5. 磐城平元文一揆に垣間見る壁谷
元文3年(1736年)「岩城義民 壁谷村武左佐衛門(かべやむらぶざえもん)」が登場するのが、大正8年(1919年)に出版された『義民か逆徒か』である。江戸時代に現在の福島県いわき市周辺で実際にあった元文一揆に関し、詳細に記された最も古い出版物のひとつと思われる。地元の人がこれを読むと、その文字表現にある「岩城」「壁谷」の2つの文字に、若干違和感を感じるかもしれない。それぞれ現地では「磐城(いわき)」「神谷(かべや)」と書くからだ。「岩城」についてこの稿で明らかにし、一揆の経緯や武左衛門の活躍を記したい。残った「壁谷」に関しては、次稿にて触れたい。
磐城の歴史
現在の福島県「いわき市」は、昭和の時代まで「磐城市」と書いていた。遡れば古代には「石城」と記録されており、平安時代から室町時代の末ごろまでまでは本書にあるように「岩城」と書いていた。この地を収めた岩城氏については、江戸幕府の編纂した『寛政重修諸家譜(かんせい-ちょうしゅう-しょかふ』(全1530巻)に詳しい記述がある。
それによれば、平安時代の「平将門(たいらのまさかど)の乱」を制圧した武将のひとり「平隆行(たいらのたかゆき)」が、陸奥に下り、世界遺産・国宝として有名な中尊寺金色堂(国宝)を建てた藤原清衡(ふじわら きよひら)の女婿になって、子らに領地を分け与えたという。長男隆祐(たかすけ)は楢葉(ならは)郡を、次男隆衡(たかひら)は岩城郡、三男隆久(たかひさ)は岩崎郡、そして四男隆義(たかよし)は標葉(しめは)郡、そして五男隆行は行方(なめがた)郡を領した。それぞれが岩城氏を称したが、収めた地域の名字を取って岩崎氏、楢葉氏、標葉氏、行方氏とも名乗った。
※楢葉郡、標葉郡は現在の福島県浜通りの北部(双葉郡・相馬市付近)。岩崎郡は福島県浜通りの南部(田村・須賀川・郡山・いわき付近)、行方郡は現在の茨木県になる。平安時代後期には、奥州藤原氏と平氏が現在の関東・東北に渡る一帯を広く治めていた。
永承2年(1047年)の高位の藤原氏名を記した『造興福寺記』に、この藤原清衡の実父、経清(つねきよ)の名が載ることから、藤原家北家の藤原秀郷(ひでさと)の子孫とされている。藤原秀郷は俵藤太(たわらの-とうた)の別名を持ち、平将門の乱を制したことで名を挙げた伝説的武将だ。のち鎮守府将軍となり下野と武蔵(現在の栃木県、東京都、埼玉県など)を領した。清衡を初代とする奥州藤原氏は、後三年の役(1087年)以降、東日本で最大の実力者として、朝廷にも一目置かれていた。岩城氏は、この奥州藤原氏の庇護のもとで力を蓄えていったことがわかる。
岩城家は、父は平氏一族であり、母は藤原氏の一族だった。岩城氏に限らず、関東・奥州の一族には平氏が多い。岩城氏は奥州藤原氏と特に関係が深かったともいわれている。岩城氏も一時期「衡」を通字(代々名前に着ける一文字)としていた。永暦元年(1160年)建立とされる国宝「白水阿弥陀堂」が残っている。岩城一族の「則道(のりみち)」のため、妻だった徳姫が建立したという。この徳姫も、前出の藤原清衡の娘とされ、やはり藤原氏との関係が深い。白水阿弥陀堂も、中尊寺金色堂と同じ「阿弥陀堂」であり、浄土宗の影響を強く受けている。
※現存する阿弥陀堂で国宝となっているのは全国で7つあるが、そのうちの2つが奥州藤原氏が関わった中尊寺金色堂と、白水阿弥陀堂である。なお10円玉の裏に書かれる平等院鳳凰堂も国宝とされる阿弥陀堂のひとつだ。この阿弥陀信仰は平安時代に流行した浄土教信仰によるものだ。別稿で詳しく触れるが、浄土教は中国五台山にあった壁谷玄中寺の曇鸞(5,6世紀の中国南北朝時代)が祖とされる。その壁谷で修業した円仁が日本に戻ってきて平泉中尊寺の開山をしている。
鎌倉時代に入ると、岩城氏は鎌倉方として奥州合戦に参陣、奥州藤原氏と対峙することになる。これにより、源義経(みなもとのよしつね)と共に、奥州藤原氏は滅亡する。代わって岩城氏はこの、岩城郡・好島郡・岩崎郡・行方郡などの地頭職として関東北部から東北の南部にかけて、広範囲に勢力を確保して室町時代に全盛を迎えることになる。奥州藤原氏は岩城氏にその血筋を託したとも言えるのかもしえない。
しかし、戦国時代に入ると、天文の乱に始まる伊達正宗の侵攻、豊臣秀吉の奥州仕置き、関ヶ原の戦の論功行賞などから、関東・東北地方の勢力図は多きく塗り替わった。関ケ原の戦いの直後の1602年、岩城氏は改易となり、その領地「岩城平(いわきたいら)」には徳川の譜代や重臣たちが封じられていった。
磐城平の元文一揆
江戸時代には、徳川家に逆らった「岩城」の字は忌避され、この地は同音で「磐城(いわき)」と改名された。この地を領したのは「磐城平(いわきたいら)藩」と呼ばれる。そこでは岩城氏恩顧の武士たちは食い扶持を失い、路頭に彷徨うことになった。多くは郷士として現地に残っただろうが、戦いがなくなった時代にそんな武士たちは途方に暮れたろう。そして平和な時代が続いた江戸中期ごろ、この磐城平藩を領していたのは、内藤氏だった。内藤氏は和歌・俳諧に傾倒していたと記録される。
享保(きょうほう)の時代(1716-1736)に入ると、「享保の改革」や、「享保の大飢饉」と続き、物価は跳ね上がった。また、日光東照宮の修復普請(資金を提供すること)、内藤家江戸屋敷(内藤家藩主は江戸に住む)の火災からの復旧などが相次ぐ。この地、磐城平藩では出費が相次ぎ、20万両ともいわれる借財で財政難に陥る。しかし藩政改革を顧みることもなく、重税を押し付けれらる一方の農民たちは、長年苦しんでいた。
そんな元文3年(1738)、ついに歴史に残るこの一揆は勃発する。一時は数万の武装農民が城下を完全に制圧し、城を取り囲んだ。話し合いで一旦は終息するが、そのあとの詮議(せんぎ)は一年以上に及び、幕府は徹底的に征圧した。農民の処分が終わると、大勢の藩の武士も処罰され、藩主の配置換えも行われた。その後も圧迫は続き、住民はこのことを語ることは許されず、慰霊碑すら立てることができなかったという。本書はこのことを切実に訴えている。「元文義民の碑」が公式この地に立つのは、さらに時間が経過し、昭和25年になってからである。遺族の後継者も晴れて祖先を敬い供養ができたと当時の記録には残る。
しかし残念なことがある。慰霊碑には次のような記述が見当たるからだ。
農民2万が城を囲んだ・・・
農民は結集したとはいえ烏合の衆であり、さしもの大一揆も 数日にして指導者に一任されたので村々は離散するに至り・・・
客観的にはそうなのかもしれない。しかし筆者は残念に思う。本当に2万人だったのだろうか、そして本当に烏合の衆だったのだろうか。実は歴史家の竹内誠も、同様のことを述べている。「磐城は、通常の一揆とは違う。岩城氏恩顧の旧郷士(農民)も知恵を貸す。」としている。氏は何が通常の一揆と違うか、具体的な戦術面からも分析し、少なくとも烏合の衆という評価を下してはいないのだ。ではなぜこのような文面の慰霊碑が建てられたのだろうか。
この一揆の話しをすることすら憚れる時代が長く続き、後世にその史実が正しく伝わらなかったのではないだろうか。そしてやっと語ることができる時代になった、昭和の時代にその当時の歴史研究の常識から、百姓一揆とはこういうものだという既成概念が構成され、それが慰霊碑にも書かれてしまったのではないだろうか。
書かれていた事実
本書の出版は、大正8年である。起きた出来事や関わった人名などが具体的に、かつ時系列に詳しく記されている。その細かさや出版の時期から考えると、明治時代まで残された古資料、もしくは当時の住民(もしかしたら子孫たち)の言い伝えによるものと思われれる。そして最も重要なことは、磐城平藩や幕府側が残した記録ではなく、農民側の視点で記されていることだ。
淡々と書かれており、読む限りでは、計画姓があったとも、武士の支援を得ていたことも何も書かれていない。しかし読んでいくうちに、農民の行動や数々の出来事から、その背景に理にかなった巧妙な計画や、背後に戦いになれたものからの支援があったことに気が付くだろう。
これから先は、本書に記載された磐城平一揆の記録の要約である。また、本稿の最後に、歴史家の竹内誠の見解も紹介したい。
※一部は原文のまま引用して掲載する。筆者ができる限り原文に忠実に筆写したつもりである。引用中で発言内容には「」を付記した。難解な表現にはカッコで注釈を加え、読みや送り仮名で現在と相違が大きいもの、到底現在理解できないと思える旧字体や仮名遣いは改めた。もし相違があれば、許されたい。
『義民か逆徒か』の概要と要約
ここからは「岩城義民 壁谷村武左衛門(かべやむら ぶざえもん)」と題された本書の記述を以下に要約し、一部は引用する。壁谷村壁谷村武左衛門は、この話の主人公として登場する。
元文三年(1738年:本書では天文三年と誤植)、年貢はなんと9割5分にまで達し、さらに上乗せしてに臨時の御用金(米百石につき一両三分)まで押し付けられた。町人までも、売りと買い、両方に約金(税金)を取られた。異議を申し立てれば直ちに入獄されてしまう状態だった。農民たちが困り果てていた。すると、どこからともなく廻って来た「檄文(げきぶん」にはこう書いてあった。
此度七萬石の惣百姓(大名主たち)は、お上へ十八カ條のお願いをする爲に平の町(磐城平藩の城下町)本城へ九月十七日に會合(かいごう)する、一村ごとに旗印のものを持ちて、勿論各々鎌、鍬、掛矢その他の獲物を持参する事、但し此(この)囘状(まわしふみ)に不同意の村があるならば、四方から大勢で押し寄せてその村に火を放ちて打ち殺し申すべし。
9月17日当日、農民は多数の組に分かれ各地に集まって、それぞれの拠点から出発したとされている。「先発組」はまず割元(かつもと:代官の類)である狐塚村の輿右衛門、次いで赤沼村の七右衛門を襲い、「南東組」は役人に内通していた紺屋町九弥右衛門の家を急襲し、さら藩の政務所も狙った。
家内残らず打ち破り(中略)旗を押し立て法螺貝を吹き鯨波(とき)を擧(あ)げ、
役人どもは忽ち鐡砲(てっぽう)を打ち出した。裏手に廻ったニ三十人の者どもが斧掛矢を以て壁を打ち貫き家中に入り(中略)忽ち役人どもを追っ払って長刀、刀、弓、鐡砲を、奪い取った。この役所は七萬石(磐城平藩のこと)の取捌(とりさばき)成務所である。(中略)二丁目の獄屋に押し寄せた。此獄裡には(中略)起惣次という義人がゐ(い)る。(中略)百姓が困苦をする見て目安を書いて上納した(8代将軍徳川吉宗が設けた「目安箱」に投書したことをさす)処が、取り上げられないのみか、かえって幕府へ出訴した罪に由って入獄したのである。
先に「目安箱」で幕府に訴えた咎で、獄中で11年過ごしていた「起惣次」を解放したのだ。ここまでで、翌18日の暁(夜明け)を迎えてしまった。そこで、百人分、三百人分と見計らってそれぞれの町人に用意させた食事を食べると酒屋で酒を呑んで勢いを得たとある。次の朝からは藩の上級役人宅を遅い、磐城平藩の居城を包囲する。
役人の三松金左衛門方へ押し寄せて行って屋敷を打ち砕いた。金左衛門は已(すで)に此時何處へか逃げ終まって居ない。(中略)城中からも、鐡砲を打ち出し、陣太鼓を打ち鳴らしたから、町の人は(中略)右往左往逃げ回る有様。城内では武士百騎ばかり、矢倉の臺(だい)には弓鐡砲構え来たら撃とうと待ってをる。(中略)しかし城を遠巻きにして、予め申し合わせたように中根喜左衛門(御番頭の赤井喜兵の誤りか)、内藤舎人(藩御用人、殿様の側近)、内藤治郎左衛門(城代家老)等の屋敷を打ち破ったが、すでに昨夜登城をして城中に居て出ない。八萬四千六百余人の百姓共は三人の家老出でよと怒鳴って廿日(20日)までは引退かぬ。
このままではまずいと判断した城側は、夜になって攻撃をやめた。深夜になると、上級役人と思われる武士四名が、城の正門(大手門)から馬に乗って農民たちの前に現れた。
折から廿日九ツ時(20日深夜0時)、大手の門は颯と開いて甲頭巾(かぶとずきん:金具で覆うなどして兜のようにして頭を守った頭巾)に着込を着けし騎馬の武士四人が百人ばかりを従えて、鐡砲火縄を付け長刀の鞘を払って八方へ乗出、大音声に百姓に向かひて、「我々は塚本雲平、赤井喜兵衛、本間吉兵衛、原兵左衛門と申す(略)拙者取り次いで使わすから重立ちなるもの(責任者)は之へ罷り出よ。」(略)この時百姓の中から壁谷村武左衛門、狐塚村藤三郎、小川村長兵衛、水戸村牛次右衛門の四人書付を持って進み出て(略)「先づ第一に家老三人衆へ対面致し細かに様子を申し上げる。早々と御出し候らへ。(略)其の次に十八ケ條の御願いがござる。(略)貴殿方には御用は御座らぬ。」(城側の役人)雲平の申すのに(略)「我々四人の者は汝等百姓の罪に代わって一命に掛けてもお上へ願って、十八カ條の願い相叶へ得させることはできなくとも十ニ三は御免になるよう申し上げてやる。」
しかし、農民たちはこの武士らの提案に、その手には載らないとし、逆に狡猾な罠だと弾劾した。そのうえで、江戸の藩邸に使いにいくことを要求したのだ。この当時、参勤交代で藩主は江戸に滞在していたと推測される。つまり、藩主である「お上(かみ)に対し直接十八カ條のお願い」を伝えるよう要求したものだ。
百姓武左衛門は言った、「否そうはいきませぬ。若(も)し本當(ほんとう)に御取次下さるなら今直ちに此処から江戸へご出撥を願ひたい、其れを見届けした上でなければ帰村する者は一人もござりませぬ。(略)三人五人宛御呼び出しになって縄を掛けやうとの御計(おはかりごと)画(かくら)しは引き申されぬ」と、武左衛門は答えた。「其方は何村の誰と申す。」「否何村の誰でも宜しゅうござる、百姓惣願いでござる。若し十日でも二十日でも願の筋聞届けられなければ九萬人の我ら百姓共は死ななければなりませぬ。儘(このまま)此処で飢死いたしても同じでございます。(略)只(ただ)取次ぐとの計略で欺かうとしても其の手には乗り申さぬ。」百姓は頑として動かない。
農民たちの強硬な姿勢に、説得をあきらめた武士たちは、要求を検討した上て江戸の藩主の元へ向かうだろうと言い残し一旦は城内に戻った。そして翌日4-50人の伴の者を連れて、江戸に向かった。
此れに於て四人の役人も已むを得ず、さらば後程吾々なかから汝等へ出向くとして、其の方共は狼藉をせずに神妙に待って居れ。外の者にも其旨を傳(つた)えよ。(略)一先づ城中に立歸ってまた江戸へ出向くであらうと申し渡した。(中略)かうして二十一日の朝は、赤井喜兵衛(番頭)、大口左衛門は供人四十五人宛を連れて江戸へ向かった。百姓は願書を渡して百人許(ばかり)で長橋まで送って行った。
その後も農民たちは監視小屋で、江戸と磐城平城の間での人馬の動きを監視していたと。しかし結局願いはかなわなかったとされている。
百姓共は城下の南東の山麓に小屋を造って歸(かえ)りを待つ事とした。然るに(翌月)十八日あたりから続々江戸へ早馬が立ってゐるので注進に由って内藤治郎左衛門(城代家老)は(江戸からの)歸途両人に立會ひ仔細を聞いて(両人は)又江戸に引き返した。ついに百姓の願いは聞き入れられなく此事件は終局した。
これらの記述から、この一揆が収束するまでに、すくなくとも1か月以上かかっているようだ。これだけの農民を部隊に分けて組織して動かし、鉄砲を持った武士たちを背後から破る別動隊を組織していたことや、事前に町人に大量の食事を手配していた手際の良さなど、戦略的で計画的な面が感じらる。江戸時代にはいって140年の平和な時代が経過した。戦国時代には武士として戦った農民はもういないはずだ。攻撃の際に法螺貝を吹き、ときの声を上げ、陣太鼓を鳴らすのを聞いて、役人たちは本当に農民と思っただろうか。
本書では、「九万」あるいは「八萬四千六百余人」の農民が城下町を占領し城を囲んだと書かれている。また一揆を鎮めようと説得する藩のお役人に対して、壁谷村武左衛門は「貴殿方には御用は御座らぬ」「御呼び出しになって、縄を掛けやうとの御計画(にはひっかからない)」と喝破している。
磐城平の藩主は当時江戸にいた。江戸に向かったということは、農民の実力行使が成功したことを意味する。農民の一揆を武士が鎮圧できなかったことで、少なくとも磐城平藩を留守を預かる重臣はその責任を免れないだろう。それどころか磐城平藩の存亡にも関わることを危惧しなかったとは思えない。藩の重臣をそこまで追い込んだ上、数十人の伴の者たちを引き連れて江戸に向かうのを、(本当に江戸に向かったのか確認するため)農民たちは国境まで見送っていた。さらにその後の江戸との早馬の動きまで、一部始終を監視小屋まで建てて監視していたのだ。
一揆の結末
本書のテーマは義人を称えることであり、その最終的な結末を報じることではない。そのため、この後どうなったかは省かれている。実際には幕府による詮議や、首謀者の探索がそれから1年以上にも及んだ。他の記録から、この一揆の結末を以下に記す。翌年8月23日、最も重い罪を負ったのは、首謀者二名とされその中には壁谷村武左衛門が入っていた。
芝原村長次兵衛、壁谷村武左座衛門(の2名)頭取(首謀者)の̚廉(かど)で死罪獄門7日晒
首謀者とはされなかったが一揆の咎で死罪獄門3日となった者が5名。他に死罪となった1名には救出された起平次(喜平次)が含まれた。そのほかにも永牢2名、追放1名、幽閉2名。処罰されたのは、農民だけではなかった。家老の「内藤治部左衛門」、御番頭の「赤井喜兵衛」、御用人の「内藤舎人(とねり)」は御役御免となり、処罰された武士は他にも多数に上り、それらの詮議と処分がすべて終わるまでに2年を要したとされる。さらに延享4年(1747年)には藩主だった「内藤備後守政樹」は九州(延岡藩、現在の宮崎市近辺)の地に配置換えとなった。同じく7万石とされたが、豊かな米の生産地である磐城から、荒れ地とされたシラス台地の九州の地に移るのは事実上の減封だった。しかも東北から九州の地まで、このような長距離の配置換えは江平和な江戸時代に通常考えられず、懲罰としか言いようがなかっただろう。これにてやっと決着を見たのである。
農民に囲まれ、城から出て来た4人のうち、武左衛門たちと直接話をした武士は、「雲平」だったが、彼は下役人だったことがわかる。当時の上級武士は、身分の低いものと直接話をすることはなかったためだ。実は背後で2番目にいた「赤井喜兵衛」は城警備の責任者で、さらに「内藤舎人」は藩主と臣下の間を仲介する要職だった。農民の反乱を全く鎮圧できず、その説得にまで失敗して、江戸に向かった以上、覚悟はしていたと思われる。
見直されている一揆の評価
戦いに慣れない農民が、果たしてここまで周到な準備をして、策を打てることができたのだろうか。戦略面だけでなく、あたかも武士団の攻撃に見せかけていた、あるいは元武士が相当混じっていたと思われるように見える点は多数ある。実際にこれだけの一揆となったのは、岩城氏の旧臣たちが裏で団結し、内藤氏の圧政に対抗すべく、農民を支援していたからだという評価も最近はされているようだ。竹内誠(徳川林政史 研究所所長、江戸東京博物館名誉館長)らによる『江戸東京新聞』の記事から抜粋すれば
岩城氏恩顧の旧郷士も知恵を貸す。一揆と言うと筵旗を持ち竹槍農具で武装し次第に燎原の火のように蝟集して領主の舘に押し寄せる場面を想像していたが 磐城は違う。長期戦を半ケ月の布陣で耐える巧妙な武士の如き戦略
ここで記されている「郷士」とは、地元の武士のことだ。ここでは岩城家の旧臣など、あるじを失った、いわゆる浪人を指している。またその計画や戦略の一部を、具体的に以下のように記している。百姓を百人単位で一組とし、それぞれに鉄砲を使える10人をつけていたようだ。
古木綿着用。藁(わら)の蓑(みの)を上着、頭巾は藁(わら)に砂を入れ二重。
百人一組で鉄砲馴れたる(使える)者拾人添える。
汁椀一個飲用、十五日分餓死防止に用意すべし。貢米は納入せぬ、親類・山奥に隠匿する。
竹の節を抜き法螺貝の代わりにする。
常陸国相馬、仙台界に500人置き他藩加勢を防ぐ。
廻船の帆を持ち来たり陣幕にする。
『棄民か逆徒か』の記述からその農民の行動を追うと、一番最初に襲った役所で鉄砲を奪っていた。まず、鉄砲を手に入れ鉄砲隊を組織することを計画していたわけだ。また着用するようにとされた木綿は、戦国時代に足軽が着させられたものだ。木綿はもちろん丈夫で軽いだけでない。雨中でも水を絞れば鉄砲(火縄銃)の縄に使えるしろものだ。
他藩との境界にあらかじめ500人を布陣して、加勢を防ぐとういうのは、何より兵法に適った防御態勢である。そして「陣幕」とは、武士が戦陣の本営に設営するものだ。しかし、それはなんと船の帆だったとは。「法螺貝を吹いた」とも記録されていたが、それも実は竹で作った偽装の法螺貝だったわけだ。このことは『竹でつくる楽器』という本で「岩城騒動で使われた」との記述がある。この一揆で使われたことは、予想もできない話として、人口に膾炙していたのだろう。
『竹でつくる楽器』に記載される「元文一揆について触れた記述」を引用
各自腰に付けたる竹筒を一同に吹き立けるが、その音すさまじく波の音とも風とも聞き定めがたく。天地も為に崩るるかと思ふばかり。
なお、決起の日、9月17日は旧暦であり、現在の暦になおすと10月末になる。江戸時代は脱穀して米俵に詰めてから治めていた。このため、磐城地方では農家が収穫した脱穀が終わり、藩の取捌(とりさばき)所に大量の米俵が一斉に集まりだす時期でもある。この時期は、一定の収穫をすませることで農家は手が空き、また手元に未納付の大量米も残っていた。当面の食糧も確保できたはずだ。一方で、逆にお役所には米がなく、百姓が大量の米俵を荷車に乗せて集まって来ても年貢を治めに来たと思い油断してしまう。米俵を受け取らないと文字通り食っていけなくなる。つまり、この決起の日、9月17日も、練りに練られた戦略のひとつかもしれないと筆者は推測する。
さて、この話では主人公は壁谷村武左衛門ひとりであり、一揆の主導者として描かれる。しかし処刑された状況から、一揆の頭取(とうどり:指導者)は二名いたことがわかる。その二人とは、「柴原村長治兵衛」と「壁谷村武左衛門」だった。武左衛門の名誉のため、最後に彼の実名もここに記しておこう。彼こそ壁谷村(現在の「いわきし中神谷」)の名主「佐藤武左衛門」であった。つまり、壁谷村に住む佐藤という名字を持った庄屋(名主)であったのだ。また、「柴原村長治兵衛」は、おなじく名主(現在の「いわき市小川町柴原」)であり、その本名は「吉田長兵衛」であった。長兵衛のほうが年長だったようだ。
以前は江戸時代は百姓には名字が無かったとされてきた。しかし実際はほとんどの人が先祖代々の名字を持っていても、名乗ることが許されていなかったというのが正しい。そして名主など場合は、藩主から名字を名乗ることを許されていた例が多い。それだけ名字には権威があったためであり、また祖先の伝承が代々の子孫に受け継がれた所以でもあった。次稿以降では、いわきに残る壁谷(かべや)の謎について、平安時代から室町時代に遡って徐々に解明していく。
今後の課題
1)平安時代の末期、奥州藤原家の当主「藤原秀衡(ひでひら)」は、平氏追討のため鎌倉に向かう事になった源義経に対し「佐藤継信(つぐのぶ)」と「佐藤忠信(ただのぶ)」を与えた。この二人は『平家物語』や『源平盛衰記』でも「義経四天王」と称され武功と忠節が後世に伝わる。佐藤家は奥州藤原の荘園を管理する豪族で佐藤庄司家ともいわれ、また信夫佐藤家ともいわれる。
『尊卑分脈』によれば佐藤氏は現在の福島県北部の信夫群に勢力を持っていた一族で、藤原清衡の妹が佐藤継信、忠信の母とされる。本稿の「佐藤武左衛門」もこれらの末裔であった可能性があり、また、延享4年(1747年)に内藤家が磐城平から九州に転封される際に藩主から内藤家の守護神を託された。その当地の名主は「佐藤長次郎衛」であり、武左衛門の親戚筋の可能性が高い。現在付近の神社の神主を務めるのも、やはり佐藤家である。
参考文献
- 『義民か逆徒か』石田伝吉著 丙午出版社 大正8年(1919年)
- 『寛政重修諸家譜』江戸幕府
- 『尊卑分脈』
- 『江戸東京新聞』竹内誠 徳川林政史 研究所所長、江戸東京博物館名誉館長
- 『竹でつくる楽器』関根秀樹著・創和出版1992
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