7. 松明あかしと須賀川士族 壁谷
福島県須賀川市の「松明あかし(たいまつあかし)」は、須賀川城主だった「二階堂氏」の最後の戦いの弔いが始まりとされ、それから400年続くともされる。この地の壁谷も、同じように続けている仕事があったと言われている事を、どれだけの人が知っているだろうか。
「日本三大火祭り」のひとつともされ、長さ10メートル、重さ3トンもの巨大な「松明(たいまつ)」30本が市内を練り歩く。それらが会場に終結すると一斉に灯がともされる。火の粉が舞い散り夜空を焼き尽くすこの壮大な祭りは、TVでも何度か全国放映されており、記憶にある人もいるかもしれない。会場となるのは、東京ドームの7倍の規模を誇る「翠ヶ丘(みどりがおか)公園」だ。
※日本三奇祭(大火祭り)とされ同じく400年以上続くとされる「富士吉田の火祭り」(国指定重要無形文化財)も、遅くても江戸時代中期に深く関わっていた壁谷の記録が確認できる。この点は山梨の壁谷の稿で触れたい。また、同じく日本三大火祭りとされる「能登のキリコ祭り」(石川県指定無形民俗文化財)にも地元の壁谷が関与していた可能性があり現在調査中である。
鎌倉・室町時代の名族 二階堂氏
須賀川一帯は当時岩瀬郡とよばれ、平安時代後半から奥州藤原氏と平姓岩城氏(白土氏)の一族である「岩瀬氏」が治めていた。岩瀬郡は現在の須賀川、郡山、いわき周辺。実は奈良時代初期の養老2年(718年)、陸奥(むつ)国から石背(いわせ)国が分離され、この須賀川の地に国衙(こくが:政庁)が設置された。しかし、再び陸奥国に統合されてしまい、詳細はわからない。そのため石背国は幻の国とも呼ばれる。実は須賀川の地には、飛鳥時代以前に遡る、中央の政府と係わりが深い長い歴史があったのだ。
須賀川は城の名や藩名が頻繁に変わるので、本稿では引用を除き、はるか古代からの名と思われる「須賀川」に統一して表記していく。その後、鎌倉時代初期に源頼朝による奥州合戦(1189年)で奥州藤原氏が滅ぼされると、須賀川の地は栃木出身の長沼氏に恩賞として与えられた。長沼氏は奥州藤原氏と同じ秀郷流藤原氏で、本拠地は鎌倉時代に現在の栃木の地にあった。
※長沼氏は壁谷城(現在の栃木県栃木市柏倉町)を築いている。なお奥州藤原氏と岩崎氏の一族に穎谷氏(のちの神谷氏)がいて、現在のいわき市の神谷(かべや)地区を領していた。これらについては別稿で触れる。
頼朝は平泉にあった藤原氏の「大長寿院」の威容に衝撃を受けたという。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』によれば、そこには高さ五丈(約15m)もの大きさを誇る二階建ての「阿弥陀堂」があり、本尊の阿弥陀像は三丈(約9m)、脇には六丈(約5m)の阿弥陀像が9体安置されていたという。鎌倉に戻った頼朝は、大長寿院を模した「永福寺(ようふくじ)」を「工藤行政」に建てさせた。
その永福寺に二階の大堂があったことから、工藤行政は「二階堂行政」を名乗り以後「ニ階堂滲河守」(三河守)と呼ばれるようになったという。実は二階堂行政と頼朝は、実母が熱田神宮宮司(藤原季範)の妹と娘の関係にあった。そういった事情もあって、鎌倉幕府の執政を司る「政所執事(まんどころ-しつじ)」という要職につき、朝廷との交渉窓口も担していた。行政の孫娘は、第二代執権となった北条義時に嫁ぎ「北条政子」とその権力を争ったともされる。実権を握った北条氏と強い関係を保ち続けた二階堂氏は、代々が鎌倉幕府を支える官僚的な重臣となった。
※二階堂氏(工藤氏)は藤原南家の武智麻呂流(乙麻呂流)の一族で、木工助(朝廷の木工寮の次官)となった藤原為憲が祖である。工藤氏は平安から鎌倉時代に、興福寺を中心に京都・奈良の寺院の維持・修復に深く関わっていた。このころ工藤氏(のちの二階堂氏)と壁谷とは非常に関係が深かったと推測される。二階堂の名前の由来も、通説とは違って大和(現在の奈良県)にあった可能性が高いと筆者は推測している。詳細については今後、奈良法隆寺の壁谷や、鎌倉幕府の勝長寿院(頼朝が作った源氏の菩提寺)、阿蘇(熊本)における壁谷の稿で触れたい。
後に室町幕府を開いた足利氏の祖となる足利義兼(足利家二代)も、同じく生母は熱田神宮宮司(藤原季範)の娘(養女)であり、正妻は北条時政の娘(北条政子の妹)であった。平安末期の三河は伊勢神宮の荘園が多数存在し、鎌倉と京を繋く東西の陸海交通の一大拠点だった。鎌倉時代、北条氏の力を背景にして足利氏と二階堂氏は、駿河・三河に勢力を伸ばした。室町時代になると、三河は足利幕府の直轄領となり、東西交通の要衝として大いに繁栄した。三河からは一色、吉良、細川、今川など有力な足利氏の支族が発している。
※二階堂氏と足利氏が拠点としていた三河(現在の愛知県)の港湾付近は、平安時代から交通の要衝であり、壁谷にとって最も重要な地域だった。現在に至ってもこの地域で最もポピュラーな名字の一つとなっており、形原古城付近を中心に数千人の壁谷が集中して居住している。この地の壁谷には平家の血を引くとの伝承があり、詳しくは別稿で触れる。
建武の親政では、奥州(実際には、常陸など一部関東を含む)は後醍醐天皇の皇子だった義良(のりよし/のりなが)親王と北畠顕家(きたばたけ-あきいえ)に任された。顕家は陸奥守に加え出羽守鎮守府将軍となっている。顕家は1336年に京にも攻め上り新田義貞・楠木正成らと共に足利尊氏を破り、尊氏は京を逃れて北九州まで退却せざるを得なかった。当時の奥州の武士団の強さが想像できよう。実はこのころ、奥州で執政を担当した八名の評定衆のうち、少なくとも二名が二階堂氏であった。さらに、評定奉行を二階堂行朝が、政所執事を二階堂顕行が兼任しており建武政権でも、二階堂氏が有能な行政官としても認められていたことがわかる。
建武政権「奥羽式評定衆」八名(『南北朝』から『元弘日記裏書』による)
冷泉源少将家房(公家)
式部少輔英房(公家)
内蔵權頭入道 元覚(公家)結城上野入道宗弘(藤姓秀郷流 白川結城家)
信濃入道行珍(二階堂行朝 信濃守家:評定奉行、引付衆、政所執事 行珍は法名)
三河前司親脩(結城親朝 藤姓秀郷流白川結城家 元三河守、結城宗広の嫡男)
山城右衛門大夫顕行(二階堂 顕行:政所執事)
伊達右衛門太夫行朝(伊達家第七代当主、のち伊達行宗)
※結城家は長沼氏と同じく、栃木の藤姓秀郷流小山氏の分家。下総国結城(現在の茨木県の西部)を領した結城宗弘は足利尊氏、新田義貞に続き建武の親政、第三の功臣ともされた。現在の福島須賀川を始めとして白川郡・岩崎郡・安積郡そして田村庄などの検断職(軍事警察を司る)を担った。親脩(親朝)はその嫡男だったが、後に北朝側に寝返り、顕家に攻め勝っている。なお伊達行朝は伊達家七代当主であり、のちに伊達行宗と名乗り、『太平記』では伊達入道と記されている。
鎌倉幕府の滅亡時、二階堂氏の多くは北条氏の一族と命運を共にした。しかしその一部は足利尊氏側についたことで室町幕府でも重臣として生き残り、五名で構成される室町幕府の決議機関「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に抜擢され、室町幕府の中枢となる文官として残っている。室町幕府は鎌倉幕府(源氏による武家政権)の再興が旗印であったため、鎌倉幕府の重臣を積極的に採用していた。共に三河を拠点としていた二階堂氏と足利氏の間の関係は深く、また二階堂一族の文官としての能力は高く評価されていたのだろう。
京に幕府を置いた室町幕府は、関東に鎌倉府を設置した。鎌倉府には鎌倉公方がいて、足利尊氏の子だった基氏の子孫が代々継いで関東十か国に加え、陸奥・奥羽を治めた。その鎌倉府の政所(まんどころ)の初代執事に、二階堂時綱がついた。二階堂氏の庶流である駿河守家、山城守家、下野守家、信濃守家などが代々継ぎ、関東でも行政官として強い力を維持していた。須賀川の二階堂氏の歴史を描いた『藤葉栄衰記』によれば、鎌倉公方だった足利持氏のとき、二階堂三河守家(二階堂家の嫡流)が奥州磐瀬郡(岩瀬、つまり現在の須賀川)を永享の乱(1438年)の恩賞として与えられたとされる。
永享の乱は、鎌倉公方と関東管領上杉氏との争いにつけこみ、六代将軍義教(よしのり)が鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)を排除した戦い。関東では二階堂氏も二手に分かれて戦った。最終的には義教側について勝利した二階堂氏本流の二階堂三河守が、その恩賞として須賀川を領することになった。その後、将軍義教は家臣に暗殺され、室町幕府は一気に混迷の時代を迎える。
二階堂氏は、一族を須賀川に代官として派遣し「須賀川城」を作り治めさせていたが、文安5年(1448年)になって二階堂爲氏(ためうじ)が須賀川に下向して居城としたとされる。室町幕府の後半の政変の中で二階堂氏は滅んだが、須賀川に拠点を移した二階堂氏は陸奥守護職となって勢力を伸ばし、後に戦国大名と化した。
二階堂氏と壁谷
二階堂氏は鎌倉幕府の主要な文官として、正史『吾妻鑑』執筆に関与した可能性が高いと指摘されている。(『 吾妻鏡の方法』などによる)現在『吾妻鑑』は、北条本(重要文化財)、吉川本、島津本(国宝)が三大写本とされる。このうち唯一国宝となっているのは島津本だ。それは須賀川の二階堂氏の一族が島津家の重臣にいて、その写本が島津家に伝わったと伝承される。このことは須賀川の二階堂氏の由緒の正しさを裏付けてもいよう。島津家の家伝などによれば、初代となる島津忠久は源頼朝の落胤とされ、だとすれば頼朝の側近だった二階堂氏の一流が、九州の島津荘(当時、日本最大規模の荘園だったとされる)についていった可能性は高い。そしてまさに滅びようとする須賀川の二階堂氏が、祖先に伝わる家宝だったろう『吾妻鑑』をはるか南にいた同族の二階堂氏に託した事情は分かる気がする。
※島津氏は室町時代に薩摩・日向・大隅の三国(現在の鹿児島県・宮崎県)の守護となり、戦国時代には阿蘇市、竜造寺氏などを破り、九州全域を平定していた。別稿で触れるが、豊後街道(現在の大分県)そして阿蘇(現在の熊本県)などに現在も壁谷の古地名が残されている。
江戸時代に幕府が入手した『吾妻鏡』の祖本は室町幕府の重臣だった伊勢氏の一族(小田原の後北条氏)から徳川家に伝わった北条本だった。林羅山らが編集に携わったが、記述に不足も多かった。1650年に、先に示した二階堂家由来の島津本が幕府に献上されたことで、不足する部分を補完することができ完成度を高めて、江戸幕府によって出版された。なお、吉川本は、大内氏の家臣が散逸したものを独自に集めて1522年にまとめ上げたものだ。大内氏が敗れると毛利氏に献上され、その一族吉川家に伝わったものだった。
冒頭でも示したが、実は頼朝の奥州合戦の戦功で須賀川の地は鎌倉幕府の重臣「長沼氏(藤原姓秀郷流小山氏の支族)」に与えられていた。その後の関東の戦乱を避けた長沼氏は須賀川に本拠を移していた。おそらく鎌倉時代の須賀川では、平姓の岩瀬氏と藤姓の長沼氏、この両方の勢力が拮抗していたものと思われる。
※現在の栃木には、長沼氏が作ったとされる壁谷城がある。(現在の栃木市皆川城内町)長沼氏、島津氏らは2代将軍頼家の正室を出し、北条氏によって滅ぼされた比企氏との血縁関係が深い(頼朝の乳母だった比企の尼の一族)点も共通する。
しかし室町時代の二階堂氏の進出によって、長沼氏は須賀川から会津に一時退き、その後再び栃木に戻って皆川氏と称して戦国大名となった。江戸時代には皆川広照が家康・秀忠・家光の三代に仕えている。また家伝に須賀川二階堂氏の一族と伝わる岩瀬氏も三河国寶飯郡(現在の愛知県豊橋市、蒲郡市)に領をもって徳川家臣となった。岩瀬氏は幕末に三俊と讃えられた外国奉行、岩瀬忠震(ただなり)を輩出している。
このように、鎌倉・室町時代を通して三河、栃木、須賀川は接点が多い。いずれも壁谷が局在する地域である。とくに東三河の海浜部(現在の愛知県蒲郡市形原古城)は、壁谷家が日本国内で最も多数居住している、だぐい稀な地である。昭和37年、蒲郡市と合併する時の形原町長も壁谷だった。三河寶飯郡西浦(愛知県蒲郡市)の旧家とされ、江戸末期に平家(平姓)の末裔との家伝が語り継がれていた愛知の壁谷について、別稿で触れている。三河寶飯郡は律令時代、三河の国府があった場所だった。
※鎌倉三大寺院と呼ばれるのは「鶴ヶ丘八幡宮寺」(現在の鶴ヶ丘八幡宮)、「勝長寿院」、「永福寺」の3つだ。このうち頼朝が父の菩提を弔うため建立したのが「勝長寿院」である。その名は奥州平泉の「大長寿院」を意識したかもしれない。鶴ヶ丘八幡の東側に並ぶように建てられ大御堂(おおみどう)と呼ばれていた。本尊は黄金の阿弥陀如来であり、奈良興福寺の仏師であった成朝が製作にあたっている。鎌倉仏師として成朝を継いだのが、あまりにも有名な運慶・快慶らである。頼朝は彼らを使って奈良の東大寺の大仏殿を再建している。これらに工藤(二階堂氏)氏が大きく関わったことは想像に難くない。なお「勝長寿院」と「永福寺」は室町幕府も擁護したが、度重なる火災にあい室町中期までに廃寺となっている。その跡地には、それぞれ大御堂、二階堂の地名が残る。勝長寿院の旧跡は現在も鎌倉の壁谷が護っている。
※鎌倉幕府二代執権、北条義時の妻「伊賀の方」の祖父は二階堂行政、父は伊賀朝光であり、その姉妹は結城朝光(須賀川を領した長沼氏の祖、長沼宗政の弟)の正妻でもあった。伊賀氏は鎌倉初期に政変に巻き込まれ、その一流が現在の福島県いわき市の飯野地区を領した。鎌倉末期には、同じくいわき市の神谷(かべや)氏とともに足利尊尊氏側について中先代の乱を戦って軍功を挙げている。江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』などによれば、伊賀氏は現在のいわきの地から三河(現在の愛知県)に移り、神谷と名乗って家康の側近となったと記録される。いわき市の神谷は鎌倉時代から「かべや」と発音する。この神谷氏については「神谷と壁谷」の稿で触れたい。
戦国時代の興亡
天文10年(1541年)頃、「奥州一の美女」とも噂された平姓岩城(いわき)氏の「久保姫」がいた。当時白河を領していた結城氏(ゆうき:陸奥結城氏、藤姓秀郷流小山氏や長沼氏の支族である)へ嫁入に向かう久保姫の行列が、伊達晴宗(伊達政宗の祖父)に襲撃され、久保姫は一転して晴宗の正室となった。どのような背景があったのかはここでは触れない。奥州の戦国時代を象徴する一局面でもあった。
久保姫は、戦国時代に奥州で名を残した多くの武将や姫の生母となっている。その長男は平姓の名門岩城家の養子となって当主を継いだ「岩城親隆」であり、次男は伊達家当主「伊達輝宗(てるむね)」、四男も陸奥石川郡で源姓石川家の当主「石川昭光」となった。また三男は伊達一門となった留守政景(るすまさかげ)である。
さらに、久保姫の長女だった「阿南姫(おなみひめ)」は、須賀川の二階堂氏の正妻となり、妹の「彦姫」は会津の蘆名(あしな、葦名とも書く)氏、同じく妹の「宝寿院」は常陸の佐竹氏の正妻となっていた。阿南姫、彦姫の二人はそれぞれ、のちに二階堂氏、蘆名氏の命運を握ることになる。また宝寿院が嫁いだ佐竹義重も坂東太郎と呼ばれ関東一の勢力を誇り、後に鬼義重と呼ばれ豊臣六将の一人として戦国に名を轟かせることになる。さらに、久保姫の孫には、これらの奥州の名門大名たちを、ことごとく追い詰めてしまうことになる戦国時代の雄「伊達政宗」がいた。
このように、伊達、相馬、蘆名、田村、二階堂、石川ら、奥州における戦国の雄が複雑な縁戚関係で和合離散を繰り返し牽制しあうなか、越後の上杉の手も伸びて戦乱の渦に巻き込まれていった。奥州に睨みをきかす豊臣秀吉が私闘を禁じた「惣無事令」を出したが、伊達政宗が従わず、また関ヶ原前夜には上杉景勝の軍師直江兼続(なおえかねつぐ)の工作もあったとされる。こうして奥州の争いはいつまでも収まらなかった。
須賀川の二階堂氏は鎌倉・室町幕府を通じて政所に務める文官出身だったこともあり、戦国大名として生き残るには非力だったともされる。当時の須賀川の当主で阿南姫の夫でもあった「二階堂盛義(もりよし)」は隣国の会津藩蘆名(あしな)氏に破れると、自らの嫡男を人質として葦名氏に差し出す羽目となってしまった。しかしその後、蘆名家当主が急逝してしまい、蘆名家先代の正室だった彦姫(久保姫の娘で、阿南姫の妹)が、人質だったはずの二階堂家の嫡男に婿入りするという形で蘆名家を継ぐことになった。これが「葦名盛隆」である。つまり葦名家当主は、実は須賀川の二階堂家の実子という予想外の展開となったのだ。これも久保姫の縁であろうか。こうして二階堂盛義・蘆名盛隆は、実の親子で二階堂・蘆名連合を形成、田村氏の居城も攻め落とすほどの勢いまでに復活した。
しかしその勢いも長続きはしなかった。数年後、蘆名盛隆は暗殺され、その子の亀王丸も痘瘡(ほうそう)で急死、この機を狙った伊達政宗に攻められ葦名氏はあっけなく滅んてしまう。天正14年(1586年)政宗は葦名氏と同盟していた二本松の畠山氏も滅ぼし、次いで正妻「愛姫(めごひめ)」の実家だった田村氏(三春藩)も事実上の傘下とした。このとき田村家再興のため、田村旧臣の多くが伊達氏の家臣となっている。こうして奥州各家の領主・後継ぎが次々と消え、その好機をうまく活かした伊達政宗が奥州(現在の東北地域)で急速に存在感を増していった。
※三春藩主田村清顕に後継ぎはなく愛姫は一人娘だった。愛姫が伊達家に嫁いだのは、先に久保姫が嫁いだのと同じく、政宗との間に生まれた子を田村家の跡取りとするという約束に基づくものだった。田村清顕の祖母や母は伊達家の娘だったこともあろう。愛姫の存命中はこの約束は適わなかったが、江戸時代の初期になって愛姫の孫によって田村家は再興され、岩沼藩(一関藩:岩手県一関市)となっている。
大乗院 最後の戦い
天正12年(1584年)には須賀川の二階堂家でも当主盛義が病死した。次いで後継ぎだった二階堂行親までも亡くなってしまった。行親は一説に13歳とされる。こうして二階堂家までも跡取りを失ってしまった。この機に乗じた伊達政宗は二階堂氏に降伏を求めてきた。このとき須賀川城主となっていたのは久保姫の娘で、すでになき当主盛義の正室だった阿南姫だ。当時は出家し「大乗院(だいじょういん)」と名乗っていた。気丈だったと伝わる大乗院は、たとえ政宗の叔母であろうと今は二階堂家の人間、そう強い覚悟を臣下に語ったという。承久の変での尼将軍「北条政子」を彷彿とさせたかもしれない。感動した家臣たちは、たとえ勝ち目はなくとも伊達政宗に徹底抗戦して、城と運命を共にすることを堅く誓ったと伝わる。
※室町時代の末までは武家では正室の力が大変強く、当主の不在あるいは主亡きあとは、奥と呼ばれる正室ないし生母が政治を左右させるほどの実権を握っていた。(歴史学上は後家家督慣行ともいわれる。このような奥の権力は江戸時代以降に急速に弱まる。)
天正17年(1589年)戦いの火蓋は切って落とされた。伊達政宗が城を包囲し、二階堂勢は城に籠って戦った。佐竹氏、岩城氏、石川氏、白川氏、相馬氏などの援軍によって二階堂氏も善戦したが、かねてから伊達に内通していたとされる二階堂家の家臣「守谷(もりや)俊重」が、風上にあった大寺院「長禄寺(ちょうろくじ)」に火をかけたことで、須賀川城一帯は火の海となった。もはや打つ手はなく、多くの家臣が炎上する須賀川城と運命を共にしたとされる。これを見て家臣と共に自決しようとした大乗院は、家臣の説得を受けて城から脱出した。
佐竹氏、二階堂氏らと組み伊達政宗に徹底抗戦を続けていた「石川昭光」も伊達家の軍門に下り、落城となったあとの須賀川城主を任されることになった。その石川昭光も久保姫の子、大乗院の弟であった。須賀川の地を守らせたのは、伊達政宗が関東方面への最前線の基地として、江戸につながる須賀川街道を重要視したからと思われる。
※石川氏も秀吉の小田原征伐に参陣しなかったことで、奥州仕置きを受け改易された。のちに伊達家家臣となっている。
須賀川城から大乗院を救出したのは、実は二階堂家臣を偽った伊達家の家臣の手引きによるものだった。ひとり生き残った大乗院は、さすがに政宗による引き取りの誘いを断り、兄の子であった「岩城常隆(つねたか)」を頼った。しかし常隆は翌年24歳の若さで早世してしまった。次に妹の子「佐竹義宣」のもとに身を寄せることになった。当時の佐竹氏は徳川、前田、島津、毛利氏、上杉とならんで「豊臣六将」と呼ばれ、常陸(現在の茨木県水戸市)に城を構え強大な勢力を誇っていたのだ。
※常陸の佐竹義宣の父「佐竹義重」はすでに隠居はしていたが、、かつて後北条氏を東西で挟んで三河・駿河を治めていた徳川家康と強い盟友関係にあった。その力が恐れられたことで、改易とならず減封で済んだと推測される。そんな岩城氏に対し、家康の名代として水戸の城の明け渡しを請けたのは先に示した皆川広照だった。この皆川氏は、もと栃木を領していた藤姓長沼氏の一族で、鎌倉中期から室町中期まで須賀川に移り、戦国時代に再び下野(栃木)に戻って皆川を称していた。(長沼氏が作ったとされる壁谷城の遺構は、現在栃木県栃木市皆川城内町にある。)
慶長5年(1600年)には「関ヶ原の戦い」が勃発する。このとき佐竹氏は石田三成側についたことで出羽国に転封とされてしまった。失意の大乗院は岩城氏に同行して出羽に向かう途中、須賀川の地で没したとされる。関ヶ原の2年後の慶長7年(1602年)、大乗院62歳だった。(42歳との記録も残る。)
奥州の各家はお互いの縁戚関係で同盟しては抗争することを繰り返していた。生き残るために必死だったのだろう。現在も田村、会津と須賀川そして栃木などの地に居住している多数の壁谷の祖先が、政宗の侵攻で、一斉に領主を失い地元に取り残されたり、新しい領主の家臣となったりして分散して戦うことを余儀なくされたことが推測される。しかし天正18年(1590年)秀吉の奥州仕置きでは、伊達政宗も、田村、会津、須賀川、安積と、このあたり一帯は、領地を没収されてしまった。おそらくはこれらの家の家臣だった壁谷家の行く末には計り知れない暗雲が立ち込めたに違いない。
江戸幕府が重要視した福島
平安時代の後半から室町時代に至るまで、長年に渡って関東・東北の地を広域を支配していた強大な大名たちは、秀吉や家康の政策で奥地に退くことになった。伊達家が支配していた須賀川の地に、最初に入ったのは、会津城主となった蒲生氏郷の家臣「蒲生郷成(がもうさとなり)」であり、守山城・三春城・須賀川城の三城の城主を歴任していた。この際に三春の旧田村家家臣団と須賀川の旧二階堂家の家臣団で、密接な接触は当然あったと思われる。
その後の須賀川は、家康の六男、松平忠輝が一時領した記録もある。1598年に上杉景勝が会津120万石で領した際は、会津、須賀川、白川(のちの白河)、長沼、守山を領していた。このことは須賀川『長禄寺由緒』でも確認できる。しかし1600年の関ケ原の戦いののち、上杉も転封されてこの地を去る。参考までに、二階堂氏以降の須賀川城主を列記する。
- 天正17年(1589年) 須賀川城陥落。二階堂氏滅亡で石川昭光が城主。
- 天正18年(1590年) 奥州仕置で蒲生氏郷(旧岩城家臣)領、家臣が須賀川城主。
- 慶長 3年(1598年) 上杉景勝が会津に入封。家臣が須賀川城主。
- 慶長 6年(1601年) 蒲生秀行が会津に入封。家臣が須賀川城主。
※翌1602年に大乗院が須賀川で没する。 - 寛永 4年(1627年) 加藤嘉明(豊臣秀吉の賤ヶ岳七本槍)会津入封。
※須賀川は廃城、堀は埋められ跡地には二階堂家臣が町人となって残り宿場町に。 - 元禄13年(1700年) 松平頼隆(長沼藩 現須賀川)松平頼元(守山藩 現郡山)
※ともに水戸藩の支藩。松平頼隆は徳川光圀の弟、頼元は甥にあたる。
関ケ原後には、石高を大きく減らされやむなく家臣を置き去りにして北に去ることになった上杉、佐竹氏、岩城氏、石川氏、白川氏、相馬義氏、田村氏などがいた。こうして多数の家臣が主家を失い、多くが浪人、郷士となって現地に残った。須賀川には、そういった郷士が集まって在郷町ができ、江戸時代は奥州街道屈指の宿場町として栄えた。『図説福島県の歴史』によれば、須賀川は奥州・岩城・棚倉・三春・会津の諸街道が交差する要地で、慶長年間(1596-1615)には須賀川宿がすでに整備されていたとする。毎月三、八の付く日に開かれた六斎市に近隣の人々が集まって賑わいを見せており、各藩の領主米を扱う米問屋や、岩瀬・田村地方で生産されていたたばこ問屋もあったようだ。(たばこは三春藩の専売品だった。)江戸時代の須賀川の町は、商業の中心地として、交通の要衝として、大きく繁栄し、華やかな文化の中心地でもあった。
一方で江戸時代にはいっても、現在の福島県の南部には、もとは伊達氏、米沢の上杉氏などの旧恩ある武士たちが広範囲に取り残された。その旧家の権威も地域で寝強残く残り続けたため、江戸時代中期にいたるまで度重なる擾乱も繰り返された。(後述する)もし東北の奥地に押し込められた雄藩伊達・上杉などの連合軍が現地に取り残された旧臣らと団結して、旧領に押し寄せれば、水戸、宇都宮、忍(おし)、川越などの江戸周辺の小藩で阻止するのは難しかったかもしれない。このため江戸幕府では東北の大大名たちを監視しつつ、奥州の出入り口として守りを固める必要があった。こうして福島の地(会津、白河、須賀川、郡山、田村、いわき)には、幕府に近い親藩・譜代の大名が次々と入封されていった。平和な時代になった元禄以降、次第に領主が固定され、おおむね次のような状態で幕末・維新を迎える。江戸時代の後半には、現在の須賀川市は岩瀬藩・長沼藩・白河藩などに属し、一部は三春藩も領していたようだ。須賀川宿からは、江戸深川に繋がる「江戸街道」があって、東北の多くの藩にとっての玄関口でもあった。
- 会津 会津藩(松平氏、会津藩 親藩、23万石)※保科正之、松平容保が有名。
- 須賀川 岩瀬藩(松平氏、親藩、2万石)※長沼藩ともいう。水戸藩御連枝。
- 郡山 守山藩(松平氏、親藩、2万石)※水戸藩御連枝。
- 白河・須賀川 白河藩(阿部氏のち本田氏、松平氏、譜代、10万石) ※松平定信を輩出。
- 白河 棚倉藩(阿部氏、譜代、6万石) ※老中阿部正外を輩出。
- いわき 磐城平藩(内藤氏、のち安藤氏、譜代、3万石) ※老中安藤信正を輩出。
- いわき 湯長谷藩(内藤氏、譜代、1万4千石)
- いわき 泉藩(内藤氏/板倉氏/本多氏、譜代、1万8千石) ※老中本多忠籌を輩出。
- 田村 三春藩(秋田氏、外様・譜代、5万石) ※「帝鑑の間」詰め、事実上の譜代。
- 福島 福島藩(板倉氏 外様、3万石)
- 伊達 下手渡藩(立花氏、外様、1万石) ※松平陸奥(伊達家)の一族。
- 二本松 二本松藩(丹羽氏、外様、5万石) ※実質的に徳川譜代。
- 相馬 中村藩(相馬氏、外様、6万石)
※湯長谷藩は「ゆながや」と読む。泉藩と湯長谷藩は、当初は磐城平藩主の弟が継いだ支藩であった。
松平氏、安藤氏、内藤氏、本多氏らは家康の直臣もしくは、親藩の出身で、代々が老中や若年寄を始めとした幕府の要職を務めている。白河藩からは寛政改革で有名な松平定信が、安藤藩からは公武合体の中心人物となった安藤信正などがでている。また、会津藩は将軍家光の弟、保科正之(のち松平と名のる)が初代藩主だった。須賀川と郡山を領した松平氏は、ともに水戸藩御連枝(ごれんし)として支藩の扱いで、代々水戸藩主の子弟が藩主となった。二本松の丹羽氏も外様と言いながら、初代藩主が第三代将軍家光の従弟にあたる。(先代の妻が徳川秀忠の正妻「お江与」の妹、報恩院。)
田村の地を領した三春藩は正保2年(1624年)秋田氏が5万5千石で封じられ以後明治まで続く。秋田氏も外様とはいえ、実は徳川家に近い存在だった。初代藩主となった秋田俊季の生母円光院は、父が足利幕府管領家の第十九代当主細川昭元で、かつ母も織田信長の妹「お犬の方」(「お市」の妹)だった。つまり秋田俊季は二代将軍秀忠(正妻が「お市」の子、お江与)と義従弟(いとこ)となり、その子も三代将軍家光と再従弟(またいとこ)となる。そのためか貞享元年(1684年)以降、三春藩秋田家は老中・若年寄も輩出している江戸城「帝鑑の間」に詰めることが許され、外様といえど実質は譜代大名の扱いとされていた。また二代三春藩主の弟も、大名並みともいえる五千石もの大身旗本として三春に領地を持ち、明治まで続く幕臣でもあった。
※三春藩には壁谷家が三家あったことが明治初期の士族名簿にて記録されている。また幕臣と思われる壁谷家も確認されおり、おそらく三春藩秋田家と旗本秋田家で、密接な交流があったものと思われる。
そのほか板倉氏も外様とされるが三河時代からの徳川家の功臣で、立花氏は家康、秀忠二代に側近として仕えていた。相馬氏は妙見伸の神威で鎌倉・室町を通して将軍家の武運を守ってきた平姓千葉氏の末裔でもある。(千葉氏本流は室町後期に勢力を失うが、その生き残りは武蔵に残り、家康によって保護されていたことは別稿で触れる。)
一方で幕府は仙台藩など有力諸藩に将軍の子女を送り込み懐柔もはかった。3代将軍家光の時代には伊達家に松平の姓の使用を認め、伊達藩は以後「松平陸奥」と呼ばれるようになった。しかし4代将軍家綱の時代の御家騒動(伊達騒動)がおきるなど不穏な雰囲気は払拭されす、幕府と伊達藩の駆け引きは続いた。山本周五郎の名作歴史小説「樅の木は残った」(1970年)でNHKの大河ドラマにもなったが、平幹二郎の演じた最後のシーンはあまりに壮絶で今でもはっきり記憶に残っている。
※須賀川では元禄の頃に、談林派の俳人、相楽等躬(さがらとうきゅう)がでており、『奥の細道』では松尾芭蕉はその等躬のもとに数日滞在している。松尾芭蕉はこうして俳句を口実に須賀川を経由して仙台を訪れて探索したとし、芭蕉忍者説の根拠のひとつにもなっている。芭蕉根拠説については、別稿(俳句の宗匠 三春の壁谷)で詳しく触れる。
しかし八代将軍徳川吉宗の時代には、福島県浜通り側のいわき市では、「磐城元文一揆」がおき、農民に磐城平城が包囲され、事実上農民に屈している。一揆の首謀者とされた「壁谷村武左衛門」らは処刑されたが、このような事態を招いた責任を逃れることができず藩主、内藤氏も転封となっている。武士が農民に城を囲まれ降参するような異常事態は、もともとこの地を領していた郷士(岩城氏の旧臣と推測される)が農民を背後から計画的に支援したことで、実現できたことが最近の研究でわかってきている。当時の幕府の対応から、地元に残った旧家の家臣(郷士)の扱いに相当に苦慮していた。その後、江戸後期になると、郷士の不満抑え、あわせて人材不足を補うために、多くが藩士として再雇用されている。
江戸時代に須賀川の地の一部を領したのは白河藩だ。松平定信は八代将軍吉宗の孫で、御三卿筆頭、田安家の出身だったが事情で白河藩の養子とされていた。天明3年(1783年)白河藩主となった定信は、天明の飢饉のあとの適切な対策と藩政改革が高く評価され、天明7年(1787年)15歳で第十一代将軍となった徳川家斉を補佐するため、江戸に招かれて老中首座(筆頭)の地位に付いた。ここから寛政の改革が始まる。須賀川の染め物問屋出身の「亜欧堂田善」は白川藩主松平定信に認められて、江戸に出ると徳川田安家の家臣だった谷文晁に師事し絵師として文化文政期の洋画の確立に功績があったとされる。(この時代は絵師も武家の家臣であり、実は文官も兼ねていた。)多くの例にみられるように、松平定信もこの地須賀川の子飼いの家臣を多数連れて、江戸で寛政の改革に臨んだことは十分予想される。
『藩史大事典』によれば、三春から須賀川までは、「須賀川街道」とよばれ三春藩の支配が及び、その先は江戸街道と呼ばれ、「江戸深川」にある三春藩蔵屋敷に繋がっていた。蔵屋敷では参勤交代で江戸で暮らす秋田家の資金調達のために、三春から大量のコメを送り貯蔵する米蔵である。須賀川は文化・商業の中心地だっただけではなく、会津藩、三春藩、白河藩が江戸へ向かう重要な拠点として、あるいは宿場町として「江戸深川」との間で参勤交代をはじめ毎年多くの行き来があった。さらに須賀川の地にあった守山藩は水戸藩同様に江戸常府(参勤交代がない大名)であったが、そこでも物資の輸送にこの須賀川街道が使われている。会津藩、三春藩、水戸藩、白河藩などの間では、須賀川から江戸深川に至る須賀川街道で、数百年に渡る密接な関係があったことが推測される。
三春藩士には、複数の壁谷の記録が残されている。一方で須賀川街道の一端である江戸深川は、寛政の改革を行った松平定信が隠遁した地としても有名だ。深川霊源寺には、松平定信の墓もある。(詳しくは別稿で触れる)一方で、一ツ橋家の徳川家斉が将軍についた寛政の改革以降に、壁谷の一族が一ツ橋家の家臣として記録が残るようになり、明治初期には元幕臣として静岡藩(明治政府から徳川宗家に与えられた藩)の壁谷家も確認できている。福島懸士族(磐前藩:いわさきはん)の壁谷が、明治政府の官吏としても活躍することは別稿で触れる。おそらくは江戸時代に、須賀川街道沿いを通じて、江戸幕府と壁谷の関係が深まったと思われる。
※別稿で触れるが、一ツ橋藩の勘定(おそらく勘定奉行)壁谷太郎兵衛や壁谷直三郎、そしてのちに尾張藩主となる徳川慶勝の面倒をみた静岡藩貫族士族 壁谷鹿馬(その母 壁谷伊世)が記録される。その他にも明治政府の官吏として福島県士族の壁谷可六、東京府士族の壁谷壽永らが記録され、その著書から勝海舟と交流が推定される三春の俳句の宗匠 壁谷兆左の記録も残る。三春(現在の田村市)、そして隣接する須賀川の壁谷との関係が興味深い。
曹洞宗大寺院 長禄寺と壁谷
長禄寺は「曹洞宗(そうとうしゅう)」の古札である。室町時代の長禄元年(1457年)に二階堂氏が鎌倉から曹洞宗の高僧「月窓(げっそう)」を招いて創建し、二階堂氏の菩提寺とした。その後まもなく第102代後花園天皇の「勅願寺(ちょくがんじ)」とされ、天皇から紫衣(しえ:最高位の僧の証)が下賜された。その後、長禄寺は奥羽(東北地方)だけでなく越後(新潟県)下野(しもつけ:栃木県)も含む130もの末寺(系列の寺)を擁する、東国隋一の大寺院となった。
※後花園天皇(在位1428年- 1464年)は第102代天皇で現在の天皇家の直系の祖先。天皇家の「中興の英主」とされる。足利幕府が傾きだした六代将軍義教から八代将軍義政の時代に天皇家の権威を復活させ、武家政権に強い影響力をもった。それは、室町幕府の内紛が長引いたことが原因だった。それにともない二階堂氏も幕府中枢を逃れ、須賀川に本拠を構えた時期だ。
長禄寺は二階堂氏の最後の戦いで炎上したが、のち再建されている。『陸奥国白河郡の僧録支配の変遷について』によれば、1598年に上杉景勝が会津120万石で領した際、須賀川長禄寺は会津藩に属していたとする。元和3年(1617年)永平寺は奥羽両国(東北全域)について支配するように長禄寺に命じており、室町時代にも長禄寺の高い権威は残っていたようだ。慶安2年(1649年)本多忠義の白河藩入部にともない、長禄寺は白河藩に属するようになった。松平氏がその白河藩を継ぐと、それ以降、長禄寺は白川藩松平氏の支配となった。曹洞宗は、水、龍(蛇)の龍神信仰、山、天狗などの山岳信仰、豊川の稲荷信仰の3つが関係が深く、神仏習合で文殊菩薩とも関係が深い。このことは禅を重んじた白河藩主松平定信に強く影響を及ぼしたと思われる。
※「僧録」は官職の一つで、古代中国で設けられた僧侶の任免などを統括する役目を持つ。日本では建武3年(1336年)足利尊氏によって禅宗(臨済・曹洞両宗)及び律宗を統括した禅律方(ぜんりつがた)が設置され、有力守護が任命されたことに由来する。江戸時代の慶長17年(1612年)には関東僧録司として三か所の寺院に権限を与える一方で、住職は幕府の任命制とした。こうして全国の寺院は幕府が統制を図っており、寺社奉行の支配下にあった。
初代水戸藩主徳川光圀からの「水戸学」は後年の倒幕の思想の引き金になるほど天皇の権威を高めていったこともあり「天皇勅願寺でもあった」長禄寺は、須賀川周辺に強い影響力をもった幕府や須水戸家とって、おそろかに扱えない存在だったろう。長禄寺には、無念の最期を遂げた「大乗院」を始め、代々の二階堂氏の墓があり、また多くの臣下の魂も眠る。また最後の二階堂城主となった「蒲生郷成」の墓もある。おそらく江戸時代には、天皇家の権威や、二階堂一族や旧臣の怨念を恐れが残っていただろう。幕府としても長禄寺と二階堂神社を守り、大乗院や須賀川旧臣の菩提を弔いながらも、この地の監視を緩めない必要性があったことが、推測される。
筆者が得た情報では、この種の役目も担ったと思われるのが、須賀川の壁谷だったという。口伝によれば長禄寺には須賀川城主ともされる立派な墓があり、その周りを膝ほどの高さの小さな石墓が十数個ほど取り囲んでいる。その小さな石墓の一つ一つが、室町時代から続く壁谷家の代々の当主の墓(古墓:ふるはか)と伝わっているという。この伝承が正しければ、壁谷家も約400年以上に渡ってこの墓守を務めてきたことになる。この墓は大乗院のものと伝わる。昭和の時代に壁谷は長禄寺の檀家総代を務めており、戦後には曹洞宗の大本山永平寺に詣で、関係者から特別な歓待を受けたという話も残されている。時が許せばのちのち追記したい。
※室町時代は墓は個人ごとに小さいものが建てられて、並べられた。現在のような先祖代々の墓というような形になったのは江戸中期以降になる。2011年の大震災で、須賀川城主の墓や壁谷の古墓群の多くが倒壊した。「震災被害復旧事業」で、周辺は整備されて、須賀川城主の墓は基壇と枠を設けて新たな場所に納められた。しかし城主の墓の周りを取り囲んでいた壁谷の古墓群は、すべて撤去破棄され、残念ながら現在は存在しないという話を聞いている。
須賀川城落城の際の戦いの記録はかなり詳細に残されているが、その中に壁谷氏の記録は確認できない。また二階堂家の資料の中に守谷氏や円谷氏がいた記録は確認できているが、壁谷氏がいた記録は今のところ確認できていない。壁谷は二階堂家の家臣団にいなかった可能性もあるがはっきりしない。鎌倉時代に須賀川を領した藤姓長沼氏(鎌倉幕府の重臣で、栃木に本拠地があり、鎌倉時代初期の奥州合戦の恩賞で須賀川の地を得ていた。)が室町中期に栃木に戻っている。このことから、壁谷氏は須賀川で長沼氏の家臣だった可能性もあるだろう。
※阿南姫の「大乗院」という名は、摂関家や将軍家の子弟が門跡を務めた奈良興福寺の名門門跡の名でもある。藤原氏出身の二階堂家にあって、このような名を名乗れたのも二階堂氏が藤原氏の血を引く鎌倉幕府以来の名門家だったからかもしれない。水戸藩の影響が強い須賀川では、摂関家の流れを類推させる大乗院の名は大変重かったはずだ。なお、藤原氏の門跡を引く大乗院の名は、実は栃木県小山(おやま)市にもある。(この地を領していた小山氏は既に説明した。藤原氏の秀郷流の名門家であり、鎌倉中期から室町期に須賀川に拠点を移していた長沼氏の一族だった。)
二階堂氏の滅亡後、常陸にあって大乗院を庇護し続けた源姓佐竹氏の家臣に壁谷がいた可能性もあろう。一時期須賀川城主となった蒲生郷成の家臣だった可能性もある。他にも江戸時代の三春藩には、少なくとも三家の壁谷氏が存在していたことが記録から確認ができており、実際に江戸時代の後半は三春藩の支配は須賀川の地にも及んでいた。その一方で、長禄寺は江戸初期の慶安2年(1649年)から長く白河藩の支配にあった。
奈良の法隆寺も平安・鎌倉時代には興福寺の傘下(法隆寺別当は興福寺別当が兼任した)となって藤原氏の支配下にあった。奈良の壁谷も、興福寺の強い影響下で法隆寺を代々守ってきた伝承が残っており、奈良の壁谷の稿で触れる予定だ。鎌倉の壁谷も鎌倉時代初期に頼朝が建てた勝長寿院の旧跡を護って来た。これらのことから須賀川の壁谷は、一時は東国一とも言われた長禄寺そのものを護る役目を持たされ、江戸時代に三春藩もしくは白川藩松平家の家臣となり、その後は須賀川城主の墓を護ることも仕事のひとつだった可能性が高いと筆者は推測している。
すくなくとも元禄のころから、須賀川や郡山の地域は、徳川御三家(水戸藩)、もしくは白河藩松平家による幕府直轄(天領)に近い扱いになった。幕府が監視の目を光らせていたはずのこの地で、旧勢力を弔う松明あかしが400年以上続くのも、この地の旧臣の勢力を無視できず、実は幕府側も陰で支援していた可能性は充分に高いと推測する。
壁谷の伝承
須賀川の壁谷の分家の嫁に入った際、壁谷の本家の家長から「士族」の妻となる心構えを、とくとくと聞かされたとする話が残ってる。先代の本家の嫁は三春(現在の田村郡、田村市)の鈴木家から入ったという。鈴木家は当時村長を務めており、幕末に三春藩医や藩校の講師を務めていた。このことは須賀川の壁谷は、三春藩との関係の深さを示唆しているのかもしれない。詳細は、時期がくれば示していきたい。
※別稿では三春藩の鈴木家に筆道(一種の書道)を学び、のちに江戸で幕臣として松平家に仕え、その後明治に静岡藩に移ったと思われる壁谷伊世(静岡縣貫族 士族 壁谷鹿馬 母)について触れている。壁谷家に嫁いだ伊世も鈴木家出身だったのかもしれない。彼女が面倒を見た子は幕末に尾張藩主となった徳川慶勝である。尾張藩は官軍に加わって北上した。この際、三春藩は奥羽列藩同盟から突然官軍に寝返ったとされるが、実は事前に京で朝廷側から話をつけられていた記録が残る。明治になると伊世は福島に戻り、福島県が開設した小学校(現在須賀川に隣接する安積の地と推測される)で教師となったようだ。彼女の子、壁谷鹿馬は明治初期の旧三春藩士の記録にも磐前縣 士族として記録されている。
※井上円了の『南船北馬集』には、三春の七郷村の村長に「壁谷亀八」が記録される。七郷村は明治22年に三春の7つの村が合併して誕生したもので、その後「壁谷兆左」(別稿参照)が記録される。昭和30年に文珠村と共に、田村郡船引町に吸収され、現在は福島県田村市船引町となっている。
※鈴木家は平安時代末期の鈴木重家(しげいえ)の子孫ともされる。鈴木重家はもと熊野新宮(現在の和歌山県)で神官の家系だが、平安末期には熊野水軍を率いて義経に味方し、壇ノ浦合戦で平家を滅亡させた主力となった。義経と共に落ち、奥州平泉から紀州の実家に義経の消息を伝えた文書は現在も残っている。その後秋田県羽後町付近に土着して有力者となり、東北の鈴木家の多くはその子孫ともされる。
室町後半から江戸時代にかけて、禅宗の臨済宗、曹洞宗が武士に広まった。現在は別派とされる黄檗宗(おうばくしゅう)も禅宗の一派である。とくに曹洞宗、臨済宗の2つの禅宗は、檀家に武士が多かった。(江戸時代以降は地域で檀家が組まれたため武士以外も増えた。)檀家制度は、江戸幕府がキリシタン禁止などの事情で始めた寺請制度がもとになっている。明治になって制度上の根拠はなくなった。明治初期に神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、氏子調(うじこしらべ)などで檀家制度は相当混乱した。しかし菩提寺と祖先との関係において昭和のころまでは事実上機能していたはずだ。しかし現在となっては、檀家制度が崩壊しつつあり、個人情報規制あってり調べるのは相当難しい。
鳩を飼うのは禁止という家伝
昭和初期に「伝書鳩」を飼おうとした須賀川の壁谷では「代々鳩を飼ってはいけないという家伝がある。」と聞かされたという。その事情ははっきりわからないという。たしかに江戸時代は一般に「三鳥」を飼うことは御禁制だった。しかし鳩が禁止されたという話は、確認できない。
江戸時代、八代将軍吉宗の文書化政策の一環として、今まで奉行が長らく口伝で伝えて来たり高札(こうさつ)で掲示されていたものを、始めて文書に整理してまとめた。それが『公事方御定書(くじがたおさだめかき)』である。そこには「三鳥」が禁止と記されている。三鳥とは『古今伝授』に記された、カッコウなどの「呼子鳥(よぶこどり)」、トキ、セキレイなどの「稲負鳥(いなおおせどり)」、スズメなど「百千鳥(ももちどり)」の三種であるが、実際には野鳥の類をすべて指していたともされる。
『公事方御定書』(下巻)「第五十二条」 から引用
三鳥派不受不施御仕置之事
このことは江戸時代は長らく三鳥が御禁制だったことを意味する。ところが鳩に関しては、御禁制だった記録はどこにも確認できていない。それどころか商家では商いに利用され、飼鳥として海外から輸入までされていたようだ。公益財団法人『山階鳥類研究所』のホームぺージには、次のような記事があった。
『山階鳥類研究所』の「ドバトの国内の歴史」ページから引用
江戸時代に入ると、伝書鳩の輸入の記録があるという 。当時は、商業の中心地である京阪神地方の極く一部で飼育され通信にも利用された。特に、1783年に大阪の相場師相屋又八が、大阪堂島の米相場の連絡をしたという話は有名である。
明治になると情報伝達の手段として、鳩は一般にも多く飼育されるようになった。明治政府も実は鳩の飼育を奨励し、軍用バトを民間に払い下げていた。民間に伝書鳩を飼育させ、いざという時に軍用に徴用しようという魂胆があったともされる。実際に戦争時には国は民間から伝書バトを大量に徴用している。
また当時は全国に多数の新聞社ができていた。今のような通信手段はない。従って報道用に伝書バトを多数使うのは極めて普通のことだった。また趣味で鳩を飼い、伝書鳩の帰巣能力を競う大会も何度も開かれていた。そのため鳩を飼うのは一時期ブームにもなっていた。こんな状態だったにも関わらず、なぜ「代々鳩を飼ってはいけないという家伝」が須賀川の壁谷家に、残されていたのか。
鳩は「八幡神」の眷属
私見ではあるが、鳩は「八幡神の眷属(けんぞく)」だからかもしれない。眷属とは神の「お使い」を意味する。すくなくとも室町時代中期まで、鳩は神の使いであり、武家の出陣の戦勝祈願で必ずといっていいほど登場する神聖な鳥だった。鎌倉幕府正史の『吾妻鑑』のほか『源平闘諍録』『太平記』などにも「鳩」は軍神として何度も登場する。そんな鳩を飼い鳴らすなどとは、とんでもない罰当り、ということなのではないだろうか。
※八幡神の鳩、日吉神の猿、春日神の鹿、稲荷神の狐、氣比神の鷲、松尾神の亀、熊野神の烏(からす)などが眷属とされる。
八幡は古代に「矢幡」と書かれた記録が複数(『日本霊異記』など)あり当時は「やはた」と呼ばれた。後世に神仏習合で漢音の「はちまん」と発音されるようになった。八幡宮の総本社は、大分県にある宇佐八幡だが、祀られているのは応神天皇だ。戦前の教育を受けた方には、熊襲征伐・三韓征伐で大活躍した伝説が『日本書紀』に記録される「神宮皇后」の子、胎中天皇と説明したほうがわかりやすいだろうか。
『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、欽明天皇のころ(571年)に「山頂の巨石から現れた神霊は、宇佐の地にて、鍛冶の翁、金色の鷹、三歳の童子、金色の鳩と(次々に)変化し、自らが応神天皇であり神となって地に降臨したことを告げた」と記録される。以来八幡神は国家鎮護の神として崇められ、聖武天皇の時代には奈良の大仏建立の際に協力し、また称徳天皇の時代には天皇即位を決めるご神託を発するほどの力もあった(769年「宇佐八幡神託事件」)。
平安時代初期には清和天皇の貞観元年(859年)に大分の宇佐八幡から京都の男山に「石清水八幡(京都市八幡区)」が勧進(分祠)された。この際に「白鳩」が道案内をしたと伝わる。そこで元服したのが「鎮守府将軍八幡太郎義家(ちんじゅふしょうぐん-はちまんたろう-よしいえ)」である。後三年の役で活躍し、代々の征夷大将軍を輩出する源氏本流の祖となった。その「岩清水八幡」の扁額に掲げられた「八」の字には、2羽の鳩の文字図柄が使われている。
鎌倉初期には源頼朝が、石清水八幡から鎌倉に八幡神を勧進し「鶴ケ丘八幡宮」とした。その立派な扁額も、やはり「八」の字は相対する2匹の「金鳩」で書かれている。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には、「源頼朝」が奥州合戦に向かう際(1189年)に、先陣を飾った御旗(みはた)には、白い糸を使って「八幡大菩薩」の文字と、対の鳩「鳩二羽(相對すと云々)」が縫い込まれていた。
『吾妻鏡』文治五年(1189年)七月八日の条から引用
文治五年(1189)七月小八日丙寅。千葉介常胤、新調の御旗(みはた)を献ず。其の長さは入道將軍家(の鎮守府将源頼義のちに入道)の御旗の寸法に任せ一丈二尺二幅也。又白糸の縫物有り。上に云はく伊勢大神宮八幡大菩薩と云々。下に「鳩二羽(相對すと云々)」を縫ふ。是奥州追討の爲也。(中略)
絹者小山(をやま)兵衛尉朝政之を進ず。先祖將軍(将門を討った藤原秀郷)輙く朝敵を亡す之故也。此の御旗は三浦介義澄(頼朝の重臣)を以て御使と爲し、鶴岡別當坊(鎌倉鶴岡八幡宮の別当)に被遣(つかわされ)、宮寺に於て七箇日加持令む可之由、被仰(おおせらる)ると云々。
※かっこや一部の句読点は筆者がつけた。
要約すれば、上祖「源頼義(八幡太郎義家の父)」の故事にあやかって、「前九年の役」で掲げた御旗と同じ寸法の素地を平姓良文流の「千葉常胤(ちばつねたね)」が用意した。これに「伊勢太神宮八幡大菩薩」の文字と「対いの鳩」を白く縫い込んだのは藤姓秀郷流の小山朝政であった。そして平姓とされる頼朝の重臣三浦義澄が鎌倉の鶴ケ丘八幡で、この旗に加持祈祷を加えたとしている。ちなみに、小山氏の祖先藤原秀郷は、先代の鎮守府将軍として平将門の乱を征していた。この話からも、鎌倉時代において武家では八幡神と鳩が戦勝の旗印として強く意識されていたことが推測される。
※別稿で記すが二階堂氏が来る前まで、須賀川を領していたのは藤姓小山氏の一族長沼氏であった。(頼朝から須賀川を恩賞として得ていた)長沼氏は頼朝の重臣として『吾妻鑑』にも記される。何度も触れるが、その長沼氏の支城には鎌倉時代とされる壁谷城が栃木に記録されている。また、千葉常胤と同族とされる神谷(かべや)氏がいて、鎌倉初期には現在の福島県いわき市神谷(かべや)の地の地頭となっている。
各地の八幡宮の「八」の字はつがいの鳩で書かれる例が多く、「対(むか)い鳩」はいくつかの武家の家紋にも使われている。鎌倉後期の元寇の際には、亀山上皇も敵国降伏を直接祈願しに行ったとされ、博多に勧進した八幡伸である筥崎(はこざき)宮には、亀山天皇宸筆(直筆)の「敵国降伏」の扁額が今もかかる。
鳩を軍神とするのは源氏だけではない。「将門記(しょうもんき)」によれば、承平天慶の乱で平将門を東国の新皇(しんのう)とする、そう託宣を寄せたのも「八幡大菩薩」であり、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』で源頼朝に「本朝無双の勇士」と称えられた「熊谷直家」の家紋も、つがいの鳩だった。平安後期の戦乱のころには、八幡神には盛んに戦勝祈願がされ、公家・源氏・平氏に関らず、「弓矢八幡」と言われ武神として崇められていた。ほかにも『源平盛衰記』『源平闘諍録』、『太平記』などでは八幡神の使いとされる鳩が出陣の際などに必ず登場している。
※熊谷直家は三河(現在の愛知県)熊谷家の祖となった。『平家物語』の巻九「敦盛最期」のあまりに有名なシーンに登場にする「熊谷次郎直実」はこの直家の父である。熊谷氏は平姓貞盛流ともされ 、武蔵國大里郡熊谷(くまがや)郷(現在の埼玉県熊谷市)を領したのが始まりとされる。現在は当地で「熊谷(くまがや)市」と発音され、一方で室町時代の『見聞諸家紋』には「熊谷(くまかへ)」とかなが降られている。吾妻言葉の「がや」は京では「がへ」と聞こえたと推測でき、後世に「くまがい」と伝わった可能性もある。資料等で「熊谷(くまがい)」と表記されているが、本当は「熊谷(くまがや)」の発音が正しいのだろうと筆者は推測している。
鳩はその時代の武士にとって特別だったようだ。後醍醐天皇を討つために鎌倉から大軍を率いて西に向った鎌倉幕府の重臣「足利尊氏」は、「篠村八幡宮」に詣でると踵を返して「六波羅探題」を滅ぼし、室町幕府の成立に至ることになる。篠村八幡宮も、やはり前九年の役で、伝説となった鎮守府将軍源頼義(義家の父)が勧請した神社だった。その尊氏には違う鳩の伝説もある。『難太平記』では尊氏が生まれたとき、二羽の鳩が現れ一羽は尊氏の肩に、もう一羽は尊氏の柄杓(ひしゃく:産湯に使った)にとまったと記録されている。鳩はこのように、武家においては神がかった鳥だった。
しかし、鳩がこのような扱いを受けた記録が確認できるのは、室町時代中期までである。江戸時代になると八幡神はともかく、鳩が神格化されていた様子は一切見えなくなる。戦国大名の多くは、旧来の権威・迷信や神仏を信じなかった。これが信長が本願寺を焼き討ちしたり、秀吉が陰陽道を一掃できた理由のひとつでもあろう。おそらくは戦国時代の殺伐さや下剋上が、鳩の神威を奪った可能性もあろう。一方で家康は信心深かったが、平和を望んだとされる江戸幕府にとって、軍神と祀られる鳩は都合が悪かったのかもしれない。
江戸中期の儒学者「荻生徂徠」は、単に八幡と鳩の発音が似ているだけだと、鳩をバッサリと切り捨ていた。同じく江戸中期の『和漢三才図会』でも平安時代に石清水八幡宮が勧進された地は男山の小高い丘陵つまり「鳩峯」だったから鳩がシンボルになったに過ぎないと強調している。こうして江戸時代には、鳩からはその神威が一掃されてしまい、だたの鳥、しかも商家のお使い(伝書バト)にまで成り下がっていた。「向いの鳩」を掲げた鎌倉時代からの名門熊谷氏の家紋からも、江戸時代には鳩が消え去ったことが『寛政重修諸家譜 』に載る家紋などから確認できる。
もし戦勝を祈念する八幡神の眷属としての鳩が理由であるとすれば、須賀川の壁谷に代々口伝されてきたという「鳩を飼ってはいけない」という伝承は、鎌倉時代からおそくとも室町時代中期までの口伝が、現在の壁谷の旧家に残されていた可能性があると筆者は推測する。
※実は鳩は軍鳩ともよばれ、無線通信がない時代の通信手段として使われていた。日本で明治時代以降にしか、はっきりした記録が残っていないが、おそらく中国から輸入され、遅くとも室町時代には軍鳩が使われていたと筆者は推測する。鳩を飼うことは場合によってはスパイ行為ととられた時代があったのかもしれない。
同じく鳩を大切に扱う家伝が伝わっていた旧家がある。江戸初期(1663年)から京で和紙やお香などの販売を手掛けてきた鳩居堂(きゅうきょうどう)は、現在の銀座に移ると宮中の調香法を授かり一子秘伝でその秘法を今に伝えている。(鳩居堂のホームページによる)鳩居堂は、鎌倉時代の熊谷直実から二十代目とされる熊谷直心が医学・薬学を学んで薬種の商売を始め、以来その子孫が代々継いでいる家系だ。その商号や画像商標にはもともと家紋であった「対いの鳩(向かい鳩)」を現在も掲げている。鎌倉時代からの名門である熊谷家では、表立って家紋から鳩が消えた後も、鳩を大切にする家伝は代々受け継がれ、それが鳩居堂の名称にもつながったと筆者は推測する。なお、銀座鳩居堂前は「路線価日本一」としても毎年報道される有名な場所でもある。
今後整理すべき課題
1)良質な石材が採れることで全国に名が知れている福島県だが、須賀川も「大倉みかげ」の産地としても有名だ。欠けにくく、石目が整ってスジや黒玉が少なくて美しい。大きな石材が多く採れるため、古来から建築材などに幅広く使用されていた。(現在は、枯渇気味のようでなかなか手に入らない。)
この大倉の名は、鎌倉幕府の御所があった雪の下地区の名前でもある。(大倉幕府または大倉御所といわれる)その地にかつてあった「勝長寿院」は、鶴ヶ丘八幡宮と並んで頼朝が作った三大寺院の一つであり、頼朝の父、源義朝を始めとして三代将軍実朝の墓もあり、『吾妻鑑』では実朝を暗殺した源氏の跡継ぎ、公暁が逃げ込んだ地ともされている。幾度かの火災を乗り越え室町時代には足利氏の鎌倉公方が護り続けた。鎌倉公方だった足利成氏が「享徳の乱」ののち1455年下総の古賀に移ったことで、衰退していきそのまま廃寺となったとされる。そこでは壁谷の旧家が居を構え、現在も旧跡を守っている。このことは、近いうちに触れたい。
※享徳(1452-1455年)の次の年号は、康正(1455-1457)そして長禄(1457-1460年)である。つまり関東の戦乱が激しさを増し、鎌倉の勝長寿院が衰退しだしたのと同じころ、須賀川に長禄寺が造られたことになる。(つまりそこから壁谷も移って来たのか?)鎌倉三大寺院のもう一つは二階堂氏の「永福寺」であった。奥州藤原氏の中尊寺の伽藍を見た頼朝が、二階堂氏に作らせたものだ。その旧跡は現在の鎌倉市二階堂にある。勝長寿院と永福寺は隣接する大寺院であり、それぞれ現在の鎌倉市雪ノ下、二階堂地区にあった。これは鎌倉で隣接する地域にいた二階堂、壁谷両氏が、室町時代中期に関東の争いを避け、共に須賀川に拠点を移した可能性を示唆しているのかもしれない。
なお須賀川にとどまらず、壁谷の旧家の居住する地は、古代の建築に使われた素材の産地が多い。福島県では、郡山の鹿島神社内に国指定天然記念物の「ペグマタイト」があり、三春(田村市)に阿武隈洞もある。いわきも「いわき桜みかげ」がとれ、壁谷が多く住む石森山も石森火山岩塊としていわき市の天然記念物となっている。宮城県でも石森地区に隣接する壁谷地区があり、そこも「伊達冠石」「伊達青糖目石」「吾妻みかげ」など石材の産地が近い。ちなみに三春地区で壁谷が居住するのも石森地区だ。
愛知の蒲郡近辺は全国で壁谷が最も多く居住する地だが、そこは古代の寺院や平安京建築に使われたともいわれる「三州土」や石灰の全国有数の産地であり、隣接する吉良地区はキラとよばれた「雲母石」の一大産地でもある。三河は鎌倉・室町時代を通じて、足利氏の一大拠点でもあった。特に現在も壁谷が多く居住する地に近い形原港は、各地に作られる巨大建築物のために石や土を搬送する港として栄えていた。(江戸時代に作られた各地の城郭の石は、ここから運ばれたことが、現地の歴史研究家である壁谷善吉氏によって明らかにされている。)
そのほかに、秋吉台がある山口県産では国会議事堂にも使われる「徳山みかげ」、福岡県産でも九州を代表する石材である「内垣石」「唐原石」がある。沖縄県は熱帯カルスト地形の北端とされ、名石「琉球石」が豊富にあり多くが歴史的建造物に使われた。これらの良質の石や土が採れる地地域でも、壁谷がまとまって居住していることに気が付く。この傾向は、鉄(たたら製鉄)の生産地にもあてはまるようで、壁谷が古代建築や古代武器の産地に深く関わった可能性が垣間見える。これらは武家政権が始まる前、つまり平安時代以前の古代壁谷の起源に深く関わってくることなのだろう。古代の土木建築に深く関わった、秦氏と壁谷の関係はここでも見いだされそうだ。古代秦氏との関りは、奈良の壁谷を皮切にして別稿で徐々に触れていきたい。
2)須賀川の地名は、『日本書紀』の神話の時代にその名が残る会津と並んで、上代から続く古い地名の可能性が高い。「須賀」は5世紀の倭の五王の時代に繁栄した河内平野(大阪地区)に多数存在する地名でもある。日本神話で語られる「スサノオ」や、渡来人の都賀(つが)にかかわる可能性もあるだろう。飛鳥時代には朝廷があった中心地は再び奈良盆地の奥に戻ったが、その地は実は「須賀(すか)」と呼ばれていた。「すか」が変化して「飛鳥(あすか)」と呼ばれることになる。万葉集にも歌われる「飛鳥川」から「あ」をとれば「須賀川」となることにも気付くだろう。飛鳥は、安積(あさか)にも通じる。磐城国安積(あさか)郡は現在、須賀川市に隣接する福島県郡山市である。また飛鳥は安宿(あすか)と書いて、光明皇后(聖武天皇の皇后)の名前でもあり、このことは別稿で詳しく触れる。
古代は日本に馬がいなかった、半島との交流で馬が入って来たのも多くが東北の地だった。朝廷の蝦夷征伐の目的のひとつは馬の調達でもあり、馬が揃うまでは都から重い物資を世界最大級の海流ともといわれる黒潮にのせて上総・常陸に運びそこから、東北地方の川を上って移動したと推測できる。古代の関東・東北の平地に流れる川は、重要な交通の要衝だったはずだ。須賀川と会津は、東北への入り口として、古代朝廷にとって重要な拠点のひとつだった。三春・会津は古代から中世にかけ、馬の一大産地だった。その名残は、名産品「三春駒」「赤べこ」にものこる。
3)八幡神は「倭の五王」の初代「讃」ともされる第15代応神天皇(誉田別命:ほんだわけのみこと)を祭神とする。この応神天皇が国内を平定するときに、水先案内人となったのが「鳩」であったとされ、それから鳩は八幡神の使いであるとされるようになったともされる。その後宇佐八幡から岩清水八幡に勧進する際には「金鳩」が現 れたともされる、また巨石から金色の「鷹」が現れ、鍛冶(製鉄)の翁へ変わり次に三歳の童子(後世の聖徳太子のことか)になると最後に「金鳩」となったという伝説もあるようだ。
一方で八幡は本来は渡来人の「秦(ハタ)」氏の寺でもある。壁谷については、古代豪族秦(はた)氏との接点がいろいろなところで見られる。聖徳太子の家臣として有名な秦河勝(はたのかわかつ)や法隆寺との関係で、奈良や栃木が密接な関係を示唆する情報がある。法隆寺のある奈良県の斑鳩(いかるが)という読みが若干不自然な地名は、斑鳩(まだらばと)と読めば自然でもあり、飛鳥(あすか)も飛鳥(とぶとり)と読む。秦氏は、鳩は精霊の使いとしていた。これらは秦氏や法隆寺との関係で、奈良の壁谷などの稿で将来触れていきたい。
鳩は実は聖書でも、「ルカ伝」「マタイ伝」「ヨハネ伝」など霊鳥として何度も登場する。ルカ伝では、聖霊が鳩の形をして自分の頭上から下りてきたとする。(これが斑鳩の発音の始まりと考えることも、もしかしたらできるかもしれない。)創世記では、ノアの箱舟の話で、大洪水のあと鳩を放つとオリーブの枝をくわえ帰ってきた。それで洪水が引いたことを確認できたのだ。以来オリーブは平和の象徴となったとされる。おそらくは大洪水が地上の悪を一掃した(戦争が終わった)ことを意味したのだろう。そしてのちにイエス・キリストが洗礼を受けるときも、鳩が聖霊として現れている。これらのことは、古代豪族だった秦氏がユダヤ系だという説を唱える人々にとって、一つの根拠になっているようだ。それとは別に、壁谷が古代秦氏の末裔という考え方は、壁谷の旧家に残された伝承や、古文書などに残された記録からも説得力に富んでいる。大変難しいテーマになるが、機会があれ踏み込みたい。
4)佐竹義宣は、徳川家康とともに下野(現在の栃木県)の皆川広照に使者を送って北条氏と和睦させている。こうして北条側についた皆川広照は、秀吉の北条征伐の際に徳川方に寝返って本領安堵され、その後家康の家臣となった。1600年に岩城常隆の養子、貞隆が関ヶ原後遅参を理由に取り潰された際には、皆川広照が城の引き渡しに来て、そのあと大乗院も佐竹氏と移動したとされ途中、須賀川に留まったとされる。別稿で示すように、皆川家臣団や佐竹家の家臣団に壁谷が相当数いた可能性は高い。その壁谷の一部が、この際に須賀川に同行してきた可能性もある。
須賀川の壁谷では、先祖は源氏であり藤原氏の流れもくむとも伝承されているようだ。奥州藤原氏や皆川氏の祖は、藤姓秀郷流である。皆川氏祖の小山(をやま)氏の支流である下野芳賀郡長沼郷(現在の栃木県真岡市)の「長沼氏」には、鎌倉時代の長沼氏の支城に「壁谷城」があった記録も資料で確認でき、頼朝から奥州合戦の恩賞として鎌倉時代初期に須賀川の地を賜っている。そして南北朝の騒乱の時期に下野(しもつけ:現在の栃木県)から離れ、本拠地を須賀川の地としていた。室町中期の永享の乱の恩賞で二階堂氏がこの地を与えられると南会津側に退くが、その一族は再び栃木に戻ると皆川の庄を得て皆川氏と称した。後に家康の家臣となり家康の六男で伊達政宗の娘婿、松平忠輝の家老となり徳川家康、秀忠、家光の三代仕えた。
江戸時代の須賀川の地は「岩瀬藩」と呼ばれたが別名として「長沼藩」ともよばれ、水戸藩の支藩として「長沼陣屋」がおかれた。長沼氏は二階堂氏に須賀川から退去させれたことになり、そうすると壁谷が今も守っているとされるのは、室町中期の長沼氏の墓なのかもしず、仕えたのは水戸藩の御連枝、長沼藩だったのかもしれない。
須賀川、郡山の地は室町末期の奥州田村氏の時代に三春藩領だったようだが、須賀川の二階堂を滅ぼした伊達政宗も、正妻の愛(めご)姫は奥州田村氏の最後の生き残りでもあった。一方で、二階堂氏が妙見信仰を持っていたこと自体は、後述する平姓千葉氏や岩城氏の一族とされ妙見館の館主とされた「神谷(かべや)」氏との関連も興味深い。
太田亮の『姓氏家系大辞典』では、源氏の血を引くともされる神谷氏も掲載されている。それによれば、上野国(現在の群馬県)において藤原氏が領していた「神谷邑」から起こった勢力として、佐竹氏の一族「時古盛政」の子「政綱」がこの地で神谷の名字を称するようになったとされる。その後、神谷三河守を名乗っている。三河にあったことから、二階堂氏や室町幕府との関係が考えられる。
またこの神谷氏は、勢多郡真壁(まかべ:現在の群馬県渋川市真壁)に砦を持っていたと『後上野志』に記録があり、同時に「佐竹氏の族」とされることから、源氏(武田氏と同じく、源姓義光流)の血脈を引き継いでいるとみることもできよう。このことは別稿で紹介したい。この点は須賀川の壁谷に残る伝承に近いところもある。ちなみに「真壁」の地名は、桓武天皇の父、光仁天皇の名(白壁)に由来し、もとは天皇直轄領があったとされる地だ。(『続日本紀』による。)
太田亮『姓氏家系大辞典』より引用「神谷」の3番目
3.秀郷流 藤原姓上野國の神谷邑より起こる。佐竹氏の族にして、時古三郎盛政の子
五郎太夫政綱・此の地にありて神谷氏を偁すとぞ。其の子「兵庫助政房(五郎左衛門)
ー彦左衛門盛秀(三州神谷)―千五郎政信―縫殿助秀盛(徳川家臣)」にして、また盛秀の弟を權左衛門剛政と云うと。『後上野志』に「勢多郡眞壁の壘(とりで)は神谷参河守の璩る所」と見ゆ。
この神谷氏は藤姓秀郷流(藤原姓)とされており、磐城の神谷(かべや)氏と同様に、かべやと発音されていた可能性がある。愛知県などで見かける平姓の壁谷の他にも、源姓の壁谷もいた可能性がある。
また、神谷氏がいたとされる群馬県渋川市真壁から榛名山沿いに北西に向かった群馬県中之条市には、現在も壁谷の名が多数残り、神谷の泉、壁谷の寄合、壁谷の壘など室町時代の壁谷の旧跡、痕跡が多数確認されている。現在も字壁谷の住所が残り、壁谷川、壁谷橋なども存在している。
真壁、あるいは壁谷と名と着く地名の全国各地の土地は、多くは良質の石灰や石材、土の産地とも重なる。これらは版築といわれる古代の土木建築を支え、飛鳥時代以降は巨大建築物の基礎(地盤)から、土塀、蔵、宮殿、大寺院などの建築に使われた。平安京の建設もこの技術があってこそ実現しており、そこには古代豪族で渡来人の最大勢力、秦氏の力があったとされる。古代の豪族秦氏と壁谷の関係は大変興味深い。
※茨木県の真壁では粒子が細かく美しく、最高級の石材ともされる「真壁石」が採れる。皇居前にある楠木正成像(高村光雲作)は、住友財閥が明治33年に献納したもので、その巨大な台座に真壁石が採用されている。また明治42年に建築され国賓をもてなす迎賓館(元赤坂離宮:国宝)も真壁石で作られている。
5)太田亮の『姓氏家系大辞典』によれば、別原稿で記した平姓岩城氏流の「神谷(かべや)氏」および、平姓千葉氏流の神谷氏は現在の福島県いわき市にあった穎谷(かびや)邑、後に神谷(かべや)邑から発していた。千葉氏流の神谷氏は、室町幕府で侍所の別当も務めた名家千葉氏の武力を神威で支え続け、妙見神を祀った「妙見館(神谷館)」の代々の館主でもあった。その千葉氏の中興の祖とされるのは千葉常胤である。
千葉常胤は源義朝とともに保元の乱を戦い、平治の乱ののち伊豆に流された頼朝を下総に迎えて鎌倉幕府の成立に大きく貢献した。さらに奥州藤原氏との合戦の際に旗を献上(前出)していた。神谷と壁谷の発音はへ近く、すくなくとも東国なまりでは同音の「かべや」であったようだ。現在も神谷と壁谷が多数住む地は愛知県を始め各地に点々とあり、この関係は無視できないだろう。
6)徳川家康が信頼した三河以来の家臣団「牛久保六騎」には、岩瀬氏が含まれる。その岩瀬氏は、江戸時代は幕府直参旗本800石だった。家伝によれば須賀川出身の藤原姓二階堂氏であり、三河国宝飯郡千両(現在の愛知県豊川市千両町)に移って現在の蒲郡中島の地の大塚城主となったのは、室町時代後半の永享12年(1440年)としている。(『姓氏家系大辞典』太田亮)三河国宝飯郡はこの時代、まだ今川領だった。今川氏滅亡後は徳川領になり、岩瀬氏は家康の配下になっている。もともと鎌倉時代は駿河三河一帯は、二階堂氏領だったこともあり、須賀川の二階堂氏と関係があるのは不思議ではない。その三河宝飯郡(現在の愛知県蒲郡市、豊川市、豊橋市)は、壁谷がなんと数千人のレベルで存在する。日本で最も壁谷が多い一大集中居住地だ。蒲郡の壁谷と須賀川の壁谷の関係も興味深い。
7)白鳥(鵠:うぐい)は『日本書紀』『古事記』にも登場し、言葉を話せなかった第11代垂仁天皇の皇子が白鳥をみて初めて話したり、第12代景行天皇の皇子の「ヤマトタケル」が白鳥になった伝説などがある。また初代征夷大将軍 坂上田村麻呂の落とし子だった浄野(きよの)を鶴が育て、その子孫が奥州に下向してこの地を三春(見張る?)と名付けたという伝説が仙台藩士の書いた『伊達秘鑑』に残る。このため三春藩士は決して「鶴」を食すことをしないともいう。(一次資料をまだ確認してない)もしかしたら、長い間に鶴と鳩が混同して須賀川の壁谷に伝わった可能性もあるのかもしれない。
また鶴は、水流(つる)が語源ともいわれ、朝鮮語の発音では原野や低湿地という意味があり、日本の地名にもそういった低湿地には「津留」「都留」「敦(つる)」などとという字があてられることが多い。多くは川が湾曲した肥沃な低湿地に付けられる名前で、早くから開拓された場所によくみられる名前である。古来日本では有能な渡来人が派遣されて贅を免除されて新たな土地を開拓させられてきた。その歴史を物語るのかもしれない。当然ながら、水や泉に関わることも多く、開拓地には鶴がよく飛来してきたともされる。鶴が舞う年は豊作だという伝承は各地に伝わる。壁谷の古地名や伝説が複数残る、群馬県都留(つる)市には古代から「都留」の地名があった。こちらも別稿で触れる予定だ。
8)松明明かしの会場の公園は、大正時代まで、「岩瀬山城」(須賀川城)があった愛宕山(あたごやま)と、二階堂氏の守護神であった「妙見神社」があった妙見山をまとめて公園にした。二階堂家の惣社「妙見神社」があり、五人の老臣にちなむと言われている「五老山」も、古代中国の道教の霊山(五老峰、五台山)に似た名でもある。ちなみに、愛宕山は、二階堂氏時代は岩瀬山、飯森山ともいわれてていたらしい。発音からは、田村市にある石森山(石守山、飯森山)や「稲」との関係も見えてくるのかもしれない。
※千葉氏のいくところを必ず守護したといわれる妙見菩薩は、前出の神谷氏が館主(城主)をつとめた妙見館に祀られた。
須賀川の「五老山」は、5人の老臣が会議したことが由来とされている。しかし、この名は中国南部(国江西省九江市南部)にある「五老峰」を連想させる。それは、まさに5人の老人が座っているように見える奇岩がそびえ立つ、中国の廬山(ろざん)地域の聖なる主峰だ。「廬」は「庵」と同じ意味で仙人が棲むことも意味している。五老峰はその四面を峯に囲まれ、広く浅い谷が2つあり、それぞれ「東谷」と「西谷」と言われる。この2つの谷は、まとめて「南山」とよばれる聖地で、数々の奇岩に囲まれた窪地一帯は、常に霧に包まれる秘境となり、古代から数百ともいわれる宗教や学問の施設が並んだという。
日本では鎌倉時代だったころ、中国南宋で「朱熹(朱子)」がこの谷にある古来の学問の施設を拡充し、中国四大書院の筆頭といわれるようになった。それ以来700年以上に渡って朱子学の拠点となっている。寛政以降、江戸幕府が武士に盛んに学ばせた「朱子学」は、まさにこれである。とくに水戸藩では朱子学者と神道が融合していき「水戸学」といわれる独自の発展もみせ、明治維新の原動力となった。水戸藩の御連枝(ごれんし:水戸家当主の子弟が藩主)である長沼藩があった須賀川の地で、この朱子学の大本山「五老峰」を意識したという可能性もあるかもしれない。
なお中国の「廬山」は1996年にユネスコの世界文遺産に登録されて、「廬山第四紀氷河地形国家地質公園」(国立公園)に指定され、中国国務院では、書院を「全国重点文物保護単位」に指定している。中国国家観光局による、日本向けのホームぺージでは『中華文明発祥の地のひとつ』としており以下のように記載される。その記述では、日本で教科書にも登場する有名な漢詩「陶淵明(とうえんめい)」の「泰然として南山を見る」の南山の地でもあるとしている。
断崖絶壁、雲海、瀑布があり(中略)4世紀から宗教が盛んで、「白鹿洞書院」は中国古代の最初の高等学府である。中国古代の四大書院の雄。(中略)陶淵明や李白、杜甫らが愛した「盧山」の風景は、書道や山水画などにその幽玄な美を多く残した。
※括弧や「」は筆者が付けた。
唐代になると、南山は別な地に移っており、唐の都の南に位置する。こちらは終南山(ついなんざん/しゅうなんざん)と呼ばれ、四大詩人(盛唐四大家)とのひとりといわれる「王維(おうい)」が有名な漢詩を残しており、中国歴代皇帝も何度も訪れている。この終南山には、唐の時代に「石壁谷」の地名(現在の地名は「雷」)であることは第一稿で触れている。
9)中国では「五台山」も有名だ。室町時代に定められた「鎌倉五山」「京都五山」は、中国の「五台山」にちなんでいる。中国の聖地「南山」は、中国の政権の忠臣が華北に移ったことに伴い、前出の「蘆山」(「五老峰」)から「五台山」に移っていった。そして「五台山」は「終南山(ついなんざん)」とも呼ばれるようになった。
その地で修業を重ねた円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば、この地は銅盆を引っくりかえしたような広大な窪地(谷)であり、まわりは山に囲まれていたとしている。その一帯が「五台山」と呼ばれた。その地には北魏(西暦386年 - 534年)の時代の「壁谷玄中寺」にいた曇鸞(どんらん)が後年に中国唐や日本に伝わった仏教や禅宗に強い影響を与えたことは別稿で説明する。この五台山の地は「文殊菩薩」の霊峰としても有名である。
日本では、埼玉県熊谷市にある曹洞宗の「五台山文殊寺」が有名だ。曹洞宗の本尊は通常釈迦如来だが、文殊菩薩との関わりが強いとされる。長禄寺と文殊との関係は不明だが、福島県田村市舟引の「文珠」)地域には奈良県の安倍文殊院につながる「安倍文殊菩薩堂」がある。「文珠」地域には別稿で示した明治の宗匠「壁谷兆左」がいた。壁谷と何らかの関わりがあるのかもしれない。
※「文殊」と「文珠」と字が違うことに意味があるが、この点も別稿で触れる。
「松明あかし」を実施する「翠(みどり)ヶ丘」公園の名も、禅宗である曹洞宗の影響をにおわせる。「松の翠」は有名な禅語に多数登場するからだ。翠の松は、曹洞宗などの禅宗、そして武家にとって大きな意味をもっている。「翠」は「粋」からきており混じり気がない純粋な色という意味あいがある。カワセミの雌の色ともされるが、古代中国では宝石の翡翠(ひすい)の意味で使われたのが語源といわれる。
『続伝灯録』より引用
松樹(しょうじゅ)千年ノ翠(みどり)時ノ人意ニ不入(こころに入らず)
これは禅語であり解釈は難しい。歴史学者であり禅宗にも詳しい芳賀幸四郎によれば、「世人は現象にだけ心を奪われ本質を忘れている。牡丹の花の美に心を奪われ松柏(松)の不易な美に無関心なのと似ている。」と解説する。(原文は漢文で「松柏千年青 時人意ニ不入」)
参考文献
- 『藤葉栄衰記』
- 『古今伝授』東常縁
- 『日本霊異記』全訳註 中田祝夫 講談社学術文庫 1980
- 『公事方御定書』(『御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)』)
- 『姓氏家系大辞典』太田亮 国会図書館デジタルコレクション
- 『中国国家観光局』ホームページ
- 『続伝灯録』
- 『将門記』
- 『吾妻鏡』
- 『源平闘諍録』全注釈 福田豊彦・服部幸造 講談社学術文庫1999
- 『難太平記』『太平記』
- 『図説福島県の歴史』河出書房新社
- 『見聞諸家紋』室町幕府 国会図書館デジタルコレクション等
- 『南船北馬集』第五編 井上円了 国会図書館 明治43年
- 『日本家紋総覧』能坂利雄 新人物往来社 1990年
- 『戦国期岩城氏にみる婚姻関係と中人秩序』山田將之 学習院大学人文科学論集2010
- 『三輪山と古代日本史』学生社 2008年
- 『藩史大事典』第一巻 北海道・東北編 木村礎・藤野保・村上直編 雄山閣2015
- 『南北朝』林家辰三郎 朝日文庫 朝日新聞社 1991
- 『室町幕府と東北の国人』白根靖大編 吉川弘文館 2015
- 『吾妻鑑の方法』五味文彦 吉川弘文館 2011
- 『陸奥国白河郡の僧録支配の変遷について』白河関川寺・須賀川長禄寺を中心に 永井俊道駒澤大学 仏教経済研究所 2016
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