20. 鎌倉時代の栃木の古城 壁谷城
「壁谷」と名が付く旧跡や古地名は、関東地区を中心に、東北地方から山陰・北越地から三重、山口そして九州各地に至るまで広範囲に分布する。いずれも山間部や渓谷に位置する僻地にあって、その多くで泉が湧く。広い範囲に古社や旧跡が散在し、古くからの伝説も残されている。その静かなる情景はあたかも何かの手掛かりを囁いているかのようだ。しかし、そんな壁谷の痕跡を残す地は、今や殆どが消えつつある。
本稿では、現在の栃木県栃木市付近に絞り、鎌倉期ともされる幻の古城「壁谷城」、壁谷と名の付く故地名、そして「壁谷遺跡」などを紹介する。大陸文化の流入と古代政権の支配の広がりによって、全国各地の地名の多くは奈良時代から鎌倉初期までに付けられた。その地名は幾多の変遷を遂げながらも現在に伝わっている。おごそかに横たわるその長い道のりを探り、壁谷との関わりに迫りたい。
※本稿で記述予定と予告していた群馬や山梨の「壁谷遺跡」「壁谷の壘(とりで)」「壁谷の泉」「壁谷の寄居」などは第24稿以降に変更する。
幻の古城「壁谷城」
『栃木県の中世城郭跡』によれば、鎌倉時代に長沼氏が建てた「御辺(ごへん)城」の解説にわずかに「壁谷城」の記述が確認できる。しかし残念ながらそこには期待できる具体的な記述はない。「長沼氏」とは承平2年(939年)平将門を破りその名が知られた藤原秀郷の血を引く一族であり、栃木の地に拠点を構え、鎌倉初頭に頼朝に仕えてのち「関東八屋形」の一角を占める有力氏族となっている。「屋形(やかた)」とはのちに「守護大名」と呼ばれることになる一国の主のことである。
※「御辺(ごへん)」は漢音による後世の発音で、古来の発音は和音の「御辺(みべ)」だろう。その由来は、聖徳太子の一族、上宮王家の領とされる「壬生(みぶ)」であろうと推測する。隣接する下都賀郡壬生(現在の栃木県壬生町)がありその関係の深さは後述する。なお御辺城は、下野国都賀郡箱森(現在の栃木県栃木市箱森町)にあることから箱守城とも呼ばれる。箱守(石森)と壁谷(真壁)の関係については後述する。
実は飛鳥・奈良以前の時代、下野(しもつけ:現在の栃木県)は日本の政治・経済・文化の一大中心地のひとつだった。仏教は国政の中心にあったが、当時日本で正規の僧侶となるためには「戒壇」で授戒する必要があった、聖武天皇もこの戒壇を授戒し僧となっている。しかし天下に三戒壇しかなく、それは奈良の東大寺(「中央戒壇」)と大宰府の観世音寺(「西戒壇」)そして、ここ下野の薬師寺(「東戒壇」)だったのだ。白鳳8年(680年)天武天皇の発願とされる下野の薬師寺(現在の栃木県下野市)は奈良時代の天平宝字5年(761年)に「東戒壇」に指定され隆盛を誇っていた。
その下野薬師寺で学んだ「勝道上人」が初めて登頂したとされるのは「二荒(ふたら)」と呼ばれた聖山だ。後に漢音で「二荒(にこう)」と発音され現在のように「日光(にっこう)」と書かれるようになった。この聖山に端を発した龍脈(聖なる山脈の流れ)は高度を下げると現在の栃木県南部に向かい、栃木市の北方で広大な関東平野に突き刺さる。風水で融穴と呼びエネルギーが地上全域に拡散する好地(明堂)とされる地形だ。
その地に立つと、おそらく40度にならんかと思える急傾斜の山壁がそそり立ち、奥には龍脈を一にするもう一つの山が覗く。先に進み、急峻なる石段を100段近く昇りきると「茅の輪(ちのわ)」を掲げた古社に行きつく。歴史上あまりにも高名な古代の皇族、聖徳太子を祀ったその神社は、傍らに湧く霊泉とともに、末裔ともされる一族が現在もなお頑なに守り続けていた。
壁谷城の跡と思われる遺構は、谷を挟み、あたかもその古社を見守るようにそびえる山の一画に在していた。豊かな水を蓄えた堀や石垣の跡など、明らかな城址は見かけることはできない。しかし、よくよく見ると土橋(どばし)、竪堀(たてぼり)、切岸(きりぎし)など、中世の山城(やまじろ)に特徴的な人工的な遺構がいくつか確認できる。居館ないし櫓(やぐら)があったかと思われる曲輪(くるわ)の痕跡も残る。そして、ふもとには壁谷の古地名「字壁谷(あざ-かべや)」や「壁谷入沢」の地名がついており、最寄りのバス停にも壁谷の名がついている。その付近には現在も壁谷の名字をもつ人々が暮らしている。
※栃木市営バスの皆川樋ノ口線に壁谷の名を冠したバス停がある。(掲載時点)また壁谷入沢は柏倉川岸に近い地域だ。国の砂防法(洪水防止等に関する法律)における土石流警戒区域に指定されており許可なく工事はできない。
現在の我々がよく知る壮大で美しい「城」の形態が整うのは室町後期からだ。それ以前は状況は違った。鎧を背負って馬に乗り高台から弓を放つ。うっそうとした茂みには、どこからともなく矢が飛び交い、戦場は刻々と移り変わっていた。そんな戦を征するために中世の城は、交通の要衝に近い山中に監視・防御・攻撃の要害をいくつも築いて拠点とし、それらは「館(やかた/たて)」「壘(とりで)」と呼ばれていた。下野(しもつけ)の壁谷城もそんな壘の一つだった。
※隣接する上野(こうずけ:現在の長野県)国吾妻郡にある「壁谷の壘」は別稿でふれる。
室町時代後半になると、周辺では上杉謙信、武田信玄、北条氏康などが勝ち残り、智謀で名を馳せた真田氏もいた。彼等に挟まれた現在の栃木市付近では幾度となく山城で激戦が繰り広げられていたことだろう。慶長20年(1615年)の「一国一城令」で多くの城が廃城とされ、武家諸法度でも城の修復に規制が加えられ、多くの山城は破却されあるいは朽ち果てて山林に埋もれていった。こうして壁谷城もいつのまにか、人々の記憶から消え去ってしまった。
その遺構は、すでに一部の情報で壁谷城として紹介されている。この地と壁谷の関わりが見えかけて来ているのは、ひとつは古墳時代から奈良時代・平安初期にかけて朝廷内の皇統争いの時期、次いで平安末期から鎌倉・室町にかけて関東で武士が大活躍した時期だろう。本稿では後者の平安末期から室町期までの武士の時代を中心に考察する。古墳時代から奈良・平安期の関連性については、次稿以降にまわしたい。たまたま筆者の知人もこの地に在り、具体的な情報をつかみつつあるが、詳細な事情は現在はまだまだ明らかにはできない。いつの日かさらに具体的な記述を追加したい。
なお栃木の「壁谷遺跡」では縄文時代の集落跡と縄文土器が発掘されている。おそらく奈良時代ごろに壁谷と名付けられたこの地は、縄文時代から人が集団で居住してきた歴史ある土地だったことがわかる。また、壁谷の地のすぐ背後にあたる、現在の栃木県佐野市葛生から栃木市鍋山にかけては、日本有数の埋蔵量を誇る「石灰岩」の巨大鉱床として古代から知られてきた地域でもある。石灰岩と古代の壁谷は大変関りが深いと推測しており、今後別稿で詳しく触れたい。
神戸(かんべ)・漢部(かんべ)と壁谷
壁谷城の旧跡に隣接する山では、山頂に注連縄(しめなわ)の奥に「かんべ」さまと呼ばれている祠(ほこら)がひっそりと存在する。この「かんべ」とは古代にあった「神部(神戸)」もしくは「漢部」が由来であろう。
まず「神部(かんべ)」について説明しよう。神部とは朝廷の祭祀をつかさどる神祇官に属した「部の民(べのたみ)」の名で、古来は「神戸(かむべ)」だが平安後期からは「神戸(かんべ)」とも音されて「神辺(かんべ)」とも書かれた。後述するがこの栃木の地にも長沼氏の出身氏族による伊勢神宮の荘園(寒河御厨)があり、その「かんべ」が居たことは間違いない。神戸(かんべ)については『続日本紀』の奈良時代にも記述がある。
『続日本紀』淡路廃帝の天平宝字八年(764年)十一月十一日の条
高野天皇は次のように勅した。
天下の 諸国において、鷹、犬および鵜を飼って、狩りや漁を行なってはいけない。また諸国が御贄(にえ)としていろいろな鳥獣の肉や魚などの類を進上することを、すべて止めよ。また中男作物の魚、肉、蒜(ひる)などの類もすべて停止し、他の物にふり替えよ。但し神戸(かんべ)についてはこの限りでない。
※講談社学術文庫版(宇治谷孟)による現代語訳。
高野天皇とは、奈良時代の称徳天皇(聖武天皇の子)のことである。当時「中男」とは若年の男子で、「正丁」とされる成年男子の四分の一の国税(当時の租庸調:そようちょう)を納めていた。これまでは調と雑徭(労役)の代わりとして、生産した作物や狩猟した獲物を治めることを認めていたが、称徳天皇はこれを止めさせたことになる。背景には仏教の殺生を禁じる思想があったとされる。実は当時の奈良の都は権力争いや皇統争いの真っただ中、この詔が出された764年も「恵美押勝(藤原の仲麻呂)の乱」を平定し、天皇が廃位されたばかりだった。(淡路に流され「淡路廃帝」と呼ばれていた。明治時代に「淳仁天皇」の名が付けられている。)繰り返される皇統争いに、これ以上の武力衝突を避けようと、武器を取り上げた一面があると推測する。
しかし「神戸(かんべ)」だけは殺戮を許され、網、罠、弓そして刀などの武器を持ってもよいとされたことは注目に値する。これは「神戸」が神威を以て皇族を守るため、武器を持ち続け、将来の武士に繋がった可能性を示唆している。たとえば神戸の居住地「神戸屋」あるいは「神戸谷」は「かんべや」とも読める。当時の「屋」とは建物をさし、また「谷」は水が豊富で人の居住に適した土地の名でもあった。栃木のこの地もまさに、山に囲まれ泉が湧き出る谷地でもあり、まさに「かんべ」が居した「谷」とも言えよう。
※兵庫県の神戸(こうべ)も「神戸(かんべ)」が由来だ。平安末期の平清盛は現在の神戸の地にあった港(当時は大輪田泊)の周辺に、武器を蓄える兵庫(つわもののくら)があったことから、神戸(かんべ)の地を兵庫(ひょうご)と改名していた。これも神戸(かんべ)と武士の関わりを示唆しているといえようか。
「神戸(かんべ)」は全国各地の伊勢神宮や、諏訪神社、鹿島神宮などの荘園だったところに存在し、多くはそのまま地名となり名字にもなった。(名字の地)平安時代に伊勢神宮などの荘園となった理由は租税逃れであり、歴史上「寄進地型荘園」と呼ばれる。多くの神社や貴族の権威を借りて豊穣の地であった荘園を守りながら、現地は下司(げす)といわれる地方豪速が守った。しかし鎌倉初期の承久の乱のあと、下司は地頭となり有力な武士団が構成されていくことになる。実は室町幕府を開いた足利氏も、鎌倉初期に朝廷(後宇多天皇以降は大覚寺統)の荘園だった「足利庄」を守る下司だった。
※朝廷に仕える部(べ)の民も「壁(かべ)」「可部」などとも呼ばれていた。現在みかける名字でm「日部」「加辺」「賀部」「河辺」「家部」「嘉部」「我部」などで「かべ」と発音する。一方、当時の居住地は「谷(やつ)」「谷戸/屋戸(やど)」などと書かれ、特に関東では「谷(やつ)」と発音された。それが「壁谷」かもしれない。「壁ケ谷戸」の地名も複数残っている。
一方で、渡来人で最大の武力を誇った「東漢(やまとのあや)氏」の部の民は「漢部(あやべ)」と呼ばれた。のちに「漢部(かんべ)」と呼ばれるようになっている。平安初期に東漢氏の族長とされた坂上田村麻呂は、当時の大道「東山道」を通って蝦夷征伐に向かった。その拠点がこの地栃木だ。関東の壁谷の旧家に伝わる、坂上田村麻呂に従軍し関東・東北の要所に居ついたという伝承とも符合する。
※下野寒河郡(現在の栃木県小山市寒川)の地名「鴨部(かべ)」(伊勢神宮の荘園)も興味深い。『和名類聚抄』には寒河郡に「鴨部(かべ)」、「池邉(池辺:いけのべ)」、「努宜(ぬぎ)」などの地名を記録する。努宜は神官である禰宜(ねぎ)につながると思われ、池邉は聖徳太子の父の名でもある。この辺り一帯は、平安末期から鎌倉時代の有力氏族だった小山氏、長沼氏、寒河氏が支配していた。寒河氏の元には鴨部(かべ)氏もいて、鴨部(かんべ)とも呼ばれていた。賀茂(かも)神由来だろう。香川県では源平の戦のころ鴨部源次(『志度町史』)が記録され、その末裔は鴨部城を築き、栃木と同じ寒河氏に従った記録がある。現在の香川県さぬき市、高松市などには現在も「鴨部(かべ)」の地名があり「壁谷」の地名もある。なお、賀茂神と秦氏と壁谷の間の関係については別稿で触れる。
東山道と壁谷
奈良時代以前に起源をもつ古代の大街道「東山道(あずまのみち)」が、この地栃木を貫いていて西は京に、そして東は東北に伸びていた。数々の発掘から、古代にこの地が東国の一大拠点だったことを物語っている。その栃木の壁谷の地から東山道を20Kほど東北に向かえば現在の栃木県鹿沼市今宮町に壁谷の古地名が確認できる。そこは壬生氏の拠点であり鹿沼城もあった。(調査中)次いで塩谷城(現在の栃木県塩谷郡の川崎城跡公園)がある。鎌倉初期から続く塩谷(しおのや)氏の居城だったが、1590年秀吉の奥州仕置きで廃城になっている。古文書の筆文字を見ると、塩谷と壁谷はよく似ていることが、若干気になる。
※平安中期の『和名類聚抄』には下野国に塩谷(志保之夜:しおのや)郡が記録され、現在も栃木県塩谷郡塩谷(しおや)町があり、塩谷温泉では塩泉(塩分を置く含んだ温泉)が湧き出している。なお塩谷氏は常陸真壁の地(笠間藩:現在の茨木県)に領を持っていたが、その笠間藩は江戸時代に、飛び領地として現在の福島県いわき市に神谷(かべや)陣屋を持っていた。また『和名類聚抄』には下野国に芳賀郡真壁(現在の真岡市、宇都宮市近辺)、河内郡真壁(現在の宇都宮市、日光市近辺)が記録されている。真壁と壁谷の関係については別稿で触れるが、壁谷と塩谷にも何らかの関係があった可能性がある気がする。
東山道をさらに80Kほど北上すれば、福島県への入り口「岩瀬郡」(現在の福島県須賀川市)にたどり着く。そこは壁谷城を作った長沼氏が頼朝から与えられた土地でもあった。そこから「三春」(現在の福島県田村市)を経由すれば海道沿いの「磐城」(現在の福島県いわき市)にも到達する。一方で、東山道を栃木から京に向かう途中、下野の足利荘、新田荘を挟んで北に上れば信濃「吾妻」(あずま)郡(現在の群馬県吾妻郡)に行き着く。
※磐城には鎌倉時代からといわれる「神谷(かべや)」の地名と名字が残る。
これらの地、つまり福島県の「須賀川」、「田村市(三春)」、「いわき市」、「会津」、そして群馬県の吾妻郡「中之条」は、栃木と並んで現在も壁谷の名字の人々が局在し、室町時代以前と思われる壁谷の遺跡や古地名、古伝承が数多く残っている特異地である。須賀川には室町時代から続く壁谷家代々の墓があると伝わる長禄寺もある。
長禄寺は頼朝以来の重臣だった二階堂氏が鎌倉から高僧を招いて「曹洞宗」寺院として創建したと記録される。第102代後花園天皇(在位1428-1464年)の勅願寺(ちょくがんじ)となると、室町幕府の保護を受け奥羽(東北地方)だけでなく下野・信濃・越後までも含む130もの末寺(傘下に抱える系列の寺)を擁する東国隋一の大寺院となって全盛を迎えた。しかし戦国時代の末に、二階堂氏の須賀川城とともに伊達政宗に攻められ、長禄寺は全焼したが、後に再建されている。
※須賀川の長禄寺一帯は、江戸時代に白河藩領となった。寛政の改革を主導した松平定信は白河藩主で、これが寛政の頃以降に壁谷家が一ツ橋家の家臣として登場することに繋がったと推測している。
※栃木県那須郡にも須賀川村(現在の栃木県大田原市の一部)があった。江戸時代初期に、もと佐竹氏が転封された際、家臣がこの地に残って起こした村だとされる。佐竹氏と壁谷の関連性については後述する。
小山(おやま)氏と長沼氏、皆川氏
壁谷城を作ったとされる長沼氏とその一族について、もう少し詳しく説明しよう。平安時代の「平将門の乱」(承平・天慶の乱)を制した「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」が「下野押領使(しもつけのおうりょうし)」として軍事警察の全権を握ると、その子孫たちは新たに開発した荘園を貴族や大寺院に寄進し「開発領主」として実質的に当地の支配を固めていった。こうして秀郷流(秀郷の末裔)の支族が新田開発した土地で繁栄するようになり、その地名を「名字(みょうじ)」として名乗った。これを「名字の地」という。
現在の栃木県小山(おやま)市周辺に勢力基盤を持ち代々が下野押領使(おうりょうし)を拝命した藤原秀郷の末裔は「小山(をやま)」氏と名乗った。(以後「おやま」と表記する)頼朝の父である源義朝が仁平3年(1153年)に従五位下、下野守(かみ)に任じられ、平治の乱に敗れるまで、この地を知行し京にいながら関東の武士団をまとめていた。実は八幡太郎義家も下野守となっており鎌倉幕府を開いた頼朝にとっては、下野(現在の栃木県)は大切な土地だったのだ。
※「を」とは古語で山の裾(すそ)を意味する。「をやま」とは関東平野に山が突き刺さった、まさに栃木の地を意味する。
『吾妻鑑』文治5年(1180年)7月の条には藤原氏を撃つため奥州に向かう途中、下野に寄った小山政光が言い放った言葉に源頼朝が感銘した話が記録される。その後、頼朝のもとで活躍した政光の子らは頼朝を烏帽子親(えぼしおや:元服の儀式で親の名代として冠を被せる)として「朝」の偏諱を受け、その後も重用された。
そのひとりで嫡子だった「小山朝政」は、源平の宇治川の戦いで戦功を挙げ、後に「大番役」として頼朝の側近を務め小山氏の嫡流となった。三男「朝光」も下総国結城郡を領して「結城氏」を称した。結城氏は江戸時代にも水戸藩の重臣(家老)として残っている。五男「宗政」は当時遠方にいた兄の名代を務め鎌倉の頼朝のもとに参上、平家追討や奥州合戦に従軍して戦功をあげて以来、勇将として聞こえるようになり、下野国芳賀郡長沼郷を領して「長沼氏」を称した。(壁谷城を作ったとされる長沼氏である。)
小山政光の妻は源頼朝の乳母でもあった寒河尼(さむかわに・さむかわのあま)は、鎌倉幕府の『吾妻鏡』文治3年12月の条に「女姓爲と雖(いえど)も大功有るに依(より)て也」とされており、記録に残る限り最古の女性「地頭」として後の「寒河氏」の祖となった。鎌倉幕府の強力な後押しで、藤原秀郷の秀郷流は小山氏を中心に多くの支流にわかれ関東周辺で繁栄していた。
主な栃木周辺の「秀郷流」
- 小山(おやま)氏(小山荘:現在の栃木県小山市)
- 寒河氏(小山荘寒河御厨-さむかわのみくりや:栃木県小山市寒川 )※小山氏支族
- 結城氏(結城郡:茨城県結城市)※小山氏支族
- 長沼氏(長沼荘:栃木県真岡市、後に福島県須賀川市)※小山氏支族
- 皆川氏(皆河荘:栃木市皆川城内町)※長沼氏の後裔
- 足利氏(足利荘:栃木県足利市)※藤姓秀郷流足利氏。源氏の足利氏とは別
※『角川日本地名大辞典』『図説栃木県の歴史』などを参考に作成した。小山荘は、伊勢神宮の荘園だった寒河御厨(さむかわの-みくりや)を中心とした一帯をさす。後白河法皇に寄進されたのち、伊勢神宮の荘園となった。
鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には頼朝に従った「長沼宗政」が幾度も登場する。しかし「長沼氏」は鎌倉時代の中期に関東で戦乱に巻き込まれ、栃木の地を離れて飛び領地だった奥州の岩瀬郡(現在の福島県須賀川市)に逃れた。平安末期に奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の恩賞として、頼朝から岩瀬郡を与えられていたからだ。
『東國擾亂記』によれば、鎌倉時代の中頃(13世紀)小山(長沼)宗政の4代後になって岩瀬郡(現在の福島県須賀川市)に退きその地で五代を過ごした。現在の福島県須賀川市の長沼城跡にある説明書きには、長沼隆時が永元年(1260年)に築城したと記載されている。これらの記述が正しければ、壁谷城は長沼氏がまだ栃木の地にいた13世紀中ごろまでに作られた、鎌倉中期の城ということになろう。
※現在の福島県須賀川市に残る壁谷の伝承については別稿で触れている。
鎌倉幕府正史『吾妻鏡』から長沼宗政の記述の一部
仁治元年(1240年)十一月大十九日戊申。長沼 前淡路守 從五位下 藤原朝臣(長沼)宗政法師死す。年七十九。時に下野國長沼郡に在りと云々。
『大日本地名大辞書』下巻から福島県の「長沼」
今長沼村と云ひ(中略)須賀川(現在の福島県須賀川市)の西四里半。(中略)下野國志に、東國擾亂記を引き、長沼五郎宗政より四代の孫 越前守秀行の子、淡路守宗秀は奥州白河郡岩瀬(現在の福島県須賀川市)に移て、五代ここに住す。同憲秀の時に會津郡田島(現在の福島県南会津郡南会津町田島)へ処替え、云々。
※カッコ内の解説等は筆者が付けた。須賀川には、長沼の地名がのこり、江戸時代には長沼藩もあった。
鎌倉幕府の滅亡とその遺児による中先代の乱の征討などで関東地方は戦乱で明け暮れた。室町時に入り、まだ南北朝の統一もなされていない天授6年(1380)年、頼朝以来の名門だった小山氏は第2代の鎌倉公方「足利氏満」に滅ぼされてしまった。(小山義政の乱、若犬丸の乱)関東ではさらに上杉禅秀の乱(1416年)、永享の乱(1438年)が相次いで起き、第4代鎌倉公方の足利持氏が滅ぼされ、その遺児が日光に逃げて幕府と結城氏側がにらみ合う結城合戦(1440年)に発展した。一方で1438年「永享の乱」をおさめた恩賞として鎌倉・室町時代を通して幕府の重臣だった二階堂氏に須賀川が与えられることになり、長沼氏は須賀川から会津に引くことになった。
足利成氏が第5代鎌倉公方として復活すると、関東管領上杉憲忠を暗殺したことから、享徳の乱(1455年ー1483年)が始まった。関東地方を中心にこうして続いていた戦いは、応仁元年(1467年)ごろからは全国規模にと拡がりだし、世に言う戦国時代に突入していった。
長沼氏の末裔だった戦国大名「皆川広照」
関東が早くから事実上の戦国時代に突入していた理由は、室町幕府の京都将軍と鎌倉公方の対立、鎌倉公方・古河公方と関東管領上杉氏との対立など室町幕府の構造的な問題であり、この種の内輪もめが室町幕府の弱体化を招いていた。一方では足利家の支族たちが守護大名として成長し、足利氏を超える存在として強大化していったともいえる。関東管領の流れをくむ上杉氏、上総の平姓千葉氏、奥州の平姓岩城氏、常陸の源姓佐竹氏、甲斐の源姓武田氏、関東の後北条氏なども周辺の国人衆を従えて強大化した。こうして勢力を延ばした各氏族は追従した地元の有力者だった「国人衆」たちと家臣団を形成、「守護大名」からのちに「戦国大名」と化した。
その後会津に残った長沼氏の嫡流は滅びたが、その二男が室町中期に奥州から再び下野国に戻ると、皆川庄に居を構え今度は「皆川氏」を名のり、戦国大名となった。鎌倉時代にこの地で壁谷城を作った長沼氏が、再び戻ってきて皆川氏と名乗ったことになる。栃木周辺が先祖由来の土地であったこともあり、また広大な関東平野を前面にして背後に奥深い山並み抱えるこの地は、攻撃にも防戦にも有利な地形だったためであろう。
歴史に名を刻んだのは「皆川広照」である。広照はわずか3万石ほどの小勢力だったため、強大化した戦国大名の勢力圏の境界に位置することで争いの渦に巻き込まれた。しかし山壁が迫る天然の要害を擁する地の利を生かし、巧妙な駆け引きを駆使して、宇都宮氏や上杉謙信や佐竹氏(常陸、現在の茨城県常陸太田市)そして同じ秀郷流の結城氏らと手を組むことで、戦国時代をしぶとく生き残っていった。
※皆川城は、らせん構造を持った難攻不落の山城で「法螺貝城」とも呼ばれた。(現在の栃木県皆川場内町「皆川城址公園」)戦国時代には北に30キロほとの地にある鹿沼城から宇都宮勢(壬生氏)から攻められ、皆川氏はいくつかの山城を駆使して守っている。皆川城から北西に1キロほど山岳地に向かえば壁谷城に至る。江戸中期の『皆川歴代記』に要害「柏倉」が記される。柏倉に他の城の記録はない。それはかつての壁谷城であったろう。
しかし天正13年(1585年)北条氏照が大軍で攻め込んでくると苦戦した。なんと三か月も粘ったあげくに、実力者だった三河・遠江・甲斐・信濃・駿河の五か国を領していた「徳川家康」や常陸の「佐竹義重」のとりなしを得て、北条氏側と和議を結んだ。こうして広照は、小田原北条氏の傘下に下ることで九死に一生を得ることになった。(草倉山の戦)
天正18年(1590年)秀吉が「小田原征伐」を開始すると、皆川広照も北条氏側として小田原城内で守備に廻った。しかし落城前に家康に投降したことで再び家康に助けられてその所領を安堵された。北条氏が滅びると、秀吉は徳川家康に領地替えを行い、五国を領していた家康に対して、北条氏の旧領である関東八国(武蔵、伊豆、相模、上野、上総、下総、下野、常陸)への領地替えを求めた。これによって、皆川広照は名実ともに徳川家の家臣となったことになる。皆川広照は徳川家康の家臣として活躍し三代家光まで仕えた。
皆川氏(長沼氏)は名族小山氏・長沼氏の記録を代々引き継いでいた。『皆川家文書(もんじょ)』には、鎌倉初期から伝わる数々の古文書が残る。その中には源頼朝から寒河氏(頼朝の乳母の家系、小山支流)への下文(げぶみ)、足利尊氏からの督促状、織田信長からの朱印状などもあり、国の重要文化財となっている。
家康の六男「松平忠照」と伊達・佐竹
家康は皆川広照の能力を高く買っていた。広照は慶長5年(1600年)には後の2代将軍「徳川秀忠」に同行して上杉征伐(会津征伐)に向っている。これは家康が「関ケ原の戦い」を誘発させる作戦のひとつとする評価もある。どちらにせよ家康の重要な作戦の一翼を担ったことになる。慶長8年(1603年)には信濃の飯山城(現在の長野県飯山市飯山)を居城とした。この城は、上杉謙信が武田信玄との戦いに備えて築いた城であり、江戸幕府にとっても防衛上の重要な拠点であった。
広照はまた、天正20年(1592年)に生まれた家康の六男(のちの「松平忠輝」)を引き取って育てていた。飯山城主となった慶長8年には、その「松平忠輝」の守役・御附家老となっている。家康がこのように自らの子らを家臣に預けた例は多いが、決して疎んだわけではない。実は賢かったことが後世に伝わる豊臣秀頼も、甘やかされて育ち、肥満で馬にのる事すらできなかったと記録が残る。家康の長男の信康も、生母築山殿とともに武田勝頼に通じたとし割腹を命じられていた。権力者となった家康も、子育てに相当悩んだことだろう。当時の捨子(丈夫に育つとされた)の習慣もあり、家康は我が子を信頼できる優秀な家臣のもとに預け、守役(もりやく)として厳しく養育させようとしたはずだ。
「関ケ原の戦い」では、石田三成側についた常陸(ひたち:現在の茨木県)の佐竹氏が出羽に減封となった。慶長7年(1602年)佐竹氏の城の引き渡しの立ち合いという大役を務めたのも、この皆川広照だっだ。城の引き渡しは、無事に収めて当然、いざとなれば戦いに発展する重責が伴う。
しかも相手には家督を嫡子に譲ったばかりの「佐竹義重」という大物がいた。「鬼義重」と恐れられ家康も一目置いた人物である。義重は豊臣六將の一人でもあり、事実上岩城氏も傘下に加え(弟が岩城氏を養子で継いでいる)、那須、白川まで勢力を拡げた関東一の勢力を持つ武将として「坂東太郎」とも言われていた。西軍(石田三成側)についたにも拘わらず、佐竹氏が「減封」ですんだのも、家康と義重との長年のよしみによるものだったろう。以前北条氏に攻め込まれた皆川広照を救ったのは、他ならぬ徳川家康と佐竹義重の二人でもあった。そんな佐竹氏の城の引き渡しに、広照は適任だったのかもしれない。
この佐竹氏は八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ:源義光)を祖とする名門である。『寛政重脩諸家譜』によれば、常陸久慈郡の佐竹郷に領してから「佐竹」を名乗った、同じ常陸国那珂郡武田郷を領しのちに甲斐に放逐された一族が武田信玄を生んだ武田氏の祖である。佐竹氏は武田氏と並らび、清和源氏義光流の名門だった。甲斐武田氏を滅ぼして将軍となり、源氏の長者を称することになった家康にとって、常陸佐竹氏までも滅ぼすことはできなかったのかもしれない。
佐竹氏の旧領には、江戸時代に徳川水戸家が入っている。天海が開いた天台宗「寛永寺」の他に、芝の「増上寺」も、徳川家の菩提寺だった。実は増上寺は室町時代に佐竹氏が中興し、佐竹氏が引き続き守ってきていた寺院だった。
家臣団に壁谷がいた可能性
慶長11年(1606年)に、伊達政宗の長女「五郎八姫(いろはひめ)」が忠輝の正室となった。忠輝は、そののち信濃国川中島藩12万石を経て、慶長15年(1610年)には越後高田を拠点とし信濃川中島を併せて、なんと75万石もの大名となった。「越後高田藩(現在の新潟県上越市)」に幕命での築城(天下普請)が開始されると、築城指揮には伊達政宗が直々に当たったと記録される。
室町時代は兵農分離がまだ進んでいなかった。そのため戦国大名を支える有力武将は「国人衆(こくじんしゅう)」といわれる地元の有力土豪が多かった。彼らは普段は地元の土地を支配、農作業や土木建築にも従事していたが、いざという時に多数の配下を引き連れて戦場に参じ、敵を蹴散らし大活躍していたのだ。これは平安末期に成立し、鎌倉幕府の根幹にあった武家統治の概念である、本領安堵の「御恩」とそれに対する「奉公」が、そのまま引き継がれた古くからの関係でもあった。
『栃木県の中世城郭跡』に記された鎌倉時代の長沼氏が建てたとされる「壁谷城」は、後年の皆川氏も支城のひとつとして利用した可能性は当然高い。現在の栃木市「皆川城内町」「柏倉町」には、壁谷の古地名「字壁谷」が残り、かつ相当の数の壁谷が集中して居住している。このことから当時の壁谷の一族が、国人衆・土豪などとして当時の長沼氏、皆川氏の家臣団の中に組み込まれていた可能性は十分にあるだろう。鎌倉時代から室町時代に、長沼氏・皆川氏の拠点が栃木・須賀川・会津の地を転々としたことは、壁谷の痕跡がこれらの地に現在も点在することの関りが深いとも思われる。しかしそれらに関わる決定的な証拠は今までのところ確認できていない。
※国人衆は地元で権力をもった在地領主で、国人領主と言われることもある。一般には地名を名字(みょうじ)とする例が多い。逆に言えば古地名が残ることで、その名をもつ氏が当時そこにいて、その地を領していた可能性が高い。
徳川家は、今川を倒した後に各地の旧臣を配下に加え、急速に家臣団を膨らませた。徳川が関東に移ると、地元を支配するために関東各地の有力な国人衆を新たに配下として加えていった。もちろん皆川氏もそのひとつである。わずかの期間に、越後75万石もの大大名になった松平忠輝も、相当の人数の家臣を集める必要があった。
しかし越後は名門家だった上杉の旧臣がまだ多数残っていた。徳川家の御曹司でもあり、身辺警護や安定した領地運営は重要で、すくなくとも近習の家臣には信頼できる譜代の家臣を引き連れていって中枢を固める必要があったはずだ。徳川家康や、伊達政宗、皆川広照らの譜代の家臣、そして五郎八姫に付き添った腹心らで身辺を固めたことが容易に予想される。
松平忠輝の正妻となった「五郎八姫(いろはひめ)」は、奥州田村氏の最後の生き残り、「愛(めご)姫」の長女だった。その「愛姫」は旧三春藩田村家の娘で伊達政宗の正妻となっていた。田村家はすでになく、伊達家の家臣には旧三春(田村氏)の藩士が多数引き取られていた。しかし伊達家も仙台に移封されると、本来は部外者でもある田村旧臣の多くを養うのは難しかっただろう。戦国時代「田村氏」が領していた「三春」(現在の福島県田村市)には士族の壁谷氏が残っていたことはすでに明らかにした。「愛姫」に従って仙台に移った三春旧臣には「愛姫」の意図をうけて「五郎八姫」に付き添った者がいた可能性が高いが、その中にもしかしたら田村旧臣の壁谷が居た可能性があるのかもしれない。
さらに、鬼義重「佐竹義重」の正室は、須賀川の戦国大名「二階堂氏」の最後の当主「大乗院」の実の妹でもあった。つまり関ケ原で敗れた佐竹家の当主「佐竹義宣」は大乗院の実の甥でもある。須賀川落城のあと「大乗院」は佐竹氏のもとに身を寄せていたのだ。佐竹氏が皆川広照に城を引き渡したのち、「大乗院」も佐竹氏とともに新天地となる出羽に向かうが、途中須賀川で没したと記録されている。別稿でも記した須賀川で殿様を守り続けたと伝承が残る須賀川の壁谷の400年に渡る関係も、もしかしたらこの佐竹氏とここで何かの接点があり得るのかもしれない。
※福島県須賀川市にある長禄寺には、須賀川城主だった「大乗院」、そして「蒲生郷成(がもう さとなり)」の墓もある。須賀川の壁谷が守ったと伝承されている殿様とはどちらなのか不明だ。鎌倉時代に須賀川を領していた「長沼氏」である可能性も否定はできない。
皆川広照は元和9年(1623年)には三代将軍「徳川家光」付の旗本となり、その後常陸府中藩(現在の茨城県石岡市)で1万石を与えられ、御咄衆(御伽衆)として江戸城に登城し、家光に仕えた。戦国時代を知らなかった家光は、伊達政宗や皆川広照らの話に大変な興味を示したと言う。そんな皆川氏はしかし後継ぎがなく、断絶してしまった。皆川家の家臣だちは主(あるじ)を失い、徳川家の旗本になるか浪人になるか、あるいは地元で郷士か農民になるかの選択を余儀なくされた。この時代こうして日本国中に主を失った浪人が溢れていた。
水戸藩の家臣団と壁谷
皆川広照が城の引き渡しを受けた城とは、佐竹義宣が精魂込めて築きあげた上げた「水戸城」であった。そこには後に徳川御三家の水戸家が入る。しかし地元には佐竹家の旧臣が多数いた。佐竹氏は関ケ原後に出羽に大幅に減封されており、旧領の常陸で抱えていた旧臣の多くを地元に残さざるを得なかったからだ。一方で水戸家は、江戸時代にできた新藩であり、もともと家臣なぞいない。これは先の松平忠輝と同じ事情である。したがって新たに藩士を登用する必要があった。
『シリース藩物語 水戸藩』によれば、水戸藩が初期の慶長年間(1596-1615年)に新規で登用した家臣は176人、次の元和年間で205人と年間平均で20人以上も登用され続けている。その後も寛永年間には218人、徳川光圀の時代にも計145人が新たに登用されている。この新規登用人数を単純に合計すると750人ほどにも達する。寛文年間(1661年-1673年)にまとめられた水戸家の「分限帳(ぶんげんちょう)」によれば、水戸家家臣は総勢で1067人に過ぎない。徳川水戸家の家臣の4分の3ほどが、実は新規登用であったことがわかる。
最初のうちは佐竹の旧臣の採用は避けていたようだが、そうもいかなくなってきた事情があった。後年になると、はっきり佐竹氏の家臣であることが確認できる家臣までも召し抱えた記録が多数確認される。よほど家臣が不足したのだろう。その中には、栃木の小山氏の支族とされる結城氏もいて水戸藩の重臣として幕末まで仕えている。
佐竹旧臣の多くは新参者の徳川水戸家に敵意や不快感を抱いていたとされ、地元の農民・郷士と結託、「生瀬郷騒擾事件」などの不穏な事件が頻発した記録がある。こうした地元に残った郷士の不満を抑える必要があった。郷士の有力者を召し抱えることで、不満を解消し、かつ能力を活用する例が多く、これが後年になって佐竹旧臣を登用する例が増えた事情のようだ。
この分限帳は、大名が領国内の家臣をその身分や家格別に整理した名簿であるが、その性格上、下級の武士たちは記録されていない。家臣団には、下士といわれる、同心(どうしん)、手代、足軽、茶坊主などの下級武士もいて、これらは分限帳に記載されたとされる上記の1067人に含まれていない。そういった下士を含めると、水戸家の家臣は3600人ほどと言われ一気に3倍以上に膨らむ。この場合さらに佐竹旧臣の占有率は高かったとされる。
※明治時代の当初(明治5年ごろ)は中間以下の下級武士や郷士などの「下士」は士族とはされなかったが西南戦争前夜の明治9年ごろからは一部の「下士」も士族に追加されている。明治の元勲たちは、多くがこの「下士」とされる武士であり、代々苦しい時代を過ごした彼らは旧来の石高や家格、慣習にあぐらをかくことなく実力で自らの未来を切り開いていったのだろう。
第6代藩主で、水戸藩中興の祖といわれる「徳川治保(はるもり)」は、第11代将軍家斉の実父である一橋家の「徳川治済(はるさだ)」や松平定信らと手を組んで幕府改革を推進した。一時期だが、たとえ武士でなくとも献上金をしたものを郷士として取り立てる制度も実施している。
水戸藩主は一般に「江戸常府」で水戸藩士も多くが江戸に常駐していた。このような事情から、水戸藩士を足掛かりに幕臣へ登用された例が複数ある。後述するが、勝海舟の祖先もこのとき献金してまず水戸藩士となったことを皮切りに、幕臣となった勝海舟が幕末に活躍する道が開かれることになった。勝海舟と壁谷家の接点については後述する。
※水戸藩主は「江戸常府」とされ、藩主と正妻は常時江戸にいて水戸に返る(参勤交代)はなく、幕府との関係は深かった。(このため、水戸光圀の遺訓により藩主の子女は江戸に染まらないように水戸に常在させらることになる。)
壁谷の一族は、現在の栃木県栃木市(下野)、茨城県石岡市や水戸市(常陸)そして松平忠輝の領地となった長野県(信濃)・新潟県(越後)などに一定数居住していることが確認できている。少なくとも戦国時代から江戸初期にかけて、徳川の覇権の広がりに合わせ、多数の壁谷がその運命を翻弄されながら、全国各地のそれぞれの拠点に移動し、様々な立場となって生き残って現在に繋がった可能性はあるだろう。しかし、はっきりした証拠を見つけることはまだできていない。
栃木の地はその後、幕府の天領ともなっており、水戸家と同様に、幕臣として召し抱えられた可能性も否定はできない。家臣として皆川氏の周辺を動き回ったはずの壁谷がいたとすれば、江戸時代の後半に入って複数登場してくる水戸家・一橋家との壁谷の関係の深さと、関わるのかもしれない。
松平忠輝は元和2 (1616) 年の家康の死の直後、二代将軍秀忠に改易されてしまった。忠輝の生母の地位が低かったとか、粗暴だったことを家康に疎まれたなどと後世の記録が残る。五郎八姫がキリシタンだったことや、背後にいた伊達政宗の力を二代将軍秀忠が恐れ、家康の死後改易に踏み切ったという考えも根強い。しかし徳川政権内の権力争いに巻き込まれたと考えるのも自然だろう。
もと武田旧臣の大久保長安は家康に仕え、その治水技術や鉱山開発の技術を生かして岩見、佐渡、伊豆などの金山・銀山を開発した。これは家康の軍資金を賄って、家康の快進撃を支えた。しかし「キリシタンを大いに広め、異国の軍隊を招き、松平忠輝を日本国王となす。」という文書を残していたともされ、江戸幕府内の権力抗争もあり、慶長18年(1613年)大久保長安一族は不正着罪の発覚を名目に、一族郎党が処刑された。同年にローマ教皇に慶長遣欧使節を派遣していた伊達政宗も、長安との関係を警戒されている。これらのことは、松平忠輝の処遇に大きく影響しただろう。
家康が忠輝を封じた越後は、元は上杉謙信が領した地でもあり肥沃な土地が広がり、背後には佐渡金山を抱えていた。同時に加賀の前田や出羽に移封させた上杉を挟んで、戦略上も極めて重要な拠点であった。皆川広照が家康存命中に忠輝の不行状を訴え出たが、この際は広照が謹慎させられている。忠輝の生母「茶阿の局」は家康に大切にされた。家康が死期を悟ったとき、信長から秀吉にそして家康に渡っていた名笛「乃可勢(のかぜ)」は忠輝に託されている。松平忠輝の墓のある「貞松院」(現在の長野県諏訪市)にはその笛が今も保存されている。家康の本心は忠輝を穏やかに守ってやりたかったのではないだろうか。
家康の次男であった結城秀康(結城氏の養子となった)も家康のもとから離されて、本多重次に養育され、越前67万石となり忠輝の越後75万石に次ぐ石高を誇っていた。忠輝・秀康の兄弟で越前・越後を領していたことになる。しかし二代将軍秀忠に嫡男が不行跡とされ、改易されてしまった。一方でその秀忠の子だった忠長(ただなが)も、秀忠の死後、三代将軍家光に改易されている。忠長は秀忠の正妻だったお江(おごう、江与)が寵愛した息子だった。
※秀忠の長男とされる家光の生母は実はお福(のちの春日局。明智光秀重臣だった斎藤利三の子で家光の乳母とされる)とする記録が江戸城内部に保存されていた『松のさかへ』にある。同じ内容がお福の元の実家である、臼杵藩稲葉家に伝わる『御家系伝』にもあり、そこでは、さらに家光の父は秀忠ではなく家康だとしている。
江戸城紅葉文庫『松のさかへ』「東照宮様御文」から引用
秀忠公 卿嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也 右大臣
同 御二男国松君 御腹 御台所(江与:おごう) 駿河 大納言忠長公也
※カッコ内は筆者が加えた。
武田家旧臣の出身だった勝海舟
後に幕末の重臣となった「勝海舟(かつかいしゅう)」に関しては、長年いろいろな研究がされている。紆余曲折があってたいへ面白く、水戸家や一橋家との関る時期などが壁谷と似ている。壁谷の経緯やその後の行く末について参考となるのかもしれない。
『勝海舟全集』の編者で、勝海舟に詳しい勝部真道などの示した資料から、その系譜の流れを以下に示す。「勝麟太郎義邦」(りんたろうよしくに:勝海舟、以後「勝」と記す)の直系の祖先は、鎌倉時代から近江(現在の滋賀県)の守護を務めた佐々木氏の一族「山上氏」である。山上の名字は、近江の上郷にあった「山上」地区(現在の滋賀県犬上郡甲良町大字正楽寺)を拠点としていたためと伝わる。戦国時代になると「山上八郎信員(のぶかず)」は、甲斐武田の最後の当主「武田勝頼」に仕え、甲斐の天目山の戦いで武田家が滅んだときに同時に戦死した。山上家の子孫は、その後隣国で新たにできた「越後高田藩」に仕えたという。
※佐々木氏では室町初期の重臣で、バサラ大名と呼ばれた佐々木導誉(高氏)が有名。道誉は足利尊氏(高氏)と同じく鎌倉幕府執権北条高塒に仕え、室町幕府では政所執事となり、近江・若狭・出雲・飛騨・摂津・上総などの守護も兼任し、幕府の権力者でもあった。
この「越後高田藩」は、さきに紹介した皆川氏が仕えた徳川家康の六男「松平忠輝」が領主であり、その城は伊達政宗のもとで天下普請で作られた越前高田城であった。忠輝が改易された後は、徳川四天王の筆頭だった酒井忠次の嫡男が越後高田藩を継ぎ、さらに家康の次男で結城秀康の孫であった「松平光長」が継いだ。実は光長の異母兄「松平忠直」が越前67万石を秀忠に改易されており「松平光長」は、兄の旧臣を引き継いだ。光長が生き残ったのは、母が秀忠と「お江(お江与)」の娘「勝姫」だったことが幸いした思われる。江戸初期までは、家系を守る女性の地位は実は大変高く、発言力も大きかった。
山上家が越後高田藩「松平光長」の家臣団には居り、改易ののちに松平光永に選抜されて残った旧臣のひとりだったことになる。しかしその「松平光長」も「越前騒動」といわれるお家騒動で、5代将軍綱吉によって改易されてしまった。みたび山上家は領主を失うことになり、ついに越後長鳥(ながとり)村(現在の新潟県新潟市南区)に居を構えて農業を営むようになった。以来代々の当主は「山上徳右衛門」と名乗り地元の大庄屋となり、かつて武家だった山上家の誇りと伝承を保ち続け、地元で子孫も繁栄した。農家ではあったが、山上家の誇りを忘れたものは容赦なく山上家から追放したとする家伝が、現在の山上家にも伝わっている。
8代将軍吉宗の元文(1736-1741年)のころ、当主だった山上徳右衛門の四男「山上養貞(またの名を板井安節)」は医師となり、何かの縁で松平越中守(白川藩主松平定邦。その養子が松平定信である。)に仕えて江戸に出た。おそらくこのとき、須賀川街道を通ったのだろう。さらにその弟で七男だった「山上銀一」もこのとき江戸に同行したとされる。実は銀一は盲目であったが、腕はよく頭も切れた。のちに鍼医となると、さらには高利貸しとして大成功した。銀一は「米山検校(けんぎょう)」と呼ばれるようになった。
※盲人たちに与えられた江戸時代の最高の地位が「検校」である。盲目の人たちは記憶や計算が確実で、根気強く正確に仕事をこなし、高く評価されていた。そのため幕府から特別な庇護を受け、学者や、医師、僧などの専門職につくに留まらず、生活のため特別に「高利貸し」をすることが認められていた。『群書類従』で有名な盲目の学者「塙保己一(はなわほきいち)」も検校であり「塙検校」とよばれている。ちなみに銀一や、保己一の名前につく「一」は、「市」とも書かれ当時の盲目の人たちに付けられた特有の名だ。(大映の人気映画シリースにあった「座頭市」もそれである。)
『大日本地名大辞書』より「米山検校」から引用。
近世長鳥(ながとり)村の民、(山上)徳左衛門の子盲人なりければ江戸に出でて芸術(医術の過ちか)を習い、遂に一家を起して検校(けんぎょう)の僧官を賜り、米山検校と称す。其子平蔵、平蔵の子彦四郎は燕斎(えんさい)と号し筆札(書道のこと)を以て世に鳴る。幕府に仕え氏を男谷(おだに)と改む。燕斎の子精一郎は武技を以て称せられ、講武所頭取と為る。精一郎の姪(義理の従弟のことをいっているか)を勝麟太郎(勝海舟のこと)と称す。維新の際に盛名あり。
※括弧内は筆者が加えた。
山上銀一は、相当な財をなしたとされる。姓を米山に変え「米山検校」と称すると、水戸家の家臣や幕臣の旗本の株を買って武士の身分になったとされる。これは前述したように、水戸藩の政策でもあった。六男とされる「新次郎(鉄之丞)信連」には水戸藩から買った株で200石の武士の身分を得ている。このとき「男谷(おだに)」と名のらせた。天明元年(1781年)には、江戸詰め大吟味役に出世し、お役目の100石と合わせ300石となった。裕福だった銀一には十七人の妾がいたらしいが、本当はいったい何人の子がいたかも不明とされる。
水戸藩『水府系纂』巻七十八 男谷の項(『勝海舟』から引用、かっこ内は筆者がつけた)
男谷新次郎信連、初メ米山鉄之丞ト称ス。佐々木判官ノ末流ナリ。代々江州山上ニ住スルテ、初ㄨ山上ヲ氏トス。遠祖(山上)八郎某、父子共二武田家ニ仕ヘ勝頼滅亡ノ時戦死ス。ソレヨリ分離シ、父検校ニ至リテ米山ヲ称シ江戸ニ住ス。明和六年(1769年)己丑十一月十一日、十人扶持ヲ賜フ年辛卯十二月死ス。
信連コレヨリサキ明和六年己丑11月朔ニ百石ヲ賜テ小十人組ニ列シ、七年庚寅三月二十五日馬廻組ニ、安永元年壬辰三月九日寄合組トナリ、御紋付時服ラ賜フ。三年甲午十一月四日定江戸大吟味役格、元ノ如シ。六年丁酉六月二十八日多病ニ依テ願イ奉リ役ヲ免ゼラレ寄合組、病中御勝手方御用向申シ出ノ趣、高聞ニ達シ、百石ヲ増シ三百石トナル。天明元年(1781年)辛丑二月九日致仕シ、後鳩斎(きゅうさい)ト改ム。
※佐々木判官は、室町幕府の重臣、佐々木道誉をさす。
なお、一文字の名字は日本では珍しい。『日本書紀』雄略天皇十五年の条には秦氏の祖とも言われる秦酒公の記事に「秦の民を臣連に分散(わか)ち(中略)公、よりて百八十種の勝(すぐり)を領率いて、庸・調絹・縑を奉献し、朝廷に充積む。因りて姓を賜いて禹豆麻佐(うずまさ)と曰ふ」とある。各豪族の元、秦氏の一族が各地に派遣されている。『新撰姓氏録』にも同様の記載がある。ここで登場する「百八十種の勝」は地方で秦氏の民を率いて産業を興した一族のトップである。地域別に「呉勝」「不破勝」「辛嶋勝」といった。『播磨国風土記』にも大陸からきた漢人の一族が住み着き「勝」という名字を名乗った記録がある。
水戸藩士から幕臣への道
水戸藩は江戸常府で、参勤交代なしという特権があった。多くの家臣が江戸に常在したため、幕臣との交流が多かった。銀一も幕臣と交流があり、九男は水戸藩ではなく幕臣、つまり旗本となった。
講談社学術文庫版の『無酔独言』の解説では、銀一の蓄財について触れている。それによれば、「江戸に十七か所の地面(土地)を持ち、水戸家だけでも七十万両の大名貸し(有力商人などが窮乏状態だった大名家に金を貸すこと)をしていたという。その死に臨み諸家の貸し証文はことごとく火中に投じ、三十万両余の遺産を九人の子に遺した。末子の平蔵は三万両余りの金を貰って旗本の養子になったという。」平蔵は勘定方「男谷平蔵信俊(のぶとし)」となり家禄百俵を賜り、のちに「忠恕(ただひろ)」と名乗る。
※百俵は、ほぼ百石と同じと思ってよい。
松平定信が編纂を命じた『寛政重脩諸家譜』では、平蔵の子が編纂にかかわっている。しかし男谷家の初代は「平蔵」とするだけで祖先に触れていない。『勝海舟全集』の編者、勝部真道が調べた限り「男谷」という旗本は過去に存在しないとしている。そのため出身地に近い新潟県小千谷(おじや)からとって新たに付けた新しい名字としている。
筆者が推測するには「男谷(おとこや)」でなく「男谷(おだに)」と発音することから、関東・東北の名字ではない。「近江の小谷(おだに)」が由来だろう。近江小谷の地は浅井氏が領し、その娘は第二代将軍秀忠の正室となったお江(ごう)である。その孫は「松平光長」であり山上家の祖先を再雇用した恩人だったことは既に記した。それだけではない。山上家は、武田家の家臣となる以前は近江の守護大名の家臣で近江の上郷の「山上地区」が起源だった。山上家はもともと近江に深くて長い縁があったのだ。
山上家は一時期農家となりながらも、武士の誇りを忘れなかったと伝わる。その旧領であり、また山上家が長年の恩も抱えた近江への思いが強かったことは、おそらく間違いないだろう。しかし、徳川将軍家の血筋から追放された、近江浅井(あざい)家に連なる「小谷(おだに)」の文字を、名字に採用することは憚ったに違いない。そこで密かに「男谷(おだに)」としたのではと、筆者は想像する。
※なお講談社学術文庫の『夢酔独言』(勝海舟の父、勝小吉の自伝)の解説では「男谷の家祖は、伝によれば、越後国小谷(おだに)郷の出であるという。」と書かれている。
さて、「平蔵」も4人の男子がいたが、男谷家の本家を継いだのは、長男だった「男谷彦四郎燕斎(えんさい)忠孝」である。この「男谷燕斎」は書家としてあるいは名代官として、後世に名を残している。将軍家から表祐筆(おもてゆうひつ)を拝命し、幕府の公式文書を筆書する地位を得て、寛政四年(1792年)には『寛政重脩諸家譜』などの編纂も命じられ実際に執筆にあたった。文化11年(1814年)からは、代官となり「信州中之条」(現在の群馬県中之条)代官所にて幕府天領六万石を支配した。そのときの活躍は地元でも語り継がれ、名代官として後世に名を遺している。
※信州「中之条」に古来からあったと思われる壁谷については第25稿以降で触れる予定。いろいろなところで、山上(勝)家と壁谷家には繋がりが見え隠れするが、江戸末期から明治に渡っては、関係はさらに密接になっていく。
文政4年(1821年)に越後水原(新潟県阿賀野市水原町)代官に移り文政6年(1823年)からは江戸城二の丸御留守居役、天保8年(1837年)には小十人頭にまで出世している。このお役目は、将軍の周辺の警備をする歩兵隊の頭目であり、江戸初期は千石以上の大身といわれる旗本しか着くことができなかった。しかし吉宗が設けていた「足高の制」によって、石高が足らなくとも能力があれあれば着くことができるようになっていた。その代わり、三河以来高録を食んでいた大身旗本(千石以上)からは盛んに嫉みを買い苦労することになる。平蔵の孫であった、後の勝海舟も何度も同じ目にあい、何度も要職や高給を辞退している。このことは後に「福沢諭吉」が「やせ我慢」と揶揄して勝を批判しているが、勝が相手にすることはなかった。
三河以来の旗本「勝」家の養子となる
一方で「平蔵」の三男だった小吉は、旗本の勝家の養子となった。これが勝海舟の実父「勝左衛門太郎惟寅」である。7歳のとき「勝」家の娘、信(のぶ)のもとに養子に入り、勝家を継ぐことになったのだ。三河以来の誇りをもつ勝家は、すでに両親共に他界し、祖母と信しか残っていなかった。このため小吉は、勝家を継ぐために、養子に入ったのだ。その後は祖母や信とともに男谷の家があった深川・本所で育ち「勝左衛門太郎惟寅」と名のり、直心影流(じきしんかげりゅう)の使い手としても鳴らした。
叔父の「男谷燕斎」も後継ぎが無く、養子には前出の水戸家の家臣「男谷鳩斎(きゅうさい)」の嫡男、新太郎が養子に入って、幕臣の男谷家の本家を継いだ。養子縁組により、新太郎は勝海舟と従弟(いとこ)の関係になったことになる。(本来は二従兄弟)この新太郎は8歳のころから直心影流の剣術を学び、後に幕府の武術指南所である築地の「講武館」の頭取を務めた「男谷下総守精一郎信友」である。のちに「劍聖」ともされ現代に伝わる剣道の創始者ともいわれる。
旗本であった勝家の祖先は、家伝によれば物部尾興(もののべのおこし)を祖とし、第34代の近江国坂田郡勝村(現在の滋賀県長浜市勝村)を領して「勝冠者太郎季時(すえとき)」と名のったのが由来とされる。勝家は以後今川氏の家臣として仕え、49代の勝甚市郎左近時明が、文明八年(1476年)、遠州塩見坂(現在の静岡県湖西市白須賀)の戦いで今川義忠(今川義元の祖父)と共に戦死した。
今川氏が滅びると天正13年に家康家臣となり、52代の「勝市郎佐衛門時直」は徳川四天王のひとり榊原小平康政の配下の「御鉄砲玉薬組」、後に服部半蔵の配下の「四谷大箪笥組」となった。当時の箪笥(たんす)は鉄砲を主とした武器を保存するものだった。徳川家と共に江戸に移住したのは天正18年であった。家禄はわずか41石に過ぎなかったが、徳川家の三河以来の旧臣として、その誇りを失わなかったとされる。
※勝家は渡来人の秦氏または東漢氏の一族とされる西文(かわちのふみ)氏の末裔ともいわれる。
泰平の時代となった「勝市郎右衛門命雅(のぶまさ)」のころは、江戸城内の「表火番」(「火の用心」の見回り役)や、「支配勘定」(文官でいわゆる勘定役、主に書類の管理と許認可)、「御広敷番頭」(場内を出入りするものの監視をする立場。その配下には伊賀者が多くいた)を歴任している。明治になって、勝海舟は元将軍慶喜に、祖先は伊賀忍者の家系だったとを語っているが、おそらくこれを指していたのだろう。
「勝命雅」には後継ぎが無かった。そのため旗本であった某青木家の三男が婿養子に入って勝家を継いだ。しかし再び後継ぎが生れないまま世を去った。残ったのは幼い娘「お信」(信子)だけとなった。そこに婿養子に入って勝家を継いだのが男谷平蔵の三男「小吉」であった。彼は後に「勝左衛門太郎惟寅(これとら)」と名のり、その長男が勝麟太郎(勝海舟)である。
※勝海舟も、長男「小鹿」を病で失うと、孫娘に婿(徳川慶喜の子)を迎えて勝家を継がせている。多くの前例を打ち断って新しい時代を切り開いた勝も、先祖代々の勝家を引きづく使命感から逃れることができなかった。
有史以来その出自が身分と直結し、氏族繁栄のためには、自らの出自を管理することは必須だった。祖先を騙り出世を目論む輩は平安初期にも続出し規制された記録がある。下剋上の戦国時代でさえも、その出自がとやかく言われていた。これが平安時代の『新撰姓氏録』から江戸時代の『寛政重脩諸家譜』に至るまで、家系の記録が残されていき、名字を継ぐ代々の本家(ほんけ)には、家系図や伝承が口伝され家宝が受け継がれていった理由であろう。
しかしそんな家系でも本家を継げるのはたった一人であった。兄弟は他家に養子に入るのが慣例であり、姉妹は後継ぎが絶えた際に婿を迎える備えだった。これは、兄弟がいても主君からは新たに家禄を得ることができない武家社会の慣例であり、一方で家系が断絶することは忠義に適わないことだった。結果的に幕臣として仕えた勝家は、江戸幕府260年の間、わずか一家だけしか残らなかったことになる。そのその一家も、代々が他家からの養子を迎えて必死で繋いできていたのだ。
なお、近江の地元にあった勝という村には、室町時代以前から続く勝家があった。代々農家としてその系譜を保っていたが、幕末から明治にかけての混乱期に、姓を「勝」から「且元」(あるいは「勝元」「勝本」など)に一斉に変えてしまったようだ。その事情は関係者が明かしている。幕末明治の混乱期に幕府・および明治の静岡藩で重臣となった「勝」の名字を持つことで、身の危険を感じた祖先たちが親戚一同集まって協議し、名字を変えたと伝わっているという。
名字の由来は古来から家伝によって伝わってきた。それは、その家系の伝統でもあり誇りでもあったはずだ。しかしこの伝統は、すでに失われつつあり、子孫に受け継がれずに今はただ、失われていっているようだ。
勝海舟の活躍をささえた親類・縁者たち
勝海舟が幕末にこれほど活躍できた理由は、彼の卓越した能力や度胸の賜物であったことは誰もが認めるところだ。数々の暗殺者や海難事故を切り抜けて生き延びた生粋の運の良さもあった。しかし何より素晴らしい一族・親戚や支援者に恵まれたことも、まぎれもない事実である。そんな人々を紹介しよう。
まず、一人目は「お茶の局(おちゃのつぼね)」であろう。実は勝は幼児のころ,大御所だった元11代将軍「徳川家斉」のお声がかりで大奥に上がっていた。このきっかけを創ったのは「男谷燕斎」の女婿の叔母で、たまたま江戸城本丸の「呉服の間」に詰めていたお茶の局だった。勝の実父だった小吉は、天保の改革のあおりを受け、不良旗本とされると謹慎処分を受けていた。お茶の局はこのままでは勝家の将来は危ういと考え、周到な計画を練った。小吉の息子、麟太郎に大層な着付けをさせた上に、大奥の庭で遊ばせていたのだ。
たまたま、11代将軍だった大御所「徳川家斉」が大奥に来た時、庭ではしゃいでいた勝を見かけ「初之丞の相手にちょうどよい、お茶の部屋にあげておけ」という話になった。初之丞とは、第13代将軍徳川家定の実の弟で、勝より2歳年下、後に一橋家第六代当主となる徳川慶昌(よしまさ)である。
※勝が「徳川慶昌」に仕えていた時期、一橋家の江戸屋敷内ので勘定役(おそらく勘定奉行、もしくは勘定組頭)を務めていたのは「壁谷直三郎」(少なくとも天保4年から天保14年に一ツ橋勘定)であった。若い勝麟太郎に、壁谷直三郎が関わった可能性はあろう。その後明治になって「壁谷可六」「壁谷兆佐」らが勝に世話になったことと、関係があるのかもしれない。
天保8年、元服した徳川慶昌に正式に召し抱えられ、勝家の家督を正式に継いだが、翌天保9年(1838年)慶昌が突然病死、勝は城から降りることになった。しかし勝の性格や、父小吉譲りともされる大胆な行動は、大奥の女中のなかでも評判になっていたようで、勝が江戸城を去ったあとも「あの燐さんが」と大奥の女中仲間で何度も話題になった記録が残っている。初之丞の生母で、13代将軍家定の生母でもある「本寿院 (お光の方/お美津の方)」に特にかわいがられたとされる。さらに、13代将軍家定、14代家茂の将軍付御年寄将軍付御年寄として当時大奥で権力をふるっていたとされるのは瀧山だった。後述するが15代将軍慶喜も、瀧山の権力を恐れて江戸城に入らなかったとされている。瀧山は南紀派として慶喜とは対立していたが、そんな瀧山も実は勝海舟の実母だった信のいとこであった。
※家定の兄弟(第十二代将軍家慶の子)は慶昌を始め21人もいたが次々と夭折し、成年に達したのは家定ひとりだけだった。家定は知的障害があったともされるが、身の危険を考えてそのように装った可能性もあろう。家定が迎えた二人の妻も他界し子は産まれず、三度目の妻が島津斉彬の養女、のちの天璋院篤姫(てんしょういん-あつひめ)だった。井伊直弼が大老に就任したのが安政5年(1858年)4月の末、くしくも一橋派が紀伊派に敗れ次期将軍が徳川家茂に決まったのが6月の末、そして7月6日には家定が35歳で他界、7月8日には島津斉彬も急病となりそのまま世を去っている。天璋院の輿入れ後わずか一年半の出来事だった。背景に何かがあった可能性は否定できないかもしれない。
勝は13代将軍家定の正室「天璋院(てんしょういん)」の受けも大変良かった。わずか13歳で第14代将軍となった「徳川家茂(いえもち)」が、勝を全面的に信頼して、一気に抜擢したことで、勝の活躍の場が広がっていった。大奥の実力者だった天璋院らのバックアップが大きかったのではないだろうか。勝と天璋院は、明治になっても親しい交流があった。勝海舟の『氷川情話』や『海舟座談』には徳川宗家の面倒をみるために赤坂福吉町の旧吉良邸にいた天璋院を連れ出し、東京市中を案内して回っていたことが記されている。このとき勝も赤坂氷川神社の近くに住んでいた。
『新訂海舟座談』岩波文庫から引用
天璋院のお供で、所々へ行ったよ。八百善(江戸懐石料理の料亭)にもニ、三度。向島の柳屋へも二度かね。吉原にも行って、みんな下情を見せたよ。だから、これで所々に芸者屋だの色々の家を持っていたよ。腹心の家がないと困らあナ。私の姉と言って、連れて歩いたのだが、女だから立小便もできないから、所々に知って知らぬふりをしてくれる家がないと困るからノ(以後略)
※カッコは筆者がつけた。
実は大奥の力は侮れなかった。将軍家の跡とりも、大奥の同意がないと決まらない状況が代々続いており、将軍の生母や正室は、老中をも超える強い力をもっていたとされる。『昔夢会筆記』では第15代将軍徳川慶喜が明治になって書いた回想録で、いかに大奥に手こずっていたかを語っている。
『昔夢会筆記』徳川慶喜 から引用
当時の幕府はすでに衰亡の兆しを露わせるのみならず、大奥の情態を見るに老女は実に恐るべきものにて、実際老中以上の権力がありほとんど改革の手を著(しる)くべからず。
※括弧内は筆者による。「著(しる)く」とは明らかに見える様子をさす。現在の研究では、大奥は実際には老中らに陰で牛耳られていたともされており、本質的には老中の抵抗が根強かったのだろう。
二人目は、不良旗本とされていた父の小吉であろう。実は父小吉を始め、男谷家は剣の名手そろいであった。このため、勝も若いころに「島田寅之助」の道場で鍛え、免許皆伝を得ることができている。勝となった「男谷下総守精一郎信友(男谷静斎)」も剣豪として名を成し、幕末には幕府の武術指南所である築地「講武館」の頭取を務めた。
※「島田寅之助」「男谷信友」は後世に「幕末の三剣士」と呼ばれたうちの二人である。
勝は剣の修行と同時に「禅」も叩き込まれたとしている。これで心身ともに相当の鍛練ができたことだろうし、後年の勝の大活躍をささえたのだろう。後年勝は『氷川情話』で次のように語っている。
本当に修行したのは、剣術ばかりだ。(中略)剣術の奥義を極めるには、まづ禅学を極めよと言われたわれた。(中略)こうしてほとんど四ケ年間、まじめに修行した。この坐禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。
勝は数々の難局を乗り越えた。何度も暗殺されかかり、体中に無数の傷を残しながらも刀を抜かない「度胸」も身に着けていった。それなりの覚悟と鍛錬もあったのだろう。さすがの勝も一度危いときがあったと『氷川情話』で語っている。勝に迫った刺客が目前で突如「まっぷたつ」となった時だ。それは勝の護衛についていた岡田以蔵の「居合」の一太刀だった。以蔵は坂本龍馬の意を受けその時たまたま勝の護衛についていたのだ。彼は後に要人暗殺で名を馳せて「人切り以蔵」と恐れられる人物となる。
三人目は勝の妹「お順」(順子)である。彼女なくして勝の活躍はあり得なかっただろう。一般には嘉永6年(1853年)、幕府に「海防意見書」を提出したことが勝の活躍のキッカケとされる。果たしてそのような意見者を、なぜ貧乏旗本の勝に書くことができたのだろうか。その意見書の内容は、蘭学の知識を駆使して海外の情勢を分析したうえで、日本でどのような海防体制で備えるべきかを建設的に唱えていた。当時の幕臣には、そのような意見書をかける人材は誰一人としていなかった。
実は勝の妹は、江戸で名の知れた儒学者・蘭学者だった「佐久間象山(さくましょうざん)」の妻であった。しかもお順と佐久間象山の結婚は、勝が「海防意見書」を上申した前年、嘉永5年である。佐久間象山は元信濃松代藩士で、藩主だった真田幸貫(ゆきつら)が老中になると天保13年(1842年)幕府の海防掛の顧問に抜擢され「海防八策」を上申していたのだ。勝の「海防意見書」が佐久間象山の影響を受けなかったと考えるのは難しかろう。
※『氷川情話』「解説」では安政元年(1854年)ごろ「都甲(つごう)斧太郎」という西洋式の治療をとりいれた馬医の影響を受け、蘭学に興味を持ったと書かれている。その前年に幕府に海防意見書を提出して採用されるほど、蘭学の知識があったことは不自然だ。佐久間象山は天保4年には江戸に出て朱子学で名を博していた。佐久間象山も勝も、実はもっと早くから隠れて蘭学を学んでいたことが推測できる。蘭学を学ぶことはご法度だったからだ。勝が最初に蘭学に触れたのは嘉永元年(1848年)ごろ、26-27歳のころではないかと推定している。
※真田幸貫は、もと老中松平定信の長男。庶子だったため次男とされ、松城藩主真田氏の養子となった。江戸末期の混迷の時期に立ち向かった名君の一人として評価が高い。
実は幕府は西洋の情報が広まることを恐れ、蘭学はほとんど広まっていなかった。天保4年(1833年)に薩摩藩が完成させ幕府に寄贈した「ヅーフ・ハルマ」という初の蘭和辞典は、掲載語数は9万語、3000ページに及ぶ全58巻の大書でもあった。これを見た佐久間象山は感嘆し、ぜひ出版したいと幕府に申し出た。しかし蘭学が広まることを畏れた幕府の方針で、その願いはかなわなかった。幕府の奥医師に一部、江戸天文台に一部、長崎オランダ通詞用に一部と幕府の直接管理下以外には、都合全部で三部以外しか所有を認めなかった。
勝はそれほど貴重だったこの辞書を手にし、筆書きで二部も書写し一部は売って生活の足しにすることができた。これも妹のおかげであろう。あまりに熱心に蘭学の勉強に取り組む姿を見かけて支援者も現れた。廻船問屋を営む豪商「渋田利右衛門」は勝に蘭学書の購入費用として600両を手渡し、さらに自分が死んだあとの支援者まで紹介している。そのため勝は新たに大量の蘭学書を手に入れ、蘭学塾を主宰できるほど、蘭学の知識も豊富になった。
勝の意見書が幕府に採用されると、「利右衛門」はまるで自分のことのように喜んだが、その直後に本当に亡くなってしまった。その後は勝はその紹介者の支援に頼ることになり、『氷川情話』では利右衛門のことは生涯忘れないとも語っている。この「ヅーフ・ハルマ」の刊行が幕府に認められたのは、勝が幕府に意見書を出した翌年の嘉永7年(1854年)だった。勝の意見書が幕府に与えた衝撃はそれほど大きかったともいえよう。
勝海舟の家系は、僅か42石取りの貧乏旗本であり、実父が天保の改革の際に謹慎させられたりして辛酸をなめたが、最終的にはこのように親戚の援助や、環境に恵まれたともいえよう。一方でわずか42石取りが、幕末の重臣に取り立てられて将軍や大奥に重んじられたことに対する嫉みは並大抵のことでなかった。
幕末に勝と何度も対峙した幕臣「小栗上野介(おくりこうずけのすけ)」は、三河以来の禄高2500石の大身旗本であり、わずか家禄42石の家格だった勝家とは、あまりに大きな家格の違いがあった。勝は祖先の伝承にはこだわったが、家格や地位は(意味がないとして)こだわりはなかった。これらは、幕府や明治政府でも散々役職を断ったり辞任したりした理由でもあろう。そのことは明治に入って、福沢諭吉にやせ我慢と揶揄されている。
※小栗は上野「守」でなく上野「介」であり、介は通常次官を意味する。しかし上野(こうずけ)は親王任国(親王が治める国)とされておりそれは名目上のもので、事実上の長官は上野介であった。
明治初期の「代人料」と壁谷
明治になって廃藩置県で藩が解体すると、旧藩の持つ組織的な兵力が期待できなくなった。初代陸軍卿の山縣有朋(やまがたありとも)らは幕府陸軍を再構成し、新たな軍備の増強を急いだ。一方で明治6年には、海外に倣って徴兵令が敷かれた。
国民の年甫(はじ)めれ二〇歳に至る者を徴し、以て海陸両軍に充たるしむ
※ひらがなの部分は、原文はカタカナで書かれている。
明治9年には廃刀令が出され、武士は刀も取り上げられていた。20歳になったら士族でなくとも兵役に就くことになる。これは特権を奪われた士族に大いなる反発を招いた。一方で明治という新しい時代を迎え、兵役を逃れようとする庶民も多かったとされる。当時は、政府官吏および医術・洋行などの学習者、及び戸主、嫡子(嫡孫・養子)は兵役が免除された。徴兵の対象は次男以下の男子で、これらの職についていない場合だった。
明治9年「代人料」という費用270円を一括前納することで、徴兵を免れることができる珍しい制度が始まった。しかし当初はこの制度は、ほとんど活用されなかったとされる。『徴兵忌避の研究』によれば、初年度の明治9年、この手続きがなされた例は全国でもわずか14例と極めて少なかった。その極めて稀なひと握りの例の中に、栃木の壁谷がなんと2例も含まれていた。「壁谷榮四郎」と、「壁谷常次郎」である。
『陸軍省大日記』 諸県府の部 明治9年12月 から引用 その1
之趣致承知候尚当省武官名簿取調候処奉職中者
正通ニ相達無之候間誤書ニハ無之候
此段及御回答候也(明治九年)十二月六日 陸軍大佐 小澤武雄
内務大少丞御中
杤木県第一大区三小区柏会川村
壁谷榮四郎
右者本年徴兵合接之処代人料ヲ
『陸軍省大日記』 諸県府の部 明治9年12月 から引用 その2
徴兵代人料上納之儀付申上
當縣内 下野國都賀郡柏倉村農
壁谷常次郎右之者本年徴負有之候処事故有之代人料上納免疫相成相成候付
別紙上納書之通取立進達仕候也
明治九年十二月廿五日
杤木縣令 鍋島 幹
陸軍卿 山縣有朋殿
※筆者による判読による。都賀郡は栃木市周辺一帯をさす、古代からの地名である。
登場する壁谷榮四郎、壁谷常次郎は、その名前(次郎、四朗)からも長男ではない。そのため代人料を収めて徴兵義務を逃れたのだろう。壁谷榮四郎は不明だが、壁谷常次郎は「農」とされている。この地の壁谷は武士の家系を引き、長引く戦乱の元で室町から江戸時代に帰農したものと筆者は推測するが、もちろんはっきりしない。明治3年ごろ明治政府は武士に帰農を勧めており、応じた場合は一時金を支給した。明治5年に開始された士族とへのわずかな俸給も僅かで、戦費がかさんだ明治政府の台所は苦しく明治9年に廃止されている。(秩禄処分:ちつろくしょぶん)。この明治9年までに政府から一時金をもらって帰農したものは相当いたはずだ。
個人で代人料の270円を一括で前払いできた壁谷が栃木に2人いた事実からは、当地で相当の財を成していた可能性がある。こうした財を活用して、山上銀一(勝海舟の曾祖父)と同じように、江戸時代に武士の株を買って水戸藩士や、幕臣となった栃木の壁谷がいた可能性や、江戸時代に武士だった壁谷が明治初期に帰農して政府から得た一時金を使って、代人料を一括で払ったななどの可能性もあるのかもしれない。
270円の価値
代人料270円の規定は、兵隊一人を賄う3年分の費用の前払いとされていたが、代人料を収めた例がここまで少なかった理由はわからない。西南戦争前後には急激な物価変動があり、難しい政治情勢の下で、自らの生活費に加えて「代人料」を一括で現金前払いし、さらには面倒な公的手続きを行えた壁谷は、地域で相当の立場や経済力があったのかもしれない。表は20歳になった年に徴兵義務が免除された人数である
全国の徴兵免除者数(『徴兵忌避の研究』による)
忌避事由 戸主 嫡子養子 代人料支払
明治09年 66,592 155,465 14
明治10年 72,024 161,012 13明治11年 88,481 188,264 23
明治12年 88,722 186,879 28
明治13年 86,980 59,664 436
明治14年 76,342 75,555 431
明治15年 76342 69,931 482
※明治16年以降は代人料の制度は廃止
当時は長男は家を継ぐため兵役を免除されていた。この表では20歳になる「戸主」で徴兵を免除された数は毎年大きく変化していない。一方で明治9年から12年までの4年間「嫡子養子」が、その後の3年間の平均の3倍ほどだ。これは明らかにおかしい。実は兵役逃れに逃亡するものが多発し、厳罰とされることが刑法に定められていた。そのため俄か養子(これで長男となる)として「戸主」となることで、代人料を支払わず、兵役逃れをしていたのだ。
しかし、明治13年以降に嫡子・養子の件数が減り、逆に代人料の支払いが増えだす。それは急激なインフレ下でも代人料は270円のままで固定されていたことも理由の一つだろう。明治15年には代人料支払いの数は数十倍に達し、翌年には制度自体が廃止されてしまった。
当時の社会情勢
栃木市周辺は、物騒な場所でもあった。明治初期には栃木市の目前にある大平山に水戸の天狗党の残党が籠っており、幕末の混乱がいつまでも尾を引いていた。一方で明治6年の政変で西郷隆盛らが下野してから、明治7年の「佐賀の乱」、板垣退助らも「民撰議院設立建白書」を提出していた。明治8年6月には「新聞紙条例」「讒謗律(さんぼうりつ)」が勅令(太政官令)で発布され、民権活動家に対する規制が強化されていた。
※自由民権運動も活発な地域で、後に民権運動を警察権力で縛った三島通庸栃木県令の暗殺未遂(「加波山事件」)も発生する。
特に明治9年は物騒な年だった。3月に「廃刀令」が出さるれると、武士の魂「刀」を奪われた一方「警察」権力のみが刀を持つことが許された。士族の不満は頂点に達した。同年10月には「神風連の乱」が起き、同時に全国で「地租改正反対一揆」も多発した。士族の反乱と地租改正一揆の糾合を恐れた政府は、翌明治10年1月には地租を3%から2.5%に引き下げざるを得なくなり、翌月には鹿児島で「西南戦争」も勃発、これに乗じた挙兵未遂計画も高知で発覚し「立志社の獄」となった。
次々に起きる事件や世情不安を一掃するため、政府は全国から士族を集めて警察や陸軍を増強し、士族以外からの徴兵も強化していた。こうした明治9年前後の物価の変動には凄まじいものがあった。その理由は、相次ぐ士族反乱などの軍資金調達で公債を多発、さらには武士の「秩力処分」にも全国の士族に大量の一時金を、公債として一気に発行していたからだ。
さらに翌明治10年に発生する西南戦争に大量の軍資金調達を行って多くの公債を発行した。それらは不換紙幣となり、物価はさらに急騰していた。『ベルツの日記』の明治12年1月1日の記事には「二年前には金貨と等価値であった紙幣も、いまでは34%の相場だ。輸入は輸出をはるかに超えるため金は悉く流出する。」とある。当時の日本経済の混乱状態が伝わってくるだろう。適切とは思えないが、この金の価格だけから単純計算すれば、明治10から明治12年に至る物価上昇率は200%ほど、たった2年のインフレで金銭価値は3分の一になったことになる。
「明治14年の政変」で大隈重信(おおくましげのぶ)の政権はこうして崩壊、新たに大蔵卿についた松方正義は金融引き締めを開始して徐々に「松方デフレ」が発生し、明治19年ごろまで続いた。明治19年「日本銀行券」の発行)これは明治政府による借金踏み倒しとも受け取られたかもしれない。「代人料」270円の支払いが明治9年に全国で14例しかなかったとされた事情は、その額の高さにあったかもしれない。明治10年の西南戦争で一段落すると、政府もそれほどやっきになって徴兵を進めなくともよくなってくる。明治12年に代人料が400円に値上げされたが、物価の急騰で、その程度の値上げでは代人料の支払いが急増するだけだった。明治16年には、この制度自体が廃止されてしまった。
もしかしたら同時期である明治9年11月、法隆寺の例も参考になるかもしれない。法隆寺が千数百年に渡って、寺宝として伝え守って来た「聖徳太子の七種の御物」(聖徳太子の所有物だったとされる)を明治天皇に献上し、政府から一万円を得ていた。実は明治政府は、廃仏毀釈の野蛮な風習や行為が、欧米から痛烈な批判を浴びていた。明治新政府は法隆寺の宝に高い価値をつけ、先進国に生まれ変わった姿を誇示する必要があったのだ。
しかし実際に法隆寺が得たのはわずかに2000円に過ぎなかった。残りの8千円は明治政府の公債だったからだ。しかも翌年の西南戦争の戦費調達のため、政府は公債を乱発し、大幅に価値は下がった。同じ明治9年、法隆寺が古来から守ってきた寺宝を手放して得た一時金2000円と、栃木の壁谷が一括で前払いした270円。その価値を測るとき、少しは参考になるかもしれない。
※『明治十年度歳入出予算表』(早稲田大学図書館蔵 大隈文書)によれば、明治9年に作成された翌年の国家予算は、166万7439円となっている。
「安蘇馬車鉄道」と壁谷
栃木県葛生(くずう)出身の内田熊五郎は足利の呉服問屋で丁稚奉公から叩き上げ、14歳の時に半年後の価格急騰を見越して絹織物を大量に仕入れ、莫大な利益を上げたとされる。その後葛生に戻り、戊辰戦争の勃発を見越して京で大量に晒木綿(さらし)を買い付け官軍らに高値で売りつけて再び莫大な利益を上げていた。内田は葛生の産業発達に寄与すべく、「越名河岸-佐野-葛生」をつなぐ「安蘇馬車鉄道」を設立、明治21年9月に起工すると翌明治22年9月1日にはます「葛生 - 佐野」間で運転を開始している。
その背景にあるのは、明治21年5月22日、現在のJR両毛線となる「両毛鉄道」が「小山-栃木-佐野-足利」間で開通したことだ。江戸初期の明暦年間の秋山川を改修で、越名河岸(現在の栃木県佐野市越名)から渡良瀬川を経由して江戸まで運ぶ輸送ルートが確立しており、江戸の石灰や木材の需要を支え、200隻もの高瀬船で賑わったとされる。そのころから唄われていたという越名舟唄(こいなふなうた)が今も残っている。明治10年からは東京との間を蒸気船が開通していたが、新しくできた両毛鉄道をつなぐ陸路は「道路の粗悪なるが為に非常の運賃を要し其産出を妨害」という状態であり、これを改善するため、内田が馬車鉄道を計画したのだった。
※石灰と壁谷との深い関係は、奈良の壁谷などの稿で触れる。
「栃木県立古文書館」の保存文書から引用
資料名 雑立木買受証書
内 容 下都賀郡柏倉村字道木雑木山一ケ所此立木買受代金九十円也、
渡した内金引残テ金四十五円也、立木買受ノ約定年月日 明治21年11月11日
作成者 下都賀郡柏倉村立木買請人 大阿久幸蔵、壁谷徳三郎外2名
宛 名 同郡葛生町 内田熊五郎殿
形 態 竪紙
※買受(買請)証書とは、確かに注文を受付たという証書と思われる。
明治21年11月は、内田が安蘇馬車鉄道を建設中のころだ。当然土地の買収や駅舎など設備の建築材料が必要になってくる。おそらく、購入されることになった立木はこれに関わるものなのだろう。一定の量の木材が、大阿久幸蔵、壁谷徳三郎(他2名)の山から切り出され、購入されたことが容易に推測できよう。大阿久、壁谷の一族が、このあたりの山林を広範囲に所有していた大地主だったと思われる。
一方で、壁谷の地の背後の山を越えわずか数キロ西にいくと、そこは石灰の一大産地、葛生(くずう)だった。この地の石灰は、江戸城や日光東照宮の造営などにも「御用灰」として利用されたとされる。壁谷と石灰の深い関係は、今後も随所で触れていきたい。なお葛生は佐野市と合併し、葛生町となっておいる。縄文時代とされる葛生原人も有名だ。
公務員や議員としても活躍していた壁谷
戦後本格化した市町村合併で昭和28年、壁谷が居住する皆川村は栃木市と合併することになった。翌年発行された「栃木市・大宮村・皆川村・吹上村・寺尾村 合併記念号」と題した『栃木市政だより』には次のように記載されている。栃木の壁谷は地方における一定の有力者として、広範囲に活躍していたようだ。
『栃木市政だより』昭和29年10月26日 より引用 その1
公平委員会
(皆川)
中島利市郎壁谷精次郎
牛久保庄次郎
※公平委員会は、一定の規模の自治体に設けられる行政組織。公務員の処分に対する不服申立てを審査する。市長が議会の同意を得て委員を選任する。
『栃木市政だより』昭和29年10月26日 より引用 その2
(栃木市に)新たに四村が加わりその市政の円滑な運営を図るため、合併議員であった旧村議会議員の方に市政審議委員となっていただき、また議会に出席して旧村の區域ごとに七人以内の方が発言できるようになっております。(中略)
「皆川村」
関口与一郎 前議会議長小池龍太郎 〃副議長
(16人略)
壁谷慶喜
なお先の記事で公公平委員とされた「壁谷淸次郎」は、下野新聞株式会社が昭和6年に刊行した『野州名鑑』にも見つけることができる。淸次郎は大阿久家から迎えた養子だった。おそらくは壁谷家の断絶を防ぐ目的だったのだろう。大阿久家と壁谷家の深い関係は、ここからも読み取ることができる。
下野新聞株式会社『野州名鑑』(昭和6年)より引用
大阿久淸太郞 皆川村會議員
父 多吉 弘化二(年)五(月)生
(中略)君は大阿久多吉の長男にして文久三年(1863年)一月を以て下都賀郡皆川村大字柏倉に生まる。家督相續依來農業に精勵(励)熱心其の改良に努む資性溫厚篤實愛鄕の念に富み常に鄕土開發の爲めに奔走し忠實なる公人としてしらる現に村會議員の公職を帯び穏健着實の意見を持じて居村の繁栄を計り居れり。(中略)二男淸次郎(明二二、一二月生)は同村壁谷淺吉の養子となる(現住所下都賀郡皆川村)
※カッコ内は筆者が追記した。
壁谷の古地名
『続日本紀』によれば奈良時代の和同6年(713年)の五月二日の条に「畿内七道諸国郡郷着好字。」とあり、全国の地名をいわゆる「好字」とされる二文字に改めさせた。しかしこの際も、地名の発音はほぼ変わらなかった。漢字二文字に変えられだけというのが実情で、多くは当時もっとも先進的とされた唐風の漢字があてられた。これが現在の日本の地名に2文字が多い理由であり、多くが地名が由来の日本人の姓に2文字が多いのも同じ理由である。
それ以来の地名や名字(明治以降は苗字とされる。)は今でも使用されている例が多い。多数の人が住み次々と世代が移り変わる中で、発音を変えると何かと不都合であり、反発さえ予想される。あまり文書が使われていなかった古代は、発音が同じであればその音を表現する文字が変わっても問題はなかった。そのことは何度か紹介している多くの実例から読み取れるだろう。
平安時代中期に成立した『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に記載されている地名は、現在の地名にかなり近い。表記する漢字は代わっても、発音は同じだったり、非常に似ている例が多数見られ、現在でもそのまま使われている地名もある。すくなくとも地名の「発音」は千年年以上の間引き継がれてきたことになる。「郡」以下の小さい地域名では「字」のつく地名が用いられており、平安時代の荘園の管理文書には登場している。この「字」の地名も多くはそのまま江戸時代まで用いられたともされている。
古代に使われた「下毛野(しもつけぬ)」の地名も3文字だったために、「下野(しもつけ)」の2文字に代わり、そのまま明治初期の廃藩置県まで使われていた。その次に、一斉に地名の大変更が行われたのは、明治4年の「廃藩置県」と、明治6年の「地租改正」の時だろう。地租改正は、政府が土地の所有者と「地代」)を決め、それに一定の税率(3%)をかけて税金を納めさせるという大改革だった。この結果、全国的的に地名も整理統合されてしまい、土地の所有権や境界を巡って反対運動が起きて一揆にまで発展、すべて完了するまでに7年もかかかった大事業だった。この混乱の中で整理された古い地名は、公式な資料から相当な数が消え去ったようだ。
しかし古地名は現地では相変わらず使用され続けたとされる。明治17年に内務省地理局が再集計したが、その資料も関東大震災で大部分が消失した。明治22年の市町村の大合併では、さらに複数の村が合併し、古い村名も消えたが、その際に消えた村名は「大字」などとして残した。こうして世代が代わって句間に古地名は不明となったものも多い。現在残存している「字(あざ)」の地名は江戸時代以前からあった古地名であることは間違いない。一方で「大字(おおあざ)」「中字(ちゅうあざ)」は確かに古地名ではあるが、一部は明治初期になんらかの意図で作られた新しい村名も含む可能性があることになる。
古地名で残っているものは「国土交通省の地籍調査」である程度確認できる。そこには「栃木県栃木市柏倉町字壁谷」があった。この地名は早ければ平安時代初期、遅くとも江戸時代までには存在していた古地名であったことになる。(地籍調査資料は一般公開はされていない。)近くのバス停の名称も「壁谷」の名を冠した企業名が使われており、近くを流れる鬼怒川の支流一帯に「壁谷入沢」の名が残り地元では「壁谷沢」とも呼ばれる。また発見された遺跡には「壁谷遺跡」と名付けられており、そこでは縄文時代の住居跡や土器などが発見されているようだ。
現在この遺跡に関しては、正確な情報を現在持ち合わせていない。おそらくたまたま「壁谷」の地名の近くで発見された遺跡で名付けられたと思われ、縄文時代と壁谷の直接の関係はないのだろう。ただ、古来から人が住んでいた伝統的な居住地がこの周辺にあったことは事実である。そうであれば、奈良時代この地に壁谷の地名が付けられた可能性は十分に高い。この地に土着していた有力な一族が、鎌倉から室町時代にかけて、土豪、国人衆となりその地名を自らの氏とし、後の鎌倉、室町時代に長沼・皆川氏などの配下になった可能性もある。
この種の例は、枚挙にいとまがない。たとえば、足利氏に関して言えば、前出の藤原秀郷の子孫が、足利荘を支配したことで、足利氏を名乗っている。しかしこの足利氏は、鎌倉初期に滅びる。代わってこの地を支配したのは、八幡太郎義家の孫、源義康であり、足利荘を領してたことで足利氏を名乗り、その末裔は三河を拠点に移し、足利尊氏を生んでいる。
一方で壁谷においては若干事情が違う。それは関東東北を中心に、全国各地に壁谷とする地名が散在していることだ。壁谷がその地に居住して「壁谷」の地名がまず残ったと考えることもできそうだ。これが事実なら壁谷の名前は、壁谷の地名より、起原が古い可能性があることになる。もちろん、足利氏と同様に、その地で勢力を持った別な一族が引き続き壁谷と名のったとも考えられる。この地に最初に来たのが壁谷の一族であって、そのため壁谷と名のついた可能性があるとしても、その後現在もこの地に居住し続けた壁谷が末裔であるかどうかは、必ずしも断定できない。(他の多くの例でみられるように、血縁関係をもって領有権を引き継いだだろう)
朝廷側が、一定の氏族を特定の地域に移住させ、その地の開拓にあたらせた例はかなり記録に残っている。特に大掛かりな移住の例は『新撰姓氏録』や『日本書紀』『続日本紀』『日本後期』などに記載があり、数千人以上がまとまって移住させられた記録も多数ある。その地は新たな開拓地であったため、当然律令の管理する「郡(こおり・ぐん)」の名前、すなわち地名が無かった。あるいは、新たに支配者となった天皇権力でその地を大規模に開拓するため、その氏族の属性にあわせて地名を下賜している。もともと優秀とされた渡来人たちが開拓を進めると、その地は新たに政治経済の中心地になっていった例が多い。
※645年の「乙巳の変(いっしのへん)」(以前は「大化の改新」と言われていた年)の前はは、「郡」ではなく「評(ひょう、こおり)」と呼ばれていたが、本稿では「郡(こおり・ぐん)」で統一する。
関東で生れた「谷」の地名
日本でもっとも広大な関東平野の窪や渓谷に移住し、荒野を開拓した。そのため関東では地名に「窪」「沢」「谷」などがつく例が結構多い。鎌倉時代から室町時代の中世和歌史に詳しい小川剛生が、その事情を名文で説明している。
『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』から引用(かっこ内は筆者がつけた)
東国の風土は畿内や西国とはかなり異なる。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の八ヶ国を擁する広大な平野は、いくつもの大河が奔流するに任された。河口近くともなれば荒涼とした湿地帯が続き、その光景は「蘆荻(ろてき:葦や荻などの湿地に生える草)のみ高ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで、高く生ひ茂りて(『更級日記』)」と描かれた。運ばれた土砂が長い年月に堆積してできた台地には見渡すかぎりの荒野が広がり、その印象は「武蔵野は月の入るべき峯もなし」と詠れた。(関東平野は広大な台地がひらたく広がり山が無いため月が沈み込む場所もないということか『続古今和歌集』)都びとの想像や感傷をよそに、吾妻びとは台地を刻む小さな渓谷に拠り、荒野を開墾していった。『常陸国風土記』の、鋤鍬を持った民の前に現れた「夜刀(やつ)の神」は谷に棲む蛇であり、各地に遺る「窪(くぼ)」「沢(さわ)」「分(わけ)」「谷(やつ)」の地名は、かれらが最初に住み着いた場所を示している。開墾された土地への帰属意識は極めて強く、東国には独立の気風が深く根をおろした。また広大な荒野は放牧に適し、人びとは馬を駆って縦横に移動した。
平安時代から鎌倉時代にかけて、関東では「谷」の地名が多く生まれている。鎌倉には現在も「谷」のつく名称が大変多く、鎌倉では「やつ」と発音されるとする。上杉氏で有名な「扇谷(おうぎやつ)」にほかに、も明石谷、池谷、泉谷、梅谷(梅ヶ谷)鶯谷(鶯ヶ谷)、鑪谷、亀井谷、越谷、笹目谷、藤谷、尾藤谷、瓜谷、杉谷など枚挙にいとまがない。鎌倉幕府の重臣で二階堂氏が居を構えた永福寺付近は「二階堂谷」とも呼ばれておおり、現在もこれらの地名の多くが残っている。この種の地名は、平安末期から鎌倉時代にかけて関東地区に多く発生している。
※関東には「壁ヶ谷」「壁田」という地名も残っている。これはもともと「壁」という名字があった可能性を示唆しており次項で触れたい。
太子霊鉱泉と聖徳太子神社
「壁谷城」があった地は、伝説の古代皇族の名を冠した神社を見守るように位置していた。その皇族とは、以前は一万円札などでおなじみだった「聖徳太子」である。聖徳太子は、推古天皇の「摂政」だったとされ、遣隋使を派遣したり、「冠位十二階」「十七条の憲法」を制定したとし、平安時代にはすでに伝説の皇族として多くの伝記が書き残されていた。
※当時摂政という地位はなかったとされる。
栃木にあるこの聖徳太子神社について、聖徳太子の末裔が鎌倉時代にこの地に移り住んだとされている情報があった。仏教を信じた聖徳太子が建てたといわれる寺は、法隆寺や四天王寺などが有名だ。しかし聖徳太子そのものを主祀神とする神社は実は大変珍しい。
聖徳太子神社「JCPA一般社団法人国際教養協会」のHPから引用
柏倉温泉の太子館の敷地内に鎮座し、社伝によれば、鎌倉時代、(現在の)館主二十八代の祖、大阿久家氏始大阿久主馬(しゅめ)源有経がこの地に移り住む際に、平安を願い入道ヶ入山腹に氏族の祖である聖徳太子大神を勧請祭したことに始まるとされる。また、永年、風雪により、社殿の破損が著しいことから、十代の祖大阿久(大安久)仁左衛門源兵衛が、(江戸時代の)亨保2年、大芝山中腹に太子堂を再建造立され、国家泰平、五穀豊穣、子孫繁栄を願ったという。また主祭神聖徳太子は、建築・土木の神様としての一面を持ち、近隣をはじめ近県の「太子信仰」「太子講」に崇敬されてきたという。
付近で湧き出る泉は「太子霊鉱泉」と名付けられ、柏倉温泉「太子館」が営業されており、大阿久家の当主が神主を兼ねているという。この「大阿久」の姓は中世の武家の時代に主に使われていた、ある種過激なまでの「強さ」と「畏れ」さらに「ずる賢さ」ともとれる「悪」が後世に「大悪」の借字として定着したものではないだろか。武家が台頭してきた平安時代の後半に、その剛勇さが天下に鳴り響いた八幡太郎義家の嫡男「悪対馬義親」、そして源平の争いでは父義朝と共に武勇で名を轟かせていた源頼朝の兄「悪源太義平」、そして勇猛な僧として知られた弟の「悪禅師全成」、さらに保元の乱の切っ掛けも作ったとされる左大臣藤原頼長も「悪左府」と呼ばれた。後に楠(木)正成らが「悪党」と呼ばれ、「黒衣の宰相」として名高い金地院崇伝も「悪国師」と呼ばれている。
倭王「武」とされる第21代「雄略天皇」も『日本書紀』では「大悪天皇」の異名が記され、上野・下野・武蔵では重要な位置付けをもつ天皇であり、聖徳太子の時代には継体天皇と並んで、皇祖とみなされていたはずだ。王権の確立のため武力を行使して勝利したことを「悪」と捉えれば、のちの武家の世で使われた「強い」「賢い」という意味に通じるところも同じだ。聖徳太子も、物部守屋を滅ぼした戦いに参加しており、聖徳太子の2人の弟も九州に兵を率いている。一方裏で蘇我氏と手を組み崇峻天皇暗殺の事件に関わったとされる面では、大悪とも見ることができる。この点は、別稿でれたい。
またこの伝承で大阿久氏の祖とされる「源有経」の名から、姓は「源」で名字が「大阿久」だったと推測される。「源」は皇族が臣籍降下するときに名乗る代表的な姓だ。(清和源氏もその一つに過ぎない。)「太子館」の入り口の門には「五七の桐」が掲げられているが、「五七の桐」も古くは天皇家の紋だ。
『与少室李拾遺書』(韓愈)などから、古代中国では地上に聖天子が現れると鳳凰が出現し、そのとまる木が桐とされた。このことから古代天皇家の家紋には「五七の桐」が使われるようになっていた。室町時代に入ると後醍醐天皇が足利尊氏に「五七の桐」の紋の使用を許したとされ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も天皇から使用を許されている。明治に入ると天皇の勅任官が身に着ける礼服に「五七の桐」紋が採用された。現在に至っても日本政府の公式会見の場などで、この紋が掲げられている。少なくとも戦前はそう簡単に掲げることはできなかった紋であろう。
※現在天皇家の家紋とされる「菊花」は、鎌倉時代に後鳥羽上皇が使いだし、後醍醐天皇以降に定着したといわれる。建武の新政の時、後醍醐天皇は、足利尊氏に「菊花」や「五七の桐」の紋の使用を許したのが最初とされる。以後、原則足利氏の一族のみに使用が許されていた。
また「主馬」は律令に基づく皇太子付けの役職であり、のちに「兵馬」となり律令の兵部省(つわもののつかさ-ひょうぶしょう)に発展する。聖徳太子は「厩戸(うまやど)皇子」の名も持つ。「厩」は古代中国では教育機関とされており、そこでは中国の経典や書物が教えられたという伝統がある。古代の「主馬」は、のちの大学頭(だいがくのかみ)に値する役なのかもしれない。
聖徳徳太子の一族は「上宮王家」と呼ばれ、山背大兄皇子が有名である。法隆寺に秘蔵されてきた『上宮聖徳法皇帝説』によれば、聖徳太子は「聖徳王」とも「上宮王」とも記される。『日本書紀』などによれば「蘇我入鹿」に攻められ、臣下が東国に逃げて再起しようと提案したが、山背大兄皇子は争いを避けたいとしてこれを断り、一族全員でそろって自害し、これで上宮王家は途絶えたことになっている。しかし、上の大阿久家に伝わる伝承によれば、その一族は実は舎人と化して(変装して)東国に逃れこの栃木の地に流れ着いたということになる。その可能性をもちろん否定することはできない。
ヤマト政権下で「聖徳太子」を支えたのは、「蘇我馬子」を始めとする蘇我氏の一族であり、その蘇我氏の繁栄を背後で全面的に支えていたのは、実は渡来人の雄「東漢(やまとのあや)」氏だった。そして、その東漢氏の祖は「都賀使主(つかのおみ)」であり、そのまま現在の栃木市の古代の名称「都賀郡(つかのこおり)」に繋がる。奈良時代以降に、その東漢氏の族長となったのは、後に蝦夷征伐で初代の征夷大将軍となった坂上田村麻呂の父、「坂上苅田麻呂(さかのうえかりたまろ)」で、それを指示したのも渡来人を生母に持った平安初期の「桓武天皇」だった。これらを追究していくと、古代に壁谷がこの地に居着いた可能性をさらに掘り下げることができそうだ。
※現在も栃木県には「下都賀郡」の地名が残る。そこにある「壬生町」は聖徳太子にゆかりのある地名である。
奈良時代から平安初期にかけての不安定な政権を、うまくコントロールして藤原氏の繁栄の基礎を作った「藤原不比等」そして藤原式家の「藤原百川」「藤原緒嗣」。彼ら稀代の策士のみごとなまでの活躍だった。次項ではこれらの古代の要人の動きや古文献を分析して、下野と坂上氏の動きに迫ることで、聖徳太子の一族(上宮王家)がこの地に逃れた可能性や、その時期を考察することを試みる。そこから、より当地の壁谷の起原に迫ることができるかもしれない。
※近年の教科書からは「聖徳太子」という表現は消えつつつあり、代わって「厩戸王(聖徳太子)」と書かれているという。(『大人が知らない最新の日本史の教科書』による。)その理由は「厩戸王」は確かに存在したとして、「聖徳太子」として語られる数々の実績は後年の作為的伝説によるものとする説が現在は主流を占めるからだ。当時は「皇子」や「皇太子」という表現は確かになく、聖徳太子という表現も『日本書紀』には登場しない。筆者の知る限り、初めて登場するのは天平勝宝3年(751年)に完成したとされる『懐風藻』の序にある「聖徳太子に逮(およ)んで、爵(冠位十二階のこと)を設け官を分ち、肇(はじ)めて礼義を制す。」であり、聖武天皇以降につかわれた言葉である可能性が高い。
高額のお札に聖徳太子が使われなくなって久しい。もちろん歴史上、皇族であった厩戸王は確かに居て、伝説となったほどの重要人物であったことは間違いはなく、聖徳太子が否定されたわけではない。畏敬と親しみも込めて「聖徳太子」という表現を今後も使用しその伝説も含めて考察したい。
※以前は「大和朝廷」とされたが、当時は「やまと」の発音に「大和」という文字は使われておらず、また共同体としての政権があったとしても「朝廷」といえる組織があったのか疑わしい。そのため最近の定説に従い本稿では「ヤマト政権」と記することにした。
今後整理すべき課題
1)後に徳川家によって秋田氏が三春藩(現在の福島県田村郡)主となったが、その当時の三春藩には複数の壁谷がいた、また仙台藩士にも壁谷が居たのは、おそらく「愛姫」に従った元三春藩士(田村家)の中に壁谷がいたからなのだろう。田村の旧領は秀吉の裁定で伊達政宗の所領に組み込まれていたからだ。三春藩と、仙台藩に壁谷が居たことは明治以降の動向から間違いないのだが、「五郎八姫」に付き添った壁谷がいたかどうかははっきりしない。
愛姫の死後に田村家の再興が適った一関藩(現在の岩手県一関市)は伊達家支藩の田村家となった。ここに藩士として新たに仕えた壁谷がいた可能性がある。一関藩主となった田村宗良(伊達政宗と愛姫の孫)は、徳川五代将軍綱吉に重用され、奏者番(そうじゃばん)という側近を務めた。以後も仙台藩の支藩でありながらも、幕臣に準じて重要な役目に何度か着いている。外様である田村家ではあるが、将軍家の関係は意外と深い。このことは、田村家旧臣が多くいた三春藩と幕臣の関係の深さにも関係があるかもしれない。
2)後に「岩城四十八館」といわる館(やかた:屋形)には「神谷(かべや)館」がある。「館」は砦や城を意味する。「神谷館」は南北朝の戦に乗じて全国各地に散在した可能性があり、「かべや」と発音することから栃木の「壁谷城」とは「神谷(かべや)館」だった可能性もある。壁谷城と思われる遺構は、他にもいくつかある。丹波(京都)山中のものは最近発掘長調査が行われ、室町時代に使われた城の遺構であることが確認されている。
平姓の名族千葉氏の神谷館は「妙見館」とも呼ばれた。妙見(北辰、北斗七星)は千葉氏の氏神であり、妙見館の館主は千葉氏の妙見信仰を支えた。(太田亮『姓氏家系大辞典』などの情報による。)妙見信仰は、平安時代の平将門(たいらのまさかど)らによって信仰され関東の武士団に広まっていた。頼朝の奥州合戦以降は平姓だけでなく源姓、藤姓などの武家を中心に広まり、室町時代に全国に戦乱が広がった際には、各地で妙見信仰が栄えたとおもわれる。
3)『常陸の國風土記』に登場する「夜刀(やと/やつ)の神」は「其の形蛇の身にして頭に角あり」とされ龍神でもある。葦の茂る渓谷を切り拓いて新田を造営し、夜刀神の祭祀行うようになった故事に基づくものと思われる。「壬生(みぶ)」は泉の水を意味し、転じて皇子の養育にあたった部の民(べのたみ)を「壬生部(みむべ)」と言った。その一族が全国に派遣され定住したと思われる「壬生」という地名も、全国各地に存在する。壬生については次項以降で論ずるが、用明天皇や聖徳太子と関係が深い。
4)二荒(にこう:日光)のもとになった荒神(あらかみ)は、火の神、竈(かまど)の神でありその古来の姿は現在も民間信仰に残っている。しかし荒神(こうじん)として修験道の三宝荒神信仰などが結びつき、神仏習合が進んでそのために祀神も変わっている。壁谷の一面として「火」「火山」、「竈(かまど)」そして「雷」において、特に関東・東北地方の山岳部における、荒神と壁谷の関係に注意が必要になる。
5)地名と名字の直接の関係は深い。勝家(勝海舟)の名の起こりとされる「近江国坂田郡勝村(現在の滋賀県長浜市勝村)」の「坂田」は渡来人の東漢氏の一族「坂田氏」に繋がるかもしれない。もしそうならば、勝氏も東漢氏との関係がでてくる。「勝(かつ)」を和名で「勝(まさ)」とよめば、ヤマト王権時代の「秦(はた)氏」の一族で使われた「村主」の名に秦勝(はたまさ)氏が古代の資料に見える。聖徳太子の側近で、現在の「大避(おおさけ)神社」の祭神でもある実力者「秦河勝(はたのかわかつ)」もこの一族と思われ、勝は秦氏でよく使われた文字だったようだ。
※新羅(しらぎ)の官職に「村主(すくる・すきり)」があり、地域の支配者を意味した。これは日本に入って、そのまま姓(かばね)と化した「村主(すぐり)」である。
参考文献
- 『日本書紀』『古事記』『続日本紀』『延喜式』『今昔物語』『常陸国風土記』
- 『新撰姓氏録』『尊卑分脈』『更級日記』日本文学電子図書館など
- 『鎌倉実記』洛下隱士 享保2年(1711年)
- 『吾妻鏡』鎌倉幕府 国文学研究資料館
- 『和名類聚抄』源順(931年 - 938年ごろ成立)国立国語研究所など
- 『寛政重脩諸家譜』江戸幕府 国会図書館
- 『大日本地名大辞書』吉田東伍 冨山房 明治40年 国会図書館
- 『栃木県の中世城郭跡』栃木県教育委員会1982
- 『懐風藻』江口孝夫 全訳注 講談社学術文庫 2000
- 『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』小川剛生 角川選書 2016
- 『勝海舟』上・下 勝部真長 PHP研究所1992
- 『氷川情話』勝海舟 江藤淳・松浦玲 編 講談社学術文庫 2000
- 『新訂海舟座談』勝海舟 巌本善治・編勝部真長編纂 岩波文庫 1983
- 『ベルツの日記』(1)ドク・ベルツ 菅沼竜太郎訳 岩波書店 1979
- 『無酔独言』勝小吉 勝部 真長 講談社学術文庫 2015
- 『安吾史譚』坂口安吾 河出文庫 1988
- 『水府系纂』水戸藩(上記『勝海舟』上 の記述から引用)
- 『昔夢会筆記』徳川慶喜 東洋文庫版 1967
- 『図説栃木県の歴史』責任編集 阿部昭・永村眞 河出書房新社1993
- 『図説群馬県の歴史』責任編集 西垣晴次 河出書房新社 1989
- 『図説茨木県の歴史』責任編集 所理喜夫・佐久間好雄他 河出書房新社 1985
- 『シリース藩物語 宇都宮藩・高徳藩』坂本俊夫 現代書籍 2011
- 『シリース藩物語 水戸藩』岡村青 現代書籍 2012
- 『データが語る日本の歴史』歴史教育者協議会 ほるぷ選書 1997
- 『企業勃興期における地方小鉄道の経営と輸送-安蘇馬車鉄道を事例として-』渡邉恵一 鹿児島大学 経営史学 第31巻 1966
- 『雑立木買受証書』栃木県立古文書館 1888
- 『徴兵忌避の研究』菊池邦作 立風書房1977
- 『陸軍省大日記』諸県府の部 明治9年12月 陸軍省 JACAR(アジア歴史資料センター
- 『明治十年度歳入出予算表』明治9年 大隈関係文書 早稲田大学図書館
- 『大日本地名大辞典』吉田東吾 明治40年(1907年)国会図書館
- 『角川日本地名大辞典』第9巻 栃木県 角川日本地名大辞典編纂委員会栃木県 1984
- 『野州名鑑』下野新聞株式会社編 昭和6年 国会図書館
- 『地名の研究』柳田國男 講談社学術文庫 2015
- 『大人が知らない最新の日本史の教科書』小和田哲男監修 宝島社 2015
- 『詳説日本史研究 』佐藤信ほか 山川出版 2008/2017
- 『聖徳太子の歴史学』新川登亀男 講談社選書メチエ 2
- 『与少室李拾遺書』韓愈
- 『渡来人の謎』加藤健吉 祥伝社新書2017
- 『松のさかへ』江戸城紅葉文庫 東照宮様御文
- 『御家系伝』臼杵藩稲葉家
- 『志度町史』志度町史編纂委員会
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