17. 蕎麦と壁谷 禅宗そして松月庵

「かべや」と「そば」の2つをキーワードに検索すると多数の蕎麦屋が確認できる。「かべや」「可部屋」「加辺屋」さらには「kabe家」を屋号とする蕎麦屋まである。昭和45-50年ごろと記憶するが東京江東区の「50音別電話帳」に壁谷が百件以上はあった。その中にはなぜか「壁谷何某(そば)」といった記述も目立ち怪訝に思っていた。「職業別電話帳」ではなかったからだ。「かべや」と「蕎麦(そば)」に何か関係があるのだろうか。


開業の謎

明治17年(1884年)、川崎に蕎麦屋「松月庵(しょうげつあん)」が創業したことは、現存する店舗の掲示で確認できる。おそらくここが最初の「松月庵」だろう。一方で平成の中頃か、たまたま見かけた「松月庵」の暖簾会(のれんかい)のホームぺージには東京台東区・江東区・墨田区を中心に、百店舗ほどの加盟店の名簿が記載されていた。その各店の店主名に、なんと数十名もの壁谷がずらっと並んでいた。もちろん現在は公開されていない。


ネット上には愛知県蒲郡出身の壁谷が大正9年に上京、「松月庵」を創業して大成功、一族を東京に呼び寄せたとする情報がある。しかしそれは難しかろう。なぜならその年はスペイン風邪が大流行、飲食店はかつてない苦境の最中だったからだ。当時の感染者数は2380万人と当時の人口の過半数を超え、死者数も38.8万人に達していた。(『日本におけるスペインかぜの精密分析』による)


さらに、その年3月は株価が大暴落、大手銀行が次々と破綻して取付騒ぎとなり、株式市場は一か月にも渡る休会を余儀なくされた。各地では破産する者が続出していたのだ。さらに3年後「関東大震災」が追い打ちをかけ、東京の下町エリアは灰塵と化した。そして4年後には「金融恐慌」、続いて3年後には「昭和恐慌」(いわゆる世界恐慌)が襲いかかる。(『昭和金融恐慌史』などよる)


筆者の手元にある情報では、大正9年(1920年)「松月庵睦会」の立ち上げ、昭和10年ごろ「松月庵暖簾会」として再編とある。つまり大正9年とは、複数の松月庵が空前の困難を切り抜けようと団結した年だったと推測できよう。大正9年「松月庵睦会」を立ち上げたのは壁谷ではなかったが、昭和14年(1939年)東京の電話帳に初めて四軒の「松月庵」が登場、うち日暮里と神田そで店(支店のこと)の店主に初めて壁谷の名が見える。(これ以前の電話帳に松月庵はない。)日暮里は、荒川の豊富な水を使った一大工業地帯へ変化を遂げていたのだ。


東京湾岸地域を中心に急速な復興が進み、地元での旺盛な食欲を満たす必要があった。そこで手早く昼食を済ませられる「蕎麦屋の出前」の需要が驚異的に高まっていた。当時まだ発明されたばかりだった「製麺機」があれば、職人なしでも蕎麦屋の多店舗展開が可能だった。当時松月庵の住所や店主名を見ると、新興工業で大成功した壁谷が関わったことが推測できる。ここで愛知出身で戦前の工業発展に大きく貢献した壁谷のキーマンの存在を忘れてはなるまい。彼は東京深川を拠点とした三菱倉庫と手を組み、海外進出までしていた実業家であり、そして発明家でもあったのだ。本稿では、まず蕎麦や禅宗そして「松月」の歴史に触れて壁谷との関りを考察しながら、松月庵と壁谷の関係に迫っていく。


蕎麦を食うことは「壁谷」にかなう

最初のキーワードは「辟谷(へきこく)」だ。僧などが修行で「五穀」を避け、蕎麦などを食らうことは「辟谷」と言う。古くから中国では「辟」の代字に「壁」が、そして「穀」の代字に「谷」が使われた。「辟」は中国皇帝を表す字でもあり、以前は避けられてもいた。また「穀」を意味する簡体字(中国で通常使われる文字)は「谷」である。中国伝統の道教や古仙術では「辟谷術」という。現在ダイエットなどで使う「糖質制限」は中国語で「壁谷养生」「壁谷减肥」などとも書くのだ。


日本作物学会が編集した『作物学用語事典』(2010年)『作物学用語事典』では、穀物を「単子葉」のイネ科(「禾穀類(かこくるい)」とする。しかし「蕎麦」は豆と並び「双子葉」植物とされ「穀物」ではない。また農林水産省の統計でも、蕎麦は「雑穀」と分類され「五穀」に含まれない。


日中双方の古書に登場する「五穀」。どれにも「蕎麦」は含まれていない

稲・黍・稷(しょく:粟のこと)・麦・菽 (しゅく:豆のこと)『孟子』 
稲・麦・粟(あわ)・大豆・小豆 『古事記』
稲・麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・豆 『日本書紀』 


以前は「稲は朝鮮半島から日本に伝わり、弥生時代に広まった」とされていた。しかし現在は「中国南部から稲と蕎麦がほぼ同時に伝わり、縄文時代の日本ですでに栽培されていた」ことが判明している。遺伝子解析により蕎麦の野生の祖種が雲南省の谷で発見され、蕎麦の起源地は中国南部の雲南省と東チベットの境界だったことが明らかになっているのだ。蕎麦に限らず、日本にある水稲(稲)の8種類の遺伝子も、すべてこの雲南省を源流とする長江地域にあったと分かっている。


別稿で記したが、その中国雲南省には紀元前からの「壁谷」の地名が記録され、古代から続く「壁谷の末裔」(黄姓堂號 壁谷)が現在も多く居住している地域だ。江戸末期から明治・大正時代には、その中国南部から華僑が多数来日して日本に住み着いた。とくに明治8年に横浜・上海を結ぶ「上海航路」が開けると、中国南部から大量に渡来してきた。上海は長江の最下流の都市である。現在の横浜中華街はこうしてできたのだ。つまり「蕎麦」なら「壁谷」と考える人たちが、日本国内に相当流入してきたことになる。日本で蕎麦屋によく使われる「蕎麥」の文字も「中国語」の繁体字だ。

※「蕎麥」は大正12年(1923年)に「常用漢字」で使用を制限され、昭和21年の「当用漢字」で廃止されている。中国本土でも簡体字の「荞麦」となっている一方で、香港・台湾など中国南部では現在も使用されている。

※江戸末期から明治の時代、味噌・醤油の製造販売に携わった壁谷が各地で確認できる。その場合「糀屋」の看板を掲げていたようだ。「糀(こうじ)」は麹と同じ読みで、明治時代に日本で作られた「国字」とされる。


老荘思想、神仙道と壁谷

中国の古典『荘子』内篇の冒頭「逍遙遊篇」では賢人の会話で、仙人伝説が語られる。「遥かな山には不老不死の仙人が棲み、五穀を絶ち風露を飲み、雲や龍に載って天空を駆ける」とされ、「そのような人が天下を治める」とする、古来中国にはこのような思想があり、後の中国六朝(南北朝)時代に、神仙道や、浄土教(仏教)そして禅宗へと発展した。そこでは、煮たり焼いたしたものを食さない「火断ち」と共に「五穀断ち」が修行で必須とされた。


この考えは、空海をはじめ中国で修業した高僧たちによって、日本にもたらされた。蕎麦の実を潰して団子にして持ち歩き、谷底の水に浸して食したとされる。山岳修行をした修験者・仏教僧らが食したのは、蕎麦や豆だったと記録されている。豆も五穀に含まれないと解されたからだ。蕎麦や豆から作った味噌は、現在でも寺院によく似合う。蕎麦はやせた乾燥地や寒冷地、日本には多い酸性土壌でも育ち災害にも強かった。しかしそばの実はたいへん堅い。しかし当時の器具ですりつぶして食用にするのは大変で、一般には広がらなかったようだ。


室町時代の後半に禅宗が全盛を迎え、僧や武士に好んで食されるようになったのは蕎麦だった。室町時代後期以降に登場したとされる現在のような蕎麦(団子ではなく麺類)は、そばつゆをかけて食した。そばつゆには醤油や味噌、酒も必要だった。江戸時代以降は味噌や醤油さらには納豆や酒、味醂などの発酵食品が多く作られるようになった。


当時、大量輸送ができたのは水上交通だけだで、大阪から三河を経由して江戸に渡る樽廻船・菱垣廻船が流通の花形だった。また味噌や醤油は発酵・熟成に手間がかかり、製造に適した気候、風土も必要だった。そのため生産地は「尾張・三河」(現在の愛知県)など特定の地に集中、特に三河の味噌は「八丁味噌」と呼ばれて名産となった。こうして江戸(東京)に進出した「三河屋」「尾張屋」はその代名詞にもなった。後述するが、これが江戸の蕎麦屋の多くが現在の愛知県から発することになった端緒となる。


古代中国の壁谷玄中寺

北魏(西暦386年 - 534年)の時代、汾州壁谷(現在の中国山西省交城県石壁山)の玄中寺に伝説の僧「曇鸞(どんらん)大師」(476-542)がいた。三国志の時代が終わり、南北朝時代となった中国で、両朝の皇帝からそれぞれ「神鸞(しんらん)」、「曇鸞菩薩」と呼ばれ、崇められた伝説の高僧だ。


曇鸞は、当初は山岳修行で中国古代神仙・道教や医学(薬草学)を学び『療雑病薬丸方』『論気治療方』など医薬に係る著書も残した。しかし天竺(てんじく:インドのこと)の「菩提流支三蔵(ぼだいるし-さんぞう)」から仏教を学び、後に中国浄土教の祖の一人ともされるようになる。著した『浄土論註』(正式名『無量寿経優婆提舎願生偈註』)は『浄土論』の代表的な註釈書とされる。以下に後世に中国で書かれた曇鸞の伝記の一例を示す。


『続高僧傳』巻六「曇鸞傳」道宣(唐代 645年)
『新修往生傳』上巻「後魏壁谷釋曇鸞」王古(北宋 960年 - 1127年)
『龍舒增廣淨土文』·往生事蹟「後魏壁谷僧曇鸞」 王日休(南宋 1127年 - 1279年)

『樂邦文類』卷三「後魏壁谷神鸞法師傳」宗曉(南宋 同上)

『淨土往生伝』巻三「釈曇攣、雁門人也。少遊二五台」飛山戒珠(南宋)

『廬山蓮宗寶鑑』念仏正教巻「壁谷釋曇鸞大師」普度(1305年ごろ)

『往生集』沙門往生類「神鸞」蓮池(明代)

『淨土十要』列祖行門「後魏壁谷僧曇鸞棄仙學佛」蕅益智旭(1599年 - 1655年)

※中国南北朝時代の「北魏」は、三国時代の「魏」と区別し「後魏」と呼ばれる。


曇鸞の死後、同じく汾州壁谷の玄中寺で修行したのは「道綽(どうしゃく)」(562-645)だ。志磐の『佛祖統紀』(南宋1269年完成)には「道綽入壁谷玄中寺曇鸞之舊(旧)居也」とある。その後、壁谷玄中寺で修業した善導(613-681)は、都の長安を望む「神禾」の地に香積寺を開いて布教に努め、「(唐の都)長安城中、念仏で満つ。」といわれるまでに広まった。壁谷の地があった「五台山」は「南山」と呼ばれ文殊菩薩の聖地ともなっている。一方で「神禾」の地にも「壁谷」があった。そこは現在の地図からみる限り、善導が香積寺を開いた地であろうと推測する。


※陶淵明(365-467)の有名な漢詩「悠然として南山を見る」に登場する南山は、長江(揚子江)の北にある廬山(中国江西省)である。一方で唐の時代以降の「南山」は、壁谷の地があった五台山を指しており(終南山:つい-なんざん)と呼ばれた。こちらは王維(おうい:699-759)や李白(りはく:701-762)の漢詩に登場し、文殊菩薩の聖地となっている。

※浄土教は「他力易行」を解いた。しかし道綽は日に七万篇の念仏を唱え、善導は力尽きるまで専念して極寒時でも汗が流れ出たとされ、実際は難行であった。


奈良時代の大宝2年(702年)に、霊峰「白山(はくさん)」を開いた大僧正「泰澄(たいちょう)」は、第42代文武天皇(もんむてんのう:天武天皇の孫)から国家鎮護の命を受けると「越(こし)の大德」とも言われた。(「越」は現在の福井県)この泰澄が越の地に開いたとされるのが「放光寺」である。この放光寺は現存しないが、その遺跡には現在も「壁谷」の古地名が残る。(国の地籍調査資料・論文について別稿で触れる。)禅宗に属する現在の曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山、永平寺(福井県永平寺町)もこの泰澄が開いた白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており、泰澄は、後の曹洞宗に強い影響を与えていることがわかる。

※『放光寺古今縁起』によると、法光寺は飛鳥時代の第30代敏達天皇の勅願で建立された官寺(定額寺)として全国各地に複数作られた。放光寺には聖徳太子(厩戸皇子)も深く関わっており、用明・推古・舒明・孝徳の各天皇そして、奈良時代には聖武天皇が興隆に尽くした記録がある。蘇我馬子が建てたとされる法興寺(現在の飛鳥寺)と発音が同じことも興味深い。


比叡山を開いた天台宗の最澄(さいちょう:767年-822年)も中国五台山に学んでおり、天台宗を大成させたといわれる第三代天台座主、円仁(えんにん:794年-864年)は『入唐求法巡礼行記』で壁谷玄中寺を訪れたことを記録する。そこで光を放つ石壁の奥に文殊菩薩が忽然と顕れ、そこには多数の経典があって大いに学んだとする。(『円仁唐代中国への旅』による。)


その後、吉野に高野山(奈良県・和歌山県)を開いた真言宗の「空海(くうかい:774年-835年)」は、最澄に遅れて唐に派遣されることになったが、五穀断ち(壁谷)を行って驚異的な記憶力を発揮すると、同じく五台山の地で多数の教典をわずが半年たらずで習得した。日本に戻ると全国各地を行脚し、後に弘法太師と呼ばれた。各地に残る弘法大使の伝説の多くでは、その場で「水」や「泉」が湧き出す話がよく出てくることが多いが、これは各地の壁谷の名の付く地名にもある特徴でもある。


日本の浄土宗の開祖とされる「法然(ほうねん:1133年-1212年)」も中国五台山に向かった。しかしそのころ、戦乱で壁谷の地は所在が不明となっていた。法然の著した『類聚浄土五祖傳』では壁谷玄中寺の「曇鸞」を「第一祖」とし、「曇鸞、道綽、善導、懐感、小康」を五祖とする。室町時代前期の作とされる国指定重要文化財『絹本著色浄土五祖像』にもこの五祖が書かれている。親鸞が開いた浄土真宗も「曇鸞」を「七高僧」の一人と崇めている。中国仏教史に詳しい野上俊静も『中国浄土三祖伝』(昭和45年)で「曇鸞、道綽、善導」を三租としている。仏教の祖として、「壁谷曇鸞大師」の評価の高さは、日本でも中国でも、古代から現在に至って一貫して変わっていない。


なお壁谷玄忠寺は長年その場所が不明となっていた。その石碑を発見したのは、東京帝大講師で浄土真宗の僧でもあった常盤大定(ときわだいじょう)と建築学者だった関野貞(せきのただし)である。日中の仏教界にとって、極めて大きなニュースとなった。それば大正9年、まさに東京で「松月庵睦会」が結成された年でもある。


厄除けと蕎麦

「壁谷」と「蕎麦」の関係を結びつける次のキーワードは「厄除け」だろう。江戸時代以前は現在と違い旧暦(太陰暦)である。つまり毎月30日は「三十日(みそか)」といわれる「新月」の日だった。街灯もない当時、わずかに星の明かりだけが地を照らす真っ暗な夜で、家にこもって忌むべき時期とされた。そのため「晦(みそか)」は「月隠り(つきごもり)」が転じて「つごもり」とも読む。


中国古代道教の影響をうけた修験道や密教では、忌むべき「新月の日の厄除け」の食べ物と解されたのが「蕎麦」だった。武家の興隆とともに蕎麦と禅宗が強く結びつき、やがて庶民にも伝わっていった。江戸時代の商家では仕事が終わった月末の締めのあと、つまり忌むべき真っ暗な新月の夜中、家にこもって蕎麦を食べる習慣ができたという。これが現在の「年越し蕎麦」の起源であった。風水の稿で触れたが、江戸時代以前は大晦日の行事として厄除けに「儺豆(なまめ)」をまく風習があった。節分の豆まきにもつながっている。


古代中国の道教風水にあって皇子の守護と教育を担ったとされる「壁宿(へきしゅう)」も、その和名は「壁宿(なまめ-ぼし)」である。「壁」をなぜ「なまめ」と読むのか不明とされるが、厄除けに使う「儺豆(なまめ)」と解するなら豆まきに繋がってくる。このことは、壁谷が古来から多くの権力者たちを守って来た(つまり厄除け)と伝承される歴史と重なり、他の各稿でも触れている。

※『続日本紀』には、文武天皇の時代(706年)の大晦日に厄除けのため初めて「追儺(ついな)」を行ったと記録されている。これは古代から中国の宮中で行われた、鬼を祓う厄除け「辟邪(へきじゃ)」の行事である。これも日本語で「壁邪(かべや)」と読める。


なお蕎麦は、タンパク質やミネラル、食物繊維のほかに、集中力を高めると言われるリジン(必修アミノ酸)、血管を強くするといわれるルチン(ポリフェノール)、疲労回復を促進するビタミンB1などを豊富に含み最近話題のグルテンフリー食品でもある。古来五穀を断ち、蕎麦を常食していた修験者や高僧に長生きが多いことに気が付くだろう。残念なことに、現在われわれが一般に食する「そば」は本来の「壁谷」ではない。今の日本の蕎麦は「つなぎ」として小麦が使われるためだ。「本当の蕎麦」を食するには「生粉(きこ)打ち」いわゆる「十割蕎麦」を探すしかないが、本物の生産は極めて限られ、入手は難しい。


禅宗と武士

禅宗・蕎麦は武士との関係が深い。浄土宗などが「菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)」の教えである一方で、禅宗は「菩提達磨(ぼだいだるま)」通称、「達磨」の教えである。ともに天竺(インド)の高僧で、ほぼ同時代の中国南北朝の時代に教えを広めた。とちらも釈迦の教えを理解し実践する点で同じだが、伝えられてきた「教典」を教義に使うのが通常の仏教である一方で、禅宗では「不立文字(ふりゅうもんじ)」、つまり経典は一切使わず「以心伝心」で伝え、実践することとする。禅が難解なのはこれ故であろう。その解説書でさえ迂遠かつ晦渋なものが多い。禅を究めるには、常に精神を集中して瞑想し、厳しい修行と鍛錬が求められた。この禅の厳しい考え方は、当時の武士に受け入れやすかった。


禅の思想は老荘思想を根底に持つともされる。講談社学術文庫『老子・荘子』では森三樹三郎が、「禅宗がいかに荘子の思想に近いものであるか」を検証している。禅宗の標語となっている、 「不立文字(ふりゅうもんじ)」、「教外別伝(きょうげべつでん)」、「以心伝心(いしんでんしん)」、「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」を上げ、その意味を「真理は文字言葉で他人に伝えることができず、したがって教えというかたちでは伝達することができない。ただ、互いの心のふれあいによってのみ伝えることができる。そして真理は、文字や言語を通じないで、直接の体験的直観によってとらえられる。」とし、およその意味を説明している。


日本では「道元」を租とする「曹洞宗(そうとうしゅう)」、「栄西」を祖とする「臨済宗(りんざいしゅう)」の2つが有名で、鎌倉時代以降は武家の多くが禅宗である曹洞宗や臨済宗に属した。中国では禅宗の他派に「黄檗宗(おうばくしゅう)」があり、江戸時代に来日した「隠元(いんげん)」は、江戸時代初期の後水尾法皇を始めとした皇族や幕府の要人・大名から大商人に到るまで、競って帰依した。日本の黄檗宗の開祖ともされる隠元は、「隠元豆」や、「日本茶」の開祖としてもその名を知られる。

※別稿で触れているが「黄檗宗」の文字にある「黄」と「檗」は、古代中国の皇帝(「黄」氏の末裔)の色ともされる「檗(きはだ)」を連想させる。「檗」は奈良時代の『正倉院古文書』などでも紙の染色に使われていた。なお、中国南部に現在も残る、古代の黄姓「壁谷」の一族は「檗谷」とも書かれる。


※江戸時代の禅宗に「普化宗(ふけしゅう)」もあった。「虚無僧(こむそう)」は普化宗に属し、修行のためと称して全国のあらゆる場所に移動が許可され、税を納める必要もなかった。彼らは僧衣に「明暗」と書かれた札を掲げ、尺八を吹いて各地をまわっていたが、天蓋(てんがい)と称する深い編み笠で顔を隠しており、実は幕府の隠密や裏工作をする忍者として活躍していたとされる。このため明治政府に解体され、その実体は今もって不明とされる。

※密教の強い影響を受けた南北朝時代には真言宗や浄土宗も強い影響力をもった。室町幕府の「鑁阿寺(ばんなじ) 」や、徳川家の菩提寺のひとつとなった芝増上寺も南北朝の時代までは真言宗だった。


難行に耐え抜く「松」

さて、ここからは松月庵の名前にある、松月について考察していきたい。まず「松」だが、は中国・日本に共通して「地上に在し強い理想をもった士(し:立派な人)」に例えられる。道教・風水を基礎として易占を解く『易経』は、飛鳥時代の初代の遣隋使「僧旻(みん)」が、日本に戻って藤原鎌足や蘇我入鹿に教えたことが『日本書紀』に記録される。『易経』には松が登場する。


『易経』から引用

歳寒くして、然る後に松柏(しょうはく)の彫むに後るるを知る。(原文:歳寒然後知松柏之後凋)


和訳すると「厳冬では木の葉はみな枯れ落ちるが松と柏だけは常緑を保っている」となる。これは「歳寒松柏(さいかんしょうはく)」という四字熟語にもなった。柏とは扁柏(檜)などの常緑樹だ。松司馬遷の『史記』「伯夷列伝」には、これを引用した孔子の言葉が載る。和訳するとつぎのようになる。「世の中がすべて濁りきってしまうと、逆に清い士が光る。それなのに富や名声のある者が重んじられ、それがない者(厳冬の時期なら光るはずの清い「士」)が軽んぜられている。」


『史記』の「伯夷列伝」にのる孔子の言葉

「歳寒、然後知松柏之後凋」舉世混濁、清士乃見、豈以其重若彼、其輕若此哉

※「」は筆者が付けた。


禅宗の『続伝灯録(ぞくでんとうろく)』の記述にも同様の例がある。歴史学者で禅宗にも詳しい芳賀幸四郎によれば、「世人は現象にだけ心を奪われ本質を忘れている。牡丹の花の美に心を奪われ松柏(松)の不易な美に無関心なのと似ている。」と解説する。これらは、「松」を本来の「武士」の理想とみなしているといえよう。禅宗が武士に受け入れられていく素地はここにあった。


室町時代の『見聞御家紋』でも武田氏の家紋は源姓義光(八幡太郎源義家の弟)流の伝統の家紋「松皮菱」としており、のちに武田氏の主流が用いた「武田菱」より格上の扱いとしている。なお、日本の城では、その敷地に松が似合う。松が象徴する奥深い意味にとどまらず実用面のメリットも高かったからと言われる。松はほとんど手入れ不要、風雪にも強い。その刺刺しい針葉は敵の潜入を未然に妨ぎ、食料が尽きても松皮の下にある脂肪とタンパクを突き固めれば松皮餅(まつかわもち)ができ、葉や松脂(まつやに)でさえ食すことができた。絞って松根油(しょうこんゆ)をとれば照明にも使え、たとえ朽ちても伐採すれば松明(たいまつ)にもになる。万一籠城し敵に破れれば、生木の松は白煙を立てて燃え上がる。遠方の味方に素早く敗戦を知らせ、煙幕に包まれ自ずから灰燼に帰す城は、敵に奪われることを頑なに拒んだだろう。


※『聖徳太子伝暦』では聖徳太子が「松」を好んだことを記録する。西暦574年、桃が咲き誇る花の宴の最中に、父(後の用明天皇)から「桃花を楽しむや、松葉を楽しむや」と問われると、聖徳太子は即座に「松」を選ぶと答えた。その理由を問われると「桃花一旦之榮物 而松葉万年之貞木也(桃花は一旦の栄物、しかし松葉は万年の寿木なり)」と答えていた。聖徳太子は当時三歳だったという。聖徳太子は松だけではなく禅宗とも深い関係が『日本書紀』「片岡飢人」の項で示唆されているとされる。もちろん後世に作られた伝説だろうが、聖徳太子と壁谷の関係は至る所に見当たり、いくつか他稿で触れていきたい。


将軍家と松

「大樹」とは中国で「松」を指す。松は中国から日本に入って道教・風水、そして禅に支えられて日本文化の中で昇華、最上の樹木となっていたと思われる。室町幕府・江戸幕府では将軍は「大樹」とも言われた。家康の出身地、三河にある松平家・徳川家の菩提寺も「大樹寺」という。


徳川家の分家も「十八松平」と称された。松の字(実際には「松」の異体字「枩」)を分解すると「十八公」と読めることが由来だ。平安中期の歌人、源順(みなもとの-ゆずる)の漢詩にも登場する。そこでは『続伝灯録』を引いて、松には君子(この場合は将軍)たる徳が自ずから顕れていると言う。松平の十八公とは、徳川家の一千年の繁栄を世に顕示するものだった。


「歳寒知松貞」 源順

厳冬素雪の寒き朝には、松に君子の徳を彰す。
十八公の栄しは霜の後に露はわるる。一千年の色は雪の中に深し。

※漢文の原文しか手元になく、上記は筆者が読み下した。漢文の誤判読は容赦願いたい。


『続伝灯録』から引用

松樹(しょうじゅ)千年ノ翠(みどり)時ノ人意ニ不入(こころに入らず)


三代将軍家光が、諸大名を前に「生まれながらの将軍である」と言い放ったとされるとき、その背には巨大な「松」の絵が描かれていた。そこは500畳とも言われる江戸城最大の書院で「大広間」と呼ばれ、諸大名らはそこから約四寸(約12センチ)もの段差がある下段に整列し平伏していた。その大広間から大名たちが将軍に対面する白書院に向かう江戸城屈指の大廊下があった。幅4メートル長さ57メートル、それが忠臣蔵で有名な「松の廊下」である。


一方で、江戸時代を通して江戸城内部に保存された行軍家の貴重文書である『紅葉文庫』では、『松のさかへ』に将軍家の出生の秘密が記録されている。それは知られている歴史とは全く異なる衝撃的な事実だった。(詳細は別稿で触れている)直接関係はないが、同名の絵画「松乃榮」もあり、現在東京大学図書館に保存されている。それは「旧幕府の姫君加州家へ御輿入の図」という副題がつき、将軍家の娘が加州(加藩)に輿入れする様子を書いたものだ。将軍家を「松」に例えていることは、これら多数の事例からも推測できよう。


現在の皇居正殿にある「松の間」も、皇居の中でも最も格式の高い部屋とされ、勲章の受賞式などで現在も使用されている。足利氏や徳川氏の時代を超え、千年(永年)の権威を携えた「松」は現在の皇室にも引き継がれている。「松」の威厳は、それほど高く、将軍家や大名から下賜でもされない限り、勝手に使えなかったと思われる。


だた一つの真実を顕す「月」

一方「月」は古来不死再生の象徴とされてきた。禅宗においては超然とした真実の象徴ともされる。唐代に完成し禅宗の要義を説いたともされる『首楞厳経(りょうごんきょう)』には、「月を指差したときに、その指先に注目して月を見たと思うならば、その人は、月だけでなく指をも正しく認識しなかったことになる。指さされて見たのでは真性を知ることはできない」とする。そのため、指は月を知るための障害になるとし、このことをもって禅語の「断指(だんし)」があるとされる。

※これは禅宗に経典がない理由だが、肩から先の腕を落とし達磨に請うた「断臂(だんぴ)」にも繋がるのだろう。


日本の曹洞宗の開祖といわれる「道元」が著した『正法眼蔵』「山水経」でも「天の月はただ一つだが、月はあらゆる場所の水にその影を落とす」とし、月をだた一つの真実として捉え、その教えは地上の人々の前に自ずから顕れているとしている。


『正法眼蔵』「山水経」

一月天に在りて影は衆水に印す


『五祖法演禅師語録』(「法演禅師」は602-674年)にも「月」が登場する。拙訳によれば「天空に輝く月も、水を掬(すく)えば手中にできる。花も手に持って楽しめば、その香りが衣に染み込む。こうして、真理(月)や美(花)も働きかけ(修行)で得ることができる」という意味になる。(『禅の言葉』の解説による)


『五祖法演禅師語録』から引用

水を掬(きく)すれば 月手に在り . 花を弄(ろう)すれば 香衣に満つ


宋代の政治家・文人としても有名な蘇東坡の漢詩『赤壁賦』に登場し、有名な禅語とされるのは「月白風清」であろう。「広大で悠久なる長江に比べて、人は小さくはかない。しかし月は満ち欠けするが結局もとの月に戻る。万物は変化するが、しかし万物は永劫でもある」。人・物を超越する自然の悠久の真実を月に称えるのがこの禅語である。


禅語としての「松月」

日本で特に好まれたのは「松樹千年ノ翠」そして「澗底の松」であろう。禅宗の高僧の筆跡は「禅林墨蹟(ぜんりんぼくせき)」といわれ、茶席の掛軸として使われた。室町末期には、茶器と並んで一国一城をかけるほどの価値があったともされる。現在も詩文や書画に親しむ文化人を「文人墨客(ぶんじんぼっかく)」と言うのは、ここからきている。その禅林墨蹟に禅語としてよく登場する文字のひとつが「松月」である。禅宗の書『嘉泰普灯録(かたいふとうろく)』に次のように登場している。


『嘉泰普灯録』巻十六より引用

風吹けど動かじ天辺の月、雪壓(お)せども摧(くだ)け難し澗底(かんてい)の松

※カッコは筆者がつけた。


原文は「風吹不動天辺月 雪壓難摧澗底松」となる。どんな強風にも天上に泰然と佇(たたず)み続けて悠久の真実を蓄えながら、繰り返して再生する「月」、そして厳冬の奥深い谷底でも凛として緑を失わずに耐え抜く「松」。真実を求めどんな困難に遭遇しても挫くじけない強い意思を称えたものだ。この「松月」の2文字に込められた時空を超えたスケールの壮大さ、そして凄まじいまでの禅の含蓄、これらに心及ぶとき凡人の筆者もおのずと感動を禁じ得ない。

※『嘉泰普灯録(かたいふとうろく)』は「毒を以て毒を制す」で有名な禅宗の書。中国南宋(1127年-1279年)時代に皇帝の勅許(ちょっきょ)のもとに纏められた『五灯会元』の一冊である。

※夏目漱石は『薤露行』(アーサー王)では、右に出るものはないとされた伝説の騎士「ランスロット卿」が馬を捨て具足を脱ぎ仮の宿を求めた姿を「偃蹇(えんけん)として澗底(かんてい)に嘯(うそぶく)松が枝」と評している。実は漱石も禅修行の経験があり、当然「澗底の松」を知っていたはずだ。嘯(うそぶく)も「しょう」とも読むので、嘯月「しょうげつ」となる。


松月の伝統

鎌倉時代、日本からの留学僧は先ずこの師に参ずる、そう言われたのは中国南部にある福建省の禅僧「月江正印(げっこうしょういん)」で、後年に「松月翁」と号して多くの墨蹟を残した。彼の墨蹟は日本に持ち帰られ、大いにもてはやされた。(現在も「五島美術館」を始め、各地の美術館に残され、国宝、重要文化財となっている。)


墨蹟は、 臨済宗大徳寺を中心に特に禅僧の間で広がり、日本の禅僧の墨蹟も価値が高まった。特に大德寺では、室町時代の「一休宗純(いっきゅう そうじゅん)」や「沢庵(たくあん)」江戸後期に出た「宗宇(そうう)」などの墨蹟が有名である。宗宇は自ら「松月老人」と号している。


室町時代の最も有名な歌人される臨済宗東福寺の僧「正徹」も「松月庵」と称している。(のちに招月庵)正徹は和歌を冷泉為尹と今川了俊に学び、八代将軍足利義政に『源氏物語』の講義も行った。彼の書写は現存しており『正徹本源氏物語』は『源氏物語』のその後の写本の一流をなし、『徒然草』の写本は現存する最古の写本ともされる。

※「一休」と「宗宇」は臨済宗大徳寺、「正徹」は東福寺であり、ともに鎌倉幕府・足利幕府と関係の深い「京都五山」の一つで、大徳寺はその最高位にたつ「一位」だった。大徳寺は南北朝時代のとある事情で五山から外されているが、相変わらず強い影響力を持った。


朝鮮出兵の際に加藤清正が連れ帰った陶工により伝えられた八代焼きは代々「十三軒松月」を名乗り、後に第11代将軍、徳川家斉から「吉向松月(きっこうしょうげつ)」の名を許されている。また茶道では表千家の古流の中にある雅(みやび)流家元の「松月庵」が代々継がれており、煎茶道(日本茶)にも伝統の黄檗「松月流」がある。茶道では茶席に必須とされた和菓子で、寛永七年(1630年)の鍋島藩家臣の創業が確認できる「松月堂」があった。(現在の「千鳥屋」)

※鍋島藩は肥前藩ともよばれ幕府から松平の姓を許され、幕末には「佐賀の七賢人」とよばれた副島種臣、江藤新平、大隈重信などを輩出している。


他にも、最古とされる武家の生け花の家元「松月堂古流」がある。俳句の松尾芭蕉は「俳聖」とされ、寛政のころ光格天皇から「桃青霊神」、天保のころ孝明天皇から「花本大明神」とされた神でもあった。その松尾芭蕉一派の宗匠で大和派や、伊勢派に「松月庵」や「松月院」の宗匠号が数百年に渡って受け継がれていた。その後継となった明治の俳句宗匠も、江戸深川(現在の江東区あたり)に「松月庵」「松月院」が存在している。


禅宗の臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の寺院にはかつては「松月院」、「松月寺」、「松月庵」が多数あり、寺院内に「松月庵」を持つ例も多くあった。しかし明治初期の廃仏毀釈でほとんどが廃寺となり現存しない。現在は跡地も含め、全国各地に数十か所が確認できる。


たとえば足利尊氏直系の大名として唯一明治まで残った、喜連川(きつれがわ)氏の菩提寺には「足利開基三ヵ院」のひとつとされる臨済宗円覚寺派「松月院」があった。今は廃寺となり現存しないが、その広大な跡地に公園が整備された「松月院御所塚」が往時をしのばせている。また臨済宗の円覚寺派・建長寺派にも「松月院」が確認でき、臨済宗南禅寺派、月洲寺(東京都台東区竜泉)海泉寺 (神戸市)などでは、寺院内にある尼寺を「松月庵」と称している。


静岡伊豆にも「松月寺」がある。平安末期創建で源頼朝にゆかりがある古刹であったとされるが、江戸時代初め(慶長7年)に曹洞宗「松月寺」になったという。また徳川家康が厚く保護し、その裏に広大な将軍家の鷹狩り場「徳丸ケ原」が広がっていたのは、曹洞宗「松月院」(東京都板橋区)である。江戸末期には、この松月院に西洋式砲術(高島流砲術)演習の本陣が置かれ、そこには全国各地から軍学者たちが集まった。この演習は、幕府や各藩の西洋式軍備が始まる大きなきっかけになった。

※東京板橋の松月院は延徳4年(1492年)千葉自胤の中興と伝えられる。千葉氏は鎌倉幕府の功臣として『吾妻鏡』に記録され、鎌倉・室町時代には侍所別当(長官)として勢力を誇ったが、鎌倉公方との戦に敗れると下総(千葉県北部)から武蔵(現在の東京都板橋区あたり)に退いた。松月院には将軍家の朱印状が与えられ、現在も葵の紋を掲げ、千葉氏本宗家の墓も残されている。鎌倉・室町時代の千葉氏流の神谷(かべや)氏について別稿で触れている。


大分県にある曹洞宗「松月寺」では、大蛇(龍)伝説がある落差30mの「慈恩の滝」が有名だ。石川県金沢にある曹洞宗「松月寺」には、加賀藩3代藩主「前田利常」が植えさせたとされる国の天然記念物「大桜」がある。この桜の品種は「松」の名をもつ「松月桜」だ。横に横にと枝を広げ、遅咲きの花は派手な「八重の桜」である。(通常の桜は花びらが五枚しかない)


将軍吉宗の孫で、本来は最も次期将軍の地位に近かった「松平定信」は疎まれて養子に出され白河藩主(現在の福島県白河市周辺)となったが、その善政が江戸でも評判になり老中首座となって「寛政の改革」にあたった。その改革の厳しさから老中を降ろされたとされ、江戸深川(現在の江東区東陽町あたり)に隠居し、「花月」「風月」または「楽翁」と名乗ったとされる。定信が残した自伝『宇下人言』にも、自らを「楽翁」と号したとある。このような気楽な名は、世を憚る仮初(かりそめ)の姿だったのではなかろうか。


実は定信は隠居後も幕政に強い影響力を行使していた。留任した他の老中たちは「寛政の遺老」と呼ばれ、その後も定信の改革を推進していった。定信は江戸深川(現在の東京都江東区)の海荘(はまやしき)で隠居していたが、東西二つの庭園に「松月斎」「青圭閣」という庵を営んだ。「松月」「青圭」は、千年の翠とされた「青松」と、不滅の理想とされた「月桂」の双方を組み合わせたもの、そして「閣」は現役(政治家)での活動を「斎」は隠居(神仏)を表しているのではと筆者は推測する。庭園に金沢前田家と同じ「松月桜」を植え自ら「松月院」とも名乗っていた。


松平定信は白川藩(現在の福島県)時代から「蕎麦」をたいへん奨励していた。隠居地の江戸深川でも、当時江戸で最も有名だった蕎麦屋「藪」が大繁盛していた。白河藩や三春藩(現在の福島県)は壁谷家が存在しており、深川に蔵屋敷があった。現在も深川周辺には壁谷が集中して居住している。別稿で触れた壁谷が徳川一ツ橋家の家臣となった経緯は、この松平定信がキーマンだった可能性があり、蕎麦屋の壁谷が深川近辺に多いこと、そして松月庵の名前の起こりと関連している可能性もあろう。


よく知られるように、禅宗の寺には丸い窓が多い。欠けた部分がない円が悟りの象徴とされるからだ。江戸で当時桜が咲き誇る名所として上野寛永寺があったが、桜一面とも思われる寛永寺 清水観音堂の前に「月の松」と呼ばれた珍しい松があった。その姿は歌川広重の名所江戸百景「上野清水堂不忍ノ池」に残っている。松が円を描いて育つはずもなく、寛永寺の関係者が作ったものだろう。室町時代の禅宗の思想は、江戸時代にも確実に浸透しており、天台宗だった寛永寺も、禅を意識していたと思われる。寛永寺は家康の最側近とされた天海が開山しており、清水観音堂は、京都東山にある清水寺に見立てたものとされる。

※清水寺は壁谷を引き連れ関東・東北に向かったとされる坂上田村麻呂が開祖と伝わる。


江戸と蕎麦

そばの歴史は『蕎麦屋の系図』(岩崎信也 光文社新書2003)に詳しい。本書によれば戦国時代に蕎麦が盛んに生産されるようになったとしている。これらは「蕎麦がき」とか「蕎麦団子」と呼ばれ、現在の蕎麦とは違うようだ。戦時の備えとして重宝されたが、乾燥して色は黒かった。不味くてぼそぼそし喉も通りにくい。仕方なく食した戦場の武士と違い、一般の人々には極めて不評だった。


白い蕎麦は贅沢品だった。白くて麺状となる蕎麦は、大部分にある外側の黒い部分を棄てないといけないからだ。篩(ふるい)にかけて得られた最初の「一番篩」のそば粉は最高級品とされた。これに繋ぎに一部小麦を混ぜてこねて、細く切るという加工が必要になる。相当の手間がかかり贅沢品とされ、江戸幕府から「奢侈(しゃし)禁止令」が出され庶民は禁じられた。蕎麦は隠語で「ご法度(ごはっど:違法という意味)」と呼ばれ、めでたいときなどに隠れて食べられた。


長野県伊那市に残る伝承によれば、徳川家康の実孫で、後に老中となった保科正之(ほしなまさゆき)が、信州の高遠藩(現在の長野県伊那市)から福島の会津藩へ移封された。これが会津藩の始まりである。この際に信州から蕎麦打ち職人も連れて行き、会津に「高遠蕎麦(たかとうそば)」という信州風そばを定着させたとされる。


蕎麦の産地のひとつ更級(さらしな)は、江戸前蕎麦で有名な暖簾である「更科蕎麦」に使われた。更級を更科と書いたのは、この保科家から下賜されたものとされている。「御膳蕎麦(ごぜんそば)」は将軍家御用を賜ってから付いた名とされる。このように、江戸にあった蕎麦屋の多くは、江戸時代中期ごろまで大名屋敷が密集する地域にあり、大名屋敷に出張し、そこで蕎麦を打って供していた「大名蕎麦」だったとする記録が、現在の蕎麦屋の老舗に残っている。このように江戸時代の前半は蕎麦は「御膳蕎麦」「大名蕎麦」といわれ、大名が口にする高価なものだった。


江戸中期降に商業が発達し、石臼の普及で手軽に作れるようになると、蕎麦は「金は余るが暇がない」といわれた豪勢な商家の食べ物にもなった。以下は江戸後期の評論『世事見聞録(せじけんぶんろく)』では商家の繁盛ぶりを皮肉を交えて記している。誤解を防ぐため追補すると、本書では困窮に喘いでいる武士を尻目に百姓(農業を営むもの)は裕福だと説明している。本引用部分では、それに続き、農業を営むものを遥かに超えて(「百姓に上を超えて」)商人は豪勢なほど裕福だと、強調している。


文化13年(1816年)に書かれた『世事見聞録』(岩波書店版)からの引用 

今町人の分限、豪勢になれり。(中略)職人は一日の賃銀(ちんぎん)何(いか)ほどといふ限りありて、極めのほか得がたし。(高収入は極めにくい)商人はその極まりたることなく、利益次第、欲情働き次第にて、風水旱(災害のこと)の患(うれい)もなく、年貢もなく、公役(くえき)もなく、誠に当世にては上もなき(上役もいない)勝手を得たるものなり。(中略)人数増し、家數増し、町数増して繁盛いうべからす。(中楽)津々浦々も同じく繁花に到り、所産の自在なるこというべからず(当然である)してその結構、その奢り、日々月々盛んになり、今の様百姓に上を超えて当世に抜群したること、眼前のごとし。


商人は働けば働くほど儲かり、年貢を払う必要もなかった。こうして「あぶく銭」という言葉が出来たと言われる。当時は一般に家に風呂はないので夜の銭湯がえりに、酒と一緒に一杯、蕎麦をひっかけていたようだ。蕎麦は短時間でサッと食べることができ、栄養もあった。そのため「夜鷹そば」と称するの屋台の店が、深夜の江戸市中に多数出回り火事が多発するようになった。幕府に何度も規制されたが、それでも減ることはなかったとされている。


幕末のあらゆる事項を記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』によれば、江戸後期の万延元年(1860)に、蕎麦の価格調整で「談合」したとされ、そのとき集まった蕎麦屋の数は、なんと3763軒あったとしている。この数だけでも、東京都内で近年最も「うどんや・蕎麦屋」が多かったと思われる総数(『総務省 事業所・企業統計調査統計』1993年)を凌駕する。しかし、戸では、うどん屋は「万に一つ」としており(『守貞謾稿』)、しかも蕎麦屋3763軒には気ままに営業し、規制さえされていた無数の「夜鷹そば」(いわゆる屋台)は含まれてない。当時の江戸の人口は100万人ほどで、現在の10分の一以下にすぎない。江戸には現在は考えられないほど、蕎麦屋があふれていたことになる。


江戸時代後半の蕎麦屋を記録した書籍は数多いが、「松月」という名のついた蕎麦屋の記録は、確認できていない。多くの場合「松月」は、禅宗や武家の権威、場合によっては将軍家にも関わりがある家元、流派、暖簾(のれん)、職人などに限られた。「松月」の名は、権威ある大名から与えられでもしない限り使うのは難しかったと思われる。明治になっても「松月」という名は、半ば近寄りがたい権威を有していた可能性が高い。


日本独自の暖簾(のれん)制度

福島の白河藩主だった松平定信が、幕府老中になり「寛政の改革」(1787 年-1793年)を始めたころは、まさに武士が困窮し、商業が盛んな時期でもあった。松平定信は朱子学を奨励していた。福島の白河藩主だったころも、寒冷地でも冷害にも強い蕎麦の生産を奨励していた。このため福島の白河は、信州、出雲、盛岡とともに、日本四大そば処と現在も言われる。

※松平定信の墓は東京深川の霊巌寺にある。白川藩に属したのが現在の福島県須賀川市の壁谷であり、現在も深川周辺には壁谷が集中して居住している。


寛政の改革は、文化革命でもあった。朱子学により「考」(祖先のため)より「忠」(主人のため)が重視され、後継ぎになれない他家の二男三男を養子にして、自家を継がせるということが頻繁に行われた。そして困窮に耐えかね、お役目を果たせない武家が、町人に自らの家系を売ることも稀ではなかった。


一方で商家では「暖簾(のれん)」という日本独自の仕組みで跡継ぎが決まった。10代前半ころから丁稚や小僧としてして長年無償で働き、腕を磨いて番頭となり、主人に一人前と認められて「暖簾を継ぐ」ことで、店を継いだり、別な場所に自分の店を持たせてもらうものだ。店の商号(屋号)や技術、その店の格式や伝統、顧客や取引先、その他のノウハウまですべてを受け継いでいくのは、実子でなく優秀な番頭や弟子だった。そのため番頭に娘が嫁いだり、あるいは他家で評判の番頭を婿に迎えることもあった。これは蕎麦屋に限ったことではない。有名そば店の「更科」の例を話そう。「更科」の本流は屋号「布屋」とされるが、各店舗の主人は、腕の良かった奉公人が暖簾分けして独立した例が多いと記録される。


江戸の三大蕎麦といわれるのは、一般に「砂場」「更科」「藪」とされる。「砂場」はもと大阪にあったが、いつのまにか江戸にも移って来たようだ。その歴史は大名家との関わり(どうも松平家らしい)が推測される。「更科」も江戸麻布永坂(現在も同名)に寛政2年(1790年)に開いたのが始まりで、のち保科家(将軍家光の弟、のち会津藩主松平家)から「科」の名を賜って「更科」と名のり、麻布更科が将軍家御用を賜ってからは「御膳蕎麦」を名乗ったという。


一方で「藪」はもともと、雑司ヶ谷(ぞうしがや)鬼子母神の竹藪の中にあったとされる庶民派の蕎麦屋だ。その後、武家屋敷がきしめくいていた深川で、永代寺の門前町(現在の江東区三好町から東陽町あたりにあった)の「藪」が江戸で大評判になり、文化12年(1815年)の「名物商人評判」や、安政6年の『須原屋茂兵衛版の江戸大絵図』にも載った。江戸後期になると、江戸前蕎麦は「藪」といわれるほどの名声を得て、江戸各地にやたらと「藪」を名乗る蕎麦屋が続出したともされる。松平定信も身近にあった「藪」の蕎麦を食していたに違いないだろう。


明治初期の東京と川崎

維新で東京(江戸)の町は一変する。「彰義隊(しょうぎたい)」が新政府軍と交戦した「上野戦争」、「飯能戦争」、そして千葉の「市川・船橋戦争」などで下町は焦土となり、戦火は東北に向かった。旗本八万騎とも言われた幕臣たちは静岡(明治初期の 静岡藩)に去り、江戸の武家屋敷は多くが取り壊された。廃仏毀釈で、多くの寺社が徹底的に破壊され、深川の永代寺の門前にあった超人気店「藪」もすっかり姿を消している。さらに明治5年の大火で下町が再び焦土と化したが、その後も東京には人口が集中した。明治9年に蔓延していたコレラが東京で大流行。東京の人口は1年で一気に13%以上も減った。(東京都の明治9年の人口統計)


明治9年の「秩禄処分」でわずかな一時金を手にいれた武士も多く、翌明治10年の西南戦争で政府が債権を多発、急激なインフレが進行し物価が急騰した。これを機に多額の借金をして新たな商売に挑戦した士族たちは多かった。しかし「明治14年の政変」後の「松方財政」で、急転してデフレが発生。士族たちは収入が激減した一方で、借金が全く返せなくなり破綻していった。(士族の商法と揶揄されるが、本当はこういう事情もあった。)


追い打ちをかけたのが明治16年の、日本茶の輸入規制だった。実は日本茶は江戸末期から海外で好評を博しており、絹と並んで日本の輸出品のトップで green tea(日本茶)という英語が生まれたほどだ。しかし大量に輸出されるようになって品質の悪い茶が出回ると、海外から一斉に輸入規制された。急伸長していた日本茶の販売が激減すると、静岡に強制移住させられ茶の栽培を行っていた旧幕臣たちは、二重の打撃をうけ茶畑を手放すことになった。残された茶畑は、現在も静岡の産地となっている。同じような目にあった千葉では、お茶から撤退して落花生に切り替えたため、現在千葉では落花生が名産品となっている。


大きな打撃を受けなかった川崎

全国各地で多くが苦境にあった中、川崎はほとんど無傷だった。川崎は古くから東海道の宿場町で、江戸との境に流れる「平間川(ひらまがわ)」を渡る橋はなく、天候次第で何日も川崎で足止めを食らっていた。このため川崎宿は大繁盛した。明治維新では、明治天皇も「明治丸」で海路横浜に到着しすると、川崎宿に泊まり、「平間川」を渡って江戸城に入っていた。


厄除けで有名な「川崎大師」は、正式には「平間寺(へいけんじ)」という、真言宗の寺院である。川崎大師の境内には、徳川御三卿筆頭の田安宗武(8代将軍徳川吉宗の次男、実は江戸深川に住した松平定信の実父である。)が治めた「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」もある。特に第11代将軍徳川家斉が厄年に参詣する直前、34世山主の隆円上人が急死した。将軍家斉の身代わりになったと釈明した話が庶民にも伝わると、川崎大師は「厄除け」で大評判になった。


その後は、家斉の子弟である将軍家、徳川田安家、一橋家が川崎太師に厄除けに詣でるようになり、松平定信も川崎太師と関係が深くなった。江戸後期に弘法大使の強力なご利益がある「厄除け大師」として、一般民衆に信仰が広まった。川崎は、こうして深川と並んで徳川家、松平家とゆかりの深い町となっていた。全国の寺院が廃仏毀釈で甚大な被害を受け廃寺となる中で、川崎大師が逃れることができたのは、このような事情もあったろう。


明治政府は儒教や仏教思想を一掃し、天皇を神とし神道を国教と定める国家方針を推進する(「大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔」)で、明治5年(1872年)から宗教官吏(役人)の教導職を採用した。知行地を失った神官・神道家、寺院の僧たちが政府の元に教導職として採用され、政府の神道国教化政策に一役買うことで収入を得ることができた。これは江戸時代の知行地も失い、寺請制度や檀家制度の崩壊で権威と収入減を失った寺院側にとっても救いの手だった。平間寺の僧たちも、明治政府から新たな収入源を得たともいえる。


明治17年 教導職の廃止と川崎の商機

なぜ明治17年、川崎に松月庵なのか、松平定信以外にもいくつか理由が考えられる。平間寺にも、川崎にとっても明治17年前後は、大きな変革の年だったことだ。川崎では開国以来欧米各国が横浜港に蒸気船で押し寄せていた。横浜港での貿易が伸びると、江戸との交易で中継地となる川崎には大量の交通量が発生、平間川を渡る「六郷」に橋がができることになった。しかしそれまで平間川を蒸気船で渡したり、遠回りの乗り合い馬車で稼いでいた親方たちが多数おり、死活問題として大反対した。


しかし明治5年に日本初の鉄道である「汽車」が横浜品川間を走り、次いで新橋まで開通すると状況は一変した。通称「陸蒸気(おかじょうき)」は、木造「六郷橋」を突貫工事で架橋して平間川を渡っていた。明治6年(1873年)には、三菱が「郵便汽船三菱会社」を設立、日本で初めて横浜と上海を結んだ「上海航路」を開発した。これらによって、横浜と東京を中継する川崎の交通量は劇的に増え、陸蒸気が陸上交通を占めるようになった。平間川の親方たちも橋を架けることに賛成せざるを得なくなった。


明治16年、平間川についに「六郷橋」が架けられ陸蒸気に加えて、陸路の整備で交通量はさらに増大した。海上交通も体力勝負の値下げ合戦が繰り広げられ、低価格で大量の物資の輸送が可能となった。値下げ競争に破れた海外の蒸気船は次々と撤退し、明治18年に勝ち残った「郵船汽船三菱会社」が競合相手として唯一勝ち残った「共同運輸」を吸収合併した。こうして上海航路を独占して、上海から大量の中国人が横浜に上陸するようになった。こうして三菱は大いに儲けたが、同時に中国広東省を中心に量の中国人が横浜に移住してきて現在の横浜中華街の形成を後押しすることにもなった。


明治17年(1884年)8月、教導職がついに廃止された。(「太政官布「達第19号」)このとき、真言宗管長の元で教導職の活動おこなっていた平間寺(いまの川崎大師)にいた多数の僧たちも、収入を失った。この時、もしかしたら蕎麦づくりを担当していた平間寺の僧あるいは関係者が、収入を得るために蕎麦屋を始めた可能性があるかもしれない。

※もしかしたら厄除けから壁谷、そして蕎麦に繋がったのかもしれない。


丁度2か月前の明治17年6月、ドイツ型の「先願登録主義」を採用して「商標条例」が交付されていた。江戸時代からあった松月の権威は、そう簡単には消えなかったと思われるが、新しい「商標」は、登録さえ先にすれば格式ある伝統の名も合法的に使えることも意味した。店の弟子になって「暖簾分け」することしか考えられなかった時代から、「商標」という新手で店の営業権を獲得する時代に代わったといえる。このとき「松月」が登録されたかは不明だが、どんな権威や伝統のある名前も商売に使える、そんな時代になりつつあったともいえる。

※現在の東京近辺の壁谷の居住地は、神奈川では横浜・川崎、東京では江東区深川・亀戸、世田谷区など、東京周辺に集中している。これらの地の多くは江戸末期に武家の屋敷や演習場があった地で、明治時代は三業地といわれ遊郭・料亭などが許可された地域でもあった。明治以降は急速な日本の発展を支える地域ともなった。明治末期から大正にかけて、こういった遊郭・料亭を中心とした二業組合(料理飲食業組合)が全国各地で続々と作られている。


明治17年 芭蕉の「二百回忌」の盛り上がり

この明治17年は、芭蕉の「二百回忌」準備が全国各地で異常な盛り上がりを見せた時期でもあった。実は川崎や平間寺(川崎大師)と、芭蕉の関係も長く、そして深い。そして「蕎麦」と「俳句」も関係が深いのだ。


『明治期における美濃派―芭蕉二百回忌を中心として』によれば、明治16年4月に「芭蕉二百回忌追善墨直会式百韻」が盛大に開かれ、芭蕉二百回忌の準備が大々的に始まった。その中心となったのは京都相国寺管長「退耕」、妙心寺管長「無学」、知恩院第七十五代門主「松翁」ら、教導職のなかでも最高位の「大教正」の地位にあった。明治政府は「七山」と各宗派に整理し、管長、門主たの「大教正」に各宗派の統率を任せていた。


彼らの多くが、芭蕉二百回忌に関わっており、それを背後で支えていたのは、蕉風美濃派(再和派)の第十六世曙庵「虚白」であった。俳句集『水音集』にある前書きには「霊(芭蕉のこと)こゝに在す花の香水の音」とし、芭蕉の神格化がみえる。明治28年には芭蕉二百回忌追善集と題して『桜の懐古』を出したが、この際に序文を書いた南條文雄(元大谷派大学学長)も、芭蕉美濃派の俳諧師であり、川崎大師の平間寺が属する真言宗の「大僧正」でもあった。


当時明治俳諧は大変流行しており、多数の俳句集が発売され、文芸誌の出版も相次いだ。東京で蕉風を掲げる「俳諧教林明社」「俳諧明倫社」が相次ぎ創立され、穂積永機や三森幹夫がどちらが芭蕉の正統(蕉風)なのかを競った。明治18年には芭蕉200回忌を記念するとして「神道古池協会」が設立され、現在も深川にある「芭蕉神社」も出来た。明治26年に行れた「芭蕉二百回忌」は、芭蕉神格化の代表的行事とされ日本全国で実施され、この10年は明治俳諧の絶頂時期だった。


※『俳聖芭蕉と俳魔支考』によれば、前回の芭蕉百回忌は寛政5年(1783年)だった。芭蕉が葬られた、滋賀県大津市にある義仲寺(ぎちゅうじ)にあった芭蕉堂は、中川蝶夢によって1770年に再建され、芭蕉顕彰運動が全国的規模で展開された。その結果寛政5年(1793年)の百回記忌は全国規模で盛大に行われた。当時は与謝蕪村らも登場し俳諧が一大ブームになっており、それを背後で支えたのは丹後(現在の京都)周辺の芭蕉の流れを組む俳諧師たちだった。


寛政五年十月五日に、芭蕉塚である烏塚を開眼して披露された。(記念の撰集『烏塚百回忌』が残り、義仲寺の記録にも「烏塚丹後田辺智恩院木越建」と記載がある。)主催したのは丹後田辺(現在の京都田辺)の逸見木越、名は與一左衛門久邦とありおそらく田辺藩士であろう。そしてその俳号も「松月庵」であった。のちにこの木越を追善した『まつの月』(京都書林橘栄堂 勝田善助刊)も出版されている。こののち、丹後田辺は以後の蕉風の中心地の一つともなり田辺派とも言われる。『明治期における美濃派―芭蕉二百回忌を中心として』によれば芭蕉二百回記忌がこの京都中心の教導職の重鎮たちが主導し、美濃派(再和派)が背後で支援して展開されたとする。


芭蕉派と川崎

ここで川崎と松尾芭蕉との深い関わりについても触れておきたい。元禄7年(1694年)5月11日、江戸深川から伊賀上野へと旅立った芭蕉は多数の門弟たちと別れたのも、この川崎宿だった。そして芭蕉は旅の途中病に倒れ、江戸深川に戻ることなく生涯を閉じていた。


芭蕉 川崎宿にて門弟たちと別れのとき

麦の穂を たよりにつかむ 別れかな 

芭蕉 病床にて

旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る 


芭蕉の命日の10月12日(旧暦)は「時雨忌(しぐれき)」といわれ、現在も関係者によって行事が続けられている。とくに五十年ごと、百年ごとのなどの句切れになる時雨忌は、全国か各地で盛大におこなわれる。しかもその準備は十年以上前から始まり全国で盛り上がりを見せるのだ。これがこれが明治17年に「松月庵」ができた事情にかかわる可能性がある。


川崎大師には、芭蕉の句碑がある。神奈川県によれば、川崎市だけでも5基、県内には60基もの芭蕉の句碑があるとされる。

※「松尾芭蕉」は何度も旅に出ているが、その目的は各地で「月」を見ることとし、その背景には禅があった。『野ざらし紀行』の書き出しでも「三更月下(さんこうげっか)無我に入る」としている。「三更」とは深夜の時間帯を指し、中国禅僧の詩集『江湖風月集』にある漢詩「三更月下入無何(偃渓広聞)」を引いている。


明治17年3月21日、川崎大師(真言宗平間寺)にとっても弘法大師空海の一千五百回忌という区切りの年で盛大な法要も組まれ布教熱も高まった。この関係で空海の拓いた高野山の勢力も強くなったようだ。平間寺は同じ真言宗でも智山派(総本山智積院)であり明治の後半は独自の道を歩むが、このころまでは、明治政府の政策に基づいて七山のひとつの真言宗として統一行動をとらされていた。


そして明治17年の教導職廃止後は、芭蕉の流れをくむ美濃派が中心になっており、平間寺はその傘下として強い影響を受けていた。一方で、神格化された芭蕉の流れを引く俳諧師「松月」師匠に与えられた政府のお墨付きもなくなったことも意味していたかもしれない。商標条例もこの明治17年であり、蕎麦と川崎大師に共通して縁のある「松月」の名を頂いた蕎麦屋ができる素地はあっただろう。さらには、川崎大師は自ら松月と称した「松平定信」とも大変所縁が深かった。


川崎と深川は江戸を守る地として関係が深く、芭蕉や松平定信とも深い関係があった。そして明治17年には盛り上がる明治俳諧と芭蕉二百回忌、教導職の廃止の収入激減、陸蒸気や平間橋を通過する人々が参拝に急増、このような複数の事情が重なった。これらから明治17年川崎に「松月庵」という蕎麦屋が開業する土台となったと考えることもできそうに思える。

※大正15年(1926年)は小林一茶の「百回忌」に大森に蕎麦屋「一茶庵」ができていた。やはり俳人と蕎麦屋が関係している。じつはこのころ、大森海岸に海水浴場ができて、料亭が多数並び数百人の芸妓がいた遊興街が出来上がりつつあった。このように俳句と蕎麦の深い関係は、江戸時代だけでなく明治、大正時代も生き残っていたようだ。

※明治17年は、明治政府の日本海軍が横須賀に移った年でもある。これを「横須賀鎮守府(よこすかちんじゅふ)」という。それまでは、「東海鎮守府」といわれ横浜にあった。鎮守府は、第二次大戦終結まで存在していた。この鎮守府の川崎からの移動も同じ明治17年というのは興味深い。明治17年というのは、横浜の街が変わる大きな分岐点だった。


三河屋と蕎麦屋の関係

一方で、最も気になるのは蕎麦と三河の関係だ。実は『蕎麦屋の系図』で江戸・東京の蕎麦屋の話が出て来るのだが、なぜか店主の出身地は揃って尾張・三河(名古屋・愛知)ばかりなのだ。その例をいくつか挙げてみよう。


江戸時代に有名だった「麹町砂場」は江戸城半蔵門から四ッ谷門につながる道沿いの数少ない町人町にあった。すぐ東側には、御三家の尾張藩、紀伊藩、松平出羽(松江藩。現在の島根県)の上屋敷が並んでいる。(尾張屋嘉永版『麹町永田町外桜田絵図』)。伝承では譜代大名(松平家と思われる)がスポンサーだったされるが、それが誰かは現在に伝わっていないという。


麹町砂場7丁目から暖簾分けされ、明治5年に独立した「琴平町砂場」の主人は、名古屋出身の「稲垣音次郎」だった。その妻「よそ」も三河の士族刈谷家の娘とされる。その助言で後の昭和8年に「砂場長栄会」が結成されている。実は開祖はもと武士であり、かつ三河から来た刈谷家の「よそ」がキーマンだと、老舗の蕎麦屋「砂場」では語り継がれていたのだ。三河の刈谷氏は室町時代から続く由緒ある家系だが、その娘がなぜ蕎麦屋の妻になったか不明と本書では記されている。


旧刈谷家の菩提寺は現在も愛知県西尾市の養国寺にある。(『蕎麦屋の系図』による)ただし、主人の稲垣音次郎も武士だった可能性がある。三河国寶飯郡(ほいぐん:現在の愛知県西尾市・蒲郡市)に土着した稲垣氏が有名であり、主人も伝承で伝わる名古屋出身ではなく、本来は東三河出身の可能性があるのではなかろうか。


明治5年は廃藩置県の直後で、士族は明治政府から俸給を貰えることになった。しかし、その額は、江戸時代の数分の一から数十分の一であり、多くが生活できなかった。明治政府は、士族を棄てて事業を起こすものには、俸給を停止する代わりに一時金を配ることを決めている。この一時金で商売を始めたものは多数いた。「音次郎」や妻の「よそ」がそうだった可能性は充分ある。腕のある弟子を譲り受け、経営者として蕎麦屋を始めたのかもしれない。

※室町時代の三河の刈谷(かりや)と磐城の神谷(かべや/かひや)そして壁谷(かべや)の類似性・同一性については他稿で触れた。三河国寶飯郡の旧家と伝わる壁谷家についても別稿で触れている。


同じく明治5年には、やはり愛知県渥美町(東三河)出身の「小久保権平」が、神田のざる蕎麦屋で修行し、大正13年に独立して神田多町「砂場」を開いていた。(上記の砂場とは別の系列)その後郷里から(つまり愛知から)若い人を大勢呼び寄せて修行させて次々に開業させ、暖簾分けした店は、昭和22年に「一家会」「権会」など多数の砂場の暖簾会を結成した。最終的には「砂場長栄会」と同じ「砂場」という名前のため、昭和30年に「砂場会」と名を変えて合流している。


明治25年開業と思われるのは、御徒町に上野「藪(やぶ)蕎麦」を作ったのは「鵜飼安吉」である。彼は、明治2年に滋賀県の造り酒屋の家に生まれ、愛知名古屋で「みそ・たまり」を製造していた鵜飼家の養子になった。そして、10代前半で東京団子坂の「藪蕎麦」の名店「蔦屋」に奉公し、店主に認められ「藪」の暖簾を継いでいた。同じく愛知出身となる。


このほかにも三河出身の蕎麦屋は多い。本書には記載がなかったが「長寿庵」という蕎麦屋も現在多数のチェーンをもつ。この店が公開している情報によれば、元禄15年(1702)愛知県蒲郡市(当時の東三河)出身の「惣七」が江戸に上京し「長寿庵」開業したとある。その後、明治5年に「平民苗字許可令」で「倉橋」を名のり、「栗田作次郎」、「吉田寅次郎」、「村奈嘉与吉」などに、次々と暖簾分けした。この「長寿庵」は現在も関東一円に数十軒を擁するという。このように、江戸時代から、東京周辺の蕎麦屋は三河(愛知県)出身者が次々と蕎麦屋を開き、繁盛して蕎麦屋チェーンを構成していった。


筆者が手元にもつ情報によれば、蕎麦屋「松月庵」の創業者は愛知出身の「松山竹助」とされ大正9年(1920年)に上野動物園裏の門前で創業が始まりと記録されている。店は現在既に閉店しているが、その系列店が現在の上野池之端「松月庵総本店」に繋がるようた。

※川崎大師前の「松月庵」との関連性は不明。


しかしこの大正9年創業という話は、そのまま受け取れない。なぜなら、大正9年に「松月睦会」が結成されているからだ。ほかにも大正9年創業と伝わる松月庵がある。こちらは都内で現在も営業している。常識的には一店舗で「会」を作るのはおかしかろう。つまり大正9年にはすでに、複数の松月庵が存在していた可能性が高いことになる。このことから松月庵睦会の結成年が、開業年と後継店主に伝えられたのではないだろうか。


大正初期は第一次世界大戦で世界五大国のひとつとして「大戦景気」に沸いていた。そのため東京を始め全国で工業や商業が急激に発展していた。大正4年の大正天皇の即位の大礼で大きく盛り上がり、各業種で次々と組合が作られていた。おそらくこの時期には松月庵が多数創業していたのだろう。しかし大正9年は日本でスペイン風邪が大流行、「戦後恐慌」も始まり、多くの成金が全財産を失うほどの歴史的な大不況が発生していた。さらにその3年後には「関東大震災」が東京を襲い、多くの松月庵があった東京の下町は火の海となった。その数年後には「金融恐慌」「昭和恐慌」が立て続けに到来する。もし松月庵が、本当に大正9年に開業したばかりの一軒の蕎麦屋で、どこの支援も得ていなかったなら、空前の大災害と大恐慌の連続に、おそらくは潰れていただろう。


松月庵グループは、大正9年から続く空前の不景気や災害の連続に「松月睦会」を結成して経営破綻をさけ生き残こったと考える方が合理的だろう。その後の松月庵には、この「松月睦会」の結成が、象徴的・画期的な出来事として現在に伝わってきた可能性が高く、松月庵自体にはさらに古い歴史があったと推測できる。これは、他の多くの東京の蕎麦屋も同じような、江戸時代・明治時代からの歴史があったこととも符合する。


松月庵グループである「松月庵睦会」はその後「東京松月庵麺類協同組合」と名を変え平成12年(2000年)には創立80周年を迎えたが、その当時代表理事だったM原氏(個人名のため、ここでは名を明らかにしない。)も、やはり愛知県額田郡の出身であった。


東京の蕎麦屋に多い三河の出身者

松月庵に限らず、蕎麦屋の店主は三河出身者が圧倒的に多い。いったいなぜなのだろうか。まず最初に、味にうるさかった江戸っ子を満足させた「蕎麦つゆ」には、三河特産品の「蕎麦つゆ」が必須だったことがあげられよう。江戸時代初期の蕎麦つゆは、寛永五20年(1643年)発行の『料理物語』に記されている。それによれば味噌から作った「煮貫汁(にぬきじる)」だったようだ。味噌が使われていたことから、このころすでに三河産の味噌がが大きな役割を持っていたことが推定できる。


『料理物語』から引用

煮貫は、味噌五合、水一升五合、かつほふし入せんじ、ふくろに入たれ候、汲返し汲返三辺こしてよし。汁は、うどん同前。其上大こんの汁くはへ吉。はながつほ、おろし。あさつきの類、又からし。わさびもくわえよし。

※引用にあるように江戸時代初期までは、江戸でもうどんが食されていたが、中期以降は蕎麦一色になり、うどんはほぼ完全に消え失せる。


江戸中期以降は、蕎麦つゆに「味噌」「酒」「みりん」「たまり醤油」が混ぜて使われていたようだ。『蕎麦全書』(寛延4年1751年)には、蕎麦つゆつの材料が記録されている。それによれば、味噌と酒、鰹節をベースにたまり醤油と塩で味を調えたとされる。江戸末期の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には、そばつゆの味付けに江戸では鰹節(かつおぶし)に味醂(みりん)と砂糖、醤油で塩味を付けると書いてある。鰹節は、「勝男武士」と書けることからから戦国時代から武士に好まれ、土佐清水(現在の高知県)産が最高とされていたが、三河と江戸の途中にある駿河の焼津(現在の静岡県)も鰹節の一大生産地でもあった。江戸の蕎麦つゆには、おそらく焼津の鰹節が使われただろう。


一方で江戸後期の文献になると、そばつゆの細かい作り方に言及した文献は見つかっていない。江戸後期には、その材料や手順、配合割合でそれぞれの蕎麦屋の暖簾(のれん)を通して代々の跡取りに「秘伝」として受け継がれ磨かれ、外部に漏れることはなかった。江戸で一流品として名の通った三河産の「たまり醤油」が、隠し味に使われただろうことは容易に想像できる。


たまり醤油は色が濃く、コクのある味わい深い醤油である。江戸前寿司でも必須だった。もともとは鎌倉時代に紀州(現在の和歌山県)の禅僧が、南宋から伝わる味噌を作っていた際に、長年の間に染み出して溜まったことから「たまり醤油」と名付けられたともいう。現在でも和歌山、愛知、静岡の東海三県でたまり醤油のほとんどを製造しているが、醤油の全体の総生産量に占める割合はわずか2%に過ぎない。国産たまり醤油は最高級品とされ、現在も日本料理で隠し味に使われる。


江戸市中で酒、味噌、醤油を扱っていたのは三河出身者が多く「三河屋」と呼ばれた。三河屋の名は、江戸時代に江戸大坂間の廻船問屋が作った十組問屋(とくみどんや)に由来し、江戸市中でその地位を独占していた。その影響は昭和のころまで残り、三河屋といえば、酒屋(御用聞き)の代名詞だった。元禄のころ江戸で開業した伝統をもつ老舗「銀座・三河屋」は、現在も味噌や酒を販売している。

※長谷川町子の漫画『サザエさん』でも「三河屋さん」のサブちゃんが登場する。


次に考えられるのは、当時の流通経路だ。三河湾の西浦港、形原港、三谷(みや)港(現在の蒲郡港)を経由し、江戸に酒や味醂(みりん)、酒類や醤油を積んだ「樽廻船(たるかいせん)」が下っていた。樽廻船は江戸で積み荷を降ろすと、軽い大豆を大量に買い付けては味噌や醤油の原料として三河に持ち帰った。こうして上方から下った「くだり醤油」は高級品と言われた。関東で得られる「地回り醤油」に比べて倍の価格がしたとされる。にもかかわらず江戸の消費量の7割以上で「下り醤油」が占め、上方から「くだる」ものは高級品とされ「くだらない」の語源ともなった。

※『海と船なるほど豆辞典』によれば、太平洋を東に流れる黒潮は世界最大級の海流ともされ時速7.2Kと早い。そのため、江戸時代の樽廻船は下りと上りで軽いものと重いものを積み分けていた。これは古代から平洋側の上総、下総、常陸(千葉県・茨木県)が発展し、良港を擁した三河がその中継基地となった。


この海路を運ぶものに、三河の土と石灰が加わる。幕末に外国船が上陸して以降、江戸を左右で挟んだ川崎、横浜、そして本所・深川は、異国から江戸を護る前線基地でもあった。広大な土地に演習場が作られ、台場(大砲)もいくつか設置、横浜港が開港され、明治になると鎮守府も置かれた。安政地震、明治の大火、関東大震災などで何度も火の海となり、そのたたびに、しっかりとした地盤を作って、強大な耐火構造の軍事施設や港、倉庫などの建築が相次いだ。実はこの時の地盤や壁に使われのが、三河(愛知県)の「三州土」だった。愛知県の矢作川流域は、良質の土や耐火性があり風雨にも強い「三州たたき」(漆喰)が古くから有名で、三河の形原港から全国に出荷され日本の近代化に貢献していた。石灰と土は、その後のコンクリートやアスファルトにも必要で、関東大震災ののちはコンクリートの製造にも必須の材料だった。

※明治大正になると三河と東京の航路は事実上、御用船として三菱が独占していた。三菱と壁谷の関係は後述する。


民法発布と大戦景気

江戸市中では大名屋敷の多くは壊され明治5年の大火で失われ、荒れた土地が広がっていた。旧江戸城内は警護や陸軍のが駐屯し練兵場も出来てたが明治政府の富国強兵の国策があり、資金も不足していた。明治政府は陸軍の新施設を作る資金を得るため、明治政府の大蔵卿松方と三菱の岩崎弥太郎の交渉で、明治23年丸の内の約10万坪を128万円で買収。これは相場の2倍から3倍という。(三菱グループの資料『岩崎弥太郎物語 丸の内取得の決断』による)。実際は、これを契機に三井、住友に比べて後発だった三菱の躍進が始まっている。明治時代の混乱や行き詰まりをうまくチャンスと捉えた「丸の内」の三菱グループがこれ以降一気に繁栄した。


蕎麦屋の暖簾にも関わる法改正があったのは明治31年(1898年)である。10年にもわたる「民法論争」の結果、こと年にやっと公布された明治民法(旧民法)は、戸主(家長)と長男単独相続の家督相続とに支えられた制度となった。「家長」の権限が強化され、財産は家長が管理することになった。娘が家を継ぐという従来の商家の仕組みは崩壊を迎えることになる。こうして優秀な奉公人の番頭に蕎麦屋を継がせて「暖簾」を維持する制度から、商家の事業を家の財産とみなし、家長が「家督」を子孫に受け継いでいくという考えかたに変化した。


日清日露の戦争から大正3年(1914年)の第一次世界大戦を経て、日本は短期間で「五大国」と呼ばれる強国になったとされ、世界有数の海運国に変貌を遂げた。史上空前の大戦景気にわいて、東京は商工業の中心地として急速に発展、造船業、海運業、鉄鋼業は大きく潤い東京近辺の湾岸地帯は開発が進み工業地帯へと変貌を遂げつつあった。東京の人口は、大正8年に300万、大正13年に400万を超えた。その後も5年単位に100万人増えるという驚異的なペースで人口が集中していった。


この間には大正9年の「戦後恐慌」大正12年の「関東大震災」、昭和2年(1927年)「金融恐慌」、昭和5年(1930年)「昭和恐慌」などの数々の苦難があったが、昭和14年には、東京の人口はなんと700万を超えた。わずか80年で人7倍の人口になったことになる。


三菱グループと蕎麦

三菱グループの繁栄は、海運業からの局面で語られることが多いが、一橋大学の鷲崎俊太郎は東京での不動産業の成功も指摘する。三菱は明治6年に、東京を拠点に海運業の活動を強化、日本初の海外定期航路「上海航路」を上海ー横浜間で開いたことは先にも記した。社名を郵便汽船三菱会社(国有会社であった日本国郵便蒸気船会社と三菱商会が合併)した。明治政府が西南戦争の軍資金調達に困ると明治11年には深川のまとまった土地を政府から買収し、逆に西南戦争の御用船調達で300万もの利益を上げ、明治18年には日本郵船と名を変えた。

※明治10年の国家予算は166万円だった。(『明治十年度歳入出予算表』による)


明治末期には、三菱グループは東京に20万坪を超える敷地を所有し、実は東京最大の地主にもなっていた。当時の日本は世界に名だたる海運国となり、造船、鉄鋼、海運などが急速に発展し、人口が数倍に膨れ上がった東京は特に湾岸部が急速に発展した。丸の内は三菱汽船を中心とした三菱グループが拠点をおき、海に近い東京深川には三菱倉庫(当時の東京倉庫)が拠点を置いた。三菱の拠点は、こうして横浜(川崎)から東京深川に移ったともいえよう。


このような東京の急激な人口僧、大正期の大戦景気などは、東京蕎麦屋に大盛況をもたらした。昭和二年の新聞記事によれば、「有楽町更科」に3日間で1万5000人の客が入ったとされており、また売り上げの4割は丸の内界隈のビジネスマンへの出前でもあったという。出前をする自転車は、一度になんと100人前の蕎麦を片手に高々と積みかさねて街路を走ったと記載されていたという。


この驚異的な光景は当時の写真が残っており、インターネットで「蕎麦出前」の画像検索すれば見ることができる。(この光景を見たことがない若い人は、是非画像を検索してみて欲しい。)もちろん有楽町更科だけでは賄えなかっただろう。蕎麦屋は忙しく、手が回らない状態が長く続いた。これは「蕎麦屋の出前」ということわざとして今に残っている。


丸の内に出前をした更科のように、三菱倉庫の拠点深川(現在の江東区)にも大量の蕎麦の出前をするために蕎麦屋が増えたはずだ。このあたりの事情が、大正末期から昭和にかけて、松月庵を始めとした蕎麦屋が急速に増えた事情にかかわる可能性がある。


常識を変えた「機械式製麺機」

当時24時間働きずくめの日本人が東京に集まり、蕎麦の大量需要が発生した。これを支えたのは、実は機械打ちの製麺機だった。機械打ちの製麺機は、明治16年に佐賀の真崎照郷が発明していたが(『日本発明家傳』による)実際に普及したのは大正後半から昭和の初期にかけてとされる。(『蕎麦屋の系図』による)この製麺機さえあれば腕のある蕎麦打ち職人は不要だった。資金と出前ができる小僧を集めさえすれば、蕎麦屋は大繁盛することになる。

※機械打ち蕎麦が広まったことは蕎麦の手作り感が過去のものになったことを意味する。それが昭和の後半になって、手打ちそばブームが到来する遠因ともなる。


しかし高価な「機械製麺製造機」を導入する資金の調達と、うまい「蕎麦つゆ」を作れる職人の手配は相当難題であった。単に暖簾分けで伝えられたこれまでの方法では、わずかな期間に東京近郊に百軒近くの蕎麦屋チェーンをつくるのはなかなか難しい。これを解決する手立ては、事業化に伴う計画的な投資と、人脈が必要だったろう。


たとえば伝統的な藪そば暖簾会である「藪睦会」に加入しているのは45軒ほどである。しかしこれに比べると、はるかにの後発にも思える「松月庵睦会」に加入していたのが100軒を超えていた。(『蕎麦屋の系図』執筆時点の2003年時点店舗数の情報で比較)「松月庵」がこれだけ加盟店を一気に増やせたのは、何らかの資金を得て、組織的な事業化の仕組み作りがなされたことが予想できる。「松月庵睦会」には、統一ロゴを持ち、仕入れ等を一本化しするという事業化の仕組も実現していたことが分かっている。こういった事業化の仕組みづくりを、指導した誰かいたことが推測されよう。


壁谷友太郎と三菱倉庫

蕎麦つゆを作れる人間を特定の地域から集めたら、たまたま壁谷が多かった。実はそんな地域は、現在の愛知県蒲郡地区にある。そこから人を集めれば、その中に壁谷が数十家も現れることも充分説明できるかもしれない。この時期まさにぴったり当てはまるのが、別稿で示した愛知県蒲郡出身で、東京深川と深い関係のあった実業家「壁谷友太郎」だ。


筆者は数十年前、蒲郡のとある小学校関係者とメールでやり取りしていたことがあった。その学校では、なんと「どのクラスにも壁谷という苗字の子供が複数いて、この地域では壁谷という苗字が一番多い」という話だった。愛知県蒲郡市には、壁谷という名字が現在も大変多いらしい。


蕎麦屋の松月庵では大正9年に「松月庵睦会」ができて組織化がされていたが、実は壁谷友太郎は前年の大正8年に「鉄鋼同業組合」を作り、鉄鋼業者の組織化をし、初代組合長になったばかりであった。どちらも情報の交換や仕入れの一元化など一層の経営の効率化を目指したものだ。


大正初期は第一次世界大戦による「大戦景気」といわれ、戦場とならなかった日本は空前の好景気だった。それは中学校の教科書にも登場する、女中のためにお札に火をつけて明かりを灯す成金の風刺画「どうだ、明るくなったろう」でも有名だ。「壁谷友太郎」は国内で民間蒸気船の開発に成功し、大正9年には海外にも進出し、朝鮮や、中国上海など世界各地に幅広く蒸気船の販売を行い、鉄鋼業、海運事業へ拡大し神戸にも進出したばかりだった。しかしまさにその大正9年、空前の大不況が日本を襲う。

※先にも記したが、この時期スペイン風邪が大流行していた。


『昭和金融恐慌史』から大正9年の「戦後恐慌」の部分を引用

(大正)八年の活況を特徴づけるもの、したがって九年反動の中核的要因となったのは、戦争中培養された彪大な会社の資力と銀行資金を基盤とする商品、株式の大々的思惑投機であった。(中略)大正九年三月十五日、東京株式市場は暴落を演じ、二日間の立会停止を余儀なくされた。しかし大阪市場あるいは商品市場の動揺はさほどみられず、ほどなく鎮静化した。ところが四月七日、大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻を暴露し、これを動因として株式市場、商品市場は暴落に見舞われ、立会を停止した市場が続出、一ヵ月にわたる全国的な休会さえやむなくされた。また各地で銀行取付が頻発し、財界は恐慌状態に陥った。政府、日銀およぴシンジケート銀行は救済活動に乗出し、そこで株式市場の恐慌状態はいったん救済されたが、五月二十五日には横浜の有力銀行七十四銀行(茂木商店の機関銀行)が、茂木商店の破産により取付にあい、ついに休業整理に追いこまれた。七十四銀行の破綻により、多かれ少なかれ同性格の銀行に対する信用不安はさらに激成され、全国各所で取付が頻発し、騒然たる状態に陥った。かかる金融梗塞は事業界を窮境に追いやり、商品の換金売りが盛んに行われ会社は著しく経営困難に陥り、破産するものが続出する有様であった。


世界に向け幅広く事業を拡げていた友太郎の会社は大正9年に倒産の危機に瀕する。その友太郎を助けたのは長らく取引関係があった、東京深川の三菱倉庫だった。三菱倉庫は友太郎の造船会社を事実上の傘下にし、友太郎の開発した蒸気船を東京港湾を始め、全国各地で使うことで益々発展した。三菱倉庫は三菱為換店の倉庫部門で、当時の社名は「東京倉庫」。三菱が明治政府から買い取った東京深川を拠点にしていた。

※大正9年は筆者の祖父も、戦後恐慌で一時全財産を失ったと聞く。


関東大震災で一帯が廃墟と化していた東京や神奈川で、多くの人々が日々の食事にも窮した。蕎麦、うどん、おでん、牛丼などを提供する多数の屋台や露天が大量に出現していたことは、多くの記録に残されている。この後もしばらく続く大不況のなか、日本が急速に復興へと向かう中、蕎麦屋の急増のきっかけになったことは間違いない。


友太郎の地元は、全国有数の酒や味噌の生産地を近くに持つ現在の愛知県蒲郡市、そして友太郎の最大の支援者は東京深川を拠点に持つ三菱倉庫。その後、深川の目の前にある東京の丸の内では三菱グループの多数の社員が夜を徹して働いていた。そんな東京で、忙しいビジネスマンの昼食や夜食に蕎麦が爆発的に流行していたことは、すでに書いた。桁違いの旺盛な需要は、三菱グループを始めとし、東京に一気に集中していたサラリーマンたちにあった。一気に多数の蕎麦屋を開業すれば、蕎麦屋のビスネスは大儲けになるはすだ。


蕎麦の機械打ち機を購入すれば、経営の効率化と大量生産を図ることができた。大正期の『帝国発明家傳』には、発明家として「壁谷友太郎」と、機械製麺機の発明家「真崎照郷」が共に掲載されている。友太郎が、この機械式製麺機を知らないわけがなかっただろう。高価ではあっても、最初に投資してこの機械式製麺機を手に入れさえすれば、蕎麦打ち職人としての修行は一切不要になる。あとはうまい蕎麦つゆを作れて、数十枚もの大量の蕎麦を自転車で出前する小僧さえいれば、蕎麦を大量に販売することができた。


しかも当時愛知から酒、味噌、醤油を東京に送り、大豆を持ち帰る船は、江戸時代とはケタ違いに多かった。友太郎と三菱倉庫は、そばつゆの最大の生産地と、蕎麦の最大の需要地の物流も抑えていたことになる。蕎麦そのものも三菱倉庫がしっかり押さえていただろう。


友太郎は、漢学塾の師匠になれるほど古代中国の文献や漢学に通じていた。中国の古典や禅語を通じて蕎麦と壁谷の関りを考えたかもしれない。この深川の地は松月庵を構えた「松尾芭蕉」の隠遁の地であり、松月翁と自ら名乗り、蕎麦を推奨していた「松平定信」のゆかりの地でもあった。こういった知識をベースに、東京の蕎麦屋の名に「松月庵」と名付けようと思ったのは、もしかしたら愛知蒲郡出身の壁谷友太郎だったのかもしれない。


日本陸軍に受け継がれた松月の心

「今北洪川(いまきた こうぜん)」は江戸時代末期に儒学者(朱子学)だったが、出家して臨済宗を学び、後に明治政府の「教部省」に召致され、明治15年には七山(明治政府が管理上わけた七つの仏教宗派)の教導職管長として臨済宗のトップに立った。この今北の門下生には錚々たる面々がいる。たとえば小説家の夏目漱石、『禅とは何か』を書き、世界に「禅」を紹介して国際的有名人となった鈴木大拙、そして総理となった浜口雄幸、平沼 騏一郎などだ。


その門下生のひとりに「花田仲之助(はなだ なかのすけ)」がいた。優秀さでその名が知れ渡っていたが、明治30年(1897年)のある日忽然と姿を消し、その消息は家族ですらわからなかったという。当時、ロシアの浦潮(ウラジオストック)から、シベリア各地、モンゴル、満州、旅順など広範囲を回って布教活動をしていた僧侶「清水松月」がいた。しかしそれは、日本陸軍参謀本部の情報将校として、陰で諜報活動をしていた「花田仲之助」の仮の姿だった。今風にいえばスパイであろう。


『大正新立志伝』によれば、花田は日露戦争時に「満洲義軍総統」として現地の民衆を率い、ロシア国内を攪乱した。このような日本軍の諜報活動が明治38年(1905年)の1月の第一次ロシア革命を誘発し、そして同年9月の日露戦争の勝利の一因となったとされ、その活動は日本国内で高く評価された。このように、日本陸軍の兵士たちは、禅宗と朱子学の強い影響をうけ、皇国への忠誠のために戦争にまい進していった。「清水松月」の名に込められ禅の心は、明鏡止水と不動の松月であり、旧幕臣の武士たちと同じだったのかもしれない。


日露戦争の前夜となる明治36年、伊藤博文は料理長をしていた松尾千代吉に神奈川大磯の地に日本料理店「松月」を創業させた。現在もその暖簾を継いでいる料亭「松月」のホームページには、次のように記されている。「一夕(いっせき:ある夜)、(伊藤博文)公とともに松林を逍遥の折、かねて誓願の料亭建造をここにせよとご指定、時あたかも月の掲(かか)ぐるを眺め『松月』と命名された。」伊藤博文も江戸時代末期には吉田松陰の松下村塾に学び長州五傑とされた俊英であった。


戦後の復興と松月庵

日本は第二次大戦後、急激な復興をとげた。昭和29年から41年まで、29年続いた好景気は高度経済成長期といわれる。このころはどの駅にいっても「立ち食い蕎麦」の店があり、街中でもあちこちに蕎麦屋があった。150円ほどあれば、手早く食事を済ませ、腹も十分満足した。蕎麦屋のブームはしばらく続き、こういった立ち食い蕎麦屋は、時間のない筆者には好都合だった。この時期東京でがむしゃらに働いたサラリーマンは、昼食の時間も惜しみ、やはり競って蕎麦を食らっただろう。立ち食いではなかったが、松月庵もこの時期大いに繁盛したに違いない。現在の正月庵の店主は、この時期に始めた方も多いのではないだろうか。


今後整理すべき課題

1)同じく「五穀」に含まれない雑穀には「蕎麦」のほかに「豆」がある。(五穀に含む例もある。)豆を使った製品には豆腐、麹、味噌、醤油などがあり、昔は自家製の味噌醤油を売っている「麹屋(こうじや)」もあったかもしれない。


筆者の祖父は昭和30年代ころまで、味噌、麹(糀)、醤油を作って販売する店を経営していた。煙草や塩も販売していた。(当時日本では、塩やたばこの販売は国の管理下の専売制だった)実家のとなりは工場で、大きな樽が並び、そのよこには幅10cmくらいの布ベルトが遥か頭上の空中を縦横無尽に飛び交いながら、昼夜を問わずうなりをあげて回転していた。(何の機械だったのだろう)家の裏には土蔵が複数並び、その一つに入ると棚に並んだ木箱の引き出しには、真っ白でふかふかに(発酵)なっていた米麹がのぞいていた。当時はそれが何かもわからなかった。大きな樽がいくつも並んでいた記憶があるため、酒屋も営んでいたのかもしれない。


蔵には大量の米が備蓄されていた。昭和の不況時に米を買い占めたとの通報で警察に踏み込まれたことがあったという。実は踏み込み前日に当局から知らせがあり、家族総出で徹夜で蔵にあった米を隠して事なきを得ていた。その事件が契機なのか、役場に毎年大きな鏡餅を作って配っていた。実家の前には集会場の施設がおかれた大きな広場があって、正月にはその広場で餅をついていた。祖父がまだ元気なころその餅つきには、筆者も参加している。


筆者の記憶では、店の入り口には塗料がはげ落ちた畳2枚はあるかのような分厚い巨大な木の看板があり、木彫りでわずかに白っぽい塗料が残り「糀屋(こうじや)」と2文字が書いてあった。そのため近所では「壁谷さん」ではなく「こうじや」さんと呼ばれていた。この「糀」は「麹」と違うが理由はわからない。

※付記:「糀」は明治時代にできた和製漢字で米麹をさすことが分かった。ふかふかとなる白い菌糸を花とみなしたのだろう。


江戸の三河屋が三河出身者によるものであるならば、東京には三河屋だった壁谷が多数居住していた可能性もあるのかもしれない。和菓子店でも松月の名を持つ老舗は多い。おそらく小豆を原料にして餡(あん)を作ることから由来していると思われる。羊羹も固めるのには寒天が使われるが主原料は小豆(あずき)である。蕎麦と同じように、豆も厄除けに使われるのは、節分の豆まきでもわかる。別稿でも触れるが、厄除けは壁谷に大変関わりが深い。



2)福島県田村三春には、日本三大桜のひとつに数えられている、国の天然記念物「三春滝桜」がある。推定樹齢1000年以上とされており、高は13.5m、枝張は東西25m南北20mといわれる巨大な桜だ。(田村市のページから)4月中旬に満開となり例年15万人の観光客で賑わうという。樹日本を代表する写真家で、晩年は花専門の写真家として名を馳せた「秋山庄太郎」がこの桜を摂って「桃源郷」と紹介していた。


三春桜の樹齢から考えると、平安時代からということになる。平安時代は内裏にあった紫宸殿(ししんでん:平安京で天皇が儀式、政務にあたる公式の正殿)には桓武天皇の時代「左近の櫻」があったという。左近の櫻、右近の橘と並び称され、儀式では「左近衛大将(のちの左大将)」、「右近衛大将(のちの右大将)」がその前に陣を敷いて控えた。右大将は正三位、左大将は従二位であり、左が上だった。(ともに令外の官)


つまり「左近衛大将」の前に立つ「桜」は武家にとって最高の地位を示する象徴でもあった。武家の棟梁となった源頼朝、頼朝のころは右大将になると、京の守護のために上京しないといけなかったため、わずか10日程度で辞退している。


「幕府」という名称は、本来は朝廷を守る近衛大将の陣の名前(唐名)であり、平安時代に朝廷が側が使っていた言葉である。後の足利幕府三代将軍足利義満以降の将軍、そして織田信長、徳川家康は右大将を賜っている。官位は左が上なので、左近衛大将は右近衛大将の上位となる。家康はついに「左近衛大将」を下賜されてもいる。


三春の桜は松月桜ではないが、「大名桜」と呼ばれ、この桜の世話をする代わりに三春藩から年貢を免除されていた。白川藩主だった松平定信、会津藩主だった松平容保も、名物だったこの遅咲きの桜を見たに違いない。そのとき「松月桜」を連想しただろうか。福島県須賀川市の曹洞宗 長沼永泉寺にも三春の桜と同品種の桜があり、こちらは樹齢400年ともいわれる。


春に花が咲く「右近の桜」は古代は「桃」だったとされている。そして、禅宗でその常緑を讃えられた「松」は古代は「左近の橘」だった可能性があり、それは遡ると「檗(きはだ)」になる。檗は現在中国では「壁」ともかかれ、現存する正倉院古文書はこの檗を使って染色(黄蘗色)がされていたことが分かっている。飛鳥時代以前の道教と、そして紀元前の古代中国の周王朝に関わってくる。


3)稲作(古代は粟や)や医薬で国を富ますという考えは、『古事記』などで登場する出雲の大国主(おおくにぬし)、小彦名(すくなひこな)との関わりを忘れてはいけない。同じように越中富山の薬売りの伝統も、神功皇后や継体天皇の伝説を残し古代中国との関係が深い。


出雲は、古代の鉄や蕎麦の産地でもあり、朝鮮・中国圏との直接の交流があった形跡が多い。越の国とのかけ古代『古事記』では、大国主がこれほどの大業を成し遂げたのを支えたのは「少彦名(すくなひこな)」がいたからとされる。(「小子部(ちいさこべ)」を類推させ、古代壁谷との関係で今後注目していく面白いテーマであり別稿で触れたい。)


なお、お稲荷さんで有名な「豊川稲荷」は神社ではなく、曹洞宗の寺院である。松月は、禅宗、泉、蕎麦だけでなく、時代の移り変わりとともに、荼枳尼天(だきにてん)、愛染明王、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、そして摩利支天(ましりてん)などと関わってくる。お稲荷さんと松も注意が必要なのかもしれない。曹洞宗である豊川稲荷の周辺に、日本最大の壁谷の居住地が広がっていることは興味深い。


4)京都市左京区一乗寺には、松尾芭蕉が庵を営んだとされる金福寺(こんぷくじ)がある。江戸中期に芭蕉と親交の深かった「鉄舟」が再興した寺だ、現在は臨済宗南禅寺派になっている。この地の芭蕉庵(松月庵?)は荒廃したが、芭蕉に心酔していた小林一茶が後に再興している。そのすぐそばに、京都市街を一望できるという詩仙堂「嘯月楼(しょうげつろう)」がある。(現在は曹洞宗丈山寺に属する。)


この「嘯月楼」は石川丈山(じょうざん)が作ったとされる。京都の東北に位置する小高い山のふもとにあり、京都一帯が一望できる位置にあった。石川丈山は、藤原惺窩(せいか)にまなび儒学(朱子学)にも詳しく、徳川家康の側近として戦場でも活躍が認められた。家康に文武に秀でていたことが高く評価されていたがなぜか武士を棄てると、この地で隠遁し儒学・書道・茶道を極め名を馳せた。


近隣の庭園の設計も行っており、江戸幕府の命をうけて京都市中を監視していた「隠密」という説もあり庭園と称して「監視拠点」を建築したともされる。実は芭蕉がこの地に居を構えたのは、丈山の晩年もしくは死後間もなくであり、近所に佇む同じ文人の立場として、芭蕉もこの「嘯月楼」に入った可能性が高いだろう。後に松尾芭蕉の門人たちは、俳句の宗匠として京都に「松月庵」を設け明治の時代まで弟子に引き継いだ。ここにも「松月」「嘯月」と禅(儒学、朱子学)そして、武士、隠密といったキーワードが登場してくる。「嘯月(しょうげつ)」も、やはり『嘉泰普燈錄』に禅語として登場する。


『嘉泰普燈錄』から引用

狐峰頂上に有る時、月に嘯(うそぶ)き雲に眠る。大洋海中に有る時、波を翻し浪に走る。

禅語のためその意味は難解である。「(修行している)山頂では月に吠え雲の中に眠り、(俗世間の)大海原では波乱を乗り越え走り抜ける。」原文は「狐峰頂上嘯月眠雲 有時大洋海中翻波走浪」。「嘯月(しょうげつ)」の「嘯(うそぶく)」は大言をはく、虎などの猛獣が吠えるなどの意味があり「うそぶく」とも読まれる。聖人がその能力を隠して俗世間から離れて潜むことを意味しているのかもしれない。松月と嘯月には関係がありそうな気もするのだが・・・。

※「嘯」と「瀟」はおなじく「しょう」と読む。「瀟月」とすれば、「清い月」となる。


5)方言の分布上は、出雲を中心とした山陰地方と、上越・関東・東北の類似性があるといわれる。また、東三河も関東圏の影響を強く受けている。この範囲では「かべや」と発音する名前がよく見られ、「壁屋」「加辺屋」「可部屋」という名字も目立つ。一方で、「壁谷」と字面(じずら)を尊重する向きでは「かべたに」「へきたに」と読み関西、九州に見られる。古代からの歴史の変遷にともなう方言の地域分布、これらと壁谷の名前との関係が興味ぶかい。


6)日本に伝わった禅宗には「普化宗(ふけしゅう)」がある。江戸幕府に保護されたことから、明治維新で解体され、現在は当時の実体が正確にはわからない。臨済宗の一派ともされるが、山岳宗教、神仙的な意味合いがより強いようだ。時代劇でよく登場する虚無僧(こむそう)は、天蓋(でんがい:寺院の鐘のような深い網笠のかぶりもの)で顔を隠し、「明暗」と書いた箱や布を胸に掲げ、尺八を吹きながら修行の旅をしていたとされる。


TVや小説の時代劇では、よく無言で脇を通過して強烈な存在感を与えるが、後になって実はその正体は隠密だった、剣の使い手だったとわかる、といった話が多い。実際に当時何らかの犯罪を犯した武士も虚無僧になれば、罪が問われず、天蓋の被り物をすれば関所の通行は自由、帯刀も許された。なにより関所や町役人に対しても天蓋を取って顔を見せる義務はないことが、幕府に認められていた。このため幕府の隠密の役を務めたとされている。


実際に1614年(慶長19年)の「慶長之掟書(けいちょうのおふれがき)」により、虚無僧の資格や服装も規定され幕府の統制下になった。明治政府がこの普化宗を早々と解体した理由もここにある。しかし尺八の師匠を通じて、その流れは現在にも伝わり、普化宗も1950年、宗教法人として普化正宗「明暗寺」が再興されている。昭和の中頃までは、托鉢にまわる虚無僧がいた。筆者も家で一人で留守番をしている小学生のころ、玄関の引き戸を明けて家に入ってきた無言の虚無僧に托鉢を求められ、いつも親がしていたように一握りのお米を渡した記憶がある。


7)別稿で登場する「壁谷兆佐」も芭蕉との関わりが深いことを指摘した。また福島にも「松月庵」という伝統ある蕎麦屋があった。(現在は蕎麦屋ではないかもしれない)現時点で何かの関係がある情報は持っていない。


8)『蕎麦全書』にのる、そばの産地は「戸隠、更級、麻衣、信濃、寝覚、武蔵野、深大寺、鳴子」である。戸隠、更級、寝覚、は信州(長野県)で木曽川、中山道沿いの場所である、武蔵野、深大寺は武蔵野(東京都調布市、埼玉周辺)、鳴子については現在の宮城県かと思われる。どちらも良質な水がえられる場所であり、江戸ではどこからそばを手に入れていたかがわかる。そしてこれらの地にも壁谷の古地名が残る場所がある。古代山岳地の谷間の泉が湧くところでは、壁谷の古地名がいつくか見つかっている。蕎麦を栽培していた可能性も当然あるだろう。


9)「室町時代にラーメンがあった」とする記事が横浜の「ラ―メン博物館」などから発表され、話題になった。これは足利三代将軍義満のころ、相国寺(しょうこくじ)鹿苑院(ろくおんいん)にあった蔭凉軒(いんりょうけん)の僧侶が記録した日記『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』に残された記事を根拠とするものだった。若輩ながらこの見解に明確に異論を提起したい。


なぜかと言えば、蔭涼軒の「軒主」は元将軍の足利義満であり、その留守を守るのは相国寺の禅僧だったからだ。足利義満も出家した禅僧であり、相国寺はその名も中国南部の大相国寺に由来し、日本の禅宗寺院のトップに君臨する名刹でもある。禅寺の庵主がそばを振舞ったという例は枚挙にいとまがないが、小麦を原料にした麺を振舞ったすれば「五穀断ち」(辟谷)を放棄したことになる。そんなことを後世の記録に明確に残したとあっては、禅僧として、そして義満の顔にも泥を塗ったことにもなろう。


またその日記では、冷えたまま提供され味噌や醤油で作った「汁」をかけて食したとされていることだ。これはまさに江戸初期の蕎麦の食し方そのものでもある点も気になる。。

※少し前の資料ではあるが『日本ラーメン物語』では、「中国ではスープ麺はひっくるめて湯麺(たんめん)なのである。」とも記しており、中国の麺は一般に暖かい麺だとしている。ただし、中国南部にはローメンと呼ばれる冷え麺があり、後述する。


ラーメンとされる根拠は「経帯麺」と記録に残され、その名のとおり帯のように平らで細長い麺とされる。中国「元」の時代の書物とされる『家必要事類』には、「経帯麺」の製法が記載されている。白麪(白い麺)だったことから小麦の麺とすることだ。小麦粉の麺には「鹹水(かんすい)」が使われているとされる。


『中国の食譜』から引用 「経帯麺」

一番篩(ふる)いの白麪(しろめん:粉質が細かくて白い良質の小麦)二斤当たり、碱(あく:現在の炭酸ナトリウム)一両を細かに研って新しく汲んだ水でとき、麪に和わせて、あとで捍(ま)べるときに麪剤よりやや柔らかめに捏ねる。それを拗棒で百余回拗し、二時間ほどねかせて、また百余回拗す。そこれから(こんどは拗棒にまきつけて)ごく薄くなるまで捍べる。それを経帯(書物が巻物であった時に巻いてとめた平紐で、その平紐のように巾広に麺を切るのでこの名がある)のように切り、煮立った湯に下す。熟ったら冷水に入れて散らしすすぐ。かけ汁は任意である。

※カッコ内には一部筆者が手を加えた。


確かに当時の「蕎麦」は麺が黒いが、黒い部分を丁寧に取って練った蕎麦は「白麺」で、江戸時代初期に「大名蕎麦」と言われた贅沢品だった。室町時代の「白麺」の表現をもって小麦の麺だと解釈するのは正しいのだろうか。逆に「一番篩(ふるい)の白麺」は蕎麦であった可能性もある。高級な蕎麦の白麺を得るには、外側の堅くて黒い殻を完全に取り除くため何度も目の粗さの違う篩(ふるい)に掛けたが、最も目の細かい最初の篩から得られた蕎麦粉は「一番篩(ふるい)」と呼ばれ、最高級の蕎麦を意味していた。将軍義満が食したものであったわけで、当然ながら最高級であっただろう。


この書は中国「元」の時代に記されたものとされ、他の資料にはこの書では中国東北部の食文化が本来記載されているとの記述がある。「碱(あく)」を削ったとのは現在の鹹水を意味すると思われる。鹹水は、モンゴル北部にあった塩分の強い湖「鹹湖」の水をつかって麺をつくりることで、その麺には強いコシができ、中華麺としてその後普及したともされる。

※鹹水は現在日本では、炭酸ナトリウム(炭酸ソータ)などが使われている。小麦などに含まれるたんぱく質と絡み合う事で複雑な構造(グルテン)となり弾力が増す。


「経帯麺」とはあくまでその形状を表現したものであり、また「かん水」が使われた麺であったからといって小麦の麺とする根拠とはならないとも思える。一方で、日本で昭和の時代に「中華そば」「支那そば」とされるのは蕎麦の名を関しながら、実際には小麦の麺であった。

※筆者は料理には疎いのだが、現在の料理法では蕎麦には「かん水」は使わないとされる。ただし、蕎麦にも大量のダンパク質が含まれており、鹹水を使えば同じように強いコシが生れると思われる。


足利義満が交易し、相国寺と関係が深かったのは「明」であり、中国南部由来の国家が北上して「元」を滅ぼした国であった。福建省など中国南部や台湾に住む中国人は、閩南民(びんなんみん)系といわれ、現在も壁谷が最も多く住むといわれる泉州では古くから「滷麵」を食する文化がある。室町時代はちょうどこの明の時代に一致する。倭寇撃退にも協力した足利義満は中国皇帝から「日本国王」の称号を始めて得ており、日明貿易で巨万の富を蓄えていた。中国南部とくに福建省泉州は、何度も倭寇に責められて陥落したが、泉州崇武城で倭寇を最終的に撃退したとされる戚繼光将軍も中国壁谷(檗谷)氏の末裔とされる。

※「鹹(かん)」は本来塩辛いという意味をもつ。「塩水」などで揉み粘ることで食味や食感を増したとされる。


もうひとつは、中国南部の福建省泉州に「滷麵(ろうめん)」があることだ。中国古来から伝わる麺の文化を伝えている可能性がある。この「滷」の字は、日本語で音読みすると「ろ」訓読みでは「しおち/しおつき」と発音する。その字は「鹹(かん)」にも大変似ている「鹹水」とたいへんよく似ている。


滷水は塩や醤油と酒など混ぜてスパイスを混ぜ甘辛く煮込んだ汁で、香港料理や四川料理で今でもよく使われている出汁(だし)のようだ。「滷麵」とかけば日本語で「ローメン」と発音する。これは日本語の「ラーメン」に極めて近い発音だと思わないだろうか。また「滷麵」は冷たい麺でもあり、足利義満が食したとする冷たい麺とも一致してくる。これが日本のラーメンの(発音の)起源ではないかと筆者は思う。

※日本には醋滷麺(ツールーメン)と称して冷たい麺に醤油だれをかけた中華料理店が複数存在するようだ。


10)日本では女性の名前にも多かった「松」「竹」「梅」は、もともとは中国の風水・禅宗とかかわりが深い。『歳寒三友』では歳寒にも姿の変わらぬ松と竹、そして花を咲かせる梅は三友とされた。『五灯会元』にも松と竹が登場する。時代を経ても変わらぬ松の姿と、竹に次々と生まれ成長する節には、深い意味がある。

※筆者の祖母の名も「タケ」と「ウメ」であった。


『五灯会元』より引用

松に古今の色無し 竹に上下の節あり

原文(松無古今色 竹有上下節)


11)寛永五20年(1643年)『料理物語』に、そばのゆで方の説明もある。カッコ内は筆者。

めし(飯)のとりゆ(取湯)にてこね候て吉、又はゆるゆ(ぬるま湯)にても、又はとうふ(豆腐)をすり水にてこね申事もあり、玉をちさう(ちいさく)してよし、ゆでゝ湯少なくはあ(悪)しく候、に候らへてから、いかき(笊籬:「ざる」のこと)にてすくひ、ぬるゆの中にいれ、さらりとあらい、さていかき(笊籬)に入れ、にへゆ(煮湯)をかけ、ふたをしてさめぬやうに、又水気の亡(な)きようにして出してとし。


12)壁谷玄中寺の曇鸞は「壁谷釋」とも呼ばれる。「釋」は「釈」の旧字で「釈迦(しゃか)」の弟子を意味する。「壁谷澤(壁谷沢)」は栃木や福島などの壁谷の地名の近くに複数見られる。澤(沢)は泉(川)と見るが、釋(釈)が変化した可能性もあろう。


参考文献

  • 『周礼』『孟子』『史記』『易経』『首楞厳経』
  • 『老子・荘子』森 三畿三郎 講談社学術文庫 1994
  • 『放光寺古今縁起』
  • 『古事記』『日本書紀』『続日本紀』
  • 『無量寿経優婆提舎願生偈註』
  • 『嘉泰普灯録』
  • 『蔭涼軒日録』
  • 『正法眼蔵』「山水経」
  • 『聖徳太子伝暦』
  • 『名物商人評判』
  • 『見聞御家紋』
  • 『麹町永田町外桜田絵図』尾張屋 嘉永3年版(1850年)国会図書館
  • 『蕎麦全書』寛延4年(1751年)
  • 『料理物語』寛永20年(1643年)
  • 『世事見聞録』文化13年(1816年)武陽陰士 本庄栄治郎校・奈良本辰也訂 岩波書店1994 
  • 『守貞謾稿』喜田川守貞 全30巻 嘉永6年(1853年)
  • 『須原屋茂兵衛版の江戸大絵図』安政六年版
  • 『宇下人言/修行録』松平定信・改訂松平定光 岩波文庫 1942年 
  • 『作物学用語事典』 日本作物学会編 農山漁村文化協会 2010年
  • 『帝国発明家傳』帝国発明協会
  • 『大正新立志伝』為藤五郎 著大日本雄弁会 大正12年(1924年)
  • 『麺類百科事典』新島繁・柴田茂久監修 食品出版社 1984年
  • 『蕎麦屋の系図』岩崎信也  光文社新書 2003年
  • 『岩崎弥太郎物語 丸の内取得の決断』三菱グループ・ 三菱史料館
  • 『三菱における東京の土地投資と不動産経営』一橋大学 鷲崎俊太郎 2009-03
  • 『東京都麺類協同組合 公式ホームページ 2018.07』
  • 『曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ 2018.07現在』
  • 『法然房源空の中国浄土教観』小川貫弐 1971
  • 『福島県田村市 公式ホームページ』2018/07現在
  • 『禅とは何か』鈴木大拙 角川学芸出版 1999
  • 『禅の言葉』永井政之監修 長岡書店 2006
  • 『明治期における美濃派―芭蕉二百回忌を中心として』鹿島美千代 桜花学園大学人文学部研究紀要 第13号2011
  • 『麹町永田町外桜田絵図』
  • 『中国の食譜』中村喬 東洋文庫 1995年
  • 『にっぽんラーメン物語』講談社プラスアルファ文庫 1998年
  • 『円仁唐代中国への旅』エドウイン・ライシャワー 田村完誓訳 講談社学術文庫 1999年
  • 『昭和金融恐慌史』高橋亀吉 森垣淑 講談社学術文庫 1993年
  • 『海と船のなるほど豆辞典』財団法人日本海事広報協会 2002年
  • 『日本におけるスペイン風邪の精密分析』東京都健康安全研究センター年報告 2005年

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。