4. 幕府重臣に仕えた静岡県士族 壁谷

尾張藩藩主「徳川慶勝(よしかつ)」が幼い頃「壁谷伊世(かべやいせ)」がその面倒を見ていた記録が残されている。この慶勝は、実は戊辰戦争を勝利に導いた影の立役者でもあった。「王政復古の大号令」の直後、明治新政府の事実上の最上位となる要職「議定」につくと、尾張藩内の反対派を一気に粛清、御三家筆頭の権威と強大な武力を背景に、西日本の大名たちをことごとく従わせた。こうして、ほとんど争いもなく官軍を東進させることに成功、尾張藩士も官軍に加わって、東山道を北上していったのだ。歴史の表舞台ではあまり語られることはないが、戊辰戦争の戦いが東北に於いてしか語られないのは、こういった事情による。もし彼がいなかったら、明治維新は果たしてすんなり成功していたのか疑わしい。


公開されている記録によれば、壁谷伊世は明治6年「静岡懸貫族 士族」と記されている。史実に沿って考えると伊世の夫、およびその子の「壁谷鹿馬」は元幕臣で、明治初期に新政府から旧幕臣に与えられた新たな領地である静岡藩(駿府藩60万石)に移動した可能性が強く浮かび上がってくる。本稿では、確認できている壁谷伊世の情報から引き出せる周辺の状況を、当時の歴史的な背景と合わせて触れていきたい。


※壁谷伊世が奉公したのは松平右近将監家だった。この家は江戸初期から将軍家の一族が代々跡を継ぎ、その当主は老中筆頭などを務めた名門家である。1980年代にあった日本TV系の人気時代劇番組「松平右近事件帳」で松平健が主演したのが、この松平右近将監である。番組では丹波哲郎演じる第11代将軍徳川家斉の実弟という設定(史実では実子)であった。伊世が幼子の面倒をみることになった当時、松平右近将監家では、のち尾張藩主を継ぐことになる徳川慶勝がまだ1歳で、のち岩見浜田藩主となる武成が生まれたばかり、その母は、幕末の名君徳川斉昭の妹(十五代将軍慶喜のおば)だった。実弟には、のち京都守護として戊辰戦争のもう一方の主役となる会津藩主松平容保(かたもり)や、京都所司代となる桑名藩主松平定敬、そして最後の一橋家当主となる徳川 茂栄らがいる。この兄弟は幕末維新で大活躍し、高須四兄弟とも称されている。


明治新政府が目指した 小学校の設立 

廃藩置県で現在の福島県南部に最初に設置されたのは江戸時代の藩の枠組みをそのまま基準にして作られた、中村懸・磐城平懸・湯長谷懸・泉懸・三春懸・棚倉懸の5県だった。これらを合併して新たに「磐前懸(いわさきけん)」が出来たのは明治5年である。(後に現在の福島県北部と合体して福島県となる。)地図を見れば一目瞭然、磐前懸は白川から南の部分がほとんどを占めており、現在の県庁所在地である福島市を始め、会津若松、二本松など戊辰戦争で朝敵とされた地域が含まれていない。実は盤前懸に属していた旧三春藩は、奥羽列藩同盟の中にあって敢えて朝廷側につき、戊辰戦争で官軍勝利を導くために大きな役割を果たしたことが明治政府に高く評価されていた。(このことは、当地では三春藩の裏切りと長年捉えられていた。)


ちょうど「明治6年の政変」があり、西郷隆盛を始め明治政府の官僚600人が総辞職した。士族の不満は頂点に達し、地方統治を重視する必要がでてきた、また士族の生活の糧を確保する必要もあった。明治政府はとくに不満分子が多く残っている東北地方の改革・開拓に力をいれ、のちの明治政府の一大事業「安積(あさか)開拓」繋がっていく。全国から多数の士族が、明治政府の開拓する安積(旧会津藩、二本松藩:現在の福島県南部に当たる郡山市近辺)を目指したのだ。


明治政府(大蔵省)から派遣された新しい盤前懸令(現在の県知事)は、栃木懸士族の「村上光雄」だった。翌明治6年8月22日付けで、明治政府の学区取締(全国に学校を手配する役人) である遠藤常師から、この村上県令に提出された『小学校設立伺』の文案が現在も残っており、その中で教師の候補者として三名が挙げられている。その中には当時61歳だった女性「壁谷伊世」が掲載されていた。それを引用した以下の論文には、伊世の経歴も記されていた。

※村上光雄は元下野黒羽藩(現在の栃木県那須市)家老。戊辰戦争では官軍側についたことが評価され、明治政府でも重用された。


『明治初期の初等教育機関における男女の分離』森岡伸枝 奈良女子大学文学部教育文化情報掌講匪年輟(1999年第3号)から引用。

兼テ御布達有之候。第二番女児小学校、 来ル九月二日ヨリ開業相成候間 、女児六才ヨリ十三才迄ノ者入学可為致候。尤六才以下十三才以上ノ者ハ入学勝手タルヘキ事。 但入学ノ節ハ前日教師へ申込入学式等可打合候事。教師左之通。
 読書習字  三 輪  中。
 読書並裁縫 手芸   壁谷 伊世。

 右 同断  芽根  操。

一、学校位置

 第八大学区磐前懸管下第四大区一小区、三春町村南街士族 湊武次郎邸。

一、学校名称

 第二番潤身女児小学。

一、学科

 当分小学二基キ通俗ヲ用。


「三輪中」の履歴(引用同じ)

磐前懸貫属 士族 三輪 中
当(明治6年:1873年)八月五二歳九月。師範学校卒業免状無之。旧三春藩学校へ文政一一戊子年正月ヨリ天保一四癸卯年五月マテ都合六力年漢学修行。旧山形藩儒員塩谷甲蔵へ弘化四丁未年一〇月ヨリ安政三丙辰年五月迄東京在勤之節都合一〇力年漢学修行。旧三春藩二於テ天保一二年辛丑年九月ヨリ同暦一五甲辰年正月マテ句読師勤務。同年同月ヨリ慶応元乙丑年五月マテ近侍役勤務。同年同月ヨリ明治二己巳年一〇月マテ政事方調役勤務。同年同月ヨリ同暦三庚午年七月マテ会計判事勤務。同年同月ヨリ同年一一月マテ大属勤務。同年同月文学助教二転任願之上免除。


「壁谷伊世」の履歴(引用同じ)

静岡懸貫属 士族 壁谷鹿馬母 壁谷伊世 
当(明治6年:1873年)年八月六一歳二月 師範学校卒業免許状無之。旧三春藩士三輪逸作へ文政三庚辰年(1820年)二月ヨリ同暦四辛巳年一二月マテ(で)都合ニケ年百瀬耕雲派筆道修行。 同藩士鈴木九八妻重へ文政七庚辰年(1824年)正月ヨリ同暦八乙酉年(1825年)一二月マテ(で)都合ニカ年青蓮院御派筆道及ヒ裁縫手芸交互修行。 華族元松平右近将監邸二於テ文政八乙酉年(1825年)一二月ヨリ同暦一〇丁亥年(1827年)五月マテ(で)幼児相手勤務。 旧幕臣元曽我伊予守邸二於テ文政一〇丁亥 年(1827年)一〇月ヨリ天保元庚寅年(1831年)三月マテ(で)女児保護勤務。

※カッコは筆者が付け加えた。天保元年は十二月から始まっているため、最後の天保庚寅年は文政十三年(1831年)のこと思われる。なお、これらの情報は福島県教育委員会編纂の資料『明治初期における教育史料』から引かれている。


この小学校は旧三春藩士の湊武次郎の邸宅が使われることになっていた。つまり盤前縣の小学校として、旧三春藩の領内に作られる予定だったことは間違いない。三輪(みわ)氏は三春藩では徒士(かち:下級武士)だったとされるが、江戸末期にはその地位は高まっていた。同じく三輪氏では白河藩の重臣で松平定信に仕えた三輪権右衛門(待月)が著名だろう。その邸宅跡には松風亭蘿月庵(しょうふうていらげつあん:福島県重要文化財)があり、のち寛政の改革を主導することになる松平定信が何度も訪れていたという記録が残る。

※三輪氏は大物主神、または事代主神の子孫ともされる古代氏族。崇神天皇の時代の大田田根子(おおたのたねこ)を祖とする。(『日本書紀』『古事記』による)その後奈良県の大神(おおみわ)神社の神官などつとめ、一族は全国各地の神官などになっている。この血筋を継ぐ旧家だった可能性があろう。


三輪氏は三春藩では、藩校の講師や藩医の記録が残っており、明治の新生三春藩では、近侍役(三春藩主の近習と思われる)や、政事方調役 会計判事などに三輪氏の一族がついている。三輪氏は幕末には重用されるようになっていたと思われる。この「三輪 中」もそのひとりであろう。その履歴には十六年に渡って漢学を学び、三春藩の藩校で三年ほど講師も務めたとある。新しくできるだろう小学校の講師兼校長として推薦された理由は、そこにあったのだろう。


次に壁谷伊世の経歴を見てみよう。三輪中は「磐前縣貫属 士族」であったが、壁谷伊勢は「静岡懸貫属 士族」とされる壁谷鹿馬の母であり、女性となる。文面からは、壁谷伊世が新たに磐前懸(いわさきけん:現在の福島県の南部)に作る学校の教師に適任であると県令に推薦されようとしていたことがわかる。給料は三輪中が月三円、壁谷伊世は月二円だった。当時の事情から、老年の女性だった壁谷伊勢だけが磐前懸に派遣されることは考えられない。当然ながらこの壁谷家の移住(故郷に戻る形になろうか)が前提だろう。


なお「静岡懸貫属(かんぞく)」というのは、明治初期の戸籍で本籍地を意味している。士族の場合、明治維新で藩主と同時に収入源も失ったが、その代りとして戸籍上所属する本籍つまり「貫属」の県から俸禄をもらう形となっていたからだ。後述するように、明治維新で幕臣はすべて静岡懸に移動させられて駿府藩(静岡藩)となっており、「静岡懸貫属」だった壁谷家は、元幕府直参の旗本などであったことを意味すると考えられる。


引用文によれば、壁谷伊世は明治6年(1873年)8月に、61歳2か月とされている。当時は数え年で年齢が記録されていたが、明治6年の太政官令により、この年から公式に満年齢が使われることになった。したがって61歳は満年齢とみてよいだろう。すると伊世が生れたのは文化9年(1812年)6月となる。明治以前は旧暦(太陰暦)となるので、明治以降の新暦とは1か月以上ずれるが、本稿ではとくに考慮せず、現在の暦を使って記述することにする。


引用文によれば伊世がまもなく8歳だった文政3年(1820年)から2年間、三春藩士であった三輪逸作のもとで「百瀬耕雲派の筆道」(筆道は一種の書道)を修行している。この三輪氏は前記したように三春藩の藩校と関わりがあった可能性が高い。三春藩は、現在の福島県南部にある田村市・田村郡周辺である。(一部現在の福島県須賀川市、郡山市なども含む)


次いで11歳の文政7年(1824年)からは、三春藩士鈴木九八の妻重(しげ)について、2年間「青蓮院御派筆道」と「裁縫手芸」を学んだ。この2つが伊世が教育者として適任な理由であると記されている。後年になるが、明治中期の『維新前東京私立小学校教育法および維持法取り調べ書』によれば、一定の過程を経て師から授かった筆道の「書号」を持たないものは、書の手本を書くことが許されていなかったとされており、伊世はこの「書号」を得ていた可能性が高い。

※別稿で触れるが三春に隣接(明治時代の三春縣には一部属している)現在の福島県須賀川市の壁谷家では、明治時代に三春の村長をしていた鈴木家の娘を嫁にした記録がある。この地域の壁谷家と鈴木家では、なにがしらの深い関係があったことが推測される。


伊世が習った「青蓮院御派」は「尊円法親王」(伏見天皇の六皇子)を祖とする草書(崩し字)の流派である。以前は地位の高い公家で使用されていたが、江戸時代には「御家(おいえ)流」と呼ばれ幕府の公式文書に使われるようになっていた。伊世がこの筆道を学んだのは、武家の妻としての右筆(ゆうひつ:代筆のこと)あるいは子息教育が目的と思われる。なお「百瀬耕雲」の同門と思われる「百瀬耕元」の書が後の明治大正期の『日本書画評価一覧』に70円とされており、空海250円、藤原惺窩85円、本居宣長80円などとも並んでいる。このことから百瀬耕雲も当時一定の評価があった高名な書家だったと推測される。


青蓮院御派筆道を教えた鈴木家も三春藩の藩校の師匠や、藩医を代々務めていた。これらの経歴から伊世は幼少時に旧三春藩の領内で過ごしていたと推測できる。そののち伊世は江戸に移住したようで、13歳6か月だった文政8年(1825年)12月から約2年間、松平右近将監(まつだいら-うこんのじょう)邸で「幼児」の相手をし、同じく文政10年(1827年)10月から曽我伊予守(そがいよのかみ)邸でも1831年まで約4年にわたって「女児」の面倒をみたと記録されている。なお、これらの内容はあくまで文案であり、果たしてこのまま県令に提出されたか、そして壁谷伊世が最終的に教師となって赴任したのかどうかは、この文案だけではわからない。


「松平右近将監」は果たして誰か

伊世が奉公した当時の「松平右近将監」は、5代将軍徳川綱吉の血筋を引く家系だった。松平右近将監は、8代将軍吉宗から10代将軍までの間、老中首座を務めていた。その後、第11代将軍家斉(いえなり)の子が養子となって継いでいた。松平右近将監家を代々継いだのは、将軍家の子弟であり、代々が老中首座につくことで幕閣の中枢にあり続けた。伊世はそんな名門家に奉公し、しかもその当主の子供の面倒をみていたことになる。


伊世の履歴書が書かれた当時、「華族 元松平右近将監」だったのは江戸幕府の最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)の実弟である「松平武聰(たけあきら)」である。しかし伊世が奉公したのは文政8年(1825年)12月から10年(1827年)5月までであり、その当時は松平武聰はまだ生まれていなかった。従ってこの履歴書に書かれた松平右近将監とは、先代の松平右近将監「松平武成(たけなり)」ということになる。実は武成に子がなく天保13年(1842年)生まれの武聰が末期養子として松平右近将監家を継いでいたからだ。


伊世が奉公を開始したとされる文政8年(1825年)がちょうど、その武成の生年であった。つまり伊世が実際に仕えたのは武成の父である従四位下松平義建(まつだいら よしたつ)、そして武成の生母、規姫(のりひめ)となる。規姫の実兄は幕末の尊王攘夷で名を残し「烈公」と呼ばれた第八代水戸藩主「徳川斉昭(なりあき)」だった。第十五代将軍「徳川慶喜」はその斉昭の子で、規姫の甥にあたる。伊世は奉公しながら、このように歴史に大きく名を残した著名人物たちとも直接接する機会があったことも推測されよう。


実は伊世が松平右近将監家に仕えた当時、長男は早世していた。そのためまだ一歳に過ぎなかった次男が将来の跡継ぎだった。そこに三男の武成が生れていた。彼らの面倒を見たり相手役を務めるために、伊世のような若い女性が必要だったと思われる。もしかしたら、伊世は乳母だったのかもしれない。その後、伊世が4歳まで面倒をみたと思われるこの次男は、のちに徳川御三家の筆頭、尾張藩の第十七代藩主「徳川慶勝」となる。


文政年間、松平右近将監家は江戸城御曲輪内(おくるわうち:現在の「丸の内」)の市ヶ谷に上屋敷(かみやしき:大名と家族が住む家)があった。壁谷伊世の一家も、おそらくはこの近くに居住していた可能性が大変高い。


尾張藩主「徳川慶勝」の活躍

徳川慶勝は、松平春嶽(しゅんがく)らと並んで「一ツ橋派」(以後「一橋」と書く。)の中心人物の一人でもあり「尊王派」を代表する逸材でもある。尾張藩は御三家筆頭でありながら、御三家の次席である紀州藩出身の吉宗に将軍を継ぐ地位を奪われていた。このこともあって、徳川宗家を継ぐ主流にありながら、官軍側に立つことにより明治維新の実現に大きく貢献することになったともいわれる。


少し時代を遡ろう。江戸時代末期、対立していた「南紀派」によって十四代将軍家茂(いえもち)の擁立が成功、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)は「日米通商有効条約調印」を強行したとされ、これを受けて「一橋派」は江戸城に一斉に登城して抗議した。実は一橋派も「調印止む無し」としており、決してこの調印に反対していたわけではなかった。しかし「天皇の勅許なし」での調印した幕府の独断専行を問題としていたのだ。しかしこの抗議行動を口実に「南紀派」は元水戸藩主徳川斉昭を始め「徳川慶勝」や松平春嶽らの一橋派の要人を藩主から降ろしたり、隠居幽閉としたりして弾圧した。これが安政の大獄の始まりとなる。同じく一橋派だった、薩摩の島津斉彬(なりあきら)も江戸に5000の藩兵を出兵させようと画策した矢先に、突然急死していた。これを毒殺と見る説もある。


しかし井伊直弼が桜田門外で水戸藩士らに討たれると、幕府の威信はガタ落ちとなった。幕政立て直しのために「一橋派」が返り咲き、幕閣を固めようとした。いわゆる「文久の改革」(1862年)である。公武合体を強力におし進め、旧式だったオランダ式から最新のフランス式に切り替えて陸軍・海軍を整備・増強した。幕府組織も旧来の「大老・老中」などの協議制から、「政事総裁職」「将軍後見職」「京都守護」「陸軍奉行」などを設け、江戸初期から続いた老中の協議制から脱却して権限の強化と判断の迅速化をはかろうと試みていた。この改革(一会桑政権)は徐々に成果を表し、一時的とは言え江戸幕府が再生してきたとされている。

※ちょうどこの時期、のちに将軍となる徳川慶喜のもと、一橋家の勘定役を務めていたのは壁谷直三郎だった。各種の状況からおそらく勘定奉行だったと推測される。別項を参照されたい。


壁谷伊世が面倒を見たのは松平右近将監の次男だった慶勝のほかに、生まれたばかりの三男の徳川武成もいたが、浜田藩主となった江戸末期の22歳ごろに亡くなっており活躍の軌跡を残せなかった。壁谷伊勢が直接かかわってはいないが、その後に右近将監家で生まれた3人の弟たちがいる。慶勝と生き残った3人は、後に「高須四兄弟」として知られ、幕末から明治にかけて、歴史に大きく名を残した。


その4人とは、元尾張藩士の「徳川慶勝」を筆頭に、将軍になった慶喜と入れ替わって一橋家当主を継いだ「一橋茂栄(もちはる)」、そして京都守護を務め後に戊辰戦争の一方の主役ともなった会津藩主「松平容保(かたもり)」、最後が京都所司代だった桑名藩主「松平定敬(さだあき)」である。文久の改革以降はこの四兄弟が徳川幕府の主導権を握ったともされ、一橋、会津、桑名から一文字をとって「一会桑(いっかいそう)政権」と呼ばれる。また幕府が倒れた明治時代には、高須四兄弟が中心となって、徳川慶喜の助命嘆願や、徳川家再興に尽力した記録が残っている。


彼らは一橋派であり、こぞって尊皇思想を堅持していた。朝命に対し真っ向から逆らったことはなかった。徳川慶勝も「朝命」を受けて第一次長州征伐で征長総督ともなったのだが、実際には穏便に収めて長州を延命させている。徳川慶勝がもしこのとき長州征伐を本気で強行していたら、幕府軍の力で長州は倒れ、しばらく立ち上がれなかった可能性もあるだろう。その場合、明治維新は違う形になっていたはずだ。その当時の幕府はフランスの協力を得て最新兵器を装備した圧倒的な軍事力を手に入れつつあり、少なくとも諸藩は幕府軍の急激な近代化に警戒していた。


慶喜の「大政奉還」に攻して「王政復古の大号令」が出された。この時「朝命」に従い明治新政府の事実上の最高の地位である「議定(ぎじょう)」についたも「徳川慶勝」だった。慶勝は、二条城、大阪城を無血開城し、官軍に無事引き渡しを完了させると、9歳だった実子が藩主を務める尾張藩に乗り込み、出迎えた藩内の佐幕派(幕府擁護側)の家老ら14名を一気に処刑した。(これは「青松葉事件」と呼ばれる。)尾張藩を一気に尊王派勢力で固めたあと、近隣の各藩から勤王の請書(承諾書)を集める窓口となった。


強大な尾張藩を敵に回したくない近隣諸藩は、次々と尾張藩の説得に従い、戦わずして官軍に降りた。このため関西で戊辰戦争は勃発することはなかった。あまり語られないが、中山道を関東・東北へ向かう官軍の主力にも尾張藩士が大勢加わっていた。これが官軍が江戸まで何事もなく進軍できた理由でもあろう。明治維新への流れが決定的となったのは、慶喜が戦いを避けたことだけでなく、慶勝の功績が極めて大きかったといえよう。(同時に当時の新政府の中枢にとって、煙たい存在の徳川家をつぶせない可能性に危機感も抱いただろう。)


尾張徳川家は御三家筆頭だったが、一度も将軍を出すことができず、紀州家出身の吉宗が将軍になったあとは御三卿(田安家、一橋家、清水家)から養子を迎えていた。しかし尾張徳川家の支族(御連枝)とされる高須家から、この義勝が尾張藩の藩主に返り咲いたことで、尾張家初代の義直が『軍書合鑑』に記した「王命(朝命)に依って催さるる事」を実践することに注力したとする説もある。しかし必ずしも筆者はそうは思わない。


水戸第六代藩主徳川治保(はるもり)の次男が養子となって先代の高須松平家を継ぎ、その実子にも第七代水戸藩主の子(第八代水戸藩主の姉)の規姫が嫁いでいた。つまり尾張徳川家の支族といわれる高須松平家は、この時期は尾張徳川の血脈は完全に失われ、両親ともに尊王攘夷にこり固まった水戸徳川家の出身となっていたのだ。徳川義勝の弟で、津藩主となり、孝明天皇に最も信頼された一人だった松平容保もやはり水戸家の血脈を継いでいた。そして最後の将軍慶喜も、水戸第九代藩主徳川斉昭の実子であった。水戸徳川家は、徳川光圀に始まる水戸学で尊王派の主導的役割を担い、江戸末期には著名な水戸学者藤田東湖(とうこ)を抱えた徳川斉昭が尊王攘夷の急先鋒でもあった。伊世が松平右近将監家に奉公に入ったのは、水戸徳川家や一橋家と同じく尊王派だった三春藩にいて、何らかの関りがあったと思われ興味深い。

※江戸末期の三春藩と朝廷側との密約については、別原稿で触れる。


将軍慶喜が目指した共和政権

日本での完全な天皇親政は、飛鳥時代の天武天皇まで遡らないと成功していない。奈良・平安時代は藤原氏が、それ以降は武士の棟梁としての将軍に牛耳られた。建武の新政では一時親政を取り戻したが、それもわすかな期間だった。こうして、それぞれの時代に権力を握ったものが天皇を君主と担ぎつつ、天皇に代わって実権を握り行政を担ってきた歴史がある。別稿で触れるが、実は徳川慶喜も新しい幕府の形を目指して大政奉還をしていた。


一橋派が文久の改革(1862年)を行ったときは、フランスは「ルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)」がフランスを「自由帝政」と呼ばれる議会共和制に移行した直後だった。慶喜はこのフランスの姿を見て「公武合体」の終着駅として、日本に天皇君主のもとで、列藩による新たな共和政権(郡県制度)を作ろうと考えていたようだ。勝海舟の『氷川情話』には、小栗上野介から聞いたとされる、この話が載っている。また、大政奉還後に、それを進言した後藤象二郎は慶喜の側近(若年寄 永井尚志)から「慶喜の考えは郡県制」であることを聞かされている。それは「王政復古の大号令」が出され、官軍側が一気に攻勢に出ることになる、わずか十日ほどまえのことだった。


『氷川情話』「小栗上野介」についての記述から引用(文中のカッコは筆者がつけた)

長州征伐を奇貨として、まづ長州を斃(たお)し、次に薩州を斃して,幕府の下に郡県制度を立てようと目論んで、仏蘭西(フランス)公使レオン・ロセスの紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、これを知って居たものは、慶喜殿ほか閣老を始め四、五人に過ぎなかった。(中略)小栗がひそかにおれにいふには、君が今度否上するのは、必ず長州談判に関する用向だらう。もし然(しか)らば、実は我々にかやうの計画があるが、君も定めて同感だらう。ゆゑに、敢(あ)へてこの機密を話すのだといった。


「小栗上野介(おぐり-こうずけのすけ)」は、当時幕府の外国奉行としてもフランスを通じ、勘定奉行として財政を立て直した幕閣の中心人物でもあった。勝海舟はこの話には載らず、長州と停戦合意して戻って来た。しかし幕閣の佐幕派勢力は、勝の合意を反故にして第二次長州征伐を強行してしまった。これで勝は顔に泥を塗られ、長州征伐は始まってしまったが、先に示した通り、結果的に徳川慶勝が長州征伐を穏便に終結させてしまう。幕閣の佐幕派勢力の勢いはこうして削がれた。その後フランス側もメキシコ出兵の失敗やナポレオン三世の失政で内外の混乱が発生しており、慶応3年に(明治元年の前年)にフランスに断られて幕府は結局資金を得ることはできなかった。


それでも計画をなんとか実現しようとした小栗らは臣下をフランスに行かせたが、結局交渉に失敗し日本に戻る金の工面にさえ苦労、その挙句に小栗らは幕府から解任され隠遁となった。実はフランスから資金を得ていて、小栗上野介が隠居した地元群馬の赤城山中に埋めたすることで、関東に向かう官軍を牽制した可能性は当然ある。一時期、赤城山で「徳川埋蔵金」を発掘するTV番組があった。赤城山中に埋蔵金があるという伝承になって後世に伝わったのかもしれない。


※徳川慶勝の次に尾張藩主になったのは慶勝の弟の茂徳(もちなが)だった。しかし一時勢力を持っていた南紀派に尾張藩主に推されて藩主となった経緯から、隠居を余儀なくされ、十五代将軍となって一橋家を離れた慶喜と入れ替わって、一橋家を継ぐことになった。空席となった尾張藩主についたのは、まだ9歳だった慶勝の息子の徳川義亘(よしのぶ)だった。このため、実父の慶勝が尾張藩では実質的な藩主として強大な権力を行使できたと思われる。


明治新政府は当初は総裁・議定・参与の「三職」を置いた。「総裁」は親王の有栖川宮だったが、もちろん形式的なもので、その下に位置する「議定(ぎじょう)」が実質的に最高権限を握ったといえる。議定には皇族ら五人のほかに、幕府側からも「徳川慶勝」「松平春嶽(慶永)」「島津茂久」「山内豊信」らが選ばれた。岩倉具視、三条実美らは参与として、議定の下位に位置したが、のち議定に昇格する。こうして明治政府の主導権を握ると、役済みとなった慶勝らは議定の地位から降ろされてしまう。一時的とは言え、主導権を徳川慶勝らが握っていたことは明治政府発足当時への道を、大きく切り開いたのは事実であろう。


松平容保について

余談ではあるが、松平容保について一言加えたい。容保は会津若松の藩主として戊辰戦争を戦い抜き、佐幕派(幕府の旧守勢力)の中心とも思われがちである。しかし容保は幕末に京都守護として京を守り抜き、「孝明(こうめい)天皇」に最も信頼された人物だったことも事実だ。1863年(文久3年)には孝明天皇から「朝廷参預(参与)」を命ぜられ、その時下賜された「孝明天皇宸翰(こうめいてんのう-しんかん)」を生涯大事にし、竹筒に入れて着けていた。これは容保の死後、元会津藩家老だった山川が明らかにしている。朝敵とされてしまった容保も、実は極めて忠実な勤王の志士だったのだ。


三条実美や岩倉具視らの暗躍があったことから、孝明天皇亡き後の「倒幕の勅命」や「王政復古の大号令」などが本当に明治天皇の意思であったかは極めて疑わしい。しかし、松平容保が持ち続けた天皇直筆の「ご宸翰(しんかん)」は、間違いなく孝明天皇の意思が反映されている。考明天皇は当時にあって圧倒的な武力をもっていた幕府を使い、外敵から日本を守ろうと考えていたと思われ、孝明天皇の急死がなければその後の歴史は大きく変わっていただろう。


松平容保が、執拗に反対した家老「西郷頼母(さいごうたのも)」を解任してまで京都守護を引き受けたのも、藩租保科正之(2代将軍徳川秀忠の庶子)の遺訓によるものであると言われる。そこには「徳川家に忠勤しないものは自分の子孫ではない、臣下も従う必要はない。」「道理を見失い自分の意思を通してはいけない。」などと記されていた。特に後者は感慨深い。容保は養子であるが、いったん会津松平家を継いだ以上、その遺訓を守るべきと実直に考えた武家の姿が浮かび上がる。松平容保は、徳川幕府と孝明天皇を守るため、家臣の反対を押し切ってまで難問山積する京都守護を引き受けていたのだ。


『会津家訓15カ条』から第一条、第十二条を引用

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若(も)し二心を懐(いだ)かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉(まぐ)ぐべからず。僉議(せんぎ)は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖(いえども)も我意を介すべからず。


戊辰戦争で会津藩はもともと官軍と戦う意思はなかったとされる。戊辰戦争の経緯を仙台藩側から説明した『仙臺戊辰史』によれば、鳥羽伏見の戦いのあと、会津藩を朝敵として仙台藩に会津征討の「勅命」が降りた。仙台藩主「伊達慶邦(よしくに)」や米沢藩主「上杉斉憲」らは、幼少だった明治天皇がそのような勅命を出したことに大いに疑問を抱くとともに、会津藩家老らによる複数の「嘆願書」を渡して朝廷側と和議を進めようとしていた。


しかし仙台に着いた官軍の参謀たちは房若無人の振る舞を繰り返していたと記録される。『仙臺戊辰史』には「天朝の軍人たりと、天下何人も異論を唱うるものなきを知るが故」「恰恰(あた)かも僕隷を鞭撻するが如くにて、大藩の重役に對する禮容もなく朝廷鎮撫の方針を體(たい)するものゝ言動とも見えざる」と記される。おそらくは官軍がわによる挑発だったのだろう。


それでも我慢し続けた仙台藩士の重役「玉蟲左太夫(たまむし さだゆう)」ら二名は、会津藩主の松平容保とも面談したうえで、仙台藩、会津藩ともに反抗の意思はないことを確認したと「奥羽鎮撫総督府」の参謀「世良修蔵」に伝えにいった。しかし、世良は徹底的に罵倒し武士としての尊厳を踏みにじったという。世良は藩主まで侮辱したという。


『仙臺戊辰史』から

其方共は奥羽の諸藩中にて少しは訳の分るもの故、使者にも使はれならんに、扨々(さてさて)見下げ果てたる呆気(あつけ)にこそ、左様のもの共の主人(仙台藩主のこと)も略知れたるものなり、所詮、奥羽には目鼻の明たる者(先の見通しが立つ人材という意味)は見当らず。

※「カタカナ」は「カナ」に変え、カッコの部分は筆者が解説をを加えた。


この話が仙台藩内に広まると、藩内では大きな非難の声が上がり、もはや暴発を抑えることができなくなっていた。参謀「世良修蔵」が寝所で何者かに暗殺されてしまう事件が勃発したことで、官軍との戦いを回避しようとしていた「奥羽越列藩同盟」は追い詰められ、戊辰戦争を戦うことを余儀なくされてしまった。実は、最後まで官軍と戦う意思はなかったのだ。これはあくまで旧幕臣か残した一方的な記録だが、敗者が残した歴史の一面でもある。勝者の明治政府が残した一方的な記録に基づく、現在の歴史観を見直す一助にはなるだろう。


「曽我伊代守」とその娘

伊世の話に戻そう。その次に壁谷伊世が奉公した「曽我伊予守」は、天領(幕府直轄領)だった沼津藩を治めた幕府重臣「曽我助順(すけのぶ)」 である。大名並みの六千五百石を誇る幕臣トップクラスの大身旗本であり、天保12年(1841)には「大番頭(おおばんかしら)」についた。大番頭とは、若年寄に次ぐ幕府要職で、江戸幕府の主要三城(江戸城・大阪城・二条城)を防備し将軍家を守る立場であり、江戸幕府の武官のトップともいえる。引用では同じく曽我伊予守「邸」とあるので、伊世は沼津藩上屋敷(現在の東京都港区麻布)でその娘の面倒をみるために奉公していたと思われる。


この曽我助順は幕末を迎える20年以上前の弘化三年(1846年)に体調を崩し隠居したた。そのため幕末に活躍した記録はない。壁谷伊世が曽我伊代守(曽我助順)の「娘」の面倒を見たのは文政十年(1827年)10月から天保元年(文政13年:1830年)3月まで、伊世は18歳になっていた。つまり林忠旭の父が若年寄を解任された1841年には、計算上伊世が以前面倒をみていた娘は、14歳以上になっていたことになり、当時としては婚礼の適齢期を過ぎようとしていた。曽我助順に何人の娘がいたかは確認できないが、年齢的に適合しその可能性が高いのが、後に上総請西藩(じょうざいはん:現在の千葉県木更津市)藩主の林忠旭( ただあきら:1805年生)の正室となった「諦観院(ていかんいん)」である。林忠旭の父は11代将軍家斉の元で、文政八年(1825年)から天保12年(1841年)16年間に渡り若年寄を務めた幕閣の中心人物だった。


余談だが、諦観院の子である「林忠崇(ただたか)」は、上総国請西藩の第3代藩主として戊辰戦争で家臣たちを引き連れて官軍に徹底抗戦し、千葉県の館山から幕府海軍と共に連戦、相模から箱根・伊豆さらには奥州へと転戦した。この執拗なまでの抗戦がたたり、戊辰戦争で取り潰された唯一の藩という、不名誉な記録を残してたことでも有名な。そんな彼の名を一層高めたのは「最後の大名」と呼ばれ、昭和の時代に入っても長く敬われ、親しまれ続けたことによる。昭和16年に92歳の天寿を全うしている。


伊世と請西藩主

伊世は文政8年にまでは、三春(現在の福島県田村郡)のお師匠の下で修行をしていたようだ。しかし、同年12月に修行の修了と同時に江戸で松平右近将監の上屋敷に奉公にあがっている。その時「満13歳6か月」であり、次いで曽我伊予守の女子の面倒を見たのは「満18歳」までであった。


武家の婚約は親や親せきが慎重に調整して幼児のうちに早々と決まったので、嫁ぎ先が決まるのは7,8歳、遅くとも14,15歳までには嫁に行っていた。徳川家康の実母だった於大も、満14歳で家康を生んでいる。女性は19歳で薹(とう)が立つ(花などの盛りがすぎること)と言われ、20歳になると年増(としま)と呼ばれていた。

※江戸後期は、庶民の間では人口増で飢饉が頻発し、若い女性が貴重な働き手となって少子化と晩婚化が急速に進んでいた。しかし、武家においては跡継ぎを得ることが必須であり、小さな子供のころから許嫁が決められ、早婚となる習慣が寝強く残っていた。


伊世の14歳という年齢からいって、この間に乳母(めのと)をつとめた可能性も高い。当時は、子を産んだばかりの家臣の妻が乳母を務めることはよくあった。そうでなくとも母がわりに養育係を務めると乳母(めのと)と呼ばれ、その子からは生涯大切にされた。伊世の嫡子「壁谷鹿馬」の年齢は不明だが、徳川慶勝や諦観院らといわゆる乳兄弟(ちきょうだい)だった可能性は十分に高いと推測できる。世が世であったなら、壁谷鹿馬もそれなりの知名度を歴史に残せたかもしれない。


※多くの場合家臣の娘が乳母(養父の場合は「乳父」とかいて同じく「めのと」と呼ぶ。「傅」とも書かれた)になっており、その後は出世した例も多い。鎌倉初期に頼朝の乳母を務めた寒河尼は女性初の地頭となり、その子らは小山氏(栃木)、結城氏(茨木)、長沼氏(栃木)などの祖となって関東各地の名族として代々栄えた。家康の家臣で松平忠輝の乳父(めのと)となった皆川広照も、一万石の大名となった。さらに三代将軍家光の乳母をつとめたお福は、後に従二位春日局(かすがのつぼね)となり、乳兄弟だった稲葉正勝は五万石の大名となっている。


伊世は、文政8年12月、修行を終えたまさにその月、江戸の松平右近将監の上屋敷に詰めている。このことから13歳までに嫁入りし、同時に上京して松平松平右近将監に仕えたと考えのが無難だろう。伊世は幼児の頃三春にいて家臣から修行を受けており、伊世は壁谷鹿馬の父とされる人物の妻となっていたのだろう。


明治6年8月の時点で「静岡懸貫属 士族」とされていることと合わせて考えると、伊世の夫(名は不明)そして子の「壁谷鹿馬」幕臣だった可能性が高いと考えられる。それは静岡が明治政府から幕臣に与えられた土地だったからだ。


静岡に集団で移動した幕臣たち

明治維新で徳川慶喜は、上野寛永寺で暫くの間謹慎した。謹慎が解かれると、明治元年9月に旧幕臣を伴って、静岡の駿府に集団で移動させられた。駿河・遠江(のちの「静岡藩」、現在の静岡県)で一部陸奥の飛び地を含む70万石の大名に格下げされた。慶喜に代わって徳川宗家16代となった田安亀之助(のちの徳川家達:いえさと)が静岡府中城主となり、同時に旧幕臣は静岡に大挙移動した。その数は2万人と言われる。壁谷鹿馬、壁谷伊世らもこれに従って、静岡に移動したと思われる。


以下に勝海舟が残した記録を引用する。当時わずか、1万2千戸程度しかなかったとされる静岡に、20日ほどかけて幕臣8万人を移動させたとしている。


『勝海舟全集』第十巻「亡友帖・清譚と逸話」原書房 昭和43年(1968年)より引用

維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは凡そ八万人もあつたが、政府では十日の間に移してしまへと注文したけれども、それは到底出来ないから二十日の猶予を願つて汽船二艘で以て運搬した。併しその困難は非常なもので、一万二千戸より外にない静岡へ、一時に八万人も入り込むのだから、おれは自分で農家の間を奔走して、とにかく一まづ皆の者に尻を据えさせた。(中略)さて、かの八万人を静岡に移してから、三、四日経つと沢庵漬が無くなり、四、五日経つと塵紙が無くなり、俺も実に狼狽したョ。

※『勝海舟全集』の『吹塵録』で後に明かしたことによれば、徳川八百万石、旗本八万騎は、俗説であり、実は四百万余石、二万三千家に過ぎないと語っている。それでも幕臣数万人とそれに従った家族が大量に静岡に移動したのは間違いない。


静岡に移った幕臣は、大幅に収入が減り、仕事も住む家もなく相当に困窮したが、現在の静岡市、沼津市を中心に、徳川家の再興を目指したとされる。しかし明治4年、廃藩置県となるとその静岡藩すら消滅してしまうことなった。数万人の士族は、住む家を失い藩からの俸禄も失った。大幅に減らされた秩禄が明治政府から支給されたが、それも明治9年に秩禄処分で消滅してしまう。各地の士族の反乱や物価の高騰が続き、静岡での暮らしは難しくなり、開拓した土地を捨てて再び各地へ散っていくことになった。


一部静岡に残った旧幕臣たちは、乾燥したシラス台地の静岡の牧ノ原台地を開拓した。農業に適さなかったため茶を植え、当時の静岡には日本一の茶畑が広がり、現在の静岡名産のお茶となった。当時は、日本茶が海外で人気を博して輸出が急激に伸びていた。しかし生産が追いつかずさらに投資して生産を増強していた。しかし品質の悪い茶が海外に大量に出回るようになると、突然輸入規制されてしまい価格は大暴落した。多くの茶の生産者は借金苦に見舞われ、幕臣たちは一気に苦境に落とし込まれた形になる。


借金を返そうと頑張ろうとしていた矢先に「明治14年の政変」後の「松方デフレ」が発生することになる。物価が急激に下がり、かつ収入も減った。しかし借金額は減ることはなく、もともと農業になれない士族たちは、多くが切り開いた茶畑を手放すことになってしまった。


戊辰戦争以来、東北地方の価値を卑下して長く用いられた「白川(現在の福島県白河)以北はひと山『百文』」という有名な言葉がある。当時、百文銭は一つしかなかった。「天保通宝」である。天保の改革の一環として、旧来の「4文銭」の5倍の銅しか含まない新貨幣を、20倍の百文で流通させて幕府が資金調達した。それ以来、天保通宝は、質の悪い貨幣として名高くなった。一山「百文」という言葉には、東北地方への皮肉と侮辱が込められていたと推測する。こうして資金難となった士族たちの一部は、まだ親族が残っていた東京や、新しく東北の開拓地に移り住むことを余儀なくされた。


三春藩士 壁谷鹿馬

なお伊世が三春藩士から教育を受けた経歴や、磐前懸で開設される学校の先生に推挙されたという状況から、三春藩との関係は無視できない。昭和8年に出版された『三春藩士人名辞典』には、明治初期の旧三春藩士として、華族1人(元藩主「秋田映季(あきたあきすえ)」とその臣下だった「士族」346人、「卒(そつ)」65人の名が記される。

※「卒」は、「同心」など日常で馬上が認められていない下級武士とされ「下士」ともよばれた。当初は士族とはされなかったが、明治9年に多くが士族に加えられた。さらに下には、帯刀ぜす雑務をこなした茶坊主などもいて、実際に三春藩に仕え、のちに士族とされた家臣はこの数の数倍はいたと思われる。


この旧三春藩士の「士族」の中に3名の壁谷の名があり、壁谷鹿馬の名も見つけることができた。伊勢が三春藩の人物に教育を受けたことた、この地の教師に推薦されたことも併せて考えると、この「壁谷鹿馬」が本稿で登場する伊世の子と同一人物と推測できよう。鹿馬が、ほぼ同じ時期に「静岡懸 貫族 士族」とされている事情は推測できるが、まだはっきと確認できていない。


『三春藩士人名辞典』明治4年の記録から

一 米 六石五斗七升六合九勺二才 士族 壁谷 鹿馬
右ハ俸給十石之二十分之一引残ル九石五斗去ル
午十月ヨリ當末九月迄閏月共ニ二十三ケ月ニ割当

正月ヨリ九ケ月分 


上記によれば、壁谷鹿馬は、明治4年に「右ハ俸給十石」つまり俸給10石取と、わずかな俸給である。しかし、これは明治時代に大幅に削減された俸給であり、江戸時代のものとは大きく異なる。たとえば、この旧藩士名簿で筆頭に記され、三春藩主の名代(みょうだい)として江戸に上っていた「秋田廣記」でさえ、わずか20石取りと鹿馬の倍に過ぎない。江戸時代の三春藩の筆頭家老の石高は1000石とされており、明治時代の俸給は、江戸時代の50分の一に減っていたともいえる。このことから、秋田廣記の半分の10石取りとされた壁谷鹿馬は、少なくとも中級以上の家臣ではあったと思われる。


明治4年に、壁谷鹿馬はこのとき旧三春藩(後に三春懸、そして盤前懸の一部となる)の藩士として記録されたことになる。当時は廃藩置県の直後であり、三春藩が解体されたばかりだった。この名簿の情報は、明治7年3月に盤前縣の權懸令(ごんのけんれい)に昇格した、村上光雄に提出されている。この村上は冒頭で登場した伊世の履歴書の提出先とされた村上県令と同一人物である。村上は、明治6年から7年にかけて、壁谷鹿馬の名が書かれた、2つの書類を受け取ったことになる。


ひとつは、「明治6年9月 静岡懸 實属 士族 壁谷鹿馬」、もうひとつは「明治7年3月 旧三春藩 士族 壁谷鹿馬」である。實属とは俸禄を支給する地域を意味した。確実なことはわからないが、この二人は同一人物で、三春藩士でありながら幕府に仕えていた関係で静岡懸實属となっていた可能性が高い。詳しい事情は今後調べていきたい。同じころ「旧三春藩 士族 壁谷嘉六(かろく)」も明治6年に明治政府から盤前懸から東京に呼び寄せられており、のちに伊藤博文のもとで活躍した「盤前懸 士族 壁谷可六(かろく)」がいたことは別原稿で示す。


明治の教育行政を担った 田中不二麿

壁谷伊世が教師として推薦されていた明治6年、国の教育行政の実質上の責任者だったのは、旧尾張藩士だった「田中不二麿(ふじまろ)」であった。田中は尾張藩内の佐幕派を一斉粛清した青松葉事件ののち慶勝の右腕として活躍、慶応3年の王政復古の大号令では、「議定(ぎじょう)」となった慶勝とともに「参与」となり、新生明治政府の指導者となっている。その後は慶勝の意向をうけて自ら官軍を率いて東上した。


明治2年には明治政府の大学御用掛となり、岩倉遣欧使節団として欧米の教育制度を視察して明治6年に日本に戻ってきた。それから日本の教育行政の実質的な責任者である文部大輔(大輔は官職)となった。旧尾張藩出身者として明治政府の要職についた極めて稀な例でもあろう。後年は教育行政から退いて帝国憲法を制定するために設けられた枢密院(すうみついん)の顧問官となり、松方内閣で司法大臣ともなっている。


壁谷伊世が教師に推薦されたのは、田中不二麿が日本の教育制度改革に乗り出した、まさににこの明治6年だった。奥州三春藩出身と思われる壁谷伊世らは、明治維新で静岡に飛ばされ、その静岡藩もなくなり収入を失いつつあった。この教師推薦が徳川慶勝の意向を受けた田中不二麿によるものであったと考えるのは、少々考えすぎなのかもしれない。しかし慶勝と伊世の関係や、別稿で触れる戊辰戦争時の三春藩と尾張藩の密接な関係などからすれば、その可能性がないとも言い切れない。


明治6年ごろは同時に、士族の救済が政府の重要課題となりつつあった時期でもあった。明治5年には士族救済のため、明治政府主導により安積郡桑野(現在の福島県郡山市)の大規模開拓がはじまっていた。明治6年には家禄奉還を願い出た士族には、一時金が支払われたり、土地や山林などが格安に払下げられている。各地で不平士族の不満を抑えるためにいろいろな対策をとっていた。明治8年には、ついに俸禄が廃止されることになり(秩禄処分)、士族はついに収入を失うこととなった。西郷隆盛らが下野した「明治6年の政変」以降は、士族の不満は高まっていき、明治10年の西南戦争につながっていく。


一方で、同じく旧三春藩士だったと思われる壁谷可六(嘉六)も、磐前懸士族として明治政府に徴用され、のちに元老院・枢密院の書紀官をこなしている。この際に、枢密院(すうみついん)の顧問官であったのも、この田中不二麿であった。枢密院は30人弱の顧問官で構成された天皇のもと国の最高諮問機関であり、そこには3ー4人の書記官がいた。(書記官は議決に参加できない)


枢密院では伊藤博文の元、明治22年に公布される帝国憲法の草案が極秘に練られていた。田中不二麿と壁谷可六の二人は、その過程で相当の関係があったことが予想される。また明治23年には、明治天皇の大祓(おおおはらえ)に参集するために枢密院から選ばれた3名の中に、田中不二麿と、壁谷可六の二人が記録されている。田中不二麿と壁谷家の接点は複数あり、相当長く続いていたことはおそらく間違いないだろう。その切っ掛けはもしかしたら、徳川慶勝と壁谷伊世にあったのかもしれない。この辺りについては、別稿で触れていきたい。


今後整理すべき課題

1)「壁谷伊世」の表記は、森岡伸枝の論文に従った。一部の同時代と思える文献に「壁谷伊勢(いせ?)」という表記があった。当時は筆文字だったこともあり、名前で画数の多い字が、発音の同じ単純な文字に置き換え慣用された例がいくつか見られる。このことから、もしかしたら正しい名は「壁谷伊勢」で、「壁谷伊世」は代字だったのかもしれない。

※筆者の母は名前には「葉」の字が含まれる。しかし子供のころ同じ発音の「洋」と書くようにと書道の教師から教わった。それいらい自分の名を普段からそう書くようになり、筆文字を書くことがなくなっても、その名前を使い続けていた。別項で登場する「壁谷嘉六」と「壁谷可六」の関係もそうなのかもしれない。


2)壁谷伊世が三輪逸作、鈴木九八(の妻)といった旧三春藩士によって薫陶を受け、百瀬流や青蓮院御派の筆道を教わったとされる。三輪家、鈴木家は三春藩で代々が神官や藩医を務めた家系でもある。


三春(現在の福島県田村市、田村郡付近)の地では、三輪家、鈴木家、壁谷家の関係は深かったようだ。三輪氏は、日本神話の大国主命(おおくrにぬしのみこと)の名に繋がる名でもあり、現在も三輪大明神、大神(おおみわ)神社が三春にある。昭和の時代にまとめられた三春の郷土史によれば、壁谷が鹿島神社の神官を務めていたと記録される。(他に鹿島の神官の記録がないことから、三春地域内での鹿島神官は壁谷だけだったと推測される。)その鹿島神社とは、清和天皇の時代に分祀された鹿島大神宮(現在の福島県郡山市西田町)であり、その御神体は巨大なペグマタイト岩石(国指定天然記念物)である。また、複数の壁谷家の妻たとが、オシンメイ様とされていた。オシンメイ様信仰とは三春の地元信仰のようで、三春大神宮(現在の田村郡三春町字馬場)で、明治以降は田村大元神社の神事を引き継いでいるとされている。なお福島の須賀川の地の壁谷家も明治時代に三春の鈴木家から二代続けて嫁を迎えたとされている。これらについては、機会があればまた別稿で触れたい。


3)江戸時代には水戸藩の御連枝(ごれんし:支藩)として、三春藩に隣接して守山藩2万石(現在の福島県田村町守山)の守山陣屋があった。徳川光圀の弟が藩租で、水戸藩同様に江戸常府で参勤交代はなかった。この関係で、三春藩と水戸藩の関係は深かったものと思われる。また三春藩や白川藩(松平家)から江戸に向かうには、奥州の入り口として当時大いに栄えていた須賀川宿(現在の福島県須賀川市)を通る必要があった。


須賀川にあった室町時代からの名刹、長禄寺には三家の壁谷家の墓があり現在も引き継がれている。三春藩に三家の壁谷がいたことと合わせると、須賀川の壁谷との関係も興味深い。江戸時代に長禄時は松平定信を輩出した白川藩の領に属していたが、須賀川の一部は三春藩に属しており、須賀川宿から江戸に向かう須賀川街道に繋がっていた。


参考文献

  • 『明治初期の初等教育機関における男女の分離』森岡伸枝 奈良女子大学文学部教育文化情報掌講匪年輟 第3号(1999年)
  • 『維新前東京私立小学校教育法および維持法取り調べ書』明治政府
  • 『日本書画評価一覧』大正2年(1912年) 東京文化財研究所
  • 『海舟全集第十巻』「亡友帖・清譚と逸話」原書房 昭和43年(1968年)
  • 『氷川情話』勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫(2000年)
  • 『仙臺戊辰史』藤原相之助 明治43年(1910年)荒井活版製造所 国会図書館
  • 『江戸幕府崩壊』「孝明天皇と一会桑」家近良樹 講談社学術文庫 2014年
  • 『三春藩士人名辞典』昭和8年 福島古今堂書店古典部 国会図書館
  • 『お江戸の武士の意外な生活事情』中江克己 2001年
  • 『会津家訓15カ条』

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。