13. 幕府の寛政譜に見る神谷と壁谷
平安時代末期、桓武平姓(いわゆる平氏)の一族が壁谷の祖先と関るのかもしれない、それは文化9年(1812年)江戸幕府が作成した『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』の記事に見出される。
本書は、三代将軍家光の命で編纂された『寛永諸家系図伝 (かんえいしょかけいずでん)』を追補修正する目的で作成が開始され、大名家や旗本が持つ大量の古文書を収集整理し、最終的には1530巻に上ることになった大作だ。各家の資料を比較し、客観的な修正や疑問点も提示されており、現在もその信頼性は高いと評価されている。
大正6年(1917年)に活字化されたものが出版され、国会図書館で閲覧可能だ。本書の内容から推測できる可能性について、『国魂文書』『磐城資料』や『姓氏家系大辞典』などと照らし合わせて、いくつかの傍証も示しながら紹介したい。
源義家と「前九年」「後三年」の役
歴史上、幕府を開いた征夷大将軍はすべて「源義家(みなもとのよしいえ)」の直系子孫のみで占められているとされる。江戸幕府を開いた家康も、源義家の末裔である新田氏流の「得川氏」だと称して将軍の地位を得ていた。当然ながら『寛政重脩諸家譜』(以後『寛政譜』ないし本書とする)でも、第一巻の冒頭は「義家流」(源義家の子孫の家系)から始まっている。頼朝の系譜も足利氏も義家流の一つであり、そこから派生した「義家流」は他にも多数あった。三管領四職とされて幕府要職についた細川氏、斯波氏、畠山氏、一色氏、さらに吉良氏や今川氏らも足利氏の一族として「義家流」となる。
源義家は鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)」と呼ばれる。彼が稀代の英雄として後世に語り継がれた理由は、平安時代にさかのぼる。このころ事実上奥州を支配していたのは地元の豪族「安倍頼時(あべのよりとき)」「安倍貞任(あべのさだとう)」父子だった。朝廷に反目したとされると永承6年(1051年)に武勇で聞こえた「源頼義(みなもとのよりよし)」「源義家(みなもとのよしいえ)」父子が征伐に派遣された。これが有名な「前九年の役」だ。(実際には12年を要している。)最終的に地元の豪族「清原氏」が源頼義側に寝返って「安倍貞任(あべのさだとう)」が制圧されて終結した。
源頼義は、まもなく次の任地が伊予(現在の愛媛県)に移ったため、頼義に味方した地元の豪族「清原氏」がその後奥州を事実上支配することになった。一説によれば清原氏は「壬申の乱」で「天智天皇」系の政敵となった「天武天皇」の血筋で『日本書紀』の編纂者とされた「舎人親王」そしてその子「淳仁天皇(じゅんにんてんおう)」の後裔であるともされる。「淳仁天皇」の諡号は明治になって付けられたもので、それまでは名すらなく通称「廃帝」(淡路廃帝)と呼ばれていた。その一族は中央政府から一掃されており東国に地盤を移していた可能性がある。
※平安時代は四位以上は畿内に住むことが強要されたため、領地には代官を派遣していた。そのため源頼義が現地で力を蓄えることはできず、代官を務めた安倍氏、清原氏、のちの奥州藤原氏が勢力を伸ばすことになる。奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、安部貞任の妹だった有加一乃末陪(ありかいちのまえ)と藤原経清(つねきよ)の子である。余談だが娘、余談だが安倍晋太郎元外務大臣、安倍晋三首相(2018年5月段階)はこの安倍氏の末裔と語っている。
しかしその清原一族で内部抗争が発生、やがてそれが「後三年の役」に発展したのは永保3年(1083年)のことだった。そこで頼義の嫡子「源義家」が奥州に舞い戻って清原氏を討ち収拾させた。しかしこれを単なる清原家の私闘としか見なさなかった朝廷は、義家に恩賞を与えるどころか、逆に戦乱鎮圧に要した戦費の弁済を義家に求めた。朝廷側は、武士を汚れた野蛮なものとして蔑視し、快く思っていなかったきらいがあるともされる。源頼義・義家の生前の官位は従四位下であり、殿上人(てんじょうびと:天皇の宮殿に入ることが許された人)ではあったが、その名声に比して決して高い地位とはいえなかった。
源頼義・義家父子の武勇は都に響きわたっていた。その名残は『今昔物語』などに語り継がれている。朝廷からの恩賞がなかったため、義家は私費で功のあった家臣に恩賞を与えたとも語り継がれる。義家が朝廷から許されたのは、やっと10年後のことだった。後に源頼朝が旗揚げしたとき、東国の武士の多くが支援した原点は、ここにあったともされる。奥州征伐に向かう頼朝がこの頼義・義家が勝利したことを吉例として倣い、験を担いだことは鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』にも記されている。
義家の弟、源義光(新羅三郎義光:しんらさぶろうよしみつ)は、京にいて兄の苦戦を聞くと自らの官位を投げうって兄のもとに駆け付けたとされる。その義光の流れを汲むのが、戦国時代にその名も轟いた常陸の佐竹氏、そして甲斐の武田氏である。かれらは、義光流と言われ、義家流に次いでやはり源氏の名門を輩出することになった。
奥州藤原三代
「後三年の役」で義家の支援を得て勝利したのは「清原清衡(きよひら)」だった。清衡の実父は、「藤原経清(つねきよ)」だったが、実は「前九年の役」で最終的に安部氏側についたため処刑されていた。このため経清の正妻は勝者であった清原氏の後妻となり、経清の子だった藤原清衡は、清原氏の養子となって「清原秀衡」と名乗ることになった。後三年の役を招いたそもそもの根源は、藤原氏でありながら期せずして清原氏となった秀衡らが、本来の清原氏の主流と主導権を争ったことにあった。
※『尊卑分脈』によれば藤原経清は、「将門の乱」を征して名をあげ後世に「俵藤太(たわらのとうた)」の異名もついた「藤原秀郷」の六代の子孫であった。東国では藤原秀郷の支流が各地に所領を確保して大いに繁栄し、奥州藤原氏の繁栄もその一つとされる。この流れは江戸時代も続き藤姓「秀郷流」を称する武家が多い。別稿でも触れるが壁谷も藤姓秀郷流(奥州藤原氏流)との伝承をもつ家がある。
清衡の祖母や母(有加一乃末陪:ありかいちのまえ)は「前九年の役」以前に奥州の覇者だった安倍氏の出身であり、養父の清原氏はその「前九年の役」の勝者であった。こうして奥州の幾多の戦いの中で、常に勝利した側に庇護されて生き永らえてきたのが「清衡」であり「後三年の役」で父の仇(養父)を討ったことになる。このあと姓を藤原に戻して「藤原清衡」と名のると、そこから平安時代の後半に特記される「奥州藤原三代」の栄華が始まる。その名残は現在、世界遺産で国宝でもある平泉の中尊寺金色堂に今も垣間見ることができる。
その後、平泉の藤原三代は現地に住み着いた最強の豪族たちとの強い血縁関係でその栄華を現出させた。こうして奥州を征し、その影響力は関東にも及んだ。京にもその繁栄や実力が知れ渡っていたのだ。清衡の官位は正六位と意外にも低かった。それでも地方に土着して勢力を持つ方が、大きなメリットがあったといえよう。そして現地の有力者と代々に渡って強い血縁関係を結ぶことで、奥州の覇権を確立していくことになる。
「平隆行」と平姓岩城(いわき)氏
藤原秀郷と共に「平将門の乱」の征圧に功があったとされる、「平貞盛(さだもり)」「平繁盛(しげもり)」らは後に「陸奥守(むつのかみ)」となった。彼らの子孫も従五位下「陸奥守」などに任じられ、奥州の支配を朝廷から任されることが多かった。桓武平姓の重盛流は、「常陸平氏」「大掾平氏」の実質的な祖となったとされる。その一族は伊勢に戻って「伊勢平氏」となり、平安末期に平清盛を輩出することになるのだ。
※平繁盛の子「平維茂(これしげ)流」という説もある。惟茂は『今昔物語集』にも登場し、「信濃守」(現在の長野県の国司) 従五位上「鎮守府将軍」にもなった。
岩城氏の系統は『寛政譜』によれば平繁盛の子「安忠」の五代の孫が「平隆行(たかゆき)」が「後三年の役」の後に「陸奥守」となったのが始祖とされる。隆行の祖母も、前九年の役の前には奥州の覇者だった「安倍頼時」の娘であり戦国を逞しく生き抜いた女性として有名な「有加一乃末陪(ありかいちのまえ)」とされる。この地域で勢力を維持するため、安部氏、藤原氏、平氏の有力者が互いに政略的な結婚を繰り返していたことがわかるだろう。
前九年と後三年の役を、藤原氏の側から見てみよう。「前九年の役」で清原氏が地元で強権を握ると、有加一乃末陪らは清原氏の庇護のもととなり、まだ小さかった「藤原清衡」、「平隆行」の二人は、清原家の養子に入り、それぞれ「清原清衡」、「清原成衡」と名を変えた。このような複雑な事情が、後に清原氏の内部抗争を引き起こし「後三年の役」が起きたのだ。
「後三年の役」で勝利すると、それぞれ清原を捨て、清衡は藤姓に戻して「藤原清衡」に、成衡も平姓に戻して「平成衡(なりひら)」となのった。平隆行という名に戻さなかったのは、藤原氏との関係の深さ(兄弟としての絆)を維持したかったのかもしれない。成衡の父は「藤原清衡」の妹で、しかも正室は「藤原清衡」の養女を迎え、その後三代に渡って奥州の覇者だった藤原清衡との関係が深い。一方では後室に「源義家」の妹を迎えてもいた。こうして見ると、地方の有力者たちは、地元の実力者だった安倍氏、清原氏、そして奥州藤原氏、さらには源義家らとの間で密接で複雑な縁戚関係を常に保ち続け、勢力を維持していたこと如実にわかってくる。
実はこの「平成衡」に関しては謎が多い。何度か名前を変えただけでなく、『清原系図』によれば平安忠の次男にも、同名の「平成衡」がいる。そのため後年の系図でも混乱を招いているようだ。清原家に養子に入り「清原成衡」を名乗ったことは『奥州後三年紀』に記載があり、「平成衡」を清衡真衡の養子とした点は一致している。これにより平隆行(もしくは平成衡)がこの地方で後世に繁栄した平氏一族の始祖と語り継がれていた可能性がある。また清原氏自身が実は「海道平氏」の一族だったという研究者の指摘もあるようた。なお「海道(かいどう)」は主に現在の茨木から福島県浜通りを指し伊勢を介して京に繋がっており、古代は「海道(うみつみち)」と言われた。これに対し、陸地を通る中通りは「仙道(せんどう)」、もしくは「山道(せんどう)」と言った。
平安末期に源頼朝が挙兵すると、奥州藤原氏と密接な関係があった平成衡は、一転して鎌倉方について奥州藤原氏を滅ぼした。しかしこれで本領安堵を得ることができたのだ。さらに鎌倉幕府の実力者となっていた二階堂氏の娘を室に迎えた。平成衡は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて、以後の繁栄の基盤を着実に築きあげていった。この二階堂氏は頼朝と強い血縁関係と官吏としての能力が評価され鎌倉幕府の要職を歴任し、室町時代の後半には奥州須賀川(現在の福島県須賀川市)の地に移って戦国大名となり伊達政宗に滅ぼされるまで続いた。
※室町時代の須賀川の壁谷氏については別稿で触れる。
『寛政譜』によれば、当地の支配を固めた平成衡には、5人の子がいて以下のように領地を分けて収めさせたと記録されている。そして二男隆衡は、以降「岩城氏」の宗家を名乗ったとされる。
平隆行(平成衡)の五人の子
- 長男 隆輔(たかすけ)楢葉氏 母は二階堂氏の女子。楢葉郡
- 二男 隆行(たかゆき)岩城氏 母は藤原清衡の養女。のち隆衡(たかひら)神谷始祖。
- 三男 隆久(たかひさ)岩瀬氏 母は藤原清衡の養女。岩瀬郡
- 四男 隆義(たかよし)白土氏 母は二階堂氏の女子。椎葉郡
- 五男 隆行(たかゆき)行方氏 母は二階堂氏の女子。行方郡
※椎葉は標葉とも書かれた。樋平安時代の楢葉(なるは)郡と、標葉(しめは/しべは)郡は後に合併し双葉郡となった。(現在の福島県双葉郡)岩崎郡は現在の福島県須賀川市。行方(なめかた)の地名は、平安時代からある地名で、それぞれ現在の福島県西白河市(中通り)と、茨城県行方市にあたる。
系図上この「平成衡」は自らの二男そして五男に、自らの旧名と同じ「平隆行」を名乗らせた形となる。親子で3人の「平隆行」がいることになるが、系図には他にも複数の「隆行」が見つかっている。「平隆行」が始祖として伝承されていたことで、残された系図が後世に混乱した可能性も充分考えられ、これが岩城氏の系図の、わかりにくさの一因でもあろう。
藤原清衡の養女の子とされる二男「隆行(隆衡)」のひ孫には「基秀(もとひで)」がいた。本書ではこの、基秀が平安時代末期に「穎谷某」と名のり、後に「神谷」と名を変えたとされ、その子孫は岩城氏の家臣となったと記されている。後述するが、ここに登場する穎谷は「かびや」と、そして神谷は「かべや」と発音していた可能性が高い。
室町時代の永享10年(1438年)に燻っていた室町幕府の内紛で、京都にいた将軍の「京都将軍」側と、関東を任されていた鎌倉府の「鎌倉公方」が戦うことになったのが「永享(えいきょう)の乱」である。岩城氏は京都将軍側を支援して勝利に大きく貢献したことが認められ、室町幕府で重きをなすことになる。こうして岩城氏は室町幕府の名門家となり、関東・奥州に幅広く広く勢力を広げた。
なお江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』では、岩城氏について以下のように記されており『寛政譜』とは若干違い、平姓貞盛流としている。藤原清衡との関係はここでも触れられている。岩城氏が平氏でありながら、武家藤原氏の名門、秀郷流の地を引くこと、当時も語り継がれていたことなのだろう。
『藩翰譜』第八巻「岩城氏」の項の冒頭部分を引用
岩城氏
鎮守府将軍(平)貞盛の孫、岩城次郎則道の十九代の後胤たり。鎮守府将軍藤原秀衡、徳尼子という娘、則道に配せて、岩城の郡を譲り興へしより、岩城とこぞは名乗(り)てけれ、
『國魂文書』の系図との照合
実は、江戸時代の寛政期の系図は、江戸時代の諸家の事情(後述する)で、祖先の系図を若干改竄した可能性が指摘される。そのため、福島県いわき市の「大国魂神社」に残されている『國魂文書』(福島県重要文化財)で照合してみる。この系図は室町時代に作成されたとされ、当時の事情により忠実で信頼姓が高いと評価されている。この『國魂系図』では平隆行の子は、次の5人となる。(母の名は不明)
平隆行(白土隆行)の五人の子
- 長男 隆祐(たかすけ)楢葉太郎(絹谷氏、岩間氏、岩城氏、穎谷氏、鎌田氏祖)
- 二男 隆平(たかひら)
- 三男 隆久(たかひさ)岩崎三郎(岩崎氏祖)
- 四男 隆義(たかよし)標葉四郎(標葉氏祖)
- 五男 隆行(たかゆき)行方五郎(父と同名、行方氏租)
※長男隆祐の一族が、神谷氏の始祖とされる。
「衡(ひら)」が「平(ひら)」になっているなど字が違うが、文字表記は書き残した側の事情に左右されるので大きな問題ではない。(筆文字の場合、画数の多い文字は同じ発音の違う文字で書かれることも多かった。これを代字という。)しかし始祖の平隆行は、白土の地を領して一旦は白土氏を名乗ったとされ、この平隆行自身が、白土氏だったとする。この系譜は今までのものと異なる。また、その子供たちの流れも違う。さらにこの後の系図を追うと、孫の「義衡」が絹谷氏を名乗り(絹谷四郎)その三男である「基秀」が穎谷(かびや)氏を名乗った(穎谷三郎)とされる。基秀の兄であった「照衡」は、本家の岩城家を継いだ形になっている。これは本家岩城家に後継ぎがなく、養子に入った可能性がある。これ以降の系図には「衡」の通字が盛んに表れる。奥州藤原三代が全盛を誇った約100年間に渡って藤原氏と強い関係があったことが推測される。
※後述するが、この白土氏はのちに武神(妙見菩薩)を擁護する神官としての役割も担う神谷館の館主として仕えるようになる。穎谷(かびや)氏、絹谷氏、そして神谷氏はその一族だったということになる。
※標葉(しべは)氏と、楢葉(ならは)氏は樽(なら)と楢(たる)の字の混乱があり、筆文字の読み違いか記録上の混乱も多い。Wikipedia では同一ともされる記事がある。また標葉は椎葉ともかかれる。さらに、のちに標葉郡と楢葉群があわせて双葉郡と名を変えている。(現在の福島県双葉郡)これらの事情があり、記録には混乱が多いとも思われ筆者には完全に区別・整理ができていない。
明治45年に出版された岩城氏の歴史の解説書『磐城資料』では、また少し違う見方をしている。おり次男の平隆久が好馬郡に住し、石森山に砦を築いて岩城氏宗家を継いだとする。
『磐城資料』から引用
長男隆行を樽葉太郎と偁し木戸に住し、砦を子規山に構ふ、第二隆衡を岩城次郎と偁し好馬に住し、砦を石森山に構ふ、第三隆久を岩崎三郎と偁し、舟尾に住し、砦を笛が森に構ふ、第四隆義を標葉四郎と偁し請戸に住す、第五重胤を行方五郎と云ふ、小高に居る。而して宗家を嗣くものは隆衡なり。
『磐城資料』の内容を同じように列記すると次のようになる。
- 長男 隆行(楢葉太郎) 木戸 子規山城
- 次男 隆衡(岩城次郎) 好馬 石森山城 岩城宗家を継ぐ。
- 三男 隆久(岩崎三郎) 舟尾 笛が森城
- 四男 隆義(標葉四郎) 請戸
- 五男 重胤I(行方五郎) 小高
「平隆行」は白土城(現在の福島県いわきし市南白土)を築き、平姓白土氏はこの五人の祖であり、その白土氏から、楢葉氏、岩崎氏、標葉氏、行方氏、絹谷氏、穎谷氏、岩間氏、岩城氏、穎谷氏、鎌田氏などが分かれたことになる。これらの記述が正しければ、平姓の名門岩城氏の嫡流は一旦絶えたあとに、白土(楢葉)氏の次男が再興した(もしくは養子となって継いだ)と推測される。このことを以て、國魂系図においては、白土・楢葉氏を岩城氏の本流としていると推測される。
※『寛政譜』では、平隆行(成衡)が岩城氏の支族である白土氏あるいは楢葉氏となって、この系統から後世の岩城氏の本流が出たという注意書きがあり、その点で國魂文書や岩城資料との一致も見る。
『國魂系図』や『磐城資料』からわかるのは、一族の中で勢力を得たのは「白土氏」や「楢葉(ならは)氏」であって、実はここから後の岩城氏の本流が発生したこと、そして「穎谷(かびや)氏」もここから生まれたということになる。岩城氏の本宗家を継いだとされる岩城次郎の城があったのは石森山であった。
現在のいわき市にある石森山の南側に面したふもと、および近隣の田村の石森地区(石森屋敷など)には、どちらも数十家の壁谷が現在もまとまって居住している。この岩城氏との関連性が大変興味ぶかく、壁谷と関わりが深いと思われる神谷氏の出自を整理するために、大変重要な意味を持っていると思われ、今後も何度か触れたい。
岩城氏は『寛政譜』によれば室町時代の「永享の乱」以降に室町幕府を支え、将軍家一族に列せられて隆盛を誇り江戸時代にも大名家として残った。岩城氏側が幕府に提出した資料では、自らの岩城氏を平姓の本流とするために、おそらく本来の平姓の嫡流だった白土氏や室町時代にも名族として残っていた本来の本流「楢葉氏」の情報を消し、支流だった「岩城氏」を古来からの本流と書き換えたとも推測できる。奥州藤原氏以降の岩城氏につながる系図をわかりにくくしている一因となった可能性があろう。
なお、穎谷氏は、平姓の岩城氏や千葉氏以外にも、鎌倉期の現在の茨木県あたり拠点としていた佐竹氏(源姓義光流)など複数家の重臣の名にも見つかる。別稿で述べるが、穎谷氏は武神の信仰を支える一族だった可能性が高く、近隣で親交のあった他の武家にも広がっていったと推測される。
※『国魂系図』では、このあたりの系図で数代にわたり「義」の字と「衡」の字が多数登場していることは、源姓義家流や藤姓秀郷流の奥州藤原氏との血縁関係の深さがなお一層はっきりする。実際は、平氏だけでなく藤原氏ないし、源氏の血も継いでいるように見える。戦乱の続いた当時の情勢からみてその可能性はかなり高い。
穎谷はどう読むのか
ここまで「穎谷」に「かびや」と仮名を振ってきた。現在この名字はおそらく残っていない。正確な発音はわからない。この穎谷の「穎」の字は、古くは「かび」あるいは「のぎ」と読んだ。ここから「穎谷(かびや)」あるいは「穎谷(のぎや)」と読まれたと推測される。ある資料によれば、この時期に登場した平氏の同族である「穎谷」「神谷」「貝谷」は、いずれも(室町時代に)濁点をつけずに「かひや」と清音で発音されたとされたとある。おそらくは公家の発音の影響だろうか。(出典を失念しており再探索中。)
※室町時代に長曾我部(ちょうそかべ)氏について京の公家が書いた日記には「ちゃうすかめ」と記録されている。濁点が付くのは東国なまりともされており、京近辺では「かべ」は「かめ」「かい(ひ)」などと発音されたと推測される。
読みで「エイ」訓読みで「ほさき」「すぐ-れる」と読むようだ『史記』平原君伝には「穎脱(えいだつ)」の故事があり、特に優れた才能で突出していることを指す。平成12年に文部省国語審議会で「穎」を「標準体」「頴」を「簡易慣用字体」とすると決まった。これにより、現在は「穎」は「頴」と書かれるようになり「禾」の部分を「示」と書くのが正式な文字となった。中国清の時代に編纂された漢字字典である『訂正康熙字典』には「穎」はあるが、現在日本で使われている「頴(えい)」という文字は存在しない。本来「禾」とするものつまり「穎」が正しい文字だ。
※現在の中国では「穎」が正式な繁体字とされる一方で、「頴」が異体字とされている。なお中国で通常使われれる簡体字では「颖」が常用されるが、やはり「禾」が使われている。
古代からあった「穎」の文字は、稲の穂先にできる堅い種籾を意味していた。秋になるとの穎の殻が2つに割れて開き(稲の開花)、自家受粉すると再びこの穎が閉じる。こうして穎の中に実がなったのが種籾でありその場合は「かび」という。周りの堅い殻を取り除いて精米したものが、我々が毎日食べている米である。後者の「のぎ」は、本来開花前に穎の先端にある長く飛び出たトゲのような突起を指し、転じて藁わらも意味したようだ。(現在「のぎへん」と呼ばれる「禾(のぎ)」である。)
一般の辞書では「穎」は「えい」「のぎ」などと読まれる。しかし、以前は違っていたようだ。大正初期に編纂され、掲載語数22万語を越える大書『大日本国語辞典』では「穎」の文字は「えい」と「かひ」「かび」の3つの発音が登場する。「かひ」の用例としては、「祈念祭(としごいのまつり)」の祝詞(のりと)で使われている例があげられ、「かび」は日本最古の漢字辞書と思われる『類聚名義抄』(平安時代には成立とされる)での用例が掲載されている。
※「祈年(としごい)祭」は、五穀豊穣などを祈る神道の祭祀で、11月の豊作の感謝する「新嘗(にいなめ)祭」と対になる行事。工藤隆『大嘗祭』によれば新嘗祭は稲作民族に共通する古代儀式で『日本書紀』の天照大御神の項でも登場する。これと対になる儀式として天武・持統天皇のころまでに整備されたのが「祈年祭」と思われる。現在も皇室行事として2月に祈念祭、11月に新嘗祭が行なわれている。
富山房『大日本国語辞典』から引用
かひ 穎(名)穂のままなる稻。穂。祝詞式(祈年祭)「千穎(カヒ)八百穎(カヒ)爾、瓺閇高知、瓺腹滿雙、汁爾穎母稱辭竟奉牟」名義抄下「穎(カヒ)」
かび 穎(名)かひ(穎)に同じ。(箋注)和名「唐韻云、穎(訓、加尾)穂也」
※「名義抄」と平安時代にはあったとされる辞書『類聚名義抄』。原本は散逸し鎌倉時代以降の写本が宮内庁などに残り一部は国宝に指定されている。「穎」はその「下巻」に登場する。なお「稻」は「稲」の旧字体。「閇」は「閉」じるの異体字。
※「箋注」とは『箋注倭名類聚鈔』のこと。平安時代の辞書『倭名類聚鈔』を分析し注釈した書。江戸時代後期の文政10年(1827)成立とされ全10巻。狩谷棭斎(かりやえきさい)による。
「かい」または「かび」はしっかり仮名が降られているが、中国唐から伝わった文字であり、江戸時代の国学者の研究で本来の和音は「加尾(かび)」であると記されている。これらのことから、平安時代までは「かび」と発音されていた可能性が高く、次いで「かひ」と発音されていた可能性がある。(「かい」と書くのは、現代語読みとなる。)一方で、「穎」を「えい」と読むのは漢語であり、古来からの日本の発音(種に呉音)とは異なる。
岩波『広辞苑』第二版から「穎」と「加被」
かび【穎・牙·】①.芽。記上(『古事記』上巻)「葦―(牙)の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は(天之御中主神)」②.穂。多く稲の穂にいう。
かび【加被】神仏が威力を加えて人々に事をさせること。加護。平家(『平家物語』)七「もし神明仏陀のー(加被)にあらずは」
※カッコ内は筆者が加えた。『日本書紀』では「かたち葦牙の如しすなわち神となる。国常立尊ともうす。」とする。国常立尊は伊勢神道であらゆる神の根源神とする。
富山房『大日本国語辞典』から引用
えい 穎(名)
一、稻の穗を田租に用ふる時の稱。
主稅寮式(下)「穀若干束(中略)穎若千束」江次第鈔(四、定受領功課本穎「九抄云、稻者、刈本謂乏稻切穗謂之穎。莖ながらをば稻と云ひ、もみながら置くをば穎と云ふ」二、植物學上の用語。禾本科植物の小穂の最下部に位する二枚の苞にして,其の腋には花を有せざるもの。
「えい」の項には『主税寮(ちからのつかさ)式』の規定での用例が引かれている。しかし、穎の文字には「えい」と仮名が振られておらず、引用はされているものの確かに「えい」と発音したことは確認できない。「穎(えい)」はは本来の和音とは違ったと思われる。奈良時代以降に唐から入った律令の影響で、皇室の公式行事などに関してはそのまま唐風に漢音で読まれた可能性が高く、古来の日本語とは別の発音だった推測される。
またこの辞書では「二、植物学上の用語」と説明があり、辞書編纂時の大正時代には「えい」と読まれるのが一般的となっており、そのためこの辞書ではとくに穎に仮名を降らなかったことが推測される。これらのこと、「穎」の字の平安時代の本来の和音の発音は和音の「かび」であったが、一部の公式文書などでは唐風に「えひ」と発音され、時代が下るにつれて徐々に漢音の「えい」と発音されることになった可能性が高いと思われる。このため本稿を始めとして「穎谷」は「かびや」と一般に表記するする。
※鹿児島の南に揖宿(いぶすき)郡にあった「穎娃(えい)町」が以前は存在した。鎌倉時代にやはり平姓の穎娃氏がこの地を収めていたとされる。当時の正しい発音や、穎谷との関連があるかなどは不明。京を追われた古代豪族の大伴(伴)氏の末裔がこの地に流れてきて領するようになると、名字を変え穎娃(えい)氏を名乗ったとされる。(現在は頴娃と書かれる。)
当時は文字表記に濁点は正確には記されなかった。そのため当時の記録を見ても発音が「えひや」「かひや」「かびや」「のぎや」などのどれだったのかは、実際には正確にわからない。江戸時代の『武鑑』でさえ、現在の東京都内の地名で「あさふ(麻布)」「一っはし(一橋)」「三はん丁(三番町)」「八丁ほり」「するかたい(駿河台)」などと濁点のない記述が多い。また、古資料の多くは原本が失われており、江戸時代に記録を残すため筆写された。とくに江戸後半になると、商売として筆写されてたものが大量に流通した。当然ながら筆写のミスが多い。(『武鑑』は江戸時代のベストセラーともいわれるほど大量に筆写されて販売された。)
※丁(ちょう)と町(まち)は江戸時代区別されていたという説がある。『地名の謎』では、武家町は「丁(ちょう)」で、町人が棲むのが「町(まち)」だったとしている。
※戦国の雄、伊達政宗の「伊達(だて)」は本来は「いだて」と発音されていた。大阪の陣の直前となる慶長18年(1613年)、伊達政宗がローマ法皇に送った書簡には Idate Masamune と直筆サインがある。
なお平姓岩城氏の一族には貝谷氏がいたともされる、貝谷の名字について『日本姓氏語源辞典』を引いてみる。そこでは出雲地方(現在の島根県)にみられる名字「貝谷(かいや)」が紹介され、古くは現在の福島県いわき市の「頴谷」と称していたという伝承が現在に伝わっている。この名字の発音は推定で「エヤ」だ、と記されてされている。しかしそれだと現在「カイヤ」と発音することになったのと整合性がなくなる。筆者が思うに、おそらく「貝谷」本来は「穎谷」が正しく、その発音も「穎谷(かびや/かひや)」であったろう。「穎谷」の名字が島根県西部で「貝谷」の名字になったと伝承があることは、大変興味深い。
※関東では「谷(や)」と初男音するが、大まかに京都以西では一般に「谷(たに)」と発音する。したがって「かいや」の発音を名字に残すためには「谷」は「屋」となったと推測できる。
『日本姓氏語源辞典』から引用
カイヤ 貝屋 長崎県北松浦郡小値賀町、大阪府・新潟県。職業。貝屋の屋号から。長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷、新潟県妙高市下濁川に分布あり。貝谷姓あり。※島根県西部(旧:石見国)では福島県いわき市で「頴谷」と呼称していたと伝える。頴谷は現存するか不明。推定での発音はエヤ。
『姓氏家系大辞典』で穎谷と神谷を検証する
氏族制度の研究に生涯を捧げたともされる太田亮が、 昭和初期に日本の各種の古資料を分析し、日本の姓氏の由来をまとめ上げた大作『姓氏家系大辞典』がある。現在でもこれを超える姓名研究の辞典は見当たらず、それ以降もこの書を出典として追補するものが複数出版されている。この大書によれば、それぞれは「穎谷(かひや)」「神谷(かべや)」と発音したと記され、ともに「平基秀(穎谷三郎)」の子孫としている。これは『寛政譜』の記述や『國魂文書』の記述とも矛盾しない。
『姓氏家系大辞典』から引用
穎谷 カヒヤ
「磐城國磐城郡穎谷邑」よりおこる。桓武平氏岩城氏の族にして、仁科岩城系図に「岩城二郎隆衡-平次郎隆守-左衛門二郎義衡-基秀(穎谷三郎)」とあるより出づ。三坂元弘三年十二月文書に「穎谷三郎(三位房子息)、同助房、同家人良姓房之四国彌四郎、同奥子四郎、」等見え、其の後「穎谷大輔房」あり、延元二年正月、佐竹氏の命を奉じて、三筥、湯本の二城を攻む。(飯野文書、國魂文書、佐竹系図、岩城長福寺文書、闕城繹史)。建武四年正月十六日麻續盛清軍忠狀に「佐竹彦四郎入道大輔房」と。下って天文の頃、穎谷眞胤あり、神谷條参照。
※元弘三年(1333年)は後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、鎌倉幕府が滅ろんだ年。また延元二年(1337年)は南朝の年号。足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した年。(延元の乱)北朝では建武四年(1337年)を使った。なお三郎は通称であり三男を意味する。初代の「穎谷三郎」とされる平基秀は系図上平安時代の人物であり、引用にある元弘三年の穎谷三郎とは別人。穎谷氏は代々三郎の名を継いだ可能性が高い。なお「同助房」の助は輔と同意であり、4年後の延元二年に記録に残された「穎谷大輔房」を指すと思われる。
※文永6年(1269年)に日蓮にその慢心と世俗性を指摘されて破門された高名な弟子に「三位房」がいるが、その三位房は下総の平姓曾谷(そや)氏、が出自であるとする説があり、それは平姓岩城氏あるいは千葉氏の一族會谷(かひや)氏の誤記(筆文字による曾と會の混乱)かもしれない。千葉氏は日蓮の中山門流であり、日蓮宗寺院には現在も妙見菩薩が多い。
※建武四年の記事は信州の武士「麻績(おみむら)兵衛太郎盛清」による、いわき湯本館の合戦での軍功報告であり「佐竹彦四郎入道代穎谷大輔房等之を見知る」(筆者による読み下し)として証人にあげられている。他にも複数の証人の名があげられるが残りの官位は六位であり、穎谷大輔ひとりだけが官位が高く(正五位、もしくは従五位)かつ武田氏と並ぶ源姓の名門佐竹氏の代理とされている。
引用文の最後にある、「天文(てんぶん)の頃」は伊達家当主だった晴宗(伊達政宗の祖父)に宛てた文書の差出人の名に「穎谷眞胤(まさたね)」がある。室町後期の1532年から1555年、文書の4月10日の日付があるのみだが、その内容から「伊達天文の乱」の真最中の天文16年(1548年)の4月と推測されている。穎谷眞胤の「胤」の名は、平姓千葉氏の通字(代々の子孫で使われる文字)であり、この名から千葉氏との強い関係が示唆される。一部で「神谷」に名を変えないまま「穎谷」を名乗り続けた一族が残っていたか、あるいは「穎谷」「神谷」が当時混用されていた可能性もある。
※同じ天文のころには相馬盛胤、顕胤、義胤らがいる。相馬氏は平姓千葉氏の支流(奥州千葉氏)であり、やはり「胤」を通字にしている。平安末期から鎌倉時代にかけて平姓千葉氏の中興の祖といわれる千葉常胤は相馬郡を領して、のち下総に進出して頼朝の幕府創設を支えた、このため千葉氏は鎌倉時代から室町前半に関東一円を広範囲に支配し全盛期を迎える。相馬氏は後に奥州に退いて、戦国時代には伊達や田村氏、二階堂氏と争っている。
神谷氏の祖先とされる穎谷氏には「穎谷大輔房あり、延元二年正月、佐竹氏の命を奉じて」とあり、源姓義光流の名門、佐竹氏の家臣にもいた可能性がある。大輔は官位名であり、正五位もしくは従五位であり、地方行政官としては守(かみ)に次ぐ介(すけ:次官)に相当する。別稿で触れる佐竹氏家臣にいた可能性のある現在の壁谷の一族と繋がるかもしれない。
『姓氏家系大辞典』から神谷氏について引用
神谷 カミヤ カミタニ カメガイ カベヤ
1.桓武平氏磐城(※岩城)氏流、「磐城國磐城郡神谷邑」より起こりならん。「カベヤ」なりと。岩城義衡の子神谷三郎基秀の後にして、磐城系図に「平次郎隆守-左衛門二郎義衡-基秀(穎谷三郎)」とある、これなり。四十八館記に「神谷平六郎忠政」見ゆ。
2.桓武平氏千葉氏流「同上(※磐城國磐城郡という意味)神谷邑神谷館(妙見館)」は千葉氏の族斎の居所にして、千葉族の氏神妙見を城内に祀るが故に、妙見館と云うなりと。卽ち此の氏は、相馬、大須賀等の同族と共に、當地方に下向せしにて、白土邑を領せしにより、「白土氏とも呼ばる。」戦國の頃。「妙見館主白土入道運隆」あり、その後裔なりとぞ。されど前條磐城氏にも白土氏あり、白土、穎谷條参照。
※筆者による筆写。()は原文にあるまま。ただし「」や(※)の解説は筆者がつけた。「館」は「たて」と読み、砦や城を指す。
『姓氏家系大辞典』においては、神谷氏は上記の2流以外に14支流、合計で16流が掲載されている。しかし圧倒的に歴史が古く、かつ確かな記録が残るのは平安時代末期から室町時代初頭にかけての上記の2流のみである。残りの14流は室町時代以降、神谷の地を領したことで、神谷と新たに名乗ったか、もしくは由来が不確かなものになる。そのため、本稿ではこの2流について触れる。残り14流については次稿以降で触れたい。
穎谷氏の「磐城国磐城郡穎谷邑(かひやむら)」や神谷氏の「磐城國磐城郡神谷邑(かべやむら)」から、「穎谷邑」=「神谷邑」が強く示唆されるが、それは穎谷氏が後に神谷氏に名字を変えたという江戸幕府の『寛政譜』とも一致する。さらに、穎谷氏の始祖が「穎谷三郎基秀」であり、神谷氏の始祖も「神谷三郎基秀」と、ともに平(たいら)三郎基秀としている点も一致する。
さらに、平成磐城(岩城)氏の神谷氏も、平姓千葉氏の神谷氏も、同じく磐城国磐城郡神谷邑」にあった「神谷館」に関わっている。太田亮が指摘する『四十八館記』の内容については、現在筆者は確認できていないが、おそらく「岩城四十八館」とされる城郭のことを記した資料だろう。岩城四十八館には確かに「神谷館」があった。太田の記述によれば、いわきの神谷村にあった神谷城に「神谷(かべや)平六郎忠政」がいたことになる。また、千葉氏の「神谷館」は妙見館ともよばれ「妙見館主白土入道運隆」がいたとされている。
穎谷氏が神谷氏となったとする『寛政重脩諸家譜』の記述、江戸時代に磐城平で起きた「元文一揆」で磐城地区に「壁谷(かべや)村」が存在したと記されてる資料があること、現在も福島県いわき市に「神谷(かべや)」と呼ばれる地名が広範囲に残っていることなどとあわせると、穎谷氏=神谷氏=壁谷氏ではなかろうか。そう推理することに一定の蓋然性が生まれてくるだろう。
千葉氏流の神谷氏は千葉氏の「妙見信仰」を支えた。妙見信仰は、中国道教に由来をもつ北極星(天皇大帝)と北斗七星の信仰が仏教と結びついたものであり、「平将門(まさかど)」を始めとして武家に浸透した。後年には、富の象徴「大黒天」、武力の象徴「毘沙門天」、知財の象徴「弁才天」の信仰に繋がる。現在の福島県内には、妙見と名の付く地名や旧跡が多く存在し、妙見神社も存在する。また、福島県に伝わる壁谷の家紋には、雷神信仰と関わる「六耀星」が残されている家がある。九曜星も六曜星も、根源は同じく中国古代道教に基づく。北辰(北極星)信仰ともかかわりが深い。参考までだが家康の廟所として名高い「日光東照宮」の陽明門とその前の鳥居の中心の延長線に北極星がくるとされ、「北辰の道」などとも呼ばれており、江戸時代の初期まで根強い北辰信仰が残っていたことを物語っている。
※『源平闘諍録』では、平将門を守護していた妙見菩薩が、千葉常胤の守護にのり移ったとしている。その後千葉常胤は、源義朝・頼朝父子を相馬や下総で支援し保元の乱で活躍した。しかし平治の乱では破れて源氏は壊滅的打撃を受け平清盛の栄華が始まる。頼朝が伊豆に流されるが後に挙兵した頼朝を下総に匿い、鎌倉幕府創建に大きく貢献したのはこの千葉常胤だった。このため千葉氏は鎌倉時代、室町時代の前半は大いに栄え、室町時代は三管領四職に次ぐ地位とされ、侍所の別当(長官)を務めていた。この千葉氏を支え続けた妙見菩薩を祀る妙見館の館主が、神谷氏とされる。
千葉氏の神谷は「相馬、大須賀等の同族と共に、當地方に下向せしにて、白土邑を領せしにより白土氏とも呼ばる。」とあり神谷氏は白土氏、相馬氏、大須賀氏とも同族とさえている。何度も白土氏がでてきているが、以下に同じ辞典からこの白土氏を引く。
『姓氏家系大辞典』から引用
白土 シラド シラッチ
大和國に白土庄あり、東大寺文書に見ゆ。又磐城に此の地名存す。2 桓武平氏岩城氏族 「磐城國岩城郡白土邑」より起る。岩城師隆の子椎葉四郞隆義の子孫, 此の地にありて白土を稱し、後岩城朝義の子隆興、白土隆茂の養子となれる。應安の頃、白土常陸守隆弘といふ人あり。 飯野八幡社文書に見ゆ。
※飯野八幡は、現在福島県いわきし市にある古社。社伝では、前九年の役の鎮守府将軍「源頼義」の創建と伝わる。應安のころとは、室町時代初期の1368-75年。『飯野八幡文書』によれば伊賀氏が飯野八幡の神主を務めていた。『寛政重脩諸家譜』では伊賀氏の末裔が三河の神谷地区に居していた神谷氏だとする。
『国魂文書』では、平姓の楢葉氏(岩城氏)は、白土の地を領して一時白土氏と称しており、ともにに「磐城國磐城郡神谷館」の館主(城主)であり、そしてともに、磐城神谷邑出身とされる。岩城氏のもとにあった神谷館の館主の神谷氏と、千葉氏のもとにあった神谷館の白土氏(下向した白土邑が発祥)は各種の資料から同一出自ということでほぼ間違いないだろう。
※平将門の乱のあと、陸奥守や、常陸大掾を歴任した平貞盛の四男「平維衡(これひら)」は、摂政関白だった藤原道長「四天王」のひとり。(『十訓抄』による)「下野守(しもつけ:現在の栃木)」を務めた後に、「伊勢」に移り後の平清盛を輩出する名門「伊勢平氏」の租となった。伊勢平氏の家紋は「揚羽蝶(あげはちょう)」である。「海道平氏」はこの伊勢平氏から派生した傍流のひとつともする説があり、白土氏、岩城氏らも本来の家紋は揚羽蝶だった可能性がある。
穎(かび)と神
『文選』(もんぜん)に「五穀垂穎」がある。穎(かび)が垂れるとは、すなわち稲穂が実り重くなって頭が垂れていることを表し、五穀豊穣を象徴している。また『日本書紀』天智天皇三年にも登場する。岩波の『日本書紀』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋訳)では稲が実って穂が垂れる姿を「垂穎(かぶ)」と仮名をふっている。「垂穎(たりほ)」とする例もあるが、漢語で記述された『日本書紀』では、「穎」の唐音である「加尾」を採用していると見なすのが正しいと思われる。
岩波『日本書紀』天智三年十二月
是の月に、淡海国言さく「坂田郡の人小竹田史身が猪槽の水の中に、怨然に稲生れり。身、取りて収む。日日に富を致す。栗太郡の人磐城村主殿が新婦の床席の頭端に、一宿の間に、稲生ひて穂いでたり。其の日に垂穎(かぶ)して熟なり。明日の夜、更に一つの穂を生せり。新婦庭に出づ。両箇の鑰匙、天より前に落ちたり。婦取りて殷に与ふ。殷始めて富むこと得たり」とまうす。
※ここには、磐城村主(いわきの-すぐり)が登場している。村主とは現地の長であり、岩城と磐城の関係が興味深い。なお坂田郡は近江の国にある。解説によれば、「淡海」は「近江」の古い記法とし『日本書紀』では他に淡海を充てた用例がないとされる。このことから、この逸話ははるか上代の話を掲載したものと思われる。なお天智天皇は後世に淡海帝と呼ばれ、その末裔には淡海三船(おうみのみふね)など淡海氏がいる。
実は「穎」は『古事記』や『日本書紀』では、神代の「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」や三貴子とされる「天照大神」「月読命」「素戔嗚(すさのお)」の逸話の中に、何度も登場する。『日本書紀』や『古事記』では、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、稲の種を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に与え高千穂(たかちほ)に下らせた。それを伝えた孫が初代神武天皇となり天皇家が始まったとしている。
平安時代の延長5年(927年)に完成した「律令(りつりょう)」の格式の「延喜式(えんぎしき)」のなかには「祈年祭(としごいのまつり、きねんさい)祝詞(のりと)」がある。そこには「皇神(すめかみ)」が直接関わる「穎(かひ)」が何度も登場する。毎年の祈年祭では、春の種まきの前に五穀豊穣を祈り全国約3000の神社に一斉に幣帛(へいはく:おそなえもの)が配られた。
「祈年祭」は天皇家にとって大切な神事であり、国家行事として毎年続けられていた。室町時代の戦国混乱期でさえ神祇官(かんつかさ/じんぎかん)を世襲していた白川家によって細々とながらも維持されていたといわれる。白川家にのこる祝詞に登場する「穎」には「かひ」とふりかなが振ってある。しかし、岩波書店の『広辞苑』、小学館の『大辞泉』、三省堂の『大辞林』などでは、「穎」の発音を「かび」とし「かい」とも読むとしている。また前出の『大日本国語大辞典』では、「かひ」「かび」とよむとており、『箋注倭名類聚鈔』の説明を引いて唐から伝わった「穎」の字は平安時代「加尾(かび)」と訓じられたと記されている。
稲作で発展した日本の朝廷にとって「穎」は重要であり、言霊(ことだま)が宿る祝詞で、その発音は大変重要だろう。白川家の文書には「かひ」と記されているが、各種の資料が示す古代音の正しい発音は、実際は「かび」であった可能性が高いと思われる。
さきに示した『國魂系図』は、現在の福島県いわき市の「大国魂神社」の神主の山名家に伝わる福島県指定重要文化財『国魂文書』に含まれる系図である。この系図を残した山名家も祈念祭を主宰していた神社と深い関係があった。天皇家では、現在も皇居で毎年田植えの儀式をしているが、これは明治以降、往年の儀式の一部を復活させたものだ。
神谷(かべや)と壁谷
岩城氏の一族が「穎谷」氏をとなり後に「神谷」と名乗ったという記録はたいへん興味深い。室町時代にその岩城氏が領した現在の福島県いわき市には、神谷邑(かべやむら)があり、四十八館記には「神谷平六郎忠政」がいて「かべや」と読まれたとする『姓氏家系大辞典』がある。現在も福島県いわき市には、「神谷」と書いて「かべや」とよむ広大な地域が広がっていることは先に示した。
また別稿で紹介した明治2年、政府の高官坊城俊章(ぼうじょうとしあや)が報告した資料に磐城の「壁谷」村が登場し、大正時代の『義民か逆徒か』ではそのいわき市に元文3年(1738年)当時「壁谷村」があったとしている。これらから、いくつか推論ができよう。本書に登場している、「穎谷(かびや)」氏は、今の「神谷(かべや)」の地名に、そして「壁谷(かべや)」の地名や名前と繋がるのではないか。
穎谷(かびや)平氏の系列をくむ岩城成衡と、藤原清衡の養女の間の子を祖先としており、父系で平氏繁盛流、母系で藤原氏の血を引いていたことになる。これが正しければ、江戸時代に生きた「壁谷友太郎」(愛知蒲郡市)の祖母が、先祖から伝え聞かされたという「其の組先は遠く平家の一門に発せる由緒正しき家柄」という言葉との整合性も出てくるように思える。
もちろんこの地域に発生した「神谷(かひや)」氏のほかに、たまたま近くに古来から「壁谷(かべや)」氏がいて、時代を経て2者が混同、もしくは同一化した可能性もありそうだ。また、一般に姓は祖先を継ぎ、氏(名字)はその地名を名乗るのが平安期・鎌倉期の慣例である。このことから、各地にある神谷、壁谷の地に住んだ有力者が、後世にその名字を名乗った例があるだろう。(その地名はその地を開拓した実力者の名であったので、当然その一族の末裔、現地の娘の婿の子孫である可能性がある。)
先に示したように、福島県のいわき市や田村市に、石森の名が付く地区があって、その周辺に壁谷が多数集中して居住していることと合わせて、興味深い。特にいわきの石森山については、あたかもその地を護るかのように数十家の壁谷の一族が集中して居住していた。(現在は、宅地開発が進み石森ニュータウンとなって壁谷以外の人々が、多数移住してきている)そこは、のちに神谷(かべや)氏を生むことになる、岩城氏の初代が居館を構えたと記録された地だった。
別原稿で触れる予定だが、古代中国の各地にあった壁谷の地名や黄姓壁谷の名字(黄壁)が、遣隋使・遣唐使の時代に入ってきたことが当然推測される。日本に35回も訪れた渤海使も、奈良時代から平安初期の記録では、東京龍原府の壁谷県を通って日本に訪れており、藤原仲麻呂や坂上田村麻呂が朝命をうけ、京で饗応した記録がある。とくに中国五代山にあった壁谷玄中寺は、日中ともに仏教の聖地とされていた。空海や親鸞も、壁谷玄中寺の三人の僧、曇鸞(どんらん)、善導(ぜんどう)、を仏教の開祖と崇めている。親鸞の名も、この曇鸞から一字もらっている。この時代、仏教聖地として「壁谷」が象徴的だった可能性がある。
第3代天台座主の円仁も、中国五代山の壁谷玄中寺を目指して入唐している。しかし当時壁谷の地は不明となって居り、たどり着くことはできず、険しい山壁(黄壁と書かれる)が光をはなち奥に経典をこの円仁は、天台宗をここまで大きくした最大の功労者であろう。その円仁は、実は奥州藤原三代によってつくられた平泉中尊寺、、毛越寺の開基である。奥州藤原氏も、おそらくは仏教聖地壁谷の名を聞き及んだのではないだろうか。これらのことから、神谷(かべや)氏が継いだとされる、穎谷(かびや)氏とは、もともとは壁谷氏だったのではないだろうか。
多数の記録が残る神谷氏
『寛政譜』で最初に登場する神谷氏では、「神谷淸次(きよつぐ)」がある。もともと孤児であったとされその出自は不明とされる。「三河國蒼海郡」の神谷宗弘に引き取られて養嗣子となると、家康が元服した弘治元年(1555年)に、養父に従って際立った武功があった。以後は三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などにも従軍して大きな軍功を挙げたたとされる。
神谷淸次は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦の時は、後に家康の生涯の側近となった本多正純の配下だった。関ケ原の桃配山で指揮する家康の側には、馬印(家康がいる目印)の側に小姓衆、使番衆がおり、そこには「本多正純(床机代わり、神谷淸次従う)」と記載されている。(林大学頭『朝野旧聞裒藁』による)床机はおそらく家康が座るための椅子であり、この内容からは、家康戦場で座る椅子を神谷清次が持ち廻っていたと推測される。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では酒井忠利に従い江戸城留守居も務め家康の信任も厚かった。
少し遡るが『豊臣期検地一覧(稿)』の太閤検知の記録によれば、家康の直臣とされる神谷氏が登場する。それによれば、天正17年(1589年)8月から12月の記録に「三河國 徳川家康領 神谷新九郎」が、翌18年9月から12月の記録に「伊豆国 徳川家康領 神谷勘右衛門」が、『天正十八年三千石以上分限帳』には「神谷彌五助重勝」が武蔵国で登場、右の形原の松平又七郎家信と並んで六千石とされている。秀吉によって家康が関東に封じられたのは天正18年であり家康に伴って神谷氏も移動している様子がわかる。
※太閤検知の記録では、天正18年9月-12月に「三河國碧海郡 豊臣秀次領 榊谷九右衛門」の名がみえる。現在の愛知県西尾市で現在も神谷が多い地域であり、また豊臣家家臣に神谷氏がいた一部の記録もあることから、この榊谷氏も神谷氏と何らかの関りがあるのかもしれない。
天正19年(1591年)5月17日付の『徳川家康知行宛行状』には家康から「神谷輿七郎淸正 多摩郡南澤 200石」とある。『武鑑』によればこの「神谷輿七郎」の子孫は南八丁堀にあった本多伊代守の上屋敷の江戸家老もしくは御取次(藩主のおそばに仕える)となり上級旗本として二千石取りとなった。引き連れる与力は十騎(馬10頭と10人の武士)、同心33人が与えられたと記述があり、家紋は平家の代表紋「揚羽蝶」だった。
『関ヶ原軍記大成』によれば1600年年9月15日関ヶ原へ向かった家康の本隊の先鋒を務めた主力武将30名の中には、酒井氏、松平氏、本多氏、鳥居氏などに混じって「神谷彌五郎忠綱」もいたとされる。『東照宮御実紀』には、家康に直接仕えた、もしくは謁見したとされるものに、水野日向守勝成の家人で家康の大番となった 「神谷左馬助三正」のほか、「神谷八郞左衞門政成」、弓奉行(のちに諸道具奉行 )となった「神谷與七郞淸正」、手鷹師「神谷助兵衞直次」「神谷小作直次」の親子、「神谷縫殿助正次」とその次男「神谷八右衛門次重」、家康の供奉(ぐぶ:行列の御供)として「神谷彌五郞淸次」がなどが確認できる。
※「淸」はこの時期の神谷家の一流で多用された通字だった可能性がある。松平淸康(家康の祖父)の偏諱を受けたものであったら面白い。
彼等の子孫は、その後も将軍家に仕え、『大武鑑』元禄では、静岡駿府城の番方組頭を務めた「神谷輿次衛門淸俊(きよとし)」が南八丁堀の上屋敷にいた。「神谷平左衛門」は御提灯奉行(江戸城内の夜の燈火を管理する役)だった。勘定吟味方の与力には「神谷平太夫」、火消御番の与力に「神谷兵太夫」もいた。
『大武鑑』宝永期になると、松平出羽守、安部摂津守の家老と思われる「神谷兵庫」が赤坂御門前に、「神谷又右エ門」が永田丁(町)にいた。さらに下位の役人までみると「神谷淡路」「神谷内膳」「神谷治部佐衛門」「神谷武右衛門」「神谷小作」「神谷十蔵」「神谷市郎右衛門」「神谷金兵衛」「神谷源八郎」「神谷傳五右衛門」「神谷兵右衛門」「神谷三郎四郎」などが江戸城内外に多数在住している。神谷は江戸城内外に相当数の旗本がいたようだ。
多くが番方を務めたなかで、代々役方(いわゆる文官)である勘定系の組頭を務めていたのは「神谷武右衛門」家である。この家の末裔では享保の時代に勘定奉行が出ている。その名は「神谷志摩守久敬(しまのかみ ひさよし)」とされる。一部の資料では「神谷志摩守文敬(しまのかみ ふみよし?)」とするものもある。(「久」と「文」の筆文字の写し違いか。)
有名な『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』は、寛保2年(1742年)には完成した。儒者であった室直清(鳩巣:むろうきゅうそう)などが草案を作り、老中松平左近将監(松平乗邑:のりさと)らを奉行として一年ほど評議したものだ。その末尾には、評議・編纂に関わった神谷志摩守の名も載っている。
『御定書百ケ条』(通称「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」下巻)から引用
右御定書之條々、元文五庚申年五月、松平左近将監を以被仰出(おおせ いだされし)之前々、被仰出候趣、竝(ならびに)先例其外評議之上追々同之、今般相定之者也。
寛保二壬戌年三月廿七日
寺社奉行 牧野越中守同 大岡越前守
町奉行 石河土佐守
同 島 長門守
御勘定奉行 水野対馬守
同 木下伊賀守
同 「神谷志摩守」
右之趣達
上聞相極候、奉行中之外不可有他見者也。
※()や「」は筆者がつけた。
TV時代劇でも有名な「大岡越前忠相(おおおかえちぜん ただすけ)」は、この時代には南町奉行から寺社奉行に昇進していた。最後の一行は、このお定め書きの内容は秘密であり、奉行以外は見てはならないという注意書きである。’(もちろん、この内容は明治になって出版されている。)
なお、岩城家は関ヶ原後に取り潰しとなっていたのだが、再興し江戸時代は秋田亀田藩として存続していた。戊辰戦争では最終的に幕府側となって戦ったが、そのとき岩城軍を率いた大将は現在「神谷男也(かみやおとなり)」とされている。ここでは「かみや」と振りかなが振られているが、岩城氏の家臣として当地で「かべや」と発音されていたとされている記録とは異なっている。仮名の振り間違いなのか、「神谷(かべや)」が長い時間を経て「神谷(かみや)」と発音されるようになったのかもしれない。あるいは新たに苗字を名乗ることになった明治3年から明治8年ごろの間の混乱期に、神谷(かべや)の発音の不自然さから、そう名乗るようになったのかもしれない。次稿では、さらに時代をさかのぼって、鎌倉・室町期の穎谷・神谷・壁谷に迫っていく。
今後整理すべき課題
1)中国の古代氏族名の「壁谷」が日本の和名で「かべや」発音され「穎谷(かびや)」にかわった可能性も高いだろう。それは、壁谷の地名や氏が、中国古代に多数存在していたからだ。その中国南部からは古墳時代から奈良時代にかけて、主に朝鮮半島南端を経由して日本に数万人の渡来人がきていた。その規模は少なく見積もっても数万人になる。このことは、聖徳太子や坂上田村麻呂らと関係が深く、別稿で触れる。
2)本書では「神尾」氏の系図が出ておりこの一族に「かんお」と仮名が降られている。(正しくは「かむを」である。)「胡麻の油と百姓は、胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」(『西域物語』による)という文句で有名な享保時代の勘定奉行「神尾若狭守春央(はるひで)」も「かんお」と仮名が降られている。しかし現在この名字は「神尾(かみお)」と読むのが一般的のようだ。神を「かん」と読むのは韻律上都合がよく「神無月(かんなづき)」など古い言葉に見かける。「神谷」は、江戸初期までは「かんや」的な発音と受け取られたかもしれない。「かんや」の発音は「かひや」に近く、筆文字で書けば「かひや」に近い。
3)福島県いわき市にある地名「神谷」は現在まで数百年来にわたり「かべや」と発音されてきた事実がある。一方で、『寛政譜』の活字版には「かみや」と仮名が降られているものがある。活字版の完成は、古いものでも大正時代である。元々は筆文字でかかれているが、何度か書き写されてて伝わってきたものだ。書き写した人もしくは、活字に置き換え写植した人が、「かみや」と先入観を持って書き写した可能性があるのではないだろうか。
幾つかの『武鑑』の中に神谷氏の記述をみる。一部の書籍では「かミや」と仮名が降ってあるものも見つけた。「ミ」は「み」を表した筆文字の変体仮名である。(「参」の一部から「ミ」をとったか)である。中には「かんや」「かひや」と読めるものもあったが、筆者の知識と能力不足ではっきり読み取れない。残されているものはすべて筆写されたものばかりだ。一部には「神谷(かめがい)」と振られたものもある。「神谷」にわざわざ仮名をふっているのは、当時もやはり神谷の発音が混乱していた可能性がある。神谷の発音については、次稿で詳しく触れる。
4)『磐城資料』には岩城氏に関するたいへん詳しい調査がされいる。まだ全文を読み終えていない。後に追加したい。
5)『寛政譜』では伊勢平氏繁盛流とされているが、「海道小太郎」とよばれていた記録があり平氏の名門「海道平氏」であった可能性がある。一方で、大國魂神社の國魂氏は岩城氏出身もしくは石城国出身で山名氏を名乗り現在まで続いている。岩城氏は足利氏から「五七の桐」紋の使用を許可されており、もしかしたら源氏(山名氏、佐竹氏)との血縁もありうるのかもしれない。壁谷の伝承の一部に、源氏の末裔、藤原氏の末裔というものもあり興味深い。
6)田村氏は坂上田村麻呂の四男、坂上浄野の子孫が代々鎮守府将軍、陸奥守となって東北地方を支配した。三春と云う地名は、田村麻呂がつけたとの伝承がある。(「見張る」にかけたともされる。)のちの田村庄司氏、戦国時代の田村氏は坂上田村麻呂の末裔を称する一方、「海道平氏」として平姓も名乗っており、将門乱以降は藤原氏(秀郷流)との関係も強化した。将門の乱ののち東国で力をつけた海道平氏の一族が、田村麻呂の一族を妻に迎えたのがその後の田村氏と考えることもできそうだ。
室町幕府の『見聞諸家紋』には「楢葉(ならは)」氏の家紋として立鶴の「対鶴」が掲載されている。立鶴が向かい合う家紋は大変珍しく、江戸時代以降にはおそらく見られない。しかし鶴は田村麻呂伝説で登場する。『伊達秘鑑』によれば、田村麻呂の四男とされる坂上浄野は、田村麻呂の落とし子であり当地で鶴に育てられ鶴子丸となった。平城天皇の治世に、京に上り父の田村麻呂と対面を果たすと、初めて坂上浄野(きよの:清野ともかかれる)と称した。父に似てその弓の腕は高く評価され、奥州探題などの要職も歴任した。のちに奥州に戻り城を築くと三春と名付けた。三春の人々はそれ以来鶴を崇め、鶴を粗末に扱うと崇りがあると強く信じられたという。新人物往来社『日本「神話・伝説」総覧』によれば、浄野の曾孫、古哲は坂上の氏を改め、以後「田村」と名のったとされる。それが奥州田村氏に続いているとされる。
7)小説『公家武者 松平信平』シリースがある。主人公の松平信平は実在の人物で、その後伝説となって松平長七郎伝説を生んだ。歴史小説「松平長七郎旅日記」や、テレビ時代劇「長七郎天下ご免」「七郎江戸日記」などのモデルになった人物でもある。この小説の第9巻である「将軍の宴」には、江戸南町奉行所の与力「壁谷久繁」が登場している。これは実在した勘定奉行「神谷久敬」をほうふつとさせる。TVドラマでは与力は地位の高い武士に見えるが、実際はそうではなかった。
幕府直参を意味し将軍にお目見えできるのを旗本という。壁谷久繁の地位である「与力(よりき)」は寄騎を意味し、本来は旗本の周りを馬上で固める役で、旗本ではない。「御家人(ごけにん)」とされる下級武士で、幕府直臣である旗本が私的に抱える「家人」に過ぎない。主人はあくまで旗本だった。この小説では金の力で奉行となることを目指していた壁谷久繁であったが、与力という家人の立場では到底出世は望めず、奉行となるのは不可能であろう。この小説には相当の設定上の無理がある。
※個人的に強く希望するのだが、小説やTVに登場する壁谷のキャラクターにもう少し好人物を登場させてもらいたい。テレビ朝日系のTVドラマ「科捜研の女」でも壁谷多聞なる作庭職人が登場したが、残念ながら殺害された役だったようだ。
江戸町奉行所は、墨田川を本所・深川の対岸、現在の八丁堀から東京駅近辺にあって、その付近にはたとえ与力でも300坪ほどの屋敷を与えられていたとされる。奉行所勤めも番方(ばんかた)のはしくれであり、与力であれは馬上が許されていた。与力の地位は低くとも権力や金は確かに沢山あったようだ。江戸後期になれば、金さえあればある程度の地位なら買える時代でもあったのでこのような小説が書けたのだろう。
さて、この松平信平の家系は、その後松平右近将監(うこんのしやうげん)家として代々が老中をついだ名門家となったともされる。(この辺りは、実ははっきりしない。)松平右近将監は代々将軍家の一族が養子となって継ぎ、老中などの要職を輩出している。記録によれば、江戸後半には壁谷氏の妻(壁谷伊世)が松平右近将監家に奉公に入り幼児のとき面倒を見ている。(後の尾張藩主徳川慶勝)また同じ時期には一橋家の勘定役をこなした壁谷太郎兵衛、壁谷直三郎などの記録も残っている。これらは別稿で触れている。
記録から、松平左近將監家と壁谷家には何らかの関係があったと思われ、また江戸の町奉行所があった八丁堀も江戸末期に壁谷が多数居住していたことが分かっている本所・深川に隣接する地域だ。江戸初期の時代においても、壁谷氏がこの地にいて、このような小説のモデルになったとすれば大変興味深い。
8)『姓氏家系大辞典』などによると、甲斐の国(現在の長野県)には、『古事記』開化天王の条にある甲斐の国造(くにのみやつこ)にある甲斐(かひ)氏があり『国造本記』に「巻向日代朝廷(景行天皇)期」に狭穂彦(さおひこ)王の四世の孫を甲斐の国造にした記録があり、日本尊の東征と合わせて興味深い。この地にあった国立明神なる神は、現在は田村(福島県田村郡・田村市)にあるとされる。その後は源姓武田流の甲斐氏など多くの甲斐氏が存在し、『和名類妙』にある甲斐郷に由来する。
甲斐は地名を吉字の二文字であらわすうようにとされた「諸国郡郷名著好字令」(「好字二文字令」によって改められた。それ以前の名は「峡(かひ)」あるいは「交(かひ)」であり和名で「峡谷(かひや)」「交谷(かひや)」とも書かれたとされる。現在も甲斐の山中奥深くに壁谷の地名が残っている。交谷(かひや)氏と、穎谷(かひや・かびや)氏との関係も興味深い。
参考文献
- 『尊卑分脈』
- 『十訓抄』
- 『和名類聚抄』
- 『類聚名義抄』
- 『國魂文書』岩城氏 國魂系図(県重要文化財)
- 『源平闘諍録』
- 『伊達秘鑑』飯田道時
- 『藩翰譜』第八巻 新井白石 大槻如電校正 吉川半七発行 明治27年 国会図書館
- 『寛政重脩諸家譜』江戸幕府 大正6年(1917年)活字版 国会図書館
- 『大武鑑』国会図書館
- 『関ヶ原軍記大成』
- 『徳川家康知行宛行状』天正18年
- 『天正十八年三千石以上分限帳』国立公文書館
- 『朝野旧聞裒藁』林大学頭
- 『東照宮御実紀』『東照宮御実紀附録』国立公文書簡館
- 『清原系図』
- 『奥州後三年紀』
- 『日本「神話・伝説」総覧』新人物往来社
- 『訂正康熙字典』(原本1716年清国勅撰)猪野中行撰渡部温 訂明治17年 国会図書館
- 『大日本国語辞典』上田万年 松井簡治 富山房 大正4年 国会図書館(昭和15年版)
- 『公家武者 松平信平』小説
- 『姓氏家系大辞典』(第一巻)太田亮 昭和9年-11年版 国会図書館
- 『公事方御定書』(下巻)『御定書百ケ条』
- 『西域物語』本多利明
- 『磐城資料』大須賀筠軒 明治45年 小山祐五郎 国会図書館
- 『地名の謎』今尾慶介 筑摩書房 2011年
- 『豊臣期検地一覧(稿)』平井上総 北海道大学文学研究科紀要 2014
- 『大嘗祭』工藤隆 中公新書 2017年11月
0コメント