12. 幕末の江戸深川に集結した壁谷
文化文政年間(1804-1830年) に商品経済が発展し江戸の町人文化が花開いた。一方で幕府や諸藩の財政は窮乏し、次の天保年間(1830‐44)に入ると、異国船がたびたび到着して、尊王攘夷(そんのうじょうい:異国人を排斥し天皇政権を打ち建てる)が高まる時代へと移り、幕府の緊張は一気に高まっていく。
江戸の外れ本所・深川
本所・深川と呼ばれた地域は、墨田川(現隅田川)の東岸で東京湾に面していた。大枠で、現在のスカイツリーから南側、総武線の両国-錦糸町そして東西線の木場-東陽町に挟まれた地域で、江東区・墨田区に相当する。ただし、当時の隅田川は今より遥かに広大で、川を超えると江戸の外れといわれた。忠臣蔵で有名な吉良上野の介(きらこうずけのすけ)が刃傷事件のあとに、本所に移されたことを「江戸の外れに追い出された」と書いた記録が残っている。
松尾芭蕉も、隠遁した芭蕉庵がこの地深川にあり「奥の細道」では隅田川を北上して奥州に向かったのだ。明治の初期に瀧廉太郎が「春のうらららの・・・」と歌ったのは、今よりはるかに雄大な隅田川だったはずだ。その後洪水対策で17年かけて東側に荒川放水路(現在の荒川)が完成。昭和になると隅田川は、荒川の支流になってしまった。越中島、永代島など川の支流や堀でかこまれた地形が多かった。その川や堀を埋め立ててたのが、現在の主要道路だ。
商品経済が発達した江戸中期になると、大量の商品が集まりこの地は「江戸の倉庫」と呼ばれるようになり、高級料理屋や船宿なども集中した。また、度重なる江戸の大火に備え、大量の木材を保存する「木場」ができ、大工も大量に住んでいた複数の大工町ができていた。寺院も多くあり、特に深川の永代島には、当時「富岡八幡宮」の別当寺だった真言宗「永代寺」が広大な敷地を有し、門前町が広がっていた。この永代寺は明治の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)でほとんど破壊されたが、現在の深川の富岡八幡あたりの門前仲町にその名残が残っている。
※江戸時代は神仏習合のため、神社である八幡宮とお寺も一体だった。その寺の名を「別当」寺という。現在はそれぞれが別に再興された、永代寺、深川八幡がある。
当時の大名は普段「上屋敷」と呼ばれるところに居住した。上屋敷は、登城や警備のため江戸城周辺の外堀の内側(おくるわ)に集中していた。その関係で、隅田川を挟んだ外側の本所深川の値域は、大名や旗本の「中屋敷」「下屋敷」が集中していた。これらも大名屋敷の一種であるが、郊外にある広大な敷地を幕府から割り与えられた場所の名で、一般には大名の保養地があったり、臣下を育成するための藩校、武術修練をする道場、その他に専用の田や畑がある場合もあった。いわば、大名が持った江戸の郊外に持った領地であり、下級藩士もこの中あるいは周辺で多数が暮らしていた。
江東区「江戸深川資料館」の資料によれば、松平三河(西尾藩)松平信濃(真田信濃藩)など各藩で藩士の子弟を教育する藩校がこの下屋敷地域に集中していた。その関係で当時の江戸の知識人たちが集まる地域にもなっていたのだ。全国の家臣たちが、当時の最新の知識を学ぶため深川に集まってきて、本所深川は活気を帯びてきた。
天保・安政期の本所深川
しかし、文政(1818年から1831年)のころから異国船が漂着するようになると、状況は少し変わってくる。異国からの侵略に対抗することが江戸幕府の存在意義となり、できなければ相対的に天皇の権威が高まる時代に突入していったのだ。文政8年(1825年)には有名な「異国船打払令」が出される。しかし、天保13年(1842年)アヘン戦争に敗戦した清国が、台湾の割譲など不平等な「南京条約」を結ばされた。この結果を受け、幕府は急遽方針を変更する。
過激だった「異国船打払令」を「薪水給与令」に変え、砲撃して外国船を追い払うやり方から、燃料や食料を与えて、お戻り願うという柔軟な姿勢に転換したのだ。「天保(てんぽう)の改革」で有名な、老中 水野忠邦(みずのただくに)の政策である。幕府は長く続いた泰平の世で、実際の実戦経験を持たない武士ばかりになっていた。イギリスの軍事力を知って、このあたりから、対応を真剣に考えだした。
町人の土地だった深川の越中島(えっちゅうじま)は幕府命で召し上げられ、そこには徳川幕府御家門(松平家)筆頭の武蔵国忍(おし)藩の中屋敷が置かれた。それ以降も、三河以来の譜代や、親藩である松平氏の勢力を集め、江戸城を中心にした海防を強化した。大砲や軍艦を作り、軍事教練を繰り返し行うようになった。外様大名も、佐賀鍋島藩や、薩摩島津藩(松平薩摩)なども独自に大砲を作り海防に備えるようになっていた。当時の幕府の焦りがわかる。
※江戸の東側の入口である深川と同じく、江戸の西側にあった神奈川(現在の神奈川県横浜市神奈川区付近、当時は神奈川宿があった)も同様の状況だった。神奈川には神奈川台場(大砲)も設営された。
同時に、藩政改革をすすめて藩の経済力や指導力を高め、海外に対抗できる人材の育成などの必要性も急増し、藩校での教育によりいっそう力を入れ下級武士も含めた人材の幅広い育成を図った。こうして、天保から安政の時期ににかけて、多くの日本の歴史に残る知識人が全国で登場してくる。こうして学んだ人々が、のちに明治政府の官僚として活躍する土台を作ったが、当時は過激な思想とされて、蛮社の獄、安政の大獄などの思想弾圧も招いていった。
江戸の郊外に新しく立て直された下屋敷は臨戦体制が敷かれていった。多数の武家屋敷に被害が出た「安政の大地震」のあと、区画は全面的に再整理され、この流れに拍車がかかった。安政六年(1859-1860)「須原屋茂兵衛版の江戸大絵図」をみると、本所深川地域の様変わりがよくわかる。この時代、深川地域は松平家を始めとする親藩・譜代や幕府重臣の旗本らの下屋敷が集中している。全国から武士たちが集中し、軍事教練を繰り返していた。
以下に主要な本所・深川の主要な武家屋敷を示す。この地域にいかに徳川、松平が集中していたかがわかる。なお、()内は参考までに筆者が調べた、この安政時期前後における当主の石高および職など。(地図は『須原屋茂兵衛版の江戸大絵図』石高などは主に『七年史』北原雅長明治37年啓成社による。時代や資料によって異なり、一部正確ではないところもあるが、わかり易さを優先した)
本所
- 徳川御三家 尾張家(61万9千石 愛知、岐阜・長野。大納言徳川慶勝。御三家筆頭)
- 徳川御三家 紀伊家(54万9千石 和歌山・三重上野。大納言徳川茂承。)
- 徳川御三家 水戸家(35万石 茨城 徳川斉昭。子は15代将軍慶喜。)
- 徳川御三卿 田安家(10万石 大納言田安慶頼。将軍後見。)
深川
- 松平武蔵(親藩。御家門筆頭。武蔵国忍藩主 松平忠誠。)
- 松平隠岐(親藩。愛媛松山藩15万石 家康異母弟の久松松平家宗家。)
- 松平越中(親藩。三重桑名藩主。11万石 久松松平家。松平容保の実弟。京都守護。)
- 松平駿河’(伊代今治藩。松平勝道。久松松平家。種痘の実施や、塩田開発で有名)
- 松平三河(岡山津山藩主。家康次男系。11代将軍家斉の子松平斉民が継ぐ)
- 松平美作(越前松平家。第11代将軍家斉の十四男。維新後は徳川宗家後見。)
- 松平阿波(阿波徳島藩主 蜂須賀家。13代藩主は、11代将軍家斉の子。)
- 松平相模(備前岡山藩 9代藩主茂正は15代将軍慶喜の弟。外様池田家を継いだ。)
- 松平下総(親藩。御家門筆頭。武蔵国忍藩主松平忠誠か? )
- 松平肥後(福島 会津藩40万石 京都守護。松平容保。)
- 松平守山(福島郡山 徳川御三家水戸藩の御連枝。分家の支藩。)
- 松平美濃(岐阜徳川 御三家尾張藩の御連枝。分家の支藩。)
- 松平織部(千葉安房 幕府旗本を支配する小普請組支配。花菖蒲が有名。)
- 松平伊豆 (愛知吉田藩主 豊橋藩主。)
- 松平陸奥(仙台藩主 伊達氏。外様ではあるが将軍家からの降嫁により松平姓)
- 松平和泉(愛知 西尾藩 老中首座 松平乗全。)
- 松平大膳(四国高松 徳川御三家水戸藩の御連枝、分家の支藩。)
- 松平讃岐(讃岐高松藩主・松平頼胤。)
- 秋元但馬(上野舘林藩6万石 幕府儀礼の奏者番。藩学求道館を設置し文武を奨励。)
- 久世大和(関宿藩主 老中首座 久世広周)
- 牧野備前(長岡藩主 老中 牧野忠恭。徳川家三河旧臣、牛久保六騎の子孫。)
- 立花出雲(柳川藩主 老中 立花鑑寛)
- 松平伊賀(信濃上田藩 老中 松平忠固 )
- 真田信濃(信濃上田藩 老中 松平忠固。真田家を忠固が継いだ。)
- 永井肥前(美濃加茂藩主 幕府若年寄 福島編主の子。正室が松平氏。)
- 近江朽木(幕府若年寄。)
上記のリストを見てわかるとおり、松平家は数が大変多い。いくつかの外様大名家も将軍家の娘を嫁がせて松平家を名乗っていた。(第11代将軍家斉の子は55名いて、外様大名の養子や正室に迎えられている。地図を実際に見るとよくわかるのは、特に松平下総と、松平阿波(徳島)の2藩は、東京湾に直接面しており、格段に広大な敷地を誇り、さらにその手前は「軍事調練場」と記される広大な土地が広がっていた。
会津、須賀川などの例でもわかるように、もともとの大名家が消え、そこに松平家がはいったり、天領になった例も多い。しかし、そこには、旧領主の藩士だった郷士が多数いていつでも武士として活躍できる、あるいは活躍を夢見る者たちがいたのだ。藩主にはなっても、藩士を持たなかったこれらの松平氏は、これらの地元の郷士を有効活用しただろうし、うまく利用できずに地元で反乱が起きた例も別稿で示した。
『水戸藩郷士の研究』には、江戸時代に土着の土豪の力が無視できなかった事情が記載されており、地元で佐竹氏の配下だった大内氏、西丸氏、長山氏、大森氏、蓮見氏、野口氏、益子氏などの郷士が正式に藩士に登用されている。さらに黒船来航などを契機に、尊王攘夷の機運が高まりにあわせて地元の有力者を登用していることが記述されているため、相当の数が水戸藩を通して深川近辺に来た可能性がある。筆者は関東近隣の壁谷から幕末に江戸周辺に集まってきたという伝承を聞いており、このときに集まってきた可能性があると推測している。
また深川から須賀川街道が東北に伸びており、深川には奥州三春藩の蔵屋敷もあった。別稿で触れるが、三春藩士には数家の壁谷があり、寛政以降の記録には一ツ橋家の家臣にも壁谷が確認できる。おそらくはその接点は、この深川にあったのだろう。
アヘン戦争直前には、清は泉州付近と台湾のラインに防衛戦を引いた。アヘン戦争では負けはしたが、中国の「壁谷」が集まっていた拠点の泉州は全くの無傷だった。この状況は、江戸幕府から派遣された調査隊が上海市を視察して確認している。朱子学は中国道教の強い影響を受けており、水戸家や幕府が松平家が同じ時期に抱えていた壁谷を深川近辺に集中させた可能性もある。地方の松平家の配下にいた壁谷は、多くがが元の領主を失った郷士もいたはずだ。具体的な動きをまだ把握できていないのが残念なのだが、いくつか傍証がありこれから詰めていきたい。
辟邪と壁宿
別稿で指摘しているようのに中国では古代皇帝の墓を守る石獣「辟邪」があり、中国では邪悪を避けることや、お守りを「辟邪」とも呼ぶ。このことと、アヘン戦争で中国の沿岸部を守った壁谷との関係があったのかもしれない。「辟邪」は「壁邪」とも書き和音で読めば「かべや」ともなりよう。尊王攘夷論者だった大橋訥庵(おおはし とつあん)は訥庵居士と称して安政四年に『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』を書いており、幕末尊皇論の代表的な著作として有名である。当時は相当に売れたようた。版元も豪商であり、尊王攘夷論者の資金源として武器の購入に充てられたともされる。「辟邪」は水戸藩を中心として尊王攘夷論者の間では相当に広まった言葉だったと思われる。
大橋訥庵は兵学者だった清水赤城の四男でもあり、老中安藤信正の殺害を狙った「坂下門外の変」で主導的な役割を果たしたとして投獄され、後に宇都宮藩に引き渡され病死している。日本で最初に王政復古を唱えたともされるが、実は一橋家の徳川慶喜を将軍にたてようと暗躍したこともわかっている。
一方で、中国由来の風水には「壁宿(へきしゅう/なまめぼし)」があって、太子の守護と教育を担うとされた。この「宿」とは現在と意味が違って、自宅もしくはその敷地を指す言葉であり、皇帝の離宮ともされた。壁宿は「かべやど」ともよめるが、和名は「なまめぼし」とされている。「なまめ」の語源は定かではないが「儺(なまめ)」とする説が寝強くあり、そうだとすれば江戸時代に大晦日に厄除けの行事とされた「儺豆まき(現在は節分の行事)」、つまり「厄除け」につながる。江戸時代に壁谷が担った役割が、こうした因縁に基づいたものであった可能性もあろう。
文久の改革
直後の文久2年(1862年)4月29日、幕府の千歳丸が中国上海(しゃんはい)を視察した結果をうけ「文久の改革」に着手する。各藩は毎年の参勤交代を三年に一度と緩和され、江戸住まいの妻子も国元に戻してよいことにし、江戸の屋鋪の滞在人数も最小限でよいとしてした。こうした改革で浮いた経費は海防のために使うことを幕府は要求した。また江戸幕府に「陸軍」が創設され、フランスの協力を得て西洋式軍隊を養成を開始し、海軍も創設している。
こうして各藩の強力を得て、幕末までに約1万人の西洋式軍隊を幕府は整備した。当時の幕臣は長い平和が続き戦時に適した人材ではなくなっていた。その代わりに江戸幕府防衛のための兵力を供給したのは、地方にいた郷士や農民だった。しかし農民を土地から引きなすことは各藩の国力を落とすことになる。結果的に多くの兵力を供給したのは、幕府親藩や松平家となっただろう。元治2年(1865年)越中島の幕府調練所に大砲が完成したことが確認できている。(平成22年江東区指定史跡「越中島砲台跡」がある。)勝海舟の『陸軍歴史』によれば、慶応2年(1866年)に江戸にいた陸軍の人数は一万二千名にも達していた。内訳は歩兵が八千三百人、騎兵七百六十発八騎約千名、砲兵二千八百名となる。このほとんどが、この江戸深川地域に集中していた可能性が高い。
※この時代、江戸湾岸、江戸の本所・深川、横浜などに多数の砲台が築かれ、現在も東京や横浜にある「台場」がその名残を残している。砲台を作るには、鉄を始めとした金属はもちろん、しっかりした土台や石垣を作るための石や土が大量に必要となった。このため、全国各地の石や土の産地から江戸に向かって物資が大量に集められている。別原稿で触れるが、全国各地の古来からの石の産地には、壁谷が多く居住していることが興味深い。たとえば全国一の石の産地とされ、その名も古代から磐城(岩城、石城)とされた現在の福島県や、真壁石で有名な茨木県、そして御影石や三州土で有名な愛知県などだ。壁谷と石との関係については、別稿で詳しく触れる予定だ。
家康が「八幡大菩薩の生まれ変わり」と称賛したとされる徳川四天王のひとり「本多忠勝」の遺訓に、次の言葉があった。
譜代の君を棄てて、二君に仕ふる輩あり、夫(そ)れ心と云うものは、物に触れ移り易きものなれば、仮初(かりそめ)にも士道の外を見聞きせず、武芸文学をするにも、忠義を心掛け天下の難を救はんと志すべきなり。
この遺訓によれば、主君を失っても武士道を忘れず武芸文学に励み、忠義をもって天下の難に当たれということだ。黒船が押し寄せたこのような時期、郷士たちを深川に集めたと思われる。彼らは、時代の変化にあわせて新しい知識を身に着け武芸を磨くことで新しい領主に報いようと必死になったと思うのだ。この中には、藩主を失い郷士として松平氏の領国内にいた壁谷もいたかもしれない。
なお、仙台の伊達藩はこの時代、松平陸奥と言われ事実上譜代大名化していた。戊辰戦争でも幕府側として執拗に交戦し、朝敵とされた。仙台藩配下の7千人の武士の家禄は削減され、かろうじて士族とされた郷士たちも帰農を命じられた。最もひどかったのは、郷士ではなく、仙台藩直属の家臣たちだ。(伊達家の家老として有名な片倉小十郎もその一人)彼らは大名並みの知行(1万石以上)があり、あわせると2万人の家臣がいたとされる。しかし、士族籍さえ剥奪され、集団移住して北海道の開拓民(屯田兵)となった。
明治維新で、深川の武家屋敷はほとんどが取り壊され、明治政府に接収され、一時期明治政府の軍事演習場にもなった。廃仏棄釈で永代寺もは破壊され、江戸で有名だったお地蔵さまや半鐘も鋼材材料会社に廃材として売られてしまったという。その後は、三菱財閥が買い取るまで、荒れ地のまま放置されていた。幕末に集まった志士たちは、再び領地に戻った者が多いと思われるが、戻るべき藩がなくなり明治初期に士族としての俸禄も失うこととなった。この深川の地に残り住み着いたものもあったろう。
戻っても藩はない。士族の俸禄も明治初期に停止が決まって収入も幕府や藩から与えられた住居も失うことになる。地元に戻れなかった場合は深川の周辺の土地であたらしい人生を始めたかもしれず、それが東陽町周辺だったかもしれない。
明治政府の「東京砲兵工廠」
天保13年(1842年)清がアヘン戦争で負け危機感が高まる中、江戸徳丸原(東京都板橋区)で行われた西洋砲術演習を受けて、譜代だった壬生藩は幕府に先駆けて西洋砲術の採用を決定した。その導入を担ったのは「友平榮(ともひらさかえ)」である。友平榮は下野の壬生藩(みぶ:現在の栃木県栃木市、壬生市付近)藩士であったが、江戸三大道場のひとつ、当時最強ともいわれた神道無念流の「練兵館」の門下となっていた。
幕命を受け高島流砲術を学び「高島流の三龍」と讃えられた江川英龍(ひでたつ:江川胆庵)は、韮山(にらやま:現在の静岡県伊豆)代官であったが蘭学者としても頭角を現すと、老中水野忠邦、阿部正弘らに重用され勘定吟味役までに出世し、幕閣で海防を主導する立場に立つことになった。先の西洋砲術演習には、「練兵館」から齋藤彌久郎、江川英龍が参加しており、翌天保十四年(1843年)には、友平は江川の門下生となって西洋砲術を深く学んだ。
当時最強ともいわれた「神道無念流」の免許皆伝だった江川の門下には四千名あまりもいたとされる。その第一号の弟子は、勝海舟の義理の弟だった「佐久間象山」であった。それに続く弟子にはこの友平榮の他に、のちに維新三傑といわれることになる長州藩士「桂小五郎(木戸孝允)」も居た。その中から幕府講武所に抜擢されたのは友平だった。友平は、嘉永六年(1853年)のペリー来航後品川台場に大砲製造を行い「滝野川反射炉」(現在の文京区江戸川橋あたり)の鋳造にも携わった。友平の義理の弟だった齋藤留蔵(兄が榮の娘婿となった友平新三郎)は、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに、幕府軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」に乗船し航海記『亜行新書』を残している。
一方で江戸幕府は大砲や小銃の製造のため「湯島大小砲鋳立場」を設けていたが旧来の製法では品質が低く、欧州の先進技術を導入した新工場が計画された。先に記した「文久の改革」によって、文久2年(1862年)関口水道町に設けた大砲製造所が「関口製造所」であった。
幕末の動乱を武力鎮静したことで、荘内藩、会津若松藩と並び賞されたのは壬生藩だった。その壬生藩が荘内藩、会津藩と袂をわかち、最終的に戊辰戦争で新政府側に着いたことは、遅滞なく維新を実現する大きなエポックのひとつだったろう。その後「関口製造所」や「滝野川反射炉」は、新政府に接収され、明治4年までに水戸藩の上屋敷(小石川藩邸)の広大な敷地内に移設し、官営の武器製造工場「東京砲兵工廠」とした。
※当時の溶鉱炉は四方を高い壁に囲まれていた。溶鉱炉は中国語で「井壁」といい版築(粘土を撃ち固めたもの)で作った密閉容器に金属の原料と炭を入れ、火をつけて溶かしていた。日本でも溶鉱炉に古くから「井壁」の名称が使われている。古くは炭を作る大量の木材や冷やすための大量の水が必要だったため、山岳地の谷に作られ「井壁谷」とも呼ばれていた。
同時に友平も明治政府に乞われて新政府入りし、陸軍大佐となった。当時の陸軍大将は西郷隆盛であり、中將はなく少將も薩摩の2名だった。、その次席とされたのが壬生藩出身の友平であったことは、明治政府で友平が如何に重用されたを示している。その直後には明治6年の政変があり、西郷と2名の少將は政府から離れ、西南戦争で戦死している。
江戸時代に並んでいた多数の武家屋敷は、ほとんど全てが取り壊されており、付近は小石川後楽園と東京砲兵工廠ぐらいしか残っていなかった。東京砲兵工廠は富国強兵を推し進めた、明治政府のシンボル的存在であり、また幕府から受け継がれた陸軍の最高機密を保持する拠点でもあった。しかし大正9年関東大震災で受けた甚大な被害に、移設を余儀なくされ、昭和10年までに小倉に移設され、小倉陸軍造兵廠となると太平洋戦争終結まで陸軍の主要工場であった。なお「東京砲兵工廠」の跡地は昭和11年(1936 年)に株式会社後楽園スタヂアム(現在の株式会社東京ドーム)が土地の一部を買いとって、現在のようなレジャー施設を開発した。
後の明治政府の「東京砲兵工廠」の技師の中に壁谷がいた記録が確認できる。現段階で詳細は不明だが、いくつかの記事の「表題」は国会図書館の公開記事にあり、それによれば以下のとおりである。
『工芸記事』東京砲兵工廠 1912(明治年45年)から引用
塡藥裝彈機ヲ應用シ水壓ニ因テ小銃殼藥莢ノ雷管ヲ拔除スル考案
填藥装彈機ヲ應用シ水厭ニテ小銃打殻 薬莢ノ雷管ヲ抜除スル法
小銃實包ヲ挿彈子ニ挿着セシムル機械考案 壁谷吉之助
『工芸記事』東京砲兵工廠 1919(大正8年)から引用
實包挿着機ニ實包流シ及挿彈子自働送リヲ附着スル考案 山口德太郞 壁谷吉之助
幕末の高島流砲術は弟子から弟子に受け継がれ門外不出であり、その底流には日本の古武道があった。その流れを汲んだ明治初期の技師の中に、壁谷吉之助がいたとも推測できよう。下野壬生藩の流れを汲む蘭学者、兵術の流れを汲むとすれば、現在の栃木に居住しおそらく帰農していた壁谷の一族が、安政・文久のころに幕府が整備した農民軍のなかに再編されていた可能性もあるのかもしれない。江戸末期の蘭学者「佐久間象山」の義理の兄であった勝海舟との関係、そして勝海舟の従弟だった男谷精一郎が頭取を務めた幕府講武官のも教えられたとされる神道無念流(聖徳太子流)との関りも興味深い。会津藩、仙台藩の出身の壁谷もありえるが、戊辰戦争で最後まで戦った藩の出身者は明治政府で冷遇されており、その可能性は低いだろう。
江戸後期に一部地域が壬生藩に含まれていたとおもわれる栃木の壁谷についても、鎌倉・室町時代の遺跡とされる壁谷城、そして聖徳太子流の兵学との関りが窺われ、壬生藩とあわせて近いうちに別原稿で触れる予定だ。
今後整理すべき課題
1)昭和40年代後半から50年(1970-1975年)ごろだと思う、たまたま筆者は江東区に住んでいた。日本電信電話公社(現在のNTT)東京電気通信局の「東京23区50音別電話番号簿」を見て驚いた記憶がある。これだけ大量の壁谷が並んでいるリストをかつて見たことがなかった。おそらくは200件以上あったのかと思う。特に、「江東区東陽町」だけで40家ぐらいあった記憶がある。
確かに東京には全国から人が集まってくる。しかし、なぜせまい東陽町にこれだけ壁谷が多く住んでいるのだろうか。当時の電話帳は「あいうえお順」であるので、前後の名前を見比べれば、ば壁谷を何と発音したかがわかる。電話帳の載っている大量のそれは、確かに発音が「かべや」であることが確認できた。
しかし毎年、電話帳が新しく来るたび壁谷の数が急激に減っていった記憶がある。筆者の家は電話帳掲載を拒否していたので、東京都の電話帳に一度も載ることはなかった。当時は不審電話も多く同様の人が複数いただろうとは思う。当時の電話帳が保存されている公共機関がある事がわかっており、近いうちにできればこの記憶を再確認してみたい。
※同時よくかかってきて話題になった「無言電話」があって、電話帳に掲載されるのを断る例が多々あった。かくいう筆者の家にも、頻繁に無言電話があり、気味が悪かった。この不審電話は、アナログだった当時の電話交換機が経年劣化により誤動作したともされている。
そのときの記憶では東陽町に多いという印象しか残っていない。しかし現在わかる壁谷の分布をみると、実際には本所深川一帯やから千葉県にかけて、そして神奈川にも多いようだ。特徴的なのは海岸線に近い部分に多く住んでいることで、これは江戸末期の海防に集まったことを意味していたのかもしれない。同じような例は、アヘン戦争前後の清国にもみえる。
2)明治政府は、ロシアの南進の防衛や、蝦夷地の開拓を進めており、戊辰戦争の制裁措置で家禄を大幅に減らされた伊達藩の藩主や直臣たちは、明治2年から3年にかけて北海道へ移住させられた。これは、その後の明治政府の屯田兵の制度に繋がっていく。現在の北海道札幌市の一部や、当別、伊達市、登別市あたりには伊達氏の家臣が開拓した町である。登別には、江戸時代を模した観光施設「登別伊達時代村」もある。筆者も北海道に居住していたが、少なくとも北海道登別市には壁谷が複数存在していることは確認できている。おそらく伊達藩の旧家臣の末裔なのでははないかと思っている。
3)江戸時代に日本で最初の反射炉を作ったのは佐賀藩であり、おなじく蘭学や兵学が盛んで、いちはやく海防にそなえていた。のちに明治政府の官吏となった壁谷の一族は、明治時代に元佐賀藩(あるいは肥前藩)との関りが強い様子が伺える点がいくつか浮上している。薩長藩閥政府が主導していったことに対し、土佐、肥前そして佐賀藩出身者が自由民権運動で対抗していった歴史があり、明治政府の官吏として残った福島や栃木の壁谷が同調する素地があったかもしれない。
参考文献
江東区江戸深川資料館 資料
『須原屋茂兵衛版の江戸大絵図』安政六年(1859-1860)
『水戸藩郷士の研究』瀬谷義彦 筑波書林 2006年
『七年史』北原雅長明治37年啓成社
『陸軍歴史』勝海舟
『江戸三〇〇藩最後の藩主』八幡和郎 光文社新書2004年
『工芸記事』東京砲兵工廠 明治45 / 大正8
『坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩』田中有美 立命館大学国際言語文化研究所2011
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