16. 徳川一橋家 勘定役 壁谷直三郎

江戸の一ッ橋家勘定役「壁谷直三郎」との手紙のやり取りが登場するのは『代官竹垣直道日記』だ。この直道は、のちに将軍家正室「天璋院(てんしょういん)」 や「 和宮(かずのみや:孝明天皇の妹)」の御用人を務めた人物でもある。そのような大物が記録に残した壁谷直三郎とは何者だったのか。


また一橋家当主が代々保存し、現在に伝わっている古文書には「壁谷太郎兵衛」からのものも確認できる。壁谷太郎兵衛は江戸の勘定の元〆(元締め)と呼ばれ、武蔵国(主に現在の埼玉県)の百姓が集団で江戸に越訴(いわゆる直訴)を企てた際に目標ともした人物であった。こっらのことから、壁谷太郎兵衛は一ツ橋家の勘定所のトップ(勘定奉行)だった可能性が推測できる。


八代将軍吉宗以降の勘定役の仕事は「勝手方(かってがた:知行・出納・財務)」と「公事方(くじがた:行政・裁判・警察)」の2つがあった。戦争がなくなって久しく勘定役の仕事は責任重大な時期でもあった。本稿では竹垣の日記を最初の切り口としてまず勘定役「壁谷直三郎」に、次いで武蔵国の古文書や一ツ橋家の事務所などから「壁谷太郎兵衛」に迫ってみたい。

※別稿では「東京府 士族 壁谷訓永」、「静岡懸士族 壁谷伊世」、「福島懸士族 壁谷可六」そのほかについて触れている。


代官 竹垣直道

代官は、幕府の顔として現地を支配した役人であり「支配」とも呼ばれていた。主に幕府直轄領(天領)に出向し、年貢徴収から許認可・災害対策までの民生一般をおこない、さらには警察や裁判に至るまで地方行政の全般を担当した。こうした天領を治めるために全国各地に50人程度の代官がいたとされる。あくまで地方に派遣された役人に過ぎず、幕府内での地位は決して高いものとは言えなかった。しかし、当地では幕府権力を背負った事実上の最高権力者であり、その権力は絶大だった。地方にあってそこで大層な蓄財をなしたものもある。中にはその強大な権力を使って横暴なふるまいをするものも当然あっただろう。


現在の「大阪」は当時「大坂」と書かれ、幕府の「天領」であった。江戸幕府の重要拠点であり譜代大名が大阪城代となって派遣され、将軍に代わって大阪城主を務めていた。大坂城代は幕府の出世コースとされ、大坂城代となった者の多くが江戸に戻って老中になっている。大坂城にはいざというとき将軍の裁可なく独断で行動することができる、白紙の委任状があったとされる。


一方で実務の大部分は「大坂代官」がこなしていた。竹垣が務めたのはその「大坂代官」である。摂津・河内・和泉・播磨の四ケ国(現在の大阪府・兵庫県)にまたがる広範囲を支配した代官だ。地位は高くないと言え、事実上の権力は、並みの大名を超えるものがあっただろう。地域の特性上、堤(つつみ)・樋(とい)・橋などの普請(ふしん:土木工事など)の指揮監督から、廻船の改め(検閲)や納渡米(年貢納め)の立合いなどもあったようで、そのお役目と権限は、相当広範囲に及んだ。


竹垣はその後、大坂から戻って関東代官(関東郡代)となり、武蔵国12万3800石を支配した。次いで鷹野役所(現在の馬喰町にあった)の代官筆頭となって、将軍家が鷹狩りに御成りの際の御膳所(ごせんしょ:食事や休憩)担当などをこなした。


竹垣には息子が1人、娘が3人いたが、そのうち2人は大奥の女中として奉公に出でおり、もう一人の娘「かよ」は「河尻式部少輔鎮長(おさなが)」に嫁いだ。彼は後に第13代将軍となった徳川家定の御そばに仕える若侍衆の頭取(統括役)を務め「従五位下諸大夫」と当時の竹垣よりも官位が高かった。この結婚について、嘉永5年(1852年)老中松平和泉守(乗全:のりやす)から許可を得た手紙が竹垣のもとに届いている。竹垣の義兄が乗全の三男「松平新三郎乗氏(のりうじ)」だったという関係からであろう。

※老中松平和泉守乗全は三河西尾藩主で、竹垣が大坂代官を務めていた当時に大坂城代を務めていた。のちに第14代将軍家茂を擁立した南紀派の要人であり、井伊直弼とも近かった。「桜田門外の変」の後に失脚し、隠居させられている。なお、乗全が老中になった年、弘化2年(1845)2月22日の日記に「松平新三郎様御病死」とある。「かよ」の結婚のときには新三郎はすでにいなかった。


竹垣はその後、第13代将軍の正室「天璋院(てんしょういん)」 次いで14代将軍の正室「 和宮(かずのみや:孝明天皇の妹)」の御用人(ごようにん)を務めた。「御用人」とは、位の高い人の側に仕え、その意向を聞いて家臣たちに伝達する役目をもつものだ。日記には、将軍や天璋院、天皇勅使の公家、さらには外国人などから、銀などの褒美を振舞われたことも記されている。


八代将軍吉宗の享保年間以降は、公式の記録を文書で残すことや、その記録の組織的な保存が急激に進んだ。幕府内のこと細かい覚書、証文などの数多くの古文書が残っていて、明治政府に引き継がれた。しかしそのほとんどが明治6年に焼失している。こうしたなか現在にも伝わっている竹垣の日記は、大変貴重な資料といえよう。竹垣は日頃の仕事ぶり、日常生活から近所付き合いに到るまで、23年近く事細かに日記を書き続けた。従五位に叙任して「竹垣伊勢守」と名乗ったのは文久3年(1863年)、そこで日記は終わってしまう。大変残念なことでもあるが、そのお役目からも事情を察することができよう。


竹垣家について

竹垣家は徳川第6代将軍家宣(いえのぶ)が迎えられたときに舘林(現在の群馬県館林)から従い、幕臣となった。以来代々地方代官を務める家柄だったが、竹垣家に嫡男がなくその娘も「松平新三郎」に嫁いでいた。竹垣家の断絶を防ぐため、11歳で竹垣家に養子に入って5代目を継ぐことになったのが、今回紹介する直道である。彼は文化三年(1806年)生まれだが、実は関東代官の家柄であった岸本家の四男で、その当時は通称「岸本長四郎」といっていた。


養父の竹垣直温(なおひろ)は名代官とされ、栃木県真岡市と茨木県つくば市には彼の名を刻んだ「徳政碑」が今も残る。実は直温も、使番(つかいばん:伝令や警備関係のお役目)だった丹羽家の三男だったが、同じような事情で竹垣庄三直照の養子となっていた。つまり竹垣家は2代続けて養子で継いできたわけだ。養父直温が「三右衛門」と名のっていたのも、もともと三男だったことに由来する。


天保三年(1832年)その直温が亡くなると、直道は家督を継ぎ、以後は養父の通称「竹垣三右衛門」をそのまま継いだ。当時は普段本名を名乗ることはなく、通称名の「竹垣三右衛門」で通していた。本稿で使用する「竹垣直道」は本名である。


江戸時代の身分はその家柄でぼぼ固定され、家禄も決まっていた。ごく一部を除き多くの家族を養う余裕はなかった。したがって嫡男以外は家を継ぐことができず、養子に行って他家の家督を継ぐことになる。断絶を避けるために早くから養子を探す家も多かったという事情もある。しかし、もし養子になれない場合は、部屋住みのまま静かに去るか、出家することが多かったようだ。

※『明治前期財政経済史料集成』によれば「士族」とされ秩禄処分で一定期間の公債支給となった人数は、明治14年に家族も含めて40万人程度。当時の日本の人口の2%に過ぎない。しかし、この数は実際に江戸時代に「侍」と言われていた人々の数より、はるかに多かった。なぜなら、雇われる奉公人にすぎなかった家人(けにん)や同心、さらには主なく農業などに勤しんでいた郷士など、江戸時代には正式に侍として認められていなかった多くの人々が、明治時代に新たに士族として加えられたからだ。明治当初には家人や同心など身分の低い武士は「卒」とされ「士族」と区別されていた。しかし後年には皆まとめて「士族」の身分が与えられている。(「卒」にはしもべ、召使い、といった意味がある。)


従って、江戸時代の実際の侍は、さらに少ない、ごく一部の限られた人々だった。(「侍」とは高貴な人に侍って守る、という意味から来ている。一方で「武士」は単に武器をもって戦う者を意味している。侍と武士とでは、後者の方が格が低いとされていた。しかし明治時代になって一緒くたにされ、武士と言う言葉でまとめるのが一般的になったようだ。混乱を避けるため、本稿では現在一般的な武士という表現を使う。)


官位が「六位」以上の武士の正装は布衣(ほい)とされた。「布衣以上」といえば一定以上のレベルを満足した旗本(幕府の直臣)の代名詞でもあった。竹垣は養父の代からこの「布衣」が認められ、将軍に直接会うことができる「お目見(めみ)え」以上といわれる旗本となっている。


そんな竹垣家でも、実際には領地はない。わずか100俵扶ちに過ぎない。代官の勤めをこなすための役料として与えられた家臣二十人分の100俵とあわせても、1年間に入る収入は、わずかに米俵200俵ほどということになる。江戸時代に米の価格は下落し続けて、実入りは激減していた。当時の武士は生活に困窮して内職に手を出す例が多く、大名もこれを推奨した。

※こうした武士の内職が生み出したものは、日本各地の「名産品」となって現在も残っているものが多い。


領地である知行地を持つ場合はその領地からとれるはずの米の量として「石」が使われた。「一石」は田んぼ「一反(たん)」からとれる米の領で、武士一人の年間の生活費を賄う量とも言われるた。一方で代官のように自領を持たず、俸禄として米を受け取るだけの場合は「俵」が使われた。このため「100俵扶(ぶ)ち」は、大枠で「100石(こく)」と考えて差支えない。当初は「一石で武士一人分」とされていたが、江戸後期は「五石で武士一人分」を賄えるとされるまで価値が下がっていた。米の生産能力が高まり、物価の高沸もあったからだ。つまり合計200俵だった竹垣は、自らの配下として同心・家人など40人ほどを賄える俸禄をもらっていたことになる。

 

大名に迫る知行地(領地)を持ち数千石を誇る旗本もいた。同じ旗本でも代官の場合は、支配する知行地は広くとも、役料として与えられる俸禄は桁違いに少ない。したがって地位も決して高いとは言えなかった。その一方で、支配地域の広さや権限の大きさでは、代官には大きなメリットがあった。一般に代官の場合は、支配地域一万石につき年間100両ほどの役料が幕府から支給されていた。また、江戸時代の後半に入って商品経済が発達してくるようになると、現地で多数の商人とも多くの取引や調整が必要となっており、幕府の代官として当地を支配する以上、何らかの利益を得ようと思えばそれができる立場でもあった。広大な地域を強い権限をもって支配する代官は、その地位の低さに比べ、実際の収入は大きかったようだ。


竹垣家も例にもれず、先代の時代に2200両もの大金で日本橋横山(現在の馬喰町近辺)に屋敷を購入していた。この日本橋横山という地は、日光街道と甲州街道、奥州街道沿への分岐点にある陸上交通の拠点で、荷馬を取り扱う大伝馬(おおでんま)町があり、江戸で唯一馬の売買が出来た場所だ。有数の繊維問屋街・宿場町としても有名であり、北側に隣接する博労町(ばくろちょう:現在の馬喰町)は「関東郡代」の屋敷のあった場所だった。


当時江戸は世界最大の人口を誇る100万人の大商業都市となっていたが、現在とは違い江戸城外堀の中の狭い範囲(おおよそ北は水道橋・お茶の水、南は日比谷、東は四谷、西は大手町あたり。)に平屋の家が並ぶ極めて密集した都市だった。その外側には、いわゆる町人を主とした下町や広大な下屋敷(大名の別邸など)が広がっていた。巨大な大名屋敷と豪商が買い占めた土地がひしめき合って並び、空き地はほとんどなく、そのため江戸の中心地の土地代は極めて高かった。『世事見聞録(せじけんぶんろく)』によれば、そのころ外堀に面した日本橋近辺では、間口わずか一間(約1.8m)奥行20間(約36m)という屋敷に、1000両もの高値がついたと驚きをもって記されている。これから類推すると、このような一等地に、2200両出して購入した竹垣家の屋敷は、いったいどれほどのものだったのだろうか。

※このころは外堀の外部には荒れた土地に下町や商業地域が広がっていた。しかし江戸末期になると攘夷に備えた軍事基地へと大きく変貌していき、外堀の外部でもその価値は大きく高まっていく。


一橋勘定 壁谷直三郎

竹垣が大坂代官だった天保14年(1843年)2月14日の日記を以下に引用する。ここには、江戸の一ツ橋勘定だった壁谷直三郎から届いた一通の手紙の内容が記されている。


『大坂代官竹垣直道日記』( 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター)より引用

(天保14年2月)14日 晴
一 江戸ゟ別便届状到来
              松田大蔵

右之もの儀一ッ橋勘定壁谷直三郎

口入を以役所見習度段申聞ニ付、願之通見習申渡

※カッコ内の説明は筆者がつけた。


「ゟ」は「より」と読む。「よ」と「り」が縦書きで合体した筆文字である。従って冒頭の部分は「江戸より」と読むことになる。「別便」とあるのは、竹垣のもとに定期的に届くご公儀(こうぎ)からの公式文書である「御用書(ごようしょ)」とは別に届いた、私信であることを意味しているのだろう。「口入(くにゅう)」とは紹介のことで、また「申渡」は下位のものに対して命ずるというほどの意味だ。以下にこの文書を、筆者なりに現代語訳したものを示す。


天保14年(1843年)2月14日晴
江戸より別便で手紙がついた。それにはこう書いてあった。
一ッ橋勘定である壁谷直三郎は、松田大蔵が(竹垣からの)紹介状によって役所の見習をしたいという申し出を受けて、その願いのとおり見習いを命じた。


松田大蔵については、何者かわからない。ただ、竹垣の日記には他にも松田の名が多数登場しており、いずれも竹垣が各地に御供(おとも)として引き連れたり、使いに出して代官の執務を手伝わせている。大坂代官は天下の台所と言われた大坂を支配する代官でもあり、事実上の権力は大名なみとも言えるだろう。支配する規模と権限の大きさから、竹垣の元では相当多数、こういった武士を抱えてていたことは間違いない。以下に松田の名が登場する例をいくつかあげる。


(天保14年9月)14日 松田健蔵 大津江(へ)出役いたし候由 罷越居間江呼逢
(天保14年9月)22日 召連候もの共(めしつれそうらうものども)左之通 侍代見習 松田機一郎(複数名あり略)
(天保15年7月)10日 松平遠江守領分 摂州尼崎大物橋 為見分罷越(見聞のためまかりこし)自分丸羽織・野袴着用、供連如左(ともずれひだりのごとし)侍 松田仁右衛門

(他に複数名の記述あり)

※松平遠江守とは摂津尼崎藩(現在の大阪府尼崎市近辺)藩主、松平忠栄のこと。


※江戸時代の武士には大きな身分差があった。松田の名の付くものたちは竹垣の配下であり、一部には「侍」「侍代見習」とある。江戸時代「侍」と呼ばれたのは正式の所領と身分をもったもので、一般に「上士」とも呼ばれ庶民からは「殿様」と呼ばれた身分でもある。したがって、侍とされた松田は、相当身分が高かったとも言えよう。一方で「侍代」とされるのは「手代」「お抱え」などとも呼ばれ、所領をもたずに主人(この場合は竹垣になろう)に仕えた家人(けにん)である。この家人には、帯刀と馬上が許された「与力」(よりき:寄騎とも書く。)と、「同心」(どうしん)がいる。同心は『大岡越前』など時代劇では直接奉行の指示をうけて活躍する上役の武士だった。しかし馬上が許されておらず、実際は武士の中では「下士」(下級武士)とされていた。


当時の身分意識から考えれば、松田が江戸の勘定役のお役人に直接お願いをすることは到底できまい。したがって大坂代官所のトップだった竹垣が壁谷直三郎あてに紹介状を書いたことが推測される。直三郎からの私信が、直接竹垣あてに届いていることも、それを裏付けよう。直三郎からの返書に見える「見習度段申聞(みならいのだんもうしきき)」あるいは「申渡(もうしわたす)」は、現代語でいえば「願いを聞き入れて、その役を命じた」ほどの意味かと思われる。このことが竹垣の私日記に記されたことは、竹垣と直三郎の間にはそれなりに信頼関係があり、その執務上も記録に残すべきことでもあったと推測できる。


しかし、なぜわざわざ江戸の壁谷直三郎に、そのような依頼をしたのだろうか。竹垣が、大坂から江戸にある勘定所の壁谷直三郎のもとに、はるばる松田を派遣して見習いをさせようとしたと考えるのは合理的ではない。なぜなら、当時の交通事情では江戸に行くのは大変、相当な日数と費用がかかった。それどころか命を失う危険すらある。見習いのために、そこまでする必要があっただろうか。加えて、壁谷直三郎がいた江戸の勘定所は、全国各地に派遣した各地の代官からの仕事を取りまとめるところであり、業務を直接こなす場所ではない。つまり、江戸では見習いはできないのだ。


後述するが、一ツ橋勘定は各地に散らばる領内に代官を派遣し支配させていた。一ツ橋家の勘定に所属したことがある渋沢栄一の『雨夜譚』によれば、一ツ橋家の所領は武蔵国(現在の埼玉県・東京都)を中心とした関東にととまらず、備中(岡山県)、摂州(現在の大阪と兵庫にまたがる地域)に1万5千石、泉州(現在の大阪府堺、岸和田、和泉など)に7-8千石、そして播州(現在の兵庫県)に2万石があった。そして武蔵国以外の三か国を支配する一橋家の代官所が大坂の川口(現在の大阪市西区川口)にあったとしている。一方で大坂代官の代官所は鈴木町と谷町(現在の中央区谷町)の2ヶ所にあり、竹垣は谷町の代官所にいた。(『近世中期大坂代官の幕領支配』による)つまり、竹垣が支配した大坂の谷町代官所と、一ツ橋家の出張所ともいえる川口代官所は、直線距離でわずか4K程度と実は大変近かったのだ。


後述するが、大坂にあった一ツ橋家の川口代官所は、江戸の一ツ橋家「勘定奉行」が直接「支配」していた。つまり大坂にあった一ツ橋家の川口代官所に、松田大蔵に見習いをさせるために、江戸の壁谷直三郎に直接許可を求めたと考えるのが妥当であろうと考えられるのだ。川口代官所の業務について、江戸で決裁できる権限を持ったものは当然限られてくる。また、竹垣も大坂代官所のトップである。そんな竹垣から依頼をうけ、江戸にいながらにして大坂の一ツ橋川口代官所での見習を直接命じることができた壁谷直三郎は、一ツ橋家の勘定の中で一定の決裁権限を持った地位にあったと推測できる。


武蔵国の古文書に残る直三郎

この日記に記された日の約10年ほど前、天保4年(1833年)10月の古文書にも、同じ「壁谷直三郎」の名が残っている。それは、武蔵国埼玉郡江面村(えづらむら:現在の埼玉県久喜市)の大庄屋(名主、組頭)であった宮内家が所有していた644点の古文書(慶応義塾大学所蔵)の中にある。江戸後期の村の組織は、村方三役とも呼ばれた「名主」「組頭」「百姓代」から構成されていた。「名主」は地主として村長のような役目を果たし、その下にあった「百姓代」は多くの小作人(百姓)たちの代表だった。


江面村はもともと幕府直轄領だったが、延享三年(1746年)から徳川一橋家の領となっていた。その文書の題名は「覚(おぼえ)」とあり、いわゆる証文である。その文書の内容には『川々国役金、包分銀、3貫863文7分請取』とあり、壁谷直三郎の署名がある。


 慶応義塾大学所蔵『武蔵国埼玉郡江面村文書(宮内家)古文書』より引用

天保四年(1833年)十月 覚〔川々国役金請取〕
署名:壁谷直三郎
宛先:右村(江面村)名主、組頭

内容:川々国役金、包分銀、3貫863文7分の請取

※武蔵国埼玉郡江面村の名主の家に伝わる「宮内家文書」古文書644点が慶応大学に残る。江面村は現在の埼玉県久喜市。上記は慶応大学による抄録で、筆者において原文の内容は確認できていない。以下同様。


「役金」はもともとは飢饉や災害、使節の接待や普請など臨時の費用の徴収にも使われていた。しかし江戸時代後半になると、新田開発で米価が下落し石高が固定されていた武士が苦しむ一方で、稲作以外も認められた農家は収入が大幅に増えた。武士の困窮をよそに、大庄屋や豪商は相当に儲けて金銀を自宅に貯めこんでいため、幕府はこの金銀を「役金」として毎年のように徴収しては、金銀の含有率を減らして改鋳し(貨幣量を増やしたうえで)市場に再流通させ、大きな資金を得るようになった。

※これは一時的に潤ったにせよ、物価高を招くことになった。石高が固定されていた武士はその後、さらに困窮を招くことになる。


「国役金」は、各領地から「銭(ぜに)」で治めさせる臨時の税金で、通常の年貢のほかに、石高に一定の割合を乗じた金額が追加で徴収された。銀3貫863文は相当な金額である。(一貫は約3.75Kgなので銀約14.5Kg。)江戸時代中後期において金一両は銀貨60匁(文)に相当するとされる。当時で言えば小判65枚弱、金の価格で試算すれば、少なくとも現在の数百万円から一千万以上には相当する。庄屋だった宮内家が、毎年納めていた年貢の他に、これだけの金額を一括で支払いできる余力があったことは驚きに値する。

※当時の日本は銀本位制であり、金と銀との交換レートが低く(おおむね1対5)海外の3分の一程度だった。銀の価値が現在より3倍高かったと考えてもよく、さらに大金だったとも思われる。なお、この格差のため江戸末期から明治初期に銀を金に両替して海外に持ち出して利益を得る例が増え、日本の金は海外に大量に流出している。(金本位制となるのは明治時代)


公儀から下される証明書の類には、その組織のトップの名が記されているのが一般的といえよう。これらの証文に署名していた壁谷直三郎は、一ツ橋勘定の役人の代表者として、一定の地位だったことが容易に推測されよう。


一橋勘定 壁谷太郎兵衛

慶応義塾大学の所蔵する宮内家の文書の中には、ほかにも大量の文書がある。その中で、もうすこし時代を遡った資料に、一橋家出身の最初の将軍だった第11代将軍、徳川家斉(在任は1787年から 1837年)の時代に一橋家勘定「壁谷」の名があった。それが「壁谷太郎兵衛」である。


慶応義塾大学所蔵『武蔵国埼玉郡江面村文書(宮内家)古文書』の妙録より引用

文化五年(1808年) 8月 〔朝鮮人国役御通〕封あり
 署名:新[倉]大作、壁[谷]太郎兵衛、山為之助、蔦良左
 内容: 朝鮮人来聘に付、5ヶ年の国役金請取通。佐平太組

文化五年(1808年)10月 23日 覚〔貯銀請取に付〕

 署名:壁[谷]太郎兵衛 

 宛先:右村(江面村)名主、組頭

 内容:永3貫423文3分、他2文9分


文化五年(1808年)12月18日  覚〔貯銀請取に付〕

 署名:壁谷太郎兵衛
 宛先:右村(江面村)名主、組頭

 内容:永129文1分江面村。納人勝右衛門

※上記引用部分において[倉]と[谷]の2つは筆者が補完のため追記したもの。他の宮内家の古文書では、「壁谷太郎兵衛、新倉大作」と連名で記録されるものが多くあることから、筆者にて追記するのが適当と判断した。なお、現在の埼玉県には「壁」という名字が現存しており、同じ一ツ橋勘定に同時代に「壁 太郎兵衛」もいた可能性は否定できない。


文化五年(1808年)の「朝鮮人国役」は、朝鮮から派遣された「朝鮮通信使」の饗応のため、幕府が全国の各領地に対して一石につき一両の「国役金」を課しており、その分の受け取りをたとされるものと思われる。


さらに「武蔵国埼玉群西方村(現在の埼玉県越谷市)」に残された古文書にも「壁谷太郎兵衛」が登場する。昭和46年10月の「広報こしがや」にある「市史編纂だより」にのる「越訴(おっそ)騒動」の記事が、それである。西方村は元禄のころ(1617年)に幕府直轄領となり、この当時は1500石余りも有する大変大きな村だった。そこから入る年貢は一ツ橋家にとっても大きかった。


『広報こしがや』昭和46年10月「市史編纂だより」から引用

享和二年(1801年)[筆者注は後述]という年は、関東一円は水害による凶作であったが、西方村(現在の埼玉県越谷市相模町)ではその被害が平年作の一割にも達しないという調査役人の判断で、年貢の減免は許されなかった。(中略)小作方では、役人の見立てとは異なり、実際は水腐がはなはだしく、被害は大きい。(中略)したがって特別の配慮を願いたいと交渉を続けてきた。だが地主方ではがんとしてその引き下げを拒否してきた。こうした折ある日、突然小作人一同は大挙して江戸に向かい「奉行所元締壁谷太郎兵衛」に小作料引き下げ願いの「越訴(おっそ)」を決行した。
奉行所ではご法度(ごはっど)を破った罪人として、越訴の先導者とみられた五名の者を手鎖に処して留置し、他の者は十名から十五名宛江戸宿(裁判を受けるものが宿泊する特別な宿屋)八軒に分宿させて預けられた。これから推すと、越訴の参加者は一〇〇名以上の集団であったとみられる。この越訴を後で知った西方村役人は、予期しない事態に驚きあわてて、夜中急いで江戸に駆けつけた。翌朝早々、このことを代官役所に通知した上、奉行所に着届の手続きをとって、訴願書を提出した。(中略)この願書のなかに、小作人たちのお願い筋は惣代をたてて御調を願うという文面があり、奉行所役人の激怒をかった。つまりこの問題は、地主対小作人の間で処理することで、奉行所の関わりあう筋ではない。にもかかわらず惣代をもって訴願うという事は、村役人一同小作人達と同意の上強訴を決行したものと判断できる、ということであった。

※「」は筆者が付けた。なお文中で引用される文献である『西方村旧記』には原文で「享和二戌年」とあることから1802年が正しいようだ。この地は2年連続して凶作となっており、そのため前年の1801年と年号の混乱があったものと思われる。


この後の説明によれば、奉行所では翌日から取り調べを行ったが、計画的な強訴あるいは幕府権力に対する抵抗ではないと判断し全員(無罪)として釈放したとされている。このとき奉行所は条件を付けており、米十五俵を地元の三名の大地主たちに拠出させ、小作人等の困窮者に施米(ほどこしまい)を実施することとし、困窮した百姓の救済まではかろうとしていた。翌年も大地主たちは西方村の代官役所に呼び出され、百俵を拠出させられて困窮者の救米に使われたとある。


「越訴(おっそ)」とは、本来訴えるべき役人(機関)などを越え、より上位に訴えを起こす直訴(じきそ)行為である。当時はご法度とされ、最悪の場合は死罪となった。しかし実際は、処罰者を出すことで後々百姓一揆に発展し、幕府にとって面倒なことになることが当時は頻発していた。(別稿「磐城平元文一揆に垣間見る壁谷」を参照)このため、江戸後期になると穏便に処理されることが多くなっていった。越谷市市史編纂室では、もしこの奉行所越訴によって処罰者が出た場合、農民の抵抗は幕府に向けられるため、それを避けようとしたと推測、村内で内部対立が深まることを承知の上で、村落共同体の内部の問題つまり農民の惣代である庄屋と小作人の間の問題であり、奉行所は関知しないとして処理したとしている。


この説明から見ると、越谷の西方村には一ツ橋家の「代官役所」があって、上位の機関として「江戸の勘定奉行所」があった。それを統括する「元締め」が壁谷太郎兵衛だったことなる。百姓らは、地元の代官役所に訴え出ずに、直接江戸の壁谷太郎兵衛に訴え出たことから江戸時代にご法度(法律違反)とされた「越訴(おっそ)」となり、多数の拘留者を出したことになる。


本件につき『西方村旧記』(市指定文化財)にのる原文を実際に読んでみた。それによれば、ここで登場する「西方村役人」とは、西方村支配だった代官、野口辰之助だった。百姓惣代や小作人たちは代官や名主らの判断に納得せず、小作料の引き下げを訴えたが「何事も行屈兼残多儀(行き届かずまた残り多き儀)ニ(に)御座候 村方小前騒立 御門訴訟(もんそ)ニ罷出候事」とある。「村方小前」とは「名主」のことであり、「門訴」とは小作人である百姓たちが領主や代官の屋敷の門前に集結して訴えることである。


百姓らは名主だけでなく、ご公儀の代官までも差しおき、江戸の「壁谷太郎衛」に直接吟味を申し立てたることになった。そのため百名程度が壁谷太郎兵衛を目指して江戸に向かった。これは当然のごとく越権行為となる越訴(おっそ)とみなされ、当時は死罪すら免れない行為であった。実際は首謀者の五人だけが江戸で手鎖となり、他に十名から十五名が江戸で拘留されたご公儀の判定待ちとなった。現地の村役人や名主らは驚いて急遽その日の晩には江戸に到着し、翌日江戸の奉行所の罷(まか)り出て、ことの収束に奔走した。


『西方村旧記』(埼玉県越谷市市指定文化財)原文から引用

何れニ(に)も小前相続罷有様御勘弁相願申上度、「御役所元〆壁谷太郎兵衛様御吟味之節申上候処、」(中略)五人手鎖被仰付 相残候分拾人拾五人 宛江戸宿八軒江御預ヶ被仰付候、然ルニ(に)依て村役人当日夜江戸着御支配江御屈ヶ翌日罷出候

※「」はおよび、カッコ内の読み仮名は筆者が追記した。


一方で、慶応義塾大学に残る古文書では「壁谷太郎兵衛」は他の一ツ橋領における年貢の受け取り証文にも署名している。ここからも相当広範囲の地域で「勘定」を担当していたことは間違いない。この騒動で現地の代官を飛ばして越訴し「吟味」を求めるお役所(奉行所)「元締め」が壁谷太郎兵衛だったことや、先の古文書で武蔵国の国役金(税金)の受領証を発行していること、そして冒頭で説明したように、江戸の壁谷直三郎が大坂代官の竹垣に対し、大坂川口代官所での見習いを承認していたことなどから、勘定所の壁谷の地位が大まかに想像できるだろう。一ツ橋家の大坂川口代官所は、ことは既に記した。江戸の勘定奉行の直接支配だった大坂川口代官所での見習を、江戸に居ながらにして命じることができた直三郎は、阪川口代官所のトップであった代官に対しても指示ができる地位であったことが推測される。


江戸幕府の勘定奉行所には、勘定奉行の直下に「普請役元締」という役職があった。この「元締」とは勘定奉行(全国支配)の直下にあって、最高位の役職になる。一方で、一ツ橋家の勘定には「元締」という役職の存在は確認できていない。既出の渋沢栄一『雨夜譚』によれば、一ツ橋勘定ではトップに二人の「勘定奉行」がいて、全国各地の代官はその「勘定奉行」の直接支配だったとしている。ここまで見てきた古文書の記述内容では、壁谷太郎兵衛・新倉大作が二名連名で記される例が多いことに気がついただろう。こられのことから、文化6年当時、壁谷太郎衛と新倉大作の二人が「勘定奉行」だったと推測できるのではないだろうか。

渋沢栄一『雨夜譚』巻之三によれば、江戸末期の一橋家の勘定役はトップの「勘定奉行」が二人、次いで「勘定組頭」が三人、その下には「平勘定」「添勘定」が数十人、そのほかに御金奉行、御蔵奉行、御蔵方、御金方、御勘定所手附、手代など総体で数百人ほどの組織だったとしている。実際の日々の実務は次官級といえる「勘定組頭」が取り仕切っていたとしている。このことは、現在の一般的常識からも理解できよう。


さて越訴の話に戻ろう。この件では壁谷太郎兵衛自身もこのような騒ぎを止められなかった責任を問われる事態だった可能性がある。名主と小作人の問題であり、本来奉行所に訴えるような事ではないと処断した判断は実際の所正しかったのだろうが、奉行所側の責任を逃れる意図もあったかもしれない。当時の武士の考え方がわかるような気もする。


なお、一ツ橋徳川家に伝わり明治時代以降も保存されてきた一橋徳川家文書(古記録・古文書等)について、茨城県立歴史館が昭和59年に寄贈を受けている。その『一橋徳川家文書目録』の中にも「壁谷太郎兵衛」の名前が見当たる。その題目を以下に引用する。(その古文書の内容については現在未公開)ここで「囲穀」とされているのは、飢饉に備えたり米価調整をするため、種籾のまま倉庫に長期間保存した貯蔵米である。一般には囲米(かこいまい)と呼ばれ、江戸後期には軍事目的の資金源として幕府や各藩で推奨した。これは米価高騰も招いたとされているが、当時の幕府の財政事情では、仕方がなかったのだろう。宛先が人名ではなく、お勘定所となっていることに疑問を感じるが、原文を見ていないので詳しくはわからない。おそらく幕府の勘定所あてだったのではないだろうか。一ツ橋家に保存されていた文書であり、そこに関東村々とあることなどから、一ツ橋領となる関東各地の囲米の状況に関し、壁谷太郎兵衛らが幕府の勘定奉行に報告した文書の写しを、一橋家当主(徳川斉敦、実兄が第11代将軍家斉)に送ったなどの事情が推測される。


茨城県立歴史館『一橋徳川家文書』の目録から引用

文化6年(1809年)
覚〔関東村々御囲穀御勘定組継添伺書〕
作成者 壁谷太郎兵衛・新倉大作

宛先 御勘定所


徳川家斉は一ツ橋出身として初めて将軍になった天明7年(1787年)から50年間にわたって幕府の最高権力者であり続けた。家斉が将軍就任時に15歳だったこともあり、1787年から1793年吉宗の孫だった松平定信(元福島白川藩主)が老中となって寛政の改革を進めた。定信の隠居後も、1817年まで寛政の遺老(定信に強い影響を受けた宿老たち)によって、事実上は寛政の改革が続いていた。まさにそんな時代に、壁谷太郎衛が活躍し、彼の作った文書が徳川一ツ橋家で保存するほどの価値があるとみなされていたことになる。


徳川 一ツ橋家「奉行所」

明治3年(1870年)に作成された『摂津和泉播磨備中関東越後国御領知御高帳』がある。江戸幕府が明治政府に渡した文書はほとんどが、関東大震災と太平洋戦争で焼失し失われているが、そんな中でも残っている貴重な資料だ。


それによれば、一橋領は,延享3年(1746年)に播磨・和泉・甲斐・武蔵・下総・下野国に計 10 万石を与えられたのが始まりで、その後文政6年(1823年)に大坂(摂津古和泉・播磨)備中・関東(武蔵・下総・下野)・越後など全国数十か所に分散して約10万石あった。このうち武蔵国 3 郡(埼玉郡・高麗郡・葛飾郡)と下総国葛飾郡などの計 51 村を一ツ橋家の勘定が直接支配し、残りの下総国結城郡,下野国 2 郡(芳賀郡・塩谷郡),越後国など全国各地に散らばった 17 村は「出張所」の郡奉行(こおりぶぎょう)を介し間接的に支配していた。


一橋領の領地は、勝手掛り用人のもと、勘定奉行と郡奉行による支配が行われた。江戸小石川の一ツ橋家の上屋敷(現在は気象庁がある大手町1丁目)には、勘定奉行を長とする「奉行所」と、郡奉行を長とする「領知方役所」があり、各地方には代官を派遣して管理していた。


今回の越訴騒動は武蔵国埼玉郡の百姓によるものであり、彼等に江戸の奉行所と呼ばれていたのは、まさにこの一ツ橋家の上屋敷にあった「奉行所」だった。この時期は『武鑑』などが大量に印刷されて出回っており、幕府や各藩の組織や役人の正確な名前、その掲げる家紋や旗印、そして役料や石高、御供の人数など、大変詳しい情報が庶民に至るまで知れ渡っていた。これらの文書を当然見ていただろう百姓たちは、誰に越訴するのか判断できたと思われる。壁谷太郎兵衛の列が通った時に、それが誰なのか正確に判断ができた、あるいは壁谷太郎兵衛の屋敷がどこだったのか分かっていたのだろう。


一ツ橋家の勘定のトップの一角は文化・文政の時代「壁谷太郎兵衛」、天保以降の時代は「壁谷直三郎」だった可能性が高い。「太郎兵衛」「直三郎」の名は、どちらも「太郎(長男)」「三郎(三男)」から来たもので通称と思われる。先の竹垣直道の通称が、竹垣三右衛門だったことと同様だ。お役目は代々その家の跡継ぎが引き継ぐことが通常であり、数十年の間に同じ一橋家で勘定を担当した2人は、血縁関係にあったか、もしくは養子などとして壁谷家を継いでいた可能性が極めて高い。そのあたりの事情は、竹垣家と同じだったろう。


一ツ橋領は全国に散らばるとされる。摂津・播磨は大枠で現在の兵庫県、和泉は大阪府であり、備中は岡山県、越後は新潟県。そして武蔵は神奈川・東京都・埼玉県、下総は千葉県、下野は栃木県である。こうして見ると一ツ橋家の領には、前述の竹垣が代官を務めた大阪(和泉)や、のちの関東郡代(武蔵、下野、下総など)となった領地と重複している。一ツ橋の摂津・播磨・和泉三国の代官所も大坂にあった。冒頭で大坂代官だった竹垣の日記に壁谷直三郎が登場していた。大坂の代官竹垣は勘定のトップを兼ねており、一ツ橋勘定のトップは壁谷直三郎であったとすれば、江戸の壁谷直三郎のもとに松田大蔵を見習いにと依頼した事情も、より理解できるといえよう。


江戸後期を牛耳った一橋家

壁谷太郎兵衛、壁谷直三郎らが仕えた一橋家は、第8代将軍吉宗が、家康の「御三家」にならって将来将軍家が絶えないように実子3人に継がせた「御三卿(ごさんきょう)」のうちの一家だ。将軍家の家族扱いで、江戸小石川に屋敷があった。石高は10万石と中堅の大名並みだが「御三家」のように大名ではないので領国はなく、もちろん一ツ橋藩も存在しない。全国各地に点々と分散した幕府の天領を知行地とし、一橋家家臣は事実上は幕府直臣の扱い(旗本)となっていた。


天明7年(1787年)第11代将軍となった「徳川家斉(いえなり)」もこの一橋家の第三代当主(吉宗の曾孫)だったが、将軍職につくことになった。家斉は、その後将軍職を子に譲った「大御所時代」を含め、50年以上にわたって徳川幕府の最高権力者の地位にあり、江戸時代後期に大きな影響力を与えた。その子は55人もいたされ、それぞれが徳川御三家から、松平家一門、島津家、蜂須賀家などの外様大名、さらには二条家など公家の名門に到るまで、全国各地の名家に多数の養子や正室を送り出した。これが後に徳川一橋家が江戸幕府内部で大きな力を持つことに繋がっていく。


歴史上は一ツ橋家の将軍は、第11代家斉と、第15代慶喜(水戸家からの養子)の二人とも言われる。しかし実際は一橋家の血筋が徳川本宗家を独占し、一ツ橋家は事実上の徳川本宗家の扱いとなっていたのだ。12代将軍家慶(いえよし)も家斉の二男であり、第13代・第14代の将軍家定(いえさだ)・家茂( いえもち)の2人は、どちらも家斉の孫である。14代家茂は「紀州家」出身とされるが、実は家斉の子が養子に入り紀州家を継いでいたのだ。最後の第15代徳川慶喜は水戸家出身であったが、一橋家の養子となることで、将軍になれる地位を得ることができた。

※慶喜の父徳川斉昭も22男14女と子に恵まれた。多くの家に養子を送り込み将軍慶喜以外に大名になったものも十数名いる。


徳川家第16代当主「十六代様」と呼ばれ、明治になって初代静岡藩主となった徳川家達(田安家達)は田安家とされ、一ツ橋家ではなかった。しかし実は家斉の父で一ツ橋家の第二代当主、徳川治済の子孫が田安家の養子となって継いでいた。つまり徳川将軍の宗家は11代将軍以降、すべて一橋家の血筋だったことになる。こうして8代将軍徳川吉宗から連なる一橋家直系の血筋は現在の徳川本宗家にも至る。壁谷太郎兵衛が発した文書を一ツ橋徳川家の代々の当主が保存し続けて、それが現在にも伝わっていることは一種感慨深いものがある。


壁谷太郎兵衛と同じ時代の文政7(1824年)ころ、松平右近将監(まつだいら-うこんの-じゃう/じょう)の屋敷で子供たちの面倒をみていたと記録されるのは別稿で触れた「壁谷伊世(いせ)」だった。彼女が面倒をみた子は、成長すると尾張藩主「徳川慶勝(よしかつ)」となり、後に長州征討軍総督として第二次長州征伐を事実上中止させ、「大政奉還」や「王政復古の大号令」の頃には尾張藩内の強硬派の重臣たちを一斉に処刑している。この徳川義勝が明治政府側についたことで、周辺の雄藩は次々と官軍側につかざるを得なくなった。このため「鳥羽伏見の戦い」以降は関東以西で全面対決は回避され、官軍の攻撃目標は江戸、そして奥州へと移った。その後、徳川慶勝は明治新政府の「総裁」となった有栖川宮熾仁親王に次く「議定(ぎじょう)」となり、明治維新の初期を一時期指揮していた。壁谷伊世は、そんな大物の乳母(めのと)だった可能性もあることになる。


慶勝の弟たちも幕末維新の時期に多方面での活躍が記録される「高須四兄弟」として歴史に名を残している。残りの三人は、後に一橋家当主となった「徳川茂栄」、そして京都守護で戊辰戦争でも名が知れた会津藩主の「松平容保(まつだいらかたもり)」、京都所司代で桑名藩主の「松平定敬(さだたか)」である。この時期各地にいた壁谷家が幕末に関わってくることになるが、一橋家や高須四兄弟と壁谷家の間で何かの関係があったことも匂わせる。また、壁谷家が複数記録される奥州三春藩が奥羽越列藩同盟の中で突然朝廷側に寝返り(後世に「三春狸」と揶揄されることになる。)、板垣退助率いる官軍の勝利を導くきっかけを作ったともされること、明治政府の官僚に壁谷家の一族が複数記録され、その活躍も記録されることなどとの関連性も興味深い。


2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で、一橋家の徳川慶喜が将軍後見職になった。(2018年6月24日放映段階)慶喜が活躍できているのは、この壁谷直三郎が、背後で黙々と雑務をこなしているからだと思って見ていただけるとうれしい。


(追記)慶喜は若くて頭脳明晰なサラブレッドであった。慶喜の幕政改革は困難を極めたが、一定の成果を上げつつあったことで、逆に警戒されたといえよう。元治元年(1864年)尊攘派の長州藩が京で決起し御所にまで迫った「禁門の変(蛤御門の変)」で、慶喜は見事な指揮采配を見せて大勝していた。また十年ほども年上の松平春嶽らを次々とやり込めた鋭利巧みな弁舌は、桂小五郎(のちの木戸孝允)をして「(慶喜は)神君家康公の再来か」とうならせた記録も残っている。このような慶喜の優秀さは、西郷らをして「建武の新政」の二の舞を避けるために、慶喜を朝敵として抹殺する必要性を、強く直感させたことだろう。


一方で慶喜も江戸幕府の掌握にてこずっていた。幕府内には家康以来の格式と伝統を重んじる風潮や、長年積もり積もった構造的な旧弊を抱えたままだった。幕末の人事・行政改革が評価される慶喜だが、第十五代将軍となっても老中、若年寄といった幕府の最高人事の改革には手を付けることができなかった。当時は国内外の情勢も難しい時期にあった。幕閣では父だった徳川(水戸)斉昭の評判も悪く、水戸家の子飼いの家臣がいない一方で、すでに次代を見極めつつあった松平春嶽、徳川慶勝、勝海舟ら老獪な幕臣たちに囲まれていた。突然幕府のトップを任された慶喜は、相当に困惑したに違いない。幕政の人事改革も断行したと評価される慶喜も、後年になって幕府の改革はそれが精一杯であったと語っている。


『昔夢会筆記』徳川慶喜公回想談

斯(し)かる事、今より懐古すれば何程の事にもあらざれど、当時に於ては非常の難事なり。余の力にては玄番を若年寄に用ゐたるが精一杯なり。

※慶応3年(1867年)永井玄番(永井尚志 )を若年寄に登用したことを指している。


さらに父君斉昭(烈公)以来の不評が災いし、慶喜は大奥からの強い反発にあっていた。徳川幕府の将軍として江戸城に入ることがなかったのは、慶喜ただ一人だったろう。ドラマではあるのだが、NHKの「西郷どん」で理想化された西郷は別として、あまりに情けなく感情的に描かれる慶喜は可哀想で見るに堪えない。


天皇勅命を受けた慶喜と、一橋家勘定だった渋沢栄一

德川慶喜は弘化4年(1847年)に一橋家の当主となった。勘定役を務めていた壁谷直三郎は徳川慶喜の家臣となったことになる。一橋家当主となった慶喜は、その20年後、慶應2年(1867年)孝明天皇から長州征伐の勅命を受けると、周囲の反対を押し切って幕臣たちを召してその匠な弁舌を振るった。


平凡社 東洋文庫『徳川慶喜公伝』3 から、徳川慶喜の発言を引用

此度(このたび)己(おのれ)が出馬するからは、仮令(たとい)千騎が一騎になるとも、山口城(長州藩の居城)まで進入して戦を決する覚悟なり。その方どもゝ余と同じ決心なら随従すべし。其の覚悟なきに於ては随従に及ばず。

※カッコ内は筆者がつけた。


一橋家の家臣は慶喜の上記の発言を直接聞いたことだろう。武士である以上、もし随従ぜぬなら腰抜けと生涯罵られて代々語り継がれることを覚悟しないといけない。幕末の混乱のさなか一橋家に仕官してから急速に出世し、このころ勘定組頭を務めていた一人に、渋沢栄一がいる。渋沢栄一は慶喜の決意を聞いて、慶喜に随従して出陣することを決意している。


『雨夜譚』(渋沢栄一自伝)から引用

自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図(一途)に一橋家の会計整理に力を尽くして種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ちることは好まぬ気質だから、強いて従軍を願って御馬前で一命を棄てる覚悟でありました。

※渋沢栄一は特別の計らいで当初「組頭格御勝手懸り中老手附」に抜擢され、その後の一橋家の財政改革に才能を発揮し「勘定組頭」に出世したようだ。おそらくは壁谷直三郎と渋沢栄一には互いに面識があったことだろう。当時の一ツ橋家の当主は徳川斉敦( なりあつ)で、時の将軍家斉(いえなり)の実弟でもあった。実際には「勘定組頭」ではなく、その補佐の補佐といえる「」であった。


渋沢栄一は百姓の出で、ペリー来航後の混乱の最中、幕府を転覆する先駆けにならんと身を捨てて横浜焼き討ちを計画した。しかし断念すると、ふとしたきっかけから一ツ橋家の家臣となっていた。当初は「奥口番」(4石取り)という古畳の奥座敷の番人という下役だった。渋沢栄一の自伝である『雨夜譚』では当時の武士は、伝統を重んじて事なかれ主義がまかり通っていたとしている。そんな中、渋沢は一度身を捨たものとして必死に奉公した。一ツ橋慶喜や、用人(ようにん:側近のこと)からその商才が評価され急激に出世している。


当時は尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、有力な親藩を中心に兵隊が組織され軍事訓練も行われていた。その一方で、藩組織ではなかった一ツ橋家には兵隊がいなかった。そこで渋沢は百姓から兵を募って兵隊を組織するという、一般の武士では到底考えられない奇抜な進言を提言している。これが受け入れられ、百姓を中心とした五百人にのぼる一橋家の兵隊を組織することを命じられた。(歩兵組立御用)渋沢は自ら百姓の中に飛び込んで説得し、実際に組織化を実現している。


その後も相次いで旧来の武家では、考えも付かなかった新たな提案を行っている。一ツ橋家の収入を増やす「三か条の提言」は、どれもが商人の発想で武家にはなかった。具体的には、まず年貢で得た米をこれまで通り決まった取引先ではなく、より高い処を探して売りつけて利益を増やすこと(廻米という)、次に一ツ橋領だった播州の白木綿を領地外の各地に売ること、三つ目に備中で硝石の製造を行い売ることだ。最終的には実現できなかったこともあったが、この提案が採用された渋沢は、その任を遂行できる地位が必要とされ「勘定組頭」に抜擢された。次いで藩札の発行も始めている。このような急激な出世ができたのは、慶喜が一ツ橋家で進めていた人材登用などの急進的な改革のおかげだろう。それでも、勘定組頭当時の渋沢の俸禄は、わずか25石七人扶持、在京手当が月21両であり、官位もなくその地位は低かった。


その後、先に説明した慶喜の出兵に従って「勘定役」から「使番(つかいばん)」(伝令役だが、実際は見回り役)となっている。文官から武官となったことは、百姓だった渋沢にとって名誉なことだった。しかし慶喜が将軍となると、幕臣となった渋沢栄一は無位無官の下級武士として、慶喜に謁見することすらできなくなった。こうして渋沢は幕府から離れていくことになる。同年12月、孝明天皇が突然崩御すると、慶喜は一転して朝敵とされ時代は一気に明治に向かう。古くから一橋勘定の要職(勘定奉行、もしくは勘定組頭)にあっただろう壁谷直三郎らは、孝明天皇の勅命をうけたとき、果たして渋沢栄一のような英断をすることができたのだろうか。それはこの壁谷家の行く末に関わったのかもしれない。(東京府士族の壁谷の稿を参照)


今後整理すべき課題

1)勝小吉は勝海舟の父である。自ら夢酔と号すると、天保14年まさに水野忠邦が老中首座を退いた年に『夢酔独言』を書き残した。最初は「おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有るまいと思ふ。故に孫やひこ(ひまご)のために、はなしてきかせる」で始まり、終章は「男たるもの決而(けっして)おれが真似お(を)ばしなゐがいゝ、孫やひこが出来たらば、よく〱(よくよく)この書物をみせて身のいましめにするがいゝ。」で終わる。一読を勧めたい痛快な書でもある。


出版された『夢酔独言』の解説によれば勝小吉は「当時の江戸で有数の剣客にして、不良旗本、放蕩児、いわゆるあばれもの。本所・下谷から浅草・吉原にかけての顔役、また同時に露天商人の親分で刀剣ブローカー、鑑定(めきき)屋、行(ぎょう)者、祈祷師などをも経歴した」実は勝麟太郎(のちの海舟)が七歳の時、十二代将軍家慶の初之丞(当時、西の丸様と呼ばれた)のお相手役として江戸城大奥に上がっていた。初之丞は次期将軍候補でもあったが、しかしその夭折によって小吉の夢もくだかれていた。その後、小吉の乱暴・狼藉が激しくなったともされる。


勝小吉が世に稀に見る豪傑で物事に動じなかったことや、実は剣客だったこと、金もうけがうまかったことなどは、のちの勝海舟にも受け継がれ、それは勝の江戸無血開城の逸話でも活かされたと語られる。勝小吉と水戸家・一橋家との関係や、江戸本所・深川で顔役として通っていたことは、同じく水戸家・一橋家と関係が深く同じく本所・深川を拠点としていた壁谷との関係がこの時代からあったと推測できよう。のちに明治政府の高官となった勝海舟だが、壁谷家の一族はこのあとも明治政府の官吏として地租改正や帝国憲法公布に貢献した福島県士族「壁谷可六」、明治中期に福島県の三春の地に隠居して俳句の宗匠となった「壁谷兆左」などが勝海舟と交流があった記録が残されており、別稿で触れている。


2)11代将軍家斉の祖父で、一橋の祖となる8代将軍吉宗の時代、勘定奉行をつとめたのが、「神谷志摩守久敬(もしくは文敬)」である。寛延2年(1749年)に63歳で没するまで、勘定奉行(勝手方)を務めており、その評価は高かった。彼の通称は「神谷武右衛門」であった。この武衛門家の家格も、それほど高くない。宝永三年(1708年)の武鑑によれば、「神谷武右衛門」は、350俵と、100俵だった竹垣家よりわずかに上程度の家格である。番方だった「神谷輿七郎」が2000石だったのと比べると、相当下級の武士であり、そもそも勘定奉行になれるような家格ではなかった。


しかし、八代将軍吉宗が、享保4年にそれまでは3000石以上の旗本でないと勘定奉行にはなれなかった仕組みを壊し、役職にある期間だけに限って石高分を加給するという新しい仕組みを導入した。これを「足高(たしだか)の制」という。実際には理想には届かなかったようで、複数の『武鑑』によれば「神谷武右衛門」は享保16年に「勘定吟味役」に出世し、500石取り、役料300俵と追加され牛込・四番町(現在の千代田区市谷付近)に屋敷を持った。そのあと「勘定奉行」になっても、500石のままであった。(足高の制に基づけば2000石のはずだったが、周囲の大身旗本の手前、事実上は辞退させられていた可能性がある。)京都町奉行の与力、神沢杜口(かんざわとこう)が残した「翁草(おきなぐさ)」にも次のようにある。


「翁草(おきなぐさ)」神沢杜口(かんざわとこう)寛政3年 (1791 年)から引用

御勘定所の勤こそ少しの働も際立て立身も足早なれ(中略)神谷志摩守、(中略。以下5人の勘定奉行の名前がならぶ)の類、各軽士・農民より出たり。其所以は古来当役は五、六千石の分限の面々へ仰付られし事なれども、中頃諸役御足高を被定し砌(みぎり)。

※神谷志摩守とは、勘定奉行だった神谷武右衛門久敬のこと。


本来は5000石、6000石の旗本がつく役だったのに、今は軽士・農民より出たような下級のものがついていると神谷志摩守らが皮肉られている。砌(みぎり)とはそういう「ご時世」と云う意味なのだが、その語源は「水切り」であり「末端」をも揶揄する。相当に扱き下ろされているともいえよう。この神沢杜口は随筆や俳諧も高名なひとかどの高潔な人物でもある。にも関わらずこういう評価をしていることからも、当時の身分意識・階級意識を打破するのは大変難しかったのだろう。


八代将軍吉宗以降は、とくに役方といわれる役人で能力主義が採用されるようになった。このため「壁谷直三郎」は三男が家を継いだ、もしくは婿養子だった可能性もある。その一方で、吉宗は出来が悪いともされた長男を九代将軍に指名した。吉宗も我が子がかわいかったのだろう。当時の幕臣は優秀で、それでもこなせた。結果的に優秀だった弟が一橋家を起こし、その家系がその後の代々の将軍家を継ぐことになる。


なおこの「神谷武右衛門(久敬)」が勘定奉行になったのは、一橋勘定「壁谷太郎兵衛」が記録に登場する50年ほど前のことだ。その次の世代ではさらに「壁谷直三郎」が登場する。3人とも同じく吉宗の家系に連なる一族に仕えた幕臣であり、同じく勘定を務めている。それぞれの家の関係が興味深い。


鎌倉・室町時代から神谷(かべや)と読む一族が関東・東北に存在していたことは既に示した。また、勘定奉行「神谷武衛門」は磐城平藩の「神谷(かべや)村」でおきた元文一揆の首謀者「神谷(かべや)村武佐衛門」(資料では「壁谷村武佐衛門」とするものがある。)の詮議を担当し厳罰に処し、磐城平藩の転封に際しても責任者となっている。また明治初期には、いわきの神谷(かべや)地区を、壁谷と記録するものが新政府に公式文書として送られている。明治初期の地租改正でこの地名を神谷(かべや)と決着させたのは福島県士族 壁谷可六であった。

※福島県いわき市には、江戸時代に常陸笠間藩のとび領地、神谷(かべや)陣屋があり、現在も神谷(かべや)の住所が存在する。


3)竹垣直道の養父が購入した屋敷のあった日本橋横山は、街道沿いで旅人向けの小間物問屋、紙煙草入問屋(旅人が腰にさげる)、地本双紙(洒落本・滑稽本など大衆誌)問屋などが軒を連ねてた。幕府の御用花火師の「鍵屋」もここに位置した。鍵屋の守護神も稲荷だが、おそらく天神と同じように雷との関係から来ていると思われる。花火はその光や音から確かに雷と似ている。


中国古来の文化では、花火は祖先の弔いにも使われたており古代道教由来と思われる。現在でも中国南部や九州・沖縄の一部ではお盆の行事に、壮大な花火を打ち上げる習慣が残っている。織田信長の伝記である『信長公記』には石山本願寺焼き討ちの翌年、天正九年(1581年)正月15日に「御爆竹の事」の記事があり騎馬上の武士が爆竹を付けて駆け抜けた。見物人が群れをなしたとある。おそらく日本初の花火大会ではないだろうか。また有名な隅田川花火大会が始まったのは、八代将軍吉宗のころの享保18年(1733年)の「両国川開き」の初日に花火が打ちあげられたことによる。その目的は、前年の「享保の大飢饉」や疫病による多数の死者の供養と、厄除けを祈願したものであった。


鍵屋が番頭にのれん分けしたのは、玉屋となった。江戸では「鍵屋」「玉屋」といわれたが、玉屋は火事を起こし家名は途絶え、現在は鍵屋だけが残っている。伏見稲荷では「狐」は稲穂、鍵、玉、巻物を咥えている。稲穂は穎(かび)」であり五穀豊穣の象徴であり、玉は願を叶える「宝珠」であろう。巻物は「知恵」の象徴であるり文殊菩薩と関わり、いずれも神仏習合から想像がつく。しかし「鍵」はよくわからない。古代の大蔵、のちの米蔵(こめぐら)の鍵だともいわれ、そこから縁結のご利益にもつながったとされる(この理屈はよくわからない)が、稲穂の「穎(かび)」と「鍵」の発音が似ていることも少し気になる。


4)原文を見ていないのだが、慶応大学の古文書のデジタル文献資料では、1808年に「壁 太郎兵衛」という記述が複数ある。筆者はこれを写し間違いと判断して「壁(谷)」と追記した。もちろん写し間違いかどうかは不明だ。これを遡る1801年(もしくは1802年)に「壁谷太郎兵衛」とされていた記録が、現在の埼玉県越谷(こしがや)に残る。もしかしたらこの時期は「壁谷」「壁」という名字が両方使われていたか、あるいは「壁」氏もいて混乱したのかもしれない。実際に飛鳥・奈良時代に関東で「壁」という名字があった形跡があり、現在も埼玉・群馬などには「壁」の名字が少数だが存在する。この点は機会があれば別稿で触れたい。


5)徳川家の本流ともいえる一橋家家臣に壁谷家がいて、将軍家に近い立場にあったことは興味深い。室町時代に武家が関東から京に幕府を移し、三河は足利氏の拠点になった。この流れで関東から三河・尾張方面に進出した壁谷が、家康時代に家臣となり再び三河から関東に戻ってきた可能性があるのかもしれない。ほかにも『寛政重修諸家譜』などから6代将軍家宣の時代に多数の家臣が甲府から江戸に移ってきたことが確認できる。この際に壁谷も同行して来た、あるいは幕臣に登用されたという可能性もありそうだ。


家康の次男だった結城秀康が越前、越後、六男だった松平忠輝が信州に領をもらい室町時代の旧家の家臣を多数雇い入れていた。しかし、多くが改易、減封となり、江戸中期までに幕府直轄の天領となり、武士らは再び主を失っている。実は室町時代の現在の越前(新潟)、長野(信州)、群馬(上野)、山梨(甲州)、静岡(東三河)あたりを支配した長尾(上杉)、武田、真田の家臣団に壁谷がいた可能性がある。それらの各地に現在も壁谷の地名があり、壁谷の旧家も存在している。また源姓の武田氏、佐竹氏の発生地である常陸(茨木県・福島県南部)の旧家だった可能性や、8代将軍吉宗の時に同行してきた家臣である可能性もありそうだ。これらについては、別稿で触れる予定だ。

※松平忠輝は、奥州須賀川も領している。ここも壁谷の旧家が居住する地域だ。


竹垣直道の祖父、竹垣庄蔵直照は越後頚城(くびき)郡8万9千石、信州水内(みのぐち)郡1万5千石を支配し、明和8年(1771年)には信州中之条陣屋(代官所)の再興を勘定奉行に求め認められている。その後の中之条代官には、文化文政年間に勝海舟の叔父「男谷彦四郎」が務めているが、勝家は前出の越前藩旧臣だった。中之条の地名は、信州の他に上野(こうずけ:現在の群馬県)にもあり壁谷の地名が残る。


6)『干城録』には幕臣2700名あまりの列伝が記されている。ここに壁谷家の何らかの記述がある可能性は十分に高い。筆文字で書かれてた236冊の大鑑のようで、現在国立公公文書館にて閲覧可能なようだ。筆文字を十分に読みこなせる力が必要だが、近い将来是非読み込みに挑戦してみたい。



参考文献

  • 『代官竹垣直道日記』東京大学史料編纂所所蔵
  • 『江戸幕府代官竹垣直道日記』 寺田登 新人物往来社 昭和63年(1988年)
  • 『大坂代官竹垣直道日記』 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター 2007-2010
  • 『地域政策研究』西沢淳男 高崎経済大学地域政策学会第15 巻第4号 2013年3月
  • 『近世中期大坂代官の幕領支配』小倉 宗 大阪商業大学商業史博物館紀要5 2004年7月
  • 『旗本子女の婚姻について』西沢淳男「地域政策研究」第19巻第4号(高崎経済大学地域政策学会)(2017年3月)
  • 『摂津和泉播磨備中関東越後国御領知御高帳』明治3年一橋徳川家文書茨木県立歴史館所蔵
  • 『覚(川々国役金請取)』(武蔵国 埼玉郡 江面村 宮内家)慶応義塾大学所蔵古文書
  • 『広報こしがや』市史編纂だより77/78 昭和46年10月1/15日号 埼玉県越谷市役所
  • 『西方村旧記』四「明和二酉ゟ旧記事」越谷市ホームページ公開資料
  • 『翁草』神沢杜口 寛政3年 (1791)改定版(明38-39)五車楼書店(国立国会図書館)
  • 『世事見聞録』文化13年(1816)武陽隠士著 本庄栄次郎校訂・楢本辰也補訂 岩波文庫1994
  • 『宮内家古文書』慶応義塾大学所蔵 
  • 『一橋徳川家文書目録』茨木県立歴史館
  • 『徳川慶喜公伝』3  渋沢栄一  東洋文庫98 平凡社 昭和42年(1967)
  • 『昔夢会筆記』徳川慶喜公回想談 渋沢栄一  東洋文庫76 平凡社 昭和41年(1966)
  • 『雨夜譚』渋沢栄一自伝 長幸男校注 岩波文庫 1984
  • 『明治前期財政経済史料集成』
  • 『夢酔独言』勝小吉 天保14年 勝部真長編 2015 講談社学術文庫


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。