9. 日中の古文献で考察する 壁谷
「谷神不死(こくしんはしせず)」とするのは紀元前には成立していた『老子』である。そこで「谷」は不死の象徴かつ生命の根源とされ、大いなる安定を意味した。一方「壁」は天子(中国皇帝)や神仙、そして宇宙や無限の空間に至るまで、限りなく深遠なものを象徴した「辟」から派生した多数の文字群を代表する文字として、中国で使われるようになった歴史がある。
日本では「壁」が持つ「隔てる」という意味は、天子の防衛の意味から拡張されて、武力の象徴・領地開拓という攻撃的な意味にも変化していった。同時に東国に進出した武士たちは、豊富な水資源が確保でき、また守るにたやすい背後に山を抱えた谷地(窪地)に居を構えると、その地名をとって「谷(や)」や「窪(久保)」がついた名字をつける例が急増していった。
このような状況を鑑み、本稿では、「壁谷」の名字そのものを、古代の文献を探って古代中国語的に、あるいは日本で発生した和製漢文をとおして考察し、壁谷の文字に秘められた深い意味を探ることを試みてみる。
※「壁谷」は中国各地の古い地名に多く見られ、また古代中国の道教風水、中国伝来の浄土宗・禅宗に深い関係が見える。別稿にて再度触れたい。
「辟」が意味する 天子・神仙、そして超越したもの
中国では古来天から指名された天子が国を治めるとされ、「尸政(しせい)」とかくと政治(まつりごと)の意味をっていた。部首「尸」は、屍(しかばね)をさすと同時に、「形代(かたしろ)」つまり先祖を祀る神霊の代わりとなって祭りを受ける、人または物(人形など)を指している。この「尸」から発生した象形文字が「辟」である。
「辟」は、「入れ墨を入れた人」を表している。ここから避ける、隔てるという意味が発生している。「避ける」には二種類がある。「災難・邪鬼」を避ける、「仙神・貴人」を(尊いと敬って)避けるの二つだ。平凡社漢字辞典『字源』によれば「辟」は、訓読みで「きみ」「め-す」「つみ」「.ひら-く」「さ-く」「.おさ-める」「つか-える」とされ、その多彩かつ両極端な意味が確かに伝わってくる。
「きみ」「めす」は皇帝にかかる言葉であり、「さく」「おさめる」「ひらく」には統治もしくは開拓、あるいは征服の意味が読み取れる。(一般に漢音の音読みでは「へき」「ひ」とされ、呉音では「ひゃく」ときとして「びゃく」と発音される。)中国では古代の皇帝(王)は、天からの指名と考えられたため「天子」と呼ばれた。「辟」にはこの「天子」の意味があり、「辟(きみ)」の読みに繋がる。
鼎(てい/かなえ)とは古代中国で天子の象徴としても使われた三本の足のある青銅器である。鼎には「鼎銘(ていめい)」が刻まれており、それを「金文」という。紀元前の古代周王朝では、臣下が西周王を「皇辟」ないし「辟天子」と表現した金文が遺跡から発掘されている。
紀元前10世紀ごろの古代西周王朝の金文では、王臣の間での上下関係を、周王に代わって臣下が明確にしたとされる。この用例では、「皇辟」(周王をさす)の臣下だった「籀」が「伯」に「大師」の地位を引き継いで引退した、と解釈できる。「大師」とは、古代中国周王朝における臣下の最高位とされた三公のひとつ「太師」をさすと推測できる。
『西周王権と王畿内大族の動向について』から読み下し文を引用
籀拝稽首し、伯大師の■して、籀を嗣がしめて皇辟に臣(つか)えしめしを休とす。
※原文は「籀拝稽首休伯大師■嗣籀臣皇辟」となる。■は現存しない古体文字でその意味は不明。「籀」は人名と思われるが、別な古体文字の可能性がある。
『殷周金文集成』から引用(6015)
唯れ天子、 麥(麦)の辟侯に休むの年に鑄(鋳)る
※「辟侯」とは天子の家臣となる「王侯」を指す。家臣の「麥」が退任した年に、この鼎(かなえ)を鋳造したという意味だろう。
西周の墓群から出土した青銅器『伯唐父鼎』の鼎銘では、王の乗る船を「辟舟」とよび王が祭祀の為に生贄を射る地を「辟地(または辟池)」と呼んでいる。また王政の決まりことを記した『礼記』「王制」編では天子の学ぶところを「辟廱(へきよう)」と呼び、家臣の学ぶところは「頖宮(はんきゅう)」と呼んでいる。
『伯唐父鼎』の鼎銘から
乙卯、王、餐京に莽す。(王)、辟舟に𠦪(いの)り、舟壟(龍)に臨む。𠦪りを咸(お)う。伯唐父、備わるを告ぐ。王、格(いた)り、辟舟に𠦪り、臨みて白旂に誉る。兕・𠩺虎・貉・白鹿・白狐を辟地(池)に射る。
※この「王」は穆王(紀元前976年 - 前922年)とされ、「餐」は何らかの祭祀と考えれている。なお文字は「餐」「莽」など一部が正確に表記できず、似た代字を使用した。読み下し文の出典は同上。
『礼記(らいき)』第五編「王制」から引用
天子、之に教を命じ、然る後に学を為す。小学は公宮の南の左に在り、大学は郊に在り。天子を辟廱(辟雍)と曰い、諸侯を頖宮と曰う。
なお孔子の『論語』では、天子のもとに仕える諸侯(中国の各地に封じられた王)のことを、辟公と記しているいる。
『論語』巻二 八佾(はちいつ)
子の曰わく、相(たす)くるは維(こ)れ辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)と。
※八佾(はちいつ)とは、東西南北の四面に2列ずつ、計64人が並び、楽曲にあわて天子が舞う儀式。
後年の「漢」の武帝(紀元前3世紀ごろ)も大学としての「辟雍(へきよう)」を設けている。東京学芸大学の同窓会はこの「辟雍」から名をとって「辟雍会」と命名されたとする。そのホームぺージの記述には、辟雍とは約3000年前、古代中国の大学で天子が学問を学んだり、儀式を行なったりする場所だったとし、あわせて「辟」には57通りもの意味があることが『大漢和辞典』に記されているとも示している。
※『大漢和辞典』は75年とも言われる歳月を尽くして2000年に大修館書店から刊行された、世界最大の漢和辞典。
辟は、近代以降でも皇帝の意味に使われている。一度退位した天子(皇帝)が再び地位に着くことは「復辟(ふくへき)」というが、第一次世界大戦の最中の大正6年(1917年)、中国(当時の中華民国)で「張勲」が、清の最後の皇帝「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら-ふぎ)」を担いで清朝の復活を宣言した事件は、歴史上「張勲復辟(复辟)」と呼ばれる。ほかにも「辟王」「辟挙」「辟招(辟召)」「辟書」「辟除」「辟公」などでも、「辟」は天子や皇帝を意味する。
なお人知を超えた高僧・仙人たちも、世人と遥かに隔たれた存在として「辟」を使って表現される。自ら覚りの境地に達した至高の聖者を「辟支(ひゃくし)」と云い、仏教の経典である『法華経』にも登場しており、岩波『広辞苑』にも「辟支仏」という用例が記載されている。また「辟穀」は、穀物を食べることを避け、神仙の道を究めようと修業することを意味する。「穀」の簡体字は「谷」であるため中国では「壁谷」とも書かれる。
一方で「辟」には「開拓する」という重要な意味もあり、その場合は日本語で「辟(ひら)く」と読む。おそらく権力者による征服・開発を意味しただろう。これは「闢」とも書き「開闢(かいびゃく)以来」などと現在も使われる文字だ。古代中国の呉音の「ひゃく」が日本語の発音に今も残っている。この例には国土を拓く「辟國」「辟土」、蔵を拓く(荘園領地を開拓する意味か)「辟蔵」、新たに田を開墾する「辟田」などの用例がある。この辟田は奈良時代に秦氏系の貴族の名字にあったことが『新撰姓氏録』や『日本書紀』『正倉院文書』などに残されている。
辟から派生した文字は大変多いが、長い間に文字が整理されていった中国では、「辟」は「壁」とも表記されることになった(これを代字という)。中国後漢(紀元25‐250年)時代の辞書『释名』では「壁」について、「辟」のことと説明している。しかし、その意味は若干違っているようだ。辟に土をつけることで都市を守る城壁を意味したのかもしれない。古代中国では、城は日本のイメージとは違い、都市全域を囲んで風雨や危険な外的から守った城壁であり、それは黄土を固めた高い土壁だったろう。(古代城郭都市)
『释名』から「壁」を引用
壁 辟也 辟禦风寒也。即壁的外部强大危険 内部软弱安全。
神事に繋がる「霹」「礔」「礕」「㵨」「鸊・鷿」「鼊」「䁹」「㠔」
次に、「辟」に「雨」を載せてみる。「霹」となるが、これは雷のことだ。雷は「辟」と「石」を組みあわせて「礔」や「礕」とも書かれる。中国唐の都の南にあった「石壁谷」の地名は、現在「雷村」と呼ばれていることは別稿で示した。
晴天の霹靂で有名な「霹靂(へきれき)」だが、平安時代の辞書『色葉字類抄』によれば「霹靂神」を和音では「はたがみ/はたはたがみ」と発音していた。やはり雷のことであるが、特に激しい雷をいうようだ。なぜ「はた」の音があるかは不明だが、筆者の個人的見解では、古墳時代から平安初期にかけて活躍した秦(はた)氏との関係の可能性を推測している。秦氏が由来とされるのは「八幡神(やはたがみ)」であり、後に漢音で「八幡(はちばん)」から、現在使われている「八幡(はちまん)」に変化した。
※(はちばん)ー>(はちまん)の変化はハ行転呼とわれ、平安中期以降、武士が登場したころの音韻変化とされる。
ちなみに「神」の字の右側のつくりの部分「申」も、田に雷が落ちることを現した象形文字とされ、このため雨に田と書いて「雷(かみなり)」と読むようになったともされる。雷は古から日本で「神鳴り」ともいい、神と雷の関係の深さがわかる。現在の「稲光り」という言葉が示すように、古代から雷が田に落ちることで、稲に実ができると信じられていた。稲作で暮らしていた中国南部や日本では、かみなりは神の恵みであると同時に、恐ろしいものでもあった。
恐ろしい神は荒魂(あらたま)、一方で神の恵みは和魂(にぎたま)と呼ぶ。神は自然そのものであり、天から降ってくる神には天地の恐ろしさと恵みの両面があり、人知を超えた近寄りがたい存在という理解がされていた。
「辟」に「水」をつけると「㵨」になる。これは水をつかって体を清める「禊(みぞぎ)」のとき響き渡る清らかな音を意味するようだ。『集韻』には㵨について、「匹智切,𠀤音譬。蜀漢人呼水洲曰㵨。博厄切,音薛。水分流。」とあり中国南部(蜀漢)で使われる習慣ともされる。日本の禊はもちろん、神仏と大変かかわりが深い。『古事記』ではこの「禊」によって、天照大御神(あまてらす-おおみかみ)や素戔嗚(すさのお)など三貴子(みはしらのうずのみこ)がイザナギから生まれている。
「辟」に「鳥」と書いて「鸊」または「鷿」がある。「かいつぶり」と言う名の小型の水鳥のことだ。日本では古代に琵琶湖に多数繁殖しており、和製漢字で「鳰鳥(におどり)」と呼ばれた。『万葉集』や『古事記』でも、その息の長さや夫婦の仲の良さが枕詞として多歌われている。
※かいつぶりは、琵琶湖のある滋賀県の県鳥にも指定されている。また鳰については、鳩(はと)そして斑鳩(いかるが)との関係が興味深い。
『万葉集』から一例を示す
764 日本晩歌「大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に (中略)妹の命の 我をばも いかにせよとか 鳰鳥の 二人並び居 語らいし(後略)」 山上憶良
4458 鳰鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
※君(きみ)とは天皇をさしている。古代中国の辟(きみ)と同じである。
『古事記』から引用
いざ吾君 振熊が痛手負はずは邇本杼理(におどり:鳰鳥)の 淡海(あふみ)の海に 潜(かづ)きせなわ
※忍熊王(おしくまのみこ)が神功(じんぐう)皇后の建振熊命(たけふるくまのみこと)に追い詰められ入水する場面。淡海(あふみ/おうみ)とは琵琶湖のこと。
なお息長については、仲が良く長く水中に潜る鳰鳥の息の長さと、朝廷と血縁関係が深いと息長(おきなが)氏、この2つをかけている。15代応仁天応の生母、神功皇后も息長の名を持ち、30代敏達天皇の最初の皇后も息長氏であった。息長氏は蹈鞴(たたら)製鉄が由来で古代天皇家と関係が深い近江(おうみ)の豪族とされるが、その後勢を失ったと思われ詳細は謎に包まれている。結果として哀歌に歌われることが多い。
『説文解字』では「鸊」について、飛ぶのは苦手で、もっぱら水面を浮遊し水中に潜っては餌を得ているという。この鳰鳥(におとり)は、「鸊鵜(へきてい)」とも書かれその修正からも「鵜」と混同されて使用されたかもしれない。
『説文解字』から「鸊」の項を引用
一种水鸟,比鸭稍小,脚近尾端,翅短小,不善飞行,极会潜水,常成群游于水面,受惊即潜入水中。亦作”鸊鵜”。俗称油鸭。
鵜飼も古代天皇家と関係が深い。『日本書紀』で神武天皇紀に登場する「養鵜部(うかいべ)」があり、正倉院に残された戸籍にも美濃国の鵜飼の記録が残り、鵜飼はそれ以来1300年の歴史を誇る。現在も岐阜県長良川に鵜飼が残り「宮内庁式部職鵜匠」とされる。関東地区の山岳部には「鴨部(かべ)」という鵜飼の品部(しなべ)と類推できる郷(村のこと)が存在した記録が残っており、鸊鵜や鴨部(かべ)の文字や発音からは、どこか壁谷に繋がりそうな気もしてくるのは筆者の思い過ごしなのだろうか。
「辟」に「黽」と書いて「鼊」とかく。これは「䵶鼊(くへき)」とよばれる美しい小型のウミガメで甲羅の模様はタイマイに似ているという。(明代『正字通』による。)中国道教では、治水の王が生まれると姿を現すのは「霊亀」とされた。白いウミガメが見つかったことで瑞祥などとされ元号まで変わった例がある。日本でも奈良時代の西暦715年からが「霊亀」724年からが「神亀」770年からが「宝亀」と続いた。これらの元号は聖徳太子の影響を強く受けた聖武天皇の時代であり、中国道教や聖徳太子と壁谷との関りのところで再び触れたい。
なお浦島太郎の伝説では、「海亀」にのった浦島太郎は「竜宮」にたどり着いていた。中国では「竜」は皇帝の象徴であり、「竜宮」とは皇宮を意味する。『古事記』では速吸門(大分と愛媛の間の海峡)で後の神武天皇が「亀」にのった白髭(のち白壁となり、平安初期の勅命で真壁と変更された)仙人と出会い、そこで示唆を受けた神武東征が始まっていた。
「辟」に「目」をつけて「䁹」とすると、相手を見下すこと、あるいは呪いをかける古術を意味する。これは魔眼ともよばれ、中国道教や密教、陰陽道の法術に繋がると思われる。風水二十八宿にあり皇帝を守るとされるのは「壁宿」であるが、その和名は「なまめ」とされる。なぜ「壁」が「なまめ」と発音されるかは現在不明とされるが、もし「壁」がこの「䁹(め)」であれば、その意味にも繋がりが見えてくる気がする。天空の「壁宿」のある位置は、西洋でも天上の「神の目」があると言われる位置と一致するからだ。
※壁宿はなぜか和名が「なまめぼし」とさるが、晦日の厄除け行事「儺(なまめ)」に由来するともされる。すると壁には厄除けの意味があるともとれる。
また「辟」に山カンムリで「㠔」とすると、人里離れた山谷の奥地に篭る神仙の庵(いおり)を意味する。『集韻』に「山谷阸也。一曰蜀中謂山谷㵎田曰㠔。」とある。古代中国ではここから神仙思想が生れ、のちに仏教と習合していった歴史がある。また「辟」に「心」と書くと「憵」になり、通常の人間にはまったく予期できなかった極めて急激なできごとを意味する。用例として『集韻』に「匹歷切,𠀤音霹。」とあり、突然鳴り響く雷の音を上げ、『博雅』には「猝(卒)也。」も突然の死をあげる。
皇帝・高貴を意味する 「璧」「躄」「䢃」「檗」「薜」「幦」
「辟」と「玉」と組み合わせた「璧(たま)」は、儀式で使われたとされる玉器を意味する。古代周王朝以前から、漢代までは使われており、日本でも多く発掘されている。「璧」はドーナツ型をした扁平な環状のものが主で孔は小さく肉厚がある、白色または緑色などの色をもつものが多く、漢代になると装飾が施されたものも発掘されている。
玉器には無限な空(くう)があるとされることから、中国古代では「璧」は宇宙そのものを表わしてもいた。(『老子』による)『老子』では、天子の即位の儀式のときに「璧」を掲げて行列の先頭を進んだ「拱璧」が登場している。国王になる儀式で玉器を受け取るのは、宇宙そのもの、つまり世界全体の支配権を獲得したことを意味すると理解できる。
『老子』第六十二章
故に天子を立てて、三公を置くに「拱璧」の以て駟馬(しば)の先立つありと雖も、坐してこの道を進むるを如(し)かず。
拱とは、両手で抱えることを意味しており「拱璧」とは一抱えもある大きな環(たまき)のことで、「駟馬」は貴人がのる四頭立ての馬車である。『老子』の記述によれば、天子が即位し三公が任命されるとき、諸侯の使者は「拱璧」と「駟馬」を献上し「坐してこの道を進」んだとある。馬車の前を、大きな璧を抱えたまま跪(ひざまず)いて進んだ臣下がいたようだ。
なお「三公」とは、太師(たいし)、太傳(たいふ)、太保(たいほ)を指し、それぞれ天子の模範、補佐し、教育を行う立場である。一方『老子帛書』ではこの「三公」を「三卿」とする。三卿とは、司徒(行政・教育)、司馬(軍事・祭祀)、司空(司法、建設)を担う役人をさす。いずれにせよ天子のもとに仕えた臣下の最高位であった。
※『春秋左氏傳』の「㐮公十九年」にも魯公が晋の旬偃(じゅんえん)に十端の錦に「璧」、乗馬を贈ったとある。㐮公の旬偃は、戦国時代の晋の天子で在位は紀元前306年-251年。後年の秦の始皇帝となる「政」の曽祖父でもある。
今でも使われる「完璧」という熟語は、『漢非子(かんぴし)』に登場する故事による。それは中国の至宝ともされた「和氏(かし)の璧(たま)」であり、秦の始皇帝が欲しがったとも記録される。その後行方不明になったともされているが、最終的に始皇帝が手に入れて玉璽(ぎょくじ)として使われたともいわれる。
先に「大きな璧を抱えたまま跪(ひざまず)いて進んだ臣下がいたようだ。」と引用したが、これは「躄」と書き、日本語では「いざり」と読む。ひざや尻を地につけたままで進むことを指す。実際にこのようなことが行われるのは、皇帝が即位するときなどに、璧(たま)や劔を携えた君臣が皇帝のあとを歩むときに記録が残っている。格下として見下ろすことのないよう、あるいは転ばないようになのだろうか、膝をついたまま歩んでいたのだ。
※日本でも古墳などかから出土している、勾玉(まがたま)も、この環、つまり璧であったのではと推測できる。日本では、現在も天皇の即位の際に、ほとんど同じ行事が引き継がれている。そこでは掲げたまま歩いて行くだけで、膝をついたままということはない。
「䢃(がい)」は『說文解字』に「治也。从辟乂聲。」とある。意訳するなら「統治すること。辟(天子・皇帝)に従(从)い、(人々の)声を聞き取る(乂)こと。」となろう。実際には「乂」には刈り取るという意味があり、力づくで国土を統治する意味となる。『虞書』では「有能俾䢃」と「卑しきを治(䢃)めること能(あた)う」という用例がある。
「辟」と「木」を組み合わせると、「檗(きはだ)」になる。これは柑橘系の樹木で、採取される塗料からは古代中国王朝で皇帝の色とされた黄土色の染料を得ることができる。またその粉末は不老不死の漢方薬としても使われ、大変高価なものだった。現在も「日本薬局方」で漢方薬として登録されている。唐の影響を受けた日本でも、古代から天皇は即位の際などに「黄櫨染御袍(こうろごぜんほう)」というこの種の黄土色の衣装を身に着ける。なお、この檗は禅宗の「黄檗宗」でも使われており、また「檗谷」氏は中国南部に現在も輝かしい伝承が残る。檗谷氏は壁谷氏ともされその子孫は現在は世界で数万人に達するとされる。檗谷氏については別稿で詳しく触れる。
「辟」に草カンムリを載せると「薜(とうき) 」となる。これは、セリ科の多年草で、漢方薬として日本薬局方では「生薬トウキ」として登録されており「檗(ハク・きはだ)」と同じだ。「檗」は「檘」や「蘗」とも書くようだ。「蘗」は「ひこばえ」とも読まれ切り倒した木の株なとから、新たに生えてくる新しい生命、新芽の生き吹きも指している。
※「薜」は『懐風藻』『古今和歌集』などでも詠われており和名は「まさきのかずら(真拆の葛)」ともされる。入唐経験のある藤原式家の祖、宇合(うまかい)の残した漢詩「遊吉野川」にも「薜」が登場する。この漢詩は、世俗を離れた中国の古代官僚になぞらえ「桃源深」「幽居心」を読んだものだ。
「辟」に「巾」と書いて「幦(はく/び)」がある。これは漆布ともされ、漆を塗った高級な布をさしたようだ。『周礼』には「䰍布也。从巾辟聲。」とあり人一人分の掛け布をさしている。『説文解字』には「駹車大幦。莫狄切」とあり、古代に高貴な人が馬車に乗る際に足などに掛けられた大きな布を指したと説明する。当時の土砂で荒れた道を馬に引かせた事情から、舞い上がる砂煙や汚水から貴人の足が汚れることを避け、保温も兼ねたと思われる。日本で現在も観光用に残っている人力車でも、載せられた客は足に赤い布を掛けらている姿を見ることが多い。
深遠長大を意味する 「譬」
「辟」と「言」を組み合わせると、「譬」となる。これは日本語では「譬える」とかいて「たとえる」と読む。「譬喩(ひゆ)」や「辟称(ひしょう)」とも書かれる。古くは日本で当然のように使われた文字だが、現代語では「比喩」と書くのが一般的だ。とくに「譬」や「辟」と書くときは、隔たりがあるとうう意味が強調される。いわば言葉では到底表すことができないほど、神秘的、超然的なものを例える場合で「比喩」と表現するには物足りない、極端な差があるものを例えるときに適切ともいえようか。前出の『老子』第三十二章に「譬谷」が見えるので再掲する。この「譬谷」はそのまま「壁谷」の理想に繋がるのではないかとも、思えてくる。
『老子』第三十二章から引用(文中カッコは筆者がつけた。)
道は常に無名の樸(ぼく)なり。小なりと雖(いえど)も、天下に能(よ)く臣とするもの莫(な)きなり。侯王(こうおう)若(も)し能’よ)くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら賓(ひん)せんとす。(中略)道の天下に在(お)けるを譬(たと)うれば、猶(な)お川谷(せんこく)の江海(こうかい)に於(お)けるがごとし。
上記の文章は『老子』の原文で「譬谷」と書かれて登場し、天下に道(みち)の存在する価値は「譬谷」のように明らかとされている。岩波文庫『老子』蜂谷邦夫訳注によれば、「江海」は、大海(太平洋)もしくは中国南部の長江(揚子江)と考えられ、「谷」は川をさしているとしている。その上で、大海ができるために、川が必要なことと同じであると例え、天下において「道」すなわち道教の考え方が重要なことを例えている。
中国に古来伝わる伝説の三神山がある。日本で有名な竹取物語(かぐや姫の物語)にも登場している。それは渤海の東海にある大きな谷の地にあるとされているが、『沖虚子徳真経四解』でも原文は「譬谷」と表記している。これは和訳するなら「譬(たと)えようもない大きな谷」となる。、
『沖虚子徳真経四解(ちゅうきょしとくしんきょう しげ)』日本語訳による引用
渤海の遥か東海に譬谷(たとえようもない大きな谷)がある。地上を流れる川ばかりでなく、天を流れる川も皆流れ込んでいる。山々は壮大にして華麗。山麓の周囲は三万里あり、頂上は九千里四方に広がる。(中略)仙人たちの住む宮殿は黄金と大理石で作られ、遊ぶ鳥はすべて純白である。木の実は不老不死の妙薬となっている。:
古来から、「渤海の東海」にある土地とは日本を指しているという説があった。実際、世界地図を見れば、日本列島のほかにはそのような土地はない。『史記』には、秦の始皇帝が道教思想に基づいた不老不死の妙薬を求めて「徐福」を3,000人の子女と技術者を従えて東方に船出させた話が載っている。この徐福は中国には戻らなかったと記録され、一方では日本各地に現在も多くの徐福伝説を残っており、徐福は日本に定住したとも伝承されている。
なおこの引用の「譬谷」で登場する「遊ぶ鳥はすべて純白」の表現は大変興味深い。古来、神の使いとなる動物は白いからだ。白鳥、鶴、鷺、そして鳩などが『日本書紀』では神の使いとして登場している。日本尊(やまとたける)は死して白鳥となったとされ、征夷大将軍の田村麻呂の子孫は鶴に育てられたとされる。現在も鸛(こうのとり)が子供を運んでくるという伝承が日本各地に伝わっている。鳥だけでなく白い生き物は瑞祥(めでたい)とされており、奈良時代には白亀が献上されると霊亀元年(715年)と改元された。また『続日本紀』には、白い鹿、白い雀などを献上した者には官位を上げ、税を免除することが詔(みことのり)された記録がある。(左大臣藤原永手、吉備真備にが天皇に奏上、詔で許可された。)この他にも蝶が魂を再生させる「精霊の使い」とされており、平氏の家紋にもなった。白い生き物が神の使いとされ語り継がれる例は無数に存在するが、これも「譬谷」で登場する「遊ぶ鳥はすべて純白」の影響かもしれない。
「譬如北辰」という表現が登場するのが『論語』だ。ここにある「北辰」とは北極星をさしているが、同時に天上の(回転の)中心にあることから皇帝・天子もさしている。筆者の意訳によれば、「徳をもって政治を行えば譬(たと)えば北辰(北極星/王)の周りを多くの星(民)が周囲をめぐるように、うまくいく。」となる。この字は「譬(さと)す」とも読む。賢者が人に物事を説明するという意味にもなる。
『論語』孔子 岩波文庫 為政二 より引用
政(まつりごと)を為すに徳を以てすれば、譬(たと)へば北辰(ほくしん)の其の所に居て、衆星(しゅうせい)の之に共するが如し
権力・武力を意味する 「䢃」「劈」「臂」「擘」
「辟」に「メ」を加えた「䢃」は統治・政治を意味した。『説文解字』に「治也(おさめることなり)」とある。『洪武正韵』では「安也。通作乂。即强者治理弱者。」とある。つまり、「強者が弱者を理を以て治めることで安らぐ」としている。まさに当時の政治そのものを表した文字であり、『老子』の語る道教の思想にも一致するところがある。
「辟」に「刀」と書くと「劈」となり日本語では「ひきさく」「つんざく」となる。耳をつんざく、など勢いよく突き破るイメージで、雷の音や稲光の形容によく使われる。これは「擘く」とも書くようだ。ここから「力強く分ける」という意味が発生する。『集約』には「分也。即刚强者对软弱者。」とあり、弱者を排除した剛なる強者が覇者となる、その強者と弱者の別とする。
「劈」を使った用例では「開巻劈頭」という四字熟語があり「冒頭から」という意味になる。また「劈開(へきかい)」は石などが一定方向に(結晶構造に沿って)さくっと割り裂けることを意味する。雲母や宝石などは、その結晶構造から独特の美しさや硬さが生まれるが、同時に特定の方向に劈開する性質ももつ。ちなみに、風水の二十八宿の「壁宿」に所属するとされる道具「鈇鑕(まぐさ)」は、一般に飼料の切断や農耕に使われたと解説されるが、古代中国では罪人を腰から切断する処刑具(西洋のギロチンの類)としても使われており、まさにこの「劈」が武器として使われていた可能性も高い。
※最近の研究では古代に鉄器は農耕に使われず、精密な農耕具の加工にのみ使われていたと明らかになりつつある。古代の鉄器の用途は、実はほとんどが武器であったようだ。
「辟」と「月」を組み合わせると、「臂」になる。古代中国では妃もしくは片腕、庇う(守る)という意味があったようだ。紀元前の古代中国で使われた弓は「神臂弓」と『史記』に記録され、三国志の諸葛亮孔明(こうめい)や、中国史上に燦然と輝く英雄「岳飛(がくひ)」も「神臂弓」を使ったとされる。「臂」は腕そして肘(ひじ)を意味する言葉だ。最近イケメンとしても有名になった奈良・興福寺の国宝阿修羅像は、顔が3つ腕が6本あることから「三面六臂(さんめんろっぴ)」と呼ばれる。また現代も使われる「八面六臂(はちめんろっぴ) 」という熟語は、大活躍する様をさしている。臂の神威的な有能さを暗示しているようでもある。
日本の衣装に「半臂(はんぴ)」があった。これは奈良・平安時代、五位以上の官位をもった貴族の正式装束とされた「束帯(そくたい)」の下に必ず着用するとされた貴人は必ず身に付ける衣装だった。五位以上の貴族は、殿上人と呼ばれ天皇の清涼殿に昇ること(昇殿)を許され、また畿内に住むことが強要された。地方の行政官に任命された場合は現地には代理を派遣する必要があった。『今鏡』には関白・太政大臣となった藤原教通がこの半臂を着用していたのに、他の公卿が半臂を着用しておらず、(身に付けないといけないとされた規則を破っていたと)皆が恥じたと記されている。鎌倉時代以降はこの束帯は上級武士も公式の場などで着用するようになった。その後この「半臂(はんぴ)」、江戸時代に町人にも伝わって、現在の「法被(はっぴ)」「半纏(はんてん)」の語源になったとも言われる。実は、現在も天皇が公式行事の際に正式衣装として束帯を身に着ける際に、この半臂を必ず着用しているともされる。
臂から先は細かい手作業で現在の繁栄を切り開けたとも言える人間にとって、最も重要だったろう。手先の器用さは人間の最大の特徴でもある。臂から先を断ち切ることは「断臂(だんぴ)」というが、それは人間として生きる上で多くの利益を失うことになる。現在の中国河南省出身で「姫氏」が出自とされる「慧可(えか)が「雪中断臂」までして開祖「達磨(だるま)」にやっと認められたとする有名な話がある。室町時代の「雪舟」がこの場面を書いた「 達磨大師二祖慧可断臂図」は日本の国宝とされており、教科書などにも登場していた。達磨に始まる禅宗は、その後日本に伝わり、黄檗(おうばくしゅう)、臨済宗、曹洞宗などとして鎌倉時代以降の武士に広く浸透していった。清の乾隆帝の命によって作られ中国古来の医学をまとめた書とされる『医宗金鑑』には、肘から手首の間をつなぐ2本の骨まとめて「臂骨」としている。杉田玄白の『解体新書』ではそれぞれ「橈臂骨」「直臂骨」と訳されているが、日本ではのちに橈(とう)骨と尺骨と呼ばれることになった。
また、「辟」に「手」を加えると「擘(ひゃく)」となり、手の親指を意味する。この「擘」は力をも意味しており、そこから中心的な指導者を意味もする。特に優れた指導者は「巨擘(きょはく)」とも書かれた。(各種の漢和事典より)
守りを意味する 「壁」と「甓」
この「辟」に「土」を加えると「壁」となる。古代中国では、粒子の細かい「黄土(おうど)」を塗り固めてコンクリートのような壁をつくる「版築(はんちく)」とよばれる技術が発達した。当初「万里の長城」は黄土による版築のみで作られていた。当然地面に穴を掘って土を乗り出し、その土を積み上げて固める。長城の手前には谷も続くことになり、まさに長大な壁谷ができただろう。乾いた黄土の土地でも、水がたまって草木も育ち動物も集まったかもしれない。兵士の村ができた場所もあっただろう。(現在の中国の万里の長城は大部分が紀元後に大きく増築されたもので、多くの外面は煉瓦だが、その内部は版築とされている。)
食物を蓄えるための倉庫も、この版築で作られた。それは人災天災からの防備・備蓄の観点からも当然だったろう。古墳もこの版築の技術で建築されてたことがわかっている。「壁」をつかえば、外敵・邪悪を防ぐことができるとされたことになる。黄土を固めたものは「辟」の下に「瓦(かわら)」と書く「甓」として建築に使用された。これが発展したのが後世の瓦である。瓦は屋根を守った「壁」だった。後年は焼き固めて煉瓦(れんが)として使われた。古代はこの「壁」と「甓」は区別されず、ともに「廦」と書かれていたようだ。
中国では「壁」のイメージは防衛のため町全体を覆う城であり、唐の都長安は、長安城とも呼ばれた。これに対し、土質が異なる事や木材が豊富だった日本の「壁」のイメージは垣根(中国語では「墙」)であった。中国では枯渇していた木が、日本には大量にあったからでもある。ただし渡来人が大量に来日して中国の技術が流入してきたと思われる古墳時代以降、巨大な前方後円墳などはすべて版築で作られるようになった。「高松塚古墳」や、「法隆寺」などの古代寺院の土台にはこの版築が多用されていたことが最近の研究でわかっている。
※「黄」「土」は古代中国道教において神聖なものとして扱われた。版築が日本で多用されるようになったのは中国道教の影響が考えられる。『日本書紀』第11代垂仁天皇の時代に起原をもつという相撲は古代皇族「土師(はじ)氏」を生み、日本の国技となった。現在の相撲でも中央の「黄」色を成す「土俵」は神聖な場所とされる。
※先に説明したた「檗」も防御の意味があった可能性がある。ご存じの方も多いと思うが、「檗」を始めとした柑橘類の樹木は全体に鋭利な多数の棘(とげ)をもつ。その鋭さはバラのトゲの比ではなく、中には数センチに達し極めて鋭利なものもある。版築で周りをかため土塀・城壁を作れない場合は、この種の柑橘類の樹木を使った生垣で地域や家屋を守った可能性も高いと推測できる。日本では縄文・弥生時代の遺跡などに、この種の生垣がいくつも発掘されている。『日本書紀』や『古事記』では日本最古とされる和歌に「スサノヲ(スサノオ)」が妻のために「八重垣」を作ったと記録される。
「スサノオ」の和歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
※八重垣とは、生垣を何重にも重ねて防衛力を高めたもの。
「辟」へき/さき
「辟」は平安時代に編集された『新撰姓氏録』の大和国諸蕃(百済系の貴族)「辟田首(さきたのおびと)」がある。「首」は天武天皇時代にはじまった「八色(やくさ)の姓(かばね)」による姓(かばね)のひとつでありいわば尊称となる。この「辟田首」は現在も天皇家に伝わる「雅楽」のもとになる「伎楽」を日本に伝えたとされており、その祖先は『新撰姓氏録』では第11代垂仁天皇のころ大加羅国(朝鮮半島)から来た王子とされる「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」とされている。
また『日本書紀』推古天皇20年の条では、蘇我氏の本拠「桜井」のに土地を与えられた百済からきた「味摩之(みまし)」ともされている。その子孫となる辟田首は聖徳太子や壁谷と関連が深く、別稿でもあらためて触れたい。
※「つぬが」の名からも敦賀(現在の福井県)と関係が深い可能性が示唆される。坂上田村麻呂の出身士族である東漢(やまとのあや)氏も、都加使主(つがのおみ)の末裔でありここにも「つぬが」が関わるようだ。
※「辟田」を「さきた」と発音するのは和音であり、その意味は「劈田」や「咲田)」やにあるのではないだろうか。「劈田」は土地を拓いて開墾することを意味し、田が咲くとは稲に実が入ることを意味した。当時は稲に実が入るためには雷神が必要とされ、現在も稲光りにその名を残す。
「辟」に「衣」をつけると「襞(ひだ)」になる。具体的には衣服のしわ、山のひだなを指すようだ。山のひだととれば、まさに谷の事を意味するかとも思える。襞には霊的な意味があったとも思われるがわからない。小椋佳が謳った「心の襞」は人の心の裏表や感性を指しているというが、これは現代日本的な解釈だけではない。
「礕」や「㱸」は「石」であり、古代の神の依り代を意味していた。古代神は石に降臨するものだったからだ。このはかにも沢山ある。
「避」さけ(酒)
現在も「避」が使われる「大避神社」が兵庫県赤穂市坂越(さこし)宝珠山にある。由緒ある神社で、聖徳太子の時代に活躍したとされる渡来人「秦河勝(はたのかわかつ)」を主祭神とする。秦河勝は蘇我入鹿の迫害を避けてこの地に来たとされているが、実はこれは後世に作られた話であろうと推測される。この点は別項で触れたい。正倉院文書にも「辟秦」氏の名がのこされており、関係が興味深い。
秦氏は秦の始皇帝の三世の孫の末裔とするが、もちろん確証はない。聖徳太子の側近として活躍した記録が残る。現在大阪の秦山と呼ばれる地域(寝屋川北岸の丘陵)には秦河勝の墓があるが、実際に没したのは赤穂の坂越とされ、海上で神域とされている「生島」には秦河勝の墓があり、長年にわたって神域として保たれ、人が立ち入ることができなかった。その原生林は現在天然記念物として国の特別保護地区であり現在も人が立ち入ることはできない。生島を臨む坂越湾には、秦河勝を主祭神とする「大避神社」が鎮座しており、河勝が弓月国から持ち帰った現存する日本最古のともされる「雅楽」(おそらく「伎楽」か)の面があり、祭りなども国の重要無形民俗文化財指定されている。
秦氏は日本に渡来してからは渡来人の最大勢力となり、養蚕、機織、開墾や巨大建築などで活躍、当初は豊前(現在の福岡県)後には太秦(うずまさ:現在の京都府、奈良県)に拠点を置きその技術と富で平安京の造営も主力となっていた。秦氏に由来するとされる祭神として最も有名なのは八幡神社、伏見稲荷、松尾神社などがある。聖徳太子や秦氏、伎楽と壁谷の関係は大変深く、壁谷の起源を解明するポイントになるため、別稿で触れる。
また、大避神社はのちに神仏習合の神宮寺として「妙見寺」とも呼ばれた。明治初期に神仏分離された。宝珠山の名や寺院名には後年の神仏習合による密教の強い影響が感じられる。妙見信仰と壁谷(神谷)氏の関わりも深い、これも別稿で何度も触れていく予定だ。
ここまで出て来た漢字の多くは、古代呉音では「ひゃく(はく)」、後の漢音では「へき」、現代の中国語でも「ビ」と発音が同じである。(「譬」「臂」「避」の3つは、呉音や日本語で「ひ」と発音するが、漢音では同じ「へき」となる。)どれも画数が多く、大変書きにくい文字だ。中国の歴史上の経緯からも、ニュアンスや発音が近い文字は、特別に保存するために記録に残す以外は使い分けされず(混用され)、いつのころからか「壁」の字が代表的な文字として使われるようになっていった。。
特に古代中国では竹簡とよばれて竹に墨書きして記録したため、画数の多い字は混同された略されて使われた。ほかにも「僻」(ひがみ)など悪い意味あいをもち文字を含めると沢山ある。しかし、これら悪字が、名前(氏)として王から与えられ、かつ祖先に代々受け継がれることは、あまりあり得ない考えれられる。「辟」は神に対する畏れが含まれている文字と解釈できるのではないか。
※漢語ではなく和名に注目すれば「壁」は古代から平安初期ごろまで日本の皇族の直下の領地を意味した日本古来の名代部である「加部(かべ)」「ケ部(かべ)」にも由来もしているとおもわれる。このため皇子の名前には壁のつく例が多数ある。五世紀に登場する倭の五王「武(ぶ)」で名高い雄略天皇の名は古事記で「大長谷王(おおはつせおう)」や「崇峻天皇」の「長谷皇子」に由来すると思われる。その直轄領は各地に広がる長谷部(はせつかべ)であったと思われる。
和銅6年(713 年)の「好字二字令」で二文字となり、以後「ケ部」「下部」は「壁」など記述されるようになり「長谷部」は「丈部(はせつかべ)」とされ、公式な記録に残される皇子名にも「かべ」が多数現れる。天武天皇の皇子だった「草壁(くさかべ)皇子」だった。また大宝律令制定の責任者「忍坂部(おさかべ)皇子」は、史書に「刑部(おさかべ)皇子」または「忍壁(おさかべ)皇子」と書かれる。聖武天皇の「光明皇后」も「安宿(あすかべ)姫」の名を持つ。桓武天皇の父も「白壁王」(後の光仁天皇)である。この種の例は枚挙にいとまがない。
「谷」が象徴する聖人、そして広大で深遠なもの
中国の古代思想の根底に流れるのは『老子』を始めとした道家(道教)の思想である。『老子』は各国語に翻訳され、現代心理学の基礎を築いたともされる著名な心理学者「ユング」にも、大きな影響を与えたとされ、現在も世界中の研究者が研究を続けているという。(蜂谷邦夫による)
この『老子』の原版とされるものは、紀元前の中国の墳墓から竹簡(竹を削って文字を書いたものを繋いだもの、日本の木簡に相当する)に記載された形で多数発掘されており、「帛書(はくしょ)老子」といわれる。湖南省長砂市にある紀元前2世紀前後の墳墓から発掘されたものは、すでに現在の『老子』とほぼ同じ内容を持っていた。これ以前の墳墓からも、原型と思われるものが断片的に発見されている。多くの墳墓から発見されていることから、「老子」は古代中国の為政者にとって著名な書物としての地位をすでに確立していたと推測される。
西暦100年に成立した中国最古の漢字事典『説文解字(せつもんかいじ)』には「谷」の説明として「泉の出でて川に通ずるを谷と為す」とある。「泉」を起点として発した「水」が流転して「谷」を構成し万物を包み込む根底となると読み取れてくる。じつはこの「谷」は『老子』では「水」と並んで繰り返し何度も登場する。「谷」は静かで深く広大であり、不老不死・再生の象徴であるだけでなく、君主となった施政者にとって重大な意味をもつ言葉として扱われており、古代道教そして風水へとつながっていくが、そのことは別稿で触れる。以下、岩波書店『老子』から蜂谷邦夫による解説文を引用して説明を加えた。なおかっこは筆者がつけた。
『老子』第六章
「谷」神は死せず。此れを玄牝(げんぴん)と請(い)う。
※「谷」は空虚で奥深く、窪(くぼ)んで水が流れるところ、「玄」は薄暗く計り知れぬほど奥深い様。「谷神」が尽きることなく万物を生み出すことを「牝(ひん)」と言ったが、その作用の不思議さから「玄」としたもの。
『老子』第十五章
古(いにし)えの善き士たるものは(中略)曠(ひろびろ)として其れ「谷」の若(ごと)く。
昔の優れた士というものは、見たところ掴みどころ無く、奥深くて何事にも通じており、人としての奥深さは計り知れない。(中略)広々としていること谷のよう。
※「士」とは万事万端を処理する者の事で、儒家がいう君子の老子風表現だと考えてよい。
『老子』第二十八章
其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の「谿(谷)」と爲る。天下の「谿(谷)」と爲らば、常徳離れず、嬰兒に復歸す。(中略)
其の榮を知りて、其の辱を守らば、天下の「谷」と爲る。天下の「谷」と爲れば。常徳すなわち足りて、樸に歸す。
剛強なあり方を知りながら、柔弱の立場を守っていくと、世の中の人が慕い寄る「谿」となる。「谿」となれば、恒常の徳は身から離れず、純粋な嬰児(あかご)の状態に立ち返る。(中略)栄誉あるあり方を知りながら、汚辱の立場を守っていくと、世の中の人が慕い寄る「谷」となる。「谷」となれば、恒常の徳はその身に満ち足りて、素朴な樸(あらき)の状態に立ち返る。
※水が流れていると「谿」流れていないと「谷」と区別するが、ここでは「谿」は「谷」の字の繰り返しを避け「押韻」を踏んだもの。低い位置にある「谿」によって聖人を表すのは、七十八章の「国中の汚濁を自分の身に引き受けるのが国家の君主である」という思想に同じ。樸(あらき)とは伐り出したばかりの粗木のことで、人の手が加わっていないことから道のたとえとされる。
『老子』第三十二章
道は常に名無し。僕は小なりと雖も、天下能(よ)く臣とする莫(な)し。(中略)永遠に名を道の天下にあるを譬(たと)うれば、猶お川「谷」の江海に与(お)けるが如し。
道は永遠に名を持たない。道のたとえとなる樸(あらき)というものは、たとえ小さくとも世の中で誰も支配できる者はいない。(中略)道が世の中にある有様をたとえて言えば、いわば川や谷の水が大海に注ぐようなもので万物は道に帰着するのである。
※道については『老子』第一章で示される老子哲学の根本概念である。「天地に先立ちて存在する」とし「宇宙を構成する根本的な実在であり理法である」とされる。江海は、大河大海という一般的な言い方であるが、江を江水すなわち長江(揚子江)と考えてもよい。
『老子』第四十一章
上徳は谷の若(ごと)く、大白は辱れたるが若く、広徳は足らざるが若し。
最高の徳は空虚な谷のように見え、大いなる潔白は穢れているように見え、広大な徳は何か足らないように見える。
※四十一章では、上士、中士、下士を比較して述べている。その中で「谷」を最上の「徳」にたとえている。
『老子』六十六章
江海の能く「百谷」の王爲る所以の者は、其の善く之に下るを以て、故に能く「百谷」の王爲り。(六十六章)
大河や大海が幾百もの河川の王者であるのは、それが十分に低い位置にあるからであり、だから王者でありうるのだ。
※「百谷」とは多くの河川の意味で「谷」も川の一種。「王」は『説文解字』に「天下の帰往する所なり」とある。帰往とは、そこに行って頼るところである。
「谷」が意味する食料・穀物
「谷」について、もうひとつ注意しないといないのは、人類がこのように地球上で繁栄した根源ともされる「穀物」の意があることだ。ウイリアム・マクニールの『世界史』では、冒頭で人間の歴史における最初の注目すべき変化は食糧生産の発達であるとし、それは紀元前8500年ごろ中東で起こった「穀物栽培」から始まり、そこからヨーロッパ、インド、中国、およびアフリカに拡がったとしている。
穀を谷と書くのは中国の特殊な事情がある。中国の文字には「簡体字」と「繁體字(繁体字)」の2種類があり、「谷」は「穀」の簡体字とされている。中国では古代から幾種もの異体字が存在していたが、国家指導のもとこれらを整理し簡単な文字に置き換えて整理した。国家指導のもとに正式に採用されたのは清朝の末期と新しい。しかし中国簡体字の歴史は紀元前の昔からあった。その背景には、紙が使われる前に、竹に墨で文字を書いて、穴をあけ紐で通して巻物にしたことによる。これは「竹簡」と呼ばれ、画数の多い漢字は、より簡単な文字で書き残す必要があり、現在使われている簡体字のベースとなっていった。
※「竹簡」は日本では今のところ発見されていない。日本に入って「木簡」に変化したと思われる。「木簡」は奈良時代の遺跡などから多数発掘されている。
簡易的に他の文字などで表記する手法は、一般に借字(しゃくじ)と呼ばれる。(ほかにも韻を踏むとき同じ文字を繰り返すのを避けるため、わざわさ漢字を変えることがあった)「穀」と「谷」は、中国では古代から引き続き同じ意味で使われていた歴史があった。この借字の手法は、日本でも採用され発掘された奈良時代などの「木簡」に見られ、また万葉仮名の発生につながったとする説もある。
このように「谷」の文字には奥深い意味が込められていた。万物の始まりから終りまでを貫き、根本的な土台として悠然と存在し、雄大な大自然や無限の生命そして神仙に迫る超越した概念を意味している。その背後にある「穀」には、人類の生命を支えてきたという重大な意味も込められていた。
※『常陸風土記』などでも水が豊富で穀物生産に適した地が「谷」とされ、鎌倉時代も関東で居住に適した地が「谷(やつ)」とされた。これが武士の名に「谷」が多くなった理由でもある。
壁谷は何を意味するのか
これらから「壁谷」を考えてみるといろいろなパターンが見えてくる。最初に気になるのは、古代道教(神仙思想)で仙人が用いる方術(ほうじゅつ)のひとつであり、仏教や禅宗の修行でも必須となっている「辟穀(へきこく)」だ。辟穀とは、五穀(穀物)を避けて、体内に宇宙の気(元気、気力)を取り込むみ、活力や新たな能力を得る方法だ。
中国漢代の「王充(再暦27-?)」が著した『論衡(ろんこう)』には「謂老子以術度世矣 世或以辟穀 不食為道術之人」とあり道教の術として老子が「辟穀」(つまり壁谷になる)を説明したともしている。『荘子(そうし)』逍遙遊篇には、「藐姑射之山,有神人居焉,不食五穀,吸風飲露,乘雲氣,御飛龍。而遊乎四海之外。其神凝,使物不疵癘而年穀熟。」とあり、伝説上の藐姑射(はこや)山には不老不死の仙人がいて、五穀を食せず風露を食らい、雲や龍に載って空を飛ぶという話を紹介。このような仙人こそ世を治めるとする。この種の話は、三国時代から六朝(りくちょう)時代にかけて中国南部で独自に発展し、老荘思想から道教を生み出し、後の浄土教、禅宗に大きな影響を与えた。
※「六(ろく)」と読むのは中国南部の呉音。「六(りく)」はいわゆる漢音。
余談だが、日本語のいわゆる「糖質制限」は、現在の中国語で「壁谷养生」と書く。「壁谷」を「辟穀」と理解すれば、困難な「断食」の修行を経た仙人、あるいは仏教の高僧、彼らは山深い奥地の谷底に住み、断食し(蕎麦や豆や松の葉などを食した)修行した。また「譬谷」だったとすれば、谷のような物、あるいは概念を表し、それは不死・再生の概念つまり仙人や子孫繁栄そして国家安泰へと繋がる。そのまま「壁谷」だったとすれば、国家を防御する国家鎮護の概念もしくは、神仙生気の根源となる場所をさすのかもしれない。
※『荘子』に登場する仙人が潜む山、藐姑射(はこや)は日本では上皇の宮殿である「仙洞御所」の別名でもあっただったとされる。(藤原定家『拾遺愚草』による。)
「霹谷」であったなら、中国南部や日本の稲作の神とのかかわりが見え、「璧谷」だとすれば、王家の神事の伝承に関わる。古代中国では、壁谷が帝や神との関わりが深い可能性があるいくつかの傍証から得られている。
「檗谷」であれば、中国古代の周王朝を擁護した古代道教、さらに発展して古代の黄姓檗谷氏から禅宗の「黄檗宗(おうばくしゅう)」との関わりも見えてくる。これらについては別稿で触れたい。ここま出て来たどの字を書いても、日本語で発音すれば一般に「かべや」になる。
「谷」については、実は気にかかるのがもうひとつある。道教の秘術のなかの秘術である「辟邪(へきじゃ)」である。辟邪の「邪」は、日本語では「よこしま」と読むが、『魏志倭人伝』の「邪馬台国(やまたいこく)」でわかるように「や」とも発音する。また『日本書紀』でも朝鮮半島にあった日本の拠点を「加邪(かや)」と発音させている。つまり「辟邪」とかけば、これも日本語で「かべや」と発音することになる。
※ちなみに
「辟邪」はその名の通り、邪悪をさける道教の方術(ほうじゅつ)だ。はるか古代に、体に傷をつけたり入れ墨を入れるなどして行われていた言われ、道教のなかでも秘術の中の秘とされる。そのため、現在も詳しいことがほとんど判明していない。
4世紀初頭に書かれた中国の歴史書「後漢書」などは、「倭人」は全身に入れ墨をしていたという記録が残っている。しかもこれは中国南部の「呉」の国の風俗に似ているとある。また、日本独自とされる「遮光式土偶(しょこぅしき どぐう)」には、全身に線(傷か?)の文様があり、大きな横一線の目があり、ほとんどが意図的に破壊されてた形で発見されている。最近の研究ではもともと壊れやすいように作られていたこともわかってきている。これは私見だが、秘術の辟邪の方術(ほうじゅつ)が人間ではなく、土偶を身代わりして行われた可能性もある。
中国でも、古代皇帝の墓の一種である俑(よう)の守護神に「辟邪」と呼ばれる石獣がある。その中でも秦の「始皇帝兵馬俑(ひょうばよう)」が世界的に有名だ。「辟邪」は、古代だけではない。現在の中国でも普通に使われる表現で、「お札」「魔除け(の呪文)」の意味らしい。ちなみに、日本で使われる「お札」や「お守り」の類も、その根底は道教に由来する全く同じ起源をもつものである。
日本では奈良国立博物館などに保存されている国宝に「辟邪絵」がある。もとは平安末期から鎌倉時代の初頭、後白河法皇の宝蔵に保管されていた「六道絵」の一部だったとされ、平安時代に宮中の行事で使用されていたともされる。そこには、いわゆる疫病神を懲らしめる神がかかれており、古代中国にも同様の風習があったとされる。
江戸末期の大橋訥庵(おおはし とつあん)が書いた『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』は尊王攘夷論の代表的な著作で、日本でも「辟邪」は攘夷論者の間で相当に広まったと思われる。大橋は老中安藤信正の殺害を狙った「坂下門外の変」で主導的な役割を果たし投獄されている。
道教と日本
中国思想の根底に横たわる道教の思想と、中国の古代の歴史について、もう少し追及して見る。道教は、「老子(ろうし)」、「荘子(そうし)」(道家、老荘思想)などが始祖にあたる。遥か昔、中国の神話の時代、理想とされる天子、「堯(ぎょう)」「舜(しゅん)」のころには、すでに政治、医療、学問の世界で道教の地位がに確立していたとされる。さらに時が経過して、紀元前10世紀(1万2000年前)ごろに、伝説の悪王「殷(いん)」の紂王(ちゅうおう)を滅ぼし、統一国家「周(しゅう)」を建国したのが「文王」だ。これを実現した天才軍師が「太公望」だった。(太公望は、日本では「渭水(いすい)の魚釣り」で有名で、釣り好きなら知らない人はいないだろう。)道教はその後「神仙思想」として発展していく。
※「舜」帝は日本の年号「平成」の語源となった「父は義、母は慈、兄は友(ゆう)、弟は恭(きょう)、子は孝、内うち平にして外成る。」でも知られる。(『史記:五帝本紀』巻一「舜帝」による。)
その後中国を統一した「秦(しん)」の「始皇帝」が、万里の長城を必死になって造ったのは道教によってなされた自らが滅ぶという予言を恐れたからだ。(これには後日になって判明する興味深い話があるが、ここでは触れない)。その始皇帝の命令を受けて、日本に訪れた伝説が残っている「徐福(じょふく)」も道教の方士といわれる。
道教の法士として、さらに有名なのは、『三国志』で書かれる「諸葛亮孔明(しょかつりょう-こうめい)」だろう。西暦208年「赤壁の戦い」(現在の湖北省咸寧市赤壁市)では、孔明は呉王孫権(そんけん)と手を組み、魏王曹操(そうそう)の数十万の兵と長江で対峙した。孔明は、奇門遁甲(きもんとうこう)という道教秘術を駆使して、突然の逆風を吹かせると、降伏と偽って敵船団に近き火を放って数十万ともいわれる曹操(そうそう)の軍を壊滅させ、奇跡的な逆転勝利をもたらした。小説『三国志演義』にはその手法が記録されているが、それは小説だからだ。道教の秘術は、秘伝とされ実際はその詳細は残されていない。
同じ3世紀の前半の日本では、「卑弥呼(ひみこ)」が「鬼道(きどう)」を使ったと記録されている。(『三国史魏史』)おそらく道教の類なのだろうとされている。卑弥呼の宮殿だったという説がある纏向遺跡(まきむくいせき)の発掘では最近「桃」の種が大量に発見されている。「桃」は道教では魔除けに使われた神の果実だ。飛鳥時代の日本に、道教の思想は一気に流入したはずだ。後の「壬申の乱」で兵士たちに桃を配ったとされる天武天皇が勝利しており、その小高い地は「桃配山」と呼ばれ、約千年後の徳川家康も関ケ原の戦いで、その桃配山に布陣している。
道教は、神仙思想として日本古来の「神道」だったという説を唱える歴史学者もいるが、時代が下って道教思想は消えていったように思える。『古事記』や『日本書紀』さらには古い「おとぎ話」を読むと、なせここで「桃」を投げつけるのか、なぜ「死体から穀物が生まれるのか」、なせ「谷川に流れてきた桃を食べたら、桃太郎が生まれるのか」など、よく考えると理解できない場面が繰り返し登場する。しかし、道教の思想を若干でも理解すると、それなりには理解ができる気がする。道教の知識が当然だった当時は、わざわざ説明する必要がないことだったかもしれないし、秘術ゆえその事情の説明がされなかったかもしれない。後年の仏教・浄土思想に席巻され、道教思想が解釈できなくなってしまうと、単なる伝承として残ていった可能性もある。
※桃太郎は本来は、川を流れた桃から生まれたのではなく、桃を食べて若返り、生気が蘇った2人に子が生まれたのが本来の話とされる。
道教と天皇
道教で「北極星」を意味する「天皇大帝(てんおう たいてい)」と言う言葉がある。これは、日本の「天皇」の語源の最有力候補である。渤海の始祖「太祖」は、初めて「天皇帝」を名乗ったと言われるが、日本では7世紀後半に「天武天皇」が没後に「天皇」と表記された記録が最古とされている。(法隆寺の仏像の光背の記述から、以前は7世紀前半の「推古天皇」とされていた。しかしこの光背は後年の作成と判明しており、現在は否定されている。)
この天皇大帝の神器は「鏡」と「剣」であり、日本の天皇の「三種の神器」のうち2つと一致する。のこりのひとつは、「玉(璧?)」である。天武天皇の、和風諡号(わふうしごう:日本における本来の名)は日本書紀によれば「天渟中原瀛真人(あまの-ぬなはら-おき-の-まひと)」だが、この「瀛(おき)」という字は、前出で「譬谷」と書かれた道教の伝説の三神山のひとつで、竹取物語にも登場する「蓬莱山(ほうらいざん)」のことだ。また最後につく「真人(まひと)」は、道教でいう方士(仙人)の位の名称で、天武天皇が定めた「八色の姓(やくさのかばね)」の最高位の名称でもある。そしてこの「八」も道教の基本数だ。
「八」は道教の基本数だが、「八色の姓」だけでなく、天武・持統天皇陵(御廟野古墳)は、「八角墳」であり、7世紀中ごろからの天皇、舒明天皇、皇極(斉明)天皇、天智天皇などが皆八角墳であることも現在の調査でわかっている。(前方後円墳ではない)現在も天皇が即位の玉座として使う高御座(たかみくら)は「八角形」の構造物で、その天蓋(屋根)には古代中国で王の象徴とされた鳳凰が光る。
同時期の古墳でも発掘された「高松塚古墳(国宝)」や「キトラ古墳」には、天井に天皇の乗り物とされる「北斗七星」が描かれ、北壁に守護神「玄武」が書かれる。北極星は宇宙の中心に位置し、その周りをまわる北斗七星とともに、道教では神格化された存在だ。「玄武」は、蛇と亀に象徴され、道教では「水」を司る「北」の神であり、同時に「智」の神でもある。(玄武と壁谷の関わりは別稿で触れたい。)
※室町時代の神谷(かべや)氏は、北極星・北斗七星信仰(妙見信仰)の「妙見館(神谷館)」館主として平姓千葉氏を支えた。このことは別稿で触れる。
陰陽道、宿曜道、密教、禅宗そして復古神道へ
この天武天皇を壬申の乱で勝利に導いた忠臣に、「坂上熊毛」「坂上大国」らがいた。「坂上田村麻呂(さかのうえ たむらまろ)」はその曾孫(ひまご)といわれる。この坂上氏をさらに遡ると、中国漢王朝「霊帝」の血筋とされているがこれは桓武天皇の時代に行われた後世の潤色であり、実際は(『渡来氏族の謎』による)日本にきてからは武人として蘇我氏に仕えた「東漢(やまとのあや)」氏に至る。蘇我氏を始め、当時の大豪族や朝廷を守ったこれらの武人・軍師らも、道教の影響を強く受けていた可能性が非常に高いと思われる。
中国では唐の時代になると、皇帝と、始祖「老子」の姓が、唐の皇帝と同じ「李」姓だったこともあり道教は厚遇された。しかし浄土教が広がっていくと、道教・神仙思想の影は薄くなっていき、新たに仏教が力をつけてくることになる。その流れは奈良・平安時代の日本にも、確実に押し寄せてくることになった。中央では仏教(とくに密教)が力をつける一方井で、道教の流れは地方に浸透していった。
その後の日本では、桓武天皇の時代に蝦夷征伐があり、前九年・後三年の役、藤原純友の乱、平将門の乱(承平天慶の乱)、保元の乱、平治の乱、平氏の滅亡、奥州藤原維の滅亡、源氏直系の断絶、さらには戦国時代。こういった生き残り合戦の中で、滅亡していく同族たちを目の当たりにした武士たちは、特に道教の「不死」「再生」の象徴である「谷」に憧れたかもしれない。
平安末期の平将門(たいらのまさかど)の乱以降、関東は平氏の勢力が大きく伸び、鎌倉幕府の御家人として繁栄した。この時期、関東の平氏一族には「谷」がつく氏が、多数発生していることが、多くの系図から実際に確認できる。特記すべきは、この時期の武士と、北極星の「北辰」、北斗七星の「北辰信仰」との関りだ。将門の乱以降、平家の武家に北斗七星の「曜(星)」を表現した「家紋」が多数発生する。現在確認できる「壁谷」の家紋も何種類かあるのだが、それぞれに「星」、そしてわずかだが「桃」(梅)の影響が見られるようだ。
古代日本では祖霊(先祖から代々続く霊)と神は一体で、そしてそれは自分の体にも入っているもの(魂)だった。そのため鎮魂(たましずめ)が重要だった。養老神祇令では、冬至のころ仲冬の寅の日に鎮魂祭が定められていた。魂が遊離しないように天皇の中に納め、長寿を祈った祭りである。しかし、仏教、とくに浄土教による、個人個人が極楽浄土に往生するという考えは、この考えを変えていった可能性があり、祖先から受け継いだはすの「自らの霊魂」を、祖先や子孫との繋がりと解放した。祖先と一体化していた「神」の価値も、著しく低下していった可能性がある。
その裏で、本来の道教は日本で独自の発展を遂げていった。「役小角(えんのおづの)」で代表される 山岳修行の「修験道(しゅげんどう)」、「安倍晴明(あべのせいめい)」で代表される「陰陽道(おんみょうどう)」、弘法大師空海、最澄をはじめとする「密教」「宿曜道(すくようどう)」、平将門をはじめとする武士による「北斗信仰」などに変化する。平安後期に武家が興隆すると、戦いに勝つため、あるいは自らを守るため子孫繁栄のため、そして平和な江戸時代になると、儒教・朱子学の振興があり道教の知識は極めて重宝された。
漢学を学べば、中四書五経の「易経」などで道教思想を自然と身に着けたろう。北斗信仰と神仏習合したものは「妙見菩薩信(みょうけんぼさつ、みょうけん)信仰」、にもなり、一方で他力本願(仏様が誰でも救ってくれる)が大衆に迎合された「浄土真宗」で大きく広まった。室町時代以降武家で広まる禅宗の「曹洞宗」「臨済宗」などでは、五穀絶ち(辟穀)や座禅を重視するなど厳しい修行を重視し、武士道の思想と合致したことで、武士に幅広く受け入れられいった。各地に存在する庚申塔も、道教を起源とする「庚申信仰」である。
道教や陰陽道の思想は、鎌倉時代の重視され出兵の日時や、方角もこれによって決めていた記録が鎌倉幕府の公式な記録『吾妻鏡』に残る。笠智山や吉野など修験道にこもった後醍醐天皇も修験道をマスターしていたと言われ、密教を利用して足利氏を悩ました。徳川家康も天海(てんかい)や金地院崇伝(こんちいんすでん)を使い密教や道教の思想を駆使して江戸を守った。その後、徳川光圀の大日本史の編纂に始まる水戸学、国学者・本居宣長(もとおりのりなが)の古事記伝、平田篤胤(ひらたあつたね)に始まる復古神道などから、古神道が見直され(復古神道)、そこから尊王攘夷、そして討幕にも繋がった。
江戸時代末期の大橋訥庵(おおはし とつあん)が書いた『闢邪小言(へきじゃしょうげん)』は幕末尊皇論の代表的な著作として知られ、安政のころ相当に売れたて軍資金を稼いだともされる。「辟邪」は当時の尊王攘夷論者の間で知られる言葉であったことは間違いない。その後大橋は老中安藤信正の殺害を狙った「坂下門外の変」で主導的な役割を果たし、投獄されている。
生き残り続けた道教の基本思想は、現在もその名残をみせている。いすれも奇数(陰数)を基準とする冠婚葬祭の基本数は、道教の陰陽思想によるものだ。正月の「御屠蘇(おとそ)」、七五三の「桃の節句(流し雛)」、「端午(たんご)の節句」、「七夕」、「お中元」などの習慣、「占星術」「風水」といった占いの類、曜日の七曜「月火水木金土 日」は「六曜」に基づく。そして最近は滅多に見ることがなくなった「藁(わら)人形」や「てるてる坊主」も道教の秘術に根源があるとされる。
※「桃」は道教で「辟邪」の効果があるとされ「無邪気」と子供の人形遊びが結びつき、平安時代からの変遷をうけて江戸時代以降に女の子の節句(桃の節句)と繋がったとの説がある。
今後整理すべき課題
1)「辟」には多数の意味があり、東京学芸大学の同窓会である「辟雍会」のHPでは大漢和辞典を引いて「辟」には56通りもの意味があるとしている。その一方で、この「辟」を一部にもつ漢字も相当多数あり、いったいどれだけあるかもわからない。古代表記に使われ現在は使えない文字も多い。筆者があちこちから抽出し、現在パソコンでも表示することのできる文字だけでも、100文字程度あった。
筆者が抽出した「辟」を含む100文字
鼊鸊鷿霹闢鐾鐴避躃譬 襞蘗薜薜臂繴糪礕礔癖
甓璧澼檘檗擘擗憵廦幦 孹嬖壁壀噼噼噼劈僻䴙
䢃䡶𫕶𪸌䑀𪇊䌟𩼢𩼎𩪧 𩁊䁹𨐽𨐴𨐯𨐬𨐨𨐢𧾑𧲜𧲉𧞃𧕀𧓄𧄀𧂸𦡜㵨𦍁𦌠 𦈞𥴬㱸𥗲𤴣𤩹𤢣𤗺𤖟𤐙
𤃎𣩩𣦢㠔𢹐𢸵𢕾𢐦𢋶𡾤 𠮃𠫀𠪮𠙱𠒱㱸䑀繴䌟闢
未整理の物を以下に示してみる。「辟」に「米」をつけると「糪」となる。仏教書の『章疏』に「米飯半腥半熟名糪」とある。『論語』には「云失飪不食」とある。何を意味するか『説文解字』を引くと「炊。句。米者謂之糪。炊謂飯與鬻也。」とあり、要するに、我々が普段食している、炊いた米のことだ。
「辟」と「口」で「噼」とすれば、破裂音を伴った声音を意味するようだ。禅における「喝」と繋がるところがあるのかもしれない。『集韻』には「匹歷切,同霹。」とあり、雷の音そのものともしれいる。
「嬖」は、宠爱すなわち日本語でいう「寵愛」を意味する。皇帝・君主の臣下に用いられる例が示されており『説文開字』では寵愛される小心者の倭臣を「便嬖:君主左右受宠幸的小臣」「嬖御:宠幸。受宠幸的姬妾、侍臣。嬖人:嬖人意同嬖臣,一般指官僚士大夫的宠幸。即上面的强者对下面的弱者」などと説明している。
中国語が理解できない部分があり正確ではないが、「䌟」は「絹糸で織った帯状の紐」、が「鐾」には「切れ味の鋭い先のとがった鉄板」、「繴」には「鳥獣や魚を採る網・罠」などであり、他にも「辟」から派生する時のバリエーションは数えきれないほど多数あり、その意味もいろいろである。
ただし名字となった場合は「王から与えられる」という意味で、良い意味で使われることが一般的だろう。特に日本では養老の「好字二字令」が出て以来悪字は地名(すなわち名字)には使われなくなている。臣下に懲罰の意味を込めて悪名を与えた「別部穢麻呂」などの例がある(『続日本紀』『日本後期』による)が、このような名が子孫に引き継がれることは一般に考えられない。
2)老子(第三十九章)にも次のように「谷」が出てくるところがある。
昔の一を得たる者は、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、神はを一を得て以って靈(くすし)く、谷は一を得て以て盈(み)ち、萬物は一を得て以て生じ、侯王は一を得て以て天下の貞と爲る。
其れ之を致すや、天は清きこと已(や)む無からば、将(は)た恐らくは裂けんと謂う。地は寧(やす)きこと已む無からば、将た恐らくは發(くず)れんと謂う。神は靈きここと已む無からば、将た恐らくは歇(や)まんと謂う。谷は盈(み)つること已む無からば、将た恐らくは竭(つ)きんと謂う。萬物は生すること已む無からば、将た恐らくは滅びんと謂う。侯王は貴高たること已む無からば、将た恐らくは叛(たお)れんと謂う。(第三十九章)
現代語訳
古(いにしえ)よりこのかた一を得たものは、天は一を得て清らかに、地は一を得て安らに、神は一を得て霊妙に、谷は一を得て水が満ち、万物は一を得て生まれ、王侯は一を得て天下の長となった。そういうことであるから、天はずっと清いままでいようとすれば裂けてしまうと思われるし、地はずっと安らかであろうとすれば崩れてしまうと思われるし、神はずっと霊妙なままであろうとすれば動きがやんでしまうとおもわれるし、谷はずっと満ちたままであろうとすれば枯れてしまうと思われるし、万物はずっと生まれるばかりであろうとすれば滅びてしまうだろうし、王侯はずっと高貴なままであろうとすれば倒れてしまうと思われる。
その他
以道佐人主者、不「谷」以兵強於天下(楚簡甲本第一篇)
聖人「谷」不「谷」、不貴難得之貨(楚簡丙本第四篇)
※『楚簡』は、紀元前300年ごろの遺跡から発見されたもので、甲、乙、丙の3巻の竹簡である。たとえば甲本は39本の竹簡で構成される。その内容は老子の当初の原本を伝える可能性が高いと研究者に評価されている。ここでは「谷」は「欲」の借字(代用文字)にも使われている。
3)「辟」は頭骨をも意味する。古代インドやチベット仏教において、人骨を加工して数珠や盃など数々の神聖なる神具として使われたKapala(カパーラ)があった。とくにインド密教では頭骨を使ったKapalaの盃を、髑髏杯とも書く。
インド密教の荼枳尼(だきに)は、日本で稲荷と習合すると日本の密教に多大な影響を与えた。この髑髏杯を持った荼枳尼(だきに)は、すさまじい法力を発揮するとされ鎌倉・室町期に、南北朝の頃に大きな影響を与えていたことが『太平記』などの記述から推測できる。『信長公記』には織田信長が、浅井・朝倉の髑髏に金箔を張って示したという記録があるが、江戸時代の『浅井三台記』には信長が髑髏杯にしたとも記録される。江戸時代にも荼枳尼の法力が語り継がれていた可能性があろう。
現在は商売繁盛などを願う参拝客で賑わう愛知県の豊川稲荷は、この荼枳尼を本尊とする。稲荷神社ではなく実は曹洞宗の寺院である。室町末期に今川氏によって創建されたと伝えられるが、その周辺には壁谷が多数居住している。当時の密教において崇められた荼枳尼との関係は、愛知県に壁谷が多く居住する理由の一つを物語る可能性がある。
参考文献
- 『楚簡』
- 『論衡』王充
- 『漢非子』
- 『基本字义』
- 『集韻』
- 『释名』
- 『正字通』
- 『説文解字』
- 『洪武正韵』是明太祖洪武八年(1375年)
- 『史記:五帝本紀』巻一「舜帝」
- 『沖虚子徳真経四解』
- 『医宗金鑑』
- 『三国志演義』
- 『佛祖統紀』天台宗の解説書。南宋 僧志磐、咸淳5年(1269年)全54巻。
- 『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後期』
- 『長安志』『後漢書』『隋書』『新唐書』
- 『懐風藻』
- 『新撰姓氏録』
- 『易経』(上)岩波文庫 高田真治・後藤基巳訳 1969
- 『老子』岩波文庫 蜂谷邦夫 2008年
- 『荘子』第一冊(内篇)岩波文庫 金谷治 訳注 1971
- 『老子・荘子』森 三樹三郎 講談社学術文庫 1994
- 『無量寿経優婆提舎願生偈註』浄土宗
- 『新撰姓氏録』弘仁6年(815年)
- 『風水の本』学研
- 『渡来氏族の謎』祥伝社 加藤健吉 2017
- 『世界史』(上)ウイリアム・H・マクニール 増田義郎/佐々木昭夫 訳 中公文庫2008
- 『「懐風藻」山林隠逸詩から「古今集」「山里」歌へ』田云明 名古屋大学 国文学研究資料館学術情報リポジトリ
- 『殷周金文集成』中国社会科学院考古研究所
- 『西周王権と王畿内大族の動向について』谷秀樹 立命館大学 2010
- 『東京学芸大学 辟雍会』HP 2018
0コメント