15. 穎谷と神谷の接点を探る(その1)
穎谷(かびや)は神谷(かひや/かべや)といつの間にか名を変えていた。その時期は南北朝時代の真っただ中の約100年間に絞られてくる。この間にいったい何があったのか。
『太平記』『源平盛衰記』『源平闘諍録』には神仏に関わる伝奇的内容が多く書かれている。こういった当時の資料をそのまま信じ、あるいはそれを利用しようとした当時の人たちの心情を斟酌しながら、最近の著しい研究成果を加えることで、穎谷が神谷に変わった理由を考察する。
南朝と神仏
延元2年(1337年)、後醍醐天皇が吉野入りすると南北朝の時代が始まった。それから足利幕府の足並みは、なぜか大いに乱れた。幕府を二分して争った観応の擾乱(じょうらん)のさなか、幕府の実力者だった高師直、そして尊氏を支えた弟直義が相次いで急死。(1351年/1352年)これを皮切りに、2代将軍義詮そして関東を治めていた鎌倉公方基氏が相次いで急死。(1367年)栄華の頂点を極めていたはずの3代将軍義満までもが、あっけなく急死した。(1408年)、その後も嘉吉元年(1441年)、6代将軍義教が家臣に暗殺され(嘉吉の乱)、さらに2年後には7代将軍義勝が10歳で夭折・・・。ここまでわずか数十年。あっというまに幕府は内部から音を立てて瓦解していった。
当時の主要な武将も『太平記』を実際に読んだことが記録が残されている。しかし、そこには史実と捉えることはできない伝奇的な内容が含まれる。その記述に触れずに、決して時代の動きを語ることはできないだろう。なぜなら科学的知識のない当時、南朝を擁護する畏るべき神仏の力に、多くの人々が恐れおののいていたことは、疑う余地がないからだ。現在の研究では、『太平記』は南朝側によって書かれたとされている。『太平記』が書かれた目的は、実は情報戦を仕掛けるためだった可能性は十分にあるだろう。神谷氏に関わる記録が残る『源平闘諍録』も、やはり伝奇的な内容が書かれている。ここでも同じような背景があったことが推察できる。
話を戻そう。当時、朝廷が古来信奉してきた「神教」にとって代わっていたのは「密教」だった。平安初期の承和元年 (834年)弘法大使空海が天皇の息災を祈る「御修法(みしほ)」を行って以来、恒例の宮中行事となった。仁寿元年(851年)には逆臣調伏・国家鎮護の「大元帥法(だいげんほう)」の祈祷を宮中で毎年実施することが決まった。以後この「御修法」と「大元帥法」の2つは、朝廷で行われる最も重要な行事となった。こうして高僧が宮中で護摩(ごま:主に供物と木)を焚き、ひたすら念仏を唱え極秘の祈祷を行うことが宮中の常態と化した。
鎌倉時代初頭、順徳天皇が著した『禁秘抄(きんぴしょう)』によれば、宮中の儀式は密教の僧によって行われるようになっており、旧来の伝統的な神祇官(かんつかさ)による儀式は、伊勢神宮の行事へと移されてしまっていた。中国の大軍が攻めてきた「元寇(げんこう)」(文永・弘安の役)の際には、亀山法皇(当時は上皇)が西大寺の長老(代表者のこと)「叡尊(えいそん)」に、先に記した「大元帥法」を行わせたとされる。『増鏡』などによれば、このとき世に言う「神風」が吹き、元の数十万の兵を乗せた大船団は玄界灘で海の藻屑(もくず)と消え去ったと伝わる。人知をはるかに超える密教のすさまじい威力は、貴族だけでなく武家から一般の人々まで幅広く世に知れ渡り畏敬された。
「後醍醐天皇」(以後「後醍醐」とする。)は史上誰よりも密教を駆使した天皇として名高い。教科書にも載る有名な後醍醐の肖像画(重要文化財)をよく見てほしい。手に不思議なものを持っている。左手に持つのは「五鈷杵(ごこしょ)」、右手には祈祷で打ち鳴らす「五鈷鈴(ごこれい)」、これらはともに代表的な密教の法具(ほうぐ)だ。足元には青い蓮の華が敷かれ、着ているものは空海が唐から持ち帰った法衣だと伝わっている。
後醍醐の肖像画で、もうひとつ特徴的なものは頭上の日(太陽)だ。古来天皇と共に書かれる太陽(もしくは月)は黄金色で書かれることが多いしかし,御醍醐の肖像画では、頭上に真っ赤に煮えたぎる日(もしかすると月か)が目に入ることだ。これは、あたかも愛染明王の「憤怒」(正しくは「忿怒」)を現しているかのようだ。対照的に穏やに見えるその表情は、中国古典『孫子』の九地篇にある「将の構え」あるいは『司馬法』にある「詭計(計略のこと)の構え」を秘めているのだろうか。どちらにせよ、このような異形の肖像画を残した天皇は他にはいない。
※愛染明王は蓮の花の上に獅子の冠を被り、背後には真っ赤な日輪が描かれることが多い。後述するが、愛染妙は今回の主題となるダキニ天と同一ともされている。なお御醍醐が所持していたとされる愛染明王像は現在にも残されている。
後醍醐は中宮(妻)の懐妊と偽って、実は鎌倉幕府調伏(ちょうふく)の祈祷を行っていたとされている。若干長くなるが以下『太平記』から引用する。
『太平記』巻一より引用
元亨二年(1322年)の春の比(ころ)より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺諸山の貴僧高僧に仰て様々の大法秘法を行はせらる。中にも法勝寺の「円観(えんかん)」上人、小野「文観(もんかん)」僧正二人は、別勅(天皇の特命)を承て、金闕(きんけつ:宮中のこと)に壇を構え、玉体(ぎょくたい:天皇のこと)に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。(中略)仏眼、金輪、五壇の法、一宿五反孔雀経、七仏薬師熾盛光、烏蒭沙摩、変成男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字訶臨、訶利帝母、八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩(ごま)煙は内苑(宮殿)に満ち、振鈴の声は掖殿(後宮)に響(ひびき)て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍(しょうがい)を難成とぞ見へたりける。(中略)後に子細を尋れば、関東(鎌倉幕府)調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様(かよう)に秘法を修せられけると也。
※「」と()は筆者が追加した。「円観」と「文観」の二人の僧正については後に詳しく触れる。
引用文には意味不明な密教の祈祷の名が並ぶ。『密教の本』などによれば「七仏薬師熾盛光(しつぶつやくし-じしょうこう)」は安産祈願で古来有名な「法」だという。「訶利帝母(かりていも:鬼子母神)」も同じく安産の神ではあるが、他人の子を奪って食らうことで目的を達するという、恐怖の法だ。「変性男子(へんじょうなんし)の法」は、本来は成仏できないとされていた女性を来世で男にすることで成仏させる変法である。このように中宮の贖罪を願うのは何故なのか、さらにこれ以降に登場する法の名称は、どれをとっても中宮懐妊とはかけ離れている。
- 「仏眼(仏母)法」下記の金論法が危険すぎるため最初に行う、敬愛の法。
- 「(一字)金輪法」最強の秘法。敵の一切の法を無効にし、折伏させる。
- 「五壇の法」周囲に不動明王など5体の明王を安置、国家安穏を祈願する。
- 「烏蒭沙摩(うすさま)法」烈火で世のあらゆる煩悩や不浄を焼き尽くす。
- 「一宿五反孔雀経の法」自在に空を飛び、毒蛇害虫を食らい尽くし摩障を排除する。
- 「五大虚空蔵(こくうぞう)法」知恵を得て、謀反・逆賊・障害を思いのまま排除する。
- 「六観音法」地獄から天道まで六道(りくどう)全ての煩悩や苦難を奪去る。
- 「六字訶臨(かりん)」呪詛してきた相手にその呪いをはね返す、呪詛返し。
- 「普賢(ふげん)延命法」毒獣、悪鬼、怨敵を退けて滅罪し、自らを延命する。
- 「八字文殊法」文殊菩薩の最強の法。我が身を隠して天変地異や妖変で敵を排除。
- 「金剛童子(蔵王権現)法」我が身を守り、魔障を降伏し願いを叶える。
(学研『密教の本』『修験道の本』『真言密教の本』『天台密教の本』その他の情報を主とした。なお「台密」は天台密教、「東密」は真言密教の略である。)
後醍醐の各地の行跡には、上記の法に関わる明王・仏像・菩薩・権現の名が次々と残されていたと記録され、実際に一部は現存している。たとえば後醍醐が蜂起した京都笠置山の断崖絶壁には彫られた「虚空蔵」が残り、足利氏の武将「高師直(こうのもろなお)」に攻められ焼き討ちされた際に焼け残ったと伝わる秘仏「蔵王権現」は金峯山寺に今も現存する。また流刑地となった隠岐には、後醍醐が常に身につけていたとされる「愛染明王(あいぜんみょうおう)像」が残されている。
※金峯山寺は古来の神道、密教、道教などが習合した山岳修験道の霊地である。呪術を使った超人的な験力が語られる役小角(えんの-おづぬ)が開祖と伝わる。
安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行ったという『太平記』の話は、現在の研究では多くの専門家によって否定されている。しかし当時、南北朝関係者の多くがこの『太平記』を実際に(同時進行の物語のように)読んでいた記録が残る。当時の朝廷や武将らは、その記述をまともに受けとったことが推測される。あるものは恐れ慄いて萎縮したろうし、あるものは密教の祈祷を利用して反撃しようとも考えただろう。史学という学問上の話しは別として、当時の人々はこれを信じて行動することで、自らを守り、あるいは敵を撃ったはずだ。『太平記』は期せずして歴史を作ったともいえる。『太平記』の作者は南朝側ともいわれ、戦略的な心理工作のためわざわざ広めた可能性すら否定できない。『太平記』は江戸時代からつい最近まで、南北朝当時を語る数少ない資料のひとつであり、史実としても信じられてきた。このため、本稿では『太平記』の記述をベースに、最近の研究でようやく解明されつつある史実と合わせて論じることにする。
史上まれにみる強運の 後醍醐
鎌倉時代の末期には、朝廷は大覚寺統(亀山天皇の系統、後の「南朝」)と持明統(後深草天皇の系統、後の「北朝」)に分かれて対立し、当時の鎌倉幕府は、10年交代で両統迭立(りょうとう-てつりつ)とし、二つの皇統の争いを利用して朝廷の力を抑え込んでいた。
しかし後醍醐の運の良さは群を抜いていた。後醍醐がいた大覚寺統から天皇がでる機会は、幕府が認めた20年に一度しか巡ってこない。その大覚寺統からは、すでに後醍醐の父が「後宇田上皇」に、次いで兄の「後二条上皇」がすでに天皇についており、その子「邦良親王」が正当な跡継ぎとされていた。後醍醐はすでに大覚寺統の本流から外れていた。
さらにすでに30歳を超えており、この年で天皇になった例は250年間に渡ってなかった。その後も後醍醐が天皇の位につく可能性は、ほぼ完全になかったはずだ。このため公家内にも味方が多いとは言えなかった。後醍醐が、後に悪党(地域の有力者)とされる名和氏や楠(楠木)正成、修験僧そして密教の怪僧など、異色と思える取り巻きを得て、不屈の天皇へ変貌を遂げる背景は、ここにもあったといえよう。
大覚寺統に20年に一度の皇統交代のタイミングが来たのは1318年だった。しかし、このとき予想に反して天皇になったのは後醍醐だった。30歳を過ぎて即位した天皇は250年ぶりの珍事。こんな事態となったのは本来は天皇になるはずだった「邦良親王」がまだ8歳で病弱だったからとされる。しかし、父の後宇多法皇、兄の後二条上皇が治天の君(院政)として実権を握っており、8歳の幼帝でも全く問題はなかった。過去には2歳で即位した六条天皇や、3歳で即位した安徳天皇の例すらある。
※当時は数え年である。実際には六条天皇はなんと生後7か月、安徳天皇も生後1年3か月弱で天皇位についていた。
現在の研究によれば、後醍醐が天皇になった理由はは、大覚寺統内部の皇位争いを避けるため、後醍醐が一旦即位したあと譲位するという約束があったと推測されている。実際に数年後、後醍醐は鎌倉幕府や父である後宇田法皇から皇太子とされた甥の「邦良親王」への譲位を強要されている。しかし後醍醐は3年間にわたり、この譲位を拒否し続けた。
そんな中、元亨元年(1321年)、後醍醐の父らの院政が突然停止された。「治天の君」の院政が停止された例は他に記録はない。なぜ治天の君の院政が突然停止されることになったのか、その理由は現在もわかっていない。間もなく後醍醐が幕府調伏の祈祷をしていたことが密告で発覚している。もしかしたら、後醍醐は「幕府調伏」だけでなく、「院政停止」の祈祷もしていたことが、この密告で明らかにされ、それを法皇側が恐れたのだろうか・・・。
密告を受けた鎌倉幕府は後醍醐の有力な臣下を多数処刑、後醍醐もその責を逃れることはできず、後二条天皇の子で、皇太子だった「邦良親王」に譲位することを約して決着した。これは「正中の変」と呼ばれる。しかし再び予想外の事態が起きる。譲位することに決まっていた、まさにその皇太子が、急死してしまったのだ。代わって皇太子の子を3歳で立太子する手続きに入ることになった。
そんな混乱が続いた時期、今度は鎌倉幕府側でも北条得宗家(本家)の内紛(「嘉暦の騒動」 )が勃発し、鎌倉幕府は一時執権不在の状態となった。朝廷、幕府の双方でゴタゴタが長引く中、約束だった新たな立太子と譲位も実現しないままズルズルと時間が経過、幕府と朝廷の約束は守られなかった。既定路線だった持明院統への皇統返還(1328年)までもが反故にされ、後醍醐天皇はそのまま皇位に居座り続ける事態となった。
※嘉暦の騒動は、鎌倉幕府の執権家である北条得宗家の家督争いに端を発した内部抗争。この争いが完全に収まらないまま鎌倉幕府は滅亡を迎える。のちに後醍醐の「幕府調伏」の効果は絶大だったと見なされたろう。
元弘元年(1331年)再び後醍醐による二度目の幕府調伏の祈祷が発覚する。やはり側近の密告だった。後醍醐は急遽修験道(しゅげんどう)で有名な笠置山(京都府相楽郡笠置町)に挙兵するが、捕らえられて「隠岐」に島流しとなった。(「元弘の変」)ここに至って後醍醐は強制的に廃位され、持明院統から新たに「光厳(こうごん)天皇」が即位した。天皇の地位を奪われたはずの後醍醐は、生涯厳しく離島で監禁されることになった。
天皇には死刑はなく、流刑(るけい)が最高刑だ。鎌倉時代の承久の乱で破れた後鳥羽上皇も同じく隠岐に流され抜け出すことはできずにその地で19年を過ごし、最後には怨霊と化したと伝わる。今度こそ絶体絶命となった後醍醐だったが、やはり彼は違った。遠島に処され、そこから抜け出せた天皇は後にも先にも後醍醐以外にはいない。
後醍醐は漁船の舟底に潜んで荒れた日本海を渡り切って、幕府の追跡も逃れた。伯耆(ほうき:現在の鳥取県)国に流れ着くと、修験道の聖地とされる「船上山」(現在の鳥取県琴浦市)に立て籠り、幕府追討の「綸旨(りんじ)」を全国に発し、自ら幕府府調伏の祈祷を再開した。攻め込んた鎌倉幕府軍は、船上山の断崖絶壁を這い上って攻めこんだが、真夜中になって突如吹き荒れた暴風雨によって、数百人が崖下にて落命したという。(船上山の戦い)後醍醐の祈祷の威力はここでも真価を発揮したと語られることになる。
慌てた鎌倉幕府側は、鎌倉にいた足利尊氏(当時は高氏)に大将として白羽の矢を立てた。それは足利氏の祖先が「承久の乱」で後鳥羽上皇軍を打ち破った嘉例(吉例)かあったからだ。尊氏は奥羽・関東の武士を中心とした「鎌倉幕府軍」を引き連れて、山陽道を通って船上山へ向かった。しかし尊氏は、篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう:京都府亀岡市)で戦勝祈願すると、目前にあった鎌倉幕府の政治拠点「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を不意打し、滅ぼしてしまった。こうして歴史は大きな転換点を迎えたことになる。
※篠村八幡は、足利尊氏の祖先であり、前九年の役を征した鎮守府将軍「源頼義(みなもとのよりよし)」が勧請して創建したとされる。境内には『太平記』にも記されている「矢塚」や「旗立楊(はたたてやなぎ)」が残されている。
尊氏の活躍で後醍醐は京に迎えられることになった。後醍醐は光厳天皇や皇太子を廃位し、自らの廃位も否定した。父の遺言や幕府との合意も無視し、皇位に復帰すると、自らの皇子を皇太子に立てた。1333年、新田義貞が鎌倉に攻め込むと、北条一族は集団で自決し、鎌倉幕府はあっけなく滅んだ。
翌1334年、「建武の新政(中興)」が始まった。護良(もりよし/もりなが)親王を「征夷大将軍」とし、尊氏はそれを補佐する「鎮守府将軍」とされ京を守った。東北地方を治める「陸奥将軍府」には「義良親王(のちの後村上天皇)」と「北畠顕家(きたばたけあきいえ)」が、関東を治める「鎌倉将軍府」には「成良親王」と「足利直義(ただよし)」(尊氏の弟)が使命され任地に向かった。
しかし新政の評判はいまひとつ芳しくなかった。一方で北条氏の遺児らが蜂起し、足利直義が敗れて鎌倉将軍府が奪われる事態となった。直義は承久の片以来の先祖代々の土地、三河に逃れることになった。このとき後醍醐天皇の制止を振り切って、鎌倉を鎮圧するため京から出陣したのは、直義の兄、足利尊氏だった。西から攻めた尊氏は三河で直義と合流すると勢いを増し、東北から攻め下る関東や奥州の武士団と北条氏残党を挟み撃ちし、一気に鎌倉を奪還した。(中先代の乱)。
実は足利氏には「七代後に天下を取る」という八幡太郎義家が残した「置文(おきふみ)」が残っていたとされる。その足利家七代の当主は自らの不甲斐なさを詫びて切腹し、三代後に託したとれる。その三代目が、尊氏だった。この置文の存在は確認できないが『難太平記』(今川了俊の作)には、今川了俊や足利直義がこの置文を実際に見たと記録されている。
尊氏は源義家の前例に倣って関東・奥州の武士に自ら恩賞を与え、大軍を引き連れて再び京に攻め上がった。しかし尊氏軍は長い遠征による兵の疲れもあり、また大義名分がすらないため敗れることとなる。こうして一旦は九州まで敗走を余儀なくされた。しかし廃された持明院統の光厳上皇から「院宣」という大義名分を得ることで、尊氏は息を吹き返した。再び攻めあがると有名な「湊川の戦い」(現在の兵庫県神戸市付近)で楠正成(くすのきまさしげ)を破り勝利。後醍醐は再び廃位されて幽閉、1336年後醍醐に廃された光厳上皇の弟にあたる「光明天皇」が新たに天皇に即位した。
後醍醐はここでも脱出に成功し吉野へ逃れた。こうして「南北朝時代」が始まることになる。天皇位のはく奪の危機だけでなく、戦いに敗れて遠島・幽閉とされるなど、何度も困難な状況に陥りながらも繰り返し不死鳥のように蘇ったのは、後醍醐だけだったかもしれない。当時の識者たちも、その奇特さを大いなる驚きをもって捉えていただろう。
荼枳尼(だきに)天法の法力
その3年後、1339年吉野金輪王寺で後醍醐はついに最後の時を迎える。朝敵である足利氏を倒し天下泰平の世を実現するという強い遺志を示し、その命に背くものは、天皇でもなく臣下としても認めないと言い放っている。「死して魂となって敵に挑み続ける。」そう言うと、剣と経文を両手に持ち、北(京都)の空を睨みつけ座ったまま崩御したという。
『太平記』より引用:後醍醐の最後の言葉
朝敵を悉(ことごとく)く亡(ほろぼ)して、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)思之故(ゆゑ)に、玉骨(天皇の骨)は縦令(たとい)南山(中国の聖地南山をこの吉野に例えた)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ:京の宮の門)の天を望まんと思ふ。若(も)し命(めい)を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ。
遺言にしたがって、後醍醐は北を向き座ったったまま葬られた。実は「天皇は南面す」と言われ天皇陵は南を向く。しかし現存する後醍醐の「北面の陵」は、その名の通り確かに北を向いている。歴代天皇陵唯一の事例であろう。(おそらく古墳時代の陵も、北面するものははないと推測する。)
※この寺の名「金輪王寺」は敵を折伏する台密(天台密教)の最高の秘法「一字金輪」に通じる。天海の助言を得た徳川家康は、後にこの寺から「金輪王寺」の名を剥奪している。
後醍醐が齢50にして「死して敵に挑む」と宣言したことには、大きな脅威だった。後醍醐が生涯祈祷し続けたとされるのは「荼枳尼(だきに)天」とされるからだ。「大日経疏(だいにちきょう しょ)」によれば、この荼枳尼天は人間の黄(おう:いわゆるキモであり、心臓のこと)を食らうことで、物事を意のままに操ることができる(如意という)恐ろしい密教の秘法を駆使するとされる。つまり後醍醐は自らの命をこの荼枳尼天に捧げ「荼枳尼天法」に託し、朝敵である足利幕府の調伏を祈ったことになる。
ここで『太平記』で登場する、2人の高僧を紹介しなくてはいけない。その1人目となるのは法勝寺の「円観」上人であり、天台密教の最高の使い手ともされた。彼は5人の天皇に戒律を授け(戒律を受けないと法皇となれない)たことから「五国大師」とも呼ばれていた。この円環は、のちに北朝側に帰順し、尊氏の弟である足利直義(ただよし)に『太平記』の三十余巻を読ませたとされる。そのことは室町初期の守護、今川了俊(いまがわりょうしゅん)が『難太平記』に書き残している。
もう一人の高僧とされる「文観(もんかん)」が、実は後醍醐が最も信頼した密教僧と言われる。後世に怪僧の名をほしいままにした彼は、もとはと言えば真言宗の一修行僧(律僧)に過ぎなかった。しかし「建武の新政」が始まると総本山東寺(教王護国寺)の長者・法務大僧正、醍醐寺座主など、真言宗のトップに一気に上り詰め、南北朝分裂後も南朝側についた。『太平記』の記述では、その「験力(修験道による力)無双」とされ、北朝についた円観の比ではないとされる。何より最強の秘法とされた「荼枳尼(だきに)天法」を使いこなし、後醍醐にもその秘術を直々に伝えたとされる。
※荼枳尼天法はあまりに強力で危険とされ、天台宗の開祖最澄でさえ、比叡山の相輪の下に封じ込めたと伝わっている。
隠岐には、流されてきた後醍醐天皇が持っていたとされる「愛染明王像」が今も残っている。密教に詳しい那須政隆によれば「愛染明王」は、この荼枳尼天と同一であるという。また、『受法要人集』では「この法もとより荼枳尼天の秘術なり、荼枳尼は文殊の化身なり」とされ、荼枳尼天の破壊力と、文殊菩薩の問題解決能力を備えた最強の秘法を文観が使ったとする。学研『密教の本』によれば、「荼枳尼が変じて文殊となり、文殊が変じて荼枳尼になる。(中略)常に荼枳尼天が傍らに仕えて命令を実行する」とある。すでに書いたが、後醍醐は死の直前、両手に剣と教典を持っていた。これは実は文殊菩薩の代表的な姿でもある。
※天台宗の宿曜道の解説書では「壁図」(風水でいう「壁宿」)の説明がある。そこでは、文殊菩薩、荼枳尼天との直接的な関係が語られている。
足利氏側の内紛
『太平記』を読まされた足利氏側は、密教の凄まじいまでの験力、妖力に恐れをなしただろう。その妖力に操られたと思い込んだお互いが、疑心暗鬼に陥っただろう。圧倒的な武力を誇った足利氏側だったが、長い内乱で重臣同士がお互い殺し合い、挙句の果てには将軍までもが暗殺されることになる。(嘉吉の変)
※『太平記』の正確な著者は不詳だ。おそらく複数が追記したとみられる。しかし南朝側の細かい事情が書かれており、少なくとも当初は南朝側によって書かれたとされる。写本が現存しておりその後の記事が追加されて全40巻となっている。無類なる戦乱の時代を書いているのに「太平記」という名称であるのは、後醍醐側が最後に太平を勝ち取るという「言霊(ことだま)」であろうという解釈もされている。
後醍醐が世を去った後になると、足利氏側は戦況で圧倒的に優勢に立った。それにも関わらず、1347年ごろから信じられないような迷走を始めてしまう。世に言う「観応の擾乱(かんおうのじょうらん)」だ。南朝側との戦いで大きな成果を上げていた足利氏代々の重臣(「執事」といわれる要職)の「高師直(こうの-もろなお)」一族と、将軍家の外戚だった上杉氏一族では、もともと燻(くすぶ)りがあった。これが足利尊氏と直義(ただよし)の兄弟、さらに尊氏の嫡子義詮(よしあきら:後の2代将軍)と庶子直冬(なおふゆ)兄弟の争いを巻きこみ、さらに家臣らも加わって、史上稀に見る内乱を招いていった。
1347年高師直が先手を打って攻め足利直義を包囲した。直義が引退(出家)して和解としたが、配流が条件だった直義の家臣らは騙されて暗殺された。(『太平記』では直義が高師直の暗殺を企てたことがこの事件の発端としている。)1350年には、直義も京を脱出、養子の直冬(尊氏の庶子だったが、子供のいない直義の養子となると尊氏の敵に回った)も中国・九州地方で地盤を固めた。これには地元の豪族や、敵だったはずの南朝方までもが合流し、九州に博多を中心に大きな勢力を構成した。(「敵の敵は味方」ということだ。これ以後中国・九州ではしばらく南朝側が優勢になる。)
脅威を感じた尊氏は西国方面に向け出陣した。しかし背後では直義側の勢力だった上杉氏が鎌倉を奪い、直義までも敵だったはずの南朝に帰順してしまう。九州、鎌倉、そして南朝と三方敵に囲まれた形になった尊氏は、打つ手がなくなり翌1351年一旦和議を結んだ。そこでは、味方の高師直一族を謀殺する約束を飲まされたとされている。こうして足利家代々を支えた実力者、高師直の一族は滅亡し、直義・直冬も復権した。
しかしこれでは収まらなかった。巻き返しを狙った尊氏・義詮父子は外部の謀反を征伐すると偽って、一旦京から外に出兵し、残っている直義を挟み撃ちする計画を立てた。これを察知した直義は先に勢力を確保していた鎌倉に逃げ去った。打つ手を失した尊氏は、なんと南朝側に「全面降伏」して南朝を味方に付けようとした。こうして北朝の崇光天皇は廃され、南北朝は、南北朝時代は終わって南朝に統一された・・・ことになる。(「正平の一統」)。こんな展開は、いったい誰が予想できただろうか。
翌1352年早々、鎌倉に向かった尊氏は直義側に攻撃をかけ勝利し、捕らえられた直義は幽閉されその後急死した。(『太平記』は高師直の一周忌の日に、尊氏が直義を毒殺したとしている。)しかし南朝軍は尊氏との和議を破っていた。尊氏の征夷大将軍を解任しただけでなく、背後から鎌倉の尊氏を襲った。同時に京都に残された北朝側の上皇・皇太子らも全員拉致され、京を守っていた嫡子の義詮も京を追われた。後村上天皇は「男山八幡」(京都府八幡市)へ移って仮の宮を置いた。戦力で劣る南朝側としてはこれが得策と判断し防御を固めたのだろう。
足利義詮(よしあきら:のちの二代将軍)は、細川氏、斯波氏など守護大名の助力を得て京に戻ったが、源氏の聖地とされる男山八幡を攻めあぐねた。約二か月かけて兵糧攻めにしたが、飢えに苦しむ南朝側は密かに脱出を図った。多くの公家らが逃げる途中で討死したが、衣を矢が貫いた後村上天皇は、奇跡的にカスリ傷ひとつなく逃げ切った。天上から御醍醐が護ったとでも言われようか。(八幡の戦い)
やっと京を奪い返した義詮は、北朝政権時の元関白と図って、苦し紛れに北朝の上皇の母を「治天(ちてん)の君」に強引に仕立て上げ、「後光厳(ごごうごん)天皇」を指名した形として即位させた。「三種の神器なし」の即位は神器が海に沈んだ壇ノ浦の合戦後の後鳥羽天皇の前例がある。しかし後光厳天皇の権威はあやふやなまままだった。(後に明治天皇はこの点を指摘している。)戦況は概して足利・北朝側が有利となり、南朝側の有力武将は次々と消えたが、足利直冬(尊氏の子で、直義の養子)や足利幕府の守護が南朝側と手を組んでは、その度に足利将軍側が京から追い出されるなど、相かわらずの混乱が続いた。
荼枳尼天と穎谷
荼枳尼天(だきにてん)は、元はインドの神で「裸身で虚空を駆け人肉を食べる魔女」とされる、日本の仏教では「稲作の神」とされ、稲荷と習合した。一般には白狐に乗る天女の姿で描かれ、剣と稲の束をもつ。「火焔宝珠(かえんほうじゅー(忿怒で意のままに願いを叶える珠)」と組み合わされることが多い。
もともと稲荷神は古代の渡来豪族だった秦氏の穀物・農業の神ともされ、「古事記」では、「宇迦之御魂(うかのみたま)」とされ、天照大御神の食事「御饌津(みけつ)」を司った。転じて「三狐(みけつ)」とされ後年「狐(きつね)」と習合することで、「稲荷」と「宇迦之御魂」と「荼枳尼天」の間で、習合してしまうことになる。実は現在の「お稲荷さん」は、豊川稲荷などの仏教系「荼枳尼天」と、神教系の伏見稲荷「宇迦之御魂」の2系統がある。(火焔宝珠は現在の荼枳尼天系のお稲荷さんでも、3つの火の玉としてと見掛けることができるが、現在の荼枳尼天は中世のものとは別系統とされる。)
荼枳尼天はもともと平安初期に密教で広がり、天皇家の行事にも食い込んでいた。天皇即位の極秘の行事とされる、即位灌頂(そくいかんじょう)でも荼枳尼天は唱えられた。『源平盛衰記』では平清盛が荼枳尼天の修法を行ったり、止めたとする記述も見られ、平家の隆盛も荼枳尼天の賜物とみなされたかもしれない。(荼枳尼天の修法は、あまりに強力で、危険すらあったと言われていたからだろう)
前出の『禁秘抄』によれば鎌倉時代以降は、古代天皇家の神事だった「祈念祭(としごいのまつり、きねんさい)」や「新嘗祭(しんじょうさい、にいなめさい)」などの「穎(かび)」が登場する五穀豊穣の儀式は、伊勢神宮および各地の皇大神社、神明神社に移っており、そこに稲荷が習合していた。現在の伊勢神宮(皇太神社、神明社)の神事でも、稲荷は「宇迦之御魂」と同一ということになる。
一方で稲荷は密教では荼枳尼天や文殊菩薩と習合した。「穎谷」の「穎」は種籾であり、五穀豊穣の天皇神事に関わる名前である。荼枳尼天が稲荷と習合することによって、今まで皇祖神と関わって来たとおもわれる「穎谷」は、荼枳尼天(文殊菩薩)つまり密教の「文観」の支配に組み込まれると見えるかもしれない。極端に言えば、文観の秘法である荼枳尼天法を使えば、「穎谷」を自在にコントロールし得ることになる。
当時の神仏に対する畏れは、今とはくらべものにならなかっただろう。前稿では「神谷」氏が、京都将軍の御そばに24時間使えて警護している「御番衆」だったことを書いた。もし「神谷」氏が「穎谷」氏のままの名前であれば、その名の「穎」-(稲の種、稲穂)「谷」-再生・生産、これらの意味からして、文観の秘法に操られる恐れがあるのではないか・・・。そんな一族が、将軍の御そばで、将軍の刀を預かり、24時間将軍を警護していてよいだろうか。
元は後醍醐の関東調伏に協力し、南北朝分裂後は北朝・足利氏側についた天台宗の高僧「円観」は、直義に『太平記』を見せていたことを先に示した。「文観」の荼枳尼天法の怖さを、足利氏側は十分に認識していたはずだ。当然ながら荼枳尼の恐ろしさを知っていた、円観の知恵がここで生かされたかもしれない。荼枳尼天のコントロールから外れ、将軍を守るためには、「穎(かび)」を捨てる必要があると説いたかもしれない。「穎谷(かびや)」でなく「神谷(かびや)」であれば、発音も同じで伊勢神宮(皇太神社、神明社)の儀式の「宇迦之御魂」という「神」に仕える一族の立場を維持しながらも「荼枳尼」から逃れられる。「穎谷」が「神谷」に名をかえた瞬間が、ここにひとつ求められる可能性があるだろう。
実は、第4代将軍足利義持が、高僧の「慧奯(えかつ)」に依頼し、101代称光天皇の名を「躬仁(みひと)」から、同じ発音の「實仁(みひと)」に改めた例がある。(「實」は旧字、現在の「実」)これは、元の名前の「躬」には「身」に「弓」があり不吉だからという理由だったと記録されている。(『看聞日記』による。)。しかしこの改名には裏に強烈な南朝壊滅対策が仕組まれていたとする説がある。南朝の皇太子候補の名前が「實仁(みひと)」だったので、名前を被せてしまうことで、南朝の存在を消したとされる。このように、高僧などによって名前を変える例は、裏に密教の祈祷が込められていた可能性がある。
全国の皇太神宮で、毎年祈年祭が行われていた。現在の福島県いわき市の神谷地区に「皇太神宮」がある、いわき市の下神谷(しもかべや)にある稲荷神の祭神は 荼枳尼天ではなく「宇迦之御魂」だが、明治当初の神仏分離の影響があり、当時もそうだったかはわからない。
穎谷村と神谷村
岩城氏の一族が磐城国磐城郡穎谷邑(むら)に住したことで穎谷氏と称したとされる。また千葉氏や岩城氏の一族が、磐城国岩城郡神谷邑に居したことで、神谷氏と称したとされる。『寛政重修諸家譜』やその他の資料から、穎谷氏がその後神谷氏と称したと記録されている。穎谷氏の祖が穎谷三郎基秀、神谷氏の祖が神谷三郎基秀であり、その出身はともに磐城の穎谷郷(神谷郷)である。
これは磐城国磐城郡「穎谷邑」の名が、磐城国岩城郡「神谷邑」に変わったことを示唆しているのではないだろうか。これに伴い、穎谷氏の名は、神谷氏に代わったことが考えられる。何度か掲載してきた『姓氏家系大辞典』の穎谷氏と、神谷氏のところを再掲する。
※もっとも、穎谷氏、神谷氏の名字はその後も一定の期間、併用された可能性が高い。
『姓氏家系大辞典』から引用
穎谷 カヒヤ
「磐城國磐城郡穎谷邑」よりおこる。桓武平氏岩城氏の族にして、仁科岩城系図に「岩城二郎隆衡-平次郎隆守-左衛門二郎義衡-基秀(穎谷三郎)」とあるより出づ。三坂元弘三年十二月文書に「穎屋三郎(三位房子息)、同助房、同家人良姓房之四国彌四郎、道奥子四郎」等見え、其の後「穎谷大輔房」あり、延元二年正月、佐竹氏の命を奉じて、三筥、湯本の二城を攻む。(飯野文書、國魂文書、佐竹系図、岩城長福寺文書、闕城繹史)。建武四年正月十六日麻續盛清軍忠狀に「佐竹彦四郎入道大輔房」と。下って天文の頃、穎谷眞胤あり、神谷條参照
『姓氏家系大辞典』から引用
神谷 カミヤ カミタニ カメガイ カベヤ
1.桓武平氏磐城氏流、「磐城國磐城郡神谷邑」より起こりならん。「カベヤ」なりと。岩城義衡の子神谷三郎基秀の後にして、磐城系図に「平次郎隆守-左衛門二郎義衡-基秀(穎谷三郎)」とある、これなり。四十八館記に「神谷平六郎忠政」見ゆ。
2.桓武平氏千葉氏流「同上(※磐城國磐城郡という意味)神谷邑神谷館(妙見館)」は千葉氏の族斎の居所にして、千葉族の氏神妙見を城内に祀るが故に、妙見館と云うなりと。卽ち此の氏は、相馬、大須賀等の同族と共に、當地方に下向せしにて、白土邑を領せしにより、「白土氏とも呼ばる。」戦國の頃。「妙見館主白土入道運隆」あり、その後裔なりとぞ。されど前條磐城氏にも白土氏あり、白土、穎谷條参照。
地名が変わった例は、過去にもある。たとえば、桓武天皇の時代「白壁(しらかべ)」を「真壁(まかべ)」と変えさせられた例が『続日本紀』に記録されている。そこでは桓武天皇の父の名が、白壁王であったことから、白壁の名を使うことを禁じ、以後真壁とするようになったとされている。確かに平安時代の地名を記した『和名類聚抄』には「白壁」という地名は存在せず「真壁」は多数が確認でき、現在も各地に「真壁」という地名があり、真壁氏も多数存在し現在も多数残っている。
あくまで筆者の推測であるが、似たような事情で「頴谷」を以後「神谷」とする、としたことはなかっただろうか。もしあったとすれば、文勘の法力を封じるため、足利幕府側にあった北朝の天皇により、同様の詔(みことのり)あるいは太政官令が発せられたかもしれない。そのような場合、各地にあった穎谷の地名は、神谷に変えられただろう。そして神谷の地区にあった稲荷は「宇迦之御魂」を祭神とし、荼枳尼天は別けられて封じられたか、あまりの畏れ多さに自らの土地から外して近隣に荼枳尼天の稲荷を作って写したかもしれない。この関係で、神谷と名の付く地区は密教から離れて朝廷の神事を伝えて来た伊勢神宮や頼朝以来の熱田神宮の影響を強くうけたと思われ、神谷の地区が神社の荘園として寄進された可能性もある。
もしこのような事実があったとしても、全国が南北朝の混乱の中、確認できる記録が、残されている可能性は低いだろう。しかし全国各地に存在していた神谷の地名を残す地域にある稲荷の祭神を調べ、そして近隣に荼枳尼天を祀った稲荷がないかなどど神仏習合が進む前、あるいは明治維新の前などの記録遡って調査すれば、その可能性を追求することもできるかもしれない。
桓武天皇によって消されたはずの白壁の地名だが、現在も白壁の地名が確認できる。これらは白壁(当時の高級な土壁では、石灰を塗って白く仕上げ漆喰でかためた)の高級感から後年に発生したものであるという説がある。江戸時代に尾張藩の武家屋敷が集中し、白く塗られた壁が連なったことで、白壁といわれるようになったともされのは、名古屋市の白壁地区である。その周辺は現在も高級住宅街であり、そこに住む「マダム」たちは「シラカベーゼ」とも呼ばれているようだ。その名古屋の白壁地区の近くには、熱田神宮があることは、実はたいへん興味深い。
『姓氏家系大辞典』には3番目に、上野(現在の群馬県)にあった真壁を領した武士が、神谷となのった例がでている。最も歴史の古いとされる神谷氏は、「白壁」の地を領したことで「神谷」と名のった可能性がある。(藤姓もしくは源姓神谷氏)
『姓氏家系大辞典』から引用
3.秀郷流 藤原姓上野國の神谷邑より起こる。佐竹氏の族にして、時古三郎盛政の子
五郎太夫政綱・此の地にありて神谷氏を偁すとぞ。其の子「兵庫助政房(五郎左衛門)
ー彦左衛門盛秀(三州神谷)―千五郎政信―縫殿助秀盛(徳川家臣)」にして、また盛秀の弟を權左衛門剛政と云うと。『後上野志』に「勢多郡眞壁の壘は神谷参河守の璩る所」と見ゆ。
※壘は砦(とりで)をさしている。
このあと最強の荼枳尼天法が炸裂する
延元五年(1357年)10月に80歳で文観は去った。翌1358年足利将軍家に後継ぎが生れた。後に三代将軍となる足利義満(よしみつ)である。彼こそ、後世の秀吉や家康を遥かに超え、おそらく史上最も強い権力と栄華を誇った武士、そして将軍に違いないだろう。その名残は現在は、金色に輝く鹿苑寺金閣(再建)に僅かだが垣間見ることができる。
足利義満は、源氏の名門足利家の嫡流でありながら、母系では鎌倉時代の順徳天皇の五世の孫(祖母は通玄寺の尼聖通)であり、後円融天皇の従兄でもあった。(義光の実母紀良子は後円融天皇の実母、崇賢門院の姉)後小松天皇即位の際、秘密の儀式とされた「即位灌頂」に関白二条良元と共に同席し「摂政のごとし」とまでも言われている。もちろん天皇の「即位灌頂」に同席した武士は、後にも先にも他に例がない。天皇家以外で法皇とされた例も、義満と奈良時代の道鏡の例しかない。征夷大将軍と太政大臣を兼任したのも義満以外になく、また法皇と太政大臣という公家と宗教の最上位の地位に同時についた例も義満以外にない。
武士で初めて自ら築いた御殿に後円融天皇を迎えたのも義満だった。これが花の御所(室町殿)である。武家が天皇を招いた例は、後世になっても二例しかない。ひとつは秀吉が聚楽第に後陽成天皇を、もう一つは三代将軍家光が後水尾天皇を二条城に迎えた例だ。しかも義満は将軍職を子の義持に譲り北山殿に退いた後、再び後小松天皇の行幸を迎えている。なんと、二度も天皇を迎えたことになる。
しかしここから荼枳尼天法の魔力が炸裂し、義満は予期しえない悲劇の最期を遂げる。それからの足利将軍家は、世代を超えて致命的な打撃を受け、室町幕府の衰退と滅亡を招くことになる。(その2に続く)
今後整理すべき課題
1)後醍醐が理想とした「醍醐天皇」の父は菅原道真を重用した天皇でもある。しかし13歳で即位した醍醐天皇は藤原時平らの讒言を鵜呑みにし、父が重用した道真を守ることができず大宰府に左遷してしまった。その後、藤原の時平や醍醐天皇は災難が続く。皇居の大極殿に雷が落ち病状を悪化させて亡くなったとされている。このように醍醐天皇は道真を守ることができなかった。
醍醐の時代を理想とし自ら後醍醐と名のった以上、天神となった菅原道真に対しても、後醍醐や文勘が意識しなかったとは考えられない。後醍醐は、醍醐天皇が開いた醍醐寺に赴いている。また後醍醐天皇が隠岐に残した「愛染明王」は、天神信仰では「天満自在天(天神)」、つまり菅原道真と同体とされるものだ。後醍醐と文観は、天神も味方につけたのだろう。天神は和魂(にぎたま)では五穀豊穣をもたらすが、荒魂(あらたま)では破壊と火災を招く。そして名により「雷法」を駆使できる。したがって道真を味方にして天神を操ることができれば「穎」に雷を落とすことができる。これは五穀豊穣を招く雷ではあるが、雷が命中することになる穎谷には恐ろしいことになる。
文観の恐ろしさは、当時大いに世間に知れ渡り、その出自もあって周囲の僧からも疎まれ恨まれた。これが数々の誤解を生んだことが最近になって指摘されている。宗教学者の阿部泰郎によれば、当時世間に流付していた「文観」とは関係のない「邪法」の流れを駆逐し刷新しようとした真言宗一派が、怪僧とされた「文観」を槍玉にあげ、文観の書籍を閲覧もせずに批判したことを指摘している。当時の『宝鏡鈔』(1375 成立)には、文観が「書籍千余巻」「重々大事三十余」という厖大な聖教を著したと記録され当時に大量の文献が出回っていたようだ。最近になって破却されたとされる文観の著作はいくつか再発見され、研究の見直しがされている。
文観が残した『三尊合行秘次第』(1338年頃)によると、「如意宝珠(文殊菩薩か)」 を中心として左右に「不動明王」と「愛染明王」を配し、この三尊を本尊として祀るとあり、「文観」の本来の思想だった可能性がある。「文観」と呼ばれるのは上人(しょうにん)号であり、西大寺流律僧としては「殊音」上人と呼ばれる。(弘真が僧としての正式な呼称)「文観」「殊音」どちらを取っても、「文殊」と「観音」から、それぞれ一時とったものである。文観の元師匠でだった西大寺の叡尊が特に信仰したとされるのも「文殊菩薩」であり、「大元」は文殊に由来している。
文殊菩薩の、意のままに願を叶える玉「如意宝珠(にょいほうじゅ)」は、現在の荼枳尼天系の稲荷神社にも烈火の「火焔宝珠(かえんほうじゅ)」として見ることができる。文殊菩薩は特に室町時代以降武士に好まれた。それは、摩利支天(まりしてん)と同体ともいわれるからだ。摩利支天は、修験道で「自在の験力」を持つとされ、しかも「身を隠し、捕らえられず、傷付かない。」この力は武士や修験者を魅了し、摩利支天信仰が広がった。楠正成は兜の中に摩利支天の小像を隠し持っていたとされている。
神仏習合が続く限り、稲荷の寺は荼枳尼とは離れられない。荼枳尼天は、東三河(愛知)の豊川稲荷に祀られている。江戸時代になると、荼枳尼天は邪教とされなくなり、文殊菩薩と一体となり守り神になっていく。江戸時代になると多くの武士に支持され曹洞宗寺院では、荼枳尼天が祀られている例が多い。(豊川稲荷も曹洞宗寺院である)
呪力を持つとされる「九字(くじ)」があり、昔の時代劇などでは忍者や修験僧が、いざという時には決まってこの九字を呟きながら大げさなジェスチャー(身振り手ぶり)をしていた。これは「九字護身法(くじごしんほう)」とも言われる。 密教においては、「臨兵闘者皆陳立在前(りんぴょうとうしゃかいちんりつざいぜん)」の九字があり、「皆」の字に「稲荷大明神」と「愛染明王」、「前」の字は「摩利支天」と「文殊菩薩」があてはめられている。(学研『密教の本』 『修験道の本』による。)
2)福島県田村郡三春町にある「田村大元神社」は、社伝によれば延暦年間(782-805年)に坂上田村麻呂が東夷征伐の途中に磐城國岩瀬郡小山田村の今明王壇に国常立命(くにのとこたちのみこと)を奉ったのが起源とされる。室町時代の永正元年(1504年)に田村義顕が「大元帥明王」を三春城の三ノ丸下に遷し領内総鎮守とし、その後は三春藩の総社となった。大元帥(だいげん)明王は神仏混淆によるものであり、明治維新にともなって「大元師明王」は分離され「田村大元神社」に名を変えた。現在は別に管理されていた仁王像なども戻って再配置されており、大元明王さまとも呼ばれている。
3)南朝側についた神谷氏もいたようだ。この伝承が正しければ、南北朝の一連の戦乱に神谷氏も巻き込まれ、まっぷたつに分かれて戦っていたことは間違いないようだ。現在も存在する紀伊神谷の地は、後醍醐天皇が南朝を打ち立てた吉野に近い。
関西では神谷は「こうのたに」と発音されるのが通例だ。しかしこの紀州(現在の和歌山県)の神谷は、現在も「かみや」と発音される唯一の例外とされる。(『地名の謎』による)このことは関東の武士だった神谷氏が、この紀伊の地を領することになったことを意味するのではないか。同時に、紀伊神谷(きいかみや)の地名は、神谷氏の名が発祥である可能性を示唆している。
『姓氏家系大辞典』から引用
13. 紀伊の神谷氏 伊都郡に神谷の地名あり。 而して『續風土記』 西畑村舊家神谷楠右衞門條に 「其の祖を神谷土佐入道といふ。南朝に屬し、學文路村藥師山に居住して、相賀莊の地頭職たり。 地頭職補任の篇旨、延元二年・南帝より賜ふ。 寶暦三年(1753年)、右の綸旨を高野山興山寺に納む。義貞朝臣よりの感狀も家に傳えしに、焼失して、今其の寫(写)しを傳(伝)ふ」と。南朝の忠臣たりしなり。又山東庄の庄司を神谷莊司と云う。その裔に神谷左近太夫といふあり、平尾條参照。
※高野山興山寺は「文殊院」とも称した。現在は金剛峯寺に吸収されている。高野山の伽藍の周囲を囲む蓮の華に例えた「内八葉」のひとつが薬師山である。宝暦のころは
4)『姓氏家系大辞典』の穎谷の項では「天文の頃、穎谷眞胤あり、神谷條参照。」とされている。同時期には「神谷眞胤」も記録されており、「穎谷」が室町時代の後期でも一部使われていた(当時は同一として扱われていた)かもしれない。天文の頃とは、室町時代の後半にあたる1532年から1555年である。
5)別稿で示したが、愛知は「寶飯郡の旧家」「平家の末裔」とされた壁谷の日本最大の居住地であり、おそらく数千人が居住する。寶飯郡とは、現在の愛知県蒲郡市、豊橋市、豊川市近辺を指している。平家が荼枳尼天を崇敬したという記録もあり、平安時代の末期から、鎌倉室町にかけての壁谷と荼枳尼天の豊川稲荷(豊川市豊川)との関係を無視できないだろう。
参考文献
- 『禁秘抄(きんぴしょう)』
- 『太平記』
- 『梅松論』
- 『難太平記』
- 『三尊合行秘次第』文勘
- 『宝鏡鈔』
- 『看聞日記』
- 『姓氏家系大辞典』太田亮
- 『密教の本』学研
- 『修験道の本』学研
- 『真言密教の本』学研
- 『天台密教の本』学研
- 『地名の謎』
- 『南北朝』林家辰三郎 朝日新聞社 1991
- 『源平盛衰記』
- 『源平闘諍録』
『平家物語』
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