10.福島田村市 俳句の宗匠 壁谷兆左

明治31年に俳句集『しくれ空集』(『時雨空集』)が刊行されている。編者は福島の文珠村(旧三春藩領内:現在の福島県田村市船引町文珠)で隠遁していた「壁谷兆左」だ。本書には勝海舟(かつかいしゅう)が題辞をよせている。勝は江戸幕府の海軍奉行・陸軍総裁で、明治新政府でも参議や大臣を歴任し伯爵となった要人だ。題辞をよせた当時64歳、東京赤坂の自邸で隠居していた。その間旧幕臣の行く末に気を使っていたことでも有名だ。


本書は金箔が貼られており、俳句集のなかでもかなり珍しい。比較的高価な秘蔵本だったと思われる。勝海舟と何らかの関係が示唆される壁谷兆左という人物はいったい何者だったのだろうか。兆左が隠遁していた現在の福島県田村市船引町文珠は「壁谷」にとってどのような歴史がある地域だったのか。壁谷の起源を探る手始めに、本稿ですこしだけ迫ってみたい。

※別稿では「福島県士族 壁谷可六」、「東京府 士族 壁谷訓永」、「静岡懸士族 壁谷伊世」そのほかについて触れている。静岡縣士族とされた壁谷伊世だが、将軍家一族の松平右近将監などに仕えていた記録があり、また静岡懸は明治初期に政府が幕府旧臣に与えた土地だった。その後の記録によれば、61歳となった明治6年ごろ、現在の福島県田村(旧三春藩)に戻り、学校教師となったようだ。


江戸時代に流行した俳句

俳句は、江戸初期(寛永-元禄)の松尾芭蕉が、連歌(れんが)の最初の一句だけを独立させたもので、当時「発句」と呼ばれた。「俳句」と呼ばれるのは明治以降である。室町・江戸時代を通して武士の教養の一貫としても学ばれ、与謝蕪村や小林一茶をへて滑稽や遊戯性を高めた庶民の集団文芸ともなったとされる。(後述するが、滑稽や遊戯性を高めたとの評価は、現在の歴史観では大きく見直されている。)


江戸時代は俳句作品を採点することで、「点料」という金を稼ぐ「業俳(ごうはい)」が多数存在しており師匠として一門を構成し大勢の門弟や後継者も養成していた。江戸時代後期になると、連歌と並んで全国に多数の流派が形成され、師匠からその名を代々受け継いで、宗匠(師匠の立場)とも呼ばれた。後述するが、多くの武士たちは教養の一環として、俳句を嗜んでいた記録が多数残る。


明治になると、「大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)」が発布される。江戸幕府以来、日本全国の士族から庶民に至るまでに根ざしていた儒教や仏教思想を一掃し、国民を「神教」に教化することが目標だった。そのため神祇(じんぎ)省、教部(きょうぶ)省を作り、国民の教化にあたる政府官吏「教導職(きょうどうしょく)」を任命した。神官・僧侶や平田篤胤(ひらたあつたね)の流れをくむ神道家、そして俳諧師が、教導職として採用されている。

※俳諧師の「師」は訓読みで「いくさ」とも読む。明治になって政府の官吏となったのは、ほとんどがもともと教養が高かった「士族」だった、この関係でその後法律で規定された高度な専門職種には「士」や「師」がつけられたのが、現在の国家資格等に「士」や「師」のつく理由ともされる。


教導職は政府の管理下における任命制で、半官半民における管理形態とした。神教国教化の政策は一面で明治当初の「廃仏棄釈」など極端な仏教文化の破壊を引き起こした。日本の社会が大きく変化して、様々な問題が起きた時期でもある。明治政府の教部省は、政府機関から離れて民間の宗教法人となり、現在は「神社本庁」(伊勢神宮など)、「神教大教院」(八幡神、稲荷神など)に至っている。


教導職を巡る誤解

過去の歴史観では「明治政府は芸能を利用して神教による国民教化を目指した」と説明され、落語家なども「教導職」になったと、広く信じられていた。実際には「神官」「僧侶」「俳諧師」以外で、教導職となった例はひとつも見つかっていない。このような理解は、大きな間違いだったことが明らかになっている。しかし、その後も多くの著作で触れられたことで誤った情報が大きく広まってしまった。現在の各種の歴史書やWikipediaなどの説明でも誤った情報が訂正されないまま、引用されている。


国文学者の加藤定彦は、『教導職をめぐる諸俳人の手紙』で、このような誤った歴史観が広まった理由のひとつとして、明治6年(1873年)「神官・僧侶のみ」に限定されていた教導職への道が、「他の職業」の人々にも開放されたことを上げている。「三条の綱領」を一般人に説教して教化することができる人材を、教導職として推挙することを地方の官僚に求めた教務省の通達である。「三条の綱領」とは、明治政府が推し進める「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴」の3つを指す高度な神教の思想である。しかも教導職になるには、非常に難関となる国家試験をクリアしなければならなかった。


法令全書. 明治六年 教務省『官報』

達第十號(二月十日)
神官僧侶ニ不限三條之綱領ニ基キ布教筋有志之者有之候ハ、一般ニ教導職ニ可補候條各地方官ニ於テ人材取糾シ相當ノ等級ヲ乗って薦擧可申出此旨相達候事

筆者による現代語訳

通達第十号(二月十日)
神官僧侶に限らず「三条の綱領」に基づき(神教の)布教ができ、志のあるものは、一般に教導職を補うことが可能であるとした。各地方官において人材を調べて相当の等級を与えるべく推挙を申し出る旨伝えること。


しかし「神官・僧侶」以外に「三条の綱領」を理解し「布教」ができるという条件を満たすのは極めて難しいことだった。この通達を受けて、曹洞宗「永平寺」の第六十一世貫主「環渓(かんけい)」が明治6年3月31日に政府に進言した手紙が見つかっている。それによれば、「俳諧師」が教導職に適当であるとしている。教部省側もこの環溪の進言を受け入れて、俳諧師に教導職の国家試験の受験資格が与えられた。


曹洞宗の大本山、永平寺の貫首をつとめていた環渓は、教導職における最高位となる「大教正」も兼ねていたが、彼自身「幻斉」という俳号を持った高名な俳諧師でもあった。当代を代表する高僧だった環溪が、俳諧師を教導職にと推挙した理由は、俳諧師の実力をよく知っていたからといわれる。当時の「俳諧師」は高度の教養があって、各地に多くの門下生を抱える師匠でもあった。このため多くの人々の神教の布教をするには適当とみなされたと思われる。


また芭蕉派の俳句の宗匠には、もともと神教の教導職が成立する素地があった。松尾芭蕉は光格天皇から寛政3年「桃青霊神」文化3年に「飛音明神」、そして天保14年(1843)年の百五十回忌には孝明天皇から「花本大明神」という神号を贈られていた。芭蕉庵のあった東京深川の富岡八幡には芭蕉を神として祀った「花本社」もあり、すでに神として崇められていたのだ。落語家などには、到底このような背景はなく、教導職として推挙される素地はない。もし推挙されたとしても、難関とされた神道の知識を問われる国家試験を突破することはできなかっただろう。


※明治4年、戸籍法により僧侶も「苗字」を名乗ることになり、環渓は一旦「細谷環渓(ほそや かんけい)」と称したが明治9年に改姓して以後「久我環渓」と名乗った。細谷はおそらく環渓の本来の名字であろう。「久我」は曹洞宗開祖である「道元」の名字と伝承される。明治初期に「改名禁止令」が出され苗字の変更は禁止されていたが、明治9年に緩和され「営業の都合」と「由緒」を示せば「改名」(改姓)が認められるようになっていた。


明治俳諧の隆盛

実は俳諧師でも簡単に教導職になれるわけではなかった。教導職の国家試験は、教部省が主催し、口述、筆記試験を含めて三日間にもわたる過酷な試験で、これを突破するのは相当の知識や力量が試された。多くの俳諧師が国家試験の受験をためらったともされる。もし教導職の試験に落ちてしまうと、俳諧師としての権威が大きく揺らぐと考えるものが多く、俳諧師の多くが教導職の試験を受けることをためらったとされる。


前出の加藤定彦らの研究で、俳諧人向けに最初の教導職試験が行われたのは明治7年であり、その最初の試験を突破したのは、わずか二名にすぎなかったことが判明している。この最初の試験を一発で突破した俳諧師の一人が、壁谷兆左の俳句集の出版に関わった三森幹夫であった。。三森という人物は、非常に優秀だったことになる。

※多くの資料が三森が教導職になったのは明治6年とするが誤りである。


三森は第11世「春秋庵(しゅんじゅうあん)」を継いだ、明治を代表する俳人の一人である。彼が拠点とした東京深川は、松尾芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」と詠んだ芭蕉庵があった地であり、芭蕉風(正風ともいう)俳句の聖地として、後の明治俳諧の中心地のひとつでもあった。三森はその後、東京深川に「明倫講社」を組織し、明治13年(1880年)には雑誌「俳諧明倫雑誌」を創刊した。江戸時代から広がりを見せていた俳諧は、「教導職」という政府の新たな権威付けがなされた俳諧師たちの登場によって、明治時代に全盛を迎えることになった。

※深川(現在の東京都江東区)には奥州三春藩(現在の福島県田村郡、田村市)の蔵屋敷があり、奥州と江戸の行き来の拠点だった。現在も壁谷が集中して居住する地域である。


その一方で明治17年(1884年)、「教導職」が廃止されると俳諧師は、政府から受けた権威も収入も失うことになった。収入の激減と権威の低下は避けられなかっただろう。一部では商売を始めて成功した例もあったろうが、当時は「士族の商法」がたたった失敗例が多く語られている時期でもあった。


三森が選択したのは、芭蕉派(蕉風、正風ともいう)の後継者と銘打ち、「神道芭蕉派明倫協会」なる団体を主宰して会員を集め、多数の俳句集を刊行することだった。教導職の権威も裏付けにしたのだろう。そこに『俳諧明倫雑誌』の編集人として加わったのが渡辺桑月だ。、明治17年ごろだった。彼ものちに『明治俳諧金玉集(国会図書館蔵)』を出版している。『達南俳壇史』によれば、その内容は絶賛され、明治24年刊の『俳諧鴨東新誌』でも渡辺桑月は、「大日本八大宗匠」の一人と評されている。


このころ、「正岡子規」は三森らを標的として徹底的に攻撃していた。それは三森による明倫講社の経営が独善的であり、未だに政府による国民の神道教化政策(教導職の仕事)を支持していると非難したのだ。それにも関わらず、明治30年代になっても新聞紙面や、当時の著名な俳句雑誌「太陽」で行われた人気投票で、三森らの「神道芭蕉派明倫協会」の俳人たちが常に上位を占めていた。(『子規は何を葬ったのか空白の俳句史百年』 今泉恂之介 新潮選書による。)


雑誌『太陽』は博文館が、明治28年(1925年)に発刊した日本初の総合教養雑誌である。欧米諸国に負けない雑誌を目指し、政治・経済・社会・軍事・歴史・工業・宗教・芸術・文学など多方面にわたり多数の学者や専門家が執筆し、その発行部数は10万部にも達していた。そこには毎回俳句のコーナーがあった。このことは、俳句が当時の知識人に相当に普及していたことも意味する。以下に、明治32年の人気投票の結果の例を示す。この回の例では、3位と4位に正岡子規と三森幹夫が並んでいるのが面白い。


雑誌『太陽』明治32年(1899年)6月号の「俳諧十二傑」

  • 上田聴秋(梅黄社:芭蕉古風、元美濃藩士)
  • 老鼠堂永機(教林盟社:芭蕉古風、旧其角堂七世の穂積永機)
  • 正岡子規(俳誌「ホトトギス」:万葉調の新派)
  • 三森幹雄(明倫講社:芭蕉古風、神道芭蕉流)
  • 尾崎紅葉(秋声会:新古折衷派のち新派、小説家)
  • 角田竹冷(秋声会:新古折衷派のち新派、静岡出身、弁護士、後に衆議院議員)
  • 巌谷小波(秋声会:新古折衷派のち新派、元近江水口藩士)
  • 雪中庵雀志(江戸出身で上記老鼠堂穂積永機の系列:芭蕉古風、斎藤雀志)
  • 幸堂得知(黄表紙の流れか:滑稽が持ち味、江戸出身の青物商)
  • 内藤鳴雪(子規の師、後に子規を師とした。元伊代松山藩士)
  • 桂花園桂花(静岡出身で日本橋の豪商、幸島桂花-さしまけいか)

※カッコ内は筆者が加えた。「老鼠堂永機」は本名「穂積永機」である。 江戸向島(現在の墨田区)で活動した芭蕉派の大御所。芭蕉高弟だった其角堂の七世としてその門下も一千人を超えるとされていたが、教導職が廃止となった明治17年に隠居している。俳諧師たちが進路の選択を迫られた一端がわかる。(穂積については勝海舟と交流があり、後述する)


ちょうど同じころだった明治31年、帝国大学(現在の東京大学)を卒業して五高(現在の熊本大学)の教員となっていた夏目漱石も、俳人として一定の名を成しており、五高の学生を多数集めて俳諧を教えており、いわば俳句の宗匠であった。五高の学生らは、漱石の家で紫溟吟社(しめいぎんしゃ)という結社を作り、この中にはのちに高名な物理学者となった寺田寅彦もいた。夏目漱石は生涯に約2600の俳句を残しており、岩波文庫には『漱石俳句集』もある。

※明治30年3月7日の新聞『日本』では、正岡子規が、漱石の俳句を10首紹介している。子規は夏目漱石の俳句を高く評価し「初めて作るときより既に意匠に於いて句法に於いて特色を見はせり。其意匠極めて斬新なる者、奇想天外より來たりし者多し。」としている。


そんな明治俳諧の全盛期だった明治31年、「壁谷兆佐」の「しぐれ空集」は出版されていた。編者は旧三春藩の領地内(現在の福島県田村市、田村郡)に隠遁していた「双春居壁谷兆左」であり、「海舟題辞」とあるのは、前述の勝海舟である。春秋庵幹夫とあるのは明倫講社代表の三森幹夫のことで、真風舎桑月も先に示した編集人の渡辺桑月である。この渡辺桑月は岩代(現在の福島県二本松市)の出身であり、やはり「教導職」が廃止された明治17年ごろ、俳句集の編集人として深川に来たとされている。


「春秋庵」、「真風舎」などは、代々受け継いだ宗匠の名であるようだ。いわゆる「菴(庵)」は、粗末な小屋を指して居り、「居」「舎」も同じ意味である。もともとの意味は農作業などのための質素な仮住まいだったようで、それが転化し中国唐の時代以降は世俗を離れて儒学や修行、書画などに励むための質素な小屋を意味するようになり、日本も同様の意味で使われた。一方では軍隊の駐屯地や宿泊地を「菴(庵)」と言っており(「平安時代の辞書『倭名類聚抄』による。)江戸時代は医師も「庵」と名乗る例も多かった。宝永期の『武鑑』に載る幕府お抱えの医師も、1-2割は「庵」と名乗っている。つまり「庵」には、世俗を離れた知識人の意味があったことになる。

 ※壁谷兆左が名乗った「双春」とは旧暦の太陰暦と、現在の新暦(太陽暦)の差から、一年に二度春が来る特異な年を指し、直近は明治27年だった。ただ「双春」とはに、地名の「三春」から春を一つ減らしたものではないだろうか。坂上田村麻呂がこの地に付けたとされる「三春」の地名は「見張る」が懸けられていた伝わってる。もし兆左が、もはや「見張るに足らず」を懸けて「双春」としたなら、俳諧師らしいともいえる。


福島県の田村にいた「兆左」

「壁谷兆左」の俳句集には、福島文珠村(現在の福島県田村郡)とあり、明治31年当時、兆佐は福島文珠村に居住していたと思われる。この地周辺は古来「船引(ふねひき)」と呼ばれた地域である。この地名は桓武天皇時代の、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に船を引いて通ったという故事に基づく地名とされ、田村麻呂伝説が根強く残る地域である。兆佐の『しぐれ空集』に掲載された句は、兆左自身そして文珠村の人たちから収集したものであろう。なお、福島県田村市には明治20年の作として市の「指定有形文化財」「三渡神社の絵馬」がある。壁谷兆左は、「石森の宗匠」と呼ばれている。


以下に田村市指定有形民俗文化財 絵馬「四季混題句合(しきこんだいくあわせ)の図」について、福島県田村市のページから引用する。

田村市船引町荒和田字二ツ宮地内に所在する三渡神社の創建は不詳ですが、伝承では文永年間(1264-1274年)の勧請で、古くは「身和田里大権現」と称したとされています。拝殿内に奉納されている絵馬「四季混題句合の図」には、季節を取りまぜてよまれた俳句28句(俳人は222名)が記され、その下に句会のようすがユーモラスに描かれています。江戸時代中期から俳句が全国の庶民の間で大いに愛好されるようになり、田村市船引町では江戸末から明治にかけて、荒和田、要田、笹山、春山、文珠、石森、門鹿、新舘の村々で特に盛んでした。絵馬に記された俳人を見ると、地元の荒和田や要田などの俳人の名とともに、 石森の宗匠 (文芸・技芸の道の師匠)「壁谷兆左」の名も見え、当時 この地方でも多くの人々によりたびたび句会が催されていたことがわかる 資料として貴重な文化財です。

※「」は筆者がつけた。


「三渡神社」は「水」が祭神という大変異例な神社でもある。近くの二本松市にあるものが特に有名で、平安初期の大同元年(806年)創建と伝わる。一方で田村市の記事によれば、「身和田里大権現(みわたりだいごんげん)」とされている。権現は本地垂迹(ほんちすいじゃく)説により神が仏の姿となって表れたとされるもので、古代の「神渡(みわたり)」が本質の神であり、後に「水渡り」に変化したものかもしれない。なお現在の地図では、見渡(みわたり)神社と表記されている。


古来、稲に雷が落ちる「稲光り」「神鳴り」が豊作には必須と信じられていた。これは『延喜式』に残る古代の天皇家の行事、「祈年祭(としごいのまつり)」連想する。そこでは、種籾である「穎(かび)」を祀って、毎年春に五穀豊穣・子孫繁栄を祈ったたのだ。これは戦国時代に一時中断されれるまで続いていたという。後に密教や神仏習合そして武家文化の影響も受けて室町時代には「稲荷」や問題解決能力を備えた「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」が象徴になっていく。


朝廷が保護した真言宗の影響で、江戸幕府も5代将軍綱吉初期の時期(天和の治)のころからは学問励行もあって、「文殊」を保護した。兆佐が居たのは「文珠村」であり、文殊の字が通常とは違う。文殊菩薩の「文殊」は「かばね篇」であり、殺す、絶つという意味がある。生死にも関わる密教における恐ろしさの一面も表していようか。一方で「文珠」は「たま篇」であり真珠にも使われている。玉、御霊(みたま)を連想させ、神事や知恵の面が強調されていると思われる。この点は別稿で触れる。


※井上円了の『南船北馬集』には、明治43年10月24日に三春の七郷村の村長として「壁谷亀八」が記録される。詳細は後述する。また同じく船引町石森屋戸にある鹿島神社の神官は当時壁谷が務めていたことがわかっている。(『船引町史』による。)石森の鹿島神社には坂上田村麻呂の伝説が残り、また民俗文化財となっている「三匹獅子舞」が伝わっている。


俳句集に見られる旧幕臣との関係

話を俳句にもどそう。三森幹夫が「明倫講社」で発刊した俳句集、書籍は55種が記録されており、「明治俳諧」で検索するとあちこちに一覧がある。筆者が調べた限りでは、このうち地方にいた(あるいは地方に戻った)編者が作った俳句集は、明治20-41年までの21年間だけに存在し、全部で13冊しかない。編者は皆「宗匠」とよばれる比較的高齢の師匠であり、地元に抱えた多数の門下生たちの俳句を集めて批評を加えて東京で出版したものだ。彼らの発刊時の居住地が記してあり、それを見れば全国各地に散らばっていることがわかるが、同時にその居住地にはある際立った特徴が見えてくる。


三森幹夫が関わった、地方の編者による13冊

  1. 越の白雪集 須藤鶏山(虎吉)編 三森幹雄校 新潟 小千谷町 杉山徳造 
  2. 陋習寿域集 北々園夏静編 香楠居三森幹雄題字 梅渓吟樵序 酒田 翠流舎 
  3. 翁つか集 桐子園幹雄等撰 高野真澄編序 千葉 桜井村 菅谷元春 
  4. 俳諧世々の花 根本乙年編 三森幹雄校 千葉 久住村 根本乙年 
  5. 俳諧発句三つ巴 一名・うひまなび 春秋庵籟賦、支心庵無禅編 大阪 積善館 
  6. 道之鄙風俗 半合軒下平且見編 琴堂散人序 春秋庵ミ木雄跋 島渕村 編者刊
  7. 其俤集 旭窓庵阿野松朗編 春秋庵ミ木雄題句 秋華庵鴬州序 新潟沢根町村 編者刊 
  8. ひともと集 登喜庵増田我友昌平編 榎本武楊題辞 春秋庵幹雄序 埼玉東金子村 増田昌平 
  9. しくれ空集 双春居壁谷兆左編 海舟題辞 春秋庵ミき雄題句 弄月園[口金※]風序 真風舎桑月跋  福島文珠村 編者刊 
  10. 翁さひ 双淵斎奥村李楊編 桐陰鳳羽題字 東江遷史題辞 春秋庵序 箭浦跋 常陸麻生町編者刊 
  11. 半海発句集 檉州庵半海著 楊州菴半湖編 春秋庵幹雄序上野檉女村 編者外一軒(文音所)
  12. 青白しう 乙由菴野崎李年編 桐陰題字 春秋菴幹雄跋 香川長尾町 編者刊 
  13. 世芳梨庵祥雲 山口すみれ跋 千葉 那古町(館山) 編者外一軒(文音所) 


実は上記の13冊の、各編者の居住地のほとんどが幕府天領もしくは譜代大名領地内にあり、その藩主は、江戸時代末期に幕府の中枢で活躍していたことがわかる。この13箇所の中でわずか2つ、福島文珠村(三春藩)と、常陸麻生町(麻生藩)だけが、外様大名となるが、この2藩は共に幕府と大変関係が深かった。麻生藩は、太平洋に突き出た地にあって、幕末の海防上最も重要な拠点となった。幕府に海防警備と開国拒否を提言し、幕命をうけて海防強化や鉄砲稽古場を築造していた。また三春藩は江戸城「帝鑑の間」に詰め、外様と言いながらも実質は徳川幕府の譜代大名の扱いだった。その理由は、初代藩主の秋田俊季(としすえ)の母が幕府二代将軍秀忠の従姉妹(いとこ)にあたる関係だったからだ。藩主の長男が三春藩主を継ぎ、弟は五千石の大身旗本(秋田筑後守)となって明治まで続いた。現在も壁谷が多く居住する石森村はその旗本領つまり、幕府直轄領であった。(明治22年に春山村・粠田村・石森村が合併して文珠村となっている。)文珠村であれば三春藩だが、福島県が記録するように石森の出身であれば、幕臣だった可能性が充分にある。

※「帝鑑の間」は、江戸城で徳川家のご家門、譜代が詰めた控室。襖には歴代将軍の範となるべき中国唐の歴代の皇帝の絵が描かれていた。


「三森幹夫が関わった、地方の編者による13冊」の編者の出身地

  1. 新潟小千谷町譜代)越前長岡藩牧野氏(14万石)代々老中、京都所司代を務めた。朱子学と関係が深い。奥羽越列藩同盟にも参加。小泉元首相の「米百票」はこの地の秘話。
  2. 山形酒田譜代)庄内藩酒井氏(16万7千石)徳川四天王、酒井忠次の嫡流。戊辰戦争の口火を切り、最後まで恭順しなかった老中首座を歴任する譜代の名門。
  3. 千葉桜井譜代)請西藩林氏(1万石)幕府の番方を勤める旗本の出身。代戊辰戦争では房総・相模・奥羽へと執拗に転戦。戊辰戦争を理由に改易された唯一の藩
  4. 千葉久住譜代)成田高岡藩井上家(1万石)幕府の書院番・大目付などを歴任。第6代藩主は御三家筆頭、尾張徳川家の十男で、第7代藩主も尾張藩家老の次男。
  5. 大坂幕府天領将軍が城主、譜代大名が城代を務め後に老中となる例が多い。大阪城には、将軍の許可なく軍事行動ができる白紙の朱印状があったという記録が残る。
  6. 群馬島渕村幕府天領)小栗氏 徳川埋蔵金伝説が有名な幕末の強硬派の筆頭格。元勘定奉行。横須賀製鉄所も作った。編者の下平可都三(しもだいら かつみ)は剣術士としても有名。(標記の「島渕村」は誤植で「倉渕村」が正しい)
  7. 新潟沢根町村幕府天領)佐渡。幕府の最大の資金源。金銀の採掘、加工の職人、大工、測量技術者が全国から集まり商人も移住、人口が急増し農林業も盛んだった。
  8. 埼玉 東金子村(一ツ橋領・天領 旗本領)天領・親藩などが混在した幕府の拠点。彰義隊を離脱し飯能戦争を起こし、さらに奥羽へ転戦した。現在の埼玉県入間市。
  9. 福島文珠村外様・譜代格 三春藩秋田氏 もしくは 幕府天領 旗本秋田氏)江戸城帝鑑の間に詰め実質は譜代。奥羽列藩同盟に加わった。藩主の一族が五千石の旗本だった。
  10. 常陸麻生町外様 麻生藩)1万石。幕府に海防警備と開国拒否を提言した。幕命で海防強化や鉄砲稽古場を築造、幕命を受け水戸藩に代わって天狗党も追討した。
  11. 三重上野徳川御三家 紀州徳川)55万5千石 現在の三重県伊賀市。松尾芭蕉を始め多数の俳諧師を生んだ。老中阿部正弘からベリー会談に伴う忍者の手配の要請も受けている。
  12. 香川長尾親藩 東讃高松藩 松平氏)12万石 水戸徳川家の分家支藩(御連枝)彦根藩井伊家・会津松平家と共に代々老中・若年寄。など重責を務めていた。
  13. 千葉那古(幕臣・旗本領)千葉県館山の船形藩。幕末の将軍側近。第12代・第13代将軍の御側衆(おそばしゅう)第14代将軍時に若年寄、第15代将軍時に海軍総裁を出している。


勝海舟との関係

これ以外にも、壁谷兆左と江戸幕府の関係を示唆する情報はほかにもある。「壁谷兆佐」の俳句集には際立った特徴が三つある。ひとつは、兆左の『しぐれ空集』だけに「口金」という表記があることだ。別資料で確認したところ、これは現在使われている「口金(くちがね)」ではなく、口篇に金という特殊な文字で、書物に金箔を塗った特殊な製本手法を指すようだ。具体的には書物の背を除いた三方(天地および背の反対側)に金箔をはりつけて書籍の痛みを防いだ伝統的な製本技法で「三方金」とも呼ばれ、豪華本や秘蔵本の代名詞だったようだ。兆左の『しぐれ空集』だけが、出版された本全てにこういった金箔が張られたことになる。壁谷兆左が書いた俳句集だけが、他とは違う特別な位置付けのものであったようだが、その背景はよくわからない。

※筆者が幼い頃、父に買ってもらった箱詰めの立派な本から中身を取り出すと、その本には背を除く三辺に「金色」の塗料(もちろん金ではないはず)が塗ってあった記憶がある。その本を開き、初めてページを開くたびにパリパリと金色の塗料がはがれる音が聞こえ、子供心にも大変すがすがしい気持ちになった。同時に大切に扱わなくてはいけない本だと思った記憶がある。


二番目に俳句集の名称に使われた名称の「しぐれ(時雨)」は、芭蕉の命日である芭蕉忌、別名「時雨(しぐれ)忌」と同名だ。芭蕉の命日は元禄七年(1694年)10月2日(新暦では11月28日)である。芭蕉を忌ぶ「しぐれ会」は安永5年(1777年)から現在に至っても続いている俳句界でも権威ある名称で、「しぐれ」はいわば芭蕉の代名詞なのかもしれない。兆左の俳句集の発刊日は、明治31年(1898年)4月であり時雨の時期ともあわず、すでに芭蕉二百回忌も終えて4年が経過している。芭蕉の後継者を標榜して「神道芭蕉派」として出版社を立ち上げた三森のもとで、その名もずばり「しぐれ」を冠した俳句集を出版できた兆左は、なにか特別な存在だったのではないだろうか。


最後にもうひとつ際立った特徴がある。それは、勝海舟が題辞を寄せている唯一の俳句集ということだ。彼は江戸幕府の海軍奉行、陸軍総裁であり、明治政府でも参議、参議海軍卿さらには元老院、枢密院議官など政府高官を歴任した。政界を退いてのちは伯爵となり、東京市の麻布で隠居し、明治政府の支援を受けて執筆活動にいそしんでいたのだ。

※明治時代の華族は、従一位は公爵、正二位は侯爵、従二位は伯爵、三位は子爵、四位は男爵だった。生前に従二位を得た勝は、江戸時代であれば、徳川将軍家や御三家に相当する官位だった。元第十五代将軍徳川慶喜の子も、勝の養子となって勝家を継いでいる。


兆左はそのような勝海舟に題辞を書いてもらえただけでなく、題句(巻頭の一句)、序(序文)、跋(あとがき)と3人が書き寄せている。これも同じく、他の俳句集にはない大きな特徴だ。壁谷兆佐は、おそらく江戸末期もしくは明治初期に、それなりの人物であり、他の俳句集の作者とは別格の扱いを受けた可能性が推測される。


残念だか「壁谷兆佐」の俳句集によせた「勝海舟」の題辞の内容は、現物を確認できていない。どのようなものであったのか、もし見れるものなら本書の実物を見てみたいものだ。おそらくは勝海舟は壁谷兆左を評価してくれていたのだろう。海舟は何冊かの本に、題辞を寄せている。いずれも禅語を用いた、ダイナミックな筆致にてかかれており、その意味は短くて深い。


禅と俳句に詳しかった勝海舟

勝海舟は若いころに剣術を身に着けるために禅を学んでいる。禅についての知識は相当あったようだ。『氷川情話』によれば、勝は松尾芭蕉を非常に高く評価しており、それは芭蕉の句に「禅」の心や「知識」を読み取ったからのようだ。また自らも俳句を作っているが、その句も、滑稽なように見せて実は禅の趣を込めてあった。


『氷川情話』「芭蕉の句と自作と」から引用

「其角(初代の芭蕉高弟「其角」をさしている)」は才でとばした人だけど、「芭蕉」はまた偉い人だった。その句を味わってみるのに、みな「禅味」を帯びてゐて、その人品の高雅なところが想像せられる。そしてその語は西行の古歌などから取ったものが多く「学問」はなかなか(原文は「く」)博(ひろ)かったやうだ。「道ばたの木槿(もくげ)は馬に喰われけり」という句から想ひついて、おれが 
『昼顔のとがま(鋭い鎌)を漏れて咲きにけり』
と詠んだがどうかネ。

※「」や()は筆者が付けた。


明治俳諧で有名な俳諧師たちとの交流もある一方で、その宗匠たちは芭蕉を理解できていないとの若干の嘆きも見える。芭蕉の句(正しくは「道のべの・・・」であり、何らかの事情で変えたか、記憶違いと思われる)を、禅味を帯びていると褒めたたえ、さらに自らくだらないように見える句を作って公開するなど、海舟独特の余裕を見せている。これが勝海舟の凄さであろうか。海舟の俳句にも実は奥深いものがあるが、その評価についてはこの後を読んだうえで、読者におまかせしたい。本書では、これ以外にも勝の俳句は多数披露されているが、そのうちの一つを次に示す。これを読むと隠居してしまった壁谷兆佐も勝海舟も、まさに二つ目のほととぎすである「不如帰」なのではないかなどと思ってしまう。


勝海舟『氷川情話』「ほととぎす」から引用

俳諧といえば「其角堂(おそらく穂積永機)」や「夜雪庵(近藤金羅)」が、おれのところに来るから、おれもちょっとやってみるきになり、幾つも作ったが、こゝにおれの得意の句がある。それは
『時鳥不如帰遂に蜀魂』
ほとゝぎす ほとゝぎす ついに ほとゝぎす。

人生すべてかくのごとしサ。少壮のときには時流に従うて、政党とか、演説とか、選挙とか、辞職とか騒ぎ立っているが、これはすなわち時鳥(「ほととぎす」)だ。しかしこれも一時で、天下のこと意のごとくならず。已(や)みぬる哉(かな)、已みぬるかな、むしろ故山に帰りて田地でも耕すがましだと、不平やら失望やら、これが中年から初老の間で、いわゆる不如帰(「ほととぎす」)だ。しかしてかれこれするうちには年が寄って、もう蜀魂(「ほととぎす、しょくはく」)だ。つまり十七文字の間に人生を一括したのサ。この句を「永機(穂積永機)」に見せたら、どうも先生(勝のこと)のはわからないというから、困ったやつだと今の通り説明して聞かせてやった。するとなほ考えてい居たが、先生のは字義がむつかしいといふから、それは字義の講釈とは聞かなくとも見る人にはわかる。「芭蕉」の句でも見る人の眼識しだいで、深遠の意味が自ずから心に浮かんでくる。もし「芭蕉」がおれの句を見たなら、きっと感心するだろうと威張ってやったツケ。

※カッコと「」は筆者がつけた。

※穂積永機は冒頭で触れている。夜雪庵(近藤金羅)は江戸湯島に在住した。明治に入ってから東京市京橋の初音会より発行された文芸誌「人来鳥」の「俳句」の選者を務めた。この夜雪庵(近藤金羅)については、海舟は同じ『氷川情話』の別項でさらに酷評し、俳句にも相当の自信があったようだが、ここでは触れない。


実は芭蕉の第一の高弟の宝井其角の「其角堂」を七世として継いだのが前出の穂積善之こと「穂積永機」であり、勝海舟と同い年だった。江戸御徒町生まれで、古風芭蕉派の中心で、当時門人は一千人を超えるといわれた。教導職が開始された明治7年には「教林盟社」に所属し教導職が廃止された明治17年に、弟子に其角堂を譲り引退、以降は「老鼠堂」と名のった。海舟の記事では「其角堂」とあることから、おそらく明治17年以前の話を思い出して書いたと思われる。


海舟の句の意図は、三つ目の「蜀魄(ほととぎす)」であろう。これは蜀の皇帝が死後に魂(正確には「魄(はく)」)が化して「蜀魄(ほととぎす/しょくはく)」になったという中国の「華陽国志」(西暦311年)の故事を引いていると筆者は推測する。それが正しければ、海舟は威張ったなどと照れ隠ししながら、「蜀魄(ほととぎす)」の漢字の意味がわからなかった永機に、まだまだ知識が不足しているという評価を下していると思われる。

※万葉集では「霍公鳥(ホトトギス)」と表記され153種と最も多く登場する鳥として有名である。大伴家持も多数詠っており、そこには深い意味を持った暗号が仕込まれているとして解読を試みる書籍も複数ある。ホトトギスは不如帰、時鳥、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀魄、蜀鳥、杜魄、子規など多くの文字であらわされる。


海舟から子規へのメッセージ

この「ほととぎす」の句には、さらに別な意味も隠されている。俳句雑誌「ホトトギス」を出版していたのは正岡子規で、「子規」という名前も、ホトトギスの異称から取ったといわれていたからだ。(「鳴いて血を吐く杜鵑(ほととぎす)」による。これはホトトギスの口中の赤さと、その鳴き声から来たものだろう。)


『教導職をめぐる諸俳人の手紙』によれば、先の永平寺の環溪禅師に推薦され、教導職になった関為山・鳥越等栽・橘田春湖らが「教林盟社」を設立し、これには穂積永機も加わっている。ややおくれて三森幹夫らが「明倫講社」を設立したとされる。この2社は盛大におこなわれた明治26年の芭蕉二百回忌の中心になった。この盛り上がりに反発した正岡子規は、穂積永機を二流以下の俳諧師と酷評している。これは子規が勝のいう、二番目の「時鳥(ほととぎす)」だったということであろうか。このとき子規はまだ26歳、穂積は43歳と年上でもあり、すでに俳諧の大御所の地位を確立しつつあった。


『俳聖芭蕉と俳魔支考』(正岡子規)より引用

「老鼠」と言ひ「永機」と言ふ人、幾人もありとばかり覚えて、能く其の人を区別できず。(中略)若し此種の句の見ならんには到底二流以下の俳家たるに過ぎず。

『獺祭書屋俳話』(正岡子規)より引用

元禄時代の俳諧は、決して天保以後の俳諧の如く平民的ならざりしは、多少の俳書を繙(ひもと)きたる者のことごとく承認する所なり。元禄に於ける「其角」・「嵐雪」・「去来」(芭蕉の有名な高弟たち)等の俳句は、あるいは古事を引き成語を用ゐ、あるいは文辞を婉曲ならしめ格調を古雅ならしむるなど、普通の学者といへども解すべからざる所あり。况(いわん)んや眼に一丁字なき。(無学のたとえ)俗人輩に於てをや。天保に於ける「蒼虬(そうきゅう)」、「梅室(ばいしつ)」、「鳳朗(ほうろう)」に至りては、一語の解せざる無く、句の注釈を要するなく、児童・走卒といへども好んで之を誦し、車夫・馬丁といへども争ふて之を摸(も)す。正に是れ、俳諧が最も平民的に流れたるの時にして、即ち最も広く天下に行はれたるの時なり。この間に在て、「芭蕉」はその威霊を失はざるのみならず、却(かえっ)て名誉の高きこと、前代よりも一層・二層と歩を進め来り。その作る所の俳諧は完全無欠にして、神聖犯すべからざる者となりしと同時に、「芭蕉」の俳諧は殆ど之を解する者なきに至れり。偶々その意義を解する者あるも、之を批評する者は全くその跡を断ちたり。その様、恰(あたか)も宗教の信者が経文の意義を解せず、理・不理を窮(きわ)めず、単に有難し、勿体なしと思へるが如し。


正岡子規は上記の『獺祭書屋俳話』の引用文で「元禄時代の俳諧には普通の学者といえども解せないところがある」「芭蕉の俳諧は殆ど之を解する者なきに至れり」としており、決して芭蕉を全面批判しているわけではなく、逆に芭蕉やその直弟子たちを持ち上げてすらいる。ここまでは、さきに紹介した勝海舟の芭蕉に対する考えと一致しているようにも見える。


子規の本来の主張は、芭蕉を代々継いだ弟子たちが特に天保の時代以降、蕉風を繁栄させる一方で、芭蕉を理解せず世俗受けした滑稽に走ったと強烈に批判したのだと思われる。子規の若さゆえ舌峯の鋭さが過ぎ、結果として蕉風を受け継いだ大先輩たる天保以降明治までの俳句の宗匠たちを、強烈に批判して蹴落としたのかもしれない。


一方で同時期に出版された正岡子規の『芭蕉雑談』では、舌鋒の鋭さは増し、芭蕉そのものも強烈に批判している。例えば「古池や蛙飛び込む水の音」や「道のべの木槿(むくげ)は馬に喰われけり」などをあげて、芭蕉といえどもその句の過半はくだらない悪句だと、批判の矛先にしてしまっている。実は勝海舟はこれらの句を高く評価していたが、子規にはそれが理解できていなかったのだろう。子規はおそらく禅を学んでいなかったのではないだろうか。(違っていたら申し訳ない。)


当時これだけ隆盛していた明治俳諧だったのだが子規の舌鋒をまともに受けた周囲の文化人たちの衝撃は、江戸の旧弊の否定とあいまって、幕末から続いて俳諧の輝きを奪い去り、俳諧を低俗なものとする評価が一般化してしまったかもしれない。その結果として芭蕉古風の俳人たちも、子規の考えに徐々に同化していき、結果的に明治俳諧が闇に葬り去られることになってしまったのかもしれない。


後年になって正岡子規が高く評価される一方で、「明治俳諧」は文学界からだけでなく歴史からも姿を消し忘れられ、一部の研究者によってのみ知られているだけとなった。その理由は大正時代以降に明治俳諧は「低俗なもの(アマチュアによるもの)」と卑下されるようになったことで、現在のような誤解を招いたと思われる。先に紹介した今泉恂之介は「実はアマチュアの俳諧こそ俳諧の歴史を根底で形作ってきた大きな本流なのではないか」と子規を逆批判している。


実は子規が「悪句」と評した芭蕉の句の「道のべの木槿(むくげ)は馬に喰われけり」には、実は禅の知識に基づいた深い意味が込められており、それを勝は理解できていたと思われる。夏のムクゲは冬の椿とならんで、茶道で用いらる代表的な花だ。鮮やかな大輪の花もその命は短く、その美しさと潔ぎよさは、茶の席や禅の世界では好まれる。私見なのだが、芭蕉がムクゲをみて禅の修行中、もしくは茶室の静寂を連想した瞬間だったのかもしれない。「木槿(むくげ)」は禅の「無何(むげ)」と懸けているかもしれない。無何とは、無我の境地を指しており、明代の禅僧「広聞和尚」の漢詩に「三更月下入無何」ともある。そんな無何静寂の瞬間を、バクっと馬に食われ現実に戻された刹那の心の乱れ、それを芭蕉は表わしたのではないだろうか。後には子規も芭蕉を再評価したとされている。そして決して負けない「悪句」を発表し、それは後に子規の代表作ともなった。


「柿くえば鐘が鳴るなるなり法隆寺」 正岡子規


この句も、ある種無我の境地を打ち破られた一瞬の心の乱れを、子規なりに表したものと筆者は推察する。芭蕉の有名な句に「古池や蛙飛び込む水の音」、「名月や池を巡りてよもすがら」とあるのも、同じような禅の境地ではないかと推測する。これらの句には、実は人の心理の刹那の推移を大胆に表し、禅語の「喝」に繋がっているのかもしれない。これらの句は、その込められただろう深い意味に反して、一般の人にも親しみやすいわりに、いろいろな意味にも読み取れる。筆者ら庶民にも、わからないなりに何か感動が伝わって来るところが素晴らしいのだろう。


榎本武揚と俳句

さて、俳句集の題辞の話に戻そう。他の俳句集について一例を示してみる。(8)の増田昌平の俳句集では、幕府の函館五稜郭の戦いで有名な「榎本武揚(えのもとたけあき)」がやはり「題辞」を寄せている。榎本は、勝海舟ほどの大物ではないが、幕府海軍副総裁であり、明治政府では、逓信・文部・外務・農商大臣を歴任して子爵となった人物だ。また、長崎海軍伝習所の二期生であり、一期上には勝海舟がおり寝食共にした仲でもあった。榎本は、題辞で編者を「俳友」と称している。榎本と編者は、おそらくは当時流行していた俳句(連歌)で語り合った仲と思われる。以下にその内容を引用する。


「榎本武明の題辞」(増田昌平の俳句集から引用。カッコ内は筆者がつけた。)

武蔵野の俳友老人(増田昌平のこと)はむかしより俳諧の交り厚く名を聞門とたたく者は誰彼のわいためなく長短の連句をつゝ(づ)りあひける其数百千もて算ふるに致れり斯交りかく人を■せしかゆゑ(え)に古稀のほ■言給りしもの裳■机上に山をなして翁か(が)喜ひ(び)の眉を開け■されは是を筥(はこ)の底に秘め置て紙魚の栖(すみか)となしてんには中々老の寝覚易からましと一冊子につゝ(づ)りて梓にのほ(ぼ)せ予にその名をかゝ(が)ふら■てよといふ。

※(国文学近代書誌資料館データベース)■の部分は筆文字の判読ができなかったか、あるいは虫食いと思われる。


幕府の軍制改革

渡辺の出身地は現在の福島県二本松市だったが、教導職が廃止された明治17年までには深川に来たことがわかっている。渡辺は教導職ではなく、俳句の宗匠として東京で一旗あげようと上京してきたことになる。実は三森の出身地もこの近くだ。しかし、三森が東京に出てきた経緯については、若干事情が違うようだ。


Wikipediaによれば、三森は、文政12年(1830年)福島県石川町(当時形見村)の農家に生まれ、安政2年(1856年)26歳のとき江戸に出奔(しゅっぽん)したとされている。これは本当だろうか。農民の出奔が原因で、地方では国力が低下し江戸では治安が悪化した。このため、幕府は引き締めに乗り出していた。


すでに文化2年(1805年)、勘定奉行配下に「関東取締出役」が設置され、農村では階層分けした「組合」組織を作らされた。農民が一人でも逃げ出すと仲間に責任が降りかかる仕組みだ。特に江戸市中へ集まる無宿人・浪人については、取締が厳しくなった。江戸町人の中に「町役人(ちょうやくにん)」が決められ、町中のよそ者を見つけては通報する仕組みが作られた。このため江戸では身なりや普段からの近所付き合いで通報されてしまい注意が必要だっとされる。近くに見かけない町人がいたり、どこの御家中の武士かもわからない身なりをしている場合、不審者としてすぐに通報された。(『江戸の歴史は大正時代に捻じ曲げられた』による)


※なお「町方役人」と「町役人」は違う。奉行所などの町方の役人は「町方(まちかた)役人」といわれ武士だったが、町人の管理を幕府に任された地元の実力者や大地主たちは「町役人(ちょうやくにん)」と呼ばれ、身分は町人(ちょうにん)だった。彼らが幕府から与えられた正式な名称は「町(まち)年寄」「町名主」「町代」などである。


実は別な事情も考えないといけない。三森が出奔したとされる2年前(1854年)には、黒船が来襲し「嘉永」から「安政」と改元されていた。すでに隣国の清がイギリスに敗退しており、安政の改革では「軍制改正掛」が置かれ、「講武場(後に講武所)」が設置されていた。ここでは西洋式(当時はオランダ式)の砲術や戦術学の研究が行われ、「奥詰」と呼ばれる将軍警護要員も整備。「徒組」「小十人組」に砲術習練所で西洋式砲術の訓練が行われたていた。安政5年(1858年)には深川越中島にフランス式調練の銃隊調練所が建設された。軍艦奉行、長崎海軍伝習所が設置され、開国が行われた安政7年(1860年)には咸臨丸がアメリカに派遣される、海軍も創設されている。


このような厳しい規制がされた時期に、松平氏の領地から、稼ぎ頭の農民だったはずの三森が、幕府が奥羽防御の要として重要し幕府の要職についた親藩に守らせた「白河の関」を突破し、藩外に出奔。しかも将軍家が攘夷を実現するために松平一族が軍事教練をしていた地、深川に来ている。三森が本当に単なる農民として出奔したとみてよいのか疑問だ。おそらくは、水戸学などを学び憂国の志士として攘夷を決行するために江戸に向かったのではないだろうか。


この時代、農民でもよほどの大庄屋でもない限り、字すらまともに読めないのが普通だ。しかし、『明治俳諧史話』によれば、三森は明治6年、三日間にもわたる教部省の国家試験を突破している。この試験は、神教の深い知識を問われ、面接試験もあって極めて難関とされる。その試験を突破したのは、三森を含めわずかに2名だけだった。三森は実は相当に卓越したインテリだったことになる。


『明治俳諧史話』から

教部省は教化の掛け聲(声)をかけたゞけで、浪花節語り及び講談師を思想善導員に任命するの意志がなかつた。然るに明治新政府は俳諧は風教的文藝である。世道人心を感化して行く偉大な力を持つ。俳諧に師たる者は須らく教導職として遇すべきだ。それには人格學識を考査した上で稱號を授與したほうがよいと云ふ政策から、喧傳的な掛け聲のみでなく俳人を實際教導職に補した事があつた。明治七年神道大教院でその考査が行はれたのである。課題として傳へられるのは三條の辨解(弁解)、十七兼題、十一問題で、三日間に涉つて口述及び筆記試驗を續行した結果、「三森幹雄」、「鈴木月彥」の兩人が合格した。俳諧年表に「幹雄」一人が補せられた如くあるが最初の合格者は「月彥」と二人で、稱號は推薦的に「爲山(関爲山)」、「春湖(橘田春湖)」の大家にも授與(授与)されたのであつた。月彥に師事した故「松本蔦齋」翁は語る。「いざ試驗と聞いて教養のない宗匠はみんな狼狽したさうです。さうでせうとも不合格になれば金看板の箔がへぎ落されて了(しま)ふのですからね。春湖や爲山は遊歷に名を藉りて地方へ行脚に出掛けたと云ひます。庵中に引込んで居留守を使つた宗匠もあつたさうですよ。月彥と幹雄とが登用されて、教導職試驗係をも命じられたのですが、これまでの顏に免じてそれは勘辨してもらへまいかといふので、表向は試驗をした事として爲山や春湖も教導職になつた譯でした」と。さうした裏面の事情は必らずあつたに違ひない。公開的の席上では、月彥、幹雄の次にその座を指定されて爲山、春湖の大家も不承〲ながら逆はなかつたのは、此教導職の一件があつたからであると聞く。

※『教林盟社起源録』によれば「関為山」、「橘田春湖」のほかに「鳥越等栽」の3名が明治6年5月3日に教導職なり、さらに5月20日には、「鈴木西美」、「原岱蜘」、「赤垣桑五」など10名ほどが教導職に「推薦」された。翌明治7年以降は俳諧師にも「教導職試験」が解放され、初めて三森らが試験を突破したとしており、この説明とも合致している。


これらのことからも、三森を単なる農民と考えるのは、相当に難しいと筆者は推測する。江戸はまだしも三森の地元の白河の関を始めとして途中のいくつかの関所を突破して逃散が可能だったほど、江戸幕府が混乱していたと考えるとすれば、早計ではないかと思われる。Wikipediaの記述の「安政2年ごろ」の出奔した農民という根拠は不明だが、安政2年は「安政の大地震」のころであり、その混乱に乗じてということが根拠かもしれない。


三森も武士だった可能性

文久2年(1862年)4月29日、幕府の船だった千歳丸が中国上海(しゃんはい)を視察している。経済活動の調査が名目だったが、本来の目的は違っただろう。その年から「文久の改革」といわれる軍政改革が始まった。この年、江戸幕府に「陸軍」が創設され、西丸下、大手町、三番町、小川町に屯所が設けられ、今度はフランスの協力を得て八個大隊6400名の西洋式軍隊を養成を開始した。幕末には1万人程度まで増えたようだ。また海軍も創設しており、このとき勝海舟も抜擢されている。一連の幕府の改革は「文久の改革」と呼ばれる。一橋慶喜が将軍後見職に、会津藩主松平容保が京都守護に付いたのもこの時だ。それまでの老中協議制から脱却し、専門的に迅速な判断を下し実行することができる組織改革もこのとき行われた。


しかし、泰平の世が続いた幕臣は俄かに本物の軍人にはなれなかった。陸軍の兵士は人数はすぐには集められず、松平氏を始めとする幕府に協力的な各藩が地元の知行地から見込みのある若者を一斉に集めたとされる。当初は半数の3800人を集めるのが精いっぱいで、その構成は地方の農民出身が多く質も悪かったとされる。しかし目的は兵士としての招集であるので、自国の生産能力を落としてまで集め、かつ軍人として使える人間に鍛え上げる必要がある以上、気概のある郷士が相当数選ばれたはずだ。実際に集目られた兵士たちは帯刀を許され、優秀であった場合は新たに幕臣にもなったものもいる。このようにすれば、正当に福島の地から東京に来ることができる。その教練の地のひとつは深川だった。これに三森らが含まれていた可能性もあるのではないだろうか。


この幕府陸軍も2度の長州征伐で実戦を経験し、さらに幕末で各地で起きた天狗党の乱などの反乱軍を制圧し、戊辰戦争でも活躍することになる。幕末ごろにはそうとうに洗練された一万人近い兵隊に組織されていたともれる。海軍に関しては、幕府を敵に回せる勢力は日本国内には全くなかった。もう少し早く幕府陸軍・海軍が創設されいたら、幕府側が強い統率力を発揮していたら、戊辰戦争もどうなっていたか分からない。幕府の陸軍・海軍が作り上げた仕組みや拠点は、その後の大日本帝国陸軍・海軍の母体として、そのまま引き継がれたのは事実である。


福島の地は豊臣秀吉の奥州仕置きと、江戸初期の配置換えで多くの武士が主君を失い、兵農分で離取り残された半農の郷士が多い。三森がその郷士であって、祖国防衛のために駆り出されたと考えることもできる。兵農分離は当然ながら田舎まで浸透しているわけではない。松尾芭蕉を始めとして、地方に残った郷士が苗字帯刀しながらも農業に勤しんでた例は無数に残っている。三森もこのような郷士だった可能性がある。


なお、三森は「水守」が変化し「三森(みつもり)」になったとされ、「三森(みもり)」と発音した可能性が指摘されている。江戸初期の寛永のころ、磐城平藩には「三森治右衛門光豊」の記録が残る。彼は藩命を受けて灌漑を引いた記録があり、その地には現在「水守神社」(福島県いわき市平山崎)が残る。その後内藤氏は、元文一揆(別稿で記述)で処罰され転封されており、この際に三森一族が主家を失って退いた可能性があり、もしかしたらその末裔かもしれない。三森の出身地の近くには、現在も三森峠(さんもりとうげ)があり、そこを超える峠道は江戸時代までは、現在の須賀川・郡山・会津から新潟までを結ぶ交通の要衝であった。現在は、少し離れた場所を、福島県道6号が通り三森トンネルが開通したことで、旧道となり通行禁止になっている。

※「水」を祀神としている、見渡(三渡)神社との関係も興味深い。また神渡(みわたり)という例にあるように、「神」は「み」とも読まれた。「神守(みもり)」や「神杜(みもり)」だった可能性も否定できまい。。


三森が教導職についた、明治6年は、明治政府の「秩禄処分(ちつりょくしょぶん)の法」が発布され、士族への俸禄廃止が決定した年でもあった。もし三森が郷士であったなら、この年に「教導職」となれれば、引き続き明治政府から収入を得ることができたことになる。当時の知識人であり、人望もあったと思われる武士たちの中には、この教導職を得ることで、当面の生活費を得たものも多かったはずだ。三森は明治18年に「神道芭蕉協会」を設立し、芭蕉神社を建てて、明倫社を発展させ本格神教をめざすことになるが、本稿では省く。


俳句が独立した文学的価値を生み出すのは、正岡子規以降だが、江戸期の流れを汲む明治俳諧では、俳句だけでなく、連歌も多く、全国から集まった武士たちの交流にも使われていた。俳句で有名な芭蕉も、実は宗祇からの流れを汲み連歌を好んだと伝わっている。旅の途中などは連歌の相手がいない。奥の細道では当然発句だけが増えることになる。一説にあるように、芭蕉が仮の姿なら、俳句の宗匠壁谷兆佐も似た事情があったかもしれない。


幕府隠密(おんみつ)説

芭蕉が「奥の細道」に旅立った元禄2年(1689年)のころは、まだまた江戸時代も平和ボケしておらず、関所を超えて自由に旅をすることはそう簡単ではなかった。しかし芭蕉は江戸と伊賀との間を年に何度も往復している。このことは芭蕉が容易に関所を超えることができる事情があったことを意味するだろう。一日の歩行距離の長さを芭蕉忍者説の根拠とする解説も見かけたことがある。しかしこれは根拠にならない。


交通手段の限られた江戸時代は、電車や車、バスで移動する今の人間と同じ基準で考えることはできない。当時の旅人は、一日数十キロ歩くのは普通のことだった。『東海道中膝栗毛』で「肥えた、ただのおやじ(筆者による現代語訳)」と書かれた弥次郎兵衛(やじさん)でさえ、日本橋を出た初日だけでも一日なんと40Kほど歩いている。


しかし奥の細道では、単純に移動距離で論することはできない芭蕉は険しい山道が続き、山賊がでることで有名な山刀伐峠(なたぎりとうげ)を始めとして、危険な峠道も平気で何度も越えている。このような行程を平気で選び、抜けていっていることにこそ注目すべきだ。


さらにどこに宿泊したかも検証すると、興味深い点が見えてくる。「奥の細道」の記録によれば、芭蕉は、深川から日光へ下り、黒羽で13泊、須賀川7泊、仙台4泊した。平泉で折り返すと、奥羽山脈を越えて日本海側に渡り、山形の尾花沢で10泊、鶴岡3泊、酒田7泊し、最後に石川の金沢で9泊している。記録に残されるこの7か所の宿泊地は、俳句の宗匠と連歌を交わしたりしてゆったりと時間を過ごしている。しかし、すでに俳句集の出身地を分析し、どの藩の支配だったかを見たとの同じように、宿泊地がどの藩に属していたか調べると面白いことに気が付くだろう。


まず「黒羽宿(栃木県大田原市)」は、外様の小藩である。しかし関ヶ原で徳川の勝利に多いに貢献し家康に高く評価された。それ以来黒羽藩は幕府に忠実とされ、外様にも拘わらず若年寄や海軍奉行を務めており、戊辰戦争でも最後まで幕府側として戦った。幕府側の人間にとっては、最も信頼できる宿泊地のひとつだったことが推測できる。


その次に泊まった「須賀川宿」は水戸藩御連枝(ごれんし)の長沼藩松平氏、そし松平定信が藩主だった白河藩が治めた地だ。そして外様にも拘わらず江戸城「帝艦の間」に詰めた三春藩が江戸に向かう際に最初に通ったのも、この須賀川宿だった。現在の須賀川市にあった長沼陣屋の前には旧二階堂藩士たちが作った町がひろがっており、町人町ではあるが事実上は水戸藩・幕府の保護監視下で宿場町として、そして東北の入り口として、大いに栄えていた。

※三春藩が詰めた江戸城「帝艦の間」は一般に将軍家に近い親藩などが詰めるとされていた。この三春藩の家臣には複数の壁谷家があったことが、後の士族名簿に記録されている。また須賀川の大寺院、長禄寺は当時白川藩松平家の支配下にあり、現在も旧家四家の壁谷家の墓が並ぶ。


そして次の「尾花沢宿」も幕府の直轄領(天領)だった。さらに「鶴岡宿」「酒田宿」はともに徳川幕府の米どころ「庄内藩」の拠点だった。しかもこの地は代々の藩主が、幕府の大老・老中を務めた徳川家の譜代筆頭、大老四家のひとつである「酒井家」のお膝元であった。江戸に向かう廻船経路「西廻り航路」「東廻り航路」の両方の起点でもある、地方にあって幕府にとって最も重要な拠点のひとつだった。


芭蕉が宿泊した記録が残る7か所のうち、ここまで5か所が幕府の影響力が大変強いところばかりだった。この傾向は、先に示した「俳句集」と大変よく似ている。残りは2か所しかない。しかしそれは江戸幕府の二大外様大名のおひざ元だ。ひとつは120万石とされる加賀前田藩、そして実質100万石ともいわれた仙台仙台伊達藩、つまり江戸幕府が最も警戒していた二つの大藩のお膝元だった。

※伊達藩62万石とされたが、支藩とされる一関藩などを含める実質100万石を超えるともされた。


しかもその二藩では、芭蕉が「奥の細道」に旅立ったころ、まさに取り潰しの危機を抱えていた時期だ。加賀前田藩の藩主は名君として名高い前田利常だった。正室は2代将軍秀忠の娘、珠姫(たまひめ)であり、源氏の姓と松平の名字を与えられ「松平加賀」といわれた。戦乱を生きた豪傑だった利常は1631年に謀反の嫌疑をかけられた「寛永の危機」で蟄居となっている。その後の藩主前田綱紀の正妻は将軍家光の実弟とされる保科正之(のちの「松平会津」)の娘だった。こうして加賀前田藩はお取り潰しの危機を逃れたが、幕府はまだまだ警戒を緩めていなかった。


仙台藩も2代藩主が秀忠の養女だった振姫(ふりひめ:家康の孫)を正妻にして、以後は「松平陸奥」と呼ばれた。しかし、その後ゴタゴタガ続き、万治3 (1660) 年には当時の藩主が蟄居を命じられた「伊達騒動」があった。芭蕉が「奥の細道」に旅たった元禄2年(1689年)は、ちょうど日光東照宮の大修復普請を請け負わさ、伊達藩には経済的な危機となり、藩内の反発も招いていた。そして混乱した藩を率いていたのはわずか10歳の藩主伊達吉村(よしむら)だった。

※こののち伊達藩は見事に立ち直る。幼主伊達吉村は成人するとその治世は40年に渡り、「仙台藩の中興の祖」といわれた。


そんななか、芭蕉は、旅に出る前に複数の知人に手紙で、「松島の月」を見るのが目的で「奥の細道」に旅立つとしている。しかし、目的だったはずの松島には僅か一泊しかしていない。「奥の細道」の本文では松島の景色を称えてはいるが、月を見たとする記述はなく、芭蕉が松島に触れた句も一句もない。松島に関しては、同行した曽良(そら)の句が残っているだけだ。この話はとても有名で、後世にいろいろな解釈で説明が試みられ、芭蕉ほどの人物にして、あまりの感動に一句も読めなかったとするものまであるが、それは説得力に欠けるだろう。


芭蕉が宿泊地で俳句を交わした当地の宗匠たちも、現地で諜報活動を兼ねていて情報交換をしていたと考えるのが正しいのかもしれない。松島の月は単なる口実に過ぎなかったはずだ。当時俳句(連歌)を嗜んだのは教養人であり、多くの情報を持っていたはずだ。私見なのだが、たとえば2大外様大名(仙台伊達藩、加賀前田藩)の全面的協力を得て、幕府に逆らうと取り潰されると天下に示す画策に携わったのかもしれない。出版された「奥の細道」が好評を博して全国に幅広く流通したのも、ある種狙い通りだったもしれない。お取り潰しを逃れた2つの大藩は、その後江戸幕府に忠実となっており、幕末まで地方の各藩が幕府に逆らうこともなくなっている。


芭蕉と幕府との関わり

芭蕉は寛永21年(1644年)伊賀上野に生まれた。先祖は平氏の末裔とされ織田信長に仕えた武士だったが、兵農分離で帰農していたとされる。一説では名字帯刀が認められた郷士であり、実母は伝説の忍者「百地三太夫(ももちさんだゆう)」の子孫との言い伝えが残る。(服部家、百地家、藤林家が上忍三家と呼ばれる伊賀忍者の名門である。上忍とは地位の高い忍者を指す。(百地丹波は天正伊賀の乱で織田信長と戦い敗れている。)その後芭蕉は三代目「服部半蔵」の従弟(いとこ)の息子に仕官して再び武士となると、そこで俳句(おそらく連歌)を学んでいる。当時の武士の教養として、俳句は必須でもあったようだ。芭蕉はなぜかその後武士を捨て、職業俳諧師、いわゆる俳句の「宗匠」となったとされている。延宝8年(1680年)37歳のころ江戸深川の地に「芭蕉庵」を結んだときには、すでに多数の門下生を有していた。


深川の「芭蕉庵」は、幕府の御用商人であった豪商杉山杉風(屋号は「鯉屋」といった)がもつ敷地内にあった。そこには多数の生け簀(いけす)があって、有名な「古池や、」の俳句を詠んだ場所ともされる。しかし芭蕉の死後まもなく摂津尼崎藩、松平遠江守の下屋敷となっていた。このことも芭蕉が幕府と関りが無かったと見るのは確かに難しいだろう。

※摂津尼崎藩松平家は安政のころの攘夷派として名を残したが、戊辰戦争では新政府に恭順している。


また京都市左京区一乗寺にも、松尾芭蕉が庵を営んだとされる金福寺(こんぷくじ)がある。江戸中期に芭蕉と親交の深かった臨済宗の僧「鉄舟」が再興し、現在は臨済宗南禅寺派になっている。芭蕉庵は荒廃したが、芭蕉に心酔していた小林一茶が後に再興している。


実はそのすぐそばに、京都市街を一望できるという詩仙堂「嘯月楼(しょうげつろう)」がある。(現在は曹洞宗丈山寺に属する。)「嘯月楼」は。京都の東北に位置する小高い山のふもとにあり、京都一帯が一望できる。石川丈山は徳川家康の側近として文武に秀でていたことが高く評価されていたが、芭蕉同様になぜか武士を棄てると、この地で隠遁し儒学・書道・茶道を極めようとしていた。同時に近隣の庭園の設計も行っていたが、庭園と称して見通しの良い場所に「監視拠点」を建築したともされ、江戸幕府の命をうけて京都市中を監視していた「隠密」という説もある。


同時期の同じ文人の立場として、芭蕉もこの「嘯月楼」に入った可能性は高いだろう。芭蕉の死後、京都の松尾芭蕉の門人たちは、俳句の宗匠として京都に「松月庵」を設け芭蕉派の大きな一流ともなって明治の時代まで弟子に引き継いた。ここにも「松月」「嘯月」と書き禅(儒学、朱子学)そして、武士、隠密といったキーワードが登場してくる。「嘯月(しょうげつ)」も、「松月」とならび、『嘉泰普燈錄』に禅語として登場する。


『嘉泰普燈錄』から引用

狐峰頂上に有る時、月に嘯(うそぶ)き雲に眠る。大洋海中に有る時、波を翻し浪に走る。

禅語のためその意味は難解である。「(修行している)山頂では月に吠え雲の中に眠り、(俗世間の)大海原では波乱を乗り越え走り抜ける。」原文は「狐峰頂上嘯月眠雲 有時大洋海中翻波走浪」。「嘯月(しょうげつ)」の「嘯(うそぶく)」は大言をはく、虎などの猛獣が吠えるなどの意味があり「うそぶく」とも読まれる。聖人がその能力を隠して俗世間から離れて潜み、俗世間に現れると大活躍することを意味しているのかもしれない。

※「嘯」と「瀟」は似て異なる文字だ。おなじく「しょう」と読み「瀟月」とすれば、「清い月」となる


忍者には知恵が大切だった。忍術をつたえた『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』によれば、忍者は「人の知る事なくして、巧者なる」こととあり、「陽忍(ようにん)」と「陰忍(おんにん)」と二面性を使い分けるべきとされる。前者の「陽忍」は「謀計の知恵と思慮をもってその姿をあらわしながら敵中に入り込む。」とする。一方の「陰忍」では、怪しまれないいわゆる隠密の行動をする。その時の姿は、いわゆる虚無僧(こむそう)、修行僧、山伏、商人、俳諧師、旅芸人などを装う、いわゆる変装も忍術のひとつである。


『萬川集海』巻5には、忍びに必要な要素が十条記されている。そこでは「その三」では智謀に富み弁舌に優れること、「その八」で諸国をめぐること、「その九」で軍利・兵学を学び、書に通じて文才があること、「その十」が諸芸、詩文、踊、舞などに秀でて時を稼げることされている。忍術伊賀忍者が、忍術を使う際に、おまじないのように使う最後の印(両手を組む)、「隠形印(おんぎょうのいん)」は密教の「文殊菩薩(摩利支天)」の印である。このことは戦国武士の心得とされる『軍法侍用集』にも記載がある。(壁谷兆左がいたいたのも文珠村だった)

しのびに遣はすべき人をば、よくよく吟味あるべし。第一、智のある人。第二、覚えの良き人。第三、口の良き人なり。才覚なくてはしのび(忍)はなりがたかるべし。


『奥の細道』で芭蕉に同行した俳人曽良(河合曽良:かわいそら)は、芭蕉十哲のひとりだが、もともとは伊勢松平家の家臣だった。自ら退いて芭蕉に同行したとされている。しかしその後の記録には、幕府の「諸国巡見使」の随員に正式に任命されて九州諸国を監察して廻っていることが確認できる。藩を捨てて俳人となったととされる曽良も、実は幕臣として活躍していたことがわかる。


『奥の細道』の自筆草稿本が1996年に再発見された。その題名はよく言われていた「奥の細道」ではなく『おくのほそ道』たっだことがわかった。文人は比較的漢字を使うことが多く、わざわざ漢字を避けたのは、どんな意図があったのだろう。当時は文字に濁点を振らないことがあった。芭蕉の意を汲んで若干の深読みを試みれば「奥裏(おく)の臍道(ほぞみち)」はどうだろうか。当時は濁点をふらないことも多かったからだ。


「奥裏(おく)」は大名家の事情などを意味する。とくに江戸時代前期は戦国時代の影響か残り、「奥」といわれる正室の家系が及ぼす影響力は藩政を左右しており、なかなか表にでないこともあったからだ。一方で「臍(ぼぞ)」はそのものずばり「へそ」の意味だが、潜伏する忍者が使う呼吸法の名称でもある。臍(へそ)で息をして気配を消すことができるとされる術だ。つまり「おくのほそ道」は、「大名家の裏事情を忍者が探る旅」と深読みすることもできそうだ。


さらに邪推してみよう。「芭蕉」の名は、常緑の高木で庭園にもよく見かける。しかしその美しい姿は、実は本当の姿ではない。地上に見える姿は「偽茎(ぎけい)」と呼ばれ、実際の「茎」は、地下で縦横無尽に広がり、見えないところで無数に繋がっている植物だ。その姿からは、地下の本当の姿(実態)を到底想像できない。芭蕉がこのことを知って、自ら名乗ったと考えるのも面白いと筆者は思う。

※「偽茎」は「偽計」と書けば、人を欺くことを意味する。なお尾瀬に自生する水芭蕉は、芭蕉とは別種の植物で無関係だ。


今後整理すべき課題

1)壁谷兆左は三春で俳句の宗匠として余生を暮らしたが、その前半生は分からない。勝との何らかの交流もあることから、三春藩士もしくは幕臣で、幕末には江戸周辺にいた可能性が高いと推測できる。明治当初の記録とされる『三春藩士人名辞典』には、複数の壁谷の名が確認できる一方で、兆左の名は確認できない。


「兆左」は俳号か、もしくは本来の通称名が「兆左衛門」だったのかもしれない。もし同心やそれ以下の郷士など、下級の武士であった場合は、士族の名簿には含まれていなので、資料で確認は難しい。しかし、そのような人物であったなら、これだけの教養をもって、遠く離れて隠居してもなお勝海舟と交流があったするのは難しそうだ。幕臣であったなら、三春藩の名簿にのらないもは当然といえよう。

※筆者の四代前の祖先の名は「壁谷長左衛門」(-明治22年)で福島県出身である。「衛門」は官名とされ明治3年「国名・旧官名使用禁止令」(太政官布告845)で人名として使うことが禁じられた。これは徹底されなかったが、当時の通称として「壁谷長左」と名乗っていた可能性がある。


国会図書館にある資料では、元幕臣で江戸末期から明治にかけての著名な漢詩人「大沼枕山(おおぬまちんざん)」(文化15年ー明治24年)の交換書簡に、「壁谷貞」が登場している。壁谷貞なる文人は、誰なのか特定できていないが、江戸にいたことろの兆左である可能性もあるかもしれないい。大沼枕山については、後に永井荷風が『下谷叢話』『江戸名勝詩』など多くの書物で触れており、その漢詩の評価は高い。


※上級の武士を守るため馬上が許された武士は「寄騎(よりき、:与力)」といい、その「寄騎(与力)」に従う下級武士らは「同心」と呼ばれた。その下には「中間(ちゅうげん)」とよばれる奉公人がいて武士に含める場合もあった。さらに下には帯刀しない「茶坊主」という少年の奉公人や、「郷士(ごうし)」、「徒士(かち)」など、いろいな名でよばれる下級の武士がいて、地方によって呼び名も異なった。明治の元勲である「西郷隆盛」「大久保利通」「山縣有朋」「伊藤博文」などはこの「中間」(「小者」「足軽」)とされる下級武士だったとされる。


幕臣との関係が深い例は他の壁谷にもあり、水戸藩との関係の深さや、一ツ橋家にいた壁谷、あるいは尾張藩主の徳川慶勝、会津藩主の松平容保ら高須四兄弟の関係も見える。伊達藩、一関藩にも壁谷がいた形跡があり、兆左がどのように幕府側と関りをもっていたのか、今後の考察課題としたい。


2)「石森の」と冠される兆左だが、その石森の地は、実は三春の中にあった旗本領(幕府領)だった。兆左が旗本秋田氏の家臣だった可能性は高いと推測できる。旗本秋田氏は三春藩主の弟が幕臣となって継ぎ五千石を領した大身旗本である。旗本とは曝く直臣を意味する。旗本秋田氏は将軍の身近に使える役をこなしており、幕末には寄合銃隊頭、寄合肝煎だったとされる(三春昭進堂のHPによる)寄合とは三千石以上かあるいは幕府の重職にあった旗本が引退し無役になった、いわゆる「ご隠居様」の集団をさしている。寄合銃隊頭、寄合肝煎はそのまとめ役を意味しており、幕府内での地位はそれなりに高かったようだ。


これに対し勝海舟は軍艦奉行を命じられたとき千俵だった。石高に換算すれば約330石ほどである。これは勝家にとっても大出世だった。その後1864年に2000石となり、勝安房守と称することとなった。そのころ旗本秋田氏と勝安房になんらかの交流があり、壁谷兆左もかかわった可能性はあろうか。なお別稿では明治時代の福島県士族 壁谷可六について詳しく触れている。可六は三春藩士の名簿に名が乗り福島県の官吏として働いていたが、明治政府の要請を受け東京で元老院の書記官となった。その元老院で議官だったのが勝海舟だった。ここでも勝海舟との接点が見える。可六は憲法発布とほぼ同時に、日本初の憲法解説書『帝国憲法義解』を書いている。(その後、伊藤博文も同名の書をだしているため、混同されているようだ。)


3)弄月園風、真風舎桑月の2人の名に「月」がつくことも少しだけ気にかかる。月は武士、そして松尾芭蕉に関わるキーワードのひとつでもある。芭蕉が「奥の細道」の旅に出かけた理由は、「松島の月」とする文書を複数残しており、「松月庵」は芭蕉派(伊勢派)が代々継いだ最も地位の高い芭蕉風の宗匠名のひとつだ。東京この深川にも伊勢蕉風の「松月庵」という宗匠が存在している。東京深川は壁谷が多く住む場所で、東京に多い蕎麦屋「松月庵」も壁谷が経営している店が多い。これらの点は、別稿で触れたい。


4)昭和57年に刊行された福島県田村郡の「船引(ふねひき)町史」(現在の福島県田村市船引町)によれば、この地に複数の壁谷に壁谷が神官、巫女の役割を担っていた記録が確認できる。このうちの一人は「鹿島神社」の神官と記される。明治時代はぼぼ間違いなく教導職だったろうことから、兆左との関係が興味深い。


『常陸国風土記』によれば。鹿島神は第十代崇神天のとき大刀,鉾,鉄弓,鞍などの武具が奉られたと記され、当時から武神として崇められていた。田村麻呂の東征後の866年(貞観8年(866年)には、陸陸奥国内に38社もの苗裔(びようえい)と呼ばれる支社が存在している。その社殿が北面しているという特異な形状を持っていることから、蝦夷平定で武神として鹿島神が関与していたと推定されている。田村にあった鹿島神もその一つであろう。

※一般に神社等では社殿は南側を向き、これを南面という。これは風水の強い影響をうけたものだ。鹿島神が北面するのは、おそらく北側を見張るといういとであろう。三春の地名も「見張る」が由来ともされる。


また『船引町史』では壁谷家の二家の妻が「オシンメイサマ(お神明様か)」と呼ばれる神を守る「シンメイ巫女」とされて紹介されている。シンメイ巫女もこの地域で代々受け継がれてきたようだ。さらにもう一家、別の壁谷家の妻が、シンメイ巫女として記録されているが、そちらは本書が作成された昭和57年時点の50年前(つまり昭和7年)に田村から転出してしまっているとされ、名前は記録されているが詳細は不明だ。民間信仰による巫女は江戸時代にっ全国に数多くいたが明治6年の「巫女禁断令」によって禁止されており、彼女らは正式に神社に所属した巫女だったと推測できる。


なお「シンメイ」を「神明」と書く時に「明」の字は「目」に「月」と書くというのが正しいとう情報があるが、情報源を確認できていない。特異な地方信仰の可能性もあるが、もしこれが正しければ、「月」には神の目があるとも読み取れ、妙見信仰や禅との関係、さらには芭蕉の「月」とも繋がることがあるかもしれない。


神明(しんめい)神社は、全国各地にあり、その祭神は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が多く、皇祖神に関わることが多い。多くの場合は磐座(いわくら)や石神(いしがみ)とった巨石、奇石群を神と仰ぐ古代神教の面影を残す。

※神明と天照大神(あまてらすおおみかみ)または豊受大神の別称でもある。豊受大神が加わっているのは、伊勢神宮の影響だろう。郷土史研究家でもあった筆者の祖父の調査から、壁谷と伊勢神宮の関係が深いことはわかっている。


同じ旧三春藩内には、「鹿島大神宮(福島県郡山市西田)」があり、前記の船引にある鹿島神社の親社と推測される。天応元年(781年)に、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)より勧請を起源とし、やはりご神体は磐座(いわくら)であり神代の伝統を守る。民俗芸能として神楽がのこされている点も興味深い。

※この磐座は国の天然記念物になっている。「ペグマタイト岩脈」であったが、ご神体であったことが幸いして採掘を逃れ現在も残っている。


5)『南船北馬集』によれば、文珠村の隣村である七郷村の村長に「壁谷亀八」がいた。(七郷村は現在の福島県田村市船引町。明治22年に7つの村が合併して誕生し、昭和30年に文珠村と共に田村郡船引町に吸収されている。)この地付近に壁谷は現在も多数存在するが、一定のレベルで地元の有力者であったものがいたようだ。


『南船北馬集』第五編 明治43年10月24日の記事(国会図書館 から引用)

二十四日 晴れ。腕車徐行して七郷村竜泉寺に至り開会す。住職永井快胤氏は哲学館(後の東洋大学)出身にして、かつ今回の随行員なり。主催は青年会にして、発起は村長「壁谷亀八」氏等とす。この辺り一帯、タバコと馬牛とを産出す。
 雨余農事急、烟草晒晴風、紅緑山如染、賞秋入梵宮
これより里許にして鬼穴ありというも、時間の余裕なきをもって見ることを得ず。

※漢詩は「雨の後は農事に急がしくタバコの葉を晴風にさらす。紅緑の山は染めた如く、秋を賞でながら寺に入る。」と読む。カッコ内および、漢詩の訳は筆者による。『南船北馬集』は東洋大学の創立者「井上円了」の書。


ここで登場する「鬼穴」とは、滝根山を本拠としていた「鬼」の首領である「大多鬼丸」が隠れ家としてい洞窟を指すと思われれる。位置的には「あぶくま洞」と推測される。伝説では「多鬼丸」は鬼穴を根城として戦い、「坂上田村麻呂」に討たれたことになっている。


5)明治2年、元将軍徳川慶喜に直接ねぎらわれた「勝海舟」は、自らの出身を伊賀忍者の家系である男谷氏の出身で祖先は箪笥方(たんすがた:武器弾薬管理をする)同心だったと言葉を返している。明治時代の慶喜と勝の交流は深く、勝海舟の継養子には、徳川慶喜の十一男「精(くわし)」が入っている。


しかし実は「男谷家」は伊賀者ではない。箪笥方同心だったのは養子入りした「勝家」の祖先であり確かに伊賀者だった服部半蔵の支配になったことがある。また勝の養祖父である「勝市郎右衛門命雅(のぶまさ)」は「御広敷番」という江戸城中見回り(主に伊賀者)を管理する役についていたこともある。おそらく当時の勝は勘違いしていたのではないだろう。


勝は将軍家は伊賀者が守るという考えが江戸時代はあったことを、意識したのかもしれない。勝自身が免許皆伝の腕前であり、義従弟の男谷信友は「天保の三剣豪」「幕末の剣聖」と呼ばれ、道場での剣術を木刀から竹刀に変えて鍛錬し、現在の剣道の元を作ったともされる。


6)福島県田村市船引の「船引」の名は、坂上田村麻呂が大滝丸(大多鬼丸)との戦いで苦戦し傷を負った家臣を船に乗せて引いたという故事に基づくとさる。当地の首領だった大多鬼丸は、朝廷からの要求を拒否し、それに対した坂上田村麻呂が派遣された。兵力で勝る田村麻呂に次第に追い詰められると、大滝丸は達谷窟で自決して果て「鬼」として後世に名を残すことになった。堂山王子神社(田村市船引町門沢)、大鏑矢神社(田村市船引町東部台)、明石神社(田村市船引町堀越)などは坂上田村麻呂が戦勝祈願したという由来をもち国指定重要文化財にも指定されている。


本稿で登場する文珠地域も、近くには安倍貞任(あべのさだとう)を祀る安倍文殊堂があることの関りが窺われる。(江戸時代の三春藩主秋田氏の祖が安倍貞任ともされる。)、田村市北部を通る旧磐城街道には「お人形様」といが民俗学上特異な風習があったようで、明治時代に一時中断したが現在は再現されている。


この船引町の文殊村に隣接する地域に「石森屋戸」、「石森屋敷」という地名の地域には、集中的に壁谷が居住しておりその数は数百名にも上るかもしれない。この「屋戸」は現在の一時的な「宿」とは違う意味をもち、居住する建物とその庭(敷地)を指す。隣接地名の石森屋敷と同意もしくはその敷地をさすと思われる。この地域の田村麻呂伝説、そしてそれを継いだ田村庄司氏、秋田氏の流れは、壁谷と田村麻呂の関係を絞っていくキーとなるテーマであることは明らかであり、今後本格的に調査に取り組んでいきたい。また、壁谷の祖先と関りがあるとも思われる平安時代末期の岩城氏(白土氏)が現在の福島県いわき市の「石森山」を本拠地にしており、ここにも石森がでてくる、あわせて考えていきたい。


なお、同じ田村市では常葉町(ときわまち)常葉に壁谷田の地名がある。常葉町は(2015年に船引町などと合併して田村市となっている。この地についても今後調べてみたい。


7)台湾は、日清戦争後の下関条約により、清朝(当時の中国)から日本に割譲されていたのは1895年(明治28年)だった。ポツダム宣言で中華民国に返還される昭和20年(1945年)まで、約50年に渡って台湾は日本の統治化下にあった。この時期に出版された『南國之人士』が台湾の「國家圖書館」に現存しており、当時の台湾で活躍した日本人が多数掲載されている。そのなかに文珠村出身の「壁谷悟郎(かべやごろう)」が写真入りで掲載されている。


『南國之人士』37ぺージから引用

壁谷悟郎君
共同工業株式會社常務取締役、
合資會社山本商店無限責任社員

君は少壮實業家にして和魂商才を當面に發揮して毫も遺憾なき快男児なり、明治二十七年十月二十五日を以て福島県田村郡文珠村に生る。幼きにより聦敏にして忍耐力強く、其志する所遂げざれば止まざるの氣力あり、學を工手學校に修め卒業するや、島田極東護謨(ゴム)合資會社営業部長となり、大正五年英人経営のエムケー商會の聘に應じ、その護謨部主任となり、大正七年東京市神田區にて、合資會社山本商店を創立して業務執行役員となり●で共同工業株式會社の創立さるゝや其常務取締役に擧げられ名聲頓に振ふに至る、後本島に●足を伸張せんと劃策し、大正拾年五月現所に出張所を設け自ら頸営の任に當り、夙夜業務發展に腐心し幾許もなく販路擴大し來り、將來益々好望の運命を導かんとするもの、實に君の地価や興つて大ならずんばあらず、「山本商店は自轉車及附属品一切の卸商也」△現住所臺北洲臺北市眞起町 電話二、二四六番


※誤読を避けるためできるだけ引用分そのまま旧字体を使ったが、旧字体表記が難しいため「遂」「益」などは新字体を使った。なおカッコ内は筆者の注記。●の部分は筆者が判読できなかった部分である。


同様の情報は、日本でも昭和7年(1932年)に刊行された『台湾輪業大観』において、確認することができた。それによれば、福島県出身の「壁谷梧朗」が台湾に渡り、当時の大ヒット自転車「ノーリツ號」を販売する東京の山本商店の台湾総支店を引き受け、大成功したとされる。関東大震災で山本商店の本社の被害が甚大となると、壁谷梧朗は後を引き継いで岡本製作所の台湾販売総代理店となりノーリツ號の販売を続けて台湾輪業界を盛り上げた。彼の恩恵をうけて開店した業者も少なくないと伝えられている。当時は日米商店がアメリカ製自転車「富士」号を販売しており「ノーリツ號」は純日本産の自転車として並び賞された。ノーリツ号の名は、比較的年配の方ならその名前に聞き覚えがあるだろう、それほど有名な自転車だった。


岡本自転車は、明治36年に日本で国産初の自転車を開発し、愛知を拠点にして航空機などの軍需産業にも手を出していたが、戦後地元のトヨタに吸収されたようだ。筆者の子供の頃の記憶では「ノーリツ号」という自転車があったが、どうやらトヨタ自転車がを販売していたようである。


「壁谷梧朗」は多方面で活躍したようで昭和11年(1936年)の臺北馬事協會(競馬)の会員名簿28人のなかに載っている。会員のうち21人が日本人、台湾人が7人で、多くが事業をいとなむ台湾の有力者だったと思われる。馬事協會は日本統治下の台湾で競馬事業を営んだようだ。彼が協会の会員となった事情やその意味など詳しいことはわからない。現在の日本の馬事協会にも数十名の会員が登録されているようだが、これと似た立場だったのだろうか。


臺北馬事協會會員名簿(1936年4月)から抜粋

壁谷梧朗 会社員 臺北市京町二ノ一一


8)昭和30年ごろ『福島懸俳人事典』が出版されている。(福島県俳人事典刊行会)近世の福島県出身の俳人が5800人掲載されているということなので、兆左がのっている可能性は大変高い。近い機会にこれを確認できる機会に巡り合えることを願いたい。


9)『広辞苑』第二版によれば、文珠菩薩は「釈迦の左に侍して、智慧(知恵)を司る菩薩。獅子に乗るを常とし、中国の五台山がその浄土として尊信され、日本では民間に子供に智慧を与えると信じられる。」とある。


その中国五台山にあった、壁谷玄忠寺の曇鸞(どんらん:476 - 542)は、浄土教の祖とされており、後に日本からも円仁、法然など多くの高僧が壁谷玄忠寺で修行して日本に戻っている。また古代中国の風水においても「壁宿(なまめ-ぼし)」が存在し、皇子を護り教育を司るとされる。これらの関係については風水や中国の稿、聖徳太子の稿などで触れたい。


参考

虚無僧(こむそう)については、明治政府に廃止させられたため詳しいことはわからない。武士の気概を棄てずとも、普化宗に入り虚無僧となることで幕府の保護を受けることができ、かつ諸国を自在に歩き回わる特権が与えられた。この中には剣術に優れたものが多くいて、別稿で触れるように、幕府隠密が多く紛れ込んでいたとされている。その時代の事情も知っていたはずの勝海舟は、『氷川情話』で次のように説明している。


虚無僧(こむそう)の起源は元禄以来浪人者が天下を横行して居たが、今日のとく給料を取って仕官することも好まず、さればとて人の食客となって甘んじても居られして、浪流して居る者が幾らもあった。よってそれらの者を入れるために一月寺(いちげつでら)といふものを立てたが、その実浮浪人の隠れ家様で、或は讒言に遇って浪人になったが、あくまでも武士道を立てたいとか、或いは冤罪を蒙(こうむ)つて天下に身を容るゝことあたわざる者が幾らもある。それらの者を一月寺の徒弟となすことを官(幕府)より許されて居た。そのわけはたとへば甲藩の藩士にして讒言を蒙って浪人となったる者は乙の藩に於てこれを藩士に召抱へることの出米ない掟である。さうするとその浮浪人は衣食に窮して、遂に乞食になるよりほかに仕方がないによって、それらの者は普化宗(ふけしゅう)すなはち虚無僧寺に入る。普化宗に入れば天蓋(てんがい:頭に深く被り顔を覆い隠す編み笠)を冠って、輪袈裟(わげさ)を掛けて笛(尺八)を吹き、角に立って、幾分かの手の内(寄付)を貰って歩く。さうすると人にも顔を見られずして生活することが出来る.それゆゑに世人は普化宗の虚無僧寺を浮浪人の隠れ家と称して居た。

※「普化宗」は「禅宗」の臨済宗(りんざいしゅう)の一派で「一月寺(いちげつでら)」が関東総本山だった。「普化宗」は幕府と関係が深かったため、明治政府の方針により、廃止させられ現在は存在しない。その後「一月寺」はその後日蓮宗に改宗させられ「いちがつじ」と名を変えている。


参考文献

  • 『明治維新という幻想』森田健司 洋泉社 2016年
  • 『ほんとはものすごい幕末幕府』野口武彦 実業の日本社 2017年
  • 『江戸三〇〇藩最後の藩主』八幡和郎 光文武新書2004年
  • 『江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた』古川愛哲 講談社+α文庫2008年
  • 『勝海舟 氷川情話』江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫2000年
  • 『勝海舟』上・下  勝部真長 PHP研究所1992
  • 『俳聖芭蕉と俳魔支考』堀切実 角川選書 2006
  • 『明治俳諧史話』勝峯晋風著 大誠堂 昭和9年
  • 『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談 (岩波文庫)』正岡子規 岩波文庫2016
  • 『明治期における美濃派-芭蕉二百回忌を中心として』鹿島美千代 桜花学園大学人文学部研究紀要 第13号2011
  • 『明治俳壇の研究』 越後敬子 実践女子大学学術機関リポジトリ 2016年度
  • 『其角堂永機の俳諧活動 : 幕末維新期編』越後敬子 実践女子大学紀要論文 2011年度
  • 『教導職をめぐる諸俳人の手紙』加藤定彦 1994
  • 『教林盟社起源録』天理大学附属天理図書館綿屋文庫蔵
  • 『法令全書教務省 官報』.内閣官報局  明治六年 国会図書館
  • 『太陽』「俳諧十二傑」明治32年(1899年)6月号
  • 『軍法侍用集』『萬川集海』
  • 『三春藩士人名辞典 附禄高明細記入』古今堂書店古典部 昭和8年6月 国会図書館
  • 『南船北馬集』第五編 井上円了 修身教会拡張事務所 明治43年
  • 『明治前期の改名禁止法制』井戸田博史 帝塚山大学法政策学部紀要第一号 平成10年3月


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。