18. 古代中国の風水で読み解く壁谷

古代風水で「壁谷」という文字を読み解くと、特別な意味が隠されていた。古代に風水のエネルギーが地上に湧き出す地は「壁谷」と呼ばれたのかもしれない。「風水二十八宿」には「かべやど」とも読める「壁宿(へきしゅう/なまめぼし)」があり、そこには皇嗣(王家の跡継ぎ)の守護、そして稲作や学問・武芸との強い関わりがあった。日中ともに古代の「宿」は「谷」と同じく居住地を示している。つまり天空にある「壁宿」と地上の「壁谷」はぼぼ同じ意味となるのだ。


現在も風水の影響が特に寝強く残る中国南部の旧家においては、壁谷の堂號(どうごう:古代の名字のこと)を掲げる家が多い。また攻撃的な構造建築に「壁刀煞(へきとうさつ)」もある。それは20世紀末の香港で「風水戦争」を引き起こし、各国の新聞・雑誌で報道され話題になった。こうして中国南部に寝強く残っていた「風水」の名を、新ためて世界に広めることとなった。


これらを鑑みるとき、古代中国を席巻した風水を考えてみることは、大きな意味があろう。本稿では、大きく変貌してしまった現在の日本の風水とは一線を画し、できる限り古代中国の風水の思想に立ち戻って考察を試みる。具体的な例も示しながら、「壁谷」と風水との関連性をひも解くヒントを得たい。


おおまかな日本の風水の歴史

現在われわれが知る風水は、中国古来のものとは全く異なっている。たとえば日本で風水といえば、東北の方角を「鬼門」として忌み嫌うことが最も有名だろう。しかし古来の風水では、固定された方角に吉凶を求める思想は全く存在しない。それどころか否定するだろう。気の流れを重視し、固定された特定の方角にはこだわらないからだ。


中国古代の風水は、少なくとも古墳時代までに日本に入り、大和王権では古代神道と並び重視された。天武天皇は自らが道教風水に基づく政治を行ったことが『日本書紀』に記される。その流れは平安時代に日本独自に大きく変化をとげ、密教による宿曜道(すくようどう)や陰陽道(おんみょうどう)に取り込まれていったが、秀吉による弾圧で、壊滅的な打撃を受けた。


江戸時代になると天台宗や陰陽道の生き残りが一部で復活したが、もはや国家権力に左右されることはなく、一般の庶民の日常生活に渡るまで幅広く浸透、地元の宗教・思想・文化・学問と混淆し、市井には風水の大家とされる人材も現れて評判となった。こうして各地で家相学、観相学など独自の形で発展を遂げ、書籍も大量に出版された。


しかし明治政府は神教国家を目指して陰陽道等なや風水の一掃をめざした。この試みは失敗し、一方で開放政策によって中国から古代の風水が日本に再上陸した。これらは西洋から流入した思想・文化や占星術と交わって大きく変化を遂げだ。多数の思想や文化と交じり合い、幾度もの変遷を経て風水には独自の流派が無数に多数発生、それは占いから家相、姓名判断など多肢にわたっている。


中国古代にあった風水は、漢王朝の時代まで数々の注釈が加えられた写本が現在に伝るが、一方で権力者が秘伝としたことで全容は未解明の点も多い。さらに中国では「破旧立新」政策によって多くの風水師が弾圧され、台湾や香港などに風水師が集り潜行した。そのため中国南部に風水信仰が根強く生き残っていくことになった。古代中国の風水を知るには、中国南部に残る風水を参考にしながらも、遥かなる歴史をたどりその源流を深く探ることが大切であろう。


古代風水の発祥とその分類

風水発祥の地は古代中国の長江下流地域(中国南部の福建省・台湾もしくは江西省付近)で、紀元前八世紀ごろまでには既に成立していたともされる。これらは四書五経の『易経』や『山海経』『葬書』などにまとめられ、一部は『黄帝内経』や『黄帝宅経』など、伝説の皇帝「黄帝(おうてい)」の質問に臣下が答えた形の「帝王の書」とされた。

※奈良時代初頭に書かれた藤原氏の歴史書『藤氏家伝』では、遣隋使から日本に戻った学僧「旻(みん)」が蘇我入鹿や中臣鎌足に『易経』を教えていたことが記録されている。


風水の本質は「気」にある。わかりやすく言えば「気」とはエネルギーであり、「気」からあらゆるものが生れ、繁栄する。風水は森羅万象の根幹に「気の流れ」があると説き、大まかに天地人の3つの気の流れ、つまり「天文風水」と「地理風水」そして「人間に関わる風水」に分けられる。そこから「生気(せいき)」「運気(うんき)」そして「気力」「活気」などに繋ることになる。つまり、この「気」がどこにどう流れ、どこで流れが変わるか、どこに溜まっているか、それらを見極めることが風水では最大のポイントとなる。


「天文風水」では、「天」の「気」は凝って(かたまって)星となり宇宙そのものを説明する。北極星は天の中心にあって動ぜず、無数の星はその周りを廻るとされる。ただし、「火星」「金星」「水星」「土星」「木星」の五つの惑星(五星)はあたかも意志があるような独自の動きをする。(自然科学においては、地球の自転と、各惑星の太陽の周りの公転をあわせて考慮する必要があるため)五つの惑星はそれぞれが「五行」に配置され、「陰」「陽」に配置される「月」と「太陽」とあわせて、宇宙の森羅万象を説明する重要なキーワード、「陰陽五行(いんようごぎょう)」を構成する。


一方、「地理風水」では気の流れは「地」で凝って大地となる。天上から降り注いだ「気」は遥か彼方にある伝説の「崑崙山(こんろんざん)」に端を発し、多数の山脈の内部を通じて曲がりくねって躍動する「龍脈(りゅうみゃく)」として四方八方に散る。その末端に届いて「龍穴」というツボを結ぶと、一気に地上に湧き出す。これが泉である。しかしそのままでは「気」は広く拡散し、消え去ってしまう。しかし四方を「砂(さ:小山のこと)」が囲んだ「谷」という条件さえ満たせば、「気」は拡散ぜずに周辺一帯を潤す。そのような特に優れた「谷」にある「龍穴」は風水宝地とされ、「明堂(めいどう)」とも呼ばれる。

※「気」の流れを「龍」ともいう。筆者が思うに、天から下り山中を抜け、地を潤して万物の元となる「龍」とは、まさに水のことであろう。『道教の神々』によれば、「龍穴」は「虎穴」ともされた。


これらの「気」は地上で凝って生物にもなり、「人」にも感応する。体内は小宇宙を構成しており、人にも五行に対応する「五蔵」がある。(脾臓・肺臓・肝臓・腎臓・心臓)人体を流れる気はその一生を左右する。これは中国で医学、薬学、漢方に発展するのだが、本稿ではこれ以上触れない。こうして、風水は「天地人」としてまとめて語られ、壮大な宇宙観や哲学、自然科学、心理学そして医学までも内包した統一理論が、古代中国で風水として完成し、古代王朝の統治に使われ、文化を形成していったのだ。



古代風水の源流、陰宅思想

古代風水の面影を最も特徴的に残し、その古来の姿ともされるのが地理風水に属する「陰宅風水」(陰宅思想)であろう。中国の風水思想の専門家である渡邊欣雄(首都大学東京名誉教授)によれば、「本来の風水とはこの陰宅風水であった」としている。これは遥か昔から人間だけが共通して持つ「祖先の墓を作る文化」と深い関わりがあるのだろう。


前出の中国古典『葬書(葬経)』では、万人は祖先の生気を受け継いで生れ、祖先が亡くなっても強い影響を受け続けるとされた。そこでは、死者とそれを祀る子孫の間で気が互いに感応し合うことで、子孫が大いに繁栄すると説明され、祖先の墓(「陰宅」)の風水が悪いと、その子孫は滅びるとされた。


中国では祖先の墓を掘りだして土葬された祖先の骨に精気(魄)が残っているかどうか確認し、茶色い場合は魄が消えかかっているとして、墓を別な場所に移し、新たに墓を作り直すといったことが頻繁に繰り返された。古代日本でも、例えば青森県の三内丸山遺跡では、大人(祖先か)の墓地だけが一定の方角に整然とした区画に並べられ、その墓地に行く道もさえも整備されていた。また関東各地では、土葬したのちに堀り出して埋め直す「再葬墓」の遺跡が多数発掘されている。


しかし、好条件を満たす「陰宅」の好地には限りがあり、誰しもが簡単に得られものではない。陰宅思想で墓の度重なる移動(再葬)や修理が繰り返され、風水好地の争奪戦が相次いで繰り広げられるようになって、後世には厳しく規制された。こうして「隠宅」から、現在生活している居住環境である「陽宅」に同様の思想が組み込まれることになり、現在の風水の源流となったと推測される。


平安時代の延喜 17年 (917 年)に成立したとされる『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子が(自らが抱えた)子孫が絶えるように願って建設中の自らの墓の風水を乱したとする伝承が記されている。自らの災禍を子孫に及ばさないためだという。

※聖徳太子の一族(上宮王家)が滅んだとする話は、飛鳥・奈良時代その末裔が生き延びるために自ら創作した話と思われる。この点については別稿で触れる。


『聖徳太子伝暦』推古天皇二十六年(西暦618年)の条

冬十二月 太子駕命「科長墓處 覽造墓者 直入墓内四望」謂左右曰「此處必斷 彼處必切 欲令應絶子孫之後」墓工隨命「可絶者絶 可切者切 太子大悅 即夕旋駕」歎謂妃曰 「遙憶過去 因果相挍 吾未賽了 禍及子孫 子孫不續 妃答啓曰「左之右之 依殿下命耳三從之妾 更何異望」太子喜之。

※『続群書類従』から引用、カッコ内の説明、鍵カッコは筆者による。


『聖徳太子伝暦』が書かれたのは平安時代とされるが、少なくともその時代には「陰宅思想」が理解されていたことがわかる。また『徒然草』の第六段では、平安末期の末法といわれた当時、上流貴族たちがごぞってこの聖徳太子の伝承を引き合いにし、自らの一族の絶えることを願ったとする、『大鏡』の内容に触れている。吉田兼好が特に説明も加えず引用していることから、「陰宅思想」は鎌倉時代でさえ理解されていたとことが推測できよう。


『徒然草』第六段から引用

前(さき)の中書王・九条大政大臣・花園左大臣、みな、族絶えんことを願い給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継の翁の物語には言へる。聖徳太子の、御墓をかねて築かせ給ひける時も、「こゝを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

※世継の翁とは、平安末期成立の『大鏡』に登場する190歳とされる架空の老人のこと。


道教(道学)に詳しかった『朱子』によれば、死骨には「気」が宿るとされ、それを「魄(はく)」と言うとする。これは魂魄(こんぱく)という日本語にもその名残がある。つまり風水では火葬をすることで、死骨に宿った「気」つまり「魄」は消え失せることになる。火葬は死者を完全に断たせ、祖先との関りも断ち切ることに繋がり、隠宅風水の文化とは全く相いれない。学研『風水の本』によれば、台湾など風水文化圏では火葬はせず、土葬による陰宅の風習が強く根づいている。現在の事情はわからないが、少なくともなくとも昭和のころはそうだった。


一方、仏教では「荼毘(火葬すること)」や、家族を捨てなければ悟りを得られないという「出家」の思想がある。そして自らは「輪廻転生」して生まれたとする。このため自らの祖先から「気」を受け継ぐという考えは、本質的には否定され、むしろ拒絶するのだ。火葬することは本来先祖代々の墓を作る意義を失うことにもなる。江戸時代に確立された檀家制度は、火葬した祖先の墓を代々守る仕組みを新たに作り、寺に住民を管理させる仕組みを構築したといえる。このようなことが可能になったのは、日本の風水が大きく変貌していたことを意味する。

※風水の影響が寝強く残っている沖縄で、火葬が普及するのは、1972年(昭和47年)の沖縄本土復帰後になる。なお、奈良県の一部地域では、現在も伝統的な土葬、再葬が行われているようだ。


「八色の姓」を公布し、自らも道教の「真人」を称した天武天皇は道教風水を強く信じ「占術」も自ら行ったことが『日本書紀』に記録され、もちろん土葬されている。以前の野口王墓と呼ばれていた天武天皇陵も、典型的な風水の思想に基づいて作られたとされる「八角形」だ。(奈良県高市郡明日香村野口「檜隅大内陵」)その後の飛鳥時代の有名な古墳である「高松塚古墳」や「キトラ古墳」などには、玄武などの「四聖獣」や「天文図」が描かれており、風水の強い影響がみえる。

※この時代は木造建築物にも道教風水の影響を受けた八角形が多い。法隆寺の夢殿も八角形だ。白村江の戦い前後に作られたという国指定遺跡「鞠智(くくち/きくち)城」も八角形だったことが発掘で判明している。明日香村の酒船石遺跡発掘調査などから、天武天皇の母とされる斉明天皇も、道教風水に傾倒していた数々の物証が得られてきている。


野口王墓は後世に盗掘された記録が残っており、天武天皇の棺の脇には銀の骨壺があったとされる。(現在は金銅製とされている。)それは妻であり、日本で初めて火葬された、後の持統天皇の骨壺だった。「皇統を維持」するという「持統」の諡(おくりな)を持った妻が歴史上始めて「火葬」されたのは西暦702年、埋葬されたのは風水を重視していた夫の天武天皇の陵だった。日本で初めての火葬は、西暦700年の僧、道昭であったと『続日本紀』は記録する。それからわずか2年の出来事だった。これは皇統を断つ意味が込められていた可能性があると筆者は推測する。


持統天皇の重臣として活躍した藤原不比等(鎌足の次男:659-720)に始まる藤原氏の時代、皇太子とされた草壁皇子が27歳で忽然と消え(持統3年:689)、天武の孫らも長屋王を始め次々と消されていく。こうして天武の皇統はそれから100年のうちに完全に途絶える。藤原氏の力で、壬申の乱で破れたはずの天智天皇の皇統である光仁・桓武天皇が新たに皇統に蘇り、旧来の伝統が残る奈良の都を捨てて、遷都して平安時代に突入することになる。

※このことは、桓武天皇以降の坂上田村麻呂や、壁谷の帰趨に大きく関わったと筆者は推測しており、別稿で詳しく触れたい。


壁谷と龍穴

長大な山脈をめぐって続いてきた「龍脈」を経由し、悠然と台地を流れ出て来た「気」のエネルギーは平地に至ると「穴(けつ)」を結び、そこで湧水とともに一気に噴出する。そのまま風水のエネルギーが四方に散らばって拡散せず、その地に留まることが大切だ。それができるのは「穴」を囲んで周囲を防御する小山で「砂」と呼ばれる。つまり周囲の砂(さ)が穴(けつ)を適切に囲んでいるかことがポイントだ。(覓流法、察砂法)四方を囲む「砂」を「四神砂」と呼ぶが、これが風水の四神「四聖獣」に相当する。つまり北の玄武、東の青龍、西の白虎、南の朱雀となる。具体的に言い換えれば、北東西の三方向に小山(小高い丘)があり、南には水地(池、谷)があることだ。このような好条件が揃っている場所は風水好地とよばれ、特に優れた地は「明堂」とされる。そこは龍神がいるとして崇められる地ともなる。

※これが古墳の壁面に、四聖獣が掛かれていた由縁である。


しかし気が滞ったままでは何も生まれない。「穴」に噴出した龍のエネルギーを運ぶものが重要になる。それが水である。明堂に集落を構築する場合、なにより重要なのは川の存在だ。飲料水を提供し、まがりくねって流れ時には氾濫しては農地を潤す。時には物流の水路ともなる。そのような好地を探すことも、風水の極意となる。(観水法、得水)こうして周辺の一帯に「気」を配られる地域やそこに住む人は、大いに繁栄することになる。風水好地が活きるには、「水」が最も重要なポイントとなり、川は大地を流れる「龍」または「蛇」に例えられる。

※直線的に流れる川は凶とされ、曲がりくねって氾濫を繰り返す川こそ、風水上の価値がある。


このような風水の地形の縮図を文字で表し、そのような文字を書いて貼ったり、諳(そら)んじたりすることで、邪悪を封じ、あるいは運を招くことは、盛んにおこなわれていた。風水では、書かれた文字そのもには神が依っていたということになる。これは日本に文化に長く習慣として残り、「護符」を掲げる習慣、「御札(おふだ)」「お守り」そして呪文(じゅもん)などとなり、一部は姓名判断にも発展して、現在も生き残っている。


ここで縦に二文字、「壁」「谷」と書いて風水で読み解いてみる。「壁」と「谷」の二文字は陰陽五行による「土」(砂)と「水」で接し、「砂」は動かないことで「陰」とされ「水」は動くことで「陽」とされる。風水明堂が陰のまま気を蓄えていたのでは、生命が発動しない。万物は、陰陽の二気が接しあたかも絡み合う巴の蛇(太極図)のように無限に変容することで生じる。つまり土と水が接する壁谷の名は、風水の「生気が発する条件」を満たしているようだ。


一番上にある「辟」は、その大元になった甲骨文字(象形文字)は「人に辛(傷・入れ墨)」あるいは「頭蓋骨」を意味する。別稿で触れるが「辟」は忌避するもの(避ける)、畏敬するもの(神)の二通りの意味に捉えられる。「辟(きみ)」は限りなく尊いものとして中国では代々「天子」や「皇帝」を意味していた。また、過去に傷つき(つまり亡くなった)ことで今は墓(陰宅)に住まう、敬うべき祖先神も「辟」だった。陰宅思想では、祖先はその子孫を守ってくれる、最も畏敬すべき貴重な存在だったからだ。つまり壁の字にある「辟」は天帝あるいは代々続く祖先であり、一番上に置かれたことで、代々の「気」を発する源(龍源)だったのではないだろうか。

※神には二面性がある。天から振る雨や雷は五獄豊穣をもたらす「和魂(にぎたま)」だが、洪水や落雷で火事をもたらす「荒魂(あらたま)」で、共に畏敬の存在となる。


その下にあるのは「土」は、西暦100年ごろに成立した中国最古の漢字事典『説文解字(せつもんかいじ)』で「地(地上)の萬物を吐生する者なり」と説明する。風水の「砂」はこの「土」で構成され、地上で風水宝地を生み出す必須の条件となる。


「谷」の最上段にある「ハ」は東西を囲む小山で、その下の「人(儿 )」は背後に迫る小山として周囲を囲む「砂」であろうか。あるいは「人」そのものかもしれない。そして一番下にある「口」は、洞窟あるいは窪地、水を吐き出す泉、または池の象形に見えよう。つまり「壁谷」と縦書きした2文字は、生命の根源となる風水宝地「明堂(めいどう)」の光景そのものを表した文字となっているようにも見えないだろうか。


もう一度言おう、風水の地形の縮図を文字で表し、そのような文字を書いて貼ったり、諳(そら)んじたりすることで、邪悪を封じてきたのが、風水である。すると「壁谷」という名字を背負ったものは、それだけで邪悪を封じ、風水のエネルギーに満ち溢れる霊験あらたかな「護符」を生まれながらにして背負っている、そうも言えそうではないだろうか。


壁谷の地が、もし山岳地と平地の境にある、風水の明堂の地であれば、そこから発する気を享受できるのは壁谷のふもとで川下に広がる大地であろう。そこは風水の気に恵まれた一族が繁栄し、有力な豪族ともなったかもしれない。そんな構図も見える気がする。先の『説文解字』では「谷」の説明として「泉の出でて川に通ずるを谷と為す」とある。また「老子」では「谷」は深遠なる不老不死の生命の源とされた。

※現在の中国語では「斜壁谷」と書くと、流水で形成された渓谷を意味する。また秘境の地で目前に垂直にそびえ立ち、神秘的にも異彩を放っている岩壁や石柱は「壁谷」と形容される。


別稿で示したが、中国では山中の泉や名水の井戸など、水や温泉が湧き出る場所に「壁谷」と地名がつく例がある。また中国南北朝の時代中(西暦439年-589年ごろ)南山(五台山)の泉が湧き出す地「壁谷」に玄中寺があり、浄土教の第一租といわれる祖鸞大師(どんらんたいし)などの聖人を輩出した。日本で第3代天台座主となった「円仁(慈覚大師)」や、日本の浄土宗の祖である「法然」など複数の高僧たちも、古代中国壁谷の玄中寺で修業していることは前稿で示した。


円仁は中国で修業中「光を放つ」黄壁に「見えない金剛洞の入り口」があるのを発見し、そこには文殊菩薩がおられて感泣したとしている。洞(ほこら)には大量の経典があり、円仁はそれらを習得して日本に戻っている。(『円仁 唐代中国への旅 』による。)私見ではあるが、円仁が中国壁谷の地で「光を放つ」黄壁を見たとするのは、飛鳥・奈良時代に、官寺として全国に作られた放光寺の「放光」の名と符合する気もする。奈良時代の大僧正「泰澄(たいちょう)」が越(後の越前、現在の福井県)に開いた「放光寺」の跡地には「壁谷」の古地名が現在も残っている。


長野、栃木や山梨、福島などの関東各地にある「壁谷」の古地名は、山岳の谷間から平地に繋がる局面にあり、川下の扇状地には広大な穀倉地帯が広がり、現在も「壁谷の泉」という名が残っている。もしかしたら、そこにも法光寺があったのかもしれない。「法光寺」の縁起によれば、飛鳥時代から存在し、日本各地に作られた定額寺(官立とされた寺)が放光寺とされ、敏達天皇や聖徳太子との関係が深がったとされる。正式な国史には、法光寺が官寺であったという記録はないが、蘇我氏や聖徳太子と関わった記録は多くが改竄されているともされ、正確なことはわからない。

※放光寺は蘇我馬子が建立した法興寺(現在の明日香村にある飛鳥寺)とも音が同じである。この法興寺は法隆寺と並び、仏法の「興隆」で対をなす寺と言われる。法隆寺も謎が多い寺として知られ、また壁谷と大変関わりの深い寺である。


中国南部や台湾には伝説の「黄氏(黄姓)」の末裔として「壁谷(檗谷とも書かれる)」の名字(堂號)が現在にも伝わっていることは別稿で示した。日本語で読むときは「壁(へき)」「檗(ばく)」となり発音が違うが、中国南部(呉音)ではともに「ひゃく」と読み発音は同じだ。このためか中国南部では「壁谷」と「檗谷」は混用されているようだ。

※壁と檗は、その字面の光景をみても、「砂」として明堂を囲むのが山壁にある「土」か、「木」かの違いになるのだろう。


円仁が見たとされる光を放った「黄壁」も「黄檗」と書けば中国南宋時代に興隆した伝統の禅宗主流派である黄檗宗の名となる。中国から来日した隠元は天皇や将軍の崇敬も得て京に黄檗山萬福寺を開き、日本の禅宗に大きな影響を与えた。現在の日本茶の源流、そして隠元豆の名もここから生まれている。聖徳太子と法光寺、禅宗(黄檗宗)の関係は別稿で触れたい。


風水二十八宿の「壁宿」

中国湖北省で紀元前5世紀ごろ(春秋戦国時代)の楚(曾)の乙(いつ)という名の王侯の墓が偶然発掘された。そこで発見された多数の古代資料には、風水の「青竜」「白虎」などの四獣を伴った「二十八宿(にしゅうはちしゅう)」の名称が朱書きされていた。日本でも、西暦7世紀から8世紀とされる国宝の「高松塚古墳」や「キトラ古墳」の壁画に、白虎などの四神と共にこの二十ハ宿が見つかっている。このころすでに、日本に伝わっていたことが確認できる。(日本ではどのような経緯で独自の二十七宿に変化したか、詳細は不明)


二十ハ宿とは、天空を28区画に分割した領域のことで、それぞれの領域に存在する代表的な星を「星官(天官)」とする。星座に似ているが位置や名称は西洋とは当然異なる。月はこの二十八の星官の位置のそれぞれに毎日逗留しながら、28日たって天空を一回転して、元の位置に戻ってくると考えられた。全てが寝静まる神秘的な深夜に、満ち欠けして長久に天空をさすらう「月」が、決まって留まり続ける28の宿(二十八宿)は、天文風水や暦で特別な意味を持つとされた。(月の満ち欠けは、生まれてから死に至る一生に例えられていた。)

※「宿」とは一時的な宿をさす現在とは意味が違って、自らの家を指していた。つまり二十八宿とは月が天空にて休むことになる各地の自宅を意味する。


この二十八宿でも、北方で皇帝を守護するとされるのは「玄武」の役目だ。(それが家康が江戸の北にある日光東照宮で眠る理由でもある。)その東端には「壁」という宿(しゅう)がある。中心になる恒星は、西洋の星座でいえば「ペガスス座γ(がんま)星」で、そこには6つの星官(星座・役人)が属する。(カッコ内は西洋の星座を示す。)


玄武の「壁宿」にある「六つの星官」

壁(主星) 壁・図書館(アンドロメダ座/ペガスス座 γ2)
土公 土木工事(農耕?)の役人(うお座 2)
霹靂  雷神 (うお座 5)

雲雨  雲雨 (うお座 4)

鈇鑕  まぐさ(牛馬の飼料)を切るノミ、または畑を耕すクワ(くじら座 5)

天厩  厩(うまや)または厩の管理人(アンドロメダ座3)


壁宿の和名は「かべやど」ではななく「なまめぼし」で、壁宿の主星とされる「壁」も、和名は「なまめ」である。なぜ「なまめ」と呼ばれるかは現在も不明とされる。一説では農耕に関わる可能性が高いともされる。もし「儺豆(なまめ)」の意であれば節分で厄除けに使われる「豆」を意味する。


「儺(なまめ)」は、紀元前の古代中国で行われていた陰陽五行思想による邪鬼を追い払う行事とされ、『呂氏春秋』や『周礼』にも記録がある。日本では『続日本紀』慶雲三年(706年)文武天皇の時代にに「儺」が朝廷の行事として初めて行われたことが記録され、貝原益軒の『日本歳時記』(1688年)にも大晦日の行事として「俗に随て今宵儺豆(なまめ)をうつべし」とある。この行事は現在は、大晦日から時期を移して「節分」として名残を残している。


中国では清の時代に海外からの侵略に対抗した防御拠点に「石鎮壁谷」の地名が記録されている。(現在の福建省泉州市)石鎮とは古代中国で各地に置かれていた地名の名残であり、その名のとおり争いを鎮める防御拠点を意味する。「壁宿」が「儺(なまめ)」つまり「邪鬼を追い払う」ことを意味するなら、外敵からの防衛拠点を守護する最適な名字は、まさにこの壁谷であったかもしれない。この地は台湾と最も近く、海のシルクロードと言われた西の起点でもあり、同時に中国で最も「壁谷」の堂號が多い地域である。

※中国では、皇帝のいる都や重要な交通拠点の南側(中国では入口となる)の地点に壁谷の地名があった例が多い。


中国風水では「壁宿」「室宿」は「北方玄武の別棟」ともされ、壁宿は王(あるいは皇太子)の宮殿を、室宿は皇后の宮殿をさすと推測される。古代中国の天文風水と西洋の占星術とは関連が深く、シルクロード東端の平城京に到達していたことは正倉院宝物などから推察できる。ギリシア神話の「神の目」はちょうど「壁宿」と「室宿」のペアで構成された天上の四角形の中にある。それは「秋の大四角形」あるいは「ペガスス(ペガサス)の大四辺形」ともよばれる。日本では「枡形(ますがた)星」などと呼ばれる。

※壁宿の「なまめ」がもし「生天目(なまめ))」であっても面白い。生天目は日本人の名字にもある。その居住地は福島・茨木・栃木であり壁谷の居住地の分布にも近い。なお「辟」に「目」をつけて「䁹」という文字があり、別名「魔眼」ともいわれる。「䁹」は眼力で他人にダメージを与えるともされ、外敵を防ぐ攻撃的な意味がある。これらは後述する攻撃的な風水建築「壁刀煞」にも繋がりそうだ。


なお、壁宿で「天厩」とされる「厩(うまや)」については皇太子の教育機関であったことが、古代中国の記録から確認できる。このことは、古代道教や風水に傾倒していた用明天皇の子「厩戸皇子(聖徳太子)」さらには「蘇我馬子」の名にも表れている可能性があると筆者は推察する。この点は別稿で壁谷と聖徳太子の関係に深く触れることになるので、そちらに譲りたい。


室宿の11星官

室 (ペガスス座 2)
離宮(ペガスス座 6)
騰蛇(アンドロメダ座など22) 中国の蛇神。飛行能力 を持つ蛇

雷電(ペガスス座 6)

土公吏(ペガスス座 2)

壘壁陣(やぎ座/わし座/うお座12)

羽林軍 (わし座/みなみのうお座 45)

天綱( みなみのうお座 1)

北落師門( みなみのうお座 1)

斧鉞(わし座 3)

八魁 (くじら座 6)

※「室」にも稲作を類推させる「雷」や「蛇」があることは興味深い。また壘は「とりで」と読まれ現在は「塁」と書かれ、後に城へと発展する。この「壘壁陣」は離宮の城壁をまもる兵をイメージさせる。


『淮南子』(西暦121年成立)の「天文訓」に28宿の広がり(天上の角度)記述があり、漢書』(1世紀後半に成立)「天文志」にも記述がある。ここでは壁宿は「東壁」、室宿は「營室」とされている。以下『淮南子』に書かれる二十八宿の名を示す。

北方玄武 斗  牽牛  須女  虛  危 營室  東壁
東方青龍 角  亢   氐  房   心   尾   箕
西方白虎 奎  婁  胃  昴  畢  觜嶲  參

南方朱雀 東井 輿鬼  柳  星  張  翼  軫

※前出の「乙」の墓では1万点もの発掘物があり、竹簡(日本でいう木簡)には6700文字もの墨書きが見つかっている。『中国の星座の歴史』によれば、そこでは營室を「西縈」、東壁を「東縈」として同じようにペアとしている。一方で『史記』の「天官書」では「營室」を皇帝の「離宮」とする説明がある。これらのことから後世に皇帝の離宮が「室」「壁」へ変遷した可能性が高い。古代中国の辞書『説文解字』では、「熒」についての解説で「屋下の灯燭の光なり。」とあり、これからも離宮の星とされるイメージと重なる。


「壁」は天空上で北の玄武ではあるが、その中でも最も東北に近い位置にあり、これが「東壁」の所以かもしれない。南方朱雀の「東井」と対照的でもある。南北にある東の名のつく宿から「壁」と「井」がペアに見えるだろう。この2つを組み合わせると「壁井(谷)」となる。また、「壁」(東壁)から北に回ると隣は「室」(皇后)であり、ひとつ東にまわると「角」(皇太子)になる。現在も皇太子は「東宮」とよばれる。つまり壁宿は皇后と皇太子の間で、どちらにも隣接して存在していることになる。


壁宿は宿曜道(すくよどう)の経典にも記載がある。『文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』(卷上)では「壁宿」は「璧圖(壁圖)」と記録される。(「圖」は「図」の旧字体)他にも『舎頭諫経』『摩登迦経』『月蔵経』などに登場している。その内容は詳しく確認できていないが、漢文として解読した限りでは、古代サンスクリットに関わり、相当深い意味がある。後の北斗信仰や妙見信仰、南北朝時代の荼枳尼(ダキーニ)信仰、そして文殊信仰に発展したと思われる。後の壁谷と妙見信仰・文殊菩薩との関係に発展した可能性も高いだろう。(なお宿曜道では二十七宿とされ、ひとつ少ない)


『文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』(卷上)の原文から引用

壁圖。壁二星形如立竿。尼陀羅神也。姓瞿摩多羅。食大麥飯酥乳。此宿直日。
宜造城邑婚娶。永久長壽增益吉慶。不宜南行。若用裁衣多得財物。此宿生人。法合
承君王恩寵。為姓慎密慳澁有男女愛。供養天佛亦好布施。不多愛習典教

(景風曰中國天文壁二星主圖書祕法。北方之宿也)

※句読点はと括弧は筆者がつけた。


壁宿と壁谷

壁宿を単純に和名でよめば「かべのやど」もしくは「かべやど」になる。古語辞典によれば、当時の宿の意味は自宅を意味し、現在のような一時的な宿泊地という意味はなかった。「宿」は後世になって意味が変わってきたようた。当初は徐々に自宅の入り口の戸や、庭先の土地を指すようになり、現在のような宿泊地の意味が持たれるようになったのは室町時代から江戸時代にかけとされる。宿泊地の意味は「やどり(やどかり)」という別な単語から派生した意味だったとされる。万葉集や古今集、芭蕉の句などから、その推移が読み取れる。


『万葉集』額田王(ぬかだのおおきみ)

488 君待つとわが恋ひをればわが屋戸の簾動かし秋の風吹く

※天智天皇が額田王の自宅(屋戸)に通ってくるのを待つ歌とされる。

『万葉集』大伴家持(おおとものやかもち)

744: 夕さらば屋戸開け設(ま)けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を 

※「夜になったら(自宅の)家の戸をあけ夢の中で逢いに来ようとする人を待とう。」

『古今集』

秋は来ぬ紅葉は屋戸に降りしきぬ道踏み分けて問ふ人はなし

※「秋が来て紅葉は屋戸(庭)にいっぱい散ってしまった。しかしその道を踏み分けて私をを訪れる人はいない。」このころは庭という意味で使われている。

『笈おいの小文』松尾芭蕉 1688年

草臥(くたび)れてやど借るころや藤の花

※江戸時代には一時的な「旅の宿」という意味で使われている。


当時の「宿」は庭のあるような大きな意味し、「屋戸」や「屋形」、「屋敷」などとも書かれたようで、現在も歴史の古い地名には「屋戸」や「屋敷」と付く場所が各地にある。そうすると古代風水の影響が少なくなった平安時代以降に「壁宿」は「壁屋戸」や「壁谷戸」などなったのかもしれない。これは「壁谷」の起こりとどこかで関係があるのかもしれない。


隠宅風水と壁谷

現在も関東・東北を中心に「石森(いしのもり)」の地名が残り、その周辺には「屋敷」「古屋敷」「屋形」「屋戸」、さらには「壁谷」の地名が隣接することが多い。たとえば、福島県田村郡、福島県いわき市、宮城県仙台市などである。この「石森」は「石守」さらには「箱守」とも書かれ、墓守りも意味するとされる。おそらくは地名に残るほどの壮大な「屋敷(屋形)」があったのだろう。その近傍を代々守った一族がいたことも、想定できよう。石は古来より墓石にも使われており、中国古代の隠宅風水による強い影響のもと「壁谷」には祖先を守り続け、家を繁栄させる意味もあった可能性がある。


このことは、日本の各地に残る壁谷家の伝承に符合すると思われる点もある。例えば、福島県須賀川の壁谷には、室町時代以前の殿様の墓を守り続けているという伝承が残る。あるいは、奈良の壁谷には聖徳太子が築いたとされる斑鳩の法隆寺を護り続けているという伝承が残る。また、栃木の壁谷の地で、聖徳太子と関わりの深い太子館に寄り添うようにに存在し、そこにも壁谷の一族が居住している。鎌倉には頼朝が作った源氏の菩提寺、勝長寿院の旧跡を守る壁谷がいる。頼朝は京の仏師をている。頼朝は源平の合戦などで荒廃した京や奈良の寺院を復興し、鎌倉にも平泉に負けない寺院作ったとされる。勝長寿院は、頼朝が御所があった大倉御所に隣接して建てた菩提寺で、鶴岡八幡宮寺、永福寺とともに鎌倉三大寺院として知られている。しかし室町時代には廃寺となって荒廃した。その跡地は現在も大御堂ケ谷(おおみどうがや)と呼ばれており鎌倉最大の寺院があったことが推測できる。


全国各地の壁谷の地名は、石を切り出すことのできる地に多く存在することも分かっている。多くが御影石や石灰石(大理石)の産地であり、良質な土の産地でもある。そこから切り出された石は、墓だけではなく、古代の巨大建築や都の造成に使われたことが容易に推測される。特に壁谷が多く居住する、福島、愛知、茨木は日本三大石材産地としても有名だ。(日本石材工業新聞のHPによる)これらついては、別稿で詳しく触れる予定だ。


平城京・平安京を風水で観る

ここで、日本で天皇がいた都を風水で見てみよう。この時代、気の湧き出でる天の中心を北極星と見た場合、風水好地に在る場合の皇帝の風水の基本は「背山面水」「北座南向」となる。皇居大極殿はこの原則を守っており、特殊な目的をもって墓を築いた後醍醐天皇以外では多くの天皇稜にもその傾向が見え、昭和天皇稜もこれに違わない。背後の山は北にあり、東西には砂壁となる丘陵があり、南に水を配置する。それぞれに伝説の四聖獣を配置し、北の「玄武(げんぶ)」と「朱雀(すざく)」、東西に「青龍(せいりゅう)」と「白虎(びゃっこ)」とする。

※雄略天皇期(中国古典に登場する「倭の五王」の「武」とされる時代の前後)の古墳は、南面しない。その理由は、冬至の太陽の角度と不死再生の御霊(みたま)振りと推測でき、別稿で触れている。


元正天皇は、平城京(奈良)に移る詔で奈良の都(平城京)は陰陽道に基づいて設計されたことを臣下から勧められたので、気が進まないがそのようにしたいという詔を発している。(『続日本紀』)しかし藤原不比等が中心になって作られたのが奈良時代の律令や平城京となる。律令は唐から持ち込まれたが、天皇の権限を大幅に弱められて改変されていた。また、平城京には風水上の大きな欠陥があり、背後にはある意図が見え隠れしている。奈良時代は聖武天皇を除いて女帝と幼帝が代々続き、天皇となっても廃されたりしていた。


奈良の都が風水的に万全でなかった理由は、「北方玄武」と隣接する「東方青龍」を見れば気が付くかもしれない。北方玄武の「壁宿」の隣は、東方青龍の「角宿」である。「壁宿」が皇宮の別邸として、皇子の学問を支えるのに対し、隣接する「角宿」は皇帝や皇子の武力や裁判をささえる、いわば高級官となる。言い換えれば、「東方青龍」は皇宮の外にあって武力や裁判権を行使したり、乳母として皇帝を支える外祖父、高級官僚として実権を握れる立場となる。


平城城京は風水上、天皇家にとって万全ではない都だった。平城京の東は高い土地で、北方玄武にある皇宮を見下ろす位置となった。しかも「東方青龍」東の地は、藤原氏が邸宅や氏寺を置いて独占していた。これが平城京への遷都を強要された女帝「元明天皇」が、遷都に乗り気でないと詔を出していた理由だろう。『日本書紀』を始めとする国史には、数々の改竄が指摘されるが、さすがに「天皇の詔」そのものには、改竄が加えられることはなかったと筆者は見ている。


実際に、藤原不比等(藤原鎌足の第二子)は皇宮の実力者、鼎犬養美千代を妻に迎え、子とされる宮子を後宮に送り込んだ。宮子は後の「聖武天皇」を生む。不比等は同じく子の安宿(あすかべ)姫を聖武の皇后に送りもうとした。長屋王は臣下が皇后になった例はないとして反対していたが、陰謀を企んだとして排除された。(長屋王の変、後年の『日本後期』は長屋王に罪がなかったことを認めている。)その半年後、安宿姫は臣下としてて始めて皇后となった。光明皇后である。聖武も晩年には気力を失ってしまい、まもなく天武天皇・持統から始まる皇統は、奈良の都と共に途絶えることになる。


東方青龍の七宿

角[す] 皇帝(皇子)・武器・裁判
亢[あみ] 季節・王座・尋問官、刑執行官
氐[とも]  皇帝乳母、矛と盾、 戦車、騎兵

房[そい] 閂(かんぬき)罪、日時、医官、巫女

心[なかご] 心臓、軍隊

尾[あしたれ] 後宮、更衣室、亀、銀河、魚

箕[み] 精米、糠(ぬか)、杵(きね)


一方で平安京は結果的に、風水上すぐれた土地となった。『日本紀略』などには、後の平安京に移る前に土地の視察にいって「山河襟帯(さんがきんたい)」と報告があった。このことは桓武天皇も納得したと「詔」を出している。桓武天皇は、「壬申の乱」で敗れた天智天皇の皇統であり、結果的に天武天皇の皇統を徹底的に絶やし、天智天皇の皇統を今に伝えることに成功していた。


『日本紀略』(延暦12年正月)に残された『日本後紀』卷第三逸文

十一月丁丑、(桓武天皇が)詔(みことのり)したまはく「云々。山勢実に前聞に合ふ、云々。此国の『山河襟帯』自然(おのずから)城を作(な)す。此の勝(形勝のこと)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。」

※()および「」『』は筆者がつけた。


当時の歴史書は中国古典を意識して書かれている。ここで出てくる「山河襟帯」は、中国の歴史書『史記』でも「四神相応」の地という意味で使われている。実際に平安京はこのこの風水に適う地であることが当初から重要であると認識されていたことになる。この詔を出した桓武天皇の血脈は公式には現在の天皇にダイレクトに繋がる。実際に平安京の風水を見てみる。


平安京大極殿の風水

  • 北玄武:900m級の丹波高地、貴船山(699m)船岡山(111m)と連なり御所の前で融穴。
  • 東青龍:大文字山(466m)稲荷山(233m)から下る。
  • 西白虎:嵐山(382m)から下る。
  • 南朱雀:東の鴨川、西の桂川から巨椋池に。先には甘南備山(221m)吉野連峰。

※巨椋池(おぐらいけ)は湖といえるほどの広大な池だったが、秀吉によって築堤されて姿を変えた。そのあと昭和初期に干拓されてしまい、現在その姿はない。

風水好地において東西南北に「玄武(げんぶ)」「青龍(せいりゅう)」「白虎(びゃっこ)」「朱雀(すざく)」の四聖獣(四神)を配置するのは古代風水の基本である。平安京では、玄武と青龍の白虎へつながる龍脈の流れ(来峰)が一致する。これは「本身龍虎」といわれる最高の形である。また、東西にあたる青龍と白虎の砂(山)の高さにほとんど差がないのは「半陰半陽」と呼ばれ陰と陽のバランスが良いことで最も生気を高めるとされる。(この点が平城京とは大きく違う)さらに、四方向を小山で囲まれるのは「四陣砂」(陰陽道では「四神相応」)と言われ気が逃げ散らないためのパワースポット「明堂(めいどう)」の最適条件だ。特に四聖獣(四神)を直線で結んだど真ん中の位置は「交差明堂(こうさめいどう)」といわれ、風水の生気パワーの極大スポットになる。丁度その位置には天皇の「大極殿」が配置されていた。

※陰陽五行では東西南北の四方向の四神の中央に「黄竜」または「麒麟」を加えることで「五神」とし「五行」に一致させる。


南の朱雀の位置に小山があるのも条件の一つで、かつ朱雀は他の三聖獣より遠方に弱めで広くひらけた土地が好ましい。その朱雀へ導く平安京の真ん中には、一本の巨大な道路があり「朱雀大路」と呼ばれる。左京、右京に市街を開いた平安京は、大極殿を頭とし広大な「鳳凰」が羽を広げた「金鶏展翅」形である。「延喜式」によれば、この朱雀大道の道幅は、なんと80m以上もある。藤原氏の全盛時代に立てた「平等院鳳凰堂」も鳳凰が左右対称に翅を広げた「金鶏展翅」形だ。この鳳凰は、徳のある聖天子の出現とともに現世に現れるとされている。(『礼記』礼運篇による)


鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には鎌倉幕府でも陰陽道の行事が行われている記録が多数あり、重要な行事だったことがわかる。実はその鎌倉も北東西三方を山に囲まれ手前に川池(海)の広がる「本身龍虎」の形である。多くの武家の棟梁も「谷(やつ)」と呼ばれる本心龍虎の地に本拠地を築いた。その地名は鎌倉将軍に付き添った上杉家が、鎌倉で本拠を構えた「扇谷(おおぎがやつ)」などで、現在もそのまま地名として残る。このことは、平安時代初期の『新撰姓氏録』などの記録ではほとんど存在が確認できない「谷(や)」の着く名字が、平安後期から鎌倉時代にかけて急増することになった理由のひとつとも思える。

※関東では稲作に適し、また人の居住に適した地は「谷(やつ)」と呼ばれた。これは『十六夜日記』にも鎌倉の「月影の谷(やつ)」「比企の谷(やつ)」などと記録されている。


※『吾妻鏡』の頼朝の記述をもとに頼朝は陰陽道を信じなかったとする説がある。確かに実際、治承4年(1180年)10月の陰陽道で頼朝の忌日とされた日、頼朝は周囲が反対したにも拘わらず押し切って挙兵を強行したと記録される。また建久元年(1190年)の6月には陰陽道では外出を一日避ける日(忌日)に臣下の家に行って酒宴を開いたことも記されている。結果的に頼朝は長女大姫を朝廷に入内させる工作に失敗し、臣下の妻の供養に向かう途中落馬して命を落とすことになる。


しかし建久六年(1196年)ごろから頼朝の死まで『吾妻鏡』の記述に不自然な記事の削除が多数見えることが以前から指摘されて、その理由は現在まで判明していない。一方で頼朝の死後の記録では、幕府で陰陽道の行事が恒例の行事として頻繁に行われていることが記録されている。筆者の推測だが、現存する『吾妻鏡』では頼朝の陰陽道への不信心で、源氏の直系が途絶えたと暗示させるよう、一部改竄された作為を感じられなくもない。頼朝が自ら選んだ幕府を構えた地鎌倉は、東西と北の三方の背が山が迫り、南に海のある「山河襟帯」で、風水好地であった。


天海の思想で設計された江戸の風水

日本には主要な龍脈が3系統あると言われ、日本地図の地形図を俯瞰すると自ずと浮かんでくる最大のものは「西日本龍脈」で、糸魚川・静岡構造線の西側に沿って形成される。これはいわゆる日本アルプスを起点とする。それが飛騨山脈や赤石山脈の高山を連ねて西日本全体に走ると、紀伊半島、九州、四国にわかれ伸びている。二番目は「東日本龍脈」で、北海道の小樽・函館から群馬・茨城に連なる。最後の三番目は北海道の稚内から襟裳岬をつらぬく。平安京、江戸はともにそれぞれ日本龍脈の一端、東日本龍脈のやはり末端に位置している。


江戸城も地理風水からいえば「本身龍虎」であることは間違いない。上野、武蔵野などの小高い台地に囲まれる風水の「砂」であり、その中央に位置する江戸城は「明堂」としての条件も備えている。ただし江戸の場合、陰陽道や風水をベースにはしているが、禅宗の「天台宗」の影響を強く受けている。これは天台宗の大僧正天海(てんかい)の影響が大きいとされ、風水の「四神相応」は次のように捉えられたとされる。(学研『風水の本』から引用。)

東に大河ありて青龍、南に池ありて朱雀、西に大路ありて白虎、北に山ありて玄武。


江戸の風水

  • 北玄武 日光山(2,486m)東照宮(東照大権現)
  • 東青龍 隅田川 
  • 西白虎 甲州街道
  • 南朱雀 芝増上寺、東京湾、三浦半島大楠山(242m)、房総愛宕山(408m)

※北には、川越藩、忍藩、さらに会津藩があり、江戸を守る形となる。


江戸城の周りは、芝、赤坂、上野、本郷、小石川、、四谷、牛込、麹町、麻布台、白金台、芝など「山の手」といわれる高台に囲まれている。ちなみに「手」は「方向」を意味し、「山の手」は山の方向という意味になる。これに対し一般に町人は低い場所「下町」に居住した。

※江戸後期になると下町だった本所・深川など下町にも武家屋敷が広がった。幕末にこの地は江戸の防衛拠点として一気に生まれ変わるが、そこには壁谷が多数居住していた。


東照大権現として日光東照宮に祀ることを決めたのは、大僧正「天海」である。その天海が残した『真名東照宮縁起』によれば独自に編み出した「山王一実神道」により家康は祀られたとしており、そこには「その神秘の事項は他人の知る由もない」と突き放し一切の説明を拒む。おそらく天台宗に伝わる「山王神道」と密教の「大元帥法(だいげんほう)」を加えた独自の地理風水を編みだした。さらにはこれを秘法とすることで永久に破ることを不可能にしたものだ。(学研『密教の本』による)結果としては約300年の間江戸を守り、もしかしたら現在の東京の繁栄も守っているのかもしれない。


貞享2年(1685年)、より正確な暦として江戸時代に登場した、幕府天文方「渋川春海(しぶかわしゅんかい)」によって作られた貞享暦は、それまでの日本の宿曜道・陰陽道で作られた独自の「二十七宿」では正しい暦ができないとして、中国の風水思想「二十八宿」に沿ったものだった。それは今までより精度が高く明治になるまでの間「旧暦」として日本の暦を司ることになる。当時の日本の人々は、日常の生活において、風水をベースにするのが当たり前だった。


※ここまで読まれた方は気が付くだろうが、天海の名には風水的な意味が込められていとも見える。天海自身が自らの出自を深く語らなかったことや、108歳まで生きたという説もあり、神秘性を十分に物語るエピソードは数多く残る。会津の芦名氏の一族との説もあるが、実は家康が密かに匿っていた明智光秀であったという説もある。光秀か歴史から消えた時期と、天海が歴史に登場する時期がたいへん近い。家康が大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下統一がなった1615年、光秀が寄進したとされる石灯籠が、比叡山の松禅寺に残っている。日光東照宮には明智家の桔梗紋が多数残っている。天海の名も「智樂院」ともされ、諱は「慈現太師」である。廟所は日光輪王寺や、所沢の喜多院のほかに、大津の「慈眼堂」にもある。明智光秀の木像や位牌は現在はその「慈眼寺」にある。(この伝説によるのか、明治45年に移転している。)


江戸から日光東照宮へいく道には明智平の地名があり、光秀が天下を平らかにしたとも思わせる。春日局の子が三代将軍家光であったという説は、江戸城内の記録にも残されており信憑性も高いが、これが正しければ光秀の重臣齋藤利三の孫(春日局の子)が家光となり、光秀の天下取りを代わって達成したともいえるのかもしれない。江戸の北に位置し、天海が住職を務めた「川越喜多院」には天海の木造があるだけでなく、家光の命で江戸城の一部が移築さた。そこには「春日の局の化粧の間」「家光誕生の間」も移設されており、国の重要文化財になっている。


「壁刀煞」と香港の風水戦争

壁宿などここまでの説明で、壁とは防衛あるいは攻撃にどこか関わるかかわる拠点の意味を持っていることが理解できるだろう。そのことは実際の、壁の文字の意味からも理解でき、城壁の他に現在でも防御壁(防火壁)などといった言葉に現れている。そこで、ここでは、外敵を攻撃する風水建築の様式「壁刀煞」を紹介する。


風水が盛んな地のひとつに香港がある。香港の地の南側にある「大平山」の山頂付近は、イギリス領だったころヴィクトリア女王の名にちなんで「ヴィクトリア・ピーク」と名付けられ現在も絶好の夜景が知られる観光名所である。周囲の山並みにある公園や高級住宅地などは「ザ・ピーク」といわれ、山上からは「ヴィクトリア・ハーバー」を背景に取り込んで、香港島や九龍の超高層ビル群の明かりの広大な絶景が眼前に繰り広げられ「東洋の真珠」とも形容される。


そんな香港は1990年ごろ世界最大の外貨保有高を誇る金融大国として世界金融の中心ともいわれた。中国の急速な発展でその地位は下がったが、しかしその経済は健在で2013年時点で、ニューヨーク、ロンドンに次いで世界第三位とされ、第四位とされる東京を抜いていた。(『国際金融センターの都市比較』日本国際経済学会 報告論文2013による)最新の世界金融センター指数でも香港は同じく世界第三位となった。(英国コンサルティング会社Z/Yen2018年3月調査結果)またグローバル都市ランキングでも、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京に次いで世界第五位に入っている。(米国市調査経営会社A.T.カーニー2018年調査による)


実は香港は、中国大陸の三大幹龍のひとつとされる「南龍」がなんと11箇所で「龍穴」を結ぶとされる終結点であり、古来から絶好の風水良地とされている。

  • 北玄武:中国三大龍脈南龍、深圳市の羊台山(587m)
  • 東青龍:馬山村(高台)
  • 西白虎:半山(高台)
  • 南朱雀:香港島大平山(552m)、太平洋

※大平山の南端のふもとには「石壁凹」といわれる有名な明堂がある。


そんな世界の金融都市香港を舞台に1990年代に新聞や雑誌をにぎわしたのは、イギリスと中国の間で「風水戦争」が勃発したとして、日英の新聞紙上を賑わして話題になった。具体的には次のようなことである。イギリス資本の 「香港上海匯豊銀行」(以後「香港上海銀行」と呼ぶ。)の本店ビルは南龍が融穴する「明堂」の真っただ中にあり、イギリスの建築家が風水師の指南を受けて建築したとされる。高さは178.8mあり、高層ビルとしては世界で初めてとされる釣り天井で作られ、左右(陰陽)対称で香港の地の風水の「気」をこのビルの中に全て取り込み吸い上げるとされ、典型的な風水建築としても有名になった。鉄鋼構造の特異な外見からは通称「カニビル」とも呼ばれた。


一方で1990年に完成したのが「中国銀行タワー」である。中国系アメリカ人の設計で、高さが367.4mもあり当時はアジア一の高層ビルだった。先に記した香港上海銀行の2倍もの高さがある。実は格段に高い構造物は強い「気」を発し、周りの龍脈を乱すとされる。また三角形に鋭角尖った外壁にはハーフミラーで総鏡張りであった。それは、地上にそびえ立った巨大な「刀」にも見えた。その2枚の刃先は、それぞれが北西の「台湾銀行本店」と、南西の「香港禮賓府」(以後、香港総督府と呼ぶ)に向いているとされた。


1997年に香港は中国に返還されているが、イギリス統治下では「香港総督府」に香港の行政・軍政指令部があった。日本占領時には日本もここに司令部をおいた。「香港上海銀行」はイギリス資本、「中国銀行」は中国資本だったが、両行共に香港ドル紙幣の発券銀行、つまり日本の日銀に相当していた。これが中国と香港(イギリス)の全面対決として大いに話題になった。

※現在も日本統治時代の「香港総督府」の建物が残っており、一般公開日には内部に入れるという。


風水には建造物の吉凶を論ずる「巒頭(らんとう)風水」がある。その中で特に「形煞(けいさつ)風水」とよばれるのは、継続して精神的な打撃を与える建築形態である。たとえば、両脇を巨大なビルに挟まれた位置は「天斬煞」とよばれ、道路や鉄道の急カーブする地点に外側で面した位置は「鎌刀煞」、建築物の角が人の方向や建築物に向かってくるように見え場合の「隔角煞(かくかくさつ)」などいくつかの種類がある。この「煞(さつ)」は「殺」と同様の意味と捉えてよい。(以後「煞」を「殺」と書くことがある。)

※JR過去最大の鉄道事故とされる福知山線の列車脱線の地点は、まさにこの「鎌刀煞」であった。


この隔角煞のうち、特にその角の形状が刀のように鋭利に尖っている場合は特に協力で、時に「壁刀煞」といわれる。これは尖角照射で強烈な殺気を集中的に発することで、刃の先に向けられた相手に与えるダメージが極めて大きいとされる。想像して欲しい、自分に向けられた「真剣」の刃先が身近に意識できるとき、たとえそれが視界に入らなくとも、落ち着いて仕事に集中できるだろうか。それが「壁刀煞」だ。


刃先が向けられたと見なした香港上海銀行は迅速に対策を打った。ビルの屋上に中国銀行タワーに向けられた「大砲」を設置したのだ。これは「反撃開始」と風水の専門機関誌でも話題になった。一目見て、その形状は大砲であることを誰もが否定できないに違いない。しかし実は、単なる窓拭き用の「ゴンドラ」にすぎなかった。

※「中国銀行タワー」の鋭角に尖った刀のような特徴的な姿は、現在も見ることができる。そして「香港上海銀行」「ゴンドラ」をネットで検索してみれば、だれが見ても大砲にしか見えないその見事な雄姿を、現在も確認することができる。google earthなどで中国銀行タワーの刃先(とされる方向)がどちらを向いているかも、地図を追えばわかるだろう。


風水が気の流れである以上、この騒動は両銀行間だけでは収まらなかった。周辺の地区に新築されたビル群は、この中国銀行タワーの風水攻撃を跳ね返そうとあちこちでハーフミラー張りのビルが建った。鏡は風水の流れを変え、悪い気の尖閣照射を相手にはね返すことができる。(風水では、鏡は密教の「呪詛返し」に相当する威力をもつとされる。)この地域の各ビルの室内の窓には風水攻撃を跳ね返すとされる「八卦鏡」を、ビルの外に向けてかけた例が報道された。この騒動は、香港で著名な風水専門の月刊誌『風水天地』などでその後の経過が何度も報道され続け、国際的なニュースとしても話題になった。もちろん、「風水戦争」と揶揄されて報道されたことに関して、政府関係の当事者たちは何のコメントもしていない。

※2018年9月現在、中国CGTN(中華人民共和国の国営テレビ局中国中央電視台)のアメリカ本社はワシントンにあり、米国国内向けに24時間放送を行っている。そのオフイスビルはハーフミラー全面ガラス張りのビルで、周囲からの風水攻撃を跳ね返すことができる。所在地は南にホトマック川が交差する三角州の中にあり、やはりアメリカでも風水宝地となる交通の要衝に立つ。実際に地図上で確認してみよう。すぐ近くにある、ホワイトハウスなどアメリカ政府の主要施設がどの方角にあるか、おもしろいことに気が付くかもしれない。


香港では以前のイギリス統治の影響もあってキリスト教の影響が大きい。そんななか特定の宗教をもたない人は何を信仰しているかとの調査に「風水墓祭祀」と答えた人が61.9%、「風水信心」が44.4%という調査結果が出ており、特に高学歴者に風水を信じる人が多い傾向があるとされる。これだけ多くの人が風水を信じている地域は稀でもあろう。(学研『風水の本』より)香港だけでなく、台湾(中華民国)や韓国、シンガポール、ベトナムなども風水が浸透している地として有名だ。


たとえば台湾では、中央山脈は中国大陸の三代脈龍のひとつ南龍が一旦海に潜って台湾で隆起した場所とされ、南西にある主峰玉山の気とあわせて台北(たいぺい)で龍穴を結ぶとされる。台湾の首都ともいえる台北には2004年に地上101階建て、当時世界一の超高層建築物として竣工した「台北101」がある。全面ガラス張り(ハーフミラー)で竹を模した節がある高層建築だ。まず建築場所は風水で決められ、そして建物の内部には龍頭や吉祥といった風水ゆかりの構造物や文様が随所にあることに気が付くという。そんな台北101は観光名所としても現在も有名だ。(建築はJVで、その中には日本企業も含まれた。)


台湾観光局のHPから抜粋

TAIPEI 101は最も理想的なエリアにあり、国内建築史上最も大きな建築プロジェクトです。このプロジェクトは、国内14の企業が共同で構成する台北金融大楼股份有限公司が国内外の専門家チームと協力して企画し、国際レベルの建築士・李祖原氏によって設計されました。単一的な設計観念を超え、中国人にとってめでたい数字である「八」をセクションに設計。8階を構造上の1ユニットとし、それらが重なり合って全体を造り上げています。(中略)多層式デザインは、高度な科学技術を用いた構造(メガストラクチャー構造)によって、防災・防風に優れた効果を発揮します。8階を1ユニットとして作られた空間が、高層建築で発生する気流による地上の風を自然に弱めます。(中略)竹がしなやかに成長するかのようなデザインが、生命力溢れる中国伝統建築の概念を象徴しています。

※この中には「風水」と直接的な説明はない。しかし「理想的なエリア」、「八」、「中国伝統建築」「竹」「生命力溢れる」など、風水を知る者には風水建築とわかる表現が隋所で使われている。


台湾ではどの書店でも風水コーナーがあり、その出版物の多さは、香港をはるかに凌いでいると台湾の専門出版社「建築雑誌」の記事にある。また台湾の建築では、玄関のドア(入口)は決まって内側に開くという。これは風水の「気」を内部に招き入れるためだという。

※日本では、玄関のドアが家の内側に開く例を見たことはない。昔の家の玄関は、引き戸が多かった。しかし現在は日本のどの家の玄関も外側にドアが開くようだ。


2011年の台湾政府の統計によれば、台湾全土の寺や廟の78.2%が道教風水となっているという。(中華民国台湾外交部のTAIWAN TODAY統計報告)台湾では今でも陰宅風水が盛んな状況ではあるようで、そのため自らの祖先を大事にする傾向も極めて強い。


最近では2016年の鴻海精密((ホンハイ:本社は台湾)によるシャープ買収劇でも一部で報道された。当初シャープは契約調印日を3月31日に予定していた。この方が企業の決算上都合がよいからである。しかし鴻海側が、4月2日の土曜日と異例の日に調印日を変え、その日には両社の会長・社長が金のスカーフをかけて現れた。当時鴻海側の担当者がこれらは風水師の影響であると説明したことが報道されている。


台湾が発行している、日本人向け「外国人ガイドブック」(台北市政府)には、政府が認める風水に関するサービスが掲載されている。台北政府が認めるオンライン申請は、10項目あるが、この中に2種類の風水に関わる申請があり、現在も風水に関する手続きが、市民サービスとして政府に正式に採用されていることは注目に値する。以下にその概略を示す。


台北市政府警察局の「治安風水師による鑑定(空き巣防止アドバイザー)」から引用

台北市政府警察局は市民の防犯意識を高めるため「治安風水師」プログラムを設けており、住宅の安全度の鑑定と、改善のアドバイスを依頼できます。
1. 申請資格:現在、台北市に居住している住民。
2. 期間:年中無休

3. 申込先:台北市政府警察局各分局偵察隊・派出所


台北市政府消防局の「消防風水師訪問の申請」から引用

1. 申請方法:郵送、窓口、電話、ネットなどで申請する。
2. 必要な書類:申請書。
3. 注意事項(省略)

4. サービス項目

 (1) 防災意識

 (2) 避難

 (3) 電気系統の安全

 (4) ガスの安全

 (5) 浸水対策 

※掲載されているURLや電話番号、申請方法などは、筆者の判断で削除した。本件を確認するための台北政府への問い合わせなどは、決して行わないようご留意いただきたい。


過去に科挙で風水師を採用してきた歴史をもつ韓国でも、風水は現在でもたいへん根強く、しかも国政に関わる記録に何度も登場する。『韓国の風水師たち』では、「歴史的に見ても政権の中枢にいた人が風水にのめり込んだという話がはっきり残っている。日本はもとより本場の中国でも歴史書にはさほどでてこない」と、風水の影響の強さを指摘する。たとえば、1987年8月15日にオープンした独立記念館は、五龍争珠地という風水好地にあるとして当時の全斗煥大統領を説得した。(学研『風水の本』による)現在の韓国の国旗も中央に「陰陽」を表す「太極」を表し、四隅には「卦」が配置される。また最高裁判所に相当する大審院は、左右対称に羽を広げビルの中央に巨大な空洞を設けている。これは風水建築であることが素人目からも明らかである。


韓国の譜水を研究したのは韓国が日本統治下(日韓併合)だった時代、朝鮮総督府から嘱託された村山智順である。その著書 『朝鮮の風水』では、膨大な量の風水に関する漢籍を解読した上でそれ らを整理し、現在も韓国の風水研究に使われている。そこから韓国内では「日帝風水謀略説」が今もまことしやかに伝わっている。これは、龍脈の源に「日帝の鉄杭」と呼ばれる杭を打ち込んみ、日本が風水によって朝鮮民族の生気を封じたとされるものだ。この鉄杭は韓国の国家事業として過去に何度か引き抜きが行われている。1995年にも金泳三政権の五周年記念事業の一環として、日帝によるとされる180本の鉄杭を抜き取ったと記録される。


現在のソウル北岳山の麓は、北岳山からの風水の生気が集まる地形とされる。現在の韓国の首都ソウルは、李氏朝鮮時代に風水に基づいて設計された都「漢陽」でありその時代に建築された王宮「景福宮(キョンボックン)」は、北岳山(北)、駱山(東)、南山(南)、仁王山(西)に囲まれ、前方に漢江(ハンガン)がある風水上、最高の明堂とされる。現在の大統領府「青瓦台(チョンワデ)」もこの地にある。『李朝邑集落にみる風水地理説の影響』によれば、これらは「地官」と呼ばれる風水師によって、都市建設や、住宅、墓地の場所の選定に携わっていたとされ、その影響力は現在も残っているという。


『韓国中央日報』(2002年9月24日)によれば、高名な風水師が「青瓦台の敷地」は「人間の手が加わってはならない北主山の内側」だとして、青瓦台の移転を主張してきたという。この青瓦台を立てたのは、同じく日本統治下時代の朝鮮総督府(日本が韓国を統治するために作った官庁)だった。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は大統領執務室を、青瓦台から光化門(クァンファムン)移転することを選挙公約の1つに掲げていた。韓国の政治家は現在も大きく風水と関わらざるを得ないようだ。


ベトナムでも風水が盛んだ。人気の観光地であるダナンは、ホアソン(火山)・トゥイーソン(水山)・モックソン(木山)・キムソン(金山)・トーソン(土山)という五台山に囲まれた風水好地である。そこには、五つの橋があり、その中央のひとつには巨大な黄色の龍が躍動する「ドラゴンブリッジ」がある。この橋のチャック公式には当時の首相を始め、多くの政府高官が出席したという。


シンガポールの高層建築物や高級ホテルは、風水的に美しく特徴的な建設が採用されているものが特に多いが、このシンガボールもマレーシア半島の最南端に龍穴を結び融穴すると言われるその地にあるのはシンガポールのシンボルの「マーライオン」だ。モデルは獅子であるが、その姿はあたかも龍のように東の青龍「マリーナ湾」にむかって勢いよく「水」を吐き出している。似た形式は水こそ吐かぬが台湾の金門島に「風獅爺(フーシーイエ)」を多数見る。これは沖縄で「シーサー」に変化したとされる。おそらく日本の「狛犬(こまいぬ)」も同類の文化と思われる。これらはみな、中国古代の墳墓を守った「辟邪(へきじゃ)」からきている可能性がある。インドネシアなどにも風水の影響が残っているようだ。


五稜郭と陰陽道・風水

戊辰戦争の最後の舞台となった函館五稜郭は、陰陽道の五芒星をイメージした城だという説があり、そのような説明がしてあるWebページを多数見かける。確かにその形は陰陽師「安倍晴明」使用したとされる魔除けの「五芒星」にみえる。しかしこれは誤解だろう。


五稜郭は実は中世ヨーロパで大いに流行した「稜堡式(りょうほしき)」という建築様式なのだ。ヨーロッパの城に特徴的だった高い建築物は、大砲の発明後は格好の標的になった。そのため、平坦ですそ野の広がる城を作って攻撃目標目標をなくし、まわりの堀と土塁塁を鋭角の多角形とした。その頂点に近いところに大砲を設置すれば遠方の敵に攻撃でき、くぼんだ所に入り込んだ敵も挟み撃ちできる。その当時は画期的な構造だったといえよう。


江戸幕府はオランダやフランスを軍事顧問にしており、そこから学んだ日本の蘭学者によって1854年(安政元年)3月日本最初の西洋式要塞として作られた。しかし五稜郭が作られた時点で、時すでに代遅れだった。当時は大砲の射程距離が大幅に延び、土塁が低いことで城としての防御機能の脆弱性が露呈、この建築様式にメリットはなかったが、日本では最先端の城と誤認されたようだ。


現在の航空写真では五稜郭といいながら、6つ目の郭があるように見える。実はまだ建設途上だった。残された五稜郭の設計図からみれば、本来は五芒星の1つをさかさまにして重ねた形で実際は十稜郭だった。また安政2年(1855年)には、西側の現在の北斗市には、四稜郭ともいえる、「戸切地陣屋(へきりとじんや)」も作成されている。いうなれば五角形である必要はなかったのだ。


しかし、この北斗市に広がる広大な平野の部分(現在の「北斗市」)は地理風水では明らかに「本身龍虎」であり「四神相応」の条件を満たしている。この地が風水、陰陽道上の立地を考えて選ばれた可能性を否定することはできない。駒が岳から函館山のラインは「東日本龍脈」として北斗市で一度融穴したあとも奥羽山脈に連なり関東平野まで一直線につながっている。ここには風水好地を作っている。函館平野はこの南東に位置しているのだ。


  • 北方玄武:駒ヶ岳(1131m)、木地挽山(560m)、観音山(144m)
  • 東方青龍:大野川 
  • 西方白虎:松前ないし江指方面の街道、松前半島
  • 南方朱雀:函館湾、(函館山348m)

※函館山は明治以降に軍事要塞化した際に削られ現在は334mしかない。
※「函館」とされたのは、明治2年であり、それ以前は「箱館」が正式な名称。本稿では引用部分以外は函館に統一した。過去権力者はこうして地名を変えてきたが、その発音は簡単に変えることができなかった。


西方白虎の街道についてはピンとこないかもしれない。平安時代から江戸時代にかけて、北海道の下に伸びる渡嶋半島の西岸、現在の江指が拠点だった。『日本書紀』でも渡嶋半島(おしまはんとう)に阿部比羅夫が来たと思われる記述が確認できる。斉明天皇5年(659年)夏四月(旧暦)

夏四月、阿陪の臣、名を闕(も)らす、船師(ふないくさ)一百八十艘を率いて蝦夷を伐つ、齶田(あぎだ)・渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷、望(お)せり怖ぢて降(したが)はむと乞う。(中略)仍りて恩荷に授くるに、小乙上(せうおつじょう:当時の官位)を以てして、渟代・津輕二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定む。遂に有間の濱に於て、渡嶋の蝦夷等を召し聚(つど)えて、大きに饗(あへ)たねへて歸(かえ)しつかわす。

※『日本書紀』岩波文庫から引用。カッコ内のは筆者による。阿陪の臣は後段の記事から「阿部比羅夫」をさす可能性が高いと推測できる。


ここで登場する「齶田(あぎだ)」「渟代(ぬしろ)」の二郡は現在の秋田県の「秋田」「能代」のことだ。そこから日本海を北上して渡嶋と書いてある。現在の日本地図を見ると東北、北海道の西岸にそって船団が移動していたことがわかる。また、松前藩も渡嶋半島(おしまはんとう)の西側に属する松前半島に居城をおき、江戸時代初期から拠点にしていた。このように松前や江差から松前半島を東南(東)にむかうことが昔は一般的で、函館には陸行して向かった。これが正しければ「東に大河ありて青龍、南に池ありて朱雀、西に大路ありて白虎、北に山ありて玄武。」といえることになる。

※平安中期の『和名類聚抄』では「齶田(あぎだ)」を「秋田(あいた)」としている。


また函館の東に「函館四稜郭」、西には(これは四稜郭)がある。後者は五稜郭に近い。これらは、検索して航空写真をみれば、鋭利にとがった手裏剣のような形の城郭であることがハッキリわかる。四稜郭、三稜郭、七稜郭も角が鋭角(直角よりする鋭い角)に尖がっている。角が鋭角に尖っている。ここまで鋭く尖った土塁を作る価値はわからない。


実際いくつかの鋭利にとがった角に近寄ったことはないが、城の方面に攻めようと鋭角に近寄れば、目前に迫る巨大な鋭い突起が発する「壁刀煞」が相当なプレッシャーになって押しよせてくる気もする。そうであればこの当時の設計者が「壁刀煞」をも意識して建築した構造とみなすこともできるのかもしれない。


道教占星術と姓名判断

日本の姓名判断は、明治以降日本で独自に発展したものだ。一方で、中国で古代から明代までは壁谷の地名が各地にあった。ここで姓名判断で「壁谷」をみてみるとのも面白いかもしれない。のちの清代の『訂正康熙字典』には、なぜか「壁」の字がないのだが類字を参考にして壁谷の画数を数えると23画になる。現在の通常の日本語での画数を数えても23画だ。


中国風水では、0から81までの数字に吉凶がある。一般に三大吉数といわれるのが、16、23、32 とされる。(異説が多数ある)風水では23画の「壁谷」は大吉の名字ということになる。運気が良すぎることは立場や解釈により逆に欠点ともなりうる。そのため23画が必ずしも最良というわけではなないが、単純にいえば「壁谷」の名字は、大吉の条件をひとつ満たしているといえる。別稿で登場する、「穎谷」も中国南部で見かける「檗谷」も同じく23画であり、また「神谷」は16画である。(但し神谷は当時は「神谷」と書いたと、思われ17画になる。古文書で神の字が使われる場合、筆文字では字体を変え最後に「点」を付けている例が多い。こうすることで「神」は18画となり吉数に代わる。)

※『訂正康熙字典』では、壁の文字が見つからない。他に「辟」の下に「廾 」または「井」と書く文字が16画とされているが、この事情はよくわからない。一方で文字の説明として「壁」という字が何度も登場している。このような大書では「壁」は説明のいらないほどポピュラーな文字だったのだろうか。

※下の「名前」の画数なども含め他にも多くの要素がある。風水では生れや発音など多くの条件があり姓名判断などにはここでは言及しない。


風水「數理誘導」(以後「数理誘導」と表記する)

廿三(23のこと)數 旭日東升之發育茂盛數 大吉數
旭日東升勢壯富 貫徹大業萬事勝 終至榮達功名顯 猛虎添翼勢聲強 

和訳「二十三数 朝日が東から登るこれ発育繁盛の数 朝日が昇る勢いは強く富み 万事大業を貫徹するに勝る 栄達功名を現出に至り 猛虎の翼羽ばたく音は強し」


十六數 貴人得助之名利聚身數 大吉數
貴人得助天乙扶 爲人之上有財富 衆望所歸事業成 不可貪色保安甯

和訳「十六数 貴人にて天の助けを得て劣るを扶(たすけ)る 爲人之上有財富 人の上と為り財富有り 事業の成功は衆望の帰すところとなり 好色にあらず安寧を保つ」

※共に中国語、和訳の読み下し文は筆者による。

※『康熙字典』は清の康熙帝勅撰とされ1755年(清朝康熙55年)に完成した漢字事典。漢代に作成されたという『説文解字』に続きく由緒ある漢字事典であり、現在の日本の漢字事典のベースにもなっている。


現代に残る面影

かすかに東洋占星術や姓名判断にその影響が残るように見える。だが現在も続く日本の年中行事や習慣には、道教・風水の面影が残っていることに気が付くと、改めて驚かされることになる。中国では「毛沢東」が「破旧立新」政策で風水を徹底的に弾圧した。しかし後に「江沢民(こうたくみん)」中国国家主席は毛沢東の生家を訪れ、山を背後にし南面を向き手前に池を配置した毛沢東の生家の構造を「まさに風水宝地」だと皮肉っぽく語っている。(学研『風水の本』による)現在でも中国全土で風水の強い影響が残り、公式には語られないものの、実際は多くが風水を重視していると言われる。


風水による、五行相克は「五芒星」であり、五行創生は「正五角形」である。日本でも「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)によると、帝国陸軍の将校の正帽には金線で「五芒星」が刺繍されていた。また軍属従軍服(軍属服)では「五芒星」を模した臂章(ひしょう)があり太平洋戦争直前まで使われたようだ。その由来はもちろんはっきりしないが、陰陽道や風水の影響という説は根強い。五芒星は西洋では魔除けとされアメリカの保安官バッチも「五芒星」だった、国防総省ペンタゴンも「五角形」をしている。これらは古代からの世界共通の意味を持っているという説がいろいろあるのだが、本題からどんどんはずれていくので、これ以上は触れない。


「鬼門」とは何を意味するのか

此処から先は、日本独自の風水といえる鬼門について触れる。鬼が出入りするという「鬼門」という言葉自体は『山海経』『黄帝宅経』などに登場するとも言われる。しかし特定の方角を鬼門とした記述は見当たらない。(後に詳しく説明する。)また「裏鬼門」に関しては記述が見あたらない。多くの風水の書では、入口と出口を鬼の通り道、いうなればどちらも「鬼門」と見なしている。これは至極あたりまえの考え方とも思える。そして鬼門には特定の方角があるとはされていない。


実は特定の方角に鬼門があるとの発想は日本の内地以外にはなく、風水の発祥の地に近く現在も最も風水が盛んな台湾、香港、そして沖縄では見られない。それどころか台湾ではまさに東北端の地に人口300万の中心都市「台北(たいぺい)」がある。台湾島では龍脈は東北から南西に流れ中央高地の宝山に繋がりその延長線上に龍穴を結ぶとされている。このため東北の入口に位置する「台北」は風水の絶好地(風水宝地)とされているのだ。沖縄本島も同じく龍脈は東北から入り南西に流れていのがわかる。県庁所在地「那覇」は、沖縄本島の南西に位置し、その他の主要都市「うるま市」「沖縄市」「浦添市」「宜野湾市」などはすべて南西部にある。最南西には「糸満市」があり、これらの都市だけで沖縄の人口の大半を占める。もし、東北を鬼門とするなら、台湾では鬼門に首都を置いていることになり、沖縄では裏鬼門に県庁所在地を始めとした大都市があることになる。風水の本場ともされる台湾や沖縄では、日本の鬼門の考え方とは矛盾することになる。なぜこのようなことになったのだろうか。


※北海道で最も東北端である知床半島は、「カムイコタン(神の棲む場所)」のひとつとされ神聖な場所として崇められた。アイヌ語の「カムイ」は「神」を意味する。(『空知保エカシ伝』新十津川町、『知床日誌』奈良女子大学附属図書館などによる)また、最も南西に位置する渡島半島には、平安時代から江戸時代にかけて北海道での拠点だった。古来の主要港だったのは江差(現在の江差町)で、近くには箱館(現在の函館市)があり、江戸時代の松前藩も渡島半島の最南西に位置した。(現在の松前町)


失われた陰陽道

もともと陰陽道では生まれた日や、暦日の関係で一定の忌むべき方角がきまり、その問題がある方角は時により人により変わったので、特定の方向を鬼門とする発想はなかったようだ。「方忌み(かたいみ)」「方違え(かたたがえ)」「物忌み(ものいみ)」「忌日」「祭、禊(祓)」など、特定の行動や方角などを日によって制限して家に籠ったりしていたことは「藤原道長(ふじわらのみちなが)」の『御堂関白日記』も記録しており、「言忌(こといみ)」して記述を避けたと推測できる部分もある。ちなみにこの道長についた陰陽師が有名な「安倍晴明」である。陰陽道に基づいて、厄除けには「大将軍」という施設が各方角に多数設けられていたが、これは現在日本で言われるいわれる鬼門の方角とは一致していない。一定の方角が鬼門であるという発想は、本来の陰陽道にもはなかったとされている。


陰陽道の真髄が一気に失われた時期がある。それは室町時代(安土・桃山時代)の末、豊臣秀吉が秀次に加担したとして陰陽師を尾張・三河に配流し、陰陽頭だった安倍晴明(あべのせいめい)の血筋を引く「土御門久脩(つちみかど ひさなが)」も尾張に追放したときだ。代々伝わる秘伝の書物や遺物は、この時に全て処分され、失われたとされる。陰陽道が如何なるものであったのかは陰陽師(おんみょうし)の家伝であったため正確にはわからなくなってしまった。


その後、徳川の時代になり、家康に陰陽道宗家と認められ京に戻されたが、所領も資料も失った本家の「土御門家」の権威は地に落ちた。当時は、一部の分家が古文書の移しを保管していたので復元されたとされている。家康が自らに近い「幸徳井友景」に陰陽頭(おんようのかみ: 朝廷の陰陽寮のトップ)を任じた。幸徳井家は陰陽師の家系である安倍家の出自だが、足利三代将軍のころ養子となり賀茂家を継いで奈良興福寺の陰陽師を担当していた。このため賀茂家が出自とされる家康とも近い。


後付けだった京都の鬼門

こうして江戸時代に一定の復興を遂げた陰陽道は、広く一般民衆にも受け入れられるようになった。日本(特に内地のみ)で発生した考えである。「鬼門が東北」と意識されたのは記録上からも、実際に残っている建築物の特徴を見ても、江戸時代以降の建築物にのみみられる。京都御所や、東本願寺などでは、東北の塀の角を凹ましている通称「猿が辻」がある。これらの建築物はよく「鬼門」の実例として登場するものだが、これらはすべて江戸時代以降のたてものとされ、それ以前の建物には見えない特徴とされている。


平安京は、桓武天皇が遷都しようと建築していた長岡京を捨て、移った都でもある。延暦3年(784年)桓武天皇は平城京から長岡京に遷都し、造営を進めていた。これには坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)も参画しているが、長岡京の造宮使となったのは藤原種継(たねつぐ)であった。種継は暗殺され、犯人とされた大伴氏一族の多くが連座して処刑された。主犯ともされたのは、歌人としても有名な大伴家持で、すでにこの時世を去っていた。こうした事件のなか「丑寅」(東北)の位置に平安京を作る事が決まったのである。このとき、わざわざ鬼門とされた東北に向かって遷都を決めたことになる。もし、東北が鬼門であったなら、このような時期に東北に遷都をすることはなかっただろう。平安京はご存知の通り、その後長く都となった。現在の京都の地に近い、平安京では、後年に鬼門封じしていたと言われている。それはいったい何時からなのだろうか。その検証を試みる。


京都の鬼門・裏鬼門封じ

  • 鬼門 比叡山延暦寺 赤山禅院(現修学院)、吉田神社、幸神(さいのかみ)社など
  • 裏鬼門 男山石清水八幡宮、城南宮・壬生寺など

比叡山は『古事記』にも見える古代山岳信仰の山であり、「大山咋神(おおやまいくのかみ)」が祀られていた。「比叡山延暦寺」も、延暦の名からわかるとおり延暦7年(788年)の創建であり、天台宗の総本山である。早良(さわら)親王の祟りをおそれた桓武天皇は、延暦8年(789年)から生母高野新笠(たかのにいがさ)、皇后だった藤原乙牟漏(おとむろ)を相次いで失い、ついに平安京に遷都を決めている。つまり平安京の候補地を定める前から延暦寺は存在していたわけで、後世に信じられていたように平安京を守るために作られたものではない。


一方で「男山岩清水八幡」では、事情がまったく異なる。平安京ができた延暦13年(794年)には京にはなかった。約70年後の貞観の時代に「応天門の変」や大地震と世情不安が続きいた際に、豊前(ぶぜん:現在の福岡県)の宇佐神宮から「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託があったとされる。これにより貞観2年(860年)清和天皇によって造営されたと伝わる。しかし貞観5年(863年)に行教が元々あった石清水寺を「護国寺」とし神仏混淆としたことで天台宗の神宮寺となった。

※宇佐神宮は古代の天皇家を守った「古代神」であり、もともとが当時の陰陽道とは別系の神だったが、のちに神仏習合で「天台宗」と関係づけられてしまう。

この地は淀川沿いであり大阪平野から京に向かうには必ず通る道で、現在も京阪本線が通る主要な幹線だ。山神として京を守るには地形上最適の位置である。南北朝の戦いの際も後村上天皇は男山八幡に籠ったが、足利義満に攻められ敗退している。


このように、現在京都の鬼門と裏鬼門を守ったとされる二社はともに「天台宗」の寺院だったことになる。天台宗がそこを守る。平安時代に天皇家に深く食い込んだ天台宗が、鬼門が東北であり、比叡山が京を守っている。そういう話を作った可能性が高いと筆者は推測する。


このことは江戸時代に大きな意味をもってくる。実は陰陽道ではこれ以外に独自に多数の寺院、神社が建設して平安京を守ったとされている。各方位に将軍堂(のちの「大将軍神社」)などが設置され現在も一部が残っている。


江戸の鬼門封じ

江戸城の場合も以下のように配置されている。

江戸の鬼門・裏鬼門封じ

  • 鬼門 上野東叡山寛永寺、神田明神(この位置に移設した)
  • 裏鬼門 日吉山王社を移築(現在の日枝神社)

※江戸城を守護する神社として、神田明神と山王社の祭りは「天下祭」といわれ、山車が江戸城内に入って将軍に拝謁する事が許されていた。

※三河以来の菩提寺が浄土宗だったため芝増上寺だったが、後に「天台宗」の寛永寺に移った。そのため徳川の墓地は、増上寺と寛永寺の両方にある。幕末維新で最後の将軍徳川慶喜(よしのぶ)が謹慎したのが上野寛永寺だったのは、徳川300年を支えた天台宗の大僧正「天海」の守護を期待したこともあると推測できる。


裏鬼門を守るとされた、日吉山王社には山王権現が祀られる。日枝神社の読みからもわかるように、日枝山(比叡山)の山岳信仰であり、天台宗と融合したのが、山王権現であり、比叡山延暦寺の鎮守である。つまり、江戸の裏鬼門といわれる南西を守ったのも、やはり天台宗ということになる。


古来日吉では「猿」が神とされ(猿は日吉神の化身ともされる)、「摩去る」として魔除けの象徴された。そのため、鬼門にあたる東北の一には「猿」が守護神として配置されることがあり、そのためが「猿が辻」という名を残す場所は多い。京都の「東本願寺」や、「平安神宮」などの東北の角が鬼門とされ窪みがあり、そこには猿の木像があることが多い。これも、江戸時代の天台宗の影響とみることで理解できる。


日本の陰陽道における陰陽五行説では、「猿」は「水」にあたる。「馬」は「火」にあたる。馬を防ぐ猿は、武士からの攻撃をさける意図があったかもしれない。江戸時代中期に大衆芸能となった「猿回し」は、元々は「猿飼」と呼ばれる人々により行われてきた「祈祷」だった。このことについては触れるのはタブーになる可能性があり、これ以上は触れない。(『身分差別社会の真実』より)


鬼門や裏鬼門に関しては、日本独自の思想であり日本の神道に仏教や道教インドの神などいろいろな神仏習合で生まれたともされる。陰陽思想では、東北、南西は、陰陽が交じり合うため不安定との解説も一部ではあるが、これに納得がいかない。本来の風水の思想とは逆になると思われる。「.陰陽互根(いんようごこん)」とされ本来は陰陽のバランスがとれることが好ましいのだ、陽が強すぎても、陰が強すぎてもよくない。つまり、東・西・南・北の四方向は、陰陽のバランスが悪いということになる。そのため四神が守っているのが風水の基本思想なのではないだろうか。


風水の発祥の地に近く、現在も風水が最も盛んな地域である台湾、香港、そして沖縄では東北を鬼門、南西を裏鬼門と考える発想はない。特に台湾は東北の端に中心都市台北(たいぺい)があり、龍脈は東北から南西に流れ中央高地の宝山に繋がる。この延長線上に龍穴を結ぶとされている。沖縄本島も同じく龍脈は東北から入り南西に流れている。こういったことから東北や南西が鬼門という発想は全くない。これらの地に観光に行った風水に詳しい日本人たちは、一様に驚くという記事もちらほら見かける。


本来の風水の「鬼門」とは

中国の古典では玄関(ここにも「玄武」がみえる)の両脇に辟邪(へきじや)を置き鬼の侵入を防ぐという思想が確認できる。中国で明代に成立したとされる『事物起原』は、あらゆる分野にまたがる1764の事柄についてその起原を実際に中国の(当時の)古典から原文を引用して記す書であり、参考文献として信頼性が高い書物のひとつである。そこに「鬼門」の説明はないが「鬼門」の話は載っている。


『事物起原』の「桃版」の項

元旦に桃の絵を門に飾り、これを仙木という。もろもろの鬼はその故にこれを恐れる。東海の度朔山に大きな桃の樹があり、その枝は三千里にも亙(わた)って枝を張りっている。その桃の木の東北に卑枝門という門があり、これを鬼門ともいってすべての鬼はここから出入りする。この神の役目は人を害する鬼を監視し、取り締まる。神荼と鬱壘の絵を門に貼って鬼を防ぐ。二神を画にし右に鬱壘、左に神荼の像を元旦の門に貼る。

※『玉燭宝典』を引用して説明して、鬱壘と神荼のニ神が門の入り口を守ることを説明している。日本語訳は張楠による。(下記参考文献参照)
※『論衡巻』には『山海経』にこの種の記述があるとしている。現存する『山海経』には確認できないが、あったとしてもおそらく『事物起原』と同様の記述内容だったのではないだろうか。


この引用を根拠に鬼門が東北にあると理解するとするなら、おそらくそれは誤解だろう。『事物起原』の説明の意図は鬼が出入りする門に二神を張って守ることとしている。東海の度朔山に風水で最もパワーのある木として知られる桃の木があり、そこにたまたま鬼が出入りする門(卑枝門)が東北にあったと解釈するのが正しいだろう。風水はその名の通り周りの地形や構造物で流れが変わり、どの方角から鬼が入るかわからない。したがって、この場合の東北は「たまたま」だったことになる。


入ってくるのは建物であれば「門」、家屋で言えば「玄関」が鬼の入り口であると解釈できる。そこで入り口に「二神」の絵を貼って守るのだろう。これが中国で育まれた本来の風水の思想だろう。この鬼の侵入を防ぐ「二神」の思想は、神社の狛犬やお稲荷さんの狐、そして日本でも正月に玄関に立てる門松などに生きている。玄関に巨大な蘇鉄を置くのも同じ理由だ。

※日本の風水では蘇鉄は金がたまらないとする話も一部ではあるが、詳細はここでは触れないが、日本だけの間違った解釈といえる。蘇(よみがえ)るという文字を含む蘇鉄は、風水の巨大なパワーをもつ木として有名で、風水の本場では大寺院や官公庁などの玄関によくおかれていた。現在も中国南部や台湾ではよく見かける。


他にも『循環暦』『神異経』などに鬼門の根拠があるという説が一部あるようだ。しかし、これらも、東北にある門を鬼門と呼んだとする例も多い。しかしこの場合は「鬼」は必ずしも悪いわけではなく、逆に「鬼」は邪気を追い払う「神」を意味することがある。日本では南西は裏鬼門とされるが、風水二十八宿には、南方朱雀つまり南西に「鬼宿」があり、「万事に大吉」とされる。この「鬼宿」には、霊気や犠(いけにえ)があり、そして神社がある。古代日本(道教)でも「鬼」を「神」と同一視する考えがあり、日本語でも鬼には必ずしも悪い意味はないことに気が付くだろう。なまはげのように悪霊を追い払うのに鬼面が使われ、仏教では東北を「生門(きもん)」と呼び神の入口と見なす場合もある。


『東北鬼門観の成立と展開に関する研究』は、中国の古典を分析し、鬼門と東北の関係に言及した日本の数少ない学術的な研究のひとつとされている。これによれば、古代中国の殷の時代には、東北が太陽を象徴する方位として尊崇されたとされ、中国古代では東北は吉方だったとしている。(太陽は南東から昇るため、この説明の理論はよくわからない。)その後、漢の時代に暦が整備されると、春分ではなく立春を一年の起点とした暦が作られた。これは、漢の都が中国北部の黄河流域に移ったため、北方シベリアからの寒風が厳しいという中国大陸の特殊な事情によって発生した季節感だとしている。そのため暦の一年は、「丑寅(うしとら)」(十二支の2番目と3番目)が一年の終わりと、始まりとする考えが発生して、丑寅(方位でいえば東北)は物事の終わり始めとの重要な「結界(境界のこと)」とされたとしている。


十二支は暦だけななく方位にも使うが、方位で「丑寅」をさすのは「東北」になる。ここから、年が改まる境界の「方角」に禽獣などを配し、冬の寒気を祓(はら)い新たな春を迎える特別な意味が付与されたとしている。さらには、中国大陸の地形は北西に高く東南に低いため、後漢では方位の「戌亥」間(北西)を天門と名付けたという。つまり、東北が鬼門となったのは、一年の境界である冬春の季節の境界「丑寅」と、方角の「丑寅」が不可分の関係として形成されたもだという。これらのことから、「東北鬼門」が空間(方位)として論じられていたことは理解できないとしている。つまり東北の方角が鬼門だという理論的根拠は、どこにもないことになる。

※中国では、 立春から啓蟄の時期年初として「寅月」とした。年末は「丑月」とし 小寒から立春の時期にあたる。現在の中国の正月「春節」も、2月ごろにおこなわれている。

※後世の明、清代の『宅経』では「東北の門」を開くと鬼が入る、あるいは怪異があるとされたことも本論文では指摘している。しかし明、清代の『宅経』は、古代の『黄帝宅経』の内容が後世に伝えられ古来のものとは異なっているとされる。おそらく『事物起原』などを参考に脚色された可能性がある。


もし中国で東北鬼門、北西裏鬼門の思想が漢代以降に構成されていたとしても、それは中国(とくに黄河流域)特有の気候によるものであり、かつ鬼門を空間(方角)のみで考えるのは過ちである、と読み取れる。このことは、中国南部に伝わる風水に、東北鬼門の考えがないことも説明できる。


沖縄のシーサーは、『球陽』に江戸時代の初期の(1689年)に風水看(沖縄の風水師)が火避けの目的で火の山(五行の火に相当するには「南の方角」)設置したとあり、そのシーサーは勢理城に現在も残っている。(沖縄県指定有形民俗文化財)シーサーが屋根にあった家は、第二次大戦で戦災で焼失を免れたともされている。


自然の創生物と神との関わりを説くこの考えは、古墳時代ごろまでの日本にあった自然に神が宿る「八百万(やおよろずの)神の思想」と合致しただろう、道教と合わせて古代日本の大王家に伝わり、それは日本神話にも強く影響したことは数々の傍証がある。


日本独自の「鬼門」は何が根拠だったのか

中国南部に残る本場の風水には、東北が鬼門とする考えは全く存在しない。それどころか、風水では東北を「生門」南西は「鬼宿」とし、どちらも最良の方角とする全く逆の考えすらある。中国の鬼門の考えが、黄河流域を中心とした地域特有の気候により、後世になった明や清の時代に形作られたものだったする考えは納得がいく。このような事情にもかかわらず、江戸時代に、日本国内だけで東北が鬼門という特殊な考えが広がった理由として、三つほどが考えられる。


第一に、室町末期に強い勢力を誇った寺院勢力とくに、陰陽師に推されていた密教の勢力が力を盛り返した可能性を指摘したい。特に家康、秀忠に仕えた天台宗の大僧正「天海」の強い影響が大きかったと見ている。京の鬼門を守ったとされる比叡山延暦寺も「天台密教」の大本山である。(平安京ができる前から、延暦寺はあったのだが・・・。)江戸時代は、上野東叡山寛永寺が中心になった。上野寛永寺の貫主は、日光日光山輪王寺の門跡、さらには総本山となる京の比叡山延暦寺天台座主にも就任するのが慣例となっており、かつ代々が親王(天皇の子)であり「輪王寺宮(りんのうじのみや )」とよばれた。京と江戸のどちらの鬼門も裏鬼門も、守っているのは天台宗、実は天海が打ちたてた「山王一実神道」が守護神だった。戊辰戦争では奥羽列藩同盟が最後の輪王寺宮をたてて東北、北海道に国家をたてようと画策し、一方で最後の将軍慶喜は上野寛永寺で蟄居した。幕末の事典で、寛永寺が守護神という考えは浸透していたと思われる。


第二に現実的にある地形・気候上の問題や、当時実際にあった脅威が反映されたのかもしれない。漢代以降の中国(黄河流域騎)と大変似た事情が考えらる。たとえば、日本では東北方面は風が冷たくて寒く、南西方面は西日が熱く体調を崩しやすいとも考えることができる。また、日本の地形的な特徴から、東北の蝦夷と南西の熊襲などの攻撃を日常で恐れ続けていた。平安京で非常時に閉じられたとされる「三関」といわれる関所は、逢坂の関、鈴鹿の関、不破の関だった。東山道つまり東北に向かう「逢坂の関」「不破の関」が畏れられたことは、不破の名からも推測される。また平安京に西から攻め入るとすれば大阪から宇治川を上ることになる。これは、京都から見ればまさに南西となる。


室町幕府が関東統治のため設置した「鎌倉公方」は永享11年(1439年)に幕府側に滅ぼされ(永享の乱)、その一族が鎌倉から茨城県の古河に本拠を移し「古河公方」と言われた。一方幕府側は新たに「堀越公方」を伊豆に置いた。大田道灌はこの途中経路の要衝に江戸城を築いたのだったが、家康がこの地に入った段階で、南西の伊豆・鎌倉、東北の古河の双方に、足利氏の旧勢力を抱えることになった。家康は江戸の東北と南西に守備を固めないといけない事情があった。江戸幕府の開府後も、恐れた敵は東北の伊達や上杉、さらには最上(取り潰した)であり、南西もは朝廷や加賀の前田、九州の島津などがいた。


また、陰陽五行では「火」の方向は南である。このため古来日本列島では「火の国」といわれるのは「南」の九州にあり、のちの「肥国(ひのくに)」であり、「肥前」「肥後」と別れた。実際九州では火山の爆発が絶えなかった。一方で、沖縄では古来の風水から「南の火」に備えて江戸時代の初期に「シーサー」が設置された記録が琉球王国の国史『球陽』に残る。日本も沖縄も同じく、南西-東北に長い島だ。ただ沖縄では「南」と意識した方角が、日本では「南西」と認識されたともいえる。こうした日本の本土(内地)だけにあった、事情が、東西、南北が鬼門や裏鬼門になるという考えを生んだのではないだろうか。


第三に、秀吉時代に一時期完全に失われたとされる陰陽道の復興にあたって、中国を参考にしただろう。黄河流域に都を構えた中国の王朝は、東北には高句麗や新羅、高麗があり防戦に明け暮れ、後の清国もこの地域で発生した。一方で南西には三国時代の呉の時代から現在に到るまで手こずっている地域ともいえる。このような中国の東北、南西の地域における事情が、平安京中心に考えた日本にも投影されたかもしれない。さらに『東北鬼門観の成立と展開に関する研究』が指摘しているように、中国の黄河領域の特殊な気候事情で、立春の「丑寅(うしとら)」に備えるという発想から風水で同じ「丑寅」のに方角に禽獣を配したことが影響したかもしれにない。これが江戸時代に日本にそのまま伝わって、「東北」を守る必要があると伝わった可能性も高い。


日本独自の鬼門が意識された出したのは記録上からも、建築物の年代からも江戸時代以降の可能性が高いというのが定説で、かつ日本のみで発生したとされる。そして、江戸時代は京都そして江戸の東北・南西を天台宗の大寺院が守っているとされていた。根底には東北南西の鬼門・裏鬼門を守っていたのは天台宗の寺院であり、それらはすべて日光輪王寺のもとに守られていたことになる。このような事情は、天海が自らが知るのみとした「山王 一実神道(さんのういちじつしんとう)」とし一切後世に記録に残さなかったことで、さらに事情がわからなくなっている。


つまり江戸の鬼門を守るのは、本当は北方玄武の守護神となった東照大権現「家康」や「天海」の墓であった。ここで中国古来の風水の陰宅思想に繋がってくるように思える。天海以降、天台宗座主を務めたのは歴代天皇の皇子であり、この伝統と権威を堅く守る役目を担わされて僧籍に入り、そのまま幕末に到るのだ。



今後の課題

1)古代中国の影響が強く残る香港にも、最大の寺院協会である「青松観」があり、松の茂る庭園に囲まれている。別稿で触れるが、青松は、中国古代の風水や道教にも関わってくる。

2)『孔子経』や『老子』に登場する「得水為上 蔵風次之」について、風水と稲荷、ダキニ天に繋がってくる可能性がありるが、本稿では省く。機会があればがあれば、別稿にて説明したい。

3)五芒星の「芒」は「のぎ」とも読む。「穎」にある「禾(のぎ)」棘状の突起のことをさしているという。


『日本書紀』では、第10代崇神天皇が、3種の神器のうち、「八咫の鏡」の神威を畏れて、宮中の外で祀る事とし、豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に移した。そのあと倭姫命が鏡をもって、伊勢に倭されている。


4)実際の「玄中寺」は禅宗の寺「永寧禅寺」とされていた。しかし最近になって、元は「玄中寺」であったことが証明さた。現在は玄中寺の名に戻し、観光地になっている。

5)円仁の『入唐求法巡礼行記』における菩薩との邂逅のシーンは以下である。

(開成五年:唐代西暦840年)四月二十八日 平らなる谷に入り西に行くこと三十里、巳の時、普通院の前に到れり。未だ院中に入らずして西北に向かい中台を望み見れば、地に伏して禮拜(らいはい)する。これ即ち文殊師利の境地(いるところ)なり。五頂の円は高く(周りを囲む5山が円く高く囲んでいる)、樹木は見えず、状(すがた)は銅盆を覆(くつがえ)す如きなり。之に會(あ)いて遥かを望めば、覚えず涙が流るる。樹木や異花は別處と同じくせず,奇境は特に深し。これ即ち清涼山の金色世界。文殊師利ここに現れ在りたまう。たやすく普通院に入れば,文殊師利菩薩像を禮拜す。因(ちな)みに西亭を見れば壁上に題ありて云う「日本國内供奉にて翻經す大德靈仙(りょうせん),元和十五年(唐代西暦820年)九月十五日此の蘭若(らんにゃ:庵のこと)に到る」,云々。院中の僧等は日本國僧來るを見て,奇異とし,以って壁上に題を示す,故に之を記著(しる)す。

※漢文の読み下しは筆者による。

「普通院」の意味は難解だ。『円仁 唐代中国への旅 』では、この部分の「清涼山の金色世界。文殊師利ここに現れ在りたまう」などの表現の特異さから、黄壁の向こうにある(一般人には)見えない穴としている。現実の地形は、五台山に囲まれた広大な盆地のなかを西側に向いた巨大な絶壁が数十キロにわたって南北に横たわる地が「壁谷」である。おそらく黄土でできた長大な絶壁が、夕日を浴びて金色に輝いたのだろう。


6)「壁(なまめ)」は「生目」だろうか。もしそうならギリシャ神話の「神の目」と繋がってくるかもしれない。壁宿には図書館があり、神事にみる卜占や中国の竹簡などの文書の可能性もある。


7)大和地方に多く存在する家紋である「六曜星」については、多くの資料から、その発生過程が解明されているとはいえず、多くの文献では説明を避けている。「壁宿」は、六曜星の根拠のひとつになりそうな気もする。


北方玄武の七宿

斗[ひきつ] 天廟、旗、冠、水魚、神鶏(三足烏)、黄道の錠、番犬、農官
牛[いなみ] 牛を引く縄、井戸、天軍の太鼓、天帝の孫、軍旗、灌漑、帝道
女[うるき] 機織り娘、玄武の亀もしくは蛇、珠飾、瓜

虚[とみて] 廃墟、処罰神、寿命神、罪過神、慟哭、天上の城、敗れた臼

危[うみやめ] 屋根、墳墓、車庫、茅屋根、鉤、天上の財貨

室[はつい] 祝祭・婚礼その他

壁[なまめ] 図書館、土木役人、雷神雲雨、鈇鑕(のみ・くわ)、厩(うまや)役人

※陰陽道、宿曜道では二十七宿になる。この場合二十ハ宿では含まれる「牛宿」は含まれない。そのため北方玄武は七宿から、六宿になる。

「北方玄武」に並ぶ順位をみると、「斗」「牛」からは八咫烏(やたがらす)や、皇帝の馬車といわれる北斗七星を、そして「女」は日本書紀や古事記の「天照大御神(あまてれすおおみかみ)」の伝説を、そして「室」は後宮(こうきゅう)を類推させる。これら下支えしているのが、「壁」宿であり、雨、雷や農耕・稲作の属性が見えるようにも思われる。これは、古代の朝廷が深く稲作と関わりを持ったこととの関係も類推させる。


天皇大帝である北極星に地上では最も近いのは北方玄武である。そこに皇帝が属するように見える。東方青龍は、後継ぎ(皇太子)の場所で、西方白虎は皇女を象徴するかもしれない。(現在も皇太子は東宮という。)また、平安時代に武士が宮廷を守ったの、通称「北面の武士」であり、続いて増設されたのも「西面の武士」だった。南面と東面には公式には武士団が配置されなかったことも興味深い。


東方青龍の七宿

角[す] 皇帝(皇子)・武器・裁判
亢[あみ] 季節・王座・尋問官、刑執行官
氐[とも]  皇帝乳母、矛と盾、 戦車、騎兵

房[そい] 閂(かんぬき)罪、日時、医官、巫女

心[なかご] 心臓、軍隊

尾[あしたれ] 後宮、更衣室、亀、銀河、魚

箕[み] 精米、糠(ぬか)、杵(きね)

東方青龍を見れば、奈良の都で藤原氏が東側に邸宅や氏寺を置いた理由もわかる。平城城京は天皇家にとって万全ではない都だった。これが、藤原不比等に平城京への遷都を強要された女帝「元明天皇」が、遷都に乗り気でない詔を出した理由と思われる。西方白虎は、平城京も平安京も市街地が発展しなったがその理由も類推できる。


西方白虎の七宿

奎[とかき] 倉庫、馬車馬、鞭、抜け道、軍営門、高楼架橋、便所、豚小屋
婁[たたら] 群衆、天獄、牧畜役人、山林役人、穀倉、天上将軍
胃[えきえ] 胃、穀倉、薪部屋、陵墓の中の死体、銀河航行する船、天船の水

昴[すばる] 天上の川、月の精、讒言、天陰の力、蒭藁(まぐさ;飼料)皇帝の牧場

畢[あめふり] 雨神、狩、天上道、天文台、通行証、旗弓、通訳、軍旗、皇帝の畑

觜[とろき] 鳥の嘴(くちばし)、山精妖怪神、貴人の場所を表す旗

参[からすき] 討伐、軍の井戸、屏風、厠(便所)、排せつ物

南方朱雀の七宿

井[ちちりぼし] 井戸、弓と鉞、灌漑治水役人、盃、酒醸水、薪、大河、祖先と子孫
鬼[たまお] 幽霊、死体、霊気、厨房、犠(いけにえ)役人、土地神を祭る社
柳[ぬりこ] 柳、酒屋の旗

星[ほとおり] 衣服、丞相(大臣)、法官、皇帝、

張[ちりこ] 就職・見合い・神仏祈願・祝い事に吉 (不明)

翼[たすき] 素嚢(そのう:主に鳥獣が持つ消化器官)、鳥獣を捕える網

軫[みつかけ] 天車、黄帝が封じた諸侯、伝説の異郷の地

※[]内は、和名。なんらかの伝説に基づいて配置されたと推測される個人名に関しては、その伝承の理解が必須のため省いた。理解しやすいよう筆者にて大幅な修正を加えてある。正確に知りたい場合は個別に確認を願いたい。


参考文献

  • 『孝教』『朱子』『葬書』『黄帝内経』『黄帝宅経』『礼記』
  • 『説文解字』
  • 『万葉集』岩波文庫
  • 『古今集』
  • 『笈おいの小文』松尾芭蕉
  • 『事物起原』中国 明代
  • 『新集家紋大全』本田總一郎監修 木吾桐書院 1991年改訂版
  • 『日本家紋総覧』能坂利雄編 新人物往来社 1990年
  • 『訂正康熙字典』(原本1716年清国勅撰)猪野中行撰渡部温 訂明治17年国会図書館
  • 『風水の本』「天地を読み解き明かす道教占術の脅威」学研1998年
  • 『道教の神々』窪 徳忠 講談社学術文庫 1996年
  • 『道教の本』学研
  • 『陰陽道の本』学研
  • 『中国の星座の歴史』大崎正次 雄山閣出版 1987年
  • 『身分差別社会の真実』斎藤 洋一, 大石 慎三郎 講談社現代新書 1995
  • 『日本書紀』(四)岩波文庫 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注 1995
  • 『全現代語訳 日本書紀』(下)宇治谷孟 講談社各術文庫1988
  • 『日本紀略』
  • 『真名東照宮縁起』
  • 『御堂関白日記』
  • 『吾妻鏡』
  • 『球陽』
  • 『大正新脩大正藏經』から『文殊師利菩薩及諸仙所說吉凶時日善惡宿曜經』
  • 『入唐求法巡礼行記』円仁 原文 
  • 『円仁 唐代中国への旅 』 E・ライシャワー 講談社学術文庫1999
  • 『「源氏物語」と道教文化』張楠 創価大学博士論文 2012
  • 『中華民国台湾外交部TAIWAN TODAY』特別報道 2013/04/16
  • 『易経』高田真治・後藤基巳訳 岩波文庫 1969年
  • 『国際金融センターの都市比較』日本国際経済学会 報告論文2013
  • 『東北鬼門観の成立と展開に関する研究』水野杏紀 大阪大学 2014
  • 『外国人ガイドブック』台北市政府
  • 『台湾観光局』HP
  • 『韓国中央日報』(2002年9月24日)記事「風水で見る青瓦台」
  • 『李朝邑集落にみる風水地理説の影響』渋谷鎮明 人文地理 第43巻第1号 名古屋大学 1991


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。