6. 福島いわき市に残る神谷と壁谷
壁谷村の武左衛門が、元文3年(1736年)に現在のいわき市であった一揆の中心人物の一人だったことは、前稿でのべた。一揆があった現在の「いわき市」の北部は夏井川流域の穀倉地帯に位置し、古代の古墳や由緒正しそうな名を備えた神社が周辺には目立つ。広大な平地は古くから栄えた地域のようにも見える。そこには「神谷」「愛谷」「絹谷」などの地名はあるが、しかし「壁谷」の地名はなさそうだ。いったい「壁谷村」はどうなったのだろう。
いわき市には広大な「神谷」地区がある。予想に外うかもしれないが、実はこの地で神谷は「かべや」と発音される。その一方で「神谷」の名字を持つ人は意外と少ない。居ても「神谷(かべや)」と発音することが多い。そして、昭和の時代「壁谷(かべや)」の名字を持つ多数の人々が、神谷(かべや)地区の北面にそびえる石森山の麓にまとまって居住していた。そこにはどんな由来があるのだろう。なぜ神谷と書いて、かべやと発音するのか。そして神谷(かべや)と壁谷の関係はどこにあるのか。本稿ではこれらに迫ってみたい。
「かべや」と発音する「神谷」
いわき市北部に広く分布する「神谷」という地名は、現在のいわき市の北部を流れる夏井川流域に沿って、上神谷、下神谷、北神谷、中神谷、神谷分、神谷作など相当に広い範囲に広がっている。現在の神谷地域は、江戸時代初期の承応3年(1654年)ごろ磐城平藩の郡奉行(こおりぶぎょう)だった「沢村勘兵衛為勝」が灌漑工事を行ったことで、それまでの夏井川流域周辺に限られていた範囲から大きく広がり、大規模な穀倉地帯となった。現在も米の生産としても有名で「神谷米」というブランド米や、吟醸酒「神谷」もあるようだ。実はこの地では「神谷(かみや)」ではなく「神谷(かべや)」と発音される。
日本郵政のホームページを見れば、福島県いわき市平(たいら)地区には、上神谷、中神谷、下神谷の3地区があり、神谷には確かに「かべや」とカナが振ってある。郵便局名も「神谷郵便局 (かべや-ゆうびんきょく)」である。また名産品でもある「神谷米」を紹介するホームぺ―ジでは「かべやまい」と仮名が降られ、酒造メーカーの純米吟醸酒「神谷」も、そのラベルにはていねいにも「かべや」と振り仮名がふってある。「かみや」と誤読されることは十分意識したうえで「かべや」と発音することにこだわりがあるようだ。(「神」は「神」の旧字体(康熙字典体)である。)なお、現在Windosパソコンで「かべや」と入力して日本語(漢字)変換すると、確かに「神谷」も出てくる。神谷を「かべや」と発音するのは、間違いでも方言でもなさそうだ。
福島県いわき市の公式HPでは「神谷の地名は13世紀(鎌倉時代初期)に神谷氏が治めたのが始まりとされる。」とする。どうやら、古くからこの地を治めていたのが「神谷(かべや)」氏だったようだ。当地では「神谷」という名字は今も「かべや」と発音される。また「上神谷」という名字もあって、こちらは多くの場合「かみかべや」と発音し「かみかみや」と発音する例は少ないようだ。この上神谷の名字は、福島に留まらず茨木県の北部や、宮城県南部などにも広がっている。江戸時代初期に、家康によって常陸(現在の茨木県)から秋田久保田藩に転封された佐竹氏の家臣に、この上神谷氏の記録が確認できる。
実は関東では、鎌倉時代から中世まで、地域の有力な武士同志が強い血縁関係で結束することで、百年以上にわたって領土争いを回避していた。この団結は歴史上「一揆」と呼ばれる。現在の関東太平洋側では佐竹氏・岩城氏・千葉氏・真壁氏など、後世に大名と呼ばれる勢力が、幾世代にもわたって極めて深い血縁関係が続いていたのだ。たとえば室町末期、この地福島県いわきを治めていた岩城氏の当主と、現在の茨城県を治めていた佐竹氏の当主は実の兄弟でもあった。長年にわたる縁戚関係から、千葉氏だけでなく、岩城氏、佐竹氏・真壁氏などのの家臣にも、神谷氏、上神谷氏の一族が広がっていたものと推測できる。
※「一揆」は「心を一つにする」という中国伝来の言葉。日本では中世まで、武士団が姻戚関係を結んで団結することを意味していた。江戸時代にあった、いわきの元文一揆など後年の「百姓一揆」とはニュアンスが異なる。
福島県の上神谷地区は、神谷地区のうち山岳地に近い部分だ。実は、そこは最も歴史が古く、当初は神谷地区の中心地として発展した。なぜなら、江戸時代に灌漑が作られるまで、広いいわき平野全体には水がいき渡らず、一方で氾濫が繰り返えされていたからだ。したがって現在のいわき市の平野部分では安定した生活を営むのは難しかった。その一方で、上流にあった上壁谷地区は、古代から安定した湧き水が豊富にあり、背後に山が迫って防衛に優れ、水害の心配も稀だった。
※この上神谷は、日本神話に由来する大変由緒ある地名だ。上神谷の地名は、現在の大坂府堺市にもあり関西では現在は「上神谷(にわだに)」と発音する。そこは、和泉国大鳥郡上神谷と呼ばれていた場所だ。この大鳥はもちろん鳳(鳳凰)を意味する。平安時代の『和名類聚抄 』には「上神谷(加無都美和)」と記録される。つまり古代の発音は「かむと-みわ」であった。時代の変遷によって「みわ」が「にわ」になまったあと,近年になって、文字に含まれるのに発音されていなかった「谷」を「たに」と呼んで追加することで、現在の「にわだに」の地名となったことになる。おそらく時代の変遷で古代の発音優先から,近代になって文字優先にかわり、文字表記に引きずられて発音が変化したものだろうと推測する。この種の傾向は全国の地名に見られる。
別稿で触れるが、江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』に江戸時代の三河(現在の愛知県)出身の神谷氏の祖と伝承されている伊賀氏が治めていた飯野地区と、古来の神谷氏が治めていた上神谷地区は隣接しており、大変近かった。これが後述するように室町時代、神谷氏と伊賀氏が行動を共にしていた事情でもあろう。おそらくは争いを避けるため、強い姻戚関係をもって同族化していたと推測される。なお、神谷氏は現在の千葉県にも領土を広げていた。神谷氏と千葉氏の関係が深まった事情も、これらから推察できよう。
『大日本地名辞書』から引用
上神谷村 かみかべやむら
福島県:いわき市旧平市地区上神谷村(いわきしたいらかみかべや)
夏井川下流左岸にあり、南は塩村、東は中神谷村、西は大室村・鎌田村。上神谷は紙谷・穎谷などとも記され、かひやとも読まれた。
文永6年(1269年)12月9日の八幡宮鳥居造立配分状(飯野八幡宮文書)によれば、飯野八幡宮の鳥居造立に際し「枇貫木一枝 紙谷 比佐 末次 寄合可被取出」を負担している。同11年8月6日の八幡宮鳥居作料等配分状案(同文書)によれば、作料のうち「百文 比佐 加紙谷定」を、番匠厨のうち「一ケ日比佐 紙谷」を負担している。延慶元年(1308年)12月25日の関東下知状(円覚寺文書)に「陸奥国岩城郡好島庄内紙谷郷」とみえ、大須賀時朝と鎌倉円覚寺が毛平けなり村(現千葉県神崎町)などの知行権をめぐって相論となり、神四郎了義がこの係争地の替えとして当地を知行した。
※神四郎とされるのは、おそらく神谷四郎であろう。
この上神谷地区のさらに背後(北側)にあるのが石森地区だ。先の稿で、壁谷の名を持つ人が集中して居住している場所だと紹介した。そこは背後に山が迫る不便な地に過ぎず、昭和の時代まで、まともな道路すら開通していなかった。そのため、それほど多くの人が住んでいたわけではなかった。そんな場所に、数十家の壁谷の一族がなぜか集団で住み続けていたのだ。実はそこは岩城氏の祖となる平隆衡(たいらのたかひら)が、平安時代に最初に拠点を構えた場所でもあった。後述するが、その岩城氏の一族が鎌倉時代以降から長くこの地を治めたとされる「神谷(かべや)」氏である。
石森地区を見下ろす石森山の頂上は、岩がむき出しとなっており樹木がない。頂上に登れば360度見渡せすことができる。いわき平野の全体を俯瞰できるだけでなく、はるか太平洋まで一望することができるのだ。これが岩城氏が石森地区を拠点とした最大の理由であろう。石森山は「磐城山」とも「飯森山」とも呼ばれており、三河の神谷氏の祖とされる伊賀氏の領土名であり、当地での名字でもあった「飯野」とも重なるような気がする。
※近年、石森山の麓は、大型宅地開発による新興住宅街「石森ニュータウン」が作られ、多くの人が移住して様変わりしている。おそらく東関東地震の後に、高台の地に再開発が進んだものと推測される。
『日本書紀』や『古事記』にのる有名な伝説が興味深い。第10代の崇神天皇の時代、国民の半数が死に絶えるような大混乱の時代があった。そこで天皇の夢に現れた「太田田根子(おたのたねこ」を、和泉国大鳥郡(現在の大阪府)から探しだして現在の奈良県にある三輪(みわ)山の神を護らせたことで、平和になったとしている。これが現在の大神(おおみわ)神社の縁起である。太田田根子は日本神話に登場する大物主神(おおものぬしのかみ)、または事代主神(ことしろぬしのかみ)の子孫と記録されている。後年には鳳凰の姿に変えた天照大神が降臨した地とも伝承されるようになった。(大鳥群の由来)なお、現在は異端ともされるが、日本に古代「三輪王朝」があって、現在の天皇家につながる「近江王朝」に政権を奪われたとする学説もあり、興味深い。(通称「王朝交代説」)
大神(おおみわ)神社では現在も「磐座(いわくら)」をご神体とする、古い神社の形式が今も保たれているが、いわきの石森山の山頂にも「磐塊」があり、石森火山岩塊として市の天然記念物に指定されている。どちらにせ上神谷の名は、大和の古代王権と深いかかわのある名称である。なお三輪(みわ)氏と壁谷氏は三春藩(現在の福島県田村市・田村郡)藩士に複数記録されており、幕末から明治にかけて、神事や藩校の講師として大変関りが深く、明治に至るまで一定の血縁関係があったことも記録されている。このことは別稿で触れる。
※実は「かべ(kabe)」には「石」や「洞窟」の意味がある。中国では「壁谷」に、見上げるような巨石、石柱の意味があり、観光地にある奇岩は現在も「壁谷」と形容されることがある。また古代サンスクリット語でも「kab」に石の意味がある。アフリカの古代バントゥー語では石を「kab(カベ)」といい「yaj(ヤ)」には神に生贄を捧げるという意味がある。そして「kabeya(カベヤ)」には洞窟という意味がある。そのためか、アフリカ地区ではkabeyaという名字を持つ方が、大変多い。
古来「神谷」の発音は
現在日本で「神谷」は関西を除き、一般に「かみや」と発音する。筆者が想像するに、おそらく、これは文字が普及した江戸時代以降に、その文字面(もじづら:見た感じ)から一般化した発音ではないだろうか。本来の発音は「かむや」そして鎌倉期以降は「かんや」だった、と推測している。そう考えられるのはいくつ理由がある。まず最初の理由は、「かみや」という発音では口の動かし方の変化が大きく、日本語の音韻では若干発音しにくい。促音便、もしくは母音交代を招いたと推測できるからだ。「かみや」と言うより「かむや」という方が口の筋肉が楽なのだ。(たとえば「雨傘」や「雨だれ」のように、「あめ」が「あま」という発音に代わっている。これは日本語が属するインド・ヨーロッパ語族に目立つ、母音交代という現象である。)
※一方で上谷は古来「かみや」と発音したようだ。古事記では「上(迦美)」と記され「神(迦微)」と明確に区別して表記される。「上」と「神」の2つで発音は違った、というのが上代カナ使いの研究では定説となっているようだ。(別稿でふれる)推測するに「かみぃや」などと発音されていたのかもしれない。また中国では古代から伝わりって現在も旧家で護られ続けている堂號(古代の名字・地域の名称)の中に「上谷」と「壁谷」がある。この2つの文字表記は紀元前からあったものだろう。しかし現在のことろ堂號の中に「神谷」を確認できていない。日本では中世まで文字は一般に使われておらす、使われた場合でも、大きな表記ゆれ(同じ発音でも、いろいろな漢字で書き著された)があったことが江戸時代の古文署でさえ多数確認できる。「神谷」はおそらく日本で発した地名・名字であろう。そのうえで、中世以降に「上谷」と混同したと推測できるかもしれない。
平安時代の『和名類聚抄』から各地に「神」が付く地名が数十か所確認できる。それらをひろってみれば「かむ」と書かれるのがほとんどで「かみ」とするものは一つもない。たとえば、神戸(加無止:かむと)、神門(加無止:かむと)、神埼(加無佐木:かむさき)神前(加牟左岐:かむさき)、神代(加無之呂:かむしろ)、神余(加無乃安万里:かむのあまり)神石(加女志:かめし)などとなる。「かみ」と発音する例は見つからない。実は関西で現在よく見かける「神(じん)」と読む例も、ひとつも見当たらなかった。「じん」という読み方は、おそらくは中国伝来の密教(真言宗・天台宗)、そして漢語の強い影響をうけて、平安期以降に関西以西を中心に「じん」という発音に変わったのだろう。中国語では神を「シェン」と発音するからだ。
※サンスクリット語では山神は「ヤーマ」、海神は「ウㇽーミ」、天神は「クビーラ」という。これらの多数の神々をひっくるめて「カービィ・サマヤ」という。神様と聞こえるだろうか。日本語の神や、アイヌ語であらゆる自然を神とみなして「カムイ」とするのも、おそらくこれに由来するのだろう。なお有名な「ラーマヤナ」など古代王朝の歴史を記した一連のサンスクリット叙事詩は「カービャ」kavyaと呼ばれる。日本に入ってきて『古事記』の編集などのきっかけになったと筆者は推測している。
現在「神尾」の名字は一般に「かみお」とされるようだ。しかし江戸幕府八代将軍のころ勘定奉行を務めた神尾氏については「神尾(かんを )」とカナが降られている。古来この表記が正しく「かみお」は江戸時代後期以降、場合によっては明治になった発生した新しい表記だろう。現在の多くの資料で、江戸時代の人物までも「かみお」とカナが降られている資料も多い。このあたりの事情が分かりにくくなっている。(平安時代までは「かむを」とされており、一部地域では「かも」に変化した。)このように江戸時代に「神」を「かん」と発音していた名残は、現在にも多数残っている。たとえば「神主(かんぬし)」「神田(かんだ)」「神床(かんどこ)」「神取(かんどり)」「神林(かんばやし)」「神庭(かんば)」「神波(かんなみ)」「神盛(かんもり)」などだ。そして現在も「神谷(かんや)」の地名が残っている(茨城県東茨城郡茨城町神谷)が、そこは少なくとも江戸時代初期に「かんや」と呼ばれていたことが検地帳の記録に残っている。
もうひとつ気になることがある。それは特に室町時代まで、日本では「言霊(こどだま)」を非常に畏れていたことだ。「神」そのものではないのに、同じ発音をすることは、直接的には避けられていた可能性があると筆者は推測する。畏れ多きものの名前を直接言葉にだすことは避けらる文化は世界各地にある。日本では人の名前すら口に出すのは憚られ、代わりの名前が使われた。それは「諱(いみな:忌み名)」と呼ばれる。昔の文書では、高貴な人は本名が使われず官職名などで呼ばれ、また女性はその本名は他人に知らせれることはなかった。それが紫式部、清少納言、菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)などとされ平安時代の女性の本名が記録されてこなかった理由でもある。当時の女性は名前を知られると魂が奪われるとされていたようで、親兄弟や夫しか本名を知らなかった。その伝統は江戸時代までは特に顕著で、現在でもわずかに残っている。たとえば企業等では上役は本名ではなく役職名で呼ぶ習慣がある。本名でよぶのは失礼という感覚が残っているからではないだろうか。
特に「神」の発音には気を使っていた可能性がある。しかし「神〇」というように、神という字で修飾される場合は、何らかの「物」であって、神そのものではない。その場合、神の文字の部分の発音が違ったようだ。『古事記』においては、単独で「神」と書けば「迦微」と音している。しかし、個別の神の名称を示す場合を除き、神のあとに文字が付き2文字以上になった例では、すべてでが「神」の部分を「加牟(かむ)」と音している。(別稿で詳しく触れる)つまり古来、単独で「神」と書く場合と「神〇」と複合語を作るときで、発音は異なっていたのだ。
※嵯峨天皇は、乳母が伊予の「神野(かむの)」郡の出身だったされ、これから「神野(賀美能)」という諱が付けられたと記録される。なぜか発音が「加牟(かむ)」でなく「賀美(かみ)」になっている。「賀美」は『古事記』では「上(かみ)」にあてられた音であり、神そのものの発音「迦微」と同じである。(発音が同じでも、文字が違うときは古代において若干の意味の差異があったとされている。)これは天皇であり、本当の神に近づいたという意味ではないかと推測する。
一方で、東京の王子神谷(現在の東京都北区神谷)は、もともと「かにわ」と呼ばれていたようだ。その由来は蟹が取れたことからだという。(この話には明確な根拠がないようだ。)王子神谷の地は江戸後期の『新編武蔵風土記稿』に「カニハ」と記録されている。江戸時代は「賀仁和」「加仁波」と書かれた文書も残る。その地名は明治初期の地租改正の際に「神谷」と書かれたが、それでも発音は「かにわ」だったようだ。いつも間にかその発音が「かみや」へと変化したが、その時期は定かではない。Wikipediaによれば、関東大震災3年後の「大正15年(1926年)に王子電気軌道神谷橋駅が『かみやばし』の読みで設置されたことを契機に、読みも『かみや』に移行した。」とある。おそらくは「神谷(かみや)」という文字と発音は、「神の谷」として、たいへん尊く縁起も良いと誰かが使いだしたことで、地名や人名として、多くの人に容易に受け入れられていったのだろう。
これと似た例は、日本有数の蟹の産地でもある富山・福井方面にもある。たとえば越中富山の「壁谷庄(かべやの-しょう)」の現在の名前は「蟹谷(かにや)」とされる。(現在の富山県勝山市平泉寺町)この平泉寺町に現在も「字壁谷」の地名が地籍簿に残されているが、一方で「字蟹谷」の地名はない。室町中期の文明3年(1471年)、本願寺の中興の祖として有名な、蓮如(れんにょ)が砺波郡壁谷庄(かべやの-しょう)土山という土地に、土山御坊という寺を建立した記録が残っている。それが現在も日本有数の規模を誇る伽藍を構え、多くの国宝・重要文化財も擁している「勝興寺」である。その境内には万葉集で有名な大伴家持(?-785年)が国守として実際に滞在していた国衙(こくが:官庁)の跡も見つかっている。この北陸・中国地方と東北地方は言語学上も方言に共通性があるとされ、それは江戸時代以前に大きな人の交流があったためと思われる。
※平安時代以降の本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)で神仏習合が進み、神様は仏教に吸収されていた。権現号や菩薩号が付けられた神々が祀られ、神は本地仏とされたのだ。いうなれば寺院から独立した神社はなかったともいえよう。しかし、江戸時代の中期以降になって、国学が日本古来の神を復活させた。神様はこのころから復活してきている。そのころまで神様とは「お伊勢さま」「お諏訪さま」「香取さま」「鹿島さま」「天神さま」「お稲荷さん」などと、固有の名で呼ばれており、庶民には「達磨さま」や「お地蔵さま」との区別もつかなかった可能性があろう。
しかし、明治新政府の「神道国教化政策」によって明治3年「大教宣布の詔」が出され、神仏分離令によって寺から神社が完全に分離された。これによって。廃仏毀釈運動が起き、「神(かみ)」というものが、改めて庶民の目の前に忽然と現れたといえよう。同じ年の明治3年「平民苗字許可令」その後、明治8年に「苗字必称義務令」が出されている。この時代背景のなかで、もともとの名字に「神」の文字があった場合に「神(かみ)」と発音する大きな動機付けになったかもしれない。なお関西や中国地方などでは「かや」「みたに」「かむたに」「かんだに」「こうのたに」「じんたに」などと色々な発音がある。明治政府の旗振りによる急激な神道文化による変化は、武家文化の浸透していた関東・東北とは違っていたのかもしれない。
実は明治初期に名字はかなり混乱し、この時代には親子でも、名字の発音が変わったり、あるいは文字表記が代わった例が多数報告されている。この時期、名字の表記をどうするか、自ら決めることができたからだ。混乱に気が付いた政府は何度も法規制をかけたが、収まらず、結果的に放置された。原因の多くが世情の混乱にあるが、その根源には江戸時代はほとんど禁止されていた各地への移住が自由に認められ、また地方の開拓や地方行政の維持のため人材が各地に派遣されたことで、人々の大移動が起きていたことがある。
名字の発音も移動先で違和感があれば困難が伴う。その結果、その地域の方言で一般的とされる発音に変化したことも見逃せない。戸籍には名字の発音はかかれず、勝手に発音を変えることができた。福島以外の地に移動して「神谷(かべや)」と認識してもらうのは、かなりの無理がある。
「壁外」と「神谷作」の地名
一方でいわき市の「神谷(かべや)」の地に隣接する地名に「壁外(かべそと)」「壁無(かべなし」があった。(現在は合併等で神谷地区に吸収されている)昔は水道設備などなく、灌漑も極めて限られた一部にしかなかった。身近に自然の水が流れている地域以外では、人は住むことができなかったのである。古代から関東では「谷」が居住地を示す言葉だった。そこから類推すれば「無」や「外」の地名は、居住地だった「かべや」の地域から、外れた領域なのではなかろうか。
このことを理解するにために助けになるのは、神谷の地が古くは常陸国(ひたちのくに)に属していたことだ。常陸(ひたち)とは現在の茨木県付近をさすとされる。しかし古代の常陸国の範囲は、現在の千葉県、茨木県から福島県そしてのちに陸奥(みちのおく)とよばれる東北地域全体までも含む広大な地域にまたがっていた。後に、常陸の国から陸奥(みちのおく/むつ)が分離されている。当時、現在の福島原発より南側は常陸(ひたち)とされ、北が陸奥と呼ばれていた。つまり現在の福島県いわき市は、常陸の国に属していたことになる。
別稿で触れるが『常陸(ひたち)風土記』では、行方(なめがた)の広大な「谷」に権力者が水田を開拓すると、その境に鉾(ほこ)を立てて、そこから先は神の領域として神社を祀ったとする。たしかにそこには現在の鹿島神宮、香取神宮がある。同じく常陸の国に属していた、いわき神谷の地にあった「壁外」「壁無」の地名は、人の居住地である「谷」から外れた神の領域として、そこに神社が作られることになったのではないだろうか。そんな推理も成り立ち得よう。
実際に地図を開いて確認してみると、いわきの「壁無」地区(現在の福島県いわき市平下神谷字壁無)は、「諏訪神社」の敷地と完全に一致することがわかる。まさに人の住む「谷」と神の領域の境に神社を建てたという『常陸風土記』にかかれた伝説の記述と一致するわけだ。
なお、神谷地区に隣接(現在は合併で神谷地区に吸収)するにも係わらず「神谷作」という地名だけは異例で「かみや-さく」と発音する。この地域で「かべやさく」と発音しない理由は、逆に不自然にさえ思える。その理由は、わからない。ただ、「神谷(かべや)」と「神谷(かみや)作」の地は、それぞれで江戸時代の領主が違うことは事実で、これが大きなヒントになろう。神谷(かべや)とする地域は「幕府直轄領」および水戸藩の支藩とされた「笠間藩領」だった。一方で、神谷作(かみやさく)と呼ばれる地域は、「磐城平藩」の領内にあったのだ。つまり「神谷」の発音の差は、幕府直轄領と、外様大名領地の違いで生まれた可能性があるのだ。
他稿で詳しく触れたが、江戸時代に「磐城平藩」では2万人が城を包囲した「元文一揆」(1738年)があった。その一揆を主導した「壁谷村武座衛門」は処刑され、時代はその慰霊碑さえ建てる事が許されなかった。永久に口にすることすらはばかられたという。(近年になってやっと慰霊碑が建てられた話はすでに触れた。)壁谷の名は、磐城平藩に真っ向から逆らった、なんとも恨めしい名前であったのだ。
さらには、この地は関ケ原の戦いで徳川家に反目したとして取り潰しとなった「岩城氏」の本拠地でもあった。その地名も、室町時代までは「岩城(いわき)」と書かれていたが江戸時代以降に「磐城(いわき)」と改められている。「壁谷(かべや)」も似たような事情で、江戸時代に別表記に変えられたという可能性もありえよう。(なお昭和41年に「磐城市」は「いわき市」となっている。)
※別稿(神谷と壁谷)で詳しく触れるが、古来からの神谷氏の記録は中央では公式に残されておらず、むしろ削り取られた形跡が無数にある。江戸初期に至って、ある事情で神谷の名字は徳川家にとって極めて都合が悪い問題と深くかかわった。そのため、古記録に遡って組織的に改竄された可能性が十分に高いと筆者は推測している。
古来地名では、発音が重視され、言霊となり千年以上の間受け継がれてきた歴史がある。しかし時の権力者の移り変わりで、その文字表記や発音は変わってきた経緯がある。現在の地名「いわき市」も、古代は違う文字で書かれていた。西暦653年(白雉4年)の「石城評(いわきのこおり)」設置が『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』に確認できる。このころは「石城」と書かれていたようだ。「評(こおり)」は701年大宝律令で「郡(こおり/ぐん)」に改められると、石城郡と呼ばれた。
後に「岩城(いわき)国」と書かれるようになる。このことは、平安時代後半に平姓の一族が岩城氏と名のり、この地を支配したとされることと一致している。岩城氏は平安末期には現在の福島県から茨木県に渡る広大な地域を支配して一大勢力となっていた。『常陸国風土記』に登場する行方の地(現在の茨木県行方市、潮来市、鉾田市付近)も、岩城氏の一流と記録される行方(なめがた)氏が治めていた。その岩城氏は室町時代中期には関東の戦乱を抑えた功績で足利将軍から「五七の桐」紋を下賜され、室町幕府では有数の名門となっていた。この紋は、もとは天皇家の紋を足利家が下賜されたもので、当時足利一門にだけ与えられていたものだ。このように岩城氏は関東武家の名門として、平安時代から室町時代にいたるまで、長く君臨していたのだ。
しかし岩城氏は戦国時代の争いに疲弊し、跡継ぎにも恵まれず、代々養子を迎えることとなり伊達氏や佐竹氏と事実上同族化していった。そして関ケ原に参陣しなかった責任を家康に問われ、家名は断絶、いわきの地も没収されている。いわゆる「お取り潰し」である。いわきの地は、旧領主である岩城氏を忌避し「磐城(いわき)」と改名され、磐城平藩となり幕府の譜代大名が領していくことになる。ここまでで気が付くのは、時代が変わり、支配者が変わると地名を表記する漢字(あるいは名字)が変わったことだ。その一方で、その発音は長い間、一貫して「いわき」だったことだ。
※同じような例に現在の埼玉県の川越(かわごえ)がある。そこはもとは「河越」と書かれ、鎌倉時代から河越(かわごえ)氏が領していた。その地は室町後期に小田原の北条氏が領し、関東管領だった上杉氏を破って関東全域の掌握を確実にしていた。(教科書にも登場する、河越合戦)当時この地を支配することは、関東支配を象徴していたともいえよう。しかし、関ケ原の戦いの10年前となる天正18年(1590年)に秀吉による小田原攻めで北条氏が滅ぼされ、家康が関東に配置換えとなると、家康は、河越の地を江戸を守る最重要拠点と位置づけている。のちの「川越藩」が成立する。川越は現在「小江戸」とも呼ばれ、喜多院には江戸城の一部も移設され現在に伝わっている。
※関東・東北が戦乱の真っただ中にあった室町中期、岩城氏は背後の山々に守られた飯野平城(現在の福島県いわき市好間町)に拠点を移し、常陸から南東北にかけた広範囲に勢力を伸ばし全盛を誇っていた。江戸幕府の『寛政重修諸家譜』で神谷氏の祖とされる伊賀氏の出身地も、いわき飯野である。実は鎌倉初期に岩城氏はこの地域の地頭であり、伊賀氏はそのもとで認められた預所(あずかりどころ)といわれる在地領主だった。そして、この飯野の南側に広がる神谷の地を長い間領していたのも、岩城氏の支族神谷氏だった。この三氏は鎌倉初期から同地で相まみえた有力者同士として、争いを避けるため、数百年に渡って強い血族関係を保ち続けたことが容易に予想できよう。この三氏のうちで江戸時代にこの地で唯一勢力を保つことができたのは、伊賀氏流の神谷氏だけだった。その神谷氏が重臣を務めた常陸笠間藩(水戸藩支藩)が、わざざわざ、この「いわきの地」にポツンと「飛び領地」を持ち、わずか数十人で支配する神谷(かべや)陣屋を構えている。伊賀氏が神谷と名乗った歴史的経緯との関わりで興味深い。
※名門だった岩城氏は室町将軍に近づきすぎたせいもあろう、戦国時代には徐々に力を失った。そのため伊達氏や佐竹氏と事実上同族化することで生き延びようとした。岩城氏の娘を伊達晴宗に嫁がせ、次男を養子に迎えた。また小田原征伐後は秀吉の仲介で佐竹氏から養子を迎え入れている。当時の岩城氏当主は、佐竹氏の当主の実の弟となっていたのだ。しかしこれが岩城氏の衰亡の引き金となる。岩城氏は佐竹氏の命により関ケ原の緒戦に参陣しなかったことで、家康に改易されてしまうのだ。数百年にも渡って地域一帯を広範囲に領した名門岩城氏は、その拠点としていた「いわきの地」から永遠に去ることになった。一族は、信濃中村藩(現在の長野県下高井郡木島平村)、出羽亀田藩(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)などに小藩として生き残るだけとなった。
※平安後期に平姓の岩城氏の一門だった岩崎氏(陸奥岩崎氏)が治めていたのは、現在の福島県の郡山・須賀川付近で、当時は岩埼(いわさき)と呼ばれていた。関ヶ原後には減封された佐竹氏の支藩として秋田に「岩崎藩」ができている。しかし、郡山・須賀川付近は、江戸時代に「盤前(いわさき)」と書かれ、明治初期の廃藩置県後に「盤前(いわさき)懸」とされた。(のち福島県に吸収)これも同種の理由であろうか。
本書では「岩城義民 壁谷村武左衛門」とされていた。この地が「岩城」と記述されていたのは室町時代以前のことだった。江戸時代になって旧支配者の「岩城」を忌避して「磐城」にかえたとされる。もし、当地に岩城氏(もしくは佐竹氏)の遺臣だった、壁谷氏がいたとすれば、その名も忌避されたかもしれない。本書に書かれた「岩城義民 壁谷村武左衛門」という表現は、まさにその義憤をも訴えているのでははないだろうか、という推理も成り立ち得よう。「いわき」と同じように、「かべや」の発音に意味があって、それが消えずに表記する文字だけが変わったのかもしれない。
江戸時代前期までは印刷物もなく、文字も滅多に使われることはない。発音が最も重要だった。古来日本では発音に神霊が籠る「言霊(ことだま)」を全否定することは難しく、発した言葉は結果を現す力があるとされていた。発音はあらゆる家で、親から子に何世代にも渡り、口伝で受け継がれていったのだ。これが長い間発音が大きく変わらなかった理由でもあろう。漢字を多用したのは権力者だった。そのため、その文字を変えて、漢語(漢字)で別な意味を持たせることで、文字を滅多に使うことがなく、ほとんど読むこともできなかった地元の住民の混乱も避けることができ、かつ権力者がその神霊の縛りから少しでも逃れることができたのだろう。それが同じ発音で違う漢字に置き換える、この種の忌避につながったのではないかとも思われる。
※ご飯を「しゃもじ」一回でついで子に渡すことは大変忌み嫌われた。その風習は旧家に残る。筆者の母も異常なほど気にしていたが、その理由を聞いても明確な答えはなかった。調べた限りでは、ご飯を一杯ついだその「まま(儘)」で手渡すのは「儘来飯(ままこ-めし)」と呼ばれるらしい。その音から「継子召(ままこめし)」(血のつながりのない、もらい子)として召(め)されることを暗示するということだ。母からつがれ渡されたご飯は、一塊(ひとかたまり)なら、この「塊」は「かい」とも「くれ」とも読まれる。「一塊(ひとかい)」は「人買い(ひとかい)」に、「一塊(ひとくれ)」は「人くれ」に通じる。「一塊(いっかい)」で出すなら「一回出す」となる。もし「一匙(ひとさじ)」であっても「人指し出し(ひとさしだす)」につながろうか。つまり、ご飯をしゃもじ一杯でついで、そのまま母から渡された子には、人買い出され、継子いじめにあう、という言霊が降りてくる。先祖代々、人の親は、その言霊を虞(おそれ)れてきた、ということとなろうか。
別稿で触れるが「壁谷」の名字は紀元前から中国各地に多数存在しており、遣唐使廃止以前に大陸から日本に伝わったと推測される。唐の文化に強い影響を受けた奈良時代から平安時代前期までは、漢字としての「壁谷」が日本で名字として使われ、地方によって違う発音だった可能性が推測される。つまり奈良時代以前は中国伝来(とくに唐の影響)の文字優位となっており、「壁谷」とかかれた名字は全国各地でその地域性に合わせて違う発音で呼ばれた可能性がある。「壁谷」は関東・東北では「かべや」と発音されていた。しかし、遣唐使廃止後は、中国文化の影響は薄れ、日本古来の言霊思想が復活して再び発音優位となり、それから千年以上にわたって長く当地に残ったと推測される。そのためこの地方で使われていた「かべや」の言霊が残ったことが推測できる。
※似たようなことが「会谷(あいや)」と「愛谷」の関係にもいえそうだ。名字の文字や発音は、長い時代に微妙に変化している。別稿で触れるが「あいや」の発音は磐城から能登・中国地方に移って「かいや」へと微妙に変化したとされ、文字で「貝屋」と書かれるようにもなったという伝承が記録されている。なお磐城の「かいや」(正確には「かひや」)は古くは「穎谷」と書き、それ以前は「穎谷(かびや)」と発音された。後述するが「穎谷」氏は、後年に「神谷」氏と名乗ったことが江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』に記録される。
※「会谷」は旧字で「會谷」と書かれたので、文字が良く使われるようになると非常に似た字の「曾谷」つまり、現在の「曽谷(そや)」と混同されたことが推測される。(筆文字では全く区別がつかない。)この「曽谷」については、室町時代初期に「壁谷/神谷」の別名だったと推定できる複数の傍証がある。一例をあげれば、日蓮の高弟として後世に知られた「三位房」は上総の曽谷家(現在の千葉県市川市付近)の出身とされるが、一方で「穎谷三郎、三位房子息」とする記録が残されていることだ。これらの傍証については、別稿で詳しく触れる。このように、「かべや」「かいや」「あいや」などは、この地の名字(地名)に由来し、古来本来は同根・同音である、は長い時代の経過や、各地域への移動によって混交していった可能性が高い。文字が多用されるようになった後世にはその誤読で変更されたにとどまらなかった。明治初期の記録には、文字表記と発音の関係を意識して、名字の表記や発音が変更された実例が多数確認できる。これらを受け政府から名字変更の禁止令が繰り返し出されたが、収まることはなかった。
江戸時代初期、この地の新田開発に成功して讃えられていた「沢村勘兵衛」は讒言を受けて明暦元年(1655年)に切腹となった。沢村の下でこの仕事に従事していた「三森治右衛門光豊」はその遺志を受け継ぎ、延宝7年(1679年) に現在「愛谷江筋」とよばれる農業用水を完成させ、この地に五穀豊穣をもたらしたとされる。昭和になって「水守(みずもり)神社」が建立されている。その祀神は神となった「三森」だった。しかし沢村の名前が残らず、三森(みもり)も水守(みもり/みずもり)に変えられた経緯は不明だ。新田開発に関わる不祥事でその名を称えることができなかった民衆が、沢村と三森の功績を称え「水守(みもり)」としたのか、「三森」がいつのまにか「水守」に変わったのか。
実は三森という地名は会津方面にある三森峠にも残る。そこは古くから「いわき」と「会津」を繋ぐ主要幹線だったところで、縄文遺跡も見つかっており、古代から人が居住していた地域だったことが分かっている。現在は旧道となり使われていない。「みもり」の発音には、おそらくは古くから大変価値のある、とても長い歴史があったことだろう。
「沢村勘兵衛」が切腹となったのは延宝7年(1679年)だ。実はちょうどこのころ、藩主内藤家が内政を疎んじて趣味に走り「小姓騒動」(1680年)などの跡目争いも発生、跡を継いだ世子(よつぎ)も次々と幼年で他界した。これらに付け込んだ悪臣の暗躍が記録され、藩財政は極端に悪化した。沢村はこの争いに巻き込まれた可能性が高い。また凶作の発生でも年貢の減免はされず、ついに元文3年(1736年)大規模な元文百姓一揆につながり、その責任を負わされた「壁谷村武座衛門」が処刑されていた。しかし、数百年にわたってその慰霊碑さえ建てるのを認められず、昭和になってやっと慰霊碑が建てられている。
沢村勘兵衛や壁谷村武座衛門が処刑された時期は、江戸初期のほぼ同じ時期だ。そして同じ内藤家がいわき平藩を治めた時代だ。藩主も幕府によって事実上懲罰されており、いわば喧嘩両成敗になる。沢村や壁谷は、当時の民衆の英雄であっても、藩や幕府から重い懲罰を受けた大罪人の名や地名であった。当時の人々は後世に、その名を「文字で」そのまま伝えることが許されなかった一方で、その発音までも幕府が無理に変えさせることはできなかったか、あるいは敢えて避けた可能性もあろうか。
地名と領主の名の関係
一部の貴種(高位の貴人)を除けば、武士と農民の区別は明確でなかった。戦国時代のころまでは、武士のほとんどは平時は農民としてその土地で生活し「地侍(じざむらい)」と呼ばれた。あるいは地元の「土豪」といわれる実力者が領土を守るために武装し、武士として台頭した例も多く「国人衆」ともいわれた。当時の地域の統治者はその地の古来からの地名を名字として名乗っていた。
特に同族が多い源氏、平氏、藤原氏などでは、新たに進出した土地の名前を後に自分の名字として名乗った。しかし名字は変わっても、姓は変わらない。それぞれその姓は、源姓、平姓、藤姓と呼ぶ。源姓足利氏、源姓新田氏、源姓細川氏、源姓今川氏などがある。いずれも足利郷、新田庄、細川郷、今川庄など、土着した領地に基づく名字であり、その土地名(名字の地)は平安時代には、ほぼ固まっていたことが『和名類聚抄』などの記述からも確認できる。
※たとえば足利氏には、藤原氏の一族もいる。藤姓足利氏といわれるが同じく、この足利庄を領したことが由来である。
秀吉は「刀狩り」「太閤検地」を行い、家康は「檀家制度」を設けるなどして、武士と農民を明確に区別し(兵農分離)、農民を土地に縛り付けて移動を禁止した。確実に年貢を収めさせると同時に、武士は城下町に移住させて防御を固めることで、互いの意識の向上を図り管理も強化しようとした。この仕組みは三代将軍家光のころまでにぼぼ完成する。武士が去った村は、当地の名前である名字が残り、「寄居(よりい)」とも呼ばれた。たとえば神谷の地を領した「神谷」と名乗った武士がいたとしよう、彼らが城下町に去るとその場所に居残った住民が暮らす地域は「神谷の寄居」と呼ばれることになった、という具合だ。
※寄居は鎌倉・室町時代の城郭の跡の名称でもある。「壁谷の寄居」は群馬県などに確認できるが、福島県にはない。
いわき市の北西部にある「赤井」という地名も、先に示した磐城元文一揆当時、磐城平藩において護衛・警護のトップを務めた御番頭「赤井喜兵衛」との関係を類推させる。付近に見える「愛谷」「絹谷」などの地名も、信頼性が高いと言われる平姓岩城氏の古い系図(『国魂文書』岩城氏系図:県指定重要文化財)などに見える一族にある、會谷(会谷の旧字:現在の愛谷か)、貝谷、絹谷との関りが考えられる。時代の流れで一部文字表記が変わっているが、その発音は、室町時代以前にこの地に実在したことがほぼ間違いない地名や名字からきていると思われる。
岩城氏は、常陸大掾(ひたち だいじょう:律令における地位の名称)平国香(たいらのくにか)の子孫とされ戦国時代に、現在の茨木県から進出し、福島県浜通り、千葉県に勢力を広げ多くの支族を出した。現在の東海道にあたる海道(うみつみち)を制し、海道平氏とも呼ばれている。その系図は江戸幕府の編纂した『寛永諸家系譜』に載る。しかし岩城氏系図は後世に一部が操作された疑いがあり、信頼性が高い系図として『国魂文書』(国宝)などと照合させて考える必要がある。國魂文書などによれば「絹谷(きぬや)」氏は江戸時代の平姓岩城氏の本来の嫡流だった可能性が高く、室町時代の岩城氏を始めその他の一族もそこから発生しているようだ。現在壁谷が多数居住している石森山は、地元では「絹谷富士」とも呼ばれている。後述するが、そこは平安時代に平姓岩城氏の初代とされる平隆衡が拠点を構えたと記録されるところだ。
「谷」は東国で見える武士の氏族名で多く登場する名前でもある。これは本来「谷」が山を背景にした窪地で防御しやすい地形であったこと、道教で「谷」が不死再生の象徴だったこと、あるいは中国語(漢文)で「穀」を意味する言葉であったことなどど関係が深い可能性もあろう。なお「谷」は関ケ原より東となる東国(とうごく)では「たに」ではなく、「や」ないし「やつ」「やと」などと発音する。『常陸国風土記』では「やつ/やと」と解され、鎌倉期の『十六夜日記』でも鎌倉で居住地を「月影の谷(やつ)」「比企の谷(やつ)」と記録している。江戸の俳句の宗匠、越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された日本初の方言研究書とされる『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』では「谷」の項では発音を「たに」としながら「江戸近辺にて「や」と唱ふ」としている。
東国の発音
東国には平安時代から鎌倉・室町にかけて多くが移住してきて新しい土地を開拓したとされている。また朝廷から派遣される役人たちも一時的に任地の東国に居住しても、任期がおわると京に戻ることが多かった。また中央で出世が望めない下級貴族たちは、逆に東国に居座って現地の実力者となり、後に関東で武士の勢力が高まる土台にもなった。
和歌に使われる「吾妻(あづま)」を導く枕詞に「鶏(とり)が鳴く」がある。古代の東国の吾妻びと(関東・東北の人)の発音が、理解し難く、あたかも鳥が鳴くように聞こえたからだという説がある。「吾妻言葉」といわれた東国の言葉は、当時の京の人々にとってそれくらい難しかったようだ。
『拾遺和歌集 』··四・三 よみ人しらず
あづまにて 養われたる人の子は しただみてこそ 物はいひけれ
『源氏物語』第五十帖 東屋 から引用
さる東方の、遥かなる世界に埋もれて年経ければにや、声などほとほとうちゆがみぬべく、 ものうち言ふ、すこししたみたるやうにて・・・
※「あづま」は、「東(あづま)」もしくは「吾妻」と書き、東国のこと。
「しただみ(したたみ)」は親指ほどの巻貝で東人の発音は口をあまり開けずに話すため聞き取りにくいことを例えたものともされるが、「舌畳み」と取ることもできるかもしれない。また「したみたるやう」とは、下を見ているように見える、つまり(寒さで?)下を向いて口を開けないで発音する傾向があるとされたのかもしれない。古来からいわゆる東北弁では濁点が付くことが多い。たとえば現在の「秋田」は『日本書紀』では「齶田」と書かれ「あぎだ」と音されたと記録される。おそらく「あぎだ」が当時の現地での発音だったのだろう。(「あぎた」若しくは「あぐだ」とする説もあるが、東北弁としては「あぎだ」が最もしっくりくると、筆者は思う。)
もうひとつ吾妻言葉の特徴に、「い」と「え」の発音が区別しにくいことがある。音声言語学者 杉藤 美代子らによる『方言のアクセントとイントネーション 』によれば、「い」と「え」を区別せず発音するとされる県は、北海道南部・青森東部・岩手・宮城・山形(北部を除く大半)・福島・茨城・栃木(西部を除く大半)・千葉(北部の一部)・新潟(西部を除く大半)・富山(大半)・石川(一部)・鳥取(東部)と、関東・東北上信越から、山陰地・中国地方まで広範囲にわたる。
※実際には「え」と発音しても、他の地域の人には確実に「い」と聞こえる。筆者も若いころ、この地に行って、ご老人の「い」と「え」の発音が全く区別が付かず、大変失礼にも何度も言い直していただき、確認したことがある。しかし何度本人に確認しても、本当に「い」と「え」が別な音と意識したうえで発音しているかどうか、はっきりせず、本人も笑うばかりだった。(もしかしたら、聞いてはいけないことを、聞いていたのかもしれない)現地で「神谷(かべや)」と発音することに、全く違和感がなく、それは代々受け継がれてきたのかもしれない。
これらの地域は、当時中心だった京から、一定以上の距離外れた地域、あるいは平安時代から武士が強かった地域という点でも一致する。たとえば後に武士となる階層の人々は、古代に「い」と「え」を区別しない発音を持っていて、これらの全国各地に移住し、その地に定着した歴史があるのではないか、などと考えることもできるのだろうか。なお、これらの地域の多くが南朝の地方の拠点ともなっている。南朝は、他の地域から隔離された地域に閉じこもり、神仙を擁した秘境の地に拠点を構えたからだ。
これらの地域は現在各地で壁谷が居住する地域、そして別稿で触れる全国各地の神谷氏の古来の発祥の地とも一致している。その後室町時代に東北から九州に至るまで軍の主力が移動して連戦した南北朝時代に、上記以外の地に移住した「神谷」は、文字がよく使われるようになった江戸時代になって神谷と書き、「かみや」と発音するようになった可能性があるのではないだろうか。その一つが現在の神谷が最も多いと思われる愛知県だ。愛知県は、もちろん「い」と「え」をはっきり区別して発音する。この地に移って来て「神谷」と書けば、少なくとも文字が多く使われるようになった江戸時代後期以降に、「かみや」と当然に読むのかもしれない。「かひや」「かびや」「かべや」は、江戸時代以前の関東・東北で、発音が区別されず混同して使用されていた可能性が大変高い
※神谷氏は三河で家康の家臣となって大きく発展をとげた。その三河の武士たちが江戸時代に大名となり、全国各地を領している。それに従って三河の神谷の支族が全国に広がったと思われる。
地図の記述
江戸末期までに存在した詳しい全国地図は『伊能図』しかなく、幕府の崩壊後は明治政府に利用された。伊能図では海岸線にそって村の名前が列記してあるが、地形に重点が置かれているため地名については詳しい記述はない。江戸時代に作られた、この地図には「下神谷村」が存在したことが確認できる。しかしそこは現在の神谷とされる地域からかなり外れた沿岸地域であり、もちろん「かべや」と振りかなが振られているわけでもない。通常文字を書くときにカナを振る習慣はない。公文書であれば、なおさらだろう。古文書でカナが降られているものは、書写したものによってつけられたとみるのが正しく、正しい発音でない可能性を考慮すべきだ。
明治初期に開成学校(後の東京大学)や民間の版元が、この伊能地図をもとに、全国地図を何度か再編集している。これには内陸部の村々も追加記載されている事が多いのだが、しかし付近には「神谷」も「壁谷」も確認できなかった。(国土地理院 古地図デジタルコレクションによる)現段階ではこれ以上のことはわからない。国会図書館などに行き、明治時代の地図をもっと沢山比較すると、何かわかるのかもしれない。
明治初期の混乱
このあたりの地域を領したのは磐城平(いわき-たいら)藩で、江戸初期は先に示した内藤氏が藩主だった。しかし内藤氏は事実上、元文一揆の責任を取らせられる形で延享4年(1747年)に遥か遠方の日向延岡藩(現在の宮崎県)に転封された。これは懲罰の意味もあったとされる。結果的に宝暦8年(1758年)に跡を継いだのが安藤氏が明治に至るまでこの地を支配することになる。これにより、磐城平藩は安藤藩ともいわれた。のちの藩主には有名な安藤信正がいる。明治維新のわずか6年前、文久2年(1862年)に坂下門外の変で失脚するまで老中を務め、和宮(かずのみや:考明天皇の妹)降嫁などで公武合体を推し進めた幕閣の中枢を握っていた強硬な佐幕派でもあった。
磐城平藩の最後の藩主は他藩から養子で入った安藤信勇で、新政府に恭順を示していた。信勇はまだ若年でもあり、実際には隠居していた佐幕派の重鎮で元老中の安藤信正や重臣たちと対立、奥羽越列藩同盟に加盟して幕府側として戊辰戦争を戦ったが、実際には藩論は明確に定まらないまま官軍に全面的に抗することとなった。隣接する磐城泉藩主の本多忠紀(幕末に寺社奉行)、湯長谷藩主内藤政養は強硬に官軍に抵抗し続け、特に内藤政養は若年ながらも自ら戦場に出て戦い、いわきで敗れると仙台まで退いて徹底抗戦し続けた。磐城地域は官軍に対し、反抗的という悪い印象しか与えることはなかっただろう。
この神谷の地を治めた磐城平藩の中老(家老の補佐、次席家老もしくは城代家老か)には、神谷氏がいたことが『姓氏家系大辞典』に掲載されている。神谷氏は安藤家の代々の重臣であり、この地域の状況から、この神谷氏も神谷(かべや)と呼ばれていた可能性はある。
太田亮『姓氏家系大辞典』「神谷」の項の最後「雑記」の部分から引用
15.雑記〔神谷氏は徳川時代、磐城平 安藤藩中老格、〕高遠内藤藩用人、龜田高城藩重臣、母里松平藩重臣、神戸本多藩用人、宮津松平藩用人、松江松平藩重臣たり。また秀康卿給帳に『百五十石神谷種平治』、加賀藩給帳に「千五百石 (六角內抱蝶) 寄合組, 神谷治部」、其の他、 信濃、 志摩等にもあり。
※〔 〕は筆者がつけた。
一方で、この地磐城平には、常陸笠間藩牧野家の支配の「神谷陣屋(かべやじんや)」もあった。本領からポツンと離れた飛び領地であり、その藩主「牧野貞直(さだなお)」は、江戸幕府の寺社奉行や大坂城代も務めた幕府の大物だった。しかし、元尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)らと共に早くから朝廷側に恭順し官軍側に立つことを密約していた。つまり、同じいわきの地にありながら、神谷(かべや)陣屋は官軍側についていたことになる。実は徳川慶勝は戊辰戦争を勝利に導いた陰の大物だった。鳥羽伏見の戦いを無事収め、尾張藩内の佐幕派を処刑すると、大阪城を率先して官軍に引き渡し、尾張藩士を官軍に合流させた。これによって近畿周辺の各藩は一斉に官軍に寝返らざるを得なくなり、官軍は難なく東山道を江戸に東進できたのだ。慶勝は明治政府の事実上のトップともいえる「議定(ぎじょう)」にもついている。(戊辰戦争による総攻撃を前にして、解任された。)
いわきの地では、磐城平藩(安藤藩)の磐城平城、内藤氏の湯長谷藩「湯長谷陣屋」、泉藩の「泉陣屋」があって奥羽列藩同盟側についた。このため、明治政府側についた神谷(かべや)陣屋は周囲を固められて完全に孤立した。明治元年(1668年)6月17日の「勿来町の九面の戦い」に始まり、7月13日の最後の「磐城平城の戦い」で官軍が磐城平城を攻め落とすまで、約1か月に渡り激戦が繰り広げられた。神谷陣屋に集結した藩士約200名(50名との記録もある)は神谷陣屋を放棄し、北方の高倉山中など各地に潜伏して、この1か月に渡って列藩同盟に抗戦し続けたとされる。
このころ、神谷陣屋と同じような境遇にあったのが、現在の福島県田村郡、田村市などに位置した三春藩であった。実は三春藩は早くから官軍に恭順の意を示し、そのことは官軍側にも伝わっていた。しかし神谷陣屋同様、周囲を奥羽越列藩同盟に囲まれていた。疑われた三春藩には仙台藩が駐留するようになり、小藩の三春藩は不本意ながらも列藩同盟に加盟した形で時を過ごした。
磐城平が陥落した7月13日、次の官軍の標的は二本松という噂がどこからともなく流れるた。これを知って三春地域に駐留していた列藩同盟の主力は一斉に二本松に集結した。しかしこれは実は官軍側が仕組んだ罠だった。この間隙をつき三春城は無血開城、そこには東山道先鋒総督府の参謀「板垣退助」が入った。この「三春の無血開城」は板垣退助の功績とされ、このあとの明治政府での板垣退助の活躍の素地を作ることにもなる。
それは磐城平城が陥落したわずか3日後の7月16日だった。かねて恭順の意を表していた神谷陣屋と、恭順の意を隠し続けていた三春藩を拠点とし、戊辰戦争の最大の決戦において緒戦をものにすることは、官軍の戦略にとって極めて重要だった。勢いを得た官軍は、今も世に語られる二本松、会津若松の激戦に相次いで勝利し、戊辰戦争の勝利を決定的なものにした。
※このことで三春は長く「三春狸」などと陰口を言われ続けることになる。しかし、実際には神谷陣屋と三春がともに官軍側についたことで、戊辰戦争が一気に終結していた。
士族の名簿から、官軍に早くから恭順の意を表していた三春藩の藩士には複数の「壁谷」氏がいたことが確認できており、その壁谷は伊藤博文の元で明治新政府の官僚として活躍したことは別稿で詳しく触れる。官軍側についた神谷陣屋の跡には、明治6年に明治政府により小学校が建築された。現在のいわき私立「平第六小学校」である。そこには牧野家から贈られた「龍」の彫刻が残されている。また、いわきの海岸よりには「泉」という地名が以前からあり、壁谷と関係の深いと思われる「水」や「龍」との繋がりは大変興味深い。
※新政府の議定(新政府の政府の事実上のトップ)となった元尾張藩主徳川慶勝は、幼いころ、夫が三春藩士だった「壁谷伊世」が江戸の上屋敷で面倒を見た記録があり(乳母だったか。別稿を参照)尾張徳川家と壁谷家との間で、何らかの関係があった可能性がある。のちに三春藩家老らが官軍側となる朝廷の密使と会って恭順を誓った記録も残っており、これが三春藩の無血開城につながっていた。慶勝の意思を受けた壁谷が、これに何らかの関わりを持っていた可能性も、もしかしたらあるのかもしれない。
版籍奉還の直後、神谷村は「壁谷村」に?
翌年の明治2年6月17日に「版籍奉還(はんせきほうかん)」されたが、戊辰戦争の翌年でもあり、当地は大凶作となった。このとき明治政府に報告された公式の記録には「収穫高は岩代で三分。磐城では二分で特に三春と壁谷では一分」とされている。ここでは「神谷(かべや)」の地名は、「壁谷(かべや)」と記載されている。たしかに混乱の時期だったかもしれないが、明治政府に提出された公式記録に残された、「神谷」地区の名を「壁谷」とする記録には、一定の重みを感じる。引用した論文『維新政権の地方財行政』によれば、「三春と壁谷」とするこの記述は『日本産業資料大系』「今世農史(巻一)」に掲載されているとしているが、筆者は現物をまだ確認できていない。
この書類を作成したのは「坊城俊章 (ぼうじょう としあや)」であった。坊城は、公家でありながら軍人として官軍に従軍し戊辰戦争を戦った。その事務処理能力がたいへん高く評価された人物でもある。明治2年6月には「巡察使」となり、東北各地を視察して政府に報告したが「三春と壁谷」と記した報告が明治政府に出されたのは、その時のことである。8月には三陸磐城両羽(ほぼ東北地方全域)の「按察使(あぜち/あんさつし)」となり、東北各地の県令(後の県知事)が決まるまで、東北全域を統治する最高責任者ともなっていた。後に山形県令(県知事)、貴族院議員などを歴任し、伯爵となった。
前稿で示した大正時代の著作『義民か賊徒か』では「岩城の壁谷村」と書かれていた。「岩城」は岩城氏が現在の「磐城」の地を領していた、室町時代までの名称である。とすれば室町時代まで「壁谷」と書いた地名が、江戸時代に「神谷(かべや)」へと変えられた歴史があったのかもしれない。いわき市史によれば、明治維新から廃藩置県が行わる明治4年7月までの間、この地には磐城平民生局が設置され、磐城平の地を暫定的に治めたのは、常陸笠間藩(旧真壁藩)、そして三春藩だった。その時期に作られた資料である。「三春と壁谷」と書かれたのは、徳川政権を否定し、旧来の名前に戻そうとした朝廷側勢の、強い意図があったという可能性も否定することはできない。
※常陸笠間藩はいわきの地に、神谷(かべや)陣屋を置き、飛び領地として治めており、一方で三春藩には壁谷氏がいた。この常陸笠間藩の地は、鎌倉時代以降は常陸平氏の真壁氏が領し、この真壁氏から神谷氏が発したという記録がある。江戸初期は笠間藩は真壁藩とも呼ばれ、牧野氏が治めたが、その重臣に神谷氏がいたことも興味深い。
本書『義民か賊徒か』では年号で「天文」と記述されるミスがある。正しい年号は「元文」だ。筆者が思うに、これは筆書きの古文書を書写した際というより、「天」と「元」の活字を写植する際の「見間違い」あるいは「校正」のミスと考えるべきだろう。このような過程で発生する写植ミスや校正ミスは、昭和の時代にも頻繁にあり、新聞や本でも文字が一か所上下さかさまになっているなど、普通のことだった。筆者も若いころ出版社で編集・出版に携わり、校正も何度か担当した。何人もが目を通し、何度見直しをしても、ミスを完全になくすことはできなかった。
※昭和のころまで鉛でできた活字を1つ一つ職人の手で拾い集め、これを並べて印刷用の「版下(はんした)」を作成する作業を「写植」といった。そうしてできた版には、相当に無茶苦茶な誤りがある。これを「仮刷り」し、ミスがないのか複数のスタッフで確認して「赤入れ」する作業を「校正」といった。
同様の事情から、「神谷」とかいて「壁谷(かべや)」となった印刷過程のミスと考えることも、もちろん否定できない。しかしそれはおそらく違うだろう。まず第一に、何度も登場する「神谷村」を「壁谷村」と連続して写植ミスをしたとは思えない。しかも「壁谷村 武左衛門」は『義民か賊徒か』の話の中心となる重要人物だ。悲劇のヒーローとしても語られている主人公の名前を、繰り返し何度も何度もミスで書き間違え、さらにはチェック漏れしたと考えるのは無理があろう。
また筆文字の「神」と「壁」は、素人でもはっきり区別できるほど違う文字でもあり、読み間違い写し間違いもないだろう。筆文字の「神」は非常にシンプルに略される文字で、最後に右下に特徴的な点が打たれ、一目で見分けがつく。一方「壁」の字は筆文字では意外に省略され、右上に大きな丸い部分がある大変特徴的な文字となる。筆者のような素人では「壁」と読むのは無理だろう。滑らかな流線形の筆文字を見て、どこが「壁」なのだと、今でも思えてしまうほどだ。
江戸時代を通じて「元文一揆」は公に語ることさえ許されず、犠牲となった村人の慰霊碑さえ立てられなかったと伝わる事情があった。一方で本書にのる一揆の経緯は、当時の地方との連携や人名も多数記述され、時系列で大変細かく、まさに当事者でないとわからない迫真性と具体性を伴っている。ここまで詳しい話は、この著作の情報のもとになった文書が、少なくとも大正のころまで秘蔵されていた可能性が大変高いとも思われる。もしかしたら、江戸時代に壁谷の名を出すことも憚られ、密かに遺族に代々伝えられてきた古文書だった可能性もあるのかもしれない。
この一揆の処分を決めた幕府の責任者は、江戸幕府の勘定奉行「神谷武右衛門家」の当時の当主、「神谷志摩守久敬」だった。この一揆の不始末を理由に、藩主の内藤家が磐城平から延岡(現在の九州宮崎県)に転封となった。このとんでもない遠距離の転封は、内藤家にとって大きな懲罰といって良いものだ。それにともなう大移動を幕府側で管理した「道中奉行」も、勘定奉行「水野忠伸」と「神谷久敬」の二人だった。『転封実現過程に関する基礎的考察』によれば、転封に伴う費用は二万両にも達し、その道中警備の安全面・費用面などで木曽路を通るとして相談するため、磐城平藩の留守居役保井勘左衛門が、神谷久敬の用人(ようにん:伝言役)に意向を確認した記録が残っている。
そういえば、義民そして当時の英雄として名を伝えられた「壁谷村武左衛門」を無情にも処刑する判断をした「神谷武右衛門」家出身の勘定奉行「神谷志摩守久敬」だった。非常に名が似ていることが気になる。官職の由来によれば「武右衛門」と「武左衛門」では、後者のほうが格が上とされる。つまり「武右衛門」の神谷より、「武左衛門」の壁谷が格が上だということになる。これは、実は穿った見方と言えるかもしれない。
もしかしたら、神谷氏によって、壁谷の名を神谷に替えられたのではないかとの仮説も成り立う。たとえそうだったとしても、当時の時流から避けられないことだったろう。この義憤を後世に伝えるために、江戸幕府の権力に由来する「磐城」と「神谷」の名を避け、さらには「武右衛門家」に言葉を懸け、本書の主人公の名前を「岩城の壁谷村武左衛門」と書かないといけなかったのかもしれない。
安藤藩の家老にも、神谷氏がいた。水野家や安藤家のそれぞれの家老の家系だった神谷家と、幕臣神谷久敬の神谷武右衛門家は、江戸初期の祖先を同じにしていた。またその水野家も出身はもともと三河苅谷藩(現在の愛知県刈谷市)であり、その刈谷(かりや)の名も神谷(かひや/かべや)が由来の可能性がありそうだ。一方で、現在の愛知県は少なく見積もっても数千人の壁谷が居住する地域でもある。これらは三河を直轄領(御料地)としていた室町幕府あるいはそれ以前の律令時代と強くかかわると思われる。今後別稿で触れていきたい。
戊辰戦争で官軍に抗した当地の磐城平藩(安藤藩)の家老にも、やはり神谷氏がいたことは先に説明した。この地域の特性からも彼も神谷(かべや)と呼ばれていた可能性は高い。官軍で明治初期にこの地域を一時統治した坊城は、明治新政府側に従わなかった安藤藩佐幕派の家老の名である「神谷(かべや)」字も忌避し、あえて「壁谷(かべや)」と政府に報告したのかもしれない。
歴史上大きく語られることはないが、尾張藩主だった徳川慶勝は明治4年まで新政府の「議定(ぎじょう:政府の三役)」として戊辰戦争を主導し、尾張藩士は官軍に合流して東北に向かっていた。実は徳川幕府内部から明治維新を切り開いた最大の功労者だった。そんな徳川慶勝が幼なかったころ、江戸の上屋敷で面倒を見たことが記録されるのは別稿で示した「壁谷伊世(いせ:もしくは壁谷伊勢)」であった。幕臣の母と記録される壁谷伊世も、幼いころ三春藩内で教育を受けた記録が残っており、おそらくは三春藩出身だったと推測される。戊辰戦争でこの地の勝利に一役買ったともされる三春藩の藩士には、当時複数の壁谷氏がいた。明治中央政府では、宮内省や内務省の官僚としてこれらの士族の壁谷が複数記録され活躍している。この地が神谷(かべや)とされていたこと、官軍に協力した壁谷(かべや)氏が複数いたこと、このあたりも当時この地域を壁谷村と呼んだことと関わってくる可能性があるのかもしれない。
神谷の地名と壁谷
明治4年7月14日(1871年)に廃藩置県が実施された。士族名簿の照合から、もと三春藩士だった推測される「壁谷可六」は、明治7年(1874年)11月に24歳で「盤前縣(いわさきけん)士族」として採用され、しばらく東京に出張ののち、戻ってきて磐前県(のちの福島県)の官吏として明治政府の一大事業「道路改正」「地租改正」の取調事務を担当した。このとき「神谷」地域の範囲や、表記・発音も最終的に決まり、それが現在に引き継がれていることが容易に推測できる。
その当時の福島懸の名簿には地租改正の担当者は壁谷可六の一名しか記されていない。とくに地租改正は大事業だった。多くの反対から各地で一揆まで起こり、完了まで長年かかった明治政府の一大難事業を、最初から最後までおそらく、可六はほぼ一人で責任を担ったと思われる。
※別稿で触れるが、旧三春藩(現在の福島県田村市)藩士だったと思われる壁谷可六(三春藩士の名簿では壁谷嘉六と書かれる)は若かったが、蘭学や算術に大変長けていたようだ。可六が学んだと思われる恩師は、旧三春藩士で同じく東京の明治新政府に招かれ、日本全国の地租改正事業を主導した、佐久間庸軒(さくまようけん)だった。彼は和算家として現在の歴史の教科書にもその名が載っている。
地租改正を専任で担当した可六は、この「(神谷村)かべやむら」の表記をどうするかについて、直接に深く関わっていたことが容易に推測できる。「壁谷(かべや)」の名をもつ可六が、地元の反対が多く明治政府の難事業となった地租改正にあたって「神谷(かべや)」の表記に決着させたことはぼぼ間違いなかろう。可六はその後東京に移ると内務省に務めて、伊藤博文の忠実な部下として帝国憲法に深く関り、『憲法義解』など日本の各法律を説明する書籍を執筆・出版した。これは憲法や各種の法について記した日本初の書籍となり、後世に名を残すことになった。
壁谷可六の東京における住所は、明治20年の『紳士録』によれば、なんと「東京市芝区神谷町」であった。可六がこの「神谷」の地名に特別な感情をもち続けていたと考えるのは、筆者の浅はかさが故だろうか。現在その地(港区虎ノ門)には神谷の名はなく、地下鉄日比谷線「神谷町(かみやちょう)駅」が名残を残すのみだ。
神谷村の変遷
明治11年(1878年)には「郡区町村編制法」、明治18年には逓信省(のちの郵政省、現総務省)発足に伴う西洋制度の導入、明治22年(1889年)「市制町村制施行」、明治23年(1890年)の「郡制施行」などがあり、その後の大正昭和、さらには平成の大合併などで大幅な地名の変更で合理化が進められて昔の正確な地名を調べるのは難しい。Wikipediaでは、明治22年以降の地名の変遷について、『市町村名変遷辞典』( 楠原 佑介 地名情報資料室 東京堂出版 1999年)の情報を引いて以下のように記している。
Wikipedia(2018年10月段階)「神谷村 (福島県)」※『市町村名変遷辞典』を根拠とする。
神谷村(かべやむら)は、福島県磐城郡(後に石城郡)にあった村。現在の福島県いわき市平地区「上神谷」。(中略)近くに「下神谷」という地名もあるが、旧・「草野村」なので旧・神谷村ではない。(中略)
(明治22年)1889年4月1日 - 「中神谷村」、「上神谷村」、塩野村、鎌田村、上片寄村、下片寄村が合併して神谷村となる。
※「」は筆者がつけた。
上記記事では「下神谷」を神谷村ではなく、草野村だったとして除外している。その一方で「草野村」を見ると、実は草野村も、もともとは「下神谷」村、「北神谷」村などが合併してできた村だった。つまりこのあたり一帯は、もともと広大な神谷村だったのだ。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により磐城郡泉崎村、「下神谷村」、原高野村、絹谷村、馬目村、水品村、「北神谷村」が合併し、「草野村」が発足。
※「」は筆者がつけた。
『いわき市史』にはさらに細かい情報があり、幕末に存在した村々が、いつどう合併したかの変遷が記されていた。以下『いわき市史』から引用する。
明治7年2月12日、合併して「下神谷村」に
下神谷村、赤沼村、六十枚村(幕府領)
明治22年4月1日に、合併して「草野村」に
原高野村(幕府領)、絹谷村、馬目村、水品村、北神谷村(笠間藩)
明治22年4月1日 如何合併して「神谷村」に
鎌田村、塩村(磐城平藩)、上神谷村、中神谷村、上片寄村、下片寄村(笠間藩)
明治22年4月1日 合併して「高久村」に
下高久村(幕府領)、下山口村、上山口村、神谷作村(磐城平藩)
この資料から、江戸時代に「神谷」と付く村は、幕府領、磐城平藩、笠間藩の3つの藩にまたがって5つの村が存在していたことがわかる。それらを加えると6村になる。この神谷の名は、江戸時代の藩の枠を超えて存在していることから、神谷の地名は江戸時代以前からあった古くからの村名であった可能性が強く示唆されることになる。これらの村々は、昭和25年5月15日以降「いわき市」に段階的に吸収されて現在は存在ぜす、「神谷(かべや)」地区として地名に残っている。「神谷」とかいて「かべや」と読む、至って不便にも思えるこの名前が残っているのは、この名を地元の人が「かべや」の名を大切にしてきた歴史があるのではないだろうか。
※現在のいわき市平神谷作は「かべやさく」ではなく、「かみやさく」とフリガナが振られている。隣接する地名で、同じ漢字で書く文字の発音が違うのは大変珍しい。その理由はおそらく、江戸時代には違う藩の統治下にあったからだろう。
昭和25年に神谷村は平(たいら)市と合併することになり、神谷村はその長い歴史を閉じることになった。この際に神谷村の村長だったのは神谷市郎である。神谷の村役場は平市役所神谷支所となった。彼はその神谷支所で『神谷郷土史』を編纂・発行している。翌昭和26年の事だった。おそらく、神谷の歴史を残したかったのだろう。残念ながら筆者はこれを確認できていない。この地では神谷の名字もかべやと発音される。神谷村村長だった彼の名字も「神谷(かべや)」と発音したと推測される。
石森山の壁谷
朝廷側につき戊辰戦争を回避したいわき神谷(かべや)陣屋の武士らは、北に逃れ、薬王寺や高倉山(標高163m)の山中に籠ったとされる。しかし高倉山に向かう途中、神谷陣屋からわずか1,2Kの距離に、標高225mとさらに高い「石森山」がある。福島県の公式ページによれば、石森山はその美しい姿から「絹谷富士」とも呼ばれ、頂上の石森火山岩塊は市の天然記念物に指定されており、樹木がないため360度見渡せ、遥か太平洋まで望むことができる。とされる。
この石森山は、南北に小高い山脈が流れる南端でもあり、その南側のなだらかな斜面は日当たりよく、両脇には川が流れる。その山腹からはいわきの平野やから海まで一望でき、地元では、「磐城山」あるいは「飯森山」とも言われるようだ。実はこの中腹にも石森地区があり「壁谷(かべや)」が現在も多数集中して住んでいる地域である。現在でもおそらく数十名から数百名は存在するだろうと思われる。
※旧三春藩の壁谷の出身地は石森地区(現在の田村市船引町石森)であることは既にしめした。仙台でも石森の地名に隣接して壁谷の地名が確認できる。他の関東・東北の地域では、栃木、群馬などに壁谷(かべや)の地名の場所に、壁谷(かべや)の名字の人々が集中して居住している例が確認でき、そこにも石森(石守)の地名が残る。
別稿で触れる予定だが、この「石森」の地域近辺は田村麻呂伝説にも登場してくる。万葉集で有名な「勿来(なこそ)の関」で登場する「勿来」の地名や、壁谷に付きまとう水や泉の名をもつ地名はこの周辺に目立つ。石森山は実は古来から伝説に包まれた地であった。『磐城資料』では、平安時代に、平姓岩城氏の租であるとされる平隆衡(たかひら)が砦を築いたところとされている。奥州藤原三代の全盛の時代、この石森山を守っていたのは岩城氏だった。壁谷は平姓岩城氏の(楢葉氏、白土氏)一族の末裔で平安時代末から室町時代にかけて活躍していた穎谷(かびや)氏、のちの神谷(かべや)氏との関係が疑われるが、そのことは別稿で触れていく。
『磐城史料』から引用
(平)隆衡を岩城次郎と偁し好馬に住し、砦を石森山に構ふ
※かっこは筆者がつけた。
江戸時代は近くに磐城泉藩があったが、現在も泉が丘、泉玉露、泉町、泉町黒須野、 泉町下川、 泉町滝尻、泉町玉露 、 泉町本谷、 泉もえぎ台・・・。磐城平の神谷陣屋(かべやじんや)に祀られていたのは「龍」であり、跡地に立った小学校に寄贈され現在も保管されていた。
「坂上田村麻呂」の伝説が残る福島県田村郡船引(ふねひき)にも「石森」地区がある。この石森地区にもやはり多数の壁谷が住んでおり、とくに石森屋戸など数十家の壁谷が集中して居住する地域がある。別稿で触れる予定だ。壁谷は福島や茨木、埼玉、千葉から東京に広がってきるが、口伝で伝わるいくつかの伝承からその発祥の地の候補地の一つが、このあたりかもしれないと推測される。
石森の読み「いしもり」という発音に注意すれば、「石守」とも書ける。「守」は「かみ」と読み「頭」ともかく。石守は「石守(いしのかみ)」と読んでいたとすれば、律令制時代の石城(いわき)の国守に由来するかもしれない。とすれば壁谷は国主を守護した名字だったのかもしれない。
※福島県は全国有数の石の産地であり「石の国」ともいわれる。古代の神の依り代となったり、巨大な建築物を作るときに使われたのも石であった。
石森地区は現在はいわき市に区画整理され、大きな住宅街が広がり「石森ニュータウン」と呼ばれている新興住宅街となったようで旧来の地名の多くが消えたが、すこし前まで「石森屋敷」、「石森屋戸」などという古めかしい名前の住所がならんでいた。「屋敷」は大きな屋敷があったことを意味する。また「屋戸」は、現在のように宿場の「やど」という意味ではなく、居住地を意味した。「御屋戸」「御館」は、主人、頭(かしら)の意味もある。鎌倉時代以降は「谷戸(やど)」には背後に山を抱えた谷地にあったとされる武士の屋敷を意味していた。また「屋形」は室町時代の守護大名の呼称でもあり、室町時代の岩城氏は、確かに守護大名(屋形)でもあった。石森屋形・屋戸の地名は近隣の船引町にもあったが、その周辺にも壁谷の一団が多数居住している。
※室町時代の守護代大名は「屋形」と呼ばれた。関東八屋形にある長沼氏は、鎌倉時代に栃木に壁谷城を作った記録があり、その後福島県須賀川市、会津に退き、戦国時代に再び栃木の地に戻っている。須賀川・会津にも現在壁谷が多く住む。なお「屋戸」「宿」には自宅の意味がある。古語辞典などにれよば、宿を旅の宿泊地と解する現在の意味は、後世になって「やどり」という言葉の意味が混じって発生したものとされる。
※現在の田村氏船引町周辺は室町時代までは田村氏の支配にあった。室町初期の奥羽管領から奥州探題のもとで団結し、平姓の同族の岩崎氏、岩城氏、楢葉氏、標葉氏、行方氏らが中心になって「海道一揆」(守護大名の一種の運命共同体的な団結を一揆と呼ぶ)を結んでいたが、これには田村氏も加わっていたようだ。現在は福島県仲通りとなる田村市で常葉(ときは)城にいた田村氏は自ら「常葉の輩(ともがら)は海道に属す」と残している。
※中世までは利水・治水技術が発達していなかったため、水の豊富な山間の谷地で稲作が開始されそこに人が住んだ。その地はとくに関東・東北において「谷戸(やと)」「谷津(やつ)」などと呼ばれ、現在も至るところにこの古地名が残る。(「壁ケ谷戸」の地名は関東に数か所ある)「谷戸」は「屋戸」より広い地域に渡った可能性もあるが、その発音や意味から混用されたことが推測される。
壁谷の比率は大幅に下がったと思われるが、それでも石森地区には、現在でも多数の「壁谷」が居住しているだろう地域である。大きく変遷している石森を見るとき、壁谷の伝承をいつまでも持ち続けていただけることを祈りたい。筆者もできれば今後、その伝承を聞き集める機会を探りたいと思っている。
石森の壁谷が士族として扱われたかどうかは、あるいは神谷陣屋側にいたのか、岩城平側だったのか、それとも郷士だったのか。その名は、神谷と書いて「かべや」と発音されていたのか、それとももともと「壁谷(かべや)」だったのかなど、現在筆者がもつ記録では確認できていない。明治初期に士族とされたのは旧幕臣や、藩士、郷士も含まれるので、当時の状況から、士族とされた可能性があると思われる。ただし明治新政府に強硬に反発した武士たちは、士族を剥奪され山奥や遠隔地に追いやられている。戊辰戦争の奥羽列藩同盟で、この地の壁谷がどのように関与したのかによって、その立場は大きく変わっただろう。
平安時代末期にあった穎谷
この神谷の地名は平安末期にあったとされる磐城郡穎谷邑が起源で、後に神谷邑と呼ばれるようになった。古事記を引く『広辞苑』や、各種の古資料から穎谷は古代は「かびや」と発音されたことはぼぼ間違いない。古くから当地の地名だったと推測され、平氏の一族だった岩城氏(白土氏、楢葉氏)がこの地を領して穎谷氏を名乗ったと記録が残が江戸幕府の『寛政重修諸家譜』に記される。おそらく頼朝の奥州合戦でこの地を与えられたと推測される。
※「穎」は現代は「頴」と書かれ一般に「えい」と発音するが、本来の文字は「穎」であり神にも供えられた稲穂の種籾を意味する。室町時代の白川家に伝わった記念祭(きねんさい/としごいのまつり)の記録によれば「穎」は「かひ」と仮名が降られており、平安時代の辞書には、「穎」は唐から伝わった文字で「加尾(かび)」と発音するとある。
この穎谷氏は室町時代にいつのまにか神谷氏と名を変えていた。それはこの地の名前が、穎谷邑から神谷邑に変わったことによる。鎌倉幕府の滅亡や、室町幕府の創建に功績をあげ南北朝でも敵味方に分かれて戦い、三河を中心にした勢力はその後も名家として残った。しかし室町幕府の関東公方側についたことで勢力をそがれ、さらに後北条氏が滅亡したあと家康が関東に進出したことで、岩城氏、佐竹氏らとともに、江戸時代以降は再び東北の地に退くことになった。家康の三河統一のころや、秀吉による関東移封の際、一部の神谷氏は家康の家臣にもなった。
神谷氏の一族は中国、九州地方にも退いている。現在も島根県にはその昔に磐城で「穎谷」と名乗っていたと伝承が残る貝谷(かいや)の名字が現存する。その伝承では「穎谷」の名字は当時なんと発音したのが、わからないとされている。現在のいわき市の神谷の地名は、この平安末期の穎谷、貝谷によるだろう。この一連の流れは、穎谷氏、神谷氏に触れている複数の別稿で詳しく触れているので参照されたい。
島根県では意味にいる「アメフラシ」を「ベコ」という。アメフラシは貝類の仲間でその殻が退化したものだ。そ姿は角の生えた牛にも見え「ウミウシ」の別名もある。(ウミウシは分類学上の正式名称ではない)「ベコ」とは東北の名産物で牛をさす東北弁とされるが、北海道でも使われる。実はアイヌ語で牛を「ベコ」というのだ。島根と東北・北海道で「うし」に「ベコ」があてられているのは興味深い。
※実はその中国地方にも神谷の名字があり、そこでは「神谷(みたに)」と発音される。
高月稲荷
現在の当地には、「高月稲荷」通称「いなっしゃさま」がある。その社伝によれば、内藤氏が元禄8年( 1695年)にこの地に封じられたとき、磐城平の「高月屋敷」に移り住むに際して、江戸藩邸に奉斎していた「濁鈷稲荷明神(どっこいなりみょうじん)」を遷宮した。しかし前稿で記した元文一揆(1738年)の責任を取らされて延岡藩へ転封される際に、同じ村の名主「佐藤長次郎衛」に預け置くことになったとされ、それが現在の「高月稲荷」とされる。前稿で示したが、元文一揆で処刑された「壁谷村武座衛門」の跡を継ぐことになった当地の名主の名は、まさにこの「佐藤長次郎衛」であった。おそらく奥州藤原時代の佐藤氏の一族が大庄屋と神主を兼ねた地元の実力者であり、それが元文一揆の中心人物のひとり、「壁谷村武座衛門」、こと「佐藤武座衛門」の血縁者だったと思われる。
当時は夏井川が何度も氾濫し、稲荷も水害を避けて文政6年(1823年)笠間藩神谷陣屋(かべやじんや:現在の、いわき市立平第六小学校の位置にあった)の鎮守として裏山にお祀りしたとされる。神谷陣屋の背後に山腹がせまっており、北西にはそれに連なる、前出の大森山がそびえたつ姿が見えるだろう。
ここで気になるのは神社の名前である。「独鈷(どっこ)」とは、あらゆるものを摧破(さいは)し、煩悩を打ち破ることで、密教の力と知恵を生みだす真言・天台密教の強力な「武器」であり「法具」を意味している。とくに「独鈷」とする場合は、真言宗の意味合いが強い。そうすると、神仏習合の江戸時代には真言宗とかかわりが深い「豊川稲荷」系列の「荼枳尼天(だきにてん)」が稲荷の祭神に間違いないと推測できる。しかし、予想に見事に反し祭神は、真言宗とは無関係の古代の皇神「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」なのである。
※稲荷の祭神には二種類ある。「豊川稲荷」系列の「荼枳尼天」と、「伏見稲荷」系列の「倉稲魂命」である。前者の「荼枳尼天」は元はインドの神さまであり、真言・天台の密教ではその破壊力は絶大とされる。豊川稲荷は愛知県にあり、その直近には「壁谷」が全国一集中(おそらく数千名)して居住する地域がある。(インドの古代サンスクリット語には、kaveya、kavya(カービャ)に「預言者の詩歌」つまり一種の聖書の意味もある。)一方で、後者の「倉稲魂命」は日本神話に登場する穀物の神であり室町時代に、稲荷として祭られるようになったとされる。
古代皇神をまつるこの神社に、相反する密教の法具「独鈷」の名がつくのは何を意味しているだろうか。別稿では、平氏の一族が室町時代にこの「神谷(かべや)」へ改名したと記録されることに触れている。その経緯に関わるキーは、実は密教の破壊力をそなえた強力な「荼枳尼天」にあったと筆者は推測している。その結果「倉稲魂命」を掲げたのではないだろうか。このことは「荼枳尼天」が「文殊菩薩」と一体とされる(『宿曜経』などによる)こと、隣接する福島県田村市にあった文珠(もんじゅ)村の名が、「文殊(もんじゅ)」の文字をあえて使っていないこと、文珠村にも壁谷が多数居住していることと合わせて興味深い。この文珠村の壁谷は、田村麻呂伝説を引き継いでいた。
磐城の地名の変遷
岩城の国は、古代は「石城」と書いた。『常陸の国風土記』には「石城評(いわきのこおり)」とある。また『続日本紀』元正天皇の養老2年(718年)5月2日の條には「陸奥(みちのく)の石城、標葉(しのは)、行方(なめがた)、宇太、亘理(わたり)、常陸の國の菊田の六郡を分離して石城国を設置した」とある。
奈良時代まで「石城(いわき)」と呼ばれてたのが「岩城(いわき)」にかわったのは平安末期以降の平氏姓岩城氏によるものだった可能性がある。これをさらに「磐城(いわき)」に変えたのは、江戸幕府の支配に代わったことで旧勢力岩城氏を忌避したからとされている。
※「春日部」は中世に「糟壁」と改められ、元禄のころに「柏壁」と書かれたとされる。(『埼玉県地名辞典』による)幕末の伊能図(伊能忠敬)にも「粕壁」の名が残る。しかし明治以降に春日部に戻された。現在は春日部市内の地名に「柏壁」が残っている一方で「春日部」と書く地名は春日部市内にない。江戸時代は幕府の天領となり「柏壁宿」として繁栄していた。その前は足利氏の分家だった丹波(現在の兵庫県)の春日部(かすかべ)村を発祥とする春日部氏がこの地を領していたとされるが、さらに遡ると、安閑天皇(欽明天皇の兄)の皇后「春日山田皇女(かすが-のやまだのひめみこ)」の直轄領としての「春日部」だったことが由来ともされる。(『角川日本地名大辞典』による)
今後整理すべき課題
1)昭和25年5月、神谷村が平市と合併している。神谷村の最後の村長となったのは「神谷市朗」だった。神谷地区では、名字も神谷(かべや)と発音するので、おそらくは、彼も神谷(かべや)の名字を名乗っていただろう。神谷は、そのまま平市役所神谷支所長となり、翌年には『神谷郷土史』を発行している。
また神谷地区世帯分布図も含め、 志賀伝吉による『神谷村誌』が出版されている。国会図書館にあるが、非公開のようだ。その他にいわき市史編さん委員会『いわき市史』、いわき地方史研究会『いわき地方史研究』などがあるようだ。機会があればぜひ見てみたい。
2)上神谷(かみかべや)の名字は現在の茨木県や福島県に若干あることが確認できている。室町時代に上神谷(かみかべや)という名字が磐城(福島県)以外に、常陸(現在の茨木県)にあったようだ。常陸は佐竹氏の所領だったが、江戸時代に秋田久保田藩に転封され、その家臣にも上神谷家が記録される。
一方で円覚寺文書に鎌倉時代末期の建武元年七月二十七日の記述に「上壁屋左衛門次郎は武蔵国恩田御厨内田島郷田在家を沽券に背き乱暴す」とある。この名字は「かみかべや」であろう。「上壁屋」の地名や名字の現存が確認できず、一方で「上神谷」名字が多数確認できることからおそらく「上神谷」だったのではないか。平安後期から恩田御厨(武蔵野國大里郡大里村、現在の埼玉県熊谷市上恩田・中恩田・下恩田あたりか)は伊勢神宮の荘園だったが、この資料で「沽券(何らかの証文)に背き」とあることから、一定の期間に渡って何らかの因縁があったことがわかる。
なお、大阪府堺市にも「上神谷」の名字があり、こちらは「上神谷(にわだに)」と発音する。「にわ」とは古来神である「三輪(みわ)」がなまったものとされる。その名のもとをたどれば、おそらく現在の奈良県にある大神(おおみわ)神社であろう。日本最古の神社のひとつとされ本殿をもたず、三輪山(三諸山)を御神体とし磐座(いわくら)祭祀が行われている。
3)元文一揆があったときは、八代将軍徳川吉宗の享保の改革の終盤でもあり、幕府も財政難苦しんでいた。享保の改革の終盤で登場し、この元文一揆のときの勘定奉行だったのが、「神谷志摩守文敬(しまのかみ ふみたか)」である。彼は金貨の質を高めた「元文の改鋳」や金山管理の改善など主導し、貨幣経済への変容を許容した上での改革も推進し、逆行感があった享保の改革をうまくソフトランディングさせたと言える。神谷地区の一揆の際に、たまたま勘定奉行が神谷氏だったのは偶然にすぎない。しかし「神谷志摩守文敬」の家の名は、代々が通称「神谷武衛門」を名乗っていた。
現在確認できる地元の史料では、この一揆で処刑された首謀者2名のうち1名は「神谷村武座衛門」であって、当時の江戸幕府の勘定奉行「神谷武衛門」とそっくりの名前である。本書で登場する主人公は、元文一揆のときに「壁谷村武座衛門」と名乗ったが、当時の人々や、応対した武士も、享保の時代から江戸幕府の財政再建を中心になった主導していた、八代将軍吉宗の時代からの名勘定奉行とされた「神谷武衛門」の名を知っていたに違いない。
勘定奉行の仕事は、町奉行、寺社奉行の管轄地以外における、年貢の徴収、裁判をはじめ民政全般である。つまりいわき平の一揆の問題幕閣あがった段階で、その責任者は勘定奉行だった神谷武衛門となった。勘定奉行の名字でもある「神谷」は少なくともこの地域一帯では「かべや」と発音する。これは果たして偶然なのだろうか、それとも精一杯の皮肉が歴史に残されたものなのだろうか。
もしかしたら江戸でも当時神谷は「神谷(かべや)」と発音されていたのかもしれない。磐城の元文一揆は、江戸時代以前に当地を領していた家臣たちが一気に加担したことで、これだけの大規模な一揆になったと分析されている。すると、幕府側は、室町時代以前のこのいわき地区の神谷(かべや)の旧臣たちを、最も警戒し憎んだのかもしれない。このことは200年以上たって、神谷地区が明治新政府についた事情にも関わるかもしれない。
4)福島県いわき市に現存する「高月稲荷」の伝承では、元文一揆のあと「壁谷村武座衛門」の跡を継いだ名主は「佐藤長次兵衛」とされて、領主の内藤氏から内藤家の鎮守であった現在の「高月稲荷」を引き継いだとされている。
「佐藤長次兵衛」の名は江戸末期の笠間神谷陣屋に再び登場する。(大きく時代が違うが、通称名のため子孫が名を引き継いだものだろう。もちろん同一人物ではない。)いわき私立図書館に『佐藤長次兵衛日記』全三冊(佐藤 豊 解読)がそれにあたる。長次兵衛は、中神谷村(なかかべやむら)の名主をしていたとされ、「笠間藩神谷陣屋」の御宿役(おやどやく)でもあったとされる。その記録は、幕末の弘化二年(1845年)から明治維新の慶応四年(1868年)までの約23年間の日記だ。当時の筆文字を子孫である著者が十数年かけて解読したものが現地の図書館に保存されているとのことで、新しい情報が得られる可能性もあり、もし機会をがあれば是非閲覧を試みてみたい。
幕末の笠間藩主牧野家は、元は第五代将軍綱吉の御用人の子孫だったが、それ以降は幕政の中枢から外れていった。また笠間藩の藩庁は現在の茨城県笠間市であり、神谷陣屋は飛び地の出張所として、わずか200人程度の武士が常駐していたされ、佐藤長次兵衛は、藩庁と陣屋を行き来する武士の宿屋をこなしていた町役人(町人)として地元で相当な力を持っていたと思われる。この神谷陣屋が戊辰戦争で攻め込まれなかったのは、少数といえども「剣は西の柳河、東の笠間」と武勇で世に聞こえていたとされることあるかもしれない。
5)いわき市を流れる夏井川の上流は、「夏井川渓谷」とばれ紅葉で有名な「夏井川渓谷県立自然公園」となっている。約16Kに渡るその渓谷は数々の奇岩がそびえ「籠場の滝」を始めとし滝や淵がつらなる渓谷美に富む。夏の涼や秋の紅葉を求めて福島県内の人気の観光名所ともなっているようだ。その渓谷から源流にたどると、福島県田村市滝根町にあるやはり有名な観光地「あぶくま洞」を取り囲む山々に行きつき、そこには坂上田村麻呂伝説の地でもある。「気の遠くなるような歳月で作られた鍾乳洞のまわりは、大滝根山(1192m)、仙台平(870m)、高柴山(884m)、黒戸山(864m)に囲まれて、正に風水でいう明堂(めいどう)なのかもしれない。
6)石は古代の神の象徴でもある。日本最古級の神社のひとつ、大神神社(おおみわじんしゃ)の岩座(いわくら)が代表的だろう。この神社は、箸墓古墳(一部では卑弥呼の墓ともする説もある)のある奈良県の纏向(まくむく)遺跡にある。ご神体は、「三輪山」そのものだった。3つの石座(いわくら)をもち本殿がない。つまり「石」が本殿の役目をはたしていた。(現在は拝殿がある)このように石座(いわくら)とされる石は、全国に多数分布し、伊勢や熊野で神の山といわれるところには、必ずといってよいほど巨石、奇石が存在して祀られている。
大和朝廷の豪族「物部(ものもべ)氏」の古社の名も、「石上(いそのかみ)神宮」だ。物部氏は朝廷の軍事を担当し、武器庫を兼ねていたとされ、代々の皇位継承の儀式に重要な役目があったことが、万葉集にも記されている。この古社には日本神話で有名な神剣、十束剣(とつかのつるぎ)などが保存されており、飛鳥時代の天武天皇が、皇子の神器を磨きに行かせた記録も残っている。(社伝、『延喜式』などから)また、この神社を粗末に扱った桓武天皇が病気になったという記録もある。(『日本後記』)これは、この地に、蝦夷征伐を強行した桓武天皇の立場に関わってくるのだが、それは別な機会に述べたい。
7)愛知県に蒲郡市のある地区では「壁谷」が非常に多い地域がある。おそらく数千名の壁谷がいるだろう。筆者が以前連絡を取った際は、地元の小学校には一クラスに何人もの壁谷がいるという話だった。その地には「壁谷」という地名はないが「神谷」という地名は存在する。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』では、室町末期にすでに「神谷」村があったとされている。筆文字の原版の写本に振られた振り仮名を見ると「かみや」と読むのか「かひや」とよむのか不明だが、どれも写本なの真実はわからない。幕府編纂の原本に、カナが振られていたとは考えにくく、江戸後期に町人向けに大量販売された際に、事情が分からないままカナが振られたと思われる。(このことを検証した論文について別稿で詳しく触れている。)「神谷(かみや)」だったなら、わざわざ筆文字にフリガナをふる必要はなかったのではないか。多くの写本で「神谷」が初登場する際に仮名が降られていることから、「神谷」の字の読みには、江戸時代の一般的な感覚でも注意が必要という認識があった可能性も考えられる。
ちなみに『寛政重修諸家譜』では、「神谷」氏の直前に「神尾」氏にも載る。同じように初登場の場所でフリガナがふってあるが、それは「かんお」と読める。神尾氏は江戸時代後半にたびたび登場する名前であり、当時の習慣から本来は「かんを」とするのが正しい。(平安時代までは「かむを」だった。神尾氏の本来の出自は賀茂氏とされる。)神谷も当時は「かんや」と読んだのかもしれない。写本にかかれている筆文字は、「かんや」あるいは「かいや」と読めるものが複数ある。このことについては、別に神谷氏の稿で詳しく触れる。
8)明治3年(1871年)に、太政官布告「姓尸不称令(せいしふしょうれい)」が出て、本来の名を公的に名乗れなくなり、古代の中国と同様に、日本でも姓氏の整理が行われることになった。それまでと違った「苗字」を日本人は名乗ることを強要され、当時は相当混乱したろう。しかも、明治天皇名で「大教宣布の詔」が出された直後で、天皇神道の大衆教化を図ろうと「神祇官」や「神祇省」も新たにできた時期だ。明治4年(1872年)には「戸籍法」が発布され、「壬申戸籍(じんしんこせき)」という戸籍が整備された。明治8年(1875年)「平民苗字必称義務令」で末端の農家からいわゆる差別階級とされた人々までも含めて、苗字が決められて再整理された。(「苗字」という言葉は、明治になってから付けられた)
苗字が決まった時期と、明治政府が神教を国教に採用しようとした時期は重なる。そんな混乱期に武家だった「神谷」家は、そのまま苗字を許されたのだろうか。若干の疑問が残る。最終的には明治31年(1898年)「明治民法」では、苗字を変えることが事実上禁止されて、ここで苗字が固定化した。(改名禁止令が出されている)この時期の戸籍など個人に関する資料は、差別が含まれるとされて、現在までに相当廃棄されてしまったようだ。前出の「壬申戸籍」も現在ほとんど存在しないはすだ。この間の苗字の変遷は、資料が失われどのような経緯があったかわからない部分が多い。
※各地に残る、神谷の土地名には、「神が降り立った地」という伝承が残っているところがあるが、これは後付けかもしれない。
9)戊辰戦争前後は、江戸最末期は幕府の苛政を糺す「世直し大明神」なる架空神も登場し、地域住民の江戸幕府への反感で一揆も多発していた。東上した官軍もこれを利用し進軍に合わせ多くの民衆を味方に付ける工作を施した文書を多数発行している。これを信用した民衆は後にひどい目にあい、その後の失政もあり特に東北地方では新政府への反感が高まった。もし室町時代以前に「壁谷」と呼ばれていた土地が「神谷(かべや)」と変わっていたとすれば、当時の民衆感情を考慮した明治政府の新役人が「壁谷(かべや)」としようと画策した可能性もありうるのかもしれない。
10)平安時代に成立したとされる『和名類聚抄』は全文が漢文で書かれ、発音がわかりにくいものには万葉仮名(漢字で和音を表記した)を当てている。何種類かの写本があり、現在手軽に確認でき、また郡や郷の名が詳しのは20巻本古活字版であるが、そこには「磐城国」とある。漢語が採用されたなら「磐城」が正式にも見え、本来は磐城であったものが、古代の木簡等では「石城」と書かれ、室町期も一般には「岩城」と書かれた可能性が充分高い。徳川家が岩城を忌避して磐城にしたとしていることは、本来は事情が異なるかもしれない。
なお『和名類聚抄』は平安時代から相当多数の写本が作られて利用されたようで写本が多く、さらに20巻本は後世に補追された可能性が指摘されている。研究によって漢字表記の誤写が判明した事例がある(一部で「草」を「黄」と誤写)。また古字活字版は江戸時代の元和三年(1618年)に作成されたものでもある。これらの事情から『和名類聚抄』に書かれる「磐城」の文字は、本来は岩城であって、実は江戸時代の表記に変更されていたり、あるいは誤写された可能性もあることを考えないといけない。また、中央では正式に漢語で(中国風に)磐城とされていても、実際に現地では岩城とされていた可能性も、もちろん捨てられない。
11)和風建築には大壁、真壁の2つの方式がある。ともに古代から日本に伝わる伝統の和風建築方式である。大壁とは、いわゆる蔵造と考えるとわかり易い。建築物の周りを壁で覆う方式で、耐火性があり強度も強く、蔵や城郭建築に使われた。壁を白くする工夫をして高貴な所有者を著すためには、貝を焼いて粉砕した粉(消石灰)が使われた。それを漢字で表現したものが「貝谷(かひや)」「會谷(かひや)」かもしれない。「會」は「会」の旧字である。(建築用の石灰は後に山から掘り出されるようになって大量需要に応えた。)
なお、真壁は和風建築であり、木材の柱や梁を組み合わせてその間に竹や板木やをはりそこに壁を塗る法方式だ。この建築方式は強度で劣り火事にも弱かったが、湿度の高い日本の気候を考慮して独自に発展し、和風建築のベースとなった。平安貴族では壁に和紙を貼り、さらにその上に「絹」を張った。これは平安貴族が用いた最高級の壁でもあった。これは室町時代までに「襖(ふすま)」に発展した現在真壁(しんかべ)と発音されるが、おそらく正しい発音は和音で「まかべ」であろう。
別稿で触れるが、この真壁は天皇家に関わる名称であった白壁が、桓武天皇の詔によって真壁に変更されたものだ。常陸では、この真壁の地を領して神谷氏と名乗った例があり関係はありそうだ。
貝殻以外からも石灰は鉱山から生産された。少なくも古墳時代から権力者に盛んに使われ、貴重品でもあった石灰の産地(青森県尻屋、福島県阿武隈、栃木県葛生、愛知県豊橋、山口県秋吉台、福岡県平尾台、沖縄県本部町など)が山壁の谷にあった。それらの地には壁谷の地名が残り、壁谷の名字を持つものが今も住む。そこでとれた石灰、そして漆喰は、白壁あるいは白土(しろつち)とも呼ばれ、後世の岩城氏の一流にあった白土氏そして岩城氏にもつながりそうだ。
12)『坊城俊章 日記・記録集成』が芙蓉書房出版から発売されているようだ。(1998年)古本で入手できるが大変高価ではある。ここには明治初年から38年までの坊城の日記が記されている。
参考文献
- 『義民か賊徒か』石田伝吉著 丙午出版社 大正8年(1919年)
- 『常陸国風土記』
- 『円覚寺文書』国会図書館
- 『和名類聚抄』源順 承平年間(931年 - 938年)成立20巻本元和三年(1618年)版
- 『国魂文書』岩城氏系図 県指定重要文化財
- 『佐藤長次兵衛日記』全三冊(佐藤 豊 解読)
- 『日本産業資料大系』第一巻「今世農史」溝口伝三等編 国会図書館
- 『百官履歴』日本史籍協会 修史局編 1927-1928 国会図書館
- 『伊能図』伊能忠敬1821年江戸幕府(陸軍参謀局)国土地理院古地図コレクション
- 『新撰日本全図』ト部精一 1875年 版元岡島眞七 国土地理院古地図コレクション
- 『官板実測日本地図』開成学校1870 国土地理院古地図コレクション
- 『土地制度史学』91号「明治初年の政情と地方支配」中央大学教授 松尾正人
- 『維新政権の地方財行政』一橋大学研究ノート 国際日本文化研究センター教授千田稔
- 『大辞泉』小学館
- 『広辞苑』岩波書店 第二版
- 『拾遺和歌集 』
- 『源氏物語』第五十帖 東屋
- 『緒方言のアクセントとイントネーション 』三省堂 杉藤美代子監修 佐藤亮一・真田信治・加藤正信・板橋秀一編 1997年
- Wikipedia 福島県神谷村
- 『寛政重修諸家譜』江戸幕府
- 『埼玉県地名辞典』
- 『大日本地名辞書』明治33年 吉田東伍(『角川地名大辞典』『日本歴史地名大系』)
- 『磐城史料』明治45年 大須賀筠軒 国会図書館
- 『いわき市史』いわき市 第三巻
- 『転封実現過程における基礎的考察』「延享四年内藤藩の磐城平・鍋岡引っ越しを素材として-」日比佳代子 明治大学博物館研究報告16号』2011
- 『室町幕府と東北の国人』白根銀大編 吉川弘文館 2015
- 『神谷郷土史』神谷市郎 平市役所神谷支所 昭和26年(未読)
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