3. 明治憲法発布を支えた 三春士族 壁谷

明治政府の官吏として「福島県士族 壁谷」が複数確認できる。中でも内務省の「壁谷可六」は伊藤博文の下で元老院・枢密院の官吏として活躍し、日本初の憲法解説書となる『帝國憲法義解』など多くの著作も残した。それらの著作は「大日本帝国憲法」をはじめとした諸法律の発布とぼぼ同時に出版され、現在も国会図書館でマイクロフィルムで閲覧できる。


すべて筆文字で書かれており、崩し字を読むのは現在の一般人には相当に難しい。しかし幾つかの書籍は復刻版として活字化され、信山社の『日本立法資料全集 研究復刊大系』のひとつに組み込まれている。それらは現在も古本として入手が可能なようだ。本稿では、この「壁谷可六」を中心にして、その他の「福島県士族 壁谷」の活躍の記録にも触れてみたい。

※別稿では「東京府 士族 壁谷訓永」、「静岡懸士族 壁谷伊世」そのほかについて触れている。


盤前縣士族 壁谷可六

公開されている履歴書によれば、「可六」は、江戸時代末期、嘉永3年(1850年)8月の生まれである。明治7年(1874年)11月に24歳で「盤前縣士族」として新たにできた福島縣に採用されると、同時に東京に出張となった。磐前縣(いわさきけん)は、明治4年11月の第一次合併において、明治初期の中村県(現在の福島県浜通り北部)、磐城平県(浜通り南部)、湯長谷県(いわき市)、泉県(いわき市泉)、三春県(田村市・田村郡三春町)そして棚倉県(東白川郡棚倉町)の6縣を合併し成立していた。


可六は3か月ほど東京で内務省に滞在しており、恐らくは明治新政府の研修を受けたと思われる。内務省は強大な権限をもった政府の最有力行政機関で、その当時の内務卿は大久保利通だった。可六は間もなく福島に戻らされると、福島県の官吏として「道路改正」「地租改正」の取調事務を専任で担当した。実はこの地租改正は、新政府の税制の根幹となる大制度改革であった。江戸時代まで、各藩がそれぞれ自領内の土地を支配・管理していた。しかし新政府では全国の全ての土地を国民の個人のものとして政府が一括して管理、それをもとに国民から直接政府に税金を納めさせるというものだった。

※内務省は戦後GHQにより解体されている。


この地租改正に対する反対運動が全国規模で起きており、「地租改正反対一揆」までもで散発するようになった。これは特定の国民に土地を管理させるために、所有者の確認や把握、境界の確定、土地の等級や地代の決定、山林などを官有地へ組み込む作業など、利害が衝突する難題が山積して不満を持った国民が多かったからである。明治政府が極端に警戒したのは、これらの地租改正反対一揆の勢力と不平士族が団結して、各地で新政府転覆の動きが起きることだった。明治9年2月に「佐賀の乱」が起きた。3月には新政府が廃刀令を出し「士族の反乱」も各地で発生、各地に不穏な空気が漂っていた。明治10年には「西南戦争」も勃発する。500年ほど前「建武の新政」のころも、鬱積した武士の不平不満を抑えきれず天皇親政に失敗した前例があった。


明治9年8月には第二次合併があり、当時の福島縣(中通り)・若松縣(会津地方)・盤前縣の3つが合併して福島縣(現在の福島県)となっていた。当時の福島縣の職員名簿を見た限り、土地取調 調査官と記録されているのは可六ひとりしかいない。可六はこのような激動の時期に、地租改正という難題をたった一人の責任担当として必死にこなしたに違いない。明治14年(1881年)4月2日、可六は福島縣の職員を退職した。可六が福島縣に採用された明治7年は、明治政府が全国各地で地租改正に着手した年であり、また可六が福島縣を退職した明治14年は、ちょうど足かけ七年かかったと言われる地租改正が全国で完了したとされる年だった。


東京に出て政府官吏となる

国会開設運動が高まるさなか、明治14年10月「明治14年の政変」が勃発した。対立した伊藤博文が大隈重信らを追放し、政権を握ることになった事件だ。その混乱のさなかの明治14年12月、可六は再び東京に呼び出され「元老院(げんろういん)」の六等書記生として採用された。六等官とは後日「奏任官(そうにんかん)」と呼ばれる政府の高級官僚に相当する。奏任官とは、天皇の任命権を委任された内閣総理大臣が、天皇に代わって任命したとする官僚のことだ。


可六が採用された元老院は、明治天皇の「立憲政体の詔」に基づいて設けられ、明治政府の理想とされる立法機関だった。元老院の議長は、明治政府の事実上の最高位だった左大臣が兼務した。元老院は同じく司法機関とされた大審院(現在の最高裁判所)と並んで、国の最高機関のひとつとされていた。


明治天皇の『立憲政体の詔』(明治8年)から部分抜粋

朕(明治天皇)、今誓文の意を拡充し、茲(ここに)に「元老院」を設け以て立法の源を広め、「大審院」を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。


しかし元老院の実権は事実上奪われ、明治の元勲といわれる人々の活躍を追認するだけの機関になり下がってしまっていた。このような政治を続けた明治政府を取り巻く環境は厳しく、国会開設を巡って政府内での論戦が続いて収拾がつかなくなっていたのだ。さらには西南戦争の資金調達が極端なインフレを招き、日本全国は慢性的な不況に陥っていた。そんな明治14年10月、大隈重信ら多数の国会開設推派が追放されのがこの「明治14年の政変」だった。


この政変では「伊藤博文」らの薩長を中心とする勢力が実権を握り、当時は10年後の国会開設を宣言して自由民権派の不満を抑え、『立憲政体の詔』の理想を新ためて追求する模索が再開されていた。同時に松方正義が大蔵卿となって展開した「松方財政」で緊縮財政に大きく舵を切り、一気に財政再建を進めていた。日本が立憲国家として新たなスタートを切ろうとする、時代はまさに激動のど真ん中にあった。そんな劇的な政変が中央で勃発してから、わずか2か月足らずの時期に、可六は福島から呼び出され、元老院に採用されたのだった。


奥州の巡察に随行

可六が東京に来て間もない明治15年(1882年)1月、後に鬼県令とも恐れられることになる「三島通庸(みちつね)」が福島県令(いまの県知事)についた。三島は会津喜多方を起点として、新潟、山形、栃木を結ぶいわゆる「三方道路」の建設を強行しようとした。これには多大な費用が発生し、地元の農民らが大反対していた。福島県議会議長だった「河野広中」らの民権派も反対運動を展開し、まさに一触即発の時期だった。


『国会図書館』には、この時期の壁谷可六の書翰(自筆の手紙)が残されている。目録のため、内容の細かい記述は確認できていない。そのころの福島の不穏な状況が可六にも深く伝わっていたようで、三島に対して批判的で、福島県議会を支えようとしていたことが明確にわかる。「県会ノ景況御報道多謝」「 勝ヲ制スルハ至難ナレド不〓不屈ノ精神鼓舞サレヨ」などとあり、おそらく中央の東京にあって、地元の河野広中らと誼を通じながら、強権の三島を抑える画策も試みたと思われる。


国会図書館『三島通庸関係文書目録』から引用

壁谷可六書翰 園辺好幸宛
イ )三島着任ヲ待チ辞職センカノ由理由示サレヨ 明治一五年二月一二日 一通
ロ) 県会ノ景況御報道多謝 三島辞職セシムルハ至難 県民経済ニ御留意ノコト 明治一五年五月一五日 一通

ハ) 無比ノ大事件 勝ヲ制スルハ至難ナレド不〓不屈ノ精神鼓舞サレヨ 明治一五年六月四日 一通

※この書簡で可六が宛名としている「園辺(園部)好幸」は可六と同じく三春出身(三春字荒町とある)の福島県士族。三島通庸を糾弾する集会で演説した記録が残り、後述する「福島事件」では容疑者として逮捕され獄死している。(『弁護士の誕生とその背景』『明治15年刑法施行直後の不敬罪事件』による)



翌、明治16年の7月16日付の資料では、元老院の議官「渡辺清」に「壁谷可六ほか一名」が随行することが太政大臣「三条実美(さんじょうさねとみ)」に認可されている。可六はこのとき33歳で、五等書紀官に昇格していた。目的は東北地方の地方巡按(律令の規定による)とされ、参議「西郷従道(さいごうつぐみち)」、「井上馨」、「大山巌」などが連名印が確認できる。(『五等書記生壁谷可六外一名議官渡辺清地方巡察ニ付随行被命ノ件』による。)

※渡辺清はもと肥前藩士。鳥羽伏見の戦いで東征軍監、戊辰戦争では奥羽追討総督参謀だった。あまり知られていないが、実は江戸無血開城の影の立役者である。明治15年の元老院会議で、日本の法律の元祖とまで言われた箕作麟祥(みつくりりんしょう)の戸籍廃止論に強く抗した。多くの国では個人主義に基づき戸籍制度はない。現在の日本に戸籍制度が残るのは彼の功績といっても過言ではない。のち貴族院議員、福島県令を勤め男爵に叙されている。


このころ日本全国で自由民権運動が広がっていた。明治16年4月、板垣退助が暴漢に襲われ岐阜で負傷、「板垣死すとも自由は死せず。」と言い放ったとされる。官軍を指揮して三春藩無血開城を実現した板垣退助は、戊辰戦争の英雄として明治政府内で重きをなしていたが、同時に河野広中も板垣退助の自由党結成(明治14年)に参加した幹部とされ福島県内にも板垣の信奉者が多かった。河野広中を中心として、福島県は自由民権運動の拠点のひとつとして全国に知れ渡っていたのだ。


可六が福島出張したわずか3か月後、ついに「福島事件」が勃発した。約2000人が逮捕され、民権運動の旗手のひとり「河野広中」も投獄されている。さらに三島は栃木県令も兼任となった翌年9月、三島に暗殺未遂事件が勃発し、ここでも多数が逮捕され7名の死刑囚まで出した。教科書にも載るいわゆる「加波山事件」である。この事件では福島事件で逃亡した河野広中の弟も関わりがあったとされる。可六らの一行は、このような大変な時期にあった福島を明治政府側として視察に行ったものと思われる。

※渋沢栄一の自伝である『雨夜譚』には江戸末期の話として、酔った三島が薩摩藩の役人の寄宿先に乗り込んで杯盤(盃と皿など)を砕いたり、女を殴るなどの暴行を働いたとしている。飲み仲間として共謀を疑われた渋沢栄一は汚名をすすぐため三島を斬り殺そうと三島のもっとに駆け付けて、仲間に制止されている。明治になると、三島は鹿児島縣士族(旧薩摩藩)として大久保利通に取り立てられ、各地の県令となって民権派を弾圧し鬼県令として恐れられた。後に警視総監となっている。三島の娘は大久保利通の次男(養子にいったことで牧野伸顕と名乗っている)に嫁いだ。その娘雪子は後の総理大臣吉田茂の妻である。さらにその娘の子は、平成の時代に総理大臣となった麻生太郎である。


可六が同行した議官の渡辺は、元肥前大村藩士で戊辰戦争で官軍の「奥羽追討総督参謀」だった。あまり語られることはないが、実は彼は江戸城総攻撃を中止した隠れたキーマンの一人でもあった。『史談会速記録』合本13「江戸攻撃中止始末」で渡辺が語ったことによれば、官軍側としてイギリス公使「パ―クス」と会談し、江戸城総攻撃の協力を依頼した。しかしパークスに拒否されたとしている。


パークスの言い分によれば「恭順した側に戦争を仕掛けるのは国際法に適わない、かの大ナポレオン(元フランス皇帝)でさえ遠島で済んだ」ということだった。さらには「万国公法により(徳川)慶喜が政治亡命を希望すればイギリスはそれを受け入れる」とまで表明されたという。渡辺はこの話を西郷隆盛に伝え、江戸城総攻撃の中止を進言したとしている。江戸城総攻撃をすれば、官軍はイギリスを敵にまわすことになる。歴史に残る勝海舟と西郷との会談は翌日行われているが、渡辺もその列席していた。こうして江戸城無血開城が現実となったという。渡辺清はのちに貴族院議員・福島県知事となり、男爵に叙されている。


これらの事実関係は、歴史上名を残した人物の後日談として語られ、小説やドラマで取り上げられ潤色されたりして、実際のところははっきりしない。後日談としてよく語られるのは、次のような話だ。まず勝海舟が通訳のアーネスト・サトウを通じてパークスと事前に連絡を取って説得、一方では江戸火消しの大物、新門辰五郎(娘が徳川慶喜の愛人だった)に万一江戸攻撃の際は江戸を焼き払うと話を付けていたとされる。このため西郷が江戸城総攻撃を断念したというものだ。この話は勝海舟の『氷川情話』に掲載されている。こうして江戸城無血開城は勝海舟の功績ともされている。いかにも食わせ者の勝らしい話ではあろう。


帝国憲法の発布

明治17年、 憲法設置のために枢密院のもと「制度取調局」がおかれ長官に「伊藤博文」がついた。明治19年に「勅任官(天皇に直接任命される官僚)」となった可六は、明治21年「枢密院(すうみついん)書紀」も兼任となった。枢密院は天皇の諮問機関であり当時の行政の中心機関であり、可六はそれに参加して記録を取る係だったわけだ。枢密院の議場は、皇居の赤坂御所内の別殿(現在の「明治記念館」)にあったが、可六が枢密院書記を兼任することになったときに、新皇居「明治御殿」内に移っている。

※可六がなった「勅任官」は、天皇の御璽(ぎょじ:天皇の正式な印鑑のこと)が捺されて任命され、周りからは「閣下」の敬称を付けて呼ばれる高い地位でもあった。


新設された枢密院では、総理大臣を自ら退いた「伊藤博文」が初代議長となった。議官に「山縣有朋」「黒田清隆」「西園寺公望」など大物が揃い、可六の上司となる書記官長は元肥後藩士で法制局長官だった「井上毅(こわし)」だった。「勝海舟」を始め一定の年齢以上で明治の元勲ともされたものたちは、枢密院に顧問官として招聘されてアドバイザーとなっていた。


このころ「板垣退助」「後藤象二郎」ら自由民権派の要人は三菱や政府からの資金援助をうけ、海外を視察して回っていた。一部の民権派の人々は民権派を分断しようとする政府の魂胆に違いないとも吹聴していた。実は政府が10年後に開くと約束した国会開設の前に、速やかに立憲君主制を確立してしまうことが、伊藤博文の目的だった。新たに作られた枢密院では、極秘のプロジェクトが動いていた。伊藤博文を中心にして、ドイツ(当時のプロシア)の憲法を参考にした「大日本帝國憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)」(以後「帝国憲法」と記す。)の草案が練られていたのだ。全く極秘裏に作られていた「帝国憲法(明治憲法)」は明治22年(1889年)2月11日に発布され、その前後には「皇室典範」、「衆議院議員選挙法」、「貴族院令」、「議員法」など憲法に連なる一連の法案が一斉に公布されている。これらの法律の公布に前後して、可六を主筆とする著作が続けざまに出版されている。


  1. 『町村制市制釋義 : 地方自治之制度』 同労舎出版部(明治21年5月)
  2. 『町村制市制問答』  同労舎出版部(明治22年2月)
  3. 『通俗徴兵令解 : 旧令参照』 楽天書房(明治22年2月)
  4. 『帝國憲法義解』 同労舎出版部(明治22年3月) 
  5. 『議院法義解』 同労舎出版部(明治22年4月) 
  6. 『選挙法義解』 同労舎出版部(明治22年6月)
  7. 『郡制府縣制釋義』 金港堂(明治23年5月)
  8. 『会計法義解』(出版元発行日不詳『議員法義解』に付属した可能性あり)


多くが「磐城 壁谷可六・肥前 上野太一郎 合著」である。当時次々と作られていた各法に、この二人が幅広い知識を持っていたことがわかる。他にも、日本立法資料全集 地方自治法研究復刊大系には『市制町村制釈義』壁谷可六, 上野太一郎合著 ; 矢代操校閲、『市制町村制釈義』壁谷可六, 上野太一郎合著、とする記録もある。なお『通俗徴兵令解 : 旧令参照』は 松島錬之助著であり、可六はこの本で上野と並んで校閲者とされている。著者の松島錬之助は紀州藩出身の士族で、兄の松島剛は自由民権運動に大きな影響を与えたとされるスペンサーの「社会平権論」を明治17年に翻訳して刊行し、錬之助はその本の校閲もこなした実績があった。


可六が著した『帝国憲法義解』の復刻版を見ると、その表紙には「元老院議官 細川潤次郎 題字、法律學士 矢代操校閲、壁谷可六 上野太一郎 合著」と大きく書かれ、開いてみると冒頭は細川の揮毫による「積慶重暉」の4文字が並ぶ。これは『日本書紀』の「即位前紀」で、初代天皇「神武天皇」が日本の建国にあたって宣言した「建国の詔」にある「慶(よろこび)を積み 暉(かがやき)を重ね、多に年所を歴(へ)たり」から採られた言葉だ。戦前までは建国記念日に常用された重みのある文言だったようだ。次のページには明治天皇の御言葉、明治天皇の「憲法発布の勅語」に続いて、「内閣総理大臣 黒田清隆、枢密院議長 伊藤博文、外務大臣 大隈重信、海軍大臣 西郷従道」ら政府高官らの名が次々と並び、憲法発布日の明治22年2月11日と書かれ最後に「壁谷可六、上野太一郎」の名が連名で登場する。


帝国憲法は明治22年2月11日に発布された。その後一か月足らずで『帝国憲法義解』が実際に出版されていたことになる。実は憲法は秘密裏に練られていたので、その草案すら決して外に出されていなかったのだ。当時のこの本の出版の意義、そして当時の校正・印刷・製本・出版などにかかる期間を考えれば、可六らは出版前に相当の期間、おそらく1年以上をかけて執筆の準備をしたはずだ。この当時、可六は30台後半で、いわゆる働きざかりのころだった。一方で合著者の上野太一郎は佐賀県(旧肥前藩)士族で当時30歳に届くか届かないか、可六にとっては若手の実力者として心強い仲間だったのだろう。


筆文字で書かれた旧版には「緒言」(前書き)がある。(活字版の復刻版にはない)そこでは筆文字で「憲法や法律の解釈を一般大衆にも解説することが要求される時代になって来たと出版社から求められた事が本書執筆の動機である」と記されていた。おそらく可六が書いたものではないだろうか。これらの書物の一部は、東京大学大学院法学政治学研究科附属 近代日本法政史料センターや、国会図書館に現存する。(平成28年12月時点)


可六は、明治政府の藩閥政治の牙城をなした元老院・枢密院における忠実な官僚として、帝国憲法や諸法律について、政府内外に説明をするための資料をまとめていた中心的な一人だったようだ。憲法や法律の発布と当時に、一般人を対象にその解釈を解説する著作が出版されるというのは、後にも過去に前例がない。その責任は極めて重大だっだと思われるが、わずか2年ほどの短期間に連続して多数の書籍を出版している。その仕事の重要性も合わせて考えると、相当の心労があっただろう。


明治14年の政変で、元肥前藩の勢力の中心でもあった大隈重信らが追放され、憲法発布時は、伊藤博文、山形有朋、黒田清隆、松方正義などの薩長藩閥が政府の主導権を握っていた。肥前藩は比較的影が薄かったが、伊藤が総理大臣を辞して自ら枢密院議長となり帝国憲法を発布、立憲民主制をもって議会を開くことになった。これには民権派とも一定の妥協をする形となった。一時期下野しあるいは元老院の末席に追いやられていた旧土佐・肥前の勢力も、憲法発布後には再び明治政府内に戻り、明治政府の内部から改革を目指すため再合流していった。伊藤が極秘裏に進めていた試みは成功したともいえる。


可六のこれらの著作で合著とされた上野太一郎や、多数の著作に「題字」を書いた元老院議長「大木喬任」だけでなく、明治16年に可六が同行した巡按(じゅんあん)「渡辺清」も佐賀県士族(肥前大村藩)だった。他にも佐賀県士族には、大隈重信、副島種臣、佐賀の乱の首謀者だった江藤新平、そして三菱の初代となった岩崎弥太郎などもいる。福島県と佐賀県の関係はこののちも意外に強い関係が続く。これは薩長閥に対抗する意図があったのかもしれない。薩長閥ではない可六や元肥前の上野を帝国憲法に係る重要なスタッフとして重用したのは、伊藤博文の狡猾かつ優れた策のひとつであったろうことも想像できそうだ。

※『帝国憲法義解』で題字を揮毫した元老院議官の細川潤次郎も高知県士族(土佐藩)であり、やはり薩長ではなかった。稲川は土佐藩の藩校で三奇童(希なる天才児)と謳われ、幕末には高島秋帆に兵学を習い、明治政府では元老院議官、枢密院顧問を務めており、勝海舟や可六とは近かったと思われる。


理解が得られなかった「憲法発布」

可六がこれらの著作を書いた背景には、当時の国民の多くにほとんど理解が得られていなかったという事情がある。憲法発布の式典は、皇居で明治天皇から第2代内閣総理大臣・黒田清隆に憲法の原本が授けられるだけで、あっという間に終わった。しかしそのあと明治天皇が二重橋から出て、青山での観兵式に向うとその馬車に向かって、一般民衆の日本で最初の「萬歳(万歳)三唱」が繰り広げられたことが記録に残されている。


日本では「萬歳」は、それまでは呉音で「まんざい」と発音していた。政府内部では、この発音では「大声を出しても腹に力が入らない」と大真面目に議論された記録が残っている。そこで当時は呉音で発音していた「萬(まん)」を漢音の「萬(ばん)」に替え「萬歳(ばんざい)」とすることとし、大声を張り上げて西洋風に演出することが決まったとされる。これなら確かに腹に力が入る。


「高村光太郎」によれば、当時は天皇を直接見ると目がつぶれると言われていたという。つまり二重橋から青山までの通りに集まった人々は、天皇に向けて目をつぶって、聞きなれない万歳(ばんざい)という発声を繰り返していたことになる。永井荷風や夏目漱石などの知識人も、こういった様子を批判的に受け止めていたようだ。


随筆『花火』永井荷風 から引用 ()は筆者が付けた

提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)といふものゝ始まりは此の祭日からであることをわたしは知つてゐる。又國民が國家に対して「萬歳(ばんざい)」と呼ぶ言葉を覚えたのも確か此の時から始つたやうに記憶してゐる。何故といふに、その頃わたしの父親は帝國大學(現在の東京大学)に勤めて居られたが、その日の夕方草鞋(わらじ)ばきで赤い襷(たすき)を洋服の肩に結び赤い提灯(ちょうちん)を持つて出て行かれ夜晩(おそ)く帰つて来られた。父は其の時今夜は大學の書生を大勢引連れ二重橋へ練り出して萬歳を三呼した話をされた。萬歳と云ふのは英語の何とやらいふ語を取つたもので、學者や書生が行列して何かするのは西洋にはよくある事だと遠い國の話をされた。然しわたしには何となく可笑(をか)しいやうな気がしてよく其の意味がわからなかつた。

※「英語の何とやらいふ語」とは、英語の「hooray!」を指していたと思われる。


小説『趣味の遺伝』夏目漱石 からの引用。

妙な話しだが実は萬歳を唱えた事は生れてから今日(こんにち)に至るまで一度もないのである。萬歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられた覚(おぼえ)は毛頭ない。また萬歳を唱えては悪(わ)るいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声(たいせい)を発しようとすると、いけない。小石で気管を塞(ふさ)がれたようでどうしても萬歳が咽喉笛(のどぶえ)へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。

※「小石で気管を塞がれた」という表現は、破裂音(呼吸を止めて一気に発する音)である「ば」が最初にあること、そして万歳(萬歳)は本来「まんざい」と発するべきであることから、物理的・生理的に二重に受け付けられないということなのだろう。私見ではあるが、漱石らしい皮肉が感じられる。


「絹布の法被」

このころ、流行した言葉に「絹布の法被(けんぷのはっぴ)」があった。憲法は秘密裏に作られていたため知識人も含めその内容を知るものがいなかった。事前にその概要が国民に知らされることもなく、話題にもなっていなかった。憲法発布の日、明治政府は沢山の飾りつけや照明で街中を飾ったが、市民は単なるお祭り騒ぎとしかとらえられなかったようだ。このため「憲法の発布」の意味ががわからない人たちの間で、天皇(新政府)が市民に「絹のハッピ」を配るという話が流布したといわれる。これが有名な「絹布の法被」の話として現在も語られているのだ。明治9年から帝国大学(現在の東京大学)で医学を教えており、皇族や政府要人の診療にもあたっていたドイツ人医師ベルツも、日記にこう書いている。


『ベルツの日記』明治22年2月9日 から引用

東京全市は十一日の憲法発布を控えてその準備のため言語に絶した騒ぎを演じている。到る所、奉祝門(ほうしゅくもん:お祝いの際に作られる飾りつけの門)、照明、行列の計画。だが、こっけいなことに誰も憲法の内容をご存じないのだ。

※翌々日の2月11日、明治天皇から黒田清隆に憲法の原本が下され、野外では祝砲がなり続く憲法発布の式典があった。なおベルツは伊藤博文とは特に親しく、自宅や大磯の別邸にも個人的に招待され、政策に対して何度も進言したことも記されている。


憲法発布当時、当時枢密院の顧問官として関りをもった勝海舟も、以下のように語っている。ここでは「或る人」と書かれ誰かは示していないが、その内容から伊藤博文を指していると思われる。勝の別の記録によれば、このころ伊藤は勝に何度も何度も相談を持ち掛けられていることが記されてもいる。


『氷川情話』勝海舟 から

昔幕府は種々の規則を出す時には、人民に分り易い文字を、成るべく用ゐるやうにして、掛りの人は始終この事に心掛けて居た。しかるに、今は成るべくむつかしい文字を用ゐるやうになって、なかゝゝ通常の人には分らない。いつであったか、法典発布(憲法発布のこと)の前に、或る人がおれに、発布の上は、世論がやかましいだらうといったから、おれは、いや、法典の文字が人民に分らぬから、やかましくいふものは、少いだらうといった事があったが、果してその通りだった。そこでおれもむつかしい文字を選むも、一つの方便だと感じたョ。


一方、勝の家には憲法に関する自筆の原稿も残っていた。そこには初めて憲法の草案を見たときの勝の心中を察することができるものがある。明治21年5月、枢密院の顧問官となり憲法の草案を初めて見させられた勝は、「どうせ(憲法の)中身は欧米のマネで中身のない紙屑のような草案だろう」と思っていたとする。しかし顧問官になった以上、国会開設を進める爲に積極的に成否を決しようと本気で望もうとした。


いざ草案を見ると、そうではなかった。帝國憲法の草案は完成度がかなり高く勝もその内容を評価したようだ。勝は「日本古来の伝統に即したものとわかり一切意見をしないことに決めた」と書き残している。憲法の草案は、このように枢密院の顧問官になった勝でさえ、初めて目にするほど、極秘で練られていたのだ。勝が「憲法」と題した和歌が加えてある。このあと憲法発布までは、わず8か月ほどだっだ。


『勝海舟』下巻 勝部真長 から勝家文書「勝海舟の自筆原稿」を引用

明治廿一年五月、我が政府、突然降命、予を枢密院顧問官とす。一驚大童、固辞再三、終に免ぜず。(驚いて再三辞退したが通らなかった)是我が陳腐、知識に乏しく、無用の長物たるを了す。敢て老朽を以て安佚を求むる有らざる也。而して後思惟すらく、政官此三、四年、欧洲に巡視し、各国の憲草を講究す。其属者皆壮年、有才士、今哉我が邦(日本のこと)絶無之国会を開かむとす。必らず哉其法則、事々物々則を彼に傚し(模倣し)、繁文細屑、近時の指令書と同じく、令中訳あり、繁雑細微、殆んど訳文に等敷(し)からむと。
(枢密院に)出て憲法諸書を読むに到て、先の思考する所、皆空想、其文簡短抄畧、欧法に固執せず、多くは我古典に則とり、能く其大体を認定す。是其根底、政官忠愛の心胸に発生して、それ爰に到る欤(か)。
我初め奉命せし際、断然決意、国会延期を思ひ、上言して其成否を決せむと思考、再三諸書を読むに到り、此念を口外せず、慎而(つつしんで)始終を経たるもの是が為なり。今より、邦民、軽挙空論、浮華に流れず、議論公正、親愛の意匠を基とし、益々進み、益々励み、邦家の爲、大半を興起せられむ事を。

 憲法(と題した歌)

ゆたかなる 心のあやに 成りいでし 国のおきては 世々につたえむ

※カッコ内は筆者がつけた解説。


伊藤博文らにとって見れば、このように極秘で練っていた憲法が、一般の人々や民権派の論客に受け入れらてもらえるか相当に苦慮したうえで枢密院や各方面に配慮もしていたことが窺える。可六の書いた多数の著作は、このような伊藤の思惑や複雑な世情を鑑みて、憲法や一連の法律が施行される前に、その解釈をできるだけ国民に理解を得ようと苦心して書かれた解説書だったわけだ。おそらくは、出版後も多くの問い合わせに答える最終的な担当責任者は可六だったのではないだろうか。可六には相当のプレッシャーがかかっただろう。帝国憲法は発布の翌年、明治23年(1890年)11月29日に施行された。おそらくは国策として時の書店に、可六の書が多数並んでいたことが推測される。

※明治憲法発布時の世情は決して安定していたわけではない。憲法発布の当日には、黒田内閣の文相森有礼が暗殺されている。また条約改正でも揉めており、その年の十月には外務大臣だった大隈重信が爆弾で襲撃されて右足を失っている。


可六のその後

『枢密院文書・枢密院判任官以下転免履歴書』によれば、可六は明治7年の当初の採用時は「十五等」の下級官吏だったようだ。明治22年11月には福島縣士族から分籍し東京府平民となった。分家の場合は本家の士分を引き継ぐことができない。そのため可六は士族ではなく平民となったと思われる。


江戸時代から続く家父長制の名残で、明治の民法でも戸籍は「戸主(こぬし)」と「家族」で構成された。父親から長男が戸主を継いだ場合、新しい戸籍が創られ、祖母や母も子を戸主とする新しい戸籍の家族に移った。現在とは違い単独で戸主が相続しその家は「本家」と呼ばれた。可六の場合は、父あるいは兄の戸籍から許可を得て「分家」として独立したものと思われる。


翌23年3月8日には「叙 判任官三等給」となった。まだ若かったが、とんとん拍子に出世していた。翌明治24年7月には、天皇から玉璽(天皇の正式印)をもって任命される「勅任官」の最上級となる「一等給 上級俸」に叙された。同時に明治天皇からの75円の「下賜」も記録されている。

※明治18年12月22日の内閣制度設立で改訂された政府の俸禄表によれば、内閣・各省において、「勅任官二等」以上は、内「次官・局長級」とされている。後述の元福島県令「三島通庸」は第58代「警視総監」に任命されたとき(明治19年5月)「勅任官一等 下級俸」となった。ほぼ同じ時期にこれを上回る「勅任官一等 上級俸」だった可六は、たたき上げで明治政府の官僚として最上位クラスとなる要職を務めていたと思われる。


枢密院文書『大祓ニ付勅任官総代参集方並人名通知方通牒同総代人名通知』によれば、帝国憲法が発布された翌年、明治23年12月に壁谷可六が明治天皇の大祓(おおはらえ)に参加するメンバーに選ばれた記録がのこる。下記の資料は、大祓に参加するものを選定するように、宮内省式部長だった伯爵 鍋島直大(なおひろ)が、枢密院議長である伯爵 大木喬任(たかとう)にあてた文書である。たいへん達筆な筆文字で書かれている。以下は筆者の解読によるが、現在の筆者の力では解読が難しいため誤読は容赦願いたい。


『大祓ニ付勅任官総代参集方並人名通知方通牒同総代人名通知』一枚目より引用

式部職 送 第七六八一號
来ル三十一日午後二時大祓執行二付勅奏判任官一名宛為惣代右時限前
賢所前参集所、参集可有之此段及御通知候也

明治廿三年十二月十三日

式部長侯爵 鍋島直大

枢密院議長 伯爵 大木喬任(たかとう)殿

追テ惣代人名来二十四日迄ニ御通牒可有之且判任官ハ

訣等級御記載相成度候也

※カッコ内は筆者が加えた。鍋島直大は元肥前藩主。勲一等侯爵。戊辰戦争では下総上野鎮撫府として官軍を率い、明治政府の議定めるとなり、元老院議官、貴族院議員を務めた。


上記の要請に対し、枢密院の書記官長は、大祓に参集する「三名」を選定して回答している。この三名に可六が入っている。こちらはさらに難読で、筆者にはかなり難しい。以下に拙い解読例を示す。間違いは笑って許されたい。


『大祓ニ付勅任官総代参集方並人名通知方通牒同総代人名通知』二枚目より引用

本状三十日(大祓いを意味する晦日のことか)?■大祓し儀 本院より総代を左し人名示
叙任有氏名乃者を如何也
明治二十三年十二月十七日

            書記官長

或ア乎■(???)

 枢密院顧問官 田中不二麿

 枢密院書記官 関 福之(?)

 枢密院属 判任官二等 壁谷可六

※■の部分は筆者には解読不能。?の部分もはっきりしない。なおこの時期はまだ可六は書記官ではなかった。翌明治24年に、勅任官の書記官となっている。


この文書から、明治天皇の大祓に壁谷可六が参集することが枢密院から推薦されたことがわかる。なお、枢密院顧問官 田中不二麿については、慶応3年の王政復古の大号令で、旧尾張藩主だった徳川慶勝とともに明治政府の参与となっており、自ら官軍を率いている。別稿で示した明治6年の壁谷伊世(静岡県士族 壁谷鹿馬 母)の小学校教師採用の推薦が磐前(現在の福島)県令になされた当時、明治政府の教育行政の実質的責任者だったのも、この田中不二麿であった。徳川慶勝の乳母だった可能性のある壁谷伊世の子「壁谷鹿馬」と、本稿の主人公「壁谷可六」は資料から同一藩の藩士だった可能性が極めて高く、この点は後述する。なお、田中不二麿はその後教育行政から外れて法務関係に関わることになり、松方内閣においては司法大臣(現在の法務大臣)となっている。これも、その後に可六が憲法その他の法律に関わったことと合わせて興味深い。


日本で最初に出版された『日本紳士録』第一版(明治22年6月)には可六も掲載されている。これによれば同じ枢密院で顧問官だった勝海舟も歩いて30分ほどの距離に住んでいたようだ。勝は来客が多かったことが多くの記録に残されておりおり、同じ枢密院で働き、かつ自宅の距離も近かったことから、おそらくは可六も勝の家に何度もお邪魔したことがあったと推測される。


『日本紳士録』第一版(明治22年6月)

壁谷可六 元老院出仕 芝區神谷町十八
勝安房 枢密院顧問官 赤坂區氷川町四

『日本紳士録』第二版(明治24年11月)

壁谷可六 枢密院出仕 芝區神谷町十八 
勝安房 枢密院顧問官 赤坂區氷川町四

※上記より、可六が官吏として元老院から枢密院に移ったことも確認できる。


なお可六が東京市芝区神谷町に住んでいたことは大変興味深い。戦後の昭和22年、芝區、赤坂區、麻布區の3つが合併して現在の港区になり、この神谷町の名は現在はなくなっている。その場所は現在の「港区虎の門5丁目」あたりであり、今は「神谷町」という駅の名が残るだけだ。神谷の地名は、家康の家臣だった神谷氏が、江戸に与えられた屋敷の場所が由来であったとされている。


実は可六の故郷である福島いわきの地にも「神谷」村があった。そして神谷は「かべや」と発音する。福島県いわき市の公式HPでは「神谷(かべや)の地名は13世紀(鎌倉時代初期)に神谷氏が治めたのが始まりとされる。」としている。その福島縣の道路路改正・地租改正の調査官を一人でこなしたのは若いころの可六だったことは既に記した。「神谷(かべや)」の地名を決めることに、可六が大きく関わったことは確実だ。。別稿で触れるが、この2つの神谷氏は、その祖は同一だったことはおそらく間違いない。


明治大正期に、可六が地租改正に関わる前の公式記録や、のちの出版物に「壁谷村」、あるいは「岩城の壁谷村」と記載された記録も確認できる。平安時代末期から室町時代まで、この周辺を支配していた「岩城氏」(もしくは白土氏)がいて、その家臣には「神谷氏」がいたと記録される。(『姓氏家系大辞典』による。)


江戸時代の現在のいわきの地域は元の支配者だった「岩城」を忌避して、「磐城」と書かれた。室町時代に壁谷村があったとすれば、同じ理由で江戸時代に神谷(かべや)村に改称されていたのかもしれない。可六がみずからの姓である壁谷(かべや)を地名とするのは気恥ずかしかったろうか・・・。可六は何を思って東京市の「神谷町」に居を構えていたのか。


可六の最後の記録

国立公文所館にある明治25年の資料 『属壁谷可六内閣属兼任ノ件』によれば、当時可六は「枢密院書記官」とされており、ついに高等官に上り詰め枢密院に在職しながら「内閣書記官」も兼任することになったようだ。この時期と思われる文書も残されている。枢密院が編纂した「法規提要」(法律の条文が掲載された冊子)を宮内省に対し、一部供用した公文書の一部が残されたものと思われる。


枢密院文書・宮内省往復・稟議・諸届・雑書『法規提要借用』より引用

   記
一、 法規提要 壱部
    但 明治二十四年九月編輯

右正ニ供用候也

明治二十五年五月廿六日

          壁谷可六

枢密院御中

※「編輯」は「編集」の旧字。なお明治25年は、原文では「廿五」ではなく「二十五」と書いてある。


その後明治27年3月付けの文書を見ると、枢密院議長 山縣有朋が発した文書「属壁谷可六内閣ヘ転任ノ件」で、なぜか枢密院をはずされ、内閣府専任となったことがわかる。さらに翌明治28年11月8日には、可六が叙勲された以下の文書が残っている。


『内閣属壁谷可六外十六名特旨初叙ノ件』国立公文書館より引用

内閣属 壁谷可六始十七名叙位進階内則第六條ニ依リ叙位ノ件
右謹テ奏ス
明治廿ハ年十一月八日

内閣総理大臣侯爵 伊藤博文


内閣属壁谷可六始十七名ハ何レモ満二十年以上在職勤勞有之者ニ付叙進階内規則第六條ニ依リ叙位相成然ルヘシ

※文面には「壁谷可六始十七名叙位進階」とあり壁谷可六を筆頭に、合計17名の名が並んでいる。


ついで、文官高等試験合格者の上申書に可六と思われる印鑑が見つかった。おそらく内閣府で勤務していた可六が書類を扱ったものと思われる。高等文官試験とは、明治27年に始まった採用試験であり合格すれば行政(官僚・外交官)/司法(判事・検事)などで将来が約束されるものだ。合格者は東京帝大法学部が半数を占めて、以後の勅任官の多くはこの高等文官試験合格者が占めていくことになる。


文官高等試験合格者人名書上申(明治三十四年十一月)から引用

文官試験規則第八条ニ依リ施行シタル文官高等試験ハ本月九日ヲ以テ完了セリ依テ及第シタル各本人へ同則第五条二基キ本日合格証書致授与候即チ別紙人名書相添此段上申候也
明治三十四年十一月十三日
 文官高等試験委員長 奥田義人 印(奥田)

内閣総理大臣子爵 桂太郎 殿



合格者名

以下42名(人名は省略)


内閣書記官室 閣第一二九号

印(壁谷) 十一月十四日 


総理大臣 花押(桂) 

書記官長 花押(柴田)

書記官 印(南)印(山中) 

※高等文官試験は戦後廃止され、現在の国家公務員上級試験と司法試験となった。


このあとの内閣府での可六の働きが楽しみだった。しかし明治35年(1902年)3月可六は「依願免本官」(依願退職)が認められた。可六は51歳にして退職することになったのだ。確認できる可六の免官願いの書類そのものは、筆書きの草書で書かれており、その字体からは可六の力強さと一本気なところが見てとれる気がする。しかし筆者の現在の力では草書の筆書きを正確に判読するのは難しい状況だ。ただし、そこに添付資料があり、解読しやすい筆文字で書かれているため筆者にも判読できた。それを次に示す。


診断書
                                                              壁谷可六
右者明治二拾九年以来肺結核ニテ治療愛施し居候處

近来病勢頑二増進シ閑地ニ於テ折静ヲ主トシ充分ノ治療

相施スニアラザレバ到底治癒シ難キモノト診断候也


明治参拾五年参月廿五日

共立愛宕下町壱丁目四番地

醫師 渡邊猶吾


実は可六は「肺結核」を罹っていた。診断書では6年に渡り治療しながら仕事を続けてきたが、ついに明治35年、トクターストップがかかったのだ。可六は8年前の明治27年1月21日には兄をなくし10日間の服喪をして復帰していた。その2か月後には山縣有朋から枢密院の激務を外され内閣府の専任勤務となり、職務が軽減されていた。その理由は分からなかったが、おそらくそのころから体に変調をきたしていたのではないだろうか。


志半ばだったろうが、可六がこのように後世に名を残せたのは、帝国憲法の発布という歴史的なタイミングで、初代内閣総理大臣伊藤博文の元で仕事をすることができ、かつ後世に残る書物をしたためることができたためだろう。

※可六が世話になったと思われる勝海舟の嫡男「小鹿」は可六とほぼ同世代であった。小鹿は海外留学もしており、帝国軍人の幹部として将来が大きく期待されていた。しかし早くから結核を患い、明治25年(1892年)まだ39歳の若さでなくなっている。当時は結核は不治の病だった。


「天皇機関説」で有名な「美濃部達吉」は枢密院の官吏として、可六の後輩にあたる。ただし美濃部は叩き上げではなかった。帝国大学(現在の東京大学)で公法学を学び、卒業した明治30年に開始してまだ3年目だった高等文官試験に見事合格、内務省入りした超エリートだった。明治33年に美濃部が「枢密院高等官七等」となった時には、可六は枢密院から内閣府に移っていため、顔を合わせたことはあっても、枢密院で一緒に仕事をしたことはなかった可能性が高い。しかし可六が内務省を依頼免官したその年(明治35年)美濃部は、後年に有名となった『憲法撮要』を出版、同じく憲法に深く関わっていた。


美濃部は明治45年(1912年)3月『憲法講話』で「天皇機関説」を発表した。この『憲法講話』では、「天皇は神聖にて侵すべからずというのは、憲法義解にも書いてある通り」としており、他にも4か所で『憲法義解』を引用している。可六はおそらく美濃部の高等文官試験の合格者上申書を扱っただろう。そして同じ枢密院で働き、かつ同じく憲法の解釈書を著していた可六は、美濃部の憲法解釈をどう見たのであろうか。可六が療養を続けていて、もしその時生きていたなら、59歳であったはずだ。

※『憲法講話』は大正元年発刊とする資料が多い。しかし大正と改元したのは7月30日なので、発刊日の3月は明治45年が正しい。実際の書籍にも明治45年と記載されている。なお『憲法講話』の解説では『憲法義解』については「伊藤博文の著作の形式をとる」と記されている。この点については本稿最後に触れる。


その後、美濃部は東京帝国大学名誉教授、貴族院議員となり憲法解釈を巡って、昭和10年(1935年)に有名な「天皇機関説事件」が政治問題と化した。美濃部は貴族院議員を辞任し、『憲法講話』も発禁処分とされた。美濃部の長男は、革新知事として東京都知事を3期12年勤め(在任 昭和42年-54年)、参議院議員となった美濃部亮吉である。


河野広中

板垣退助や後藤象二郎の支援を受け関東・東北地区で自由民権運動を広め、福島県議会の議長も務めた「河野広中(こうのひろなか)」がいる。河野はのちの大隈内閣で農商務大臣をとなり、第11代衆議院議長もつとめている。


河野は嘉永2年7月7日(1849年8月24日)生まれで、元三春藩士として壁谷可六の4年度ほど先輩と言える。地元の歴史研究家の高橋秀紀が書いた小説『河野広中』によれば、河野家の祖先は賤ケ岳(しずがたけ)七本槍の一人「加藤嘉明」の家臣だったと説明されている。

※賤ケ岳七本槍は、豊臣秀吉の政権を確定させた天正10年(1582年)の「賤ケ岳の戦い」で活躍した「加藤清正」「福島正則」「片桐且元」など7人の武将。


加藤嘉明は江戸初期に会津若松藩の初代藩主となり、三男の加藤明利が三春3万石に封ぜられた。しかし会津潘は保科正之(徳川家光の弟)が継いで以後、松平家が藩主となった。代わって三春には秋田家が入った。この際に河野家は再士官が適わなかったとされ、郷士という立場で三春藩に仕え続けたとされている。しかし祖父の代に呉服店として成功していた。この関係か「郷士」扱いではあったが明治になっても「士族」とはされなかったようだ。

※郷士の多くは、当初は士族とされなかったが、後年になって多くが士族に加えられている。なお秋田家は、古代の東北の覇者であった安倍氏の末裔で、鎌倉時代以降は蝦夷地を治めた安東(安藤)氏を出自とするとされる。


しかし広中の母「りよ」は「松平定信(寛政の改革を主導した江戸幕府老中)」の養母に仕えていたことがあり、書も達者で博学でもあったという。この関係か兄の広胖(ひろやす)や広中は漢学や算術、蘭学などを幅広く学んだようだ。元修験者で儒学者だった「川前紫渓(かわさきしけい)」や、三春藩藩校「明徳堂」の講師で私塾も開いていた「佐久間庸軒(さくまようけん)」、江戸や長崎に留学した三春藩の藩医、「熊田嘉善(くまだかぜん)」などの元に通った。後年国会で活躍することになった河野広中は、このときに得た知識が大変役にたったと語っている。

※後述するが、壁谷と佐久間庸軒との関わりは、このあたりにもあったかもしれない。


河野広中は明治の時代に、兄とともに政府に登用され、若松縣や三春縣(ともに現在の福島県の一部)の役人を務めた。広中は明治6年に旧三春領の常葉(ときわ)地区十二ケ村の戸長となり、このころ「民会」を開催したとされる。(これが事実上日本初の「議会」ともされる。)合併して新しくできた磐前縣(いわさきけん)では翌明治7年8月に大改編が行われ、広中は石川郡の戸長に移動した。


壁谷可六が盤前県に採用されたのは、この大改編の明治7年であり、可六は翌明治8年から明治13年まで「道路改正」「地租改正」という空前の難事業を一手に担当することになる。戸籍の整備と地租改正は明治政府の初期の住民管理の重要政策でもあった。盤前縣全域の道路改正・地租改正を一手に担い、住民の整理・管理を強化する使命を担った官吏「調査官」としての可六、一方で戸籍法によって盤前縣石川郡の住民の行政事務を担当した官吏「戸長」だった広中。この二人の間では当時相当のやりとりがあったことは間違いないだろう。後述するが可六も、河野広中同様に、三春で同じような環境に学んだ可能性が高い。


明治10年に西南戦争で士族の武力による反乱が終わりを告げるころ、まだ若かった広中は、板垣退助に意気投合し自由民権運動に走った。明治11年に縣町村の「三民会規則」を作り、福島県の六等官吏となった。急進的な動きが警戒され明治15年(1882年)には河野広中ら数十名の民権運動家が逮捕され投獄された。(「福島事件」)しかし、明治22年の「大日本帝国憲法発布」の「大赦」によって広中は釈放されることになった。

※前述したように、明治16年明治政府は福島県を始めとした東北地方を視察しており、それに可六は随行していた。まさに福島県はこのような政治的混乱に陥っていた時期であった。可六が深くかかわった帝國憲法発布で、河野広中が大赦されたことは興味深い。


翌年の第1回の衆議院選挙が行われ、広中は衆議院議員として福島3区でトップ当選を果たしている。以後連続十四回当選を続け広中の活躍が始まる。その後農省務大臣や第11代衆議院議長を歴任し74歳で亡くなるまで政界の重鎮として身を置いた。現在の福島県庁前には「河野磐州翁」とされ銅像が立っている。盤州(ばんしゅう)とは現在の福島県を指している。


なお福島県士族として壁谷で活躍したのは、可六だけではなさそうだ。河野広中の書簡が国会図書館憲政資料室に残されており、「河野広中文書目録」として以下が確認できる。これらの文書は国会図書館の「憲政資料館」に保存されているが、現段階でその内容の閲覧や公開が制限されている。公開できる時期がくれば、紹介したい。


国会図書館憲政資料室「河野広中文書目録」

  • 「壁谷寅蔵」 書簡 1通
  • 「壁谷栄一」 書簡 4通
  • 「壁谷可六」 書簡 4通

※官軍の参謀は、東海道先鋒総督府の参謀が「西郷隆盛」、東山道先鋒総督府の参謀が「板垣退助」だった。板垣退助、後藤象二郎ら土佐藩士は、徳川慶喜らと大政奉還を主導したが、薩長側が主導した王政復古大号令で薩長側に心ならずも従うことになる。土佐と薩長の対立は、明治六年の政変や、その後の自由民権運動につながると思われる。三菱の創業者である岩崎弥太郎や幕末に活躍した坂本龍馬など土佐出身の存在感は大きく、肥前藩出身者とあわせて薩長閥に対抗する構図ができる。

※壁谷栄一に関しては現在詳細は不明。福島県の『郡山市史』第五巻に「壁谷栄一」「壁谷祐之」が掲載されているという情報をいただいている。是非近い機会に確認したい。



河野広中らの働きもあって、国会に先立ち各県では続々と県議会が発足していた。上記の河野広中が保管していた書簡には登場していないが、やはり福島県士族とされる「壁谷喜一」が、千葉県の職員として、憲法発布の前夜、議会を担当する「議事課」で初代の記事課の「長」(いわゆる課長)と記載された記録が残っている。議会を担当する行政側の責任者だったことになる。壁谷喜一は、千葉県の県議会の議事録でも、県議会に参加していたことが確認できる。


『職員録・明治十九年十一月・職員録改(千葉県)』より引用

議事課

判任官四等

長 壁谷喜一 福島縣士族


小宮山道夫『年報5号および科研報告書執筆構想について』から引用

明治19年度(明治18年11月)県議会議員席次については、該当資料があったので掲載する。また委員のうち氏名の表記のなかった議長らについては、以下の通り氏名が判明した。議長・池田栄亮、副議長・片岡治躬、番外一番小林警部長心得、「番外二番:壁谷四等属」、番外三番・相馬警部。但し、番外については開催回によって異なる可能性が高いので、詳細に追って明示することとする。ちなみに議長の池田栄亮は、渋沢栄一とともに有志四人で日本煉瓦製造会社を作った人物で、工場を渋沢の故郷である埼玉県大里村(現在の埼玉県深谷市)に設け、我が国最初の機械煉瓦の製造を開始したことで有名な人物であった。ちょうどこのころは日本煉瓦製造会社の立ち上げの頃で、議長でありながら欠席がちであったことが議事録からわかる。

※「」は筆者が付けた。壁谷四等属が喜一だったと推測でき、当時は判任官四等だった。


その後の職員録を見ると、壁谷喜一は、明治23年に「属判任官三等」となり「地方財務課長」、明治25年からは「第四課長會計主務官 逓信費計主務官 現金物品出納室長」と要職を兼任した。しかし明治27年の職員録からは消えている。年齢的なものとも推測できよう。壁谷喜一に関する資料は、明治政府の他の資料からは確認できていない。可六は明治27年に兄をなくした記録があることは先に触れた。もしかしたら、壁谷喜一は可六の兄だったのかもしれない。


磐城国田村郡 三春藩士の名簿

三春藩の分限帳はまだ確認できていないが、後世の出版物から明治4年9月時点の元三春藩出身の士族の名簿を確認できた。三春藩では壁谷の名が何人か確認できるが、そこには前述の千葉県の職員だった「壁谷喜一」も確認ができた。


『三春藩士人名辞典』「明治4年」より引用 壁谷喜一

一 米 三石九斗四升六合一勺五才 (同)壁谷 喜一
右ハ俸給六石ノ二十分之一引残ル五石七斗石同断
十三ケ月割當末正月ヨリ九月迄九ケ月分

※原本では「同」とされ繰り返される説明文は省略されているた。説明文に相当する原文の「右」以降の部分を筆者が追記した。


なおこの名簿に「壁谷可六」はみつからなかったが、「壁谷嘉六(かろく)」があった。本稿の「可六」である可能性は高い。可六の生年は確かに「嘉永」であり、本来「可六」は「嘉六」と書くのが正しかったのかもしれない。古来から筆文字では画数の多い文字は同じ発音の字(借字)で書かれることも多い。たとえば坂本龍馬(本名は直柔)も、竜馬と書かかれる。余談だが、かくいう筆者の母も書の師による指導で、自らの名を同じ発音の簡単な文字(借字)に替え、90有余年の生涯の大半をその字で通した。画数が多いと筆文字で書くとバランスが悪くなり大変だったからだという。


『三春藩士人名辞典』「明治4年」より引用 壁谷嘉六

一 米 八斗七升六合二才 (同) 壁谷嘉六
右ハニ月九日修行御仰付被免兵隊候ニ付
右同断ノ割ヲ以テ正月ニ月二ケ月分

(中略)

一 米 一斗三升八合四勺五才 壁谷嘉六

右ハニ月九日修行御達被免雇候二付右同断之割ヲ以テ

正月二月二ケ月分一人ニ付四升六合一勺五才宛三人分


上記によれば「嘉六」の石高は本来十三か月分だったはずだが、わずか二か月分に削られている。その理由は三春藩から離れ、修行を命じられて「免兵隊(免雇)」となったからである。明治4年2月9日には、廃藩置県前でまだ三春藩が存在しており、藩命で何らかの修行を命じられたことは間違いない。この時期他藩に移って修行するとは考えられない。少なくともこれ以降の俸禄を支払うのは明治政府であり、おそらく明治政府の意向を受けたものだったろう。

※当時は旧暦(太陰太陽暦)で閏月が発生、一年は十三か月となっていた。このため俸給は1年で十三か月分払われた。明治六年には現在も採用されている新暦(グレゴリオ暦)へ切り替わった。


それは3年後の明治7年11年に、壁谷可六が盤前縣士族として、福島県縣の官吏として採用され、すぐに東京出張となったことからも裏付けられる。この「嘉六」が「可六」だったとすれば、明治4年に修行を命じられたのは、18,19歳のころ。現在でいえば大学に入学する時期に修行を命じられ、約3年後に磐前懸に採用されて東京に出張となったことになる。


その背景には、三春藩の明徳堂「佐久間庸軒(さくまようけん)」がいた可能性が高い。佐久間庸軒はその和算の知識が明治政府に重宝され、測量に従事するために東京に招聘され、明治政府に出仕していた。これは明治政府が行うことになる一大改革、「道路改正」・「地租改正」にそなえて全国一律に高度な測量の技術を確立する必要があったからと推測できる。


江戸時代の三春藩では明徳堂(三春町立三春小学校にその正門が現存している)や、講文堂、講武堂などの藩校があり学問が盛んで、藩校には8歳くらいから入るのが普通だった。歴史の教科書に載るのが、明徳堂の「佐久間庸軒(さくまようけん)」だ。彼は三春藩船引石森の生れであり、同じく船引石森の出身の可能性がある「嘉六」もこの明徳堂で学んだ可能性が高い。

※佐久間庸軒は『算法起源集』を明治8年に出版している。船引町石森字屋戸(石森屋戸)には「庸軒書斎」が現存しており、保存されている資料は、福島県指定重要文化財定文化財の指定を受けている。この船引石森屋戸は全域にわたり壁谷の一族が多数居住している。壁谷以外の表札を探すのは難しいだろう。間違いなく日本一、壁谷の人口密度の高い地域だ。別稿では明治期に石森地区の文珠村に隠遁していた俳句の宗匠、壁谷兆左についても触れている。


可六が明治政府の官吏として、18,19歳の東京に出張となったのは、こういった事情で選抜されたのではないだろうか。その後「可六」は盤前縣の道路改正・地租改正の調査官を担当しているが、多くの反対運動のさなか全国的に行われてた明治政府の一大改革は、高度な測量の知識を生かしてこそ成し遂げられたに違いない。


明治政府の支給した俸禄

「嘉六」、「喜一」はともに、明治政府から得た俸給は、わずか4石取とされている。おそらく家族を抱えて生きていくのに精一杯の俸給だっただろう。しかし名簿の筆頭で記載される「秋田廣記」でもわずか20石取りだった。秋田廣記は三春藩の筆頭家老格と思われ、幼少だった第11代三春藩主「秋田映季(あきすえ)」の名代として明治政府の招集に応じて東京に上った記録もある。そのような高い地位にいても、俸禄はわずか20石取りだった。江戸時代の記録では、三春藩の筆頭家老の記録は1000石取りとされており、そこから単純計算するなら、明治時代に士族が貰えた俸禄は江戸時代の50分の一だったことになる。

※明治時代になって武士は抱えていた多くの下級武士や奉公人を養う必要はなくなった。従って自分の分だけでよく、少ない俸給でもある程度の生活はできた。


さらに磐前縣では、明治4年の時点ではまだ士族とされていない「卒」といわれる下級武士が65人記録されている。彼等も明治9年ごろに士族に加えられるがその前の明治3年に政府が推奨し、帰農すれば一時金が支払われていた。このため「卒」とされた武士の多くが明治6年までに帰農しており、その結果士族の立場を失っている。


三春藩で郷士(ごうし)の扱いを受けていたとされる「河野広中」も三春藩の士族名簿では、「卒」にも含まれていなかった。さらに下級武士とされた中間(ちゅうげん)や郷士などは、この名簿には記載されていなかったと思われる。他藩の例からいえば、これ以外にも同心、郷士(ごうし)などと呼ばれた下級の武士たちが、少なくともさらに2,3倍の数いたと推測される。かれらは俸給もなく、まともに士族扱いされもされなかった立場だった。河野だけでなく、明治時代に政府要人として活躍した例は、このような下級武士だった例が多い。


三春出身者の活躍の理由

三春藩は、磐城国田村郡で、現在の福島県田村郡三春町にあった藩だ。この田村の三春地区近辺は、全国で「壁谷」が集中して存在する地域のひとつである。この地域から出た士族が、明治政府で、大きな活躍ができた例が多いようだ。それはなぜだったのだろうか。三春はもともと馬の産地として江戸幕府との関係が深かった。江戸の牛込地区には、三春の馬の調練使節もあり、幕末には大量の馬が調達され、さらに幕府との関係が深くなったことは事実のようだ。そんな幕府との強い関係とは裏腹に、三春藩は戊辰戦争で幕府側として戦った「奥羽列藩同盟」を突然裏切ったことになっている。

※牛込の地名は現存しないが、『地名の謎』によれば寛永牧場「牧」に由来するとされ同系の名前に馬込、駒込があるという。現在の都営線には牛込柳、牛込神楽の両駅名で残る。


実は三春藩主の後見役だった秋田主悦(ちから)らが中心となり、官軍側の岩倉具視(いわくらともみ)とも面会し官軍側に恭順することを示していた。太政官より天皇の勅書が下されている。

叡感勅書
秋田萬之助映季(あきたすえたか:三春藩最後の藩主)
(中略)

その方小藩を以て敵中に孤立し、大義を重んじ方向を定め


従来より勤王を志し君臣一意に徹底致し居り候段 神妙の至りに候、

百折不撓(ひゃくせつふぎょう:困難でも志を変えず)大節を全うすべし致候

不日(ふじつ:すぐにも)官軍は諸道より進撃す 之に付き救援有るべき

この旨相心得るべく申候条 御沙汰(ごさた)候の事

(慶応四年)六月

※カッコ内や改行、句読点、スペースは筆者が加えた。


これは官軍の進軍を助けよという三春藩主への天皇からの勅命である。「岩倉具視」の偽作の可能性があるが、三春藩が早くから官軍側についていたのは事実のようだ。しかし、奥州の地では官軍に徹底抗戦を主張する大藩である伊達藩、会津藩、磐城平藩などに囲まれ、小藩だった三春藩は、かりそめにも奥羽列藩同盟への結束に加わざるを得ない状況だった。もし奥羽列藩同盟に加わらなかったら、小藩だった三春藩はおそらく攻め滅ぼされていただろう。


緒戦での三春藩の動きは、列藩同盟側から警戒されたようだ。その挙句に三春領内に会津、伊達藩の武士が常駐して監視される事態となっていた。奥羽に迫って来た官軍が守山藩(水戸藩の支藩:現在の須賀川市近辺)に攻撃をかけるという噂がまことしやかに広まると、三春領内に駐留していた他藩の藩士は一斉に守山藩に救援に向かった。この隙をついて官軍は三春城に無血入場を果たした。三春に無血入場を果たした官軍の参謀は元土佐藩家老「板垣退助」であり、後に板垣の功績のひとつともされた。このとき奥羽列藩同盟は、三春藩に見事に欺かれたことを悟った形となった。このとき官軍陣中にいて三春に道案内した郷士には河野広中がいたとされる。


小藩だった守山藩は抵抗をあきらめ、戦う前に降伏することとなった。その結果、官軍の目標となった二本松はたった一日で落城してしまった。最後の砦は会津になる。このあたりのことは『会津戊辰戦争』にも詳しい記載がある。


『会津戊辰戦争』より引用「三春藩西軍に降る」の部分

(七月)十六日東軍會仙三棚(会津、仙台、三春、棚倉)及二本松の兵をあわせ、淺川村の西軍(官軍)を襲ひ棚倉を復さんとし淺川を隔てゝ戰ふ、西軍釜の子より淺川の背後に出づ、時に三春軍叛きて西軍に投じ東軍を反撃す、東軍爲に苦戰し辛ふじて兵を収め退く、仙の砲五門を失ふ、時に東軍は主力を須賀川に置き、屠々兵を白河に出して西軍の虚を衝くを以て、西軍此機を利用し大擧須賀川攻撃を聲言して東軍を當方面に牽制し、密かに棚倉及び濵街道の西軍を逢田及小野新町より進め不意に三春を襲いてこれを略し、進んで二本松を取らんとす、之れ戰はずして須賀川の東軍を走ら進しめんとするにあり、同二十四日板垣退助自ら棚倉の西軍を率い、石川に一部を残して虚勢を示して以て須賀川に備え、主力を以て翌二十五日逢田に至り露營す。東軍これを知らず守備を厳にして専ら白河方面に備う、是より先き逢田は東軍の有りなしが、濵街道の西軍新町に向かふと聞き皆之に赴きて一兵も駐めず、面して逢田、三春間の要衝たる守山藩は、力敵すべからすを知り、降を西軍に請ふ、同二十六日退助等三春に達す。三春の人河野廣中等恭順説を以て藩論を翻し、藩老秋田主悦(ちから)、荒木國之助、小野寺舎人等幼主秋田萬之助(のち最後の藩主、秋田映季)と共に軍門に降り西軍に附く。これより先東軍守山、三春の擧動を疑い三春の重臣を訪問せしに、十六日の事全く錯誤に出づ誓いて同盟に叛かずと、其の後巧に東軍を欺き援兵を求め、二十五日又福島に赴き仙将に対し他意なきを装し歸(帰)りしが、二十六日公然西軍に降り俄然東軍の援兵を襲ふ、援兵之がために潰走せり、之より東軍三春藩の不義を憤り之を屠(ほうむ)らんとせすむもつに成ならず。


奥羽越の各藩では明治初期に苦労した士族が多いが、一方で三春藩士の士族たちは活躍できたようにもみえる。明治政府にいち早く恭順したことで、家や土地を強奪されることはなかった。当時の福島県令と友好関係が深く郡山の開拓を国家事業を強力に推し進めた内務卿大久保利通とも関係が深かった。その後の薩長藩閥政府の影響を受け、明治10年以降の土佐藩の元老だった板垣退助や後藤象二郎、渡辺清、そして三春藩出身の議員河野広中などとの間で深い関係が続いた可能性がある。


三春藩では小藩にもかかわらず幕末に藩校による教育が行き届いていたこともあったかもしれない。蘭学からは西洋の思想も取り込んでおり、当時の海外の情勢をいち早くつかみ、新しい時代の日本の姿を描けたことが、朝廷側に恭順した事情にも関係すると思われる。明治政府の官吏として採用され全国各地で活躍した、三春出身の士族の例も多いのは、このことを示しているとも言える。一方では、最後まで幕府側として戦って大きな悲劇を生んだ二本松、会津、仙台の3藩からは相対して語られてることになる。「三春狸(みはるだぬき)」と揶揄され、維新以来150年近くたった現在ですら、三春は東北地方で肩身の狭い思いを強いられると言う人もいるらしい。


当時の地域の流行り歌とされる一節(出所不明)

会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒
会津桑名の腰抜け侍 二羽の兎はぴょんと跳ね 三春狐に騙された。


郡山市が東北、あるいは福島県で最も発展した町のひとつであり、明治政府のテコ入れで産業経済の中心にあった。このように発展していた郡山が、なぜ福島県の県庁所在地になれなかったのか(今でも郡山を県庁所在地にという運動が続いている。)という問題にも尾を引いているのかもしれない。

※明治初頭に初めて小学校が設置されたのもこの地だった。明治17年創立の福島中(明治33年福島一中)は、のちに安積中学となり、現在の県立安積高校に引き継がれれている。創立130年を迎えたその旧校舎の本館は、国の重要文化財に指定され「安積歴史博物館」として現存している。


なお幕末に主導権を握った徳川家の高須四兄弟のうち、明治政府の事実上の最高職でもある「議定」となって朝廷側で戊辰戦争を主導した元尾張藩主「徳川慶勝(よしかつ)」が幼いころ、その面倒を見た壁谷伊世について別しめした。尾張藩重臣で同じく明治政府の「参与」となった田中不二麿も、可六と同じ枢密院で顧問官だった。また明治の中頃に、田村郡船引文珠村(現在の田村市船引町文珠)の俳句の宗匠「壁谷兆左」には、東京で隠遁していた旧幕臣であり、戊辰戦争で江戸の町を救ったとされる「勝海舟」との交流があった記録が残る。もしかしたら、朝廷側と三春藩の関係の深さ、そして明治維新の経緯には、影に壁谷が何らかの関わりを持っていたのかもしれない。


壁谷の読み方

明治政府の資料の履歴書には可六には「カロク」と仮名が降られているが、壁谷にはカナがふられていない。一方で、現在デジタル化された資料を検索すると、「カベタニ カロク」とカナが降られている。福島県士族であることが明確なため「壁谷」は「かべや」と読むのが正しい。従って、後年における資料整理の過程で「カベタニ」と誤って仮名を振ったままになっている可能性が高いと推測される。


江戸時代の安永4年(1775年)俳句の宗匠、越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』によれば「谷」の項では発音を『たに』と記しながらも『江戸近辺にて「や」と唱ふ』としている。つまり「や」は江戸の方言だという。一般に「谷」は京都より東側、つまり関東・東北では「や」と発音する。これは武士が使った東言葉(あずまことば)で「や」と発音するからだろう。


鎌倉幕府・足利幕府の勢力圏とくに関東・東北では「谷」はほぼ例外なく「や」「やと」「やつ」と発音されたことが残された資料に振られたフリガナから推測できる。鎌倉では現在も「谷」はほぼ例外なく「やつ」と読み、たとえば「扇ヶ谷(おうぎがやつ)」、「比企ヶ谷(ひきがやつ)」と発音する。鎌倉での「谷」の意味は、平地の奥で左右の背後を山に囲まれた守りの堅い地形をさしている。通常は武家の屋敷や、神社仏閣がそこにはある。比企ヶ谷は、鎌倉幕府第2代将軍「源頼家」の実家であり鎌倉時代の名門だった「比企氏」の屋敷があったところだ。また扇ヶ谷は室町幕府の関東管領で有名な上杉氏の本拠地があった場所だ。(扇谷上杉)

※栃木、福島などでは「谷」は「やと」「やど」とも発音された形跡があり、これは「屋戸」に繋がっていると思われる。屋戸とは、今でいう自宅のことで、のちに庭をふくめた敷地をさすようになった。後年になって、仮住まいを指すようになる。(各種の古語辞典による)また「やと」は「夜刀」とかけば「常陸国風土記』に登場する蛇神である。


これに対し、京都より西では圧倒敵に「谷」は「タ二」と発音するようだ。面白い例では、「渋谷」という地名がある。東京など関東では「しぶや」と発音するが、大阪の「渋谷」は「しぶたに」と発音する。また「大谷」は越前(現在の福井県)の戦国大名「大谷(おおたに)吉継」や野球選手でも「おおたに」と発音する。一方で関東では栃木県宇都宮市に「大谷(おおや)町」がある。ここで採掘される石は「大谷石(おおやいし)」とされ、全国的に有名だ。


全国に50か所以上も存在する「神谷」という地名は、京都を境に東では「かみや」あるいは「かべや」と発音するとされる。しかし京都より西では、「こうのたに」「こうたに」そして一部では「しんたに」と発音している。(京都では両方の発音が混在している)


『地名の謎』では、全国にわたって駅名を調べて「谷」をなんと呼ぶか集計している。駅名は最近に付けられたものが多いが、地域でなんと発音されるのか参考になる。その調査にによれば、関東地区では「や」と呼ぶ駅が圧倒的に多く53箇所、一方で「たに」と呼ぶ例は、鶯谷、茗荷谷、小涌谷のわずか3か所だけとする。一方で関西で調べると、「谷(たに・だに)」と発音する例が圧倒的に多く22か所、「や」と呼ぶ例はわずかに2か所で、和歌山県の「紀伊神谷(かみや)」、三重県の「下深谷(しもふかや)」しかない。関東と関西では、完全に逆転している。関東関西をとわず長谷は、「長谷(はせ)」と呼ぶ例が合計三か所あるとしている。ちなみに沖縄では「谷」は「たん」と発音される。読谷(よみたん)という具合だ。


『方言漢字』では「谷」を「たに」と読む地名や名字が多い県と、「や」で読むのが多い県とを表示した日本地図が載っている。それによれば新潟、長野、愛知以東の県はすべて「や」である。

※沖縄にも壁谷の名字は存在するが、そこでは「壁谷(かべや)」と発音されるようだ。


明治時代に「かべや」が「かべたに」になった?

このことから、もうひとつ考えられることがある。可六の上司はほぼ全てが「薩長土肥」つまり、京都より西の人々であった。壁谷可六は「谷」を「たに」と読む文化圏の人々に囲まれていたことになる。この重鎮たちの中に放り込まれた可六は、当初「かべや」と呼んでもらえなかったであろう。

※同じ枢密院にいた勝海舟も父の生家は「男谷(おだに)」であった。近江(現在の滋賀県)の出身であり、おそらく滋賀県の「小谷(おだに)」の影響を受けたものだ。そのため勝も「かべたに」という発音に違和感はなかったろう。


かくいう筆者の姓「壁谷」も、記憶の限り「かべや」と発音し、知る範囲の知人、親戚も全て「かべや」と発音される。ネットで検索しても壁谷は全国的に「かべや」と発音する人が圧倒的に多いようだ。一方で、第三者から自分の名を呼び出されるときに「かべや」と発音されることは、ほとんどないのが事実だ。筆者は父の仕事の転勤の関係で九州から北海道まで、全国各地の小・中学校をのべ10回以上転校した。(転校で数年後同じ学校に戻ったこともある)しかしどの地にいっても、戸惑ったような顔で「かべたにさん?」「へきやさん?」と問われた。役所や病院などで順番待ちをしていても「かべたに」さんと呼ばれるが、面倒なので訂正もせずに「はい」と応えること決めている。


昭和40年代中ごろの記憶では、官公庁などの「電算機」から空(そら)色の複写インクで打ちだされ配られた資料には、筆者の名字として「カヘタニ」と書かれていたのを何度も見ている。(濁点はなかった。)本当は「かべや」なのだが、機械だから仕方がない。そう思って当時は疑問すら持たなかった。官公庁の「電算機」から打ち出された文字が、漢字になったのは昭和50年代以降と記憶している。


壁谷の名について、友人に聞いたてみたことがある。彼が語るには、初めて筆者の名を見たときもし「かべや」と発音するなら「壁屋」と書くだろう。「壁谷」と書く以上「かべたに」と読むのが正しいはずだ。そう考えて「かべたに」と読んだと言う。なるほど、それがどこ行っても「かべたに」と呼ばれることが多い理由だったのかもしれない。


名字と苗字

明治初期は「戸籍法」「廃刀令」「平民苗字必称義務令」「地租改正」などが次々と実施され、相次ぐ改革と混乱の最中、全国民3300万人(明治の壬申戸籍による)の所有地と苗字を短期間で整理し直した。「名字(みょうじ)」が、「苗字(みょうじ)」と書かれるようになったのも、このころからとされる。


興味深い例がある。安政4年(1857年)生まれの俳人で、明治時代に衆議院議員にもなっ「角田真平(かくたしんぺい)」がいた。俳人としては、「角田竹冷(かくた ちくれい)」と号していた。角川書店『俳文学大辞典』や、三省堂『現代俳句大辞典』などには「かくた」と書かれている。金園社の『俳諧人名辞典』の角田真平の項では「カクタであり、ツノダではない」とはっきり書かれており、明治当初に苗字(名字)の発音に混乱があったことをにおわせる。彼は駿河生まれであり、たしかに静岡ではいまでも「角田(かくた)」とする名字が残っている。


しかし後に衆議院議員となった彼について『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』『日本近現代人名辞典』では「つのだ」とフリガナが振られていた。誤ってカナが降られたのか、もしくは「かくた」が「つのだ」に変わったことになるが、本人がそのことを知っていたかは不明だ。実はその息子も俳人となったが、「角田竹涼(つのだちくりょう)」とされていた。江戸時代から引き継がれていた、名字の読みとは変わってしまったことになる。

※この件に関し現時点のWikipediaでは東京大学図書館に保存されている「竹冷文庫」に「すみだ」とフリカナが降ってあるとされている。しかし実際に東大図書館の資料を確認したところ「つのだ」とカナが振られていることを確認できた。どちらにせよ、明治初期の名字の発音には、相当に混乱があったようだ。記録として残された当初の「戸籍」も多くが廃棄され、残っているものにも仮名は降られていない。その当時に戸籍に記録された文字の発音は、現在ははっきりわからない。


明治維新の前後では苗字にかなりの混乱があったことが窺われる例が他にもある。勝海舟の「勝」の名字は、近江国坂田郡勝村(現在の滋賀県長浜市勝町)をに居を構えた武士だったことが由来であったが、当時は農民となっていた。明治初期になって、いざ正式に苗字を名乗ることになった。幕府側の重鎮だった「勝海舟」と同祖であり、同じ名前だと何かと不味いと考え当時の親戚一同が集まって相談して、「且元(かつもと)」に苗字を変えたという話がある。一部は、字を間違えたのが「勝元(かつもと)」にもなったようだ。(『勝海舟』PHP出版上巻による)。明治期に苗字(名字)が変わった例は、おそらくほかにも多数あったのだろう。


今後整理すべき課題

1)可六が出版した同じ明治22年、伊藤博文の名で、全く同名の著作が出版されている。実際に伊藤博文が直接書いたとも思えないが、何度も復刻されたようで、岩波書店からも出版されている。


  1. 『帝國憲法義解』伊藤博文(明治22年)国家学会
  2. 『帝國憲法皇室典範義解』 伊藤博文(明治22年)国家学会
  3. 『憲法義解』伊藤博文・宮沢俊義校註 1989年 岩波書店(明治22年 国家学会蔵版)


最初の『帝國憲法義解』は、伊藤博文とあるが、出版年も明治22年で可六の同名の書と同じ年で出版社が違う。調べたところ、出版は明治22年(4月なし6月)となっており、可六の『帝國憲法義解』が出版されてから1か月から3か月後のことになる。実際は官僚「壁谷可六」らが書いたものか、あるいはこれを大い参考にしたものではないだろうか。


なお、最後の岩波書店版『憲法義解』は純粋に可六の著作とは同じ署名ではない。正式な名は『帝国憲法皇室典範義解』とされ、宮沢俊義の校注を加えた上で『憲法義解』という書籍名に短縮変更されたようだ。つまり実際には憲法義解と皇室典範議解の2冊がいっしょになったようだ。この『憲法義解』は、伊藤博文の著とされており、かつ岩波書店の刊行ということもあり、大日本帝国憲法の解説書として現在も著名なようだ。

※岩波版の美濃部達吉『憲法講話』では「憲法義解[明治憲法発布の年(1889年)に公刊された大日本帝国憲法および皇室典範の逐条解説書。伊藤博文の著作の形式をとる]」と解説されている。このことから伊藤博文が著者ではないことは事実のようだ。だとすれば、この時期、この種の著作が書ける本当の著者は、可六ら以外にはなかったのではないだろうか。


伊藤博文は、内務卿、宮内卿を兼ねており、内務省と宮内省の総責任者でもあった。同じ明治22年ごろ、内務省に仕えた「壁谷可六」がいた一方で、皇室典範に関わる宮内省には、同じく「東京府士族」とされた「壁谷訓永」もいたことがわかっている。明治天皇の側近のひとりして仕えており、皇室典範に関わった可能性もあろう。その場合、可六とも連携したことがあったかもしれない。「東京府士族 壁谷壽永」については、別稿で触れる。


2)「福島県 士族」の壁谷は、官僚以外にも自由民権運動に参画し東京朝日新聞(現在の朝日新聞)などで政治記者として活躍し政府官僚に深く食いこみ、後に与党公認で衆議院選挙に立候補したものもいる。他にも、内務官僚や国会議員らの周辺で政治活動にも引き続き関わり、昭和に入っては国政選挙や県会議員に何度か立候補したことが確認できる。多くが安積中学(安積高校)出身者であり、中には選挙違反を問われて収監されたものものや、戦後に吉田内閣のもとで幹事長を務めた大物政治家との関わりが大変強いものもいる。一方で医師となった例も多いが、これはおそらく三春藩の藩医や、神官の類(おそらく民間治療に関わった)を務めた家系との関係がありそうだ。現在細かい調査をしており、詳しいことも分かってきているが、比較的最近の出来事であり、現段階ではまだまだ触れるつもりはない。将来時期が来たらこれらにも触れていきたい。


3)可六が『帝國憲法義解』を書いたと同じころ出版された『世渡りの秘訣』という本がある。世渡りの秘訣と言いながら、その内容は資本主義における経営の理論を説いたものようだ。その内容は「貨財製産」「貨財配分」「交易」の三篇からなり「第一編 貨財製産」では「貨財の製産貨財の配分貨財の交易の三原理を講究する之を経済學と曰ふ。」で始まる。この本の本文の前に、「兒島榮太郎 著、壁谷直三 訂」と記されている。


  • 『世渡りの秘訣』兒島榮太郎 著、壁谷直三 訂 (明治22年)駸々堂


著者の兒島榮太郎は、大阪府士族でその住所は大阪府南區九左衛門町十四番地寄留)とある。『新發明實地經驗染色法』『 数学三千五百題』『実理作文法独習』『交際用文』など多彩な著作を発表しており、おそらく当時の知識人の一角を占めていたのだろう。題字を寄せたのは山岡鐵太郎と岩下方平だ。山岡鐵太郎はもと幕臣、東京府士族で子爵「山岡鉄舟」であり、西郷の推薦により明治天皇の側近となったが、剣の達人として、あるいは禅を極めた思想家たとしても名高い。岩下も子爵でもと薩摩藩家老、明治政府では京都府権知事、元老院議官、参議院議員などを歴任している


このような著者の記述を、訂正したとされる「壁谷直三」とは何者なのか、現在のところ得られる情報はない。別稿で記すが、江戸幕府一ツ橋家の勘定(おそらく勘定奉行)で、幕末に「壁谷直三郎」がいた。もしかしたら彼がそうなのかもしれない。


参考文献

  • 『帝國憲法義解』 同労舎出版部 壁谷可六・上野太一郎合著(明治22年3月)国会図書館
  • 『日本紳士録 初版』財団法人交詢社 日本紳士録編纂部(明治22年6月)国会図書館
  • 『日本紳士録 第二版』財団法人交詢社 日本紳士録編纂部(明治24年11月)国会図書館
  • 『福島懸 職員録・明治九年一月・職員録改』国立公文書館
  • 『憲法講話』有斐閣書房 明治45年3月 国会図書館
  • 『三春藩士人名辞典 附禄高明細記入』古今堂書店古典部 昭和8年6月 国会図書館
  • 『五等書記生壁谷可六外一名議官渡辺清地方巡察ニ付随行被命ノ件』明治16年国立公文書館
  • 『史談会速記録』合本13「江戸攻撃中止始末」
  • 『立憲政体の詔』明治天皇 国会図書館 
  • 『大祓ニ付勅任官総代参集方並人名通知方通牒同総代人名通知』明治23年12月17日
  • 『法規提要借用』明治25年 枢密院文書・宮内省往復・稟議・諸届・雑書
  • 『枢密院属壁谷可六内閣属ニ転任ノ件』明治27年3月30日国立公文書館
  • 『内閣属壁谷可六外十六名特旨初叙ノ件』明治28年11月08日 国立公文書館
  • 『文官高等試験合格者人名書上申』明治34年11月13日 国立公文書館
  • 『内閣属壁谷可六以下三名依願免本官ノ件』明治35年03月29日 国立公文書館
  • 『枢密院文書・枢密院判任官以下転免履歴書』明治35年03月29日 国立公文書館
  • 『年報5号および科研報告書執筆構想について』小宮山道夫 教育史研究会NewsLetter42号 広島大学 2017
  • 『職員録・明治十九年十一月・職員録改(千葉県)』国立公文書館
  • 『帝国議会期文書仮目録』 2010年5月 九州大学学術情報リポジトリ
  • 『ベルツの日記』上 岩波書店 エルウイン・ベルツ 菅沼 竜太郎 訳
  • 『花火』永井荷風 随筆
  • 『趣味の遺伝』夏目漱石
  • 『雨夜譚』渋沢栄一自伝 長幸男校注 岩波文庫 1984
  • 『明治15年刑法施行直後の不敬罪事件(九)』手塚豊 法学研究Vol45 慶応大学法学研究会 1972 
  • 『弁護士の誕生とその背景』ー明治時代中期の自由民権裁判と免許代言人ー 谷 正之 松山大学論文集 第22集 2010年4月
  • 『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』越谷吾山(こしがやござん)
  • 『勝海舟』上・下 勝部真長 PHP研究所 1992
  • 『会津戊辰戦争』平石弁蔵著 兵林館 大正6年
  • 小説『河野広中』高橋秀紀 歴史春秋社2017年12月
  • 『俳諧人名辞典』常石 英明 金園社1997
  • 『地名の謎』今尾恵介 ちくま書房2011


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。