戸籍の管理のもと税金を納めるようになり、人々は土地を離れ自由に移動出来るようになった。土地と名字の関係は薄れた。また新政府の各府県の官吏や開拓使に採用された、各地の旧藩士も一気に全国に分散した。こうして各地に移住した地で名字を呼び間違えられる例は後を絶たなかっただろう。たとえば「神谷」と書いて「かべや」と音する福島の例は、他の地域に移住させられた場合、相当に厄介だったろう。逆に、全国政権となった明治政府で、福島にある神谷(かべや)の発音をそのまま残すこととも、困難があっただろうと推測する。
明治3年から8年には「平民苗字許可令・必称義務令」などが次々と施行され、全ての人が「苗字(みょうじ)」を戸籍に登録することになった。以前は江戸時代に庶民に「名字」はなかったとされていたが、実は多くの人が「名字」を持ちながら、公式に名乗れないだけだったことが現在は判明している。明治初期に「苗字」を登録する際、祖先の「名字」にこだわる人がいた一方で、誤って、あるいは意図的に文字や発音を変えたて新たな「苗字」として登録したり、登録後に再び変更するなどの例が相次いだ。このような事態が繰り返され当時の苗字に混乱を招いた。そのため明治5年には「改名禁止令」が出され登録済みの名字を変更することを禁じたほどである。しかし、その後も苗字を変更する者が相次いで規制が緩和さた。明治9年には「営業の都合」と「由緒」さえ示せれば、一定程度自由に「改名」が認められたのだ。都合が悪ければ名字の表記を変えることができたことになる。苗字(現在の名字である)の文字変更は、もはや収拾がつかなくなっていた。
※明治の初期にお寺の住職に苗字をつけてもらった、などという逸話が広がり、これが一般的な出来事として誤って広がったと推測される。現在は、先祖伝来の名字を持たない日本人は、ほとんどいなかったと考えられている。
地租改正や平民苗字許可令による地名や名字の混乱は大きかった。東京都公文所館などの情報によれば、現在の東京も明治初期は漢音で「東京(とうけい)」と発音されたとしている。また親子ですら「名字の発音が変わった」、「名字の表記が変わった」という例が記録上で実際に多数確認できる。本来の名字がいったい何だったのか。今となっては確認する手段がない。文字表記ですらこうなのだから、正しい発音に至ってはなおさらだろう。地図や戸籍にフリガナが降られることは、なかったからだ。旧来の伝統を徹底的に破壊した明治の初期は、古来の名字の正しい発音にも大きな影響を与えたといえよう。(第3稿)
※古来「姓」とは血縁を指した。その字面からも当初は女系だった。当然ながら当時は母親はわかっても父親を知ることは不可能だったからだ。すくなくとも鎌倉時代以前は事実上母親の家がまさに実家であり、嫡子たる地位もその母の家格が大切だった。しかし「名字」はその名の通り「字(あざな:住所)の名」であり、血縁ではなくその土地を領し、護ったものが名乗るもので、当然ながら武力行使を伴うことから男系となってくる。古代中国では名字を剥奪されて領地を失ったものは、姓だけになって「百姓」と呼ばれるようになった。その結果現在は上位三つの「姓」で人口の2割を超え、古代の「名字」はわずかに堂號にのみ残っているとされる。日本でも江戸時代に「百姓」と呼ばれたものが名字を名乗ることを許されなかったことや、明治初期に「名字」を避けて「苗字」とし「姓」と同じような意味となったことも、中国と同様、権力者側の事情があったと考えられる。いつのころからか日中ともに、姓を男系でつないでいくことになっていった。これは儒教の影響が大きかったのかもしれない。