11. 中国南部・台湾に残る 古代の壁谷
はるか古代の氏の名を「壁谷」とする伝承が残る旧家は、現在の中国南部や台湾に多い。台湾の雲林縣から中国福建省泉州に至る地域では「壁谷」が最多とも紹介されている。しかし日本の壁谷の直接の祖先である可能性は低いと推測される。ひとつは「姓」が血族を表すのに対し「氏」は王や領主から与えられ、時として安堵された土地の名前だからだ。また『日本書紀』『続日本紀』『新撰姓氏録』など日本の古い記録に見るかぎり、中国・朝鮮からの渡来人は日本で異なった名字すなわち「氏」を与えられ子孫を永らえて来たからだ。
しかし中国の古代にあった氏の名そして古代の地名が、日本の「壁谷」の名字の起こりに密接な関わりがあった可能性は決して否定できない。中国南部から朝鮮半島から日本に大量の移民があったことは、『日本書紀』の記述にとどまらず、発掘や遺伝子の研究から実証もされてきているからだ。大陸からはシルクロードの最東端の日本に、大量の人材・文化交流が継続的に続いていた。奈良から平安時代にかけ、日本各地の地名が定めらたが、その地名も中国文化とくに唐の強い影響を受けていた。日本人の名字は、地名を由来にもったものが大変多い。(名字の地)本稿では、古代中国にかつて存在し、現在も中国南部に多くの子孫を残している「壁谷」の氏の名に迫り、その歴史と変遷を追ってみる。
中国南部の姫氏
遥か古代に遡る。中国南部(現在の四川省、福建省あたり)で「長江文明(ちょうこうぶんめい)」が栄えた。長江は中国南部を流れる大河で、下流は揚子江(ようすこう)ともいわれ世界有数の都市「上海(しゃんはい)」を擁することもあり日本でも知名度が高い場所だ。この文明では、約一万数千年前に稲のタネ籾「穎(かび)」が保存された遺跡が確認されている。周辺での稲作文化の発祥の地である可能性が強く指摘されている文明だ。
長江文明の後期になると独特の青銅器文明が発達した。その発掘物の奇異さは際立っており誰もが一目見れば驚くだろう。他に類をみない一種独特の文化が存在していたことが示唆される。しかし、この文明は三千年前(紀元前10世紀)ごろ、忽然と姿を消した。
※この文化は日本に伝わったとされる。法隆寺や正倉院に残される特異な伎楽の面は、中国南部、呉の国から伝わったとする伝承があり、長江文明の面影を残しているのではないかと筆者は考える。
そのころの様子は中国で神話として残されている。神話上の最初の皇帝は、「黄帝(おうてい)」とされ、姬水(きすい)のほとりに生まれたので、姓を「姬(き)」としたとされる。(「姬」は旧字であり、以後「姫(き)」と書く)その子孫が、「古公(ここう)」であり、別名では「太公(たいこう)」とも「太伯(たいはく)」とも呼ばれる。
長江文明が終わりをつげる紀元前10世紀ごろ、この「太公」の曾孫「武(ぶ)王」が、古代国家「殷(いん)」を滅ぼし、「周王朝」を打ちたてた。そして、臣下の諸侯を「王」として近隣諸国に封じ、中国を支配した。この「周」は、中国歴代で王朝で最も権威が高いと、伝説的に語り継がれる。後世の中国の皇帝はすべて、周王朝の王侯の血筋を引くとされる。
その周王の初代をささえたのは「太公望(たいこうぼう)」である。日本では釣りの名人として有名ではあるが、その名は文字通り、伝説の祖先「太公」が世代を超えて長年待ち「望」んだ軍師という意味だ。しかし紀元前8世紀ごろになると、周王朝の配下だった各地方の王や諸侯たちが力をつけ地域支配を強化し「覇王(はおう)」と呼ばれるようになり、周王だった姫氏の力が相対的に弱まった。
※『孟子』によれば「太公望」はいつも湖畔で釣り糸を垂らしながら実は魚をまったく釣っていなかった。釣ろうとしていたのは天下だったとしている。
この時代を「春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)」と言い、「春秋十二諸侯」、「戦国七雄」などといわれる群雄が立ち並び覇権を争った。日本の戦国時代とは違って、紀元前3世紀ごろまで500年以上も続く、とても長い戦乱の世になった。
広大な中国では戦乱に破れた一族は、長江や黄河の流れに乗って、各地に離散し、そこで新たな国家を建築しては再び繁栄と滅亡を繰り返した。このような戦乱の一方で、地方に隠遁した「諸子百家(しょしひゃっか)」と呼ばれる多くの思想家たちが多数登場し、王侯に仕えると戦国時代を生き抜くブレーンとなった。
「四書五経(ししょごきょう)」といわれる中国の古典の大半がこの時期に出来上がったと言われる。戦争で軍師が使う兵法や、国家支配、自然科学・宗教に関わる儒教、道教から風水の類まで、中国の幅広い思想や理論の根幹が、この周王朝の時代までにほぼ完成し、これが代々の皇帝に保護され中国の歴史と文化を生み出した。これらの文化の流入は、後世の日本に劇的な変革をもたらすことになる。
呉の姫氏と日本
この周王朝の「姫氏」の一族が、中国南部に移ってきて建国したのが、四字熟語「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」で有名な、「呉」や「越」の国々だったとされる。現在の中国中央部から移ったため、「姫氏(黄氏)」が比較的少なくなった理由ともされる。一方で、中国南部に建国された呉や越が、当時権威の高かった姫氏を騙っただけだという説もある。戦乱のさなか、その 呉も滅ろび、姫氏とされていた一族が、海を渡って日本に大量に上陸してきたとされる。後述するが、これは事実である可能性が科学的に実証されつつある。
その前後の時期の日本は、天変地異の真っただ中だった。紀元前5世紀ごろには、現在の九州地区南方にある「喜界(きかい)カルデラ」で大噴火があった。少なくとも西日本全域で太陽が噴煙で覆われ続け暗闇が続き、灰に埋もれた土地に人も住めない不毛の状態が千年続いたともされている。古い縄文遺跡のほとんどが東北から発見されていたのも、おそらくこれが理由だろう。(最近では西日本でも降灰の下から発掘されだしていてる。)このような大噴火は、古代の日本では何度も繰り返し続き、集落が全滅する被害は全国各地で枚挙にいとがない。
この喜界カルデラは、過去12万年において10回の噴火が確認できている。最も最近の噴火は約7300年前の紀元前5世紀とされ、その規模は富士山の噴火の比ではない。2016年に現地を学術調査した神戸大学海洋底探査センターの巽好幸教授は、海底の100mほどの盛り上がりと複数の熱濁流の放出を確認し現在も活発に活動しているとしている。もし今この火山が噴火したとすれば、(過去の例から推測して)日本での死者は最悪で一億人を超えるだろうという予測を発表している。
この時期は、中国南部の混乱も続いており、西日本地域では盛んに大規模な人の移動があったと推測されている。古代に「倭国」と呼ばれた地域は、日本だけでなく中国大陸南部、つまり「呉」の地方も含んでいた国だったという説もあり、複数の中国歴代の史書にはそれをにおわせる記述もある。たとえば『梁書』「東夷伝」や司馬遷の『史記』などには、倭人(わじん)は呉の「太伯」の子孫で姫氏であるされている。『魏略』には、倭人がみずから「(呉の)太伯の末裔」と名乗ったと記載されている。両書には倭人は好んで酒を飲むとされ、その風俗は(当時の中国漢人からみて)かなり奇異であり(中国南部の)呉とよく似ていることも特記されている。
日本では平安時代にはすでに存在したと記録されている「野馬台詩(やまとし)」があり、その当時は聖徳太子が書いた未来の予言詩(未来詩)だとも噂されていた。その中に「東海姫氏の国」は「百代まで続く」と解すことができる部分があり、実際に室町時代の第100代天皇「後小松天皇」のころ、天皇家の断絶騒ぎがあって、大いに恐れられた。足利義満はこの騒ぎを南北朝統一の実現の口実に利用したともされている。野馬台詩の真偽はさておき、少なくとも室町時代の日本でさえ、中国南部の呉の姫氏が建国した東海の国が、日本であると信じていた人々が相当数いたことが、このことからもわかる。
室町時代に中国大陸を襲った海賊「倭寇」には、日本人だけでなく中国南部の人が多数含まれていたことが現在は判明しており、日本と呉の海上交流は長年に渡って盛んだったのだろう。現在の日本語でも、呉服(ごふく)と言う言葉や、日本語の発音に寝強く残る「呉音」(古くから日本にあったとされる漢字の発音)も、呉の国の強い影響を示唆している。民俗学者で古代史研究者としても名高い鳥越憲三郎は、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省で稲作に成功した一族が日本に移って来たという学説を提唱していた。「倭人」と中国長江上流の関係の深さは、現在も次々と判明してきている。
現在の研究成果
日本人の祖先については、さまざま学説があり結論がでていないが、日本と中国南部の関係は、さまざまな研究から科学的にも実証され出してきている。古くは「南方渡来説」が提唱されたが、次に朝鮮半島を経由したとされる「大陸渡来説」が提唱され、筆者が若いころは学校の授業でこれらの説を学んだ記憶がある。古墳時代から飛鳥にかけて、数万人規模で渡来人があったことは確認できている。しかし、古代日本人の主流が南方、あるいは大陸から渡来したという根拠となる情報は得られていない。
20世紀末に松本秀雄らが人のGm遺伝子を比較分析した結果大変似ているとして「日本人バイカル湖畔起源説」が提唱された。これは科学的な根拠に基づいたものとされ、当時大変な話題になり、今でも「バイカル湖畔起源」を提唱するWebサイトは相当に多数存在する。しかし、現在は定説とはなっていない。なぜなら、数千年の間に大規模な民族移動が何度も記録されるからだ。つまりこのバイカル湖畔と日本人のGm遺伝子には、別な場所に起源の土地があってもおかしくない。その移動先のひとつがたまたま日本であり、もうひとつがバイカル湖畔があった、そう考えて全く矛盾もない。この説を立証するには、日本以外に居住する人々のGm遺伝子との慎重な比較と、数千年にわたる民族移動の経緯を検討することが必要がある。
確かに日本人自体がどの経路からどう伝わって来たかは大変複雑である。『日本人のルーツ探索マップ』(平凡社)で道方しのぶは、「日本には、顔立ちや体つきの異なるいろいろな人種が、さまざまな時代に大陸からやってきた。しかし、彼らの血が日本列島全体に大きく影響するほどの規模ではなかった」と解説している。おそらくこれが現在の一般的な解釈であろう。
一方で、際立った研究成果も明らかにされている。遺伝子解析で世界的に広範囲の人類を分類した研究の結果、世界中で中国の長江地域(チベット地方)と日本人の一部だけにしか存在しない、特有の遺伝子(父系のY染色体ハプログループ)が解明されている。このことは、無数にある世界中のあらゆる人種のなかで、現在の中国の南部の長江地域(チベット地方)に住む人々と、日本人の一部の人々だけに同一の祖先の存在したという科学的事実が、実証されたことになる。
これは稲作文明の伝播とも重なる。以前は稲作は弥生時代に朝鮮半島経由で日本に伝わったとされていた。しかし、現在はこれは誤りとされている。現在の日本の食を支えている「米」の品種である「ジャポニカ種」は、中国南部の長江地域から日本へ縄文時代の後期に伝わったことが、遺伝子解析(イネのRM1-b遺伝子)で確実とされているからだ。(『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』による。)文化人類学者の崎谷満らによれば中国南部、長江文明の担い手の一部が縄文時代に日本列島、山東省、台湾などに入って稲作伝播を担ったとしている。
この2つの研究成果のの意義は極めて大きい。日本人の祖先は当然ながら単一ではないにしても、数千年前に中国南部で文明を誇り、その地を追われて忽然と消え去った長江文明は、新たなに日本に移住して稲作文化をもたらし、日本文明の発祥の担い手となったのではないかという可能性が浮上してくるからだ。日本文明を発達させたのは稲作だったことは、多くの古代遺跡の発掘結果とも一致してくる。
稲作とたたら製鉄
「稲」が日本の古代文明において大きな転換点を生み出したと認識され、語り継がれたろうことは、記紀の記述からも推察できる。例えば『日本書紀』では天照大御神の子「天忍穂耳(あめのおし-ほ-みみの)尊」に稲穂(穎である)を授け、その子の「火瓊瓊杵(ほ-のににぎの)尊」が天から地上の日向(ひむか)の「高千穂」後に降り立った。後の天孫(孫が神武天皇、皇室の祖先)となっている。
『日本書紀』神代下(かみのよのしものまさ)の別伝
(天照大御神は)又勅して曰く、「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂を以て、亦吾が児(みこ)に御(まかせ)まつるべし。」とのたまふ。
その「ほ-のににぎの-みこと」の子とされるのは「火遠理(ほ-おり)命」であり、『古事記』では「穂穂手見(ほほでみ)命」ともされる。さらにその孫の四兄弟から、現在に伝わる天皇家の初代とされる「神武天皇」が出る。四兄弟の全員が稲に由来する名を持っている。
『古事記』による初代天皇「神武天皇」と三人の兄の名前
長男 「厳稲」(いつせ:五瀬)聖なる稲を意味する。墓は竈(かまど)山にある。
次男 「稲氷」(いなひ)『日本書紀』では「稲飯」と記される。
三男 「三毛入野」(みけぬ)「毛」は稲の種籾(たねもみ)の意味、転じて食料。四男 「豊御毛沼」(とよ-みけぬ)神武天皇。『日本書紀』では「ホホデミ」。
※神武天皇を含め、兄弟には多数の名称がある。上記では主に『古事記』の表記を採用し、本居宣長の『古事記伝』の解釈を参考に筆者が手を加えた。初代の「神武天皇」となる四男「ホホデミ」は「穂」ともとれるが、日本書紀では「火火出見(ほほでみ)」と記される。大まかに言えば『古事記』では「穂(ほ)」とされ『日本書紀』では「火(ほ)」と書かれる傾向がある。のちの「神武天皇」の皇后となった「媛蹈鞴五十鈴媛(ひめ-たたら-いずずひめ)」には、武力と古代の蹈鞴(たたら)製鉄の関係を類推させる名前がついている。「稲」「火」「鉄」の関係が、「武力」「神(巫女)」と結びついたことを示唆している。
※三河国宝飯郡(現在の愛知県蒲郡市近辺)西浦の旧家で平家の末裔との伝承があった壁谷(かべや)家についても別稿で触れている。宝飯郡は7世紀の木簡に穂郡(ほのこおり)と記され、伊勢神宮との関係が深い。
長らく日本では、この時代に農耕に鉄器が使用されるようになって急激に発展したとされてきた。しかし最近の発掘や研究の成果から、当時も相変わらず農耕には木製品が使われていたとされる。一方で当時の農耕具の精巧な作りから、鉄器は農耕用具の加工用のために使われていたが、主には武器として使われたとも推測されるようになってきている。
失われた「姫氏」
周王朝では、「氏」と「姓」が別だったとされている。「姓」は、主に家族や同族を表す。(そのため女篇が使われる。)「氏」は天子に封じられた領地の名前や与えられた役割を指し、子孫はその土地や役割と共に「氏」を継いぐことになった。
※この事情は後世の日本も同じだった。例えば日本の「足利尊氏(あしかがたかうじ)」の姓は、源姓つまり「源(みなもと)」である。一方で、氏(名字)は鎌倉前期の荘園の地名「足利(あしかが)の荘」からとられた。同じ地には藤原姓「足利氏」もおり、中国と同じく日本でも氏は地名から取られ、姓と氏は明らかに異なっていたことがわかる。一方で、地域の実力者は一揆(室町時代の有力者の団結)を組むなどして強い血縁関係を保って結束することで、地域の権力を守り続けた。このような地方での関係は古代から近世に至るまで続いており、結果的に「姓」よりも「氏」のほうが血縁関係が強い場合もあった。
中国でも戦国時代の後半、春秋戦国時代になると周王朝の権威失墜とともに、支配下だった貴族たちはその土地や役割を失ってしまった。これは「氏」を奪われ、もとの「姓」だけになったことを意味する。また、国家統制が乱れて一般の平民も「姓」を名乗るようになった。姓だけになった彼らは、当時「百姓」と呼ばれ権威を大きく失った。一方で、力を付けた諸侯たちが、配下の実力者に領地を与えると、その後裔は領地の名を新しく「氏」として名乗らせた。こうして無数の独自の「氏」が生れ、中国の「姓氏」のほとんどが、この時期までに生まれたといわれている。
※日本語の「百姓」の語源にもなった。現在は、江戸時代の百姓にも「名字」があったが、正式に名乗ることは禁じられていたと判明している。その事情も、自らの領地を失い氏を奪われた中国古代の慣例に倣ったものかもしれない。
紀元前3世紀になると、秦の始皇帝が中国大陸を統一し、有名な焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で古書を燃やし学者を弾圧した。秦以前の古代の歴史はこうして多くが失われ、同時に「姓氏」の区別を排除して「姓」だけにし、その数さえ減らして整理してしまった。数限りなくあったとされる中国の「氏」は、このときほとんど喪失したとされる。
現在の中国の「姓」は「漢姓」とよばれ、さらにその後繁栄した漢民族の「姓」を中心に再整理されてしまった。この関係で同じ「姓」の人が非常に多くなり、現在の中国では上位100種の「姓」で9割を占めるともいわれる。漢民族の代表的な姓とされる「季」は9千万人以上いると言われ、その数の多さでギネスブックにも載る。一方で、古代中国の姓とされる「黄」も中国で7番目に多く2千万人とも言われる。ところが、古来から日本と関係が深かった中国南部に限ると、「黄」姓は一気にトップに躍り出る。(結果は資料によって異なる。)
「黄帝(おうてい)」は、最初に説明した中国の神話時代の皇帝で、その後の4人の皇帝を含め「五帝」と呼ばれる。以後中国で建国された国家である、「夏」,「殷」,「周」そして「秦」の始皇帝を初め、数多くの王や諸侯がこの「黄帝」の子孫であるとされている。これにより、現在の中国には「黄」姓が多い。「姫」氏は、この「黄」姓の別姓といわれるのだが、それは「黄帝」の子孫で、中国歴代王朝の祖といわれた「太公」が黄姓で「姫」氏を名乗ったからだ。そして、この「姫」という氏は、秦の時代の事情で失われ、「黄」姓の中に整理されてしまったとされている。
黄姓にある「壁谷」
失われた古代の「氏」の名は祖先から代々受け継いでおり、現在も広く残っているようだ。主に古代に住んでいた地域を表す「群望(ぐんぼう)」や、土地の名そして仕事や役目をあらわる「堂號(どうごう)」として中国の旧家に代々伝えられ、それは紀元前の周王朝の時代に祖先が持っていた「氏」の名前とされている。
このことから中国では、「姓」と「群望」「堂號」が一致すれば、すなわち古代の祖先が一致することを意味するとされる。湖南省、広東省、福建省あるいは台湾などの南部の歴史の古い町は、比較的中国の発展に取り残された地域がまだかなり残っている。それらの地域の写真を見ると、旧家では、古代の「氏」を表しているとされる「堂號」を額に入れ玄関の上に掲げてある家の写真を今でも多く見かけるという。
「壁谷」は、現在の中国で、この「姫」氏を引き継いだとされる「黄」姓の中の代表的な「堂號」の中にある。壁谷氏の名は、中国南部や台湾の各地に残された「宋」代(日本では鎌倉時代)の古資料にも記録が残っている。これも紀元前の周王朝の時代の流れをくむ黄という「姓」の中に「壁谷」という2文字の「氏」があったことの傍証であろう。(現在の中国では2文字の「姓」は珍しいが、古代の「氏」といわれる「堂號」には、現在の日本と同じく2文字のものが多数ある。)
『台灣地名辞書卷九(雲林縣)』の記述によれば、「牛挑灣以來自漳州黃姓(堂號壁谷)居民最多」とある。この辞書によれば、台湾の雲林県の牛挑湾(ぎゅうとうわん)から、海を隔てた中国大陸南部にある福建省泉州(ふっけんしょう せんしゅう)市に至る地域では、「壁谷」の堂號をもつ「黄」姓が最多であるとしている。もともと中国南部は元々「黄」姓が最多の地域であった。その中でも「壁谷」が一番多いということは、祖先の氏の名が「壁谷」とする一族は黄姓の中でも主流でもあり、この地域で相当な数にのぼることになる。
福建省泉州市には、河口がひらける「水頭村」の下流の東岸に「石鎮壁谷村」(現在名「東石鎮」)がある。「石」は古来神霊の依り代であり魔除け厄除けにも使われる。「石敢當(いしかんとう)」といいわれる石碑はまさにこの福建省が発祥とされ、古来の壁谷との何らかの関りがあるのか興味深い。「石敢當」は福建省から台湾や沖縄、鹿児島に伝わっており、奄美大島などの離島も含め、日本にも1万以上の「石敢當」が確認されている。
※沖縄にある石獣「シーサー」も同じように魔除けとされており、太平洋戦争ではシーサーがある家は被害を受けなかったとの民間伝承がある。
石鎮に関わらず「壁谷黄氏」とされる「壁谷村」は、中国南部にほかにも多数存在するようだ。慶応大学 アジア基層文化研究会の野村 伸一らの研究報告で「潤沢宮」の報告がされているが、石鎮壁谷村にも「潤沢宮」の古宮がある。そこでは地域で災厄、不安が生じたとき、天に居ます玉皇大帝(道教の神)からの命を受け、廟に戻り草人(藁人形)供物などを住民に配って厄払いをする。これは道教や風水の強い影響と思われ、日本の文化に近いものもあり大変興味深い。
※中国では玉皇は北極星に例えられ、そのもとに「天皇大帝」、「紫微大帝」などがいるとされる。このうち天皇大帝は、自らも中国道教の占術を行った天武天皇が初めて名乗った「天皇」の語源になったとされる。また藤原仲麻呂も光明皇太后(聖武天皇の妻)のために「紫微中台」を作り権力を振るった。
中国福建省のすぐ下にはアヘン戦争のもととなった貿易の拠点、広東省がある。清国は中国を守るため、広東省、福建省の海岸沿いに兵力を集中して防備にあたっていたのた。アヘン戦争では、イギリス軍はこの防御拠点「石鎮壁谷村」を避けて、さらに海を北上して上海(しゃんはい)を直接攻め、清国を陥れた。当時のイギリスも中国古来の風水を恐れ、「鎮市」を避けて攻撃してきたともされている。その説明は台湾の風水戦争の稿に譲る。
「鎮」は、古代から軍団の拠点を意味する地方行政機関をさしている。「鎮市」と呼ばれ、治安が良いため人々が集まって古代の町が形成された。「鎮」の使用例は多い。日本でも「鎮守府将軍」となったのは藤原秀郷、源義家、源頼朝、足利尊氏など、中世日本の武家を代表する英雄が並ぶ。中国や朝鮮に近かった大宰府は、奈良時代に「鎮西府」とよばれ鎌倉時代には「鎮西探題」と呼ばれていた。また治時代の日本海軍の本拠地も「鎮守府」と呼ばれ、いずれも軍事・政治の拠点だった。
「壁谷」は、国土防衛のために配備された「氏」だったのかもしれない。福建省泉州市のあたりは、紀元前からの海上交通の要衝で、当時は倭寇の襲来に悩まされていた地域でもあり、室町幕府も代々取り締まりに協力した。それ以来、この地は防御拠点として機能していたと思われる。なお、マルコポーロが付いた地とも記録されている。この地の壁谷は、倭寇を撃退したことで、現在もその名が伝わる有名な将軍がいる。(別稿で触れる)
※黄姓の「堂號」に「壁谷」があるが、同じく黄姓の「郡望」に「上谷」がある。この上谷は中国語で「上谷(しゃんぐぅ)」と発音するが、漢語では「じょうぐう」に似た発音となり、和名で「かみのみや」「かみや」となるが、日本では神谷と書いて「かべや」と発音する地域がある。「上宮」は古代中国では皇太子を意味したが、日本ではのちに聖徳太子の一族の代名詞ともなった「上宮(じょうぐう)」との関りで大変興味深く、別稿で触れたい。
国を守る版築
日本では城に城壁があると考えるが、広大な平地が広がる海外では異なる。市街や一定の値域を城壁で囲み、外敵から守るという考えが正しい。古代中国では、粘土を固めて城壁を作っていた。これを「版築(ばんちく)」と言い、いまから約4000年前ごろには、集落の防備に使われていたとされている。その後、国境に沿った長大な防御壁として作られ出したのは、紀元前の春秋戦国の時代とされ、戦国七雄とされる国家は競って城壁を作った。
※西暦100年ごろに成立したとされる『説文解字』には、これらの国を指すことばとして「藩」が使われ、その意味は「屏なり」とされている。屏(城壁)を巡らして王を守護するいみがあり、古代中国ではその塀は「版築」で作られていた。これは後に日本で大名が統治する各国名を「藩」と呼ぶようになった由来でもある。(実際に「藩」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、それまでは「国」だった。)
秦の始皇帝は、これを大幅に改築し繋いだ。その後の皇帝も増築を続け、こうして「万里の長城」が出来上がっていったとされる。秦の始皇帝は長城の作成を国家事業として推し進めた。水銀の川が流れる壮大な地下宮殿だったされ、将来の発掘が待ち望まれている「始皇帝陵」も、この版築の工法で作られている。これらの巨大建築を国家事業とした国家疲労は、秦の滅亡を早めたとも言われる。
この地帯は、黄土高原(おうどこうげん)ともよばれ黄色い土で覆われているので、それを固めて作った城壁は、「黄」色だった。南を流れる川は、現在も黄河とよばれる。「黄」は帝王の象徴であり、風水でも中心をなすのは「黄色」そして「土」である。それらの城壁には、いわゆる国境警備隊がいたのかもしれない。巨大な黄土建築は自然の地形を生かして作られたはずで、城壁の谷間は堀となり川が流れ、長年で付近には森ができ穀物も育っただろう。しかし、秦以降は万里の長城は顧みられなくなり、唐は万里の長城を放置し、都の長安(現在の西安)だけを城壁(やはり版築か)で固めたため、都は長安城と呼ばれた。
この「版築」は日本でもかなり使われたようだ。壁谷はもしかしたら、黄土でこの版築をつくり国家や都市、そして皇帝を守る専門部隊だったのかもしれない。壁谷の由来に関わるかもしれないので、長文になるが以下wikipediaから引用する。
(版築は)日本では家屋の壁に用いることもあったと推定されるが、多くは墳墓や寺院の基礎部分、築地塀などの土塀、土塁、地盤改良に用いられた。中国と違い日本には黄土のような粒子の細かい土が少なく、多くは魚油や石灰や藁などを混ぜることで補強とした。墳墓に版築を用いる例としては、吉野ヶ里遺跡の墳墓群や纒向型前方後円墳に確認することができ、多くの古墳で用いられている。近年、高松塚古墳においても版築の利用が確認された。(中略)法隆寺では版築が多用され、多くの建物の下に版築で強化された地盤がある。(中略)平安京などでは貴族の館の塀として、また時代が下っても寺院や豪商の屋敷の塀に多く用いられた。土塀より大規模な土塁については戦国時代以降の城郭に版築が多く活用された。(中略)日本は古来、沼沢地や地盤のやわらかい地域が多く、大規模な建築をする際には地盤改良の必要があり、版築が用いられた。地面を硬い岩盤まで掘り下げ、そこから版築で硬く固めることにより、大規模な建築物に耐えうる地盤を作った。
※法隆寺と壁谷の関係は別稿で触れる。
古代日本では古代豪族「土師(はじ)氏」が居た。4世紀から6世紀の古墳時代に、古代の出雲(いずも:島根県付近)、吉備(きび:岡山県付近)、河内(かわち:大阪府)、大和(やまと:奈良県)などの値域に広がっている前方後円墳の造営や葬送儀礼に関った氏族だ。『日本書紀』によれば、古代出雲の「野見宿祢(のみのすくね)」の後裔で第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)に仕えたとされる。
野見宿祢は日本の「相撲」の起源に関わる。相撲では神聖な土俵を「黄」とみなす。そして四方の柱には「青」(青龍)、「白」(白虎)、「赤」(朱雀)、「黒」(玄武)の布を巻き付けて、五色を揃え道教の五行(ごぎょう)を表す。現在の相撲ではTV中継上の理由から柱はない。代わりに黄色の土俵の上に、屋根の四隅から青白赤黒の房を吊し、柱の代わりとして五色を実現している。相撲の掛け声である「はっけよい」も風水の「八卦良い」が語源であろうとする説が根強い。(現在は、相撲協会では「発気揚々」とするようだ)同じように家やビルの建築前に行う「建前」の神事でも同様に中央の土の周りに小さい4本の柱を立て、注連縄(七五三縄とも書く:しめなわ)を張り5色の土を用意する。
この「土師氏」の子孫は奈良時代以降儒家として文章博士となり、朝廷に仕えた例が多い。このうちで特に有名なのは菅原氏、大江氏などになる。太宰府天満宮で有名な「菅原道真(すがわらのみちざね)」もこの一族だ。菅原道真は道教や陰陽道を呪詛に使ったとされ、のちに大宰府に左遷された。死後に秘術「雷法(らいほう)」で天皇の大極殿を破壊したとされる。
聖武天皇に重用され、桓武天皇の時代に失意の引退を余儀なくなれた吉備真備(きびのまきび)も、同じく陰陽道を使ったとされ、遣唐使時代の有名な逸話が残されている。このように、一派が中央から排除されていった流れは、桓武天皇以降の藤原氏による他氏排斥に関わる。坂上田村麻呂の一族も、こうして排斥されていった一族のひとりであり、そこに関わるかもしれない壁谷に類推できる接点が見えるのかもしれない。この点は、別稿で触れたい。
※壁谷の多くに伝わる
黄姓「檗谷」
なお中国南部・台湾に多い「黄」姓の堂號の中には、「壁谷」ではなく、「檗谷」と書く例もあった。この「檗」は漢音で「はく」と発音される。しかし中国南部の発音、呉音で発音すると、共に「ひゃく」となり「壁」と発音も一致し、中国南部では、壁谷も檗谷も同じ発音だ。
中国泉州晋江市东石镇檗谷村(石鎮壁谷村とも書かれる)に、中国南宋時代の淳熙十年(1183年)に立てられた「檗谷黄氏大宗祠(廟)」や「七星(北斗七星)」の遺構、そして南面した門と建物の一部、廊下の木枠などが残っていた。代々受け継いできた子孫によって中華民国6年(1917年)に修復されている。高さ13.7メートル、幅24メートル、奥行が221メートルある。現在は中国泉州で最大の祖先廟であり寺院でもあるとされている。
※北極星の周りをまわる「北斗七星」は、皇帝の乗り物とされ、皇帝を守護するともされた。日本では「北斗七星」は武神として妙見信仰に繋がり、平氏一族、特に鎌倉・室町幕府を支えた千葉氏が篤く信仰した。
この地は後の清国では「鎮市」とされた。鎮市とは軍事拠点を意味し「石鎮」は敵を叩き潰す、鎮圧するという意味がある。「黄姓檗谷氏」とせずに「檗谷黄氏」とするのは、中国における姓氏の混乱を歴史を示しているのかもしれない。
※由来は防御に「土」(版築の壁)や、「木」(生垣、防御柵)を使ったからかもしれない。
中国『百度百科』「檗谷黄氏」の記事によれば、この地に来た初代の名を「岸」とし、5代目の「献」が、興化県(現在の江蘇省)を領したようだ。その第11代目にあたる「庸」(1030年-1110年)が死後73年たって、この祖先廟に最初に葬られたとされている。当時の中国では最良の土地を求めて祖先の廟を何度も移し替えるという陰宅風水の思想があり、そのため73年もたってからこの場所に移されたものと思われる。それ以降祖先廟はこの地に定着したようだ。この黄氏の檗谷家の子孫は、その後何代も続けて「進士」に合格した。「進士」とは中国の官僚登用試験の最上級であり、その合格者は年に20-30人程度とされている。
※「庸」の11代前とされ、この地に居着いた初代の檗谷黄氏である「岸」は、ひと世代20年と単純計算すれば西暦900年ごろの人物となる。中国では907年に唐が滅んで臣民が中国大陸を南下したころで、ろ日本では平安時代の前半、菅原道真のころだ。
檗谷黄色氏の14代目にあたる「江夏侯周德」は、日本では室町時代「明」の将軍として倭寇に対抗するため沿岸警備と防衛にあたり、洪武帝三年(1370年)に泉州各地に「守御千户所城」を多数作った。(『八闽通志』巻13·地理に「城池·泉州府·金门千户所城」の記録がある。)この地域に作った城は約60あったとされ、現在もいくつか現存しており、ひとつは守御「金門城」として台湾の金門島での観光地にもなっている。
その後の清朝においても一族が活躍してこの地を守ったようで、清代以降の資料や、現在の中国の歴史書にも大多数の情報があるようだ。家系図では1993年時点で116代目となっている。檗谷氏に関連する城は周辺に数十あるとされ、この廟を含めて現在もその子孫たちに守られている。
檗谷黄氏には長年続く独自のネットワークがあり、公開されている檗谷黄氏の系図によると、その子孫はその後、フィリピン、マカオ、マレーシア、シンガポールなど各国に移住し現在は何万人にも広がっているとされている。台湾では現在でも特に多く残っており、その子孫は清朝以降、台湾、桃園、雲林、台中、嘉義などの各地に分布している。
※「壁谷」は北京語で発音(ピンイン)すると「Bigu」となる。壁谷を名乗る日本人のFacebokでは、「似た名前をもつ他のユーザー」として「Bigu」を名乗る人が多数上がっている。確かに東南アジアの人が多いが、これらの人たちも黄姓「壁谷」の末裔なのかもしれない。
泉州崇武古城
福建省東南部で海に突き出た半島の先端「崇武古城(古鎮)」がある。明王朝の洪武帝二十年(1387年)に前出の檗谷黄氏の「江夏侯周德」によって建造されたこの城は、現在は中華人民共和国全国重点文物保護単位として国家的な文化遺産として保護されており、また有名な観光地のひとつでもあるようだ。この半島は中国古代の海防史上の最も重要な位置を占めていたようで、現在も周辺には石彫之郷、崇武石彫工芸博覧園、天下第一奇廟などが広がっている。
※中国では「城」という言葉は都市全体を城壁で囲った「城壁都市」そのものを指す。
中国清代に編纂された中国の歴史書『明史』によれば、明の永楽二十二年(1424年)には、倭寇一千人が半島に上陸して町を焼き略奪を謀ったが、この地で「張榮」という将軍が率いた約一千名の兵でなんとか防ぎ切った。嘉靖三十七年(1558年)には、倭寇がこの城を六昼夜に渡って攻め遂に陥落しており、これを教訓に城の大改修を行ったとしている。しかし1560年正月には再び倭寇に崇武城が襲われ、周囲を包囲されて孤立無援となり食料が尽きて遂に町は陥落、倭寇の入城を許している。
明隆慶元年(1567年)には英雄として現在も称えられる戚繼光(せき けいこう)将軍が福建省の総兵を率いて城を占拠した倭軍を滅ぼし、崇武城に駐屯すると城全体を修復して、周囲にさらに城壁を張り巡らすなどして防御体制を完成させた。それ以来人民は倭寇に苦しめられることはなくなったとされ、崇武城は東南沿海の重鎮(重要防衛拠点)とされるようになった。この戚繼光将軍は、モンゴルや倭寇と戦った明代の英雄として現在もその名が称えられている。
当地の観光情報は多数のHPに見ることができ、その記述はほぼ一致するため、おそらく何処かの記述が転写されたものと思われる。それらによれば、「崇武城」には天然の要害を利用した石城を囲んで、幾代にも渡って倭寇と戦った英雄を記念した石碑や祠が多数残っている。崇武城の南郊の峽道に「壁谷」と刻まれた地には、「海門深處」といわれる石板碑がある。そこには明代の宦官で有名な書家、黃克晦が1569年に倭寇を平定し平和になったこの地の情景を読んだとされる漢詩「海天南望戰塵收 漠漠平沙罷唱籌 漁艇已鳴煙前櫓 農人又住水邊洲」が記されている。この種の解説はもちろん中国語で書かれており、どれが原典なのかも含め筆者には把握できていない。正確に把握されたい場合、この種の記事から中国語の原典を探し、翻訳されることをお勧めする。
「崇武古城」の観光説明から抜粋
在崇武城南郊峽道壁谷,盤石岩,峭壁間的“海門深處”石刻即為著名詩、書、畫名家黃克晦所書。黃克晦曾經“十年避亂別江灣”。1569年(隆慶三年),倭患平定,黃克晦重返家園,他懷著無比喜悅的心情,詠唱了平倭後的太平景象:“海天南望戰塵收,漠漠平沙罷唱籌,漁艇已鳴煙前櫓,農人又住水邊洲”。明代布政使惠安人戴一俊也曾在崇武的龍喉岩上摩刻一聯:“噓吸滄溟涵地脈,吐吞日月鎮天池”,高度概括了崇武的雄渾氣勢,照見了先賢的萬古英風。
檗(きはだ)とは
「檗」は柑橘類の植物で日本語では「檗(きはだ)」と呼ばれるものだ。日本でも、10世紀ごろまでは、平安京の内裏の大極殿に「右近橘(うこんのたちばな)」があった記録がある。「橘」と「檗」は同じ柑橘類である。飛鳥時代の中国からの渡来人であった秦(はた)氏の庭にあった橘の樹が、天皇の大極殿の正面階段の右に植えられた(『天暦御記』などによる)と言う。その後も勅命により、何度も橘の木が新しく植え替えられており、中国の「檗」(橘)の木と、日本の天皇家の「橘」の関わりが見え隠れするようにも思える。(対する「左近桜(さこんのさくら)」は、古代道教に関わる「桃」の木だったとされる。)
※橘は「源平籐橘」と呼ばれる日本の代表的な姓のひとつでもある。
この黄檗の木の皮は、独特の染料に使われる。実際の色は、黄色というより、黄色と赤茶色の中間で「黄土色(おうどいろ)」もしくは「土(つち)色」といってもいい。中国では黄色は皇位を象徴する「高貴な色」として崇められ、皇帝以外の使用が制限された。映画「ラストエンペラー」でも皇帝がこの衣装を身に着けていた記憶がある人もいるだろう。「黄」と「皇」の発音が同じであることや、中国の「五行」思想では「黄色」である「土」が中央に位置するからとも言われる。ダライ・ラマ14世など、タイやチベットの高僧が身に着けている衣装も、この独特の土色を帯びた黄色(黄土色)に近い。
日本でも、少なくとも平安初期の嵯峨天皇の時代から天皇が黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という黄土色の装束を身につけている。有名な後醍醐天皇の肖像画で、袈裟の下に身に着けているのもこれだ。平成の時代、現在の天皇陛下の即位でも同じ色の装束が使われた。(但し、日本では檗による染色ではない。)
この檗の木は実は大変貴重な木で、高貴な人しか使用できないとされていた。中国の古代の歴代の皇帝が不老不死を目指し仙人といわれる道教の道師に頼っていた。実際に、この檗の木を乾燥させた漢方薬は「黄檗(オウバク)」とよばれ、解毒・抗菌に高い効果があり、現在の日本薬局方でも抗菌剤や鎮痛剤・整腸剤として処方される。道教で「谷」が不死再生を意味することから考えると、この「檗谷」の担った仕事が大枠で想像ができるのかもしれない。
この黄檗は道教だけでなく、中国古代の禅宗とも関係が深い。黄檗宗の開祖は中国唐の時代の福建省「黄檗希運(? - 850年)」であり、その弟子が臨済宗開祖の「臨済義玄(? - 867年)」である。その臨済宗は日本では栄西(1141 - 1215年)が伝えて独自に発展した。
現在の中国南部、福建省福清県にあった「黄檗山萬福寺」の高僧「隠元(いんげん)」が、興福寺の招請などで承応3年(1654年)に来日、4代将軍家綱や後水尾天皇の支持を得て奈良宇治に「黄檗山万福寺(おうばくさんまんぷくじ)」を開創した。本来は禅宗臨済宗だが中国様式のため、明治以降は黄檗宗(おうばくしゅう)として日本で禅宗の一派を形成している。
本場の禅宗の高僧だった隠元が、江戸幕府が支持していた日本の禅宗曹洞・臨済にあたえた影響は極めて大きく、幕府に保護されたため江戸時代の各方面の文化に大きな影響を与えた。その名は現在の「いんげんまめ」に名を残すとされている。また煎茶(日本人が普段飲んでいるお茶)の開祖ともされ宇治茶や、煎茶道が有名である。(別稿で触れる)時代の下った大正6年(1917年)大正天皇から「真空太師」の大師号を追贈されており、この「黄檗」の地名も奈良県に残る。
追記すれば、さらに「蘗谷」とする「黄姓蘗谷堂」が台湾に現存することも判明している。この「蘗」は「ひこばえ」つまり根本から伐採してしまった大木の切り株などから、まるで生き返ったように生えてくる若々しい小さな芽を指している。これは道教思想の不死再生を意味する「谷」と組み合わせもよい。また「蘗」も、漢音で「はく」、呉音では「ひゃく」と発音する点で「壁」とも同じでだ。中国南部や台湾には、まだまだ沢山の壁谷の形跡がある。
渡来人の姓の変遷
過去に起きた中国や朝鮮半島の戦乱の度に大量の渡来人が移住してきた。しかし朝廷から居住地を指定され、姓を下賜されることが多く、長い間に多くの渡来人が日本らしく聞こえる姓に代わっていった。
『日本書紀』や『続日本紀』で確認できる範囲に絞っても、飛鳥時代だけっで、少なくとも万単位で渡来人が日本に移住してきた記録が確認できる。彼等は律令の編集にもあったった記録があり、学問僧として貴族の教育にあたり、かつ朝廷を護衛していた。また近江(滋賀県)や関東の七、八か国に渡来人の居住地を与えれられ、各地を開拓した記録ものこる。このように大量に存在した渡来人は、朝廷から新しい日本名を下賜されていたが、位がそれほど高くない下級役人などの場合は、その時には日本名を賜ることはなかったかもしれない。
桓武天皇の生母は光仁天皇の夫人(ぶじん)で、渡来人(百済人)の和史(やまとのふひと)氏の出身であり、位も低かったが、桓武天皇から「高野」の姓を下賜され「高野新笠(たかのにいがざ)」となり一族は「朝臣(あそん)」という高い地位を与えられている。その甥だった和家麻呂(やまとのいえまろ)は、渡来人として初めて公卿に列することになったことは『日本後期』に記載されている。
『日本後期』から引用
蕃人の相府(しょうふ:公卿のこと)に入るは、此れにて始まる。
この当時は桓武天皇の事情もあり、渡来人を優遇する措置をとっていた。そのため、これを利用して高位の公卿に上ろうとし、系図を意図的に操作して高位を得て改姓しようとた例があった可能性がある。『日本紀略』によれば、中国や朝鮮半島の皇帝・日本の天皇などの系図の関係を描いたとされる『和漢惣歴帝譜圖』なる書が当時出回り、出自の混乱を招き、氏族の秩序を乱すとして大同四年(809年)に没収されたとされている。この種の書を根拠として渡来人が改姓を申請する際に使用され、問題になったようだ。実際に『新撰姓氏録』に記され、諸蕃とされている326氏のうち、170氏が中国や朝鮮の皇帝の子孫と名乗って高位につき公卿に列している。
西漢(かわちのあや)の一族で、田辺と改姓した田辺史(たなべのふひと)は、この時期に皇胤とされた上毛野氏の一族であるとして、上毛野(かみつけぬ)の姓を下賜され朝臣(あそん)に列した。坂上田村麻呂も、桓武天皇即位後は、今までと異なり漢の高祖の末裔としており、高位に上っている。これらの点は、壁谷に関わりが深い可能性が高く、別稿で具体的に触れる予定だ。
このような背景は、称徳天皇の天平勝宝8年(756年)に渡来人も日本らしい名字に多数改めることを自由としたことから始まる。新撰姓氏録では、天皇を祖とする一族「皇別」、神を祖とする一族「神別」、そして渡来人の子孫である「諸蕃」に分けて記される。ここでは「諸蕃」とされるものが和姓(日本の姓)を名乗り公卿になったり、日本の神の後胤とされたりして混乱し、時代が移ると祖先がわからなくなったとしている。
『新撰姓氏録』序文より引用
勝宝季中に、特に恩旨有りて、諸蕃(しょばん)に聴許(ちょうきょ)して、願の任(まま)之を賜ひ、遂に前姓後姓をして文字斯(こ)れ同じく、蕃俗和俗をして氏族相疑はしむ。万方の庶民、高貴の枝葉に陳(つらな)り、三韓の蕃賓(ばん)、日本の神胤(しんいん)と称す。時移り人易り、知りて言ふもの罕(まれ)なり。
渡来人には朝廷から居住する地を指定され、新たに日本名を与えられた。一部の小族など、この例から漏れた渡来人もいたが、自分たちにも他の「氏」と同じように、居住地の名からとった日本名の氏を与えるよう、朝廷にお願いして許された記録がある。
『続日本紀』容量元年9月7日の条から引用
九月七日
従五位上の台忌寸(うてなのいみき)少麻呂(すくなまろ)が言上した。
居住地にもとづいて氏の名をつけるのは、従来からの恒例であります。たとえば河内の忌寸(いみき)は、村の名から氏の名を頂いております。そうした例は沢山あります。台[うてな]の氏を改めて多くの子弟と共に地元の岡本の姓を頂きたいと思います。[元正天皇は]これを許された。
※宇治谷孟 現代語訳(講談社学術文庫版)による。[]は筆者が加えた解説。
「居住地にもとづいて氏の名をつけるのは、従来からの恒例」と朝廷に言上していることに注目したい。ここで登場する河内の忌寸は、渡来人で西漢(かわちのあや)氏の一族で、河内国河内郡に地盤を持つ大族だった。台(うてな)の名は、高台、高楼の土台の建造を「職掌」の名であり、他の氏と同じように、「地名」に基づいた氏の名が欲しいと朝廷にお願いして許されたことになる。河内国交野(かたの)郡には岡本郷があった。
もともとの渡来人の姓氏は、こうして長い間にほとんど消え去ったと思われ、中国南部にあった古代「壁谷」の氏が、日本に渡来してそのまま「壁谷」と名のり続けた可能性は、極めて低いと思われる。そのかわり「壁谷」という氏の伝承は日本にも伝わっていた。これが後世の日本の「壁谷」の氏の起こりにつながった可能性が大変高い。
今後整理すべき課題
1)中国南部の福建省や台湾では、稲作信仰が強く、現在も風水を強く信じ、龍神を崇め水を神とする「苗族(ミャオおぞく)」といわれる一族が住んでいる。背景に道教の信仰が見られる。とくに泉州にこの傾向が強いとされる。民衆の信仰心から最近は復活していた記録される。(『道教の神々』窪德忠 講談社学術文庫1996年『倭人と韓人』上垣外憲一 講談社が学術文庫2003年などの記載による。)この泉州は堂號「壁谷」が大量に存在する地域と一致しているが、その後中国の文化革命(1996-1977ごろ)で道教は壊滅的な打撃を受けており、現在どこまで復活しているかその状況は不明でもある。
中国南部福建省の苗(ミャオ)族に関しては、雲南省のハニ族などと合わせて古代日本の源流として、文化人類学上重要な地域ともされており、また稲作や日本の古代朝廷の儀式との深い関係が指摘されており、日本人研究者もこの地を訪れていくつかの著作が確認できる。
最近の情報によれば、ミャオ族の元々の出身地はチベットともされ、現在も集中して居住する地域は、少数民族の自治県として一応の保護がなされ、中国貴州省 安順市 鎮寧プイ族ミャオ族自治県が設けられている。ミャオ族自治県には誰もが一度は足を運ぶべきともされ現在は観光地としても有名な「黄果樹 大瀑布」がある。黄果樹の由来ははっきりしないが、地域特産の柑橘類の樹木に「黄果」があり、谷にある黄檗つまり檗谷ともつながりそうだ。おそらく当時から滝の周りに密生していたのではないだろうか。いつのころからか漢詩などに「黄果樹 大瀑布」と詠まれるようになったという。
古代にここを拠点として、時代の流れで多くが長江にそって南部や湾岸地域に逃れた結果、日本と関係の深い福建省やタイや、そして日本にその末裔が移住していったのだろう。現在も湖南省、雲南省、広東省、海南省、浙江省そして福建省なと中国南部や海に近い地域にミャオ族の末裔は多く、幅広く分布しているようだ。過去の日本人の研究家の多くが、ミャオ族が中国南部福建省に多いとするのは、日本との関係の深さかと思われる。
2)近年になって日本に渡って来たいわゆる在日中国人(華僑)の中に、日本名として「壁谷」を名乗る者がいた記録がある。『日本華僑紳士録1993年版』(華僑新報社 国会図書館・神戸大学附属図書館蔵)には、約4000人の在日中国人が使った「日本名」がのっている。青木、石井、上田、中村、渡辺など日本でよく見かける約600種類の苗字に混じって「壁谷」も掲載されている。日本には滅多にいないともされる、壁谷の名字ををわざわざ名乗ったとすれば、黄姓の中国人で、堂號が壁谷だった可能性があるのかもしれない。
3)福建省泉州市あたりから揚子江を上ると、『三国志演義』の諸葛亮孔明が劇的な逆転勝利を収めた、「赤壁の古戦場」にも行きつく。「赤」「石」はどちらも呉音で「しゃく」と発音し、漢音でも「せき」である。この赤壁も、石壁と同じ発音になるわけだ。ちなみに「石」は、中国で日本でも、単位として使われ「石(こく)」と発音されており「米」「穀」(そして「谷」)の意味に繋がるのかもしれない。
4)古代の「鎮魂」は、現在の日本語の「祖先の魂を慰める」という意味とは根本的に異なる。当時は、生きている人間の力を高める道教や神道の基本の法のひとつだった。平安時代の『延喜式』四時祭下の記述では「鎮魂」の文字に仮名がふってあり「おほむたまふり」とされている。また日本神道では、鎮める「鎮魂(みたましずめ)」と奮い立たせる「魂振(みたまふり)」がセットとされて鎮魂と呼ばれた。古代朝廷では「鎮魂祭」といわれ、年冬至の時期に天皇の気力をアップさせる宮中の儀式として行われており『日本書紀』にも登場する。
『日本書紀』の天武天皇十六年十一月の條
丙寅(ひのえとらの日:11月24日)に法蔵法師・金鐘、白朮(おけら)の煎たるを献れり。是の日に、天皇(すめらのみこと)の爲に招魂(みたまふり)しき。
このとき天武天皇に献上された「白朮(おけら)」とは煎じられた薬草を意味し、存命中の天武天皇に対して、鎮魂祭が行われていることがわかる。岩波版の解説によれば「招魂(みたまふり)」とは「いわゆる鎮魂祭。魂が遊離していかないように、人の体の中に鎮め、長寿を祈る祭り。養老神祇令では仲冬の寅の日に行われる定めでありここと一致する。」と解説されている。
5)秦氏の神は八幡(矢旗)神社だ。福島県安積郡の八幡にある「宇奈己呂和気神社(うなころわけじんじゃ)」は八幡神と習合していたが、すでに桓武天皇の時代には存在していたことが記録されている。この神社の特筆すべきは「瀬織津姫(せおりつひめ)」を主祭神とする、おそらく日本唯一の古社であることだ。これには実は大きな意味がある。
「瀬織津姫」は、川べりで機(はた)を織る「水」の神であり、神道行事の「大祓詞(おおはらい)」や、神代文字で書かれているとされる「ホツマツタエ」(偽書の疑いもあるとされる)などに名が残り、その本名は「穂ノ子」とされる。稲穂に大変関係が深く、同じく稲と関係の深い神武天皇や「穂の国」とされる三河(現在の愛知県)との関係も興味深い。多数の記録や伝承が各地に残るにもかかわかず、この瀬織津姫は『日本書記』『古事記』などに一切登場しない。この不自然さは極めて興味深い。
日本最大の渡来人勢力といわれる秦氏は、古墳時代の日本に機織、養蚕、建築などの最新技術を伝えていたとされる。秦氏と壁谷には深い関係があり、これは聖徳太子や法隆寺、京の造営などもかかわってくる。今後別稿で詳しく触れる予定だ。
6)台湾の「牛挑湾」という地名には「挑」が含まれる。「桃」は道教の魔除けに使われるものであり手篇が着くのは手に持っていることを意味する。「牛」は「天神」の眷属(神の使い)でもある。
※「牛頭」と読むならば日本語での「牛頭天王(ごずてんのう)」で平安京の祇園社の祭神でもある。『備後国風土記』逸文や『先代旧字本記(せんだいくじほんき)』には「牛頭天王(ごずてんのう)」が記載されているが、牛頭は中国の文献には登場しないとされ、関係は不明だ。牛挑が牛頭となり、「ごず」となったのかもしれない。
実は台湾の「牛挑湾」はキリスト教徒が大変多い。これはアヘン戦争に敗れた結果、イギリスからキリスト教宣教師が大量に入って来たことによる。壁谷は台湾では多く、そのため台湾のキリスト協会のホームぺ―ジの中にも「壁谷」の堂號の説明があるほどだ。日本で神仏習合が進んだのと同じように台湾ではキリスト教との習合が進んだのかもしれない。
日本国内でも江戸時代に、隠れキリシタンが相当いたとされる。室町末期にイエズス会が、現在の福島県に入って会津、二本松、白河、仙台あたりで布教していた。当時は相当の信者がいたのも事実らしい。江戸時代にも東北では隠れキリシタンが仏教徒と偽り、道教由来の「庚申信仰(こうしんしんこう)」を隠れ蓑にして存在していた。元和6年(1620年)に仙台では大規模なキリシタン弾圧もあったが、奥羽の山奥では十分な弾圧ができず、先代から山を越えた福島に潜んだ、隠れキリシタンがいたともされる。
7)古代のキリスト教は、古代中国にも伝わっていた。景教(ペルシャからシルクロードを経て唐などに伝わったとされる古代キリスト教)の類と思われる。一説にはそれを日本に持ち込んだのは、古代豪族の秦(はた)氏ともいわれ、正倉院宝物にもその痕跡は残る。
※別稿は秦氏と壁谷が多数の接点を持つことについて触れる。
キリスト教の聖堂(capella)は「カペラ」または「カッペラ」と発音するが、語源のラテン語(Capra)は子山羊(こやぎ)を意味する。(日本では鹿島神などの鹿に代わったのだろうか。)また、北の空に黄色に輝く明るい星「カベラ」は、冬のダイヤモンドを形成する恒星の1つで、全天で最も明るい星であったとされ、古代は北極星としても扱われたようだ。(実は北極点の位置は、長い時間をかけて移動しており、古代はカペラの位置が北極点にもっとも近かった。)
※「白土(しらつち)氏、「神谷(かべや)」氏は、平安末期から室町初期にかけて平姓千葉氏の北極星、北斗信仰(妙見信仰)を支える妙見館の館主を代々務めていた。
旧約聖書の記述から、一説にユダヤ人と日本人の間に深い関係があるという話も存在する。神から伝授された口伝の思想に「カバラ( Kabbala, Cabbala)」がある。紀元前にさかのぼる旧約聖書やユダヤ教に関わるもので、その後ユダヤ教神秘主義を指すようにもなったという。その内容はインドから中国を経由して日本に伝わった密教との類似性がみられる。一方ではインドで古代サンスクリット語に由来する古語に「カビーヤ(Kavya)」があり、ともに「預言者の力」もしくは「詩歌」の意味がある。現在も現地では名字「カビーヤ(kaveya)」として使われている。
また、東アジア一帯に存在するとされる、中国南部、チベット由来の「壁谷」との関係が興味ぶかい。筆者は世界史や宗教に詳しくはないので、よくわからない。しかしこれらの発音から壁谷(かべや)を連想できないこともない。このあたりは追及しても行きつく先もわからないテーマであり、今はこれ以上は触れたくはない。
8)台湾の南西部にある高雄市甲仙区に甲仙公園がありそこは観光地としても有名で、景勝地として石磯谷がある。googleで検索すると「石磯谷又名大壁谷」とあり、石磯谷は「またの名を大壁谷という」と読み取れる。その地の説明には「地處於甲仙鄉小林村內的埔角溪頭、是一個天然的巨石河谷地形」などとある。中国語に詳しくはいため正確な意味はわからないが、「巨大な天然石が谷を作る地形となって、仙人の郷となる所」とも読める。
参考文献
- 『梁書東夷伝』『史記』『魏略』
- 『天暦御記』
- 『古事記』
- 『日本書紀』
- 『古事記伝』本居宣長
- 『新撰姓氏録』
- 『道教の神々』窪德忠 講談社学術文庫 1996年
- 『先代旧事本記』
- 『ホツマツタエ』
- 『台灣地名辞書』卷九(雲林縣)
- 『八闽通志』巻13·
- 『百度百科』「檗谷黄氏」
- 『百度百科』「石壁庵」
- 『台湾キリスト協会』
- 『wikipedia』「版築」2018年
- 『日本人はどこから来たかー東アジアの旧石器文化』岩波書店 1988
- 『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』松本秀雄 日本放送出版協会 1992
- 『倭人と韓人』上垣外憲一 講談社学術文庫 2003
- 『日本人のルーツ探索マップ』道方しのぶ 平凡社新書 2005
- 『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』崎谷満 勉誠出版 2009
- 『なぜ列島に日本という国ができたのか』加藤謙吉仁藤敦史設楽博己 NHK出版 2013
- 『日本人はどこから来たのか』海部陽介 文藝春秋社 2016
- 『渡来氏族の謎』加藤謙吉 祥伝社2017
- 『南國之人士』內藤素生 臺灣人物社1922 大正11年 台湾国家図書館(未確認)
- 『台湾輪業大観 : 附・輪業者列伝及名鑑』田代秀雄 昭和7年 国会図書館
0コメント