19. 明治大正における東京府士族 壁谷

「東京府 士族」として「壁谷訓永」「壁谷壽永」らが宮内省(現在の宮内庁)官吏として明治天皇・大正天皇に仕えており、その活躍の軌跡は政府公開資料に残されている。明治になって東京に移った多くの貴族たちのうち、官位がさほど高くなくかったものは「東京府 士族」とされていた。彼らもこの例に漏れないのかもしれない。


一方で徳川一ツ橋家の家臣だった「壁谷兎一郎」も明治4年に「東京府貫族 士族」とされた記録が確認できる。徳川氏本宗家に近い立場上、明治以降は静かに余生を過ごしたのではないかとも思われる。しかし兎一郎という名は実名ではないと推定され、一ツ橋家は本来は生粋の勤王派であったことから、「訓永」や「壽永」が「兎一郎」と直接関係がある可能性もあろう。本稿では東京府士族とされた複数の壁谷の関連資料を主に政府公開資料から集め、彼らの出自やその業績にできるだけ迫りたい。

※別稿では福島懸士族「壁谷可六」、静岡懸士族「壁谷伊世」そのほかについて触れている。


東京府士族とは

明治維新で徳川本宗家には静岡70万石が与えられ、旗本七万騎といわれた幕臣の多くが軍艦で一斉に静岡に移動させられた。(静岡藩)しかし、これでは暮らしていけないことは明らかだった。これを見届けた榎本武揚(えのもとたけあき)らは、残った幕臣二千名を軍艦8隻に載せて、仙台へそして函館に向った。そこから戊辰戦争、五稜郭の戦いが繰り広げられていった。


明治に入って新政府の戸籍制度が導入されると、武士は幕府や藩からではなく、新たにできた居住する府県から俸禄(ほうろく)を貰うようになり、各府県に属す「貫族(かんぞく) 士族」とされた。一方で、当時は都(みやこ)は相変わらず京都にあるとされ、遷都ではなく奠都(てんと)と呼ばれた。この東京奠都に伴い京都の貴族たちも多くが東京に移った。こうして移った貴族たちのうち、官位がさほど高くなくかったものも「東京府貫族 士族」とされた。

※当時は東京都はなく、東京府と呼ばれた。「貫族」とは戸籍上現在の本籍と考えてもよい。各府県の士族は貫族として所属する府県から俸禄を貰った。


しかし、数百年に渡って国家の行財政を担当してこなかった貴族たちには、明治の新政府を運営するだけの力は圧倒的に不足し、政変が頻発するなど混乱が収まらなかった。一方でくすぶりだした不平士族の脅威は士族の反乱として顕在化していた。これらの難問を一気に解消することができる策として、旧幕臣をして王臣(おうしん)となし、新政府が東京で雇うことが宣言された。王とはこの場合、明治天皇を指している。旧幕臣にとっては、王臣になるということは薩長の風下に立つという屈辱を味わうことも意味した。それは時代の流れであり、また背に腹も代えらなかっただろう。その場合彼等も「東京府貫族 士族」とされることが多かった。


当時士族とされた元武士は、国民の1%ほどと圧倒的少数だった。しかし全国各地の藩士で東京で官吏にとりたてられたものも多く、明治政府や各府県の官吏(公務員)の名簿のほとんどが、全国各地から集められた士族で占められていた。現在公開されている当時の明治政府や各道府県の官吏の名簿を見てみると、「士族」と書かれている人名ばかりが並び、「平民」と書かれる例は大変珍しいことに気が付くだろう。


明治政府側からの強い要請を受けて静岡藩から引き抜かれ、「東京府貫族 士族」となったものは多い。その中には「山岡鉄舟(鉄之助)」もいる。西郷との駿府での談判で、江戸城無血開城の先鞭をつけたとされる。明治初期の新生「静岡藩」の幹事だった山岡は、西郷による強い説得もあって、明治五年に宮内省侍従、宮内大丞(たいじょう)として、明治天皇に仕えることになった。剣豪でもあり禅も極めていた鉄舟は、病に蝕まれると皇居に向かって座禅をしたまま絶命したと伝わる。明治21年のことだった。

※宮内大丞は、卿(きょう)、大輔(たいふ/たゆう)、小輔、權小輔(ごんのしょうふ)に続く6等官。(『官職要解』による)幕府重臣であっても、当初の官位は薩長出身者に比べて低かった。


同じように静岡藩の大目付から引き抜かれた「加藤弘造」は、のちに初代の東京大学総長になった。目付だった「津田真一郎」は元老院議官に、参事だった「大久保忠寛」は東京府知事に、そして留守居役だった「前島来助(前島密)」は駅逓頭(えきていのかみ)となり明治政府の郵便事業に貢献した。(現在の1円切手にも前島の肖像画が使われている。)ほかにも静岡藩の顧問でもあった「勝海舟」がいて、後に明治政府の元老院議官、そして枢密院顧問官になった。


旧幕臣の急先鋒として、函館で官軍と最後まで戦った「榎本武揚」も、許されて明治政府の官吏として活躍、外務大臣となると千島樺太交換条約の締結を実現していた。このように東京に戻って明治政府の官吏となった幕臣たちは「東京府 士族」とされた。旧幕臣だったため、採用された当時の官位は低く明治政府の中枢とはなり得なかったが、大きな活躍の軌跡を残した。その高い能力を発揮して出世し後に「東京府 華族」とされたものもいる。前島らは男爵に、山岡や大久保、榎本らは子爵に、そして勝は華族として最高位の伯爵となっている。

※幕臣として静岡に残った士族は「静岡縣貫族 士族」とされた。別稿で「静岡縣貫族 士族」とされた壁谷について触れている。


明治初期は大名や高位の貴族だけが華族とされたが、華族令が明治17年に施行されると、薩長土肥の下級武士だった多くが、明治の元勲として華族となり、明治の後半には新政府に貢献したり、経済、戦争などで功があった者まで華族とされるようになったためだ。後者は勲功華族と呼ばれる。(『官職と位階』による)幕末の混乱期に一ツ橋家に取り建てられ、旧静岡藩にいた渋沢栄一も一時期、明治政府の官吏に採用されている。渋沢は一ツ橋領武蔵国の大名主(百姓)とし財力はあったが士分は持っていなかったため、明治政府の資料に「東京府 平民」と載るが、その後能力を発揮し「華族 子爵」となっている。


明治になって西洋の職制の導入に伴い「弁護士、司法書士、税理士」などの「士業」や、「電車運転士、消防士」などの公共機関の職業に「士」がつくようになった。諸説あるが、これは多くが武士出身だった明治政府の官吏によって高度で専門的な仕事が行われたことにより、その後の法律の整備に伴い正式な職業名となったとされる。平安時代から江戸時代に渡って「士」は武士や軍隊に使われていた文字だった。


なお「医師、薬剤師、理容師」などの国家資格には師が付く。師は「師(いくさ)」とも読むみ、小高い丘から転じて将軍をさす。軍隊を表す言葉に「師団」がある。人々が困難に立ち向かうとき、教え導く先生の意味に用いるのも、軍隊における師の借用という。(『師業と士業の由来』などによる。)あまり語られることはないが、明治の時期、士族が主導的な役割を果たしていたことは間違いない。


華族令、士族令は戦後の昭和22年廃止されるまで戸籍に記載されていた。華族、士族の名称こそ失われたが、その誇りは失われなかっただろう。筆者の祖父も、その人生の大半を士族としての誇りをもって暮らし、母や筆者にも言い聞かせていた。それはかつて父からも語られていた。


東京府士族 壁谷壽永

「東京府士族 壁谷壽永」(以後原文を除いて「寿永」と表記する。)については、その記録が国立公文所館やアジア歴史資料センターの保存資料にいくつか確認できる。 大正4年(1918年)10月29日「書記壁谷寿永外三名出張命令ノ件」には、寿永は「書記」とされているため、現在でいえば宮内庁長官官房の秘書官というところだろうか。当初の官位はやはり決して高くはない。現在までの情報では幕臣か地方の藩出身であったのかは、はっきりしない。もしかしたら京都にいた下級貴族だったのかもしれない。

※律令の規定に中務省(なかつかさ)省があり、天皇の補佐を含め朝廷の職務の全般を担う最も重要な省とされた。その令外の官に内匠(うちたくみ)寮があって、朝廷の儀式や装飾・土木・建築をつかさどる官職があった。古くから京の壁谷がこの職にあった可能性もあるがわからない。奈良時代の法隆寺に関する稿において、できれば触れたい。


この文書は「大礼書類十九ノ二・原議綴込二止・自大正四年四月至大正五年六月」に分類で保存されているようだ。「大礼」というのは、 大正4年11月10日に行われた大正天皇の即位の御大礼と大嘗祭(だいじょうさい)のことである。ここまで時期がずれ込んだ理由は、明治22年に定められた「皇室典範(こうしつてんぱん)」に基づき、明治天皇の諒闇(りょうあん:服喪期間のこと)そして昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の大喪によって日程が延期されていたからだ。この大礼に関連し、壁谷寿永ほか3名が出張となった。この文書はまだ非公開で、「寿永のほか」とされた他の3名の名前や、寿永がどの部局に所属し何を担当したなど詳しいことはわからない。


ただし10年ほど前の明治36年のある皇室式典の記録は公開されており、そこでは寿永が宮内省調度局に所属していたと記録されている。したがって大礼の10年ほど前には、明治天皇の身の回りの調度品を担当していたことは間違いない。


皇室典範では、「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行うと規定されていため、大正天皇は京都御所の二条離宮で大礼を行っている。寿永らには、その12日前に出張許可が出ていることから、この件の準備に関わる現地での調整で京都に出張になった可能性が高い。筆頭で寿永の名前が掲載されていることから、おそらくはこの件での責任者だっただろう。寿永にとって、実はこれは相当な重責だったはずだ。


というのは、朝廷が武家から政権を取り戻して初めての大礼として、権威ある様式も整える必要があったからだ。しかも明治22年に制定された帝国憲法下の「皇室典範」に基づく初めての大礼だ。前例を重んじる皇室公式の儀式にあって、古来から残された有識故実をできるだけ再現し、一方で新しい大礼の形式を整えるのは相当に難儀だったろう。


しかし、前回の大礼は明治天皇の即位の大礼で、約50年前にもさかのぼる慶応4年8月だった。戊辰戦争が始まった大混乱の中で行われており、詳しい記録が残るすべもない。加えて明治6年の「皇城(皇居)炎上」で平安前期から伝わってきた太政官・宮内省文書や、江戸幕府から渡された資料の大半が焼失した。このため各省や各府県などに保存されている書類の写しの提出が求められ、できる限りの復元作業が試みられた。(『皇城炎上記録焼失ニ付御達願伺書謄写可差出旨省府県ヘノ達』による)古来から伝わった資料すら失われており、大正天皇の即位の大礼の準備がどれほど大変だったか、想像がつくだろう。

※江戸城は皇居となったが、当時は「皇城」と呼ばれていた。


実はそれだけではなかった。当時日本は、日清・日露の戦争に勝って「五大国」のひとつとされ、世界の列強に並ぶ勢いとなっていた。直前の大正3年8月にはドイツにも宣戦布告、日本は第一次世界大戦にも参戦したばかりだった。このため大正天皇の大礼は、世界に向けて日本政府の威信をかけた国際行事ともされ、一方では国内に向けては国民の士気高揚と精神の一新をはかる絶好の好機とも捉えられていた。当時実業之日本社の社長で、衆議院議員でもあった増田義一は、この大礼について次のように説いている。


増田義一「御大典は精神一新の好機会」から引用

今回の御大典は実に御一代御一度の盛儀にして、国家の大典、皇室の重事である。今や世界に於ける我国の地位は高まり、国勢の仲張したること前古無比であり加ふるに欧羅巴(エウロパ:現在のヨーロッパ)の大戦争は、更に我国勢発展の一転機たらんとしてゐる。この時此廃、今上陸下(大正天皇のこと)英明の質を以て御即位の大礼、大嘗祭の盛儀を行はせ給ふのであるから、一層深き意義があると思はるゝのである。
斯る空前の大盛儀は、国民の精神を一新するの絶好機会であると思ふ。凡そ物の革新を企て創設を図るには自ら機会がある。機が熟すると平生行ひ難きことも実行し易いのである。而して今回の御大典は畏けれども種々の方面に向つて自覚を与へ、更に進んで実行の動機を与ふるに、最良の機会であると思ふ。


近代の天皇即位の大礼で、これほど大規模におこなれた例はなく、その任務は重大であっただろう。大礼は当日は準備に怠りなく極めて盛大に行われ、それにあわせて全国規模で官民を問わず「大礼記念事業」が盛大に行われた。全国民を巻き込んだ大正天皇の大礼の盛り上がりは、当時の国策にそったもので、多くの府県や企業などの民間団体、そして大学も参加している。


全国各地に御真影(大正天皇のお写真)を納める奉安所の建設が進み、記念植樹・植林そして、神社仏閣の補修、道路改修、学校や公園の建設、さらには民間組合や信用組合の組織など産業へのテコ入れ、地域の歴史書編纂などの文化記念事業の機運が高まっている。中でも特記すべきは全国規模で行われた図書館整備かもしれない。大正4年の経済雑誌『新日本』に記載された「全国の御大典祈念事業一覧」によれば、大正天皇の大礼を記念して、全国37都道府県の主要都市に大掛かりな図書館が多数作られたとされる。これが現在の各地の公立図書館の始まりになっている。同時に各地の大学の図書館にも「大礼記念文庫」が設けられ、天皇関連の図書が大量に保存されることになった。注意深く探すと、身近な神社に出かけても、その石柱や記念碑に大正4年の「大礼記念」と銘記したものを見かけることができる。そのときの全国的な盛り上がりは、わずかではあるが現在も想像できる。


イギリス国王、中国からの記章

壁谷寿永がこの時期「皇帝陛下(イギリス皇帝)ヨリヴヰクトリヤ銀製記章贈輿相成候」(皇帝陛下からビクトリア銀製記章を送られることになった)と政府に報告している記録があった。大正天皇が即位した大正元年、まだ明治天皇の諒闇(喪中)も開けていない大礼前の時期に、複数の宮内省の官吏が、海外の君主から勲章を受けた報告が並んでいる。世界各国に派遣された政府の官吏たちが、各国の皇帝や国王から勲章をうけていた。


その記録では、寿永がイギリス国王ジョージ5世から「記章」を賜っている。大正天皇の即位後の大礼の準備の関係もあり、視察を兼ねてイギリス皇帝の公式行事に参列した可能性もあるが、その経緯ははっきりしない。(海外の王や皇帝では、公式行事の参列者に勲章を与える慣例があった。)


『総領事川上俊彦外十五名外国勲章記章受領及佩用ノ件』大正元年12月23日

右謹テ裁可ヲ仰ク
大正元年十月ニ十三日
内閣総理大臣 侯爵 西園寺公望 「自筆サイン」

別紙(受勲者一覧)

清國ニ等雙龍寶星 總領事 川上 俊彦
清國三等雙龍寶星 陸軍二等軍醫 黒川 知勝
大不列顛國銀製ビクトリア記章 宮内属 村上 正志

大不列顛國銀製ビクトリア記章 宮内属 岡本 晟

大不列顛國銀製ビクトリア記章 宮内属 壁谷 壽永

(以下略)

別紙(寿永による勲章記章の受領の許可願い)

外國勲章記章受領佩用願
今般大不列顛國皇帝陛下ヨリヴヰクトリヤ銀製記章贈輿相成候ニ付
右受領及佩用之ご儀御免許被成下度別紙供閲物件目録祖添ヘ此段奉願候也

大正元年十月十一日

宮内属 壁谷壽永 「本人印」

賞勲局総裁 伯爵 正親町實正 殿

※「大不列顛(グレートブリテン)國」は大英帝国のことで現在のイギリスである。「皇帝陛下」とは現エリザベス女王の祖父ジョオジ(ジョージ)5世で、大英帝国・インド帝国そのほか世界各地の多数の植民地連合の皇帝だった。

※「ヴヰクトリヤ銀製記章」とあることから、皇帝に直接仕える騎士に与えられた「ロイヤル・ヴィクトリア勲章」と推測される。これは皇帝から私的に授与されるもので、外国人でもイギリス王室の公式行事に参列した場合に与えられることがあった。一等から五等まであったが、記章はすべて銀製であり文書にある「銀製記章」という記述では何等かは不明。

※清国皇帝からの受勲者は、明治42年10月の清国黒竜江行省ハルビン駅での伊藤博文暗殺事件にまきこまれた川上総領事と、治療にあたった軍医の黒川と思われ、共に退任時にあたっての叙勲と思われる。


また大正7年にも同様の記事がある。建国されて間もない中華民国から勲章をもらったようだ。その詳細については、現在わからない。大正7年(1918年)という年は、当時の中国(中華民国)にとって大変な年だった。袁世凱の死後の1917年夏ごろ中華民国は事実上、北洋軍閥政府と広東護法政府(広東軍政府)に分裂していた。外務省文書によれば、日本政府はこの南北分裂の調停に関わり(大正7年2月21日「中国南北調停一件」)二度に渡る円借款を行い、日中軍事協定を締結し(同年5月30日前後「日中軍事協定締結ニ関スル件」)、さらに日露戦争直後に設立した関東都督府を同年5月、関東軍に改組している。寿永が勲章をもらったのは、そんな日中関係の激動の時期だった。


『宮内大臣 子爵波多野敬直外二十三名 外國勲章受領及佩用ノ件』大正7年3月3日

宮内大臣 子爵波多野敬直外二十三名
外國勲章受領及佩用ノ件
右謹テ裁可ヲ仰ク

  大正七年三月三日

内閣總理大臣伯爵寺内正毅 [印]

別紙(受勲者一覧)

大正七年三月二日
支那國 一等寶光嘉禾章 宮内大臣男爵 波多野敬直
同 國 一等嘉禾章   式部長官伯爵  戸田氏共

同 國 二等嘉禾章   大使館参事官法学博士 長岡春一

同 國 三等嘉禾章   式部官     渡辺直達

同   上          同上     西園寺八郎

同 國 五等寶光嘉禾章 同上     菊池第三

同 國 五等文虎勲章  青島守備軍民政部鉄道技師 船田要之助


支那國  五等嘉禾章   陸軍歩兵大尉 小泉恭次

同   上       陸軍憲兵中尉  生田猛秀

同 國 六等嘉禾章   宮内属兼舎人  品川十一郎

同 國 七等嘉禾章   宮内属    壁谷寿永

同   上       宮内技手   大隅為作

同   上       主膳     大西徳三郎

(以下略)

※宮内大臣の波多野敬直は元肥前小城藩士。なお戸田氏共は、美濃大垣藩(10万石)の最後の藩主で、妻は岩倉具視の娘である。また西園寺八郎は、長州藩の最後の藩主毛利元徳の子で、西園寺公望の養子となっていた。


別紙(中華民国からの贈与状)

大中華民国大總統茲贈輿
大日本國宮内省属 壁谷壽永
嘉禾章以表観之意

大中華民國六年十月四日令行

 璽(印)

大中華民國六年十二月十日領發

銓叙局局長 郭則澐

陽字第 十 號

※引用文中にある「大中華民國大總統」とは、1912年(明治45年/大正元年)に中華民国建設当初の国家元首で大統領のことである。初代は孫文、二代目は袁世凱となる。


別紙(寿永による勲章記章の受領の許可願い 2部のうち、その2)

外國勲章受領佩用願
今般支那共和國大統領閣下ヨリ七等嘉禾
勲章贈輿相成候ニ付右受領及佩用ノ儀

御允許被成下度別紙供閲物件目録

相添ヘ此段奉願候也

大正七年二月廿五日

宮内属従七位勲八等 壁谷壽永 (印)

 賞勲局總裁 伯爵正親町實正殿


なお、壁谷寿永に何しては、もう一つの資料が残っており、すでに公開されている。それは、その後かなり時間が経過した大正13年のことで、叙勲の裁可を求めた『帝室林野局事務官補壁谷寿永叙勲ノ件』であり、国立公文書館に原本が残されている。


『帝室林野局事務官補壁谷寿永叙勲ノ件』一枚目

帝室林野局事務官補 壁谷壽永叙勲ノ件
右謹テ裁可ヲ仰ク
大正十三年七月十七日

内閣總理大臣子爵 加藤高明 【 印影 】

大正十三年七月十七日

この文書は「了」とされており、つまり允裁(しょうさい:決裁のこと)は降りている。従って、壁谷寿永は、天皇陛下から勲六等瑞宝章(現在の「瑞宝章」)を下賜されることが決定したわけだ。しかし、さらに読み進むと、次のような追記があった。


「帝室林野局事務官補壁谷寿永叙勲ノ件」二枚目(決裁書)

大正十三年七月十七日
内閣總理大臣 【了(決裁済みという意味)】 賞勲局総裁
帝室林野局事務官捕正七位勲七等壁谷壽永儀

叙勲以来常に職務に精勵(せいれい)シ勲勞(くんろう)尠(すくな)カラス

叙勲内則ノ定限ニ達セル者ニ候處

目下病氣危篤ニ陥リタル趣ニ付此ノ際特ニ勲六等ニ叙シ瑞寶章ヲ

授ケラレ度此段允裁(じょうさい:決裁許可すること)ヲ仰グ

※()は筆者が加えた。


壁谷寿永は正七位勲七等の地位にあり、勲六等叙勲の内規も満たしていた。しかしその時まさに危篤に陥っており、急いで決裁する必要があったのだ。この文書の三枚目には、彼の当時の履歴書もあった。


「帝室林野局事務官補壁谷寿永叙勲ノ件」三枚目(履歴書)

履歴書
帝室林野局事務官補 正七位勲七等 壁谷壽永
慶応三年(1867年)九月十五日生

東京府 士族 

大正八年十二月二十五日 叙勲七等瑞寶章[定例]宮内 属判人官一等 判任

大正十年十月十日 叙正七位 

大正十ニ年七月十七日 任帝室林野局事務官補 奏任

※()内は筆者が加えた。


壁谷寿永は慶応三年、つまり翌年が明治維新という時期に生まれ、大正天皇の大礼後の大正8年に「判任官」の「一等官」となり、大正10年に「勲七等瑞宝章」、翌々年に正七位に昇格している。大正12年には「勲六等瑞宝章」、「奏任(そうにん)」とされた。「奏任官」は内閣総理大臣の決裁を経て天皇陛下の勅裁で任命された高等官だ。最後には帝室林野局(官有の山林や原野を皇室財産として管理経営)に所属していた。


この文書を作成したのは、宮内大臣だった子爵 牧野伸顕である。特別に当日中に決裁するようにと内閣総理大臣加藤高明に依頼している。牧野は大久保利通の次男であり、牧野家の養子になったが当主が戊辰戦争で戦死したため、実際は大久保家でそのまま育った。娘婿には吉田茂、そして曽孫に麻生太郎がいて、昭和と平成の時代にそれぞれ内閣総理大臣になっている。


「帝室林野局事務官補壁谷寿永叙勲ノ件」四枚目(宮内大臣からの上奏書)

別紙帝室林野局事務次官補壁谷壽永叙勲上奏及進達候也
大正十三年七月十七日
宮内大臣 子爵 牧野伸顕

内閣総理大臣 子爵 加藤高明殿

追テ本人ハ病氣ノ爲危篤ニ陥リ候ニ付テハ本日附ヲ以テ叙勲相成候様取計相成度候


この文書には後日の追記事項が書かれた紙片が張り付けてあり、それには天皇陛下の特旨(天皇陛下による特別なおぼしめし)にて従六位とされたと記されている。

七月十七日附特旨ニヨリ従六位ニ叙セラル


大正天皇の体調はおもわしくなく、大正10年からは昭和天皇が摂政を務めていた。帝国憲法第17条2項に「摂政は天皇の名に於て大権を行ふ」とある。したがってここに天皇陛下の特旨とあるのは、後の昭和天皇によるものであった。まだ若かった昭和天皇は、イギリス留学していた。その昭和天皇に立憲帝王制の「君臨すれども統治せず」の原則を教えたのは、壁谷寿永に銀製記章を与えた、かの大英帝国皇帝ジョージ5世とされる。寿永がジョージ五世と昭和天皇の間で少しでも尽力したことが、あったかもしれない。翌大正13年、壁谷壽永が没した時56歳であった。



東京府士族 壁谷訓永

もう少し前の記録を探ると、国立公文書館に保存されている職員録のうち明治11年1月から明治16年7月の『職員録(宮内省)改』に、やはり東京府士族 壁谷訓永が確認できる。

明治11年1月 宮内省職員録(宮内省)改 

等外三等出仕
壁谷訓永 東京府士族
飯田町六丁目十八番

明治16年7月 宮内省職員録(宮内省)改 

十七等出仕
壁谷訓永 東京府士族
麹町區飯田町六丁目廿十二番地


飯田町6丁目は、現在の千代田区飯田橋近辺で、江戸時代の一ツ橋家の上屋敷まで歩いて20分ほどの距離であった。当時この地域に居住できた人は極めて限られる。明治5年および7年の一ツ橋家の名簿には壁谷兎一郎(東京府士族)の名があるが、同時期の宮内省の名簿には壁谷訓永の名ははない。一方で、明治11年の宮内庁の名簿には訓永の名が載っている。このため訓永は、壁谷兎一郎その人(あるいはその子)だった可能性が十分にあるだろう。(「兎一郎」は通称名であり、いわゆる本名ではない。)


訓永については、履歴書等、その他の資料は現時点で確認できておらず、前出の壁谷寿永との年齢差も不明だ。明治の終わりから大正時代に「東京府士族」とされていた寿永は、明治初期に東京府士族だった戸主(こぬし:家長のこと)を本家として継ぐことが条件である。(本家から分家すると、戸籍上は士族とはなれなかった。)明治11年時点では寿永ははまだ12歳であり、名前に「永」が含まれるという共通点があることから、寿永は訓永を継いで、戸主(家長)となった可能性も高い。


明治17年から、伊藤博文が内務卿、宮内卿を兼任し、明治18からは初代宮内大臣も務めた。伊藤博文が中心になって策定した大日本帝国憲法や皇室典範では「爵位」や「勲章」を巡って「冠位十二階」や「大宝令」「日本書紀」など古代の法制書・儀式書を相当に読み込んで策定したと『帝国憲法(皇室典範)義解』(伊藤博文著、井上毅起草)に記されている。(『聖徳太子の歴史学』による。)


この時期、内務省には別稿で記した「福島懸 士族 壁谷可六」が伊藤博文のもとで大日本帝国憲法の発布を支えていた。可六は伊藤博文が出版する前年に同名の書『帝国憲法義解』を出版して、帝国憲法を一般国民に説明していた。同じ時期に宮内省の官吏として壁谷訓永も伊藤博文の下で働いていたことになる。「福島県士族 壁谷可六」と、「東京府士族 壁谷訓永」の間に何らかの関わりがあるのか興味深い。 

※伊藤博文はこの時期、内務省と宮内省のトップを兼任していた。


時代は下って、昭和19年11且の官報に、宮内省の「宗秩寮(そうちつりょう)」に「叙従七位 昭和十九年九月十八日 高等官七等」とされた壁谷が確認できた。「宗秩寮」は、宮内省の部署(部局)の名称。皇族、皇族会議、華族などに関する事務を管掌していた。この壁谷の近親者は明らかに現在も存命中であろろうため、名前は本稿では公開しない。壁谷寿永との関係も含め、これ以上は触れない。

※戦後華族の廃止にともない「宗秩寮」も廃止され、勲章は内閣府の管轄になった。


東京府士族 壁谷兎一郎

宮内省とは関係がないが、もうひとり東京府士族として確認できたのが、「壁谷兎一郎」である。明治4年の『東京府貫属一橋旧臣士族卒ノ家禄ヲ定ム』に「東京府貫属 士族」と掲載され、その俸禄も記されている。一橋家は、11代将軍家斉にはじまり幕末に至るまで、徳川幕府で主導権を握り続けていた徳川一門の名家である。


『東京府貫属一橋旧臣士族卒ノ家禄ヲ定ム』より引用

(明治)四年五月
東京府貫属一橋奮臣士族卒ノ家禄ヲ定ム
元一橋家来當時其府貫属士族卒家録ノ儀別ノ通御決定相也候間

徳川新従二位ヘ御達可有之候也

元一橋家士族

(中略)

壁谷兎一郎 右現米 十一石五斗


壁谷兎一郎が明治政府から支給されたのは、わずか11石5斗に過ぎなかった。しかし、すでに幕府は崩壊しており職務を遂行するため、下級武士である中間(ちゅげん)、与力、同心などを抱え養う必要はなくなっていた。土地や住居はすでにあるため、僅かな奉公人と自ずからの家族だけの生活費として政府から支給されたものになる。一ツ橋家の家臣に支給されたのは、最高でも15石6斗にすぎなかったことから考えると十分に厚遇と言えよう。明治政府も資金がなく、明治政府は盛んに士族に帰農を勧める通達を出している。

※1石は米約150Kg程度、当時は人ひとりが1年で必要な量とも言われていたようだ。


実際には、この俸給の少なさで明治初期の士族は困窮を極めていた。なかには「無禄士族」とされ政府から一切の支給がない士族もいた。そんな状況で、兎一郎はまだ恵まれた方なのだろうが、実際に一家がこれで満足いく生活レベルを維持できたかは疑わしい。(さらに後の明治9年には、秩禄処分で俸禄が廃止され、最終的には収入を失った。これは明治10年の西南戦争の遠因にもなった。)


「建武の新政」も朝廷親政の夢破れて「室町幕府」ができ、南北朝に分かれて長い戦乱が続いた前例があった。長い間経験を担当していなかった公家たちでは、政権を運営する人材が不足した事情も、そのころと変わらない。明治政府が最も恐れたのは、関東・東北を中心に徳川家由来の家臣たちが暴発し、反政府勢力に担がれて結束することだったろう。実際に明治初期には明治天皇の叔父で「北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王」が「奥羽越列藩同盟」の旗印に担がれ仙台まで転戦しており、もし最後の将軍慶喜(よしのぶ)や、元尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)らの朝廷恭順がなかったら、明治新政府は危うかったかもしれない。


明治初期には三条実美らは、なし崩し的に東京に奠都してしまった。反対意見が多いにも関わらず奠都を強行したのは、過去に関東に対抗した平将門や、鎌倉幕府を始めとする武家政権が立って実権を奪われてきた幾多の前例を踏まえ、それを未然に抑える必要性も痛感していたと思われる。


その後も佐賀の乱、西南戦争などで士族の反乱も続きた。藩閥政府内でも何度か政変が起きて、世情不安となっている。江戸幕府を主導してきた一橋家は、そのご明治政府と関わるのは難しかったのかもしれない。壁谷兎一郎のこれ以降の記録は確認できない。東京府士族だった徳川家家臣は当面は厳しく監視された一方で、政権の中枢に入り込むことで利用されることも避けたろう。静かに生活をすることを選んだのかと推測される。


なお引用文中の「徳川新従二位」は、壁谷兎一郎の主君となる一ツ橋家当主「徳川茂栄(もちはる)」だ。彼は元尾張藩主でそのころは「徳川茂徳( もちなが)」と名乗っていたが、井伊直弼ら南紀派に推されて尾張藩主に着いた経緯があり、朝廷側からはあまりよく思われていなかった節がある。その後将軍となった慶喜に代わって一橋家当主を継ぐことになttが、明治維新後は謹慎となった将軍慶喜の名代として朝廷側と交渉する立場となった。その後第16代宗家に徳川家達が決まると、自らは四男に一ツ橋家の家督を譲ってひっそりと暮らしている。


徳川茂栄は、幕末から明治初頭に活躍した記録が残る徳川「高須四兄弟」のひとりとして、一目置かれていたことだろう。その四兄弟とは、戊辰戦争時に明治政府で事実上のトップとなる「議定(ぎじょう)」をこなした元尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、そして元京都守護で戊辰戦争を戦った会津藩主の松平容保(かたもり)、元京都所司代で桑名藩主だった松平定敬(さだたか)、そして四人目がこの徳川茂栄である。このうち元尾張藩主の慶勝については、幼いころ「静岡県士族 壁谷伊世」が面倒を見たことを別稿で既に示している。


東京府士族、 静岡縣貫属士族など

明治の士族制度は明治2年の版籍奉還に始まり、明治5年(1872年)の「壬申戸籍」において、大枠がぼ固まっていた。明治4年には廃藩置県が完了しており、武士は元藩主からの俸禄を離れ士族とされたものは、新しく所属することになった「懸」から従来の幕府や藩から得ていた俸禄に代わって、その府県から給与として得たことになる。これを貫属(かんぞく)といった。


士族として属した県は通常藩主がいた場所になるが、東京府士族は他の士族と若干事情が違うところがある。この東京府士族は明治政府が新政権の官吏として初期に全国から採用した例があり、出身藩がわからない例が多く、出自がはっきりしない場合がある。東京は徳川幕府のおひざ元だが、幕臣は明治政府が東京に移るにあたって静岡県に強制移動させられており多くが結果的に静岡縣貫属(かんぞく)の士族となっていた。したがって幕臣の家族で東京に残ったものも、静岡県貫属 士族とされた。


『敗者の維新史』に記載される例では、戊辰戦争で破れ生き残った会津藩藩士の多くは下北半島に移住させられ荒れ地を開墾すること目指した。そこは新たに「斗南(となみ)潘」とされた。一例として、元会津藩士の荒川勝茂があげられている。彼も移住したが、明治4年の版籍奉還後ともない、斗南藩は廃止。明治5年12月に「斗南懸 士族」その後合併した「青森縣 士族」となっている。青森県は開拓失敗を決定し、多くが会津に戻らされ、一部は東京に移住したりもしている。『会津若松史』によれば、明治7年時点で会津に戻ったものが、2682戸(10,278人)があり、全移住者17000人の約6割が青森から会津に戻ったという。


勝茂は悩んだ末に青森に残った。しかし生活できないため、会津藩出身の妻の実家を頼って借家を手配し出稼ぎにでた。明治政府の政策で福島県で小学校の教員を探しており、運よくそのとき、福島県の須賀川で小学校の教員として採用されたのは明治7年だった。須賀川に移ると今度は「福島県 士族」となった。その後会津の小学校に移っている。明治9年の秩禄処分で(各県は給料を支払う必要がなくなったので)どの県の士族であるかは単に本籍の意味しかなくなった。以後は本籍を移動させない限り、何縣の士族かは変わることはなく昭和20年まで戸籍に残った。

※先に示した「静岡県貫族士族 壁谷伊世」も、明治6年に福島懸令(今の県知事)に福島県内の小学校の教員に推薦されており、子の壁谷鹿馬には「福島県 士族」の記録が残る。一方で福島県須賀川や会津若松には士族とされた壁谷の旧家がある。


これらの関係で東京府士族とされたものは、おおまかに明治9年までに東京府に採用された士族官吏が多い。一部で華族とされなかった公家も士族とされている。先に示した通り、どこの縣の士族になるかは、秩禄処分が行われた明治7年ごろまでに確定したと思われるが、これらの事情からどのような経緯があったかを掴まないと、どこの藩の出身なのかが、わからない場合が多い。


土佐藩の家老待遇(中老)だった後藤象二郎は、徳川慶喜に大政奉還を勧めた功績で、明治政府では参与となり、土佐出身にもかかわらず「東京府貫属 士族」となっていた。本来は「高知県貫属 士族」だったはずだ。版籍奉還で廃藩置県まで「知藩事(ちはんじ)」とされた全国の約300藩の元藩主も「東京府貫属 華族」(多くは従五位)になっており、華族とされなかった下級貴族や僧侶の一部も「東京府貫属 士族」とされた。このように特に東京府貫属の士族の場合は、経緯をこまかく確認しないと出身地がわからない。


今後整理すべき課題

1)「壁谷兎一郎」の名は、いわゆる通称であり本名ではない。壁谷兎一郎の名が壁谷訓永と言うこともあり得ない事ではないだろう。ただし明治の初期から徳川本宗家であった一橋家の家臣がそのまま宮内省に入ったとはにわかに考えにくい。維新当時の一橋家当主は、元尾張藩主で佐幕派の中心人物の一人とされており、幕府が公武合体路線に変更した際に尾張藩主を降ろされ、一橋家の当主に横滑りしていた経緯があったからだ。このため一橋家当主茂栄(もちはる)は明治初期に反発が強かった可能性も高い。徳川家の「高須四兄弟」のひとりでありながら、一橋慶喜の助命嘆願に動いた以外は大きな活動はしていない。ひたすら目立たないで過ごしていたようだ。一橋家当主でありながら第十六代の徳川家を継ぐことすらできなかった。


しかし幕末の一橋派といわれた人々は強い水戸学の影響を受けて尊王思想が強かった。高須四兄弟の他の三人も極めて尊王思想が強かった。元尾張藩主の徳川義勝は明治維新の隠れた第一級の貢献者だろう、維新後も新政府の議定(ぎじょう)として事実上新政府の最高位に担がれている。弟の元会津藩主松平容保(かたもり)、元桑名藩主松平定敬(さだたか)もそれぞれ京都守護職、京都所司代として朝廷守護にあたり考明天皇からは絶大な信頼を得ていた。一時的に佐幕派とされて担がれて尾張藩主についた後の一橋茂栄だけが佐幕派のレッテルを張られただけと考えることが正しいのではないか。壁谷兎一郎やその一族は佐幕派ではなく、尊王派だった可能性は大変高く、それが評価されて一族が宮内省に入った可能性は十分にあると思われる。


2)宮内(くない)大臣は、伊藤博文のあとをついで、明治20年から明治38年まで、土方久元(ひじかた ひさもと)を始めとした旧土佐藩出身者が継いだ。大正天皇の立太子など含め多くの皇室行事はこの体制で行われた。明治政府における土佐藩出身者と明治政府官吏の壁谷との関係は他でも見かける傾向があるが、幕末・戊辰戦争の経緯での人間関係が影響してくる可能性もあり今後の検討課題である。


別稿で触れるが、福島懸と旧土佐藩との関係はたいへん深い。それは戊辰戦争時において、常陸笠間藩の飛び地である「神谷(かべや)陣屋」(現在の福島県いわき市)や、複数の壁谷が記録される「三春藩」(現在の福島県田村市)が味方したことで官軍の快進撃が続いた。それは官軍の将として東山道総督府参謀だった謀板垣退助の功績とされた。また板垣は、賊軍とされた会津の名誉回復にも努めた。この関係で、板垣が自由民権運動を展開すると、福島県はその中心にもなった。薩長が明治政府の主導権を握る中、土肥出身者と福島県の関係の強さは明治から昭和になっても残っていた。


参考文献

  • 『東京府貫属一橋旧臣士族卒ノ家禄ヲ定ム』明治4年5月 国立公文書館
  • 『皇城炎上記録焼失ニ付御達願伺書謄写可差出旨省府県ヘノ達』明治6年 国立公文書館
  • 『明治十一年一月・職員録(宮内省)改』 国立公文書館
  • 『明治十六年七月・職員録(宮内省)改』 国立公文書館
  • 『総領事川上俊彦外十五名外国勲章記章受領及佩用ノ件』明治45年アジア歴史資料センター
  • 『書記壁谷寿永外三名出張命令ノ件』大正4年10月29日 国立公文書館
  • 『帝室林野局事務官補壁谷壁谷壽永叙勲ノ件』大正13年07月17日 国立公文書館
  • 『宮内大臣子爵波多野敬直外二十三名外國勲章受領及佩用ノ件』大正7年3月3日 国立公文書館
  • 『敗者の維新史』会津藩士荒川勝茂の日記  星亮一 中公新書1990年
  • 『会津若松史』第五巻 会津若松市
  • 『江戸が東京になった日―明治二年の東京遷都』講談社選書2001年
  • 『官報』昭和19年11月
  • 『聖徳太子の歴史学』新川登亀男 講談社メチエ 2007
  • 『ジョオジ五世伝と帝室論ほか』小泉信三 文芸春秋 1983
  • 『大礼記念文庫の書籍文化環境ー大正大礼と奈良女子高等師範学校』「出版と社会変容」2014-3 一橋大学機関リポジトリ
  • 『師業と士業の由来』西澤弘 日本労働研究雑誌 日本労働労働政策研修機構 2014年4月


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。