8. 天智 天武 聖武 桓武 将門(覚書)

古代にさかのぼると資料が少なく、抽象的になる。古伝承はすこしづつ変遷していく。しかし、複数の古資料を細かく追及して比較すると、本来の面影が見え隠れしている可能性がある。そこから論理的に導き出された推測を、さらに他の資料で補強・検証していく。これが古代研究の楽しさである。筆者は、有史以前の日本古代王朝の勢力争いと、それぞれに引きづられた各氏族について、その悠久の流れを市井にて自己流に調べることを趣味としている。


本稿は、その中で壁谷に関わってくる可能性があるとも考えられる古代日本の情報を、独断と偏見で覚え書きとし、ひたすら筆者自らのためだけに、書き残すものである。現段階で何ら説明を加える予定はない。情報や出典は記憶に基づき不正確でもある。混乱や間違いは当然あると思われ、細かい検証はおいおい目指したい。本稿をもし、これから先読む人があらば、あらかじめご容赦ねがいたい。


・以下筆者のための単なる覚え書き


  • 秋田、山形、福島、東北の縄文時代遺跡で多数発掘されてる、「石」の遺跡群。
  •  大湯環状列石、一本木後ロ遺跡。日時計の形状をするが墓と判明。
  •  三内丸山遺跡。大人の墓が同一方向に整列し、道路も作成。
  • 古墳時代以前から日本に存在したと言われる、先祖の霊(祖霊)が、天から子孫を守る伝承
  • ‐古代道教、神道でいう、霊と神の同一化
  • ‐祖霊が体内に入ると人間になる。魂の蘇り思想。「朱子」のいう魂魄の概念。
  • ‐鎮魂帰神(たましずめ、ちんこんきしん)と座禅


  • 大国主命(おおくにぬしのみこと)と、越(福井)の沼川姫(ぬまかわひめ)
    • その子が、建御名方命と咲田姫。
    • 二人の別名は、辟田彦(さきたひこ)と辟田姫(さきたひめ)
    • 建御名方命は、建御雷神に敗れて諏訪神社(関東)に逃れていた。
    • 辟田彦・辟田姫伝説と杉原神社。
    • 蘇我馬子らが作った『天皇記』『国記』は『日本書紀』の土台か。
  • 第10代崇神天皇女で巫女「倭姫(やまとひめ)」の「倭(わ)」と「姫(き)」
  • 第11代垂仁天皇と能見宿祢(のみのすくね)、古墳や埴輪を作った土師氏(はじし)
  • 垂仁天皇時代の意富加羅国の王子「敦賀(つるが)」の由来か。富山、福井、山城
  • 「越」の人、継体天皇。
  • 主都奴加阿羅志等(つぬがあらしと)の子孫 「辟田首(さきたのおびと)」『新撰姓氏録』
  • 『日本書紀』の記述は獅子舞か、豆まきか。
  • 獅子舞「伎楽の舞」と聖徳太子の強い関係。
  • 『日本書紀』では伎楽の舞を伝えたのは「辟田首」の祖先
  • 奈良大仏開眼でも披露された伎楽が、なぜ後世に卑俗とされたのか。
  • 「呉に学びて伎楽の儛を得たり。則ち桜井に安置らしめ(略)大市首辟田首等が祖なり。」
  • 大和桜井(飛鳥)の辟田氏と雷、桃と六曜、辟田彦(さくたひこ)
  • 天孫降臨に関わる猿田彦との関係。
  • 辟田は「田が咲く(穂が実る)」古来「雷」の役目。
  • 辟田は「田を闢(開)く」開拓すること。武力征服を意味する。「劈」古語つみさくhとは手で植物などを裂くこと
  • 辟田の「朔」とは、太陽と月の黄がひとしくなる時。つまり新月のとき。
  • 『東日流外三郡誌(つるがそとさんぐんし)』と敦賀(つるが)。登場する猿田彦
  • 正倉院文書にのこされる秦田の「避秦」氏、大避神社
  • 古事記・日本書紀にともに登場する会津
  • 21代雄略天皇を待ち続けた三輪山引田(ひけた)の赤猪子(あかいこ)、会津赤べこ、
  • 三輪山(おおみは)、三輪居(みはゐ)、三春(みはる)。奥州三春藩に仕えた三輪氏
  • 安閑天皇・欽明天皇の時代の二朝『百済本記』『元興寺縁起』『上宮聖徳法皇帝説』
  • 猿女(さるめの)中臣、藤原へ『古語拾遺』 男、猿田彦は追い出される
  • 三輪の神は、出雲に伊勢に。後世に伊勢神宮そして、熱田、鹿島、香取、諏訪へ。


  • 祖先の墓が、子孫繁栄を生む 風水の陰宅思想。
  • 墳墓破壊を制止された、第23代顕宗(けんぞう)天皇。(古事記)
  • 蝦夷(えぞ)との交流が記録される、蘇我蝦夷(そがのえみし)(上宮聖徳法王帝説)
  • 東漢(やまとのあや)氏と蝦夷の強い協力関係。蘇我氏の拠点、桜井。
  • 蘇我馬子の墓とされる「石舞台古墳」は、なぜ盛り土が削られているのか。
  • 蘇我馬子の子、蝦夷(豊浦大臣)の墓は未発見(日本書紀には、存在が記述されている)
  •  - 2017年3月 蝦夷が住んでい豊浦の地域に、最大級の未知の古墳が発見。
  •  - なせ新品の古墳が埋められたか?馬子の古墳の盛り土で埋めたのか?。
  •  - 蘇我氏は方墳。未知の古墳も方墳と推測されている。
  • 秦河勝と聖徳太子の深い関係
  • 法興寺(飛鳥寺)・法隆寺(斑鳩寺)、大海皇子と中大兄皇子の争い
  • 中大兄皇子の娘がなぜ4人も大海皇子に嫁いでいるのか。うち一人が持統天皇。
  • 皇極、斉明天皇(重祚)が築いた、飛鳥の「石群」。(一部が現存している)
  • -「水」をつかった道教の儀式が行われたとの推測
  • -「水」は、道教では谷とならび「生」と「守り」の根源。対するのは「火」
  • ‐ 亀石がときどき向きをかえた伝説。亀は、防御の「殻虫」つまり「玄武」。
  • 「壁宿」は風水玄武にあり、皇嗣(跡継ぎ)を守護し、学問を教え農耕を支える。
  • -斉明天皇の墓が有力とされる「牽牛子塚古墳」も風水八角墳。(宮内庁の比定は別地)


  • 乙巳の変 (大化の改新)を目撃した古人大兄皇子(ふるひとおおえ:中大兄皇子の異母兄)
  • 『日本書紀』には「中大兄」とかかれ「皇子」とかかれていない。
  • -「韓人(からひと)が鞍作(蘇我入鹿)を殺した。」『日本書紀』の記述の真意。
  • - 出家し吉野に隠遁した「古人大兄皇子」を抹殺した中大兄。
  • -「百済(くだら)」が滅び、多数の王族が日本に逃げ、何度も復興を図り失敗した事実。
  • 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の実名はわからない?
  • -「大兄皇子」は皇太子候補の一般名「中」は、単に2番目、準という程の意味か。
  • 実力者だったはずの中大兄皇子が、天皇になるのに数十年を要した理由。
  • 天智の和風諡号は「天命開別(あめみこと-ひらかす-わけ)尊」

  • 王朝交代説なら天智は河内王朝「ワケ王朝」、天武は継体王朝系なのか

  • 天智が見捨てた、孝徳天皇のおくりな(後年つけられた漢字の名前)の深意。
  • ‐ 古代天皇家に多数見られる「孝」と、苦難に滅んだ「徳」の字。
  • 天智の都は、なぜ大津なのか。船で「山科」(やましな)日本海に。
  • 日本書紀では病死とされる天智天皇。じつは山中で暗殺。(扶桑略記)
  • 「山科」(やましな)の山中に離れてポツンとある、天智天皇陵。


  • 中臣鎌足の落馬事故と、東大に残る鎌足とされるレントゲン写真の検証結果の一致。
  • 天智の後継ぎと決まり藤原氏も支援した大友皇子が、壬申の乱で大敗した理由。
  • 天智天皇とおくりなしたのは大友皇子の後裔、淡海三船(おうみのみふね)
  • ‐ 殷の稀代の悪王「紂王」が持った「天智玉」。王権を継ぐ玉(霊)の伝説。
  • 浄土教の極楽浄土がもたらした、霊と神の分離


  • 壬申の乱に勝った天武天皇の名は、「大海(おおあまの)皇子」。
  • 乙巳の変 (大化の改新)で、大海皇子が全く蚊帳の外だった不思議。
  • 尾張平野(尾張・三河)に存在した、大海(おおあま)氏と皇族。
  • 日本神話に残る、海彦と山彦の争いが繰り返された歴史。三河尾張と山城。


  • 大海氏は後の尾張氏。海神族。七曜、六梅星との関係。
  • 尾張氏の「熱田神宮」には、現在も三種の神器「草薙の剣」がある。
  • 天武が壬申の乱に勝った背景は、尾張、関東(東北)の強大で日本古来の武力だった。
  • 天武が目指した、神道、道教の復活。聖徳太子の仏教徒との融合。
  • 天武の時代の蘇我安麿の活躍。


  • 「吉野の誓い」を破り、消された天武が決めた跡つぎたち(可能性が高い)。
  • 壬申の乱で壊滅的打撃を受けた鎌足の子孫、一方で生き残った不比等とその暗躍。
  • 持統は天智の実娘。不比等は天智の落胤。その噂が生み出した皇統。
  • 鎌足や不比等が学んだ「六韜(りくとう)」が説く、陰に潜み戦わずして勝つ。
  • 律令で大和以来の集団体制からの脱却、天皇権力の剥奪を目指した不比等。
  • 魂(こん)も魄(ぱく)も抜かれた初めての天皇だった持統


  • 天武直系を避け自らを含め3人の女帝で繋いだ天武の妻持統は天智の実子。
  • 持統の直系の男王、文武天皇(もんむてんのう)の短命と、竹取物語が語るもの。
  • 藤原氏と女帝 元正天皇(げんしょうてんおう)
  • - 陰陽道が決めた「臣下が良いと言うから(奈良)遷都する」詔(みことのり)
  • - 実は北の玄武がなく、青龍、白虎が強い。臣下が繁栄する都、奈良。
  • 無実の罪だと「日本後紀」も認めた、天武の正統な後継者 長屋王(長尾王の変)
  • 藤原仲麻呂が書き残した、天才の蘇我入鹿に勝てなかった天智と鎌足(藤家家伝)
  • 仲麻呂(藤原南家)に協力した蘇我氏の一族。
  • 最高権力者藤原仲麻呂の失脚と、渤海と唐(藤原仲麻呂の乱)
  • 生母宮子が幽閉され、出家した聖武天皇、心の変化と不自然なその行動。


  • 古式の陰陽道に精通した、吉備真備と聖武天皇と光明子。
  • 藤原氏の横暴の反省にたった、光明皇后(藤原光明子)の慈善活動や神社仏閣の再興。
  • 東漢と坂上(神)、物部と石上(神)、秦氏と壁谷
  • 東漢氏の漢部(あやべ/かんべ)から発展した壁、可部の名字
  • 天武系を最終的に抹殺した、藤原百川(ももかわ)と光仁天皇(こうにんてんのう)。
  • 光仁-桓武天皇は、壬申の乱で敗れ去った、天智天皇の直系の生き残り。
  • 桓武天皇の後の皇后、高野新笠(たかのにいがさ)は百済王族の直系子孫。
  • ヤハタ神の出家、八幡大菩薩は聖武天皇の祟りの恐れ(八幡宇佐宮御託宣)
  • 「嘘が書いてある」と古事記を隠匿し、おそらく日本書紀も書き換えた、桓武天皇。
  • 早良親王の祟り、生母高野新笠、皇后藤原乙牟漏の死、藤原種継暗殺。
  • 遷都で旧来政治から逃げようとした桓武天皇。


  • 実は蝦夷征伐でない。征夷大将軍 坂上田村麻呂。
  • 田村麻呂が希望した蝦夷「アテルイ」との和解を、完全に抹殺した桓武天皇。
  • 田村麻呂は東漢氏の一族、代々蘇我、天武系に恩顧があった。
  • 伊達家に残る、田村麻呂の子が鶴に育てられた伝説。
  • 田村麻呂伝説と、日本尊(やまとたける)伝説の不思議な一致


  • 平安京からみて、蝦夷が鬼門。
  • 蝦夷への入り口にあって、京を守る道教(陰陽道、北斗信仰)の武士団の必要性。
  • 雷は「神鳴り」、「神成」。道教の方術の「雷術」は悪を一撃で倒す。
  • 大極殿を炎上させた「雷」「火」、道教風水でそれに克つ「水」


  • 病に倒れる桓武天皇。高野新笠
  • 神を恐れ平城京へ戻そうとした息子、平城天皇。
  • 道教では、桃、スモモ、梅は悪を封じる。
  • 菅原道真の庭に「梅」があったことにされた理由。(梅鉢紋は後の伝説。)


  • ここまで来るな「勿来(なこそ)の関」は福島の「勿来」となりは神谷(かべや)
  • 壬申の乱以降、何度も反乱の聖地となった、吉野の里


  • 新皇と称した、桓武天皇「五世の孫」、平将門(たいらのまさかど)
  • 「五世の孫」が、天皇位を継いだ前例、第26代継体天皇。
  • 将門を新皇としたのは、「八幡大菩薩」に神がかりした巫女の託宣。
  • 託宣では将門の新皇の「位記」は亡き「菅原道真」が授けたとされた。
  • 将門をとりまく、天神、北辰、北斗七星。「谷」のつく平家一族。


  • 将門の首塚、なぜ首だけが、将門の領地のはるか「南」の地にあるか?(実は移された)
  • 入鹿の首塚との奇妙な一致。
  • 昭和期の戦後も、何度も繰り返し起きた、将門の祟り。
  • 現在も、守られ、信仰される、将門の首塚。
  • 奥羽合戦で勝利した、源頼朝の実母は、尾張の熱田神宮の神官の娘。
  • 須賀川二階堂氏の祖も「草薙の剣」がある、尾張熱田神宮神官の娘。


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。