14. 鎌倉室町期の 穎谷・神谷と壁谷

平安時代に平氏の一族が「穎谷(かびや)」と名乗り後に「神谷(かべや/かひや)」と名を変えた記録を前稿で示した。はるか上代の音に留意して表記したとしている『古事記』の原文では「神」は「加微」、「上」は「加美」と記されその発音が区別されている。上古における「神谷」の発音はもしかしたら「かびや」だったのだろうか。「かべや」とどう関係があるのだろうか。そして、いつから穎谷が神谷に変わったのだろうか。


古文書にみる神谷

明治以降に古文書の復刻版として印刷され、市販されていたものでは「神谷」に振られたカナは「かみや」と読めるものがある。一方で公開されている古文書の筆文字を実際に見ると、縦書きで崩された筆文字では「み」の部分は「む」や「ひ」「ん」、場合によっては「へ」にも読め、筆者の力では到底判別できない。中には「かミや」と読めるものもある。(筆文字の「ミ」は「み」の変体仮名。)当時の文書には公開の目的は一切ない。必要なもの同士内部でのみ使用されていため、仮名を振る必要はなかっただろう。したがって、それを保存する過程で、あるいは写した過程において、いつの間にかカナが振られたと推定できる。

※後述するが神谷には古くから「かむや」「かんや」「かひや」の音があった。しかし「かみや」の発音は相当新しいもの(室町後期から場合によっては江戸時代以降か)と推測している。


実は古文書は多くが幾度もの「写し」を経て現存している。水戸藩が大日本史の作成で全国に残された古文書を大量に書写した。享保以降は幕府でも公式記録を文書を残すことが求められ、多くが高い教養と強い責任感をもった武士や研究者によって作成された。写しといえども高い信頼性を担保できたと思われる。


しかし江戸時代後半になるは、古文書を繰り返し写しては大衆に販売する豪商だちがこぞって現れた。庶民に大変な人気を博したため、十分な知識や留意なく修正加筆しては大量に販売した。こうして『武鑑』と呼ばれる江戸時代の最大のベストセラーが生まれている。信憑性を欠く古文書の写しがこうして庶民に大量に出回った。従って、それらの信憑性を評価しようとするなら、かなりの困難を伴うことになる。


別稿で触れるが室町末期に作られた『見聞諸家紋』について、現存する写本を約30種類に分類し、それぞれを専門家が検証している。結論から言えば、現存する全ての写本において、後世に意図的あるいは知識のなさ故の修正・加筆がされたとする。さらに全ての写本で、誤った仮名が降られていたことが明らかとなっている。つまり現存する写本に残されたカナは、ほとんど全く信用できないと思った方がよい。降られた仮名の信憑性はさて置くとして、残された古資料は極めて貴重な資料であることは間違いない。本稿では限られた古資料や参考文献を推敲しつつ穎谷、神谷、壁谷の関わりに何らかの傍証を得ることを目指す。


「神」の発音の変化の歴史

実は江戸時代まで「神谷」の発音は「かみや」でなかった可能性がたいへん高い。当時の発音は不明だが、すくねくとも平安時代には、何かほかのものを修飾する文字として「神」を使うときは「神(かむ)」と発音されている記録が多い。たとえば平安時代とされる『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』で登場する「神」は60以上あるが、ほとんどすべてにが「加無(かむ)」と万葉仮名が振られ、一部では「加牟(かむ)」とさもれる。そうでないものは「大神(於保無知:おほ-むち)」「上神(加無都美和:かむつ-みわ)」「神稲(久万之呂:くま-しろ)」である。それぞれ「むち」「みわ」「くま」と発音されており、特定の名称を指したものである。

※『和名類聚抄』は平安中期の高名な学者が編纂した辞書である。後世に平安時代の発音を知るための研究に使われており、鎌倉時代から江戸時代初期まで含め多数の写本があって一定の信頼性が担保されている。


『和名類聚抄』では伯耆、大和、三河など全国各地に「神戸」の地名があり、それらは「加無倍(かむべ)」と記録される。当時の人が居住する地は水資源が豊富で川の氾濫による洪水も避けることができた「谷」に限られていた。(かんとうでは「やち」「やつ」とよばれる)これらの地名のいくつかはのちに「神谷」となった可能性があろう。また「真壁」の地名が「神谷」になったという伝承も群馬・茨木など各地にある。この真壁の地名については、平安初期に桓武天皇が白壁(しらかべ)を真壁(まかべ)に強制的に変えさせた経緯がある。(『日本後紀』)つまり、この地の元の名前は白壁だったはずだ。現在の和風建築にも真壁(しんかべ)と呼ばれる白壁造りが残っている。

※いわゆる巫女(みこ)は古代は「巫」や「覡」と書いてともに「かむなき」(当初は濁点がなかった)と発音され「神凪(かむなき)」とも書いた。しかし現在は「神凪(かみなぎ)」と読まれる。「神懸かり(かむがかり)」も、現在は「神かかかり(かみがかり)」ということが多い。このように平安時代に「神(かむ)」だった発音は、その後「神(かん)」になったと考えられる。


第21代雄略天皇の子は現在は「神前皇女(かんさきのおうじょ)」と読まれているが、これも少なくとも奈良・平安時代は「かむさき」と読んだろう。近江にあった神崎郡は『日本書紀』天智天皇紀では「神前(かむさき)」と読まれ、『和名類聚抄』でも神崎郡は「加無佐木(かむさき)」あるいは「加牟佐木(かむさき)」と仮名が振られている。しかし明治以降、その地名は神崎(かんざき)郡となった。2005年の合併まで神崎(かんざき)町があったが、現在は兵庫県神河(かみかわ)町に至っている。


この「かむ」から「かん」への変化については、興味深い話がある。『日本語の歴史』では、平安中期の『伊勢物語』『大和物語』と、鎌倉時代の『徒然草』『平家物語』『十訓抄』の比較から、平安時代まで使われていた「なむ-連体形」の強調表現が、鎌倉時代に入って「なん-連体形」にと変わったとしている。「む」は平安時代の使用法でも「柔らかい口調に限って出現する強調表現」であり、「こういう強調表現は、強さやたくましさを求める武士の時代には、いささか不向き」で「やわらかさゆえに避けらえ、使われなかったと考えられる」と指摘している。


筆者も少し調べてみた。確かに、後白河法皇編纂とされる『梁塵秘抄』では「む」が「ん」に変化していることが確認できた。たとえば「見ゆらむ」が「見ゆらん」と書かれ、「来なかむ」が「来なかん」となっている。後白河法は今様(いまよう)といわれる当時の流行に即した歌に興じており、また平清盛や源頼朝とほぼ同時期の、平安時代末の激動の時代を生きていた。おそらくは、このような武家の急激な勃興のもと、平安時代末期に「かむ」は「かん」に変わったのではないだろうか。


現在の神戸(こうべ)は以前は「かうべ」と書いた。「かんべ」が「かうべ」となり近代になって「こうべ」と書かれるに至ったのだろう。この地は平安時代は大輪田泊(おおわだのとまり)としても有名だ。兵庫(つわものぐら)があったことから平清盛が兵庫津(ひょうごのつ)と改称、中世以降になって神戸の地名となったのは、付近に生田神社の「神戸(かんべ)」があったことが起源とされる。(『地名の謎』による。もちろん平安時代までの「かむべ」が平安末期に変化したものである。)兵庫県宍粟市の神戸(かんべ)小学校にその名が残っていたが、現在は廃校となっている。神戸といいう地名は千葉県から愛媛まで全国に十数か所散在していることが分かったが、筆者が確認した限りでは、今でもほぼ「神戸(かんべ)」と発音するようだ。例外は兵庫県の神戸(こうべ)、岐阜県の「神戸(こうど)」、そして鳥取県の「神戸(かんど)」の3つだけだった。それらも「かうべ」「かうど」が変化したと見れば納得がいく。


その後、神とは関係のなかった「かむ」「かん」「かな」などの発音も、「神(かん)」と書かれることになったようだ。『地名の謎』によれば、「神奈川」の地名は古くは「金川」と書いたとされ、「金(かな)」が後世に「神奈(かな)」になったとしている。「金流(かんる)」「金穴(かんな)」の地名は現在も各地として存在し、もとは川の流れを利用して砂鉄を採取する方法をさしていることから蹈鞴(たたら)製鉄に由来する。「かん」の音の「金」との類似性と神聖さから「神」の文字に変化したものと思わる。


群馬から埼玉に流れる川にも「神流(かんな)川」があり、現在の群馬県神流(かんな)町の由来ともなっている。島根県を南北に流れる大河、神戸(かんど)川は『出雲国風土記』には神門(かむど)川、神戸(かむど)水海が記されている。「神(かむ)」は後に「神(かん)」と変化し、江戸時代から明治以降に「神(かみ)」となっていた。

※中国古代道教では、竈神爺(そうしんや)という神がいて天神(北斗七星)に従っているとされ、家の中では火をたく場所に居るとされた。日本では竈神となって信仰されることになった。私見だが天神とは火の神つまり雷であり、「竈(かまど)」と発音するのは「神戸・神門(かむど)」から来ているのではないだろうか。


また江戸時代の『寛政重脩諸家譜』では「神尾」氏の由来が説明されている。それによれば、姓は加茂(賀茂:かも)氏で称光天皇の勅癇(おいかり)により駿河清見(現在の静岡市)に配流されたが、永享4年(1432年)に第六代将軍義教の富士山遊覧に招かれて神職に復帰。このとき「神尾」の氏を賜ったとする。その後今川氏に仕えたが今川氏が滅んで徳川家家臣となり、寛永(1624-1645年)のころ「故ありて氏(姓のこと)を藤原にあらたむといふ」と記録されている。家康の側室「阿茶の局」は、元は神尾氏の妻で天正のころ家康の側室となり、大坂の陣では家康とともに陣中にいたとされ、その後も大切にされた。神尾氏では享保の改革時の勘定奉行、神尾春央(かんをはるひで)が有名だ。


しかし現存する『寛政重脩諸家譜』の写本では「かんお」と仮名が降られ、古文書の写しに振られた仮名には「お」とするものが多い。しかしこれも、誤ってカナが振れていた例であろう。神尾は、その「尾」の意味からも、正しいフリカナは「かんを」古くは「かむを」だったろう。出身氏族「加茂(かも)」が「かむを」とも発音できることから、おそらく発音に対して漢字をあてたものと思われる。

※神尾の「尾」は山の峰(領、稜線)ないし山の麓を意味する名詞で、明治初期までの正しい発音と表記は「尾(を)」となる。言うなれば神尾は、神山であり、神谷と対をなす名称でもある。「かんお」とするのは江戸後期から明治にかけての新しい表記法である。


「神(かん)」と呼んだ名残は現在も多く残る。たとえば「神主(かんぬし)」「神無月(かんなつき)」、「神田(かんだ)」などだ。現在の地名にもスキー場や温泉で有名な新潟県の「神立(かんだつ)」がある。名字にも「神林(かんばやし)」、「神取(かんどり)」、「神呪(かんの)」、「神野(かんの/じんの)」、「神庭(かんば/かにわ)」、「神波(かんなみ/かんば)」、「神辺(かんべ/かんなべ)」、「神作(かんさく)」などがある。これらでは「神(かみ)」と発音する例はほぼ聞かないよう気がする。


別稿でも示したが、駿河で安政生まれの俳人で明治に衆議院議員となった「角田(かくた)真平」がいた。その名字の発音について、金園社の『俳諧人名辞典』では「カクタである。ツノダではない。」とわざわざ注記までされている。ここまで書いたのは、当時に誤読されて困った事態が発生していたことが考えられる。しかし驚いたことに『衆議院議員名鑑』で「つのだ」とカナが振られており、後世に残ってしまった。その実子ものちに同じく俳人で「角田(つのだ)竹涼」と記録されている。これでは、親子で名字の発音が変わったことになる。おそらく明治の初期に読みが変わったと思われるが、はっきりしない。周りに読みを間違われれて、めんどくさかったかもしれない。現在も静岡では角田(かくた)と音する例が多い。


神谷は古代には「神谷(かむや)」と発音され、平安末期以降に転じて「かんや」や「かひや」とされたと推測される。一方で『姓氏家系大辞典』などでは神谷はその正訓(正しい発音)は「かべや」とする記録もある。筆者には言語学上の知識は乏しいが、平安時代後期に関東で「かべや」と「かむや」が混同され、あるいは意図的に別表記されることがあって、長年に渡っての表記ゆれから、近世になって「神谷(かみや)」に転じた(仮名でこう表記するようになった)可能性を推測する。これらの事情が、長い時間と広い地域で、壁谷と神谷の名字や発音の混同を生んだことにつながっているのだろう。


穎(かび)

『万葉集』の権威中西進は『日本語の力』で、「やまとことば」はその「働き」により発音が決まり、それを「物」とみなした場合に初めて異なった漢字で表記されたとする。前文で古代の発音に留意したとかかれる『古事記』では、「夜知富許能加微(やちほこの神)など「神」の発音として「加微」が使われている。「微」の発音を論じた学説では上代仮名使いで「乙類のミ」とされ現在の「み」の発音とは違うともされる。その正誤はもとより学者ではない筆者が論ずるところではない。


『古事記』「神」が出てくる一例「大国主の求婚に応えた沼河比売の歌(神語)の冒頭」

八千矛の「神」の命や吾(あ)が大國主 汝こそは男(を)に坐せば 打ち廻る島の埼埼かき廻る 磯の埼落ちず 若草の妻持たせらめ吾はもよ 女にしあれば汝を除て男は無し汝を除て夫(つま)は無し(後略)

『古事記』で上記の部分に該当する古事記の原文

夜知富許能(やちほこの)「加微」能美許登夜阿賀淤富久邇奴斯(あがおほくにぬし)許曾波(なこそは)遠邇伊麻世婆(をにいませば)宇知微流(うちびる)斯麻能佐岐耶岐(しまのさきざき)加峽微流(かきびる)伊蘇能佐岐淤知受(いそのさきおちず)和加久佐能(わかくさの)都麻母多勢良米(つまもたせらめ)阿波母與(あはもよ)賣邇斯阿禮婆(めにしあれば)那遠岐引弖(なをきて)遠波那志(をはなし)那遠岐弖(なをきて)都麻波那斯(つまはなし) (後略)

※「」、およびかっこの中の発音は、筆者がつけた。


「神(加微)」は『古事記伝』で本居宣長が「自然の地形や鳥獣草木に神が宿るという日本独自のハ百萬神(やおろずのかみ)の思想である」と説明しており、「牙(かび)」「穎(かび)」に極めて近い概念をもつ。中西進の『日本語の力』の説明から筆者が類推するに、「神」の上代の発音は「かび」に極めて近かったのではないだろうか。それは現代の「かべ」にも「かみ」にも聞こえるものだったのかもしれない。


『古事記伝』本居宣長 から引用

加微
古御典(いにしえのみふみ)等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其与(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物。


一方で「上」は、古事記の原文で「上(加美)」と書かれている。その概念も神とは全く異なる。古代の発音には意味があったことを思い起こせば、「上」と「神」は発音が違った可能性が高い。



穎谷三郎と穎谷大輔

前稿で示した江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』(以後『諸家譜』と書く)では「穎谷(かびや/かひや)」氏は平安時代後半の岩城氏の支族とされ、のちに神谷と名を変えたとされていた。そのころは奥州合戦で千葉氏と岩城氏は協力して軍功を挙げ、頼朝からの奥州の土地を多く恩賞として与えられ奥州千葉氏も存在した。岩城氏は常陸(現在の茨城県)から磐城地区(現在の福島県)に侵入したともされ、平姓の一族である千葉氏と岩城氏の関係は極めて深い。後述するように磐城国の岩城氏流と千葉氏流の二系統の穎谷氏(神谷氏)がいたとされる。


鎌倉末期の元弘元年(1331年)になると、京都で「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」が幕府打倒に挙兵する。1221年の「承久の乱」で後鳥羽上皇軍を打ち破った足利義氏(よしうじ)の吉例にならい、その直系となる足利尊氏(たかうじ)に白羽の矢が立った。鎌倉にいた尊氏は実は乗り気ではなかったとされるが、鎌倉幕府軍の大将として関東の武士団を引き連れ、圧倒的な兵力で京に攻め上がると後醍醐天皇側は敗れて隠岐に流されている。(元弘の変)このとき岩城氏や千葉氏に従軍して「穎谷」氏も京都に進軍したことは後述の経緯からも間違いない。しかしその後、尊氏らは鎌倉幕府に反旗を翻した。そして元弘三年(1333年)5月鎌倉に攻め下った新田義貞によって幕府はあっけなく滅びる。


同年12月、後醍醐天皇から鎮守府将軍を拝命し京を守ることとなった足利尊氏に代わって関東を守ることになったのは尊氏の弟、足利直義(ただよし)だった。直義は成良親王(後醍醐天皇の皇子、のちに征夷大将軍)を奉じて再び鎌倉に下ると二階堂を拠点とした。この行軍に穎谷氏一族が同行したことは元弘三年(1333年)十二月文書に「穎谷三郎( 三位房子息)、 同助房、同家人良姓房之四国彌四郎、同奥子四郎」等の記述から確認できる。三郎は一般に三男をさすのだが、穎谷氏の祖と記録される平安末期の「穎谷三郎(平基秀)」の名をついで、代々通称名として使われたことが推測される。

※たとえば鎌倉初期の伊達宗村が伊達郡を与えられて以来、伊達家の当主は代々が伊達次郎を名乗った。これは宗村が次男だったことに由来する。歴史上有名な伊達政宗も、これにならって藤次郎と称した。足利氏の三男義氏を祖とする吉良家当主は代々三郎を名乗り忠臣蔵で有名な吉良上野介も、当主でありながら吉良三郎と称していた。また徳川家康の通称名は次郎三郎であり、岡崎を領した祖父の松平清康から代々受け継がれていたものだった。

※二階堂は、鎌倉幕府の最重臣で、室町幕府でも重臣を務めた二階堂氏の拠点と思われる。


建武二年(1335年)には北条家得宗(本家)の遺児だった北条時行が鎌倉幕府の再興を目指して蜂起し一時鎌倉を奪還した。尊氏軍は関東に攻め下ると関東・奥州の武士団を味方につけて転戦、これを攻め滅ぼしている。(「中先代の乱」建武四年とする説もある。)『足利尊氏合戦注文』にはその時、足利尊氏に提出された古文書の「写し」が残されており、尊氏連合軍が「辻堂・片瀬原の戦い」(神奈川県藤沢市)において勝利したことを報告する文書には「穎谷大輔(たいふ)房」の名が記されている。


穎谷大輔房の名は東京大学史料編纂所の『南北朝遺文』東北編273号や、水戸藩の残した『大日本史料』(第六編)にもある。同じく中先代の乱の別な場所の戦い「湯本館の合戦」「長間子の戦」(現在の福島県いわき市)などの戦勝報告書の中に掲載され、そこでは「佐竹彦四郎入道」の代理ともされる。


佐竹氏は甲斐武田氏と並んで、新羅三郎源義光を祖とする源姓義光流の名門で、関東・東北にかけて勢力を誇った。足利幕府の『応仁武鑑』では佐竹氏は足利氏の「関東八將」と記録され(いわゆる関東八屋形)後の豊臣政権でも「豊臣六将」(徳川、前田、島津、毛利、上杉、佐竹)の一角を占めていた。後に家康に従わず関ヶ原で西軍側についたにも拘らず、減封で済んでおり、当時どれだけ佐竹氏が恐れられたがもわかる。


その佐竹彦四郎の代理を務めたと記録されるのが「穎谷大輔房」だ。この「大輔(たいふ)」とは名ではなく官職名で次官を意味する「輔(すけ)」で、房とは出家していたことを意味する。大輔の官位は従五位もしくは正五位下に相当する。(『官職要解』による。)五位以上は殿上人とされ以前は畿内に住むことが強要されたが、平安後期以降は地方の武家の棟梁となるものも多かった。江戸時代の一般の大名の官位も、従四位下から従五位下であったことから、当時の穎谷大輔は相当な地位にあったといえよう。

※当時の足利尊氏も従五位下だった。「建武の親政」で特進して従四位下鎮守府将軍となっている。


この資料では穎谷大輔房と並んで、入道若党野邊九郎右衛門尉、駿河守若党新妻次郎左衛門尉の二名があるがどちらも佐竹氏の代理と併記されず、右衛門尉・左衛門尉と三等官(三番目の地位、官位は六位)であり穎谷大輔房よりワンランク下の官位でもある。『姓氏家系大辞典』では。『飯野文書』『國魂文書』『佐竹系図』『岩城長福寺文書』『闢城繹圖』を引いて「(穎谷大輔房は)佐竹氏の命を奉じて三筥、湯本の二城を攻む」とあり、これらの資料から穎谷大輔房が足利尊氏軍において信頼できる地位にあり、この地域における支配者もしくは大将に相当する立場を務めていた可能性が高い。


『南北朝遺文』東北編273「伊賀盛光代(伊賀)盛清軍忠状」

「伊賀式部三郎盛光」代 麻続兵衛太郎盛清、
於両所合戦抽軍忠子細事、
右、當年正月十五日、属石川松河四郎太郎手、

押寄小山駿河権守舘、菊田庄瀧尻城搦手、不惜一命、

致種々合戦、即日馳向湯本舘之處、於西郷長間子、

馳合湯本少輔房生捕之、則馳寄南木戸、懸先切入城内之處、凶徒等散落訖、

此等次第 
大須賀次郎兵衛入道若党 野邊九郎右衛門尉、

同駿河守若党 新妻次郎左衛門尉、

佐竹彦四郎入道代 「頴谷大輔房」等見知之

畢、不可相胎御不審、仍爲向後亀鏡之状如件

建武四年(1337)正月十六日

承了(花押)

※「」、および()内の文字は筆者が挿入。一部スペースを挿入した。


当時は戦が始まりそうになると統率者が「軍勢催促状」なる命令書を発し、これをうけた武士は戦地に到着した「着到状」を出して「承了(うけたまわり-おわんぬ)」と承認をもらう。その上で戦功をあげたら「軍忠状」を作成して「感状」をもらう。これらの書類を幕府などに提出して恩賞を要請していた。尊氏は中先代の乱で北条氏側についた武士たちの所領をとりあげ、それを尊氏側についた武士に「関東御教書」を発行し恩賞として再配分した。穎谷大輔房は、この戦いを実際に見聞きし伊賀盛光が足利尊氏に評されるための、筆頭の証人となったことにもなる。

※この一連の流れは、鎌倉幕府が行っていた手続きをそのまま採用したものである。関東の武士団による尊氏の評価は高まる一方、建武政権との距離はなお遠くなった。穎谷氏の一族も、このとき多くの領地を獲得しただろうことは想像に難くない。


穎谷と伊賀と神谷

ここで登場する「伊賀盛光、盛清」は当時は佐竹氏の指揮のもと北朝方として戦ったことがわかるが、その後岩城氏の傘下に入り、のちに飯野氏と称する。この伊賀盛光は、鎌倉幕府初期の重臣で「伊賀光宗」(1178-1257)の5代の孫とされる。光宗とは、鎌倉幕府の政所執事で、その姉妹も鎌倉幕府第二代執権北条義時の正室(伊賀の方)だった。しかし伊賀の方と北条義時の間の子を執権にしようと画策したとして、1224年に信濃麻績御厨(現在の長野県東筑摩郡麻続村)に流されている。(伊賀氏の変)。三代執権に北条泰時がついて、北条政子の没すると、鎌倉幕府の評定衆として復帰して、それいらい伊賀氏は信濃の麻続に所領を持ち麻続氏とも称した。(麻続盛清ともされる。)これが一般に伝わる伊賀氏である。


しかし伊賀氏は陸奥磐城郡好嶋荘(現在の福島県いわき市)にも所領を持ち、源頼義以来の伝統と格式を誇るとされた飯野八幡の神職も兼任していた。おそらく伊賀盛光は、この一族だったのだろう。実は室町時代の後半、足利政権に貢献した陸奥の岩城氏の勢力が急激に伸びていた。足利氏はそれまで源氏の一族にのみ与えていたとされる皇室由来の桐の紋「五七の桐」を、岩城氏にも与えている。佐竹氏のもとで戦って南北朝時代に貢献し、のち岩城氏の配下となった穎谷氏や伊賀氏は、足利政権のもとで一定の勢力を得ることができたのだろう。

※飯野八幡は平安末期、岩城氏の勧進によるともされる。


江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』では、広忠・家康の二代に仕えた「神谷正利」に始まる神谷家の系譜を残している。そこでは神谷氏は、額田郡(現在の愛知県岡崎市)神谷村に居住したことで神谷と称したとし、その祖は関東の名門「秀郷の苗裔、伊賀國の守護伊賀光季が十七代の後裔」、家紋は「上藤丸に揚羽蝶」「丸に揚羽蝶」だとする。つまりこの神谷村に居住していたという神谷氏は、もとは陸奥磐城郡好嶋荘(現在の福島県いわき市。そこには絹谷の地名が残る)を領していた伊賀氏だったということだ。鎌倉・室町期の混乱の中では近隣氏族が婚姻関係で団結をはかり、生き残りを懸けるのが一般的なことだった。伊賀氏や穎谷氏は、お互い強い血縁関係で結束していたことが容易に推測される。伊賀氏が穎谷氏の養子になるなとして神谷(かべや)の地を領して神谷氏となのり、その一族が三河に来て勢力を伸ばし、家康に仕えることになったと考えることも一定の説得力があろう。


穎谷氏だとすれば、藤姓秀郷流、平姓岩城氏流とされていることから、江戸時代に神谷氏が「上藤丸に揚羽蝶」「丸に揚羽蝶」の家紋を持っている理由を説明することもできる。また江戸時代の神谷氏の一族が「五三の桐」紋(「五七の桐」紋の格下ともされるが、本来は足利将軍家から下賜されていた家紋)を持っていることも、平姓岩城氏流の神谷氏と穎谷氏との深い関係から説明することができる。


※「茨城県立歴史館」の公開資料に水戸藩の大日本史の編纂過程で書写された『明徹(めいちょう)岩城重隆書状 写』があり、その宛先に「穎谷大蔵大輔(おおくらだいふ)」の名が残る。岩城重隆は複数記録に残るが法名を「明徹」とするのは一人だけで、室町時代の岩城氏の嫡流、岩城重隆だけである。このことから「穎谷大蔵大輔」も室町時代の人物と特定でき、おそらく「穎谷大輔房」と同一人物もしくはその子孫と思われる。なお「大蔵」は大宝律令の規定で天皇の行財政の中枢を掌握した主要な役所で、最上位の官職は「卿(かみ)」であり「大輔(たいふ)」はそれに次ぐ次官である。官位は正五位下にあたる。(『官職要解』による。)


三位房と穎谷氏

元弘三年文書には「三位房」とあり、僧であることがわかる。当時この名前で一般に通用していたのは日蓮(にちれん)の高弟として名高い「三位房日行(にっこう)」だった。三位房は日蓮の高弟としてその名が各地に轟いていたが、出身は下総(千葉県)とされ「曾谷(そや)二郎兵衛尉(ひょうえのじょう)教信」の弟とされる。曾谷教信は現在の千葉県市川市曽谷付近を領した。娘は平姓千葉氏に嫁ぎ、生まれた子は千葉家当主の座を争い、後に足利尊氏に側についたことで第11代の千葉家当主となり、千葉貞胤と称した。それ以来千葉氏は足利幕府でも重責を担うことになる。代々が千葉介となり、関東(鎌倉府)で侍所別当(長官)を務めた。曾谷氏の地位も大幅に向上したことだろう。

※兵衛尉は内裏を守る兵衛府の官位。守る門によって左右があり、一般に左が上位とされ、それぞれに督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)という地位があった。兵衛尉は三等官。源頼朝も鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』第一巻に「前(さき)の右兵衛佐」とあり二等官(次官)だった記録がある。

※下総は親王任国だったので下総守は親王が着任した。このため事実上の最上位の官職は「下総守(かみ)」ではなく「下総介(すけ)」である。関東の千葉氏は代々この地位についたため千葉介と呼ばれた。


当時の武将は戦況を見極め勝利に導くために、古代中国の占筮(ぜんせい)や軍法などを、高僧に弟子入りして積極的に学ぶのが常だった。前出の佐竹彦四郎入道や穎谷大輔房もその名の通り、僧侶であった。足利氏の氏寺である「鑁阿寺(ばんなじ)」には高僧が全国から招かれ、隣接する「足利学校」で漢学の師として教えており、そこで学んでいる僧の数は「蓋(けだ)し三千人」と『足利学校住持譜』に残されている。学僧とされた多くが、実際にはこういった武家出身であった。出家して僧になれば寺領をも得ることができたことも背景にはあったと思われる。

※平安時代から武家の一族の後継者(氏の長者)争が続いており、中世になると当主が決まったあと、他の兄弟は出家する例が大変多がった。このため、氏族が絶えることも多く、たとえば足利幕府でも、僧から還俗させて将軍にする事態(六代足利義教、十五代足利義昭など)を招いている。


文永6(1269年)ごろ、日蓮は京の比叡山延暦寺にこの三位房を修行に派遣している。しかし三位房は京で公家たちに招かれて持仏堂で説法をしたという。これを聞いた日蓮が修行もぜず慢心して世俗にまみれたと三位房を強く叱責した。そのことを書いた日蓮のご宸筆(直筆)とされるものが、千葉県市川市の中山法華経寺に残っている(『法門可申抄』)また建治3年(1277年)の「桑ヶ谷(くわがやつ)問答」では、鎌倉幕府の権力者だった北条氏が京から招いた天台宗の高僧を三位房が一言も反論できないほど論破したとする記録が残る。優れた才能で日蓮の弟子としてその名を後世に残した三位房だったが、日蓮はその慢心を強くけん責し、ついに破門されてしまった。その後の三位房の確実な記録はない。当時の情勢から見て、その後に武家として活躍した可能性もあると筆者は推測する。


この三位房の一族とされる「曾谷胤貞(たねさだ)」も後年やはり足利尊氏に従軍し京に上り、建武三年(1336年)に三河で討死、下総に残った曾谷一族も約百年後となる康正二年(1456年)に滅んだとされる。穎谷氏が三位坊子息とされたこと、尊氏軍に従軍した事、三河に来ている事、そのた活動内容や時代が、尊氏軍に従軍して活躍したとされる穎谷三郎ら一族と、あまりにもよく一致している気がする。


「穎」は「かひ」の他に「えひ」とも読まれるが、それが「あひ」に転じたかもしれない。常陸、磐城、下総周辺には平姓岩城氏流とされる「穎谷」氏のほかに「會谷(あひや/かひや)」氏、そして「貝谷(かひや)」氏とされる記録も残る。曾谷(曽谷)氏も千葉氏の家臣と伝り同時期に岩城氏・千葉氏の家臣だった。「曽」と「会」は大変混乱しやすい。この二文字は、それぞれは旧字で書くと「曾」と「會」であり、筆文字ではほとんど区別がつかないからだ。


文字で残された記録では後年混乱を招いたかもしれない。曾谷(そや)を會谷(かひや/あひや)と書けば、穎谷(かびや/かひや)、神谷(かひや)とほぼ同じ発音となる。曾谷(曽谷)氏も千葉氏の一族と伝り、曾谷氏、會谷氏、穎谷氏、愛谷氏らは同時期に岩城氏・千葉氏の家臣だった。

※南北朝の戦いの前後に曾谷氏が三河で戦っていたことは、のちの三河の神谷氏と関係でも興味深い。


もしかしたら「穎谷三郎( 三位房子息)、 同助房」とされた穎谷三郎は先代が、三位房日行とされる曾谷二郎と血縁関係があったのではないだろうか。穎谷太輔房の「房」は「僧侶」を意味する。「同助房」の表現が見られるが、「同」とは「穎谷」の繰り返しをさける表現で、助、介、輔などは官職の次官を意味する。「穎谷三郎、同助房」と書かれた後者は、「穎谷大輔房」を意味する。穎谷大輔も三位房の子息であったとすれば出家していたことも当然矛盾しない。


もうひとつ、穎谷氏と、曽谷氏の関係を示唆する情報がある。日蓮の有名な直弟子だった三位房日行と日印(にちいん)は兄弟弟子であり、その弟子には日静(にちじょう)がいた。日静は鎌倉で実施された宗教問答で、鎌倉幕府から日蓮宗の布教を許可された問答の経緯を『鎌倉殿中問答記録』に記録している。師である日印が幕府殿中で文保2年(1318年)から三度に合わる問答で諸宗派をことごとく論破していたのだ。日静は足利尊氏とともに鎌倉にいたことになり、1324年から1331年に渡る一連の後醍醐天皇の蜂起のときの状況も東西で掴んでいただろう。


三位房を出した千葉の曽谷(曾谷)氏と穎谷(會谷)氏は、全く同じ時期である室町時代の初期に、しかも同じく足利側として活躍が記録される千葉氏の中でも高い地位にあった家臣である。どちらも日蓮高弟だった三位房との関係が記録され、発音や表記された文字も近い。この二人は同一だったと考えられる傍証は、ほかにもある。


ひとつは三位房がいた日蓮宗と、足利尊氏の間の強い関係だ。日静と、尊氏の生母清子は兄弟であり、日静は尊氏の叔父にあたる。(さらに日静の母も足利氏の娘と伝わっている。)後に後醍醐天皇が笠置山に籠り、鎌倉幕府から足利尊氏が追討軍として派遣されるちょうどそのころ、日蓮宗の本山である見延山には、日静からの書状が届き、それは身延山藻源寺(千葉県茂原市)所蔵の『金網集』紙背文書に残されているという。


そこでは六条河原では配流された親王に付き添っただけの公家までも公開処刑され、そこには日静の見知った人も含まれていたとしている。当時の京都の惨状や京都周辺での倒幕勢力の盛り上がりにを抑えるため幕府軍がなだれ込み、当時の京の惨状までも語られているようだ。


この日静の兄弟には尊氏の母だけではなく上杉憲房(山内上杉家13代当主、のち関東管領)もいた。そのためこれらの情報は憲房から尊氏にも届いていただろうとされている。その手紙に書かれた内容によれば、このままでは鎌倉幕府はもう続かないだろうとし、憲房は尊氏に後醍醐天皇側への寝返りを進めたという。その話を知った尊氏は、このあと京に向かうと鎌倉幕府の命に背き、六波羅探題を一気に攻略、鎌倉幕府は滅亡に向かうことになる。尊氏が鎌倉幕府の滅亡のきっかけを作ったのは、上杉憲房の助言もひとつの原因だったのだろう。(『室町幕府と地方の社会』による)


上杉氏は鎌倉初期に源氏のあとをついで将軍として迎えられた親王に従って鎌倉に来た藤原氏の末裔が上杉氏の祖となる。室町時代には足利氏に重用され関東管領を代々で歴任した。このような関係もあって、足利時代の東国は、足利尊氏の次男を祖とする鎌倉公方を頂点としながら、政治面では上杉氏が、武力面では千葉氏が牛耳っていた。これらの情報から推理すれば、足利尊氏と、曾谷氏(もしかしたら會谷氏、穎谷氏)の関係、そして三河の神谷氏の関係をもひもとく、一縷の望みに繋がるかもしれない。


時代が下るが、中山法華経寺の日新『伝灯妙』には永享七年(1435年)ごろ日向門徒(日蓮宗)の一条坊と天台宗の心海の宗論も記録され、千葉介(当時は千葉胤直)が侍所の所司代として(宗論に負けた側の)所領の没収、遠島や処刑を「検断」したと記録される。当時その力を恐れられた宗教勢力を支配し、そして弾圧までも行っていた千葉氏の権力の一端がうかがわれる。


※室町時代までの名字の発音や正しい表記については不明確で、長い間に誤解された例も多い。人の名字の発音は聞き伝えであり、当時残された文字は数少なく、かつ崩した筆文字だったことも影響したろう。たとえば、伊達政宗の名字の発音が「だて」ではなく「いだて」だったことは、残された本人自筆のローマ字サインから判明している。また、織田信長の近臣だった福富秀勝は、従来「ふくとみ」と呼ばれていが、「ふくづみ」が正しかった。当時の武将らによる複数の記録を分析した結果、判明している。本来の名字表記は、福角ないし福住だったのかもしれない。


神谷氏と穎谷氏

前稿で触れたが『姓氏家系大辞典』では平姓の名門家であった千葉氏、岩城氏の支族に「穎谷氏」がいて「磐城国磐城郡穎谷邑」出身とされていた。一方で「磐城国磐城郡神谷邑」から「神谷氏」が出たともされている。磐城国の「頴谷(かびや)邑」と「神谷邑」は同一と思われ、この穎谷氏が神谷氏になったと考えてよいだろう。


このことは、江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』の記述にある、平氏の流れを汲む岩城氏(磐城氏)の一族から「穎谷」氏が生れ、後に「神谷」氏と名のったと記されていたこととも一致する。また、それぞれの始祖が「穎谷三郎基秀」、「神谷三郎基秀」と同じく平基秀とされることも一致する。同じく同書に「天文の頃、穎谷眞胤あり、神谷條参照。」とされ室町時代の後半にあたる天文年間(1532年から1555年)に「穎谷眞胤」と「神谷眞胤」がいたとも記録されている。このことは一時期、穎谷と神谷が両方使われていた(文字では2種類の書き方があった)とも見ることができそうだ。

※代々穎谷三郎の名を名を継いだ穎谷氏の嫡流は、平姓千葉氏嫡流の通字「胤」を名乗れるほどの地位だったようだ。


ここで桓武平氏について少し触れたい。桓武天皇の4代の孫、平国香(くにか)が常陸大掾となると常陸国真壁郡(現在の茨木県筑西市)を本拠とした。承平5年(935年)に一族の内乱に乗じて国香を破り、その勢いにのって関東八国を制覇したのが平将門だった。(平将門の乱)その平将門を破ったのは藤原秀郷、平貞盛(平国香と藤原秀郷の妹の子)と弟の平繁盛らである。


藤原秀郷(ひでさと)は下野・武蔵の国司となりその末裔である藤姓秀郷流は関東北部に勢力を伸ばした。平姓貞盛流はその後伊勢に渡り、平氏の本流ともいえる伊勢平氏となり平清盛を生む。家紋は有名な「揚羽蝶」である。平姓繁盛流はその後も常陸大掾を継いで、常陸平氏ないし大掾平氏ともいわれる一族となった家紋は「向い蝶」とされる。「大掾」とは「穎谷大輔房」の「太輔」と同じ律令下の第三等官の名称であり、ここから岩城氏、頴谷氏、神谷氏が出ている。これらの家系はその後の関東の覇権を担い武家の名門に成長していった。


一方で、将門の旧領だった下総国相馬郡(伊勢神宮に寄進されたため相馬御厨(みくりや)と呼ばれる、現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市付近と推定される)を地盤で勢力を伸ばしたのは平貞盛・繁盛の末の弟、平良文の孫となる「平忠常」だった。その妻は平将門の娘で、その後忠常は一気に勢力を伸ばすと長元元年(1028年)には、房総三国(安房、上総、下総)一帯を支配し傍若無人に振る舞いそのちは荒廃を極めたと『今昔物語』に語られる。


しかし長元4年(1031年)には追討を命じられてた源頼信(八幡太郎義家の祖父で、河内源氏の祖)に対し、全く歯向かう事なく降伏したとされる。(「長元の乱」)これは当時暴房総三国が各種の事情で疲弊していたからとされる。その後、平忠常の末裔がこの相馬御厨(そうまのみくりや)を継いで千葉氏と名のり、後に奥州にも勢力を伸ばして奥州千葉氏流の相馬氏(千葉常胤の庶流)となり、こうして「将門の血」は千葉氏に受け継がれていった。これが後世に大きな意味をもつことになる。

※有名な相馬馬追(現在の福島県相馬市)は、平将門以来の伝統を誇るという。


大掾平氏の末裔にはほかにも大掾氏、行方(なめかた)、鹿島氏、真壁氏などがいた。当時の武士は居住地を変えると名字を変えたが、関東・奥州の平姓の一族の結束は強く血縁関係も長い間維持されてお互いに勢力の保全を図ったと思われれる。国魂系図には岩城氏にも「清胤」がおり、同じ大掾平氏として千葉氏の子が岩城氏と名のったり、またその逆もある。強い縁戚関係を維持し一族同然だったと思われる。平安末期の武将で千葉氏中興の祖といわれる千葉常胤も将門以来の相馬郡(相馬御厨)を領していた。源氏の棟梁だった源義朝ととに保元の乱を戦ったが、平治の乱で破れると千葉氏も勢力を失った。しかし伊豆に配流された頼朝を下総に迎えて源氏の再興を支えた。その後の千葉氏は関東では将門以来の強さで歴戦に勝利した。千葉氏の働きがなかったら鎌倉幕府の成立はきっとなかっただろう。その功で千葉氏は鎌倉幕府、室町幕府では武官のトップとして扱われるようになる。


足利幕府は期せずして京を主な拠点とすることになった。そのため関東・東北の十国は、尊氏の四男、足利基氏の子孫が世襲した関東公方に統治させた。鎌倉幕府の残党の追討に多く貢献し関東を平定に寄与した岩城氏、千葉氏、佐竹氏らの存在感は極めて大きく、岩城氏や千葉氏と室町幕府との関係が深くなっていく。『姓氏家系大辞典』によれば、「神谷氏」は、北極星・北斗七世の「妙見信仰」の神威で鎌倉・室町時代の千葉氏を支え続けた「妙見館」(別名神谷館)の館主を代々務めた一族であった。「館」とは「城」のことで、つまり神谷城が各地にあったことを意味する。共に平姓の一族の名門である千葉氏と岩城氏は現在の岐阜から愛知、静岡そして関東地区の千葉、茨城、福島の海岸部に近い東海道沿線で、室町時代の前半には全盛を迎えている。


早稲田大学蔵『応仁武鑑』によれば、千葉氏は「坂東八ケ国の侍の奉行」ともされ最初の方に登場する。そこでは美濃(現在の岐阜県)を拠点とした「千葉介寶胤」と、上総・下総を拠点とした「千葉馬加陸奥守孝胤」について詳しく記され、両氏の系図や数々の業績が記録されている。それによれば「千葉介」は室町幕府の軍事・警察を管掌する最高機関である「侍所(さぶらいどころ)」の別当(ぺっとう:長官のこと)を代々務め「四職(ししき)」と同格とされている。四職とは一色、山名、京極、赤松の各氏で、「三管領四職」と並び称された足利一門の名門である。実際には「四職」は侍所所司を務めており、侍所の次官であった。そのため、室町幕府での千葉介の立場は、実際にはこの四職の上であったともいえる。これらの記事からは当時強大な勢力を誇った千葉氏の一端がうかがえる。

※美濃は豊富な収穫を得ることができ、後の斎藤道三、織田信長を始め戦国時代の英雄を何人も出した。室町時代には「介」が実権を握っており千葉介も、室町時代に屈指の勢力を維持できたと思われる。常陸国、上総国、上野国の三国も、収穫量が多い屈指の大国であり、親王が国司となるこことが慣例となっていた。千葉氏は東西の穀倉地帯をしっかりと抑えていたことになる。


卓越した武力と妙見菩薩の神威で繁栄を誇った千葉氏は、室町幕府の京都将軍側と対立した鎌倉公方、古河公方などの足利氏側についた。このことで千葉氏本宗家は滅ぼされている。しかしその支流は武蔵国(現在の板橋区あたり)に逃げ伸び、後に関東に進出した徳川家康と関りを持った。たとえば家康以来の家臣で後に代々の野馬奉行を務めた綿貫氏も千葉氏の末裔であり、綿貫の名字は、慶長のころ家康に拝謁した際に綿の抜かれた着物しかなかったため家康から綿貫の名を下賜されたと伝承されている。(『図説 千葉県の歴史』による。)また、江戸三道場と讃えられた、北辰一刀流の千葉周作も千葉氏の末裔とされる。北辰とは北極星を意味するが、北辰一刀流の名からは、神谷氏が支えた千葉氏の妙見信仰(北辰信仰)の名残が垣間見える。


鎌倉・室町期の千葉氏の大活躍の陰に隠れてしまっていた岩城氏も、室町中期になるとまだ勢力のあった千葉氏を押しのけ頭角を現してくる。永享10年(1438年)足利氏将軍家と、鎌倉公方の争い(永享の乱)に際して岩城氏が出陣、三河の二階堂氏の支援を得て、鎌倉公方足利持氏を東西から挟み撃ちして退けた。この功績で、二階堂氏と岩城氏は幕府から源氏の名門にのみ使うのが許された「五七の桐」の紋を下賜される栄誉を受けている。室町時代に作成された有名な家紋の一覧『見聞御家紋』に記載されている例では、「五七の桐」の使用が許された大名は、畠山、細川、今川、上杉、一色(以上足利支流)、山名(新田支流)など、すべて源氏本流(義家流)を汲む面々だけであった。平姓だった岩城氏の祖先とされる平成衡は源義家の妹を正室にしている。このため岩城氏は母系で源姓ともいえ、また隣接する大国、常陸を領していた源姓義光(義家の弟、新羅三郎)流の佐竹氏とも関係が深く、千葉氏も含めお互い強い縁戚関係があったと思われる。これが五七の桐紋を得られた理由の一つかもしれない。


五七の桐とは

桐は古代中国で鳳凰(ほうおう)が止る木とされ、桐の紋は天皇家や皇族の紋として使われていた。上に直立する花序といわれるものが、5-7-5で並ぶものを、「五七の桐」といい最も格式が高い。3-5-3で並ぶものは「五三の桐」という。『見聞諸家紋』の記述には、冒頭に源義家が登場し、その記述では平安時代の前九年の役、後三年の役を征討した褒美にと後に後冷泉天皇が源義家に下賜し、以来源義家の一門に勅命による免許が与えられた、名誉ある家紋であるとされた。


『見聞諸家紋』の冒頭の部分を引用(国会図書館)

源義家家紋 二引兩 五七の桐 [ 家紋の図 ] 源姓 八幡太郎童名不動丸或源太 従四位下陸奥守号金迦羅殿 鎮守府将軍後冷泉院勅父頼義隋兵(誅)奥州之安倍貞任誅其弟宗任攻降人九ケ年(其後)國藤武衡家衡(與)攻戦事三ケ年康平治暦其間十ニ年也合戦討勝首級得一万五千余天喜年上洛爲(御)褒美依勅命五七桐紋 免許故當家御紋 五七桐 二引兩 云々桐者根本安家之紋也八幡殿貞任御退治以後御上洛之時依被望申下賜此桐紋(云々)

※カッコ内は写本に書き加えられた注釈。筆文字の判読は筆者による。


『日本家紋総覧』によれば、平姓も拘わらず、千葉氏、曽我氏の一部が「五七の桐」紋を掲げた記録がある。源頼朝や足利氏からの下賜と思われ名誉であったろう。その後も桐紋は下賜されている。平姓とされた織田信長の肖像画には「五三の桐」が見え、秀吉も陣羽織に「五三の桐」を使った。源氏を名乗った徳川家康も大御所時代に「五七の桐」紋を使った記録が残る。


桐紋は、天皇の権威の象徴でもある。「五七の桐」は現在も首相官邸のHPや公式ツイッターでも記載され、政府の公式会見の演台にも掲げられるが、それは明治維新を主導した「薩長」の島津・毛利両氏が、ともに鎌倉幕府の頼朝以来の名門であったことに由来するとされる。毛利家は鎌倉幕府で初代の政所別当(長官)となった大江広元の末裔。島津も欧州征伐の恩賞として西国の守護となった。ともに室町幕府でも中央で重きをなしたが、江戸幕府では遠ざけられ幕末になるまで関わりは少なく、それが倒幕につながったともいえる。


「神谷」はどう発音されたか

「穎」は現在は「頴」と書かれ、その発音は「えい」「かい」だが、前稿で示したように室町時代の白川家に伝わる祈念祭(としごいのまつり)の祝詞(のりと)には「かひ」と仮名が降られており、平安時代の辞書『類聚名義抄 』には「唐から伝わった文字でその音は「加尾(かび)」とさる。明治時代の国語辞典では「かび」を古義としつつ「かひ」の発音も確認できるが、岩波『広辞苑』や三省堂『大辞林』では古事記を引いて「牙・穎(かび)」とする一方「かひ」や「かい」の発音は記録されていない。本来は「穎(かび)」の発音が正しく、室町時代以降には「穎(かひ)」とも発音されるようになったのだろう。


本書には岩城氏流の神谷氏は「カベヤなり」と記録されおり、「かべや」の発音は「かびや」に大変近い。神谷邑のあった磐城国磐城郡(現在の福島県いわき市)は、江戸時代に磐城平藩となり神谷陣屋(かべやじんや)が置かれ、現在も「神谷(かべや)」と呼ばれる地名が残る。明治初期の政府文書や、大正時代の資料に、この地を「壁谷(かべや)村」と記述するものがあったことも前稿で説明した。千葉氏流の神谷氏も、岩城氏流の神谷氏も同じくこの地「磐城国磐城郡神谷邑」出身であり岩城氏流、千葉氏流ともに「神谷(かべや)」と称していた可能性が高い。そうであれば「穎谷(かびや)」が「神谷(かべや)」に変わったなら納得がいきそうだ。

※「壁谷」の名字は古代中国の由来を持ち、古代ヤマト政権や飛鳥の上宮王家そして伊勢神宮などの古代神との関りは別稿で示した。また古代朝廷の名代部である白壁(後の真壁)の地に鎌倉・室町時代に壘(とりで)を作った神谷氏の記録もある。(『姓氏家系大辞典』による。)穎谷、神谷などのもともとの古代姓は壁谷と関りが強かった可能性があり、おいおい別稿で詳しく触れていく。


平姓岩城氏には貝谷氏がいたともされる。「貝谷」という名字について『日本姓氏語源辞典』では福島県いわきしにいた「頴谷(エヤ)」の名字をもつものが島根にきて「貝谷」と名のることになったとする伝承を記録している。「穎谷」の発音は正しくは「穎谷(かびや/かひや)」であろう。「穎谷」の名字が島根県西部(出雲の地に近い)で「貝谷」の名字になったとの伝承が最近まで島根県に残っていることは大変興味深い。島根には東北弁と発音や意味が近い特徴的な方言も残っており不思議に思っている。このことは近いうちに触れたい。


『日本姓氏語源辞典』から「カイヤ 貝屋(貝谷)」の項を引用

カイヤ 貝屋 長崎県北松浦郡小値賀町、大阪府・新潟県。職業。貝屋の屋号から。長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷、新潟県妙高市下濁川に分布あり。「貝谷姓あり。」島根県西部(旧:石見国)では福島県いわき市で「頴谷」と呼称していたと伝える。頴谷は現存するか不明。推定での発音は「エヤ」。

※「」は筆者がつけた。ちなみに「頴」谷は、江戸時代以前は「穎」谷と書くのが正しい。引用文中「穎谷」の推定での発音とされる「エヤ」は、正しくは「カヒヤ(かいや)」であろう。


ここで記載されている「貝谷姓」などについて、参考までに以下に示す。武田信玄の家臣と伝わる現在の山形県の「海谷」の名字があったこと。新潟県の新発田市貝屋地域や福岡県大牟田市に「貝谷」の名字があり、ともに南北朝時代にあったとされる新潟県の「カイヤ」という地名を起源にしていること。そして「谷」が後に「屋」に変わった実例とされることなどが興味深い。おそらく江戸時代以降に「や」が「屋号」と解釈されたことによって、変化したのかと思われる。


『日本姓氏語源辞典』から「カイヤ」の項で、「貝屋」以外を引用

カイヤ 海谷 山形県山形市、長野県、北海道。①山形県北村山郡大石田町海谷発祥。江戸時代から記録のある地名。長野県中野市間長瀬に江戸時代にあった。同地では山梨県を根拠地とした戦国時代の武将である武田信玄の家臣だったと伝える。②事物。広島県江田島市能美町高田にある浄土真宗の光源寺の僧侶による明治新姓。同寺の山号の海谷山から。姓の発音はウミタニ。
カイヤ 貝谷 愛知県、大阪府、奈良県。①「新潟県新発田市貝屋(カイヤ)発祥。南北朝時代にカイヤの表記で記録のある地名。地名は貝谷とも表記した。福岡県大牟田市では新潟県の貝谷からと伝える。」愛知県名古屋市熱田区に江戸時代にあった。発音はカイタニ。②奈良県吉野郡川上村高原の小字のカイヤから発祥。
カイヤ 改谷 香川県高松市・東京都。屋号の屋に「谷」を使用する例あり。

カイヤ 会谷 山梨県甲斐市、埼玉県・東京都。屋号の屋に「谷」を使用する例あり。

カイヤ 海家 大阪府大阪市都島区。海を含む姓あり。

カイヤ 囲夜 埼玉県比企郡小川町。偕家姓あり。

カイヤ 回夜 埼玉県川越市。偕家姓あり。

カイヤ 養宇 富山県小矢部市。事物。富山県小矢部市本町にある浄土真宗の光顔寺の僧侶による明治新姓。同寺では石川県鹿島郡中能登町石動山にあった真言宗の天平寺に1181年(治承5年・養和元年)に創建した「養谷堂」が起源と伝える。

※「」は筆者がつけた。


足利氏の拠点だった鎌倉から室町の三河

三河の地域は鎌倉初期は頼朝の弟、源範頼(のりより)が三河守として領したが、謀反の疑いがかけられて廃され伊豆に流された。その後は二階堂氏が三河守、足利氏が守護となって現地には代官や一族を派遣していた。このため後世に名を残した足利氏の多くの支族が三河の地から発生している。足利義氏の長男だった長氏(おさうじ)は母が側室だっため足利本家を継ぐことができず、三河國幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市吉良町)を領して「吉良氏」を名乗った。その一族は、三河国幡豆郡今川荘を領して「今川氏」となり、三河國額田郡細川荘を領した一族は「細川氏」となった。「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が 継ぐ」とされる名門家は、このように足利家の旧領三河の地から生まれ、足利幕府の「管領(かんれい)」を世襲した細川氏も三河の一族から発生している。


鎌倉時代から三河の地を地盤としていたのは二階堂氏だった。鎌倉時代の『武鑑』にも二階堂参河守と掲載され三河の地には代官を派遣していた。熱田神宮の大宮司(藤原季範)の娘と孫娘がそれぞれ源頼朝と二階堂氏の正妻であり、二階堂氏は鎌倉幕府で要職を担っていた。承久の乱で大きな戦功をあげた足利氏は、三河守護となって二階堂氏の力は弱まり、一族の多くが鎌倉幕府と命運を共にしたが、一部は室町時代にも勢力を維持した。尾張・三河・駿河の地は室町幕府の重要な拠点として抑えられ、京都将軍を支えた「御番衆」の多くがこの周辺に地盤を持っていたとされる。こうして二階堂氏の影響力は薄れ奥州岩瀬(現在の福島県須賀川市)の地に退くことになる。


永享の乱(1438年)の結果勢力を伸ばし、駿河から三河國東部までの一帯を領することになったの、のちの桶狭間の合戦でしられる足利氏の一族、今川氏だった。嘉吉の乱(1441年)で第6代将軍義教(よしのり)が殺害されると、足利氏の影響力は大幅に低下し、各地の守護大名が強大化した。関東の鎌倉公方と京都将軍(足利幕府の将軍)の間での争いも繰り返され、全国の勢力図は大きく変わっていった。


戦国時代の後半に入ると、関東の実力者として足利幕府内で強い影響をもっていた千葉氏は鎌倉公方と共にほぼ壊滅した。岩城氏、佐竹氏、二階堂氏らも一斉に奥州に退いていった。頼朝以来の名門家の多くは恩賞で守護・地頭として各地に与えられ分散して領地をもっていたが、各地の戦国大名は強大化し、領地は奪われて整理併合されてしまった。このため頼朝以来の名門家も徐々に没落し全国各地に散らばっては覇権を握った実力者たちが各国各地を統一し、敗者は絶えるかその配下に収まっていく戦国時代に突入していった。


『藤葉栄衰記』などによれば、永享の乱(1438年)の軍功で「二階堂慘河守(三河守)」が奥州磐瀬郡(岩瀬郡、現在の福島県須賀川市)を与えられた。二階堂氏は鎌倉幕府の重臣でもあり、足利幕府でも「評定所」で代々幕府の要職を務めていたが、室町幕府の混乱のさなかに中に三河の本家が滅ばされると、文安5年(1448年)にはその支族が奥州磐瀬郡(現在の福島県須賀川市)に下向して戦国時大名と化したとされている。


今川氏が事実上滅んだあと、三河を抑えたのは徳川家康だった。)三河出身の江戸幕府の旗本、岩瀬氏には須賀川の二階堂氏の末裔であるという家伝が残り、後に「幕末三俊」と讃えられた岩瀬忠震を輩出している。三河の二階堂氏はおそらく破れ、一族が飛び地の領地だった須賀川に撤退する一方で、三河に残った二階堂の一族は岩瀬氏として今川氏の配下となり、その後家康の家臣となった可能性が高い。

※貴族化していた今川氏は戦国大名としては長持ちしなかっただろう。家康は武田信玄と今川領を東西で二分する密約があったともされ、実際に武田信玄は今川領の東半分を占領していた。


室町時代の『足利武鑑』

『武鑑』は、鎌倉時代から江戸末期まで各時代のものが多数写本として現存し、少なく見積もっても数百種類はあるようだ。江戸時代に大量に流通し多くの庶民が目の前を通る武士の地位や名前をその家紋から判断して楽しんだともいわれる。このため『武鑑』は「江戸時代のベストセラー」ともいわれた。これらには幕府の役職や各家の石高、家紋や旗印かなどが細かく記載されているのだが、記述は断片的で、形式もまちまち、商売目的で大量に写されれていることもあり間違いも多い。何より困るのはすべてこなれた筆文字で書かれており、分業体制で筆写したと思われるため、それぞれのページで字体や崩し方も大きく異なる。本気で解読するのは相当に骨がいる。


ここでは、『大武鑑』(全5巻 大洽社刊)を中心に記録を拾ってみる。この書は、当時入手できた種々の『武鑑』を独力で判読して整理した橋本博が、昭和10年に活字化して出版したものだ。もちろん全ての『武鑑』をまとめたわけではないし、全てが「写し」でもあり信頼性がどこまであるかは再評価の必要がある。しかし鎌倉時代、室町時代の一部から元禄、宝永時代のものなどが含まれている。筆文字が全く解読できない一般人でも、一部の漢文の文章を除けばかなりの量の『武鑑』が読みこなせる価値は大きい。(以後『大武鑑』と書いた場合は、橋本の書を、『武艦』と書いた場合は筆書きの他の複数の写本を意味する。)


『大武鑑』の第一巻では、思想家、歴史家としても名高い徳富蘇峰が序文を書きその歴史的価値を説き、第二巻の巻頭言で橋本は「かくのごとく無駄骨折は、きみの如き愚物であらざれば能(あた)はず」と友人に評されたとも記している。これだけの量の『武鑑』を集め、解読したその努力には本当に頭が下がる。


『大武艦』の中には、足利時代の『武鑑』と思われるものが三種確認できた。そこには「永享以来(1429- 1441)」、「文安年中(1444-1449年)」には「神谷四郎」が記録されていた。永享は室町時代中期の第六代将軍、足利義教(よしのり)の時代である。さらに「長享元年(1487年)」には、「神谷左近将監」が掲載されている。いずれも「御番衆」の「一番」に乗っている。「御番衆」は幕府直轄の組織であり、幕府の有力守護など実力者の子弟が世襲制で選ばれて強い団結力を持ち、背後にはその家臣団たちで構成された強大な兵力を抱えていた。


最も権威が高かかった「一番」

「御番衆」の制度は鎌倉時代に頼朝の警護のため、武力に優れた家臣を近習させたことに始まるとされる。『平治物語』によれば、平治の乱で破れた源頼朝の父「源義朝(よしとも)」は再起を図るため尾張の旧臣の家に潜んでいたが、刀を預けて風呂に入った際に謀殺されたとされる。


『吾妻鏡』には源頼朝について、記述の一部が意図的に削除されている不自然さから暗殺説がささやかれており、鎌倉三代将軍実朝(さねとも)や室町六代将軍義教(よしのり)は実際家臣に謀殺されている。そのたびに武家政権は大きく傾き弱体化していった。このような事件を防ぐため、常に将軍の近くに侍り警護する役目は、極めて重大な役目となっていった。


足利3代将軍義満のころまでは、各地の有力守護の武力に頼っていた将軍家の武力も、6代将軍義教の時代ころまでに守護大名の子弟を将軍直属の武力集団として再結成した「奉公衆」という組織で構成する形に整備されていった。「奉公衆」は五交代制で将軍の近くで警備を担当し「一番」から「五番」まであった。このことから、通称「御番衆」とも呼ばれた。(本稿では以後『大武鑑』に載る「御番衆」を用いる)


彼らには幕府の直轄地が預けられ、守護不入や各種の役が免除されるなとの特権が与えられており領地を離れて在京しながら、将軍警護に専念できる仕組みが作られていた。そのメンバーは守護や守護代の子弟が世襲制で代々受け継いだ。各番はそれぞれ50人程度で構成され、配下にはさらに若党(わかとう:若い近親者や従者など)、中間(ちゅうげん:下層の武士)などと言われる武士が多数支配下として所属し、その兵力は少なく見積もっても数千はあり幕府直属軍を構成した。このため、有力守護大名の征伐などに動員される幕府軍の中核をなす強大な戦力を誇ることになった。将軍家と密接な関わりを持つことが多く、世襲制で受け継がれた結束の固さは、将軍家や守護大名の間で内部事情を探ったり互いに情報交換する手段のひとつとしても使われたとされる。


その御番衆の中でも「一番」は別格とされた。『群書類従』には将軍外出時の警護は「一番」だけがその役目を負ったとされている。(その記述がどこにあるのか、筆者は確認できていない。)『足利武鑑』の記述にも「一番」のみにその由来などの詳しい説明が付けられ、一番が別格であった事情は伺われる。この『武鑑』の「永享以来」には「御番衆」とされた武士の名が列記してある。以下に「永享以来」の御番衆の「一番衆」を掲載する。


『足利武鑑』永享以来御番帳「一番衆」に載る人名(『大武鑑』より引用)

細川左京亮。細川天竺三郎。細(川)下野左京亮。今川兵部大輔。今川刑部大輔。上野與三郎。吉見井豫守。三淵又次郎。三淵中務大輔。伊勢印旛守。伊勢駿河入道。伊勢十郎。伊勢左京亮。伊勢備後入道。伊勢八郎左衛門尉。伊勢掃部助。伊勢新左衛門尉。伊勢孫次郎。伊勢七郎三郎。曽我兵庫助。長井次郎。長井兵部大輔。中條與三郎。土岐楫斐太郎。土岐厚駿河守。土岐本庄福壽丸。結城四郎三郎。大原備中入道。勝田左近將監。勝田兵庫助。本郷美作入道。本郷三郎。毛利宮内少輔。竹藤五郎。鎌田彌次郎。毛利修理亮。村上左京亮入道。村上彦三郎。松田上野介。松田三郎左衛門尉。松田豊前守。松田次郎左衛門尉。松田七郎左衛門尉。白井太郎。齋藤兵庫允。斎藤本廣孫左衛門尉。雅樂備中入道。雅樂修理亮。丹比次郎左衛門尉。河内次郎。宮孫左衛門大夫。「楢葉近江入道。」「楢葉七郎。」「楢葉彈正左衛門尉。」小串六郎佐衛門尉。馬田三郎左衛門尉。門眞加賀入道。門眞三河守。門眞新三郎入道。吉田五郎。吉田千代壽丸。闕山郷四郎。角田彌平次。「神谷四郎。」金子次郎佐衛門入道。丸山孫三郎。淺堀左近將監。肥田源四郎。松任修理亮。安東平次。紀居吾彦次郎。依田九郎。疋田左京亮。佐分彦六郎。櫻井又次郎。桐野右京亮。太田大炊助。

※筆写してカッコ、鍵カッコとその説明をつけた。文字の誤読の責は筆者にある。この記述は『羣書類従(群書類従)』(塙保己一) 第29輯 (雑部第五)にも載っているものとほぼ同じである。


ここには鎌倉時代からの名門が並ぶ。足利幕府は北条氏に奪われた鎌倉幕府を源姓で再興するのが名目だったともわかる。「一番」に記載された名を順に見ていくと、吉良家の流れをくむ「今川氏」、「細川氏(三淵氏)」、「河内氏(畠山氏)」などの室町幕府の要職を務めた源姓の足利氏一門、「上野氏」は鎌倉時代初頭の足利氏三代目の足利秦氏の末裔、そして「吉見氏」は源頼朝の弟範頼(のりより)の末裔、さらには源姓頼光流の「土岐氏」と続く。「毛利氏」は鎌倉幕府の政所(まんどころ)の別当(長官)を務めた「大江氏」の末裔、それに続く「曽我氏」は平姓ではあるが頼朝の忠臣とされ『曽我物語』にも登場する。これらの氏は足利一門として上位に扱われている。

※明智光秀も土岐氏の一族として、御番衆にいたという説がある。


「結城氏」も頼朝時代の忠臣として称えられた藤姓小山(おやま)氏の支流であった。さらに平姓伊勢氏も鎌倉時代名家である、「松田氏」も『大武鑑』鎌倉武鑑によれば、藤姓秀郷流で相模松田の荘を与えられた一族で、室町幕府の「奉行」となった重臣の一族である。特記すべきは伊勢新左衛門尉であろう。その子は、伊勢新九郎(のちの北条早雲の父)でありやはり「一番」に属した。またその姉妹は駿河守護今川氏の正室となり、孫には今川義元がいる。


このように、「一番」には鎌倉時代からの名門で足利幕府でも重臣中の重臣とされる家系に連なる支族たちが綺羅星の如く並んでいることがわかる。そして、名字の並び方を見れば、掲載順は格式順を表していると大まかに推測できるだろう。そのまま眺めていくと中盤以降に「楢葉(ならは)氏」がきて、その後に「神谷四郎」の名があることに気が付く。神谷四郎は「一番」の後ろのほうではある。しかし「一番」に載っていることは、その祖先が鎌倉幕府、足利幕府の初期に活躍したことが評価されていた可能性が高いことになる。しかし室町初期の神谷氏のそのような記録ははっきりと確認できるものが見つかっていない。

※平姓の同族である「楢葉(ならは)氏」と「標葉(しめは)氏」はとともに奥州の地名に由来し、後に合併して現在の福島県双葉郡となった。筆文字では誤読しやすく、各種の資料にはどちらを指しているか疑念のあるものがあり、同一とする資料もある。本稿では混乱を避けるため主に楢葉を使用する。

※平姓伊勢氏は、平家の家紋『揚羽蝶』を掲げる伊勢平氏の一族と思われる。後世の神谷氏には揚羽蝶の家紋がみられ関係が興味深い。


岩城氏と楢葉氏・神谷氏

平姓岩城氏の系図(『寛政重脩諸家譜』や『國魂系図』)からみると、平氏繁盛流岩城氏とされる神谷氏は、平繁盛流の楢葉氏(もと白土氏)の支流(三男)になる。『國魂系図』などによれば、実際には「楢葉氏」は実は岩城氏の本流であり、少し前の嘉吉の乱(1441年)で「楢葉氏」の一族が「岩城氏」と名のって大活躍し、藤姓の二階堂氏(室町幕府の評定衆)と共に足利幕府から「五七の桐」の紋の使用を許可され、平姓にも拘わらず源姓の名門家と処遇されるようになる。こうして岩城氏が力を付けて楢葉氏から主流の座を勝ちとっていた。このため、楢葉氏と神谷氏は逆に庶流の扱いになっていったと思われる。室町後期以降は没落していったことが予想されるが、「御番衆」は世襲制だったことで室町時代を通じて「一番」の地位を維持していたと思われる。


「楢葉氏」は平成衡の長男の子孫であり母は鎌倉幕府の名門、二階堂氏の出身とされていた。平成衡は源義家の妹を後室に迎えており、また、(岩城家系図では)岩城清胤の妹が足利尊氏の縁者の妻を出した記録もある。これらの記録から、鎌倉幕府以来の名門家や源氏との血縁関係も相当にあったと思われる。

※足利尊氏は次男だったが、北条得宗家の母を持つ長男高義の早世で足利氏を継いだ。岩城氏の娘が嫁いだのはこの高義の遺児で後に出家した源淋だった可能性がある。


室町時代中期までに確かな記録が残る神谷氏は、大田亮『姓氏家系大辞典』では、平姓岩城氏と平姓千葉氏を出自とする神谷氏しかいない。「楢葉氏」の後ろに登場する「神谷」氏は、『諸家譜』にある成衡の一族の「穎谷」氏が後に「神谷」氏と名乗ったという一族の系列である可能性が高いと筆者は推理する。


※『官職と位階がわかる本』には、御番衆にはかつて有力守護だったが没落した家系が含まれていたとする。世襲制だったので、新興勢力の岩城氏が「一番」に着くことはなく、一方でかつての名門家の子弟として楢葉氏と神谷氏がその座につき続けたと推測できる。「奉公衆(御番衆)」の制度は信長も秀吉も、そして家康も採用して側近として仕えさせて身辺の警護に当たらせていた。江戸幕府になると「詰衆(つめしゅう)」「番方(ばんかた)」などと呼ばれる武官として組織化された。彼らも世襲制であり平和な時代になると文官へと変化していく。常に将軍の側にいたことから、石高が少なくとも側近として権力を握っていった例が多い。


「一番」神谷左近将監

神谷四郎は『大武鑑』や『郡書類従』の「文安年中(1444-1449年)」「一番」にも載っている。さらに時代を下った「長享元年(1487年)」には、「一番 神谷左近将監」が載っている。40-50年の経過を経ており世襲で受け継がれた御番衆の仕組み上、少なくとも血縁者が継いでいるものと思われる。なお、この「左近将監」も名前ではなく、律令における近衛府の官職名である。『官職と位階』によれば従六位上(一部は従五位下)の地方官の三番目に相当する。


近衛府(このえふ)はもともとは京都を護衛するための組織で左近衛府、右近衛府に分かれていた。そのトップは近衛大将でかつての源頼朝も「右近衛大将」であり、室町幕府8代将軍義政のほか、9代将軍、12代将軍なども同じく「右近衛大将」を務めている。その官職の三番目の地位が「将監(しょうげん)」となる。江戸初期の有名な「左近将監」に松平左近将監乗邑(のりさと)がいて、江戸幕府の老中を務めている。「神谷左近将監」は、高い地位にあったことがわかる。御番衆とくに「一番」は室町幕府の有力者の子息が代々この役目に着いたとされており、室町時代前期においての神谷家の家格はそれなりに高かったのだろう。


『足利武鑑』長享元年 常徳院殿様江州御動座當時 在陣衆着到のうち「一番」

細川淡路善九朗。今川兵部大輔(國氏)。今川嚴三郎。細川天竺源明丸。吉見六郎。三淵次郎淸光。長井宮内大輔。細川下野宮内少輔。伊勢肥前守。曾我上野介。曾我兵庫輔。佐々木大原備中守。鎌田彌次郎。佐々木大原左馬介尚親。土岐冎楫斐孫次郎。同孫右丸。今川小三郎。三州毛利宮内少輔。宇津木平小次郎。尾州土岐小里能登守。斎藤美濃守。丹後竹藤右京進大江。同千千代。備州伊勢掃部介守盛頼。同彌八盛慶。若州本郷宮内少輔正泰。備前松田上野介。松田次郎左衛門尉。杉田七郎右衛門尉。松田七郎三郎。松田六郎。楢葉左京亮貞連。金子彌次郎。設楽修理亮。安東平次。加州結城修理亮。佐々木淺堀彌四郎。備後伊勢又七。帯刀宮内匠。帯刀十郎。本庄孫次郎。松任上野介。同與一。門眞彈正入道
。壹岐次郎丗淸光。小島新藏人丞。江州伊勢又六。若州佐分右京亮。同彦六郎。「神谷左近將監」。丹後小倭十郎。相野六郎大江。依田孫九朗。伊勢彈正忠。丹下下總守。丹比次郎。勢州疋田又三郎。疋田千夜叉。周州矢部八郎。備中雅樂多治部次郎。備州宮平次郎。加州倉光次郎。遠州遠山與次郎。飛騨内嶋又五郎。江州佐々木吉田源四郎。雲州佐々木吉田右京亮。江州岩室彌四郎。

※常徳院は第九代将軍足利義尚のこと。守護大名六角氏の征伐のため江州(近江)への出陣に同行した記録。義尚はこの陣中で急死してしまう。


一番の「神谷」は穎谷氏の末裔か

冒頭で説明した神谷氏の祖先と思われる「穎谷大輔」はこの左近將監のさらに1つ上の官職、次官とされる「大輔」の地位にあり、正五位下もしくは従五位であった。足利尊氏に従い、建武の新政、中先代の乱、足利幕府成立の過程で、数々の戦功をあげて室町幕府成立に貢献していた文書が残っていることは既に示した。このことから穎谷氏は室町時代初期に、幕府の一定の要職についたことが想定できる。


しかし、足利尊氏の時代以降に穎谷氏の活躍した記録が確認できなくなる。一方で神谷氏が室町初期に名門家の扱いをされる活躍をした根拠は特に見当たるものが確認できない。このことと、穎谷氏がのちに神谷氏と名を変えたという『寛政重脩諸家譜』の記述と合わせて考えると、室町初期に軍功があって評価されて要職についた「穎谷氏」の末裔が、のちに「神谷氏」と名を変えて世襲制の組織である御番衆の「一番」に入っていたと考えることは、そう不自然でもないと思われる。


さらに、神谷四郎の「一番衆」の掲載順が「楢葉氏」の後になることも、穎谷氏と、神谷氏の関係を裏付けられるかもしれない。岩城氏が台頭した室町中期以降は、楢葉氏や神谷氏(もと穎谷氏)は岩城氏の陰に隠れた支流として没落しつつあった。あるいは岩城氏から独立して動くようになたともされる。後述する『姓氏家系大辞典』に登場する複数の神谷氏の中でも、室町幕府の御番衆として活躍したと記録が残る権威ある家系は、岩城氏、千葉氏系から発生した頴谷氏と神谷氏の流れ以外に、ぼぼ見当たらない。


これらの傍証から、この「一番」に登場する神谷氏は、穎谷氏の末裔である可能性が高いのではないか。このあと室町幕府の実力者だった千葉氏が事実上滅び、支えていた一族でもあった神谷氏も大きな後ろ盾を失うことになった。さらに後北条氏が滅び、二階堂氏、佐竹氏、岩城氏なども奥羽に去ると神谷一族は、次々と主家を失い将軍家の側で直臣として生き延びたろうが、幕府が滅びると「御番衆」の「一番」という権威も失いおそらく路頭に迷うことになっただろう。


すでに紹介したように、元弘三年(1333年)十二月文書に「穎谷三郎(三位房子息)、同助房」があった。助房の「助」を「輔」の略記ととれば、大輔房とも読める。(助、介、輔は官職上の次官を意味する)その大輔房は4年後の文書で、中先代の乱での多方面での活躍が記録され、足利幕府の成立に貢献していたとされる。穎谷大輔房は穎谷三郎の弟、もしかしたら穎谷四郎だったかもしれない。そして穎谷氏が神谷氏となっていたとすると、その名誉ある子孫は代々が「神谷四郎」を名乗ったのかもしれない。


穎谷氏が神谷氏と名を変えた時期は室町時代であることは間違いない。建武二年の「穎谷大輔房」と「永享以来」の「一番 神谷四郎」が登場することから、穎谷が神谷と名を変えた時期は、建武二年(1335年)から永享10年(1438年)の約100年間にほぼ絞られてくることになる。


※『神谷氏系譜』では三州神谷村を領した「神谷石見守髙正」を神谷始祖とし父は藤原北家道兼流の「宇都宮四郎泰朝」家紋は揚羽蝶としている。髙正の卒年は明徳三年(1395年)でであり、上記で示した神谷氏発祥時期とも一致する。ただし宇都宮氏は藤原北家ではなく、下野氏であったとする説が現在は有力だ。『神谷氏系譜』では、室町時代の後半に大和国十市郡神谷荘を領した源姓の神谷家盛がいて、やはり揚羽蝶を掲げたとし、その八代の孫、新七郎忠次が三州の一部も領していたとされる。江戸初期のころからは祖先不明の神谷正勝の家系ものる。神谷氏の系譜に謎が多いが『神谷氏系譜』は別稿で触れる。


神谷氏同様に、参河を領し幕府の中枢にいた家臣に岩瀬氏がいる。家康が進出する以前に三河東部を領していた岩瀬忠家が三河に中島城を築き居城としていた。今川氏を破って徳川家康が三河統統一してからは、岩瀬氏は徳川家康の家臣となった。それからの岩瀬氏は「牛久保六騎(うしくぼろっき)」とされ家康の旧臣として重用され、その末裔である岩瀬忠震(ただなり)は、幕末三俊(さんしゅん)として名を残し島崎藤村の小説『夜明け前』にも実名で登場している。 


 その岩瀬氏は、もと鎌倉幕府の中枢にいて室町幕府でも評定衆だった、二階堂氏の末裔であることは、岩瀬氏の家伝に残されている。岩瀬氏の名は、福島県須賀川市の当時の名前「岩瀬郡」から来ている。三河統一の後、徳川家康は一時期藤原姓を名乗ったことがある。これも三河を支配していた鎌倉・室町時代に渡って長い間三河の実力者であり続けた名門の二階堂氏、そしてその一族の岩瀬氏が藤原姓だったことも関係するかもしれない。  


このあと神谷氏がどうなったかにつては、第24稿に譲る。そこでは室町時代以降多数発生した多数の神谷氏の系統についても触れたい。


課題

1.『続日本紀』では、桓武天皇の命により「白壁」の地名を「真壁」に変えた。ここで、ヤマト政権時代はこの白壁の地名は「白髪(しらか)」と呼ばれていた。倭王とされた応神天皇から雄楽天皇に繋がる皇統の最後となる清寧(せいねい)天皇、つまり伝説の倭の五王時代の直系の最後の天皇になる。この場合「髪」は「か」と発音され、のちに「白髪」は「しらかべ」となり「白壁」となった。


この真壁を領したことで、神谷氏と名のった一族が室町時代に発生することは次稿で触れる。「髪」が「かべ」と発音されていたことは岩城で「神」が「かべ」と発音されていたこととの関連で興味深い。この神谷氏も、すると「かべや」と発音したのだろうか。「神」と「髪」の古代の発音は同じだったのだろうか。常陸国真壁郡には神谷城があり、平姓繁盛流の真壁氏が領していた。このことも興味深い。


2)「佐竹彦四郎」は佐竹氏の庶流とされる。一方で『酒出文書と奉公衆佐竹氏』において、鈴木満は、佐竹氏の嫡流は佐竹「彦三郎」と「伝四郎」であり、佐竹「彦四郎」はこの2名が混同して後世に写し間違えられた可能性を指摘している。同時代の佐竹「彦四郎」は、2018年1月に新文書も発見され新聞報道もされており、常陸国久慈東郡高倉郷(現茨木県常陸太田市)の土地取引に関する文書であった。佐竹彦四郎は名門佐竹氏の嫡流だった可能性があり、穎谷氏はその代理を務める立場だったことになるが、その高い官位がその事実を物語っているようにも思える。


3)江戸時代後半の1809年(文化6年)会津7代藩主「松平容衆(まつだいらかたひろ)」が序文を記し、幕府に提出された『新編会津風土記(しんぺんあいづふどき)』は陸奥、越後、下野などの古文書を整理して、土地や山川の状況、地名、神社、旧家に残る記録などについてまとめ120巻に上る大書だ。江戸時代を代表する地誌といわれ、国会図書館で閲覧可能だ。( 明治期に出版された記録もあるが不明。)で是非読み込んで見たい。


4)元弘3年(1332年)12月の記事に前出の「穎谷大輔房」のほかに、「 同舎弟弥八 、穎谷三郎( 三位房子息)、 同助房」の記事がある。「三位房」は、日蓮の弟子の三位房日行のほかに、この年に後醍醐天皇が蜂起した元弘の乱で処罰された南朝方の重臣「伊達遊雅三位房」(奥州伊達家の支流。房は坊に同じ。)の可能性もある。穎谷三郎らは京から足利直義側に従軍し鎌倉に戻っており穎谷氏は南北朝に分かれて戦ったことになるが、これは他氏も同じで史実にも沿うだろう。


「茨城県立歴史館」の「秋田藩家蔵文書」に『明徹(めいちょう)岩城重隆書状 写』がある。これは水戸藩の大日本史の編纂過程で書写されて「茨城県立歴史館」に現存している。同名の岩城重隆は戦国時代だけでなく江戸時代(秋田亀田藩主)もいるが「明徹」は前者の法名のため、室町時代の末期、第15代の岩城家当主(-1569)の書状である。その宛先に「穎谷大蔵大輔(おおくらだいふ)」の名が残る。従ってこの「穎谷大蔵大輔」は、室町初期の「穎谷大輔」とは別の室町時代の末期の人物と特定できる。


穎谷大蔵大輔とは名前ではなく、朝廷の役職名だ。大蔵は大宝律令に「出納、諸国の調(一種の税金)、および銭、金銀、珠玉、鋼鉄、骨角歯(武器、釣り針など骨・角・歯などで作 られた道具)、羽毛、漆、長幕、権衡、度量、売買の͡估価、諸方の貢献(みつぎもの)の雑物のことを掌どる」とあり、天皇の行財政の中枢を掌握した役所だ。この大蔵の最上位の官職は「卿(かみ)」であり、「大輔(たいふ)」はそれに次ぐ次官であった。(『官職要解』による。)


4)『古事記』で諏訪神の「建御名方神」は「建御雷神(たけみかづち)」に敗れ、現在の長野県の諏訪湖付近まで逃げたとされる。腕を捕まえようとしたら、腕が氷や刀になって捕まることができず、逆に腕を掴まれると若葦のように投げ捨てられてしまった。武力で勝る諏訪神が敗れたのは、建御雷神が古代道教の「雷術」を使ったと読み取れる。


『古事記』から引用

「(建御名方神が言うには)然らば力競べせむ。」故その(建御雷神の)御手を取らしむれば、すなわち立氷(たちひ)に取り成し、また劔刃に取り成しつ。故ここに懼(おそ)りて退き居りき。ここに(逆に、今度は建御雷神が)その建御名方神の手を取らむと乞い歸(かえ)して取りたまへば、若葦を取るが如、攫(つかみ)み批して投げ離ちたまへば、すなわち逃げ去にき。故、追い往きて、科野國(しなの、信濃のこと)の州羽(すわ)の海に迫め到りて(後略)

※カッコ内の説明は筆者がつけた。


沼河比売は古事記で以後登場せず『日本書紀』も一切触れない。『先代旧事本紀』では「諏訪大社」の祀神となった建御名方神(たけみなかた)の母とされ、実は出雲神大国主命の妻とする。


建御名方神は破れて関東の諏訪に退き、諏訪大社に伝承を残した。沼河比売も諏訪大社の下社に祀られている。『古事記』や『日本書紀』から「沼河比売」消された事情も慮られよう。その後皇統は「河内」の「倭の五王」から「越」の継体天皇に代わり現在に繫がる。出雲・諏訪に追放された旧皇統があり、これは関東での平将門の蜂起とも重なって来る。地方勢力となって出雲神、諏訪神は関東・奥州の武士と結びつき、後に南北朝の争いの中、妙見神と融合したとする説があり興味深い。


坂上田村麻呂も諏訪神を崇めていたとされる。諏訪神党は本姓(ほんしょう)を「神」とし、神、神田、神内、神澤、神野など「神」が付く名字が多い。([『姓氏家系大辞典』による)『神氏系図』では建御名方(たけみなかた)神の十六世の末裔とされる諏訪氏は「前九年・後三年の役」で源義家の軍に従っている。諏訪神党の神谷氏は確認できていない。


永享7年の『長倉追罰記』には「梶の葉は諏訪の祝(ほふり)」「下条は梶の葉」「山辺・西牧に梶の葉を打つ」と示される。諏訪(長野県諏訪市)の大祝(おおほふり)氏と下条氏(現在の長野県下伊那郡下條村)、山辺・西牧の名字は、現在も栃木・千葉・福島に局在して残る。梶の葉の家紋は諏訪神の影響を強く受けた関東の武士団との関係が推測される。


出雲神は「大国主大神(おおくにぬしの-みこと)」、諏訪神はその子「建御名方神(たけみなかたの-みこと)」だ。『続日本後紀』承和9年5月の条で「南方刀美神(みなかたとみのかみ)」とされ同じく承和9年10月条や『新抄格勅符抄』では「健御名方富命」とする。共に含まれる「とみ」の発音は出雲族直系ともされ、蛇や鉄製造、鉄剣との関わりの強い「富(とみ)」氏つながる可能性を指摘する説もある。



参考文献

  • 『古事記』倉野憲司 校注 岩波文庫 1963
  • 『続日本紀』全現代語訳  講談社学術文庫 宇治谷孟 1995
  • 『続日本後期』全現代語訳  講談社学術文庫 森田悌 2010
  • 『和名類聚抄』
  • 『平治物語』 
  • 『源平闘諍録』講談社学術文庫
  • 『足利尊氏合戦注文』
  • 『明徹岩城重隆書状写』茨城県立歴史館
  • 『南北朝遺文』東北編273号 東京大学史料編纂所 
  • 『藤葉栄衰記』
  • 『足利学校住持譜』
  • 『大日本史料』(第六編)国会図書館デジタルコレクション
  • 『大武鑑』(全5巻 大洽社刊)国会図書館デジタルコレクション
  • 『足利武鑑』文久三年(1863年)写希言子梅年 版元金花堂須原屋佐助 早稲田大学蔵
  • 『応仁武鑑』天保弘化年間(1844-46)日本橋橋通十軒店 播磨屋勝五郎 早稲田大学蔵
  • 『歴名土代』
  • 『徳川実記』
  • 『古事記伝』本居宣長
  • 『朝野旧聞裒藁』島田三郎 大正11年11月  東洋書籍出版協会
  • 『士談』山鹿素行
  • 『名将名将言行録』
  • 『長倉追罰記』永享七年(1435年)
  • 『羣書類従(群書類従)』塙保己一 第29輯 (雑部第五)国会図書館
  • 『新訂 梁塵秘抄』岩波文庫 昭和31年 佐佐木信綱校訂
  • 『見聞諸家紋』国会図書館デジタルコレクション など多数
  • 『寛政重脩諸家譜』江戸幕府 国会図書館デジタルコレクション
  • 『神谷氏系譜』神谷大周 明治28年 国会図書館デジタルコレクション
  • 『法門可申抄』日蓮 中山法華経寺
  • 『安斎随筆』伊勢貞丈 全32巻 国会図書館
  • 『夜明け前』小説 島崎藤村
  • 『姓氏家系大辞典』太田亮 国会図書館
  • 『日本姓氏語源辞典』宮本洋一 示現舎 2016
  • 『図説千葉県の歴史』責任編集 三浦茂一 河出書房新社 1989年
  • 『日本家紋総覧』能坂利雄 新人物往来社 1990年
  • 『新集家紋大全』 梧桐書院 太田總一郎 1991年
  • 『新訂 官職要解』 和田英松 講談社学術文庫 1983年
  • 『官職と位階がわかる本』新人物往来社 2009年
  • 『船曳町史』昭和50年 福島県田村郡船引町
  • 『地名の謎』 今尾恵介 ちくま書房 2011年
  • 『道教の神々』窪德忠 講談社各術文庫 1996
  • 『「東山殿時代大名外様附」について』今谷明 史林 1980
  • 『風土記時代の「神門水海」の復元と出雲平野の発達』瀬戸浩二 学術の動向 2015年
  • 『足利義材の西国廻りと吉見氏』羽田聡 京都国立博物館学叢書 25号 2003年
  • 『「坂出文書」と奉行衆佐竹氏』鈴木満 秋田県立博物館 
  • 『「見聞諸家紋」群の系譜』秋田四郎 弘前大学國史研究(99号)1995年
  • 『中世熱田社の構造と展開』藤本元啓 続群書類従完成会刊 2003年
  • 『室町幕府と地方の社会』榎原雅治 岩波新書 2016
  • 『広辞苑』新村出編 岩波書店 第二版 1972
  • 『日本語の力』中西進 集英社文庫 2006
  • 『日本語の歴史』山口仲美 岩波新書 2006


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。