2. 平家一門の家伝が残る 愛知の壁谷

「三河國寶飯郡西浦の舊家(きゅうか)として聞こえ、其の組先は遠く平家の一門に発せる由緒正しき家柄。」それは明治初期に生まれた愛知の発明家「壁谷友太郎」がまだ幼かったころ、祖母の膝の上で幾度となく聞かされた記憶として、昭和5年(1930年)発刊の『帝國發明家傳(ていこくはつめいかでん)』に記録されている。

※「舊家」とは「旧家」の旧字体で、古くから歴史のある家系を意味する。


『帝國發明家傳』はその後、名を『日本発明家伝』(本稿では、以下「本書」と呼ぶ)として昭和11年(1936年)に再刊された。本書は国会図書館に現存しており、現在はマイクロフィルムにて閲覧が可能だ。そこにはトヨタ自動車の基礎を作った「豊田喜一郎」、島津製作所の「島津源蔵」、ヤンマー発動機の「桃谷幹次郎」、久保田鉄工の「久保田権四郎」などの著名な創業者たちが多数掲載されており、壁谷友太郎も彼らに混じって26ページにも渡り堂々と登場している。当時の友太郎の存在の大きを物語っている。そんな彼の名が現在に伝わっていない大きな理由は、おそらく敗戦によるものなのだろうと筆者は推測する。


友太郎と日露戦争

本書では、壁谷友太郎の半生が紹介されている。友太郎は長男であり、当時の民法の規定で家を継ぐものとされていたため、徴兵はされなかった。しかし国家を挙げての体制となった日露戦争では長男も駆り出されることになった。明治37年、友太郎は日本海軍の「旅順(りょじゅん)封鎖作戦」において、合艦隊の仮装巡洋艦(民間船を装った軍船)「臺中丸(たいちゅうまる)」にて参戦、勝利に大きく貢献したとされる。日露戦争の終結後、徴兵解除で内地(日本)に戻ると、その軍功で「勲七等青色桐葉章」を得ている。

※旅順封鎖の効果は現在は疑問視されるが、当時は作戦成功が大きく報道された。


明治37年に日露戦争で参戦記録があることから、友太郎は少なくとも明治17年以前の生まれとなる。明治37年の参戦時に友太郎が20歳以上だったことは間違いない。ここで祖母と母がともに16歳で子を生んだと仮定しよう。すると友太郎の祖母は少なくとも嘉永5年(1852年)の生まれで明治維新のときは16歳以上だったことになる。壁谷家が平家の末裔だという話は、江戸時代の壁谷家に伝承として語り継がれていたようだ。しかし実際はもっと時代は遡るだろう。なぜなら、友太郎は長男という理由で20歳になっても駐兵されておらず、勲章が与えられたことから、軍人としての地位も高かったことが推測されるからだ。さらに、当時は晩婚化が進んでおり、母や祖母ももっと高齢だったことが十分に推測される。

※平和な時代が続いた江戸時代、人口爆発が食糧難を招き、繰り返し飢饉が起きていた。子供は貴重な働き手とされ、結果的に婚姻年齢は上がっていた。とくに江戸末期から明治初期は手工業の急激な発展があり、若い女性は女工として大量に駆り出されていた。こうした事情によって、特に地位が高く裕福な武家を除けば、急激な晩婚化と少子化が進行していたのだ。


明治42年(1909年)、友太郎は元戦友ら工員十名で、地元の愛知縣寶飯郡形原町(現在の愛知県蒲郡市形原町)に(※)造船鉄工所「壁谷工作所」を起こすと、神戸水上警察、陸軍、大蔵省、神戸税関、兵庫県警、神戸郵便局などに多くの発動機船を納入した。同時に「あめの製造釜の発明(改良)」、「民間用発動機船の発明」、「内室焼機関における火燃焼筒(改良)」など、次々と発明をして、実用新案として登録されている。日露戦争で転戦中も「海水から蒸留水を得る発明」なども行ったことが本書には記録されている。

(※)この点については、疑念が指摘されており後述する。


海運国日本と「大戦景気」

明治38年の日露戦争終結後、日本は世界の「五大国」と呼ばれるようになっていた。さらに、大正3年(1914年)に勃発した第一次大戦では、民間船が戦艦に駆り出されて船が世界的に不足した。欧米の生産能力が大幅に落ちる一方で、主戦場となったヨーロッパからは日本に需要が殺到、戦場とならなかった日本は、かくして空前の「大戦景気」(現在は「大正バブル」とも呼ばれる)となって急成長、一気に「世界第三位の海運国」に上り詰めていった。


友太郎は、大正8年(1919年)に「鉄鋼同業組合」を設立して初代組合長になると、大正9年には海外にも進出、朝鮮、中国の青島(ちんたお)、上海、香港など世界各地に幅広く拠点を置いて民間船を中心に造船の商機を世界に拡大していった。この時期は紡績、鉄鋼、造船などの事業で大成功したいわゆる「成金(なりきん)」が多数発生したことも特記される。


教科書にも載った有名な風刺漫画がある。靴を探しあぐねた料亭の女中の「暗くてお靴がわからないわ」という言葉に、一瞬の明かりをつけるだけのために、平気で当時の最高額の紙幣だった「百円札」を束にして火をつけ明かりとしたのだ。(風刺漫画。『どうだ明くなったろう』和田邦坊作。)それほど儲かって仕方がなかったのだろう。モデルは船成金の山本唯三郎とされる。当時の日本では、海運や鉄鋼業でこんな成金が実際に続出していたのだ。おそらく友太郎も相当に儲けていたに違いない。


純国産「重油発動機」の研究

友太郎はデ―ゼル機関エンジンをスエーデンから直輸入して研究、それを改良して「石油発動機」を開発した。そのエンジンを積んだ船は、三菱倉庫に納入された。それは、今まで使われていた蒸気機関に比べて力が強くコストも安いと非常に高く評価されたようだ。


『海運興国史』から引用。

(友太郎は)「端典(スエーデン)の「ポーラー会社」から「ディゼル機関」を直輸入し多大の費用をかけて研究した。大正七年十一月組織を株式会社に変更し同時に内燃機関専門工場の増設をなし、同年試験的に構内曳船(ひきふね)用として「當(当)社特製ポリンダー型石油(現在の重油)撥動機」十五馬力を制作し新造船「米丸」十二噸(トン)に備え付け三菱倉庫神戸支店に対し試験のため提供したるに、其の結果従来の蒸気機関に比較し曳航力極めて強く、消耗品其の他一般の経費僅少なりし爲め非常なる賞賛を博した。

※カッコや鍵カッコ内の説明、句読点の一部は筆者がつけた。曳船とは港湾内などで身動きがとりにくい大型船をひいて移動(曳航:「えいこう」という)させる船。現在はダグボードと言われる。


当時は石炭に対する言葉として石油が使われていた。したがって引用文中の「石油」は現在の石油のことではなく「重油」を意味する。(本稿では混乱を避けるため、以後「重油」「重油発動機」と表記する。)当時はガソリンは爆発の危険性から船では使用できず、世界最先端のディーゼル発動機はエンジンそのものが大掛かりで専用の技術者も必要で高コストだった。友太郎はそれを改良し、小型で低コスト、かつメンテナス性が良い「重油発動機」を開発したことになる。


石炭はエネルギー変換効率が低いだけでなく、その運搬や給炭艦からの移設も大変で、さらに24時間休みなく釜に石炭の投げ込みを担っていた水兵たちは疲弊するばかりだった。しかし世界を股にかけて戦う軍艦も石炭発動機が主流だった。日露戦争時に世界最強とも言われた「バルチック艦隊」も、それを打ち破った東郷平八郎の「帝国海軍連合艦隊」も、実は石炭を積んだ「給炭艦(きゅうたんかん)」を脇に随行させ24時間不休の必死の航行をしていたのだ。


日本でも何度か重油発動機を搭載した艦船は作られたが不安定とされ、強い艦隊では石炭発動機を併載せざるを得なかった。この状態を改善するために帝国海軍技術本部も、艦船用の重油発動機を改良する研究開発に必死になっていた。友太郎が国産の重油発動機開発に成功したのは、そんな時期だった。


帝国海軍で初めて重油発動機だけを搭載した艦船は、神戸の川崎造船所(現在の川崎重工)で作られた、大正8年12月27日竣工の駆逐艦「樅(もみ)」だったが、実はその発動機は海外ライセンス生産に過ぎなかった。その後も帝国海軍技術本部や三菱などによる国産化(「三菱技本式」)の取り組を経て、純国産の重油発動機を搭載した初めての艦船は、大正13年(1924年)の「朝凪(あさなぎ)」まで待たないといけない。(『昭和造船史』戦前篇による)


帝国海軍が三菱の協力を得て国産化に成功したことは、友太郎なくして語れない。なぜなら、帝国海軍と三菱が純国産重油発動機を搭載した艦船「朝凪」の開発に成功したとされる大正13年、友太郎の会社は三菱の傘下となり海軍の軍需工場へと生まれ変わっていたからだ。それを遡る大正7年、日本初の純国産重油発動機を搭載した「米丸」を友太郎が作っていたが,その納品先も、三菱倉庫だった。おそらく三菱は友太郎の技術を使ったに違いない。


三菱の協力を得て「昭和恐慌」を乗り切った友太郎

大戦景気は長くは続かなかった。大正9年3月「戦後恐慌」が日本を襲い、大正15年には世界恐慌(当時の日本では「昭和恐慌」と呼ばれた)も始まり、多くが倒産の憂き目に会うことになった。先の風刺画のモデルは船成金の山本唯三郎とされるが、彼もこの大不況で財産のほとんどを失ったともされている。


海外にも進出していた友太郎もおそらく多大な投資をしていただろう。この不況で大打撃を受けた。幸い友太郎は三菱倉庫など三菱財閥からの強力な資金援助を得ることができ、昭和恐慌の荒波を乗り越えた。「壁谷工作所」は三菱倉庫の専属となると「山陽工作所」と名を変え、軍需工場と生まれ変わった。これを機会に拠点を愛知から日本最大の貿易港だった神戸に移し、そこで鋳物船(重油発動鉄鋼船)を製造して海軍や三菱に納品し、海軍の一大拠点である呉(くれ)港でも大成功を収めたとされている。丁度この時期は、三菱財閥が政府や海軍と手を組んで、急速に業績を伸ばした時期でもあった。


『神戸市会社名鑑』(大正12年)から引用

株式會社山陽工作所
所 在 出在家町一六二
目 的 陸舶用發動機ノ製造、諸機械ノ製造、造船並船舶修理

代表者 壁谷友太郎

電 話 本局 三六七一番 一九〇三番 二五九番 二四一番


海事彙報社の『海運興国史』(昭和2年7月)壁谷工作所の記述の部分から引用

現今神戸港を始めその他全国に至るところに曳船用として「石油(重油)撥動機」を使用せられるゝに到ったのは當(当)工場が奉仕的努力を以て率先して試みたるに因るものである其の後普段の研究、工場設備の完成に伴い撥動機の成績顕著なるを認められ大正十二年「農林省」より認定工場として指定せられた。

※カッコや鍵カッコは筆者がつけた。


曳舟(ひきぶね)というのは、小型でありながらも強い牽引力と故障が少ない安定性が要求される特殊な用途の舟だ。故障で航行不能になった船舶を外洋から港まで曳航したり、また一般に小回りが苦手な大型船舶を曳いて港湾内の操船を補助するために使用される。日本各地の港湾の中を行き交う多数の曳船で、この種の発動機が使われるのは、友太郎の功績と当時されていたことがわかる。

※曳舟は現在の港湾でも大活躍しており、現在は「タグボート」と呼ばれる。


当時の「山陽工作所」の広告記事にあった記載内容(誌名掲載日付等につき失念)

農林省認定工場、大蔵省御用工場(神戸税関)、内務省御用工場(土木出張所)、逓信省御用工場(神戸郵便局・海事部出張所)、兵庫縣廰(県庁)、神戸市役所、愛知縣廰(県庁)、名古屋市役所、三菱倉庫株式会社


東京深川に拠点をもつ大スポンサーの三菱倉庫のほかに、兵庫県と神戸市、愛知県と名古屋市、そして政府の各省庁の認定工場や御用工場に指定された実績から、東京、神戸、名古屋などに幅広くビシネスを展開した。その後、海軍協会の神戸支部長を20年勤めた友太郎は、その功績から「徳川頼倫(とくがわ よりみち)」伯爵(紀州徳川家第15代当主、海軍協会会長、貴族院議員)から感謝状を得ていた。また昭和初期の『紳士録』には下記のように記載されている。


『日本紳士録』第42版から一部を引用

兵庫県
壁谷友太郎 商工會議員、明石郡垂水霞ヶ丘(以下居住地の番地のため省略)

※「商工會」は、現在の「日本商工会議所」のこと。殖産興業を担うため「農商務省」(現在の「農林水産省」及び「経済産業省」)が主導して明治11年創設された。その前身は江戸幕府の管理下あった町会所で、明治政府に移管してからは東京営繕会議所となっていた。(渋沢栄一『青淵回顧録』による)なお、第二次大戦後に作られた現在の「商工会」とは名は同じでも全く異なる組織である。


神戸は当時日本最大の軍港でもあったが、大正13年の関東大震災で横浜が大打撃を受けてからは、民間も含め物流の中心は横浜から神戸に移っていた。神戸港周辺には、造船を中心とした鉄鋼・化学産業などの重工業地帯が広がるようになり、軍需産業が栄え海運と兵站(へいたん:戦争を遂行するための人的、物的な供給源として後方支援する基地)という大きな役割があった。元軍人でもあった友太郎は、三菱と協力して帝国海軍の大いなる発展に寄与したとも言えるだろう。


時が経過した昭和20年、日本は敗戦を迎え、日本を取り巻く環境と世情は大きく変わった。戦争に主体的に関わったとされたものは、その責任を負うことが要求された。友太郎の会社がどうなったか、詳細について、ここでは触れない。しかし友太郎のこれほどまでの業績が、もし歴史から抹消されてしまっているとするならば、ひたすら無念なこと極まりない。それは友太郎の輝かしい業績を不当に隠蔽するものと言え、ひいては後世の人に正しい歴史を見誤らせることにもつながろうか。いつか許されるのであれば、さらに記述を追加して、友太郎の真実と名誉を世に問いたい。


平家一門の伝承

そんな忙しさの一方で、友太郎は漢学にも相当打ち込んでいたことが本書では記録されている。その知識は多方面に及ぶ。『日本外史』『史書』『五経』『史記』などに精通し、当代の国内双璧とまでいわれた漢学塾「精華学舎(せいかがくしゃ)」の師、鈴木重三から後継者に指名されたほどの実力だったという。

※『日本外史』は江戸時代に頼山陽が作成した歴史書。漢文体で記された。


寝る間も惜しんで働いた忙しい技師であり、発明家であり、実業家だった友太郎が、当代一流と言われた漢学者に匹敵する知識まで持ちあわせていたとは誠に驚きでもある。そこまで漢学に打ち込んだ理由はわからないが、中国古典に一貫して流れる道教思想は間違いなく理解していたはすだ。壁谷との長い歴史の関わりが見える台湾、香港の地でも、友太郎もビシネスを展開していた。これらのことから、当然「壁谷」という名が何を意味するか、類推して考察し、筆者を遥かに凌駕する知識と情報を友太郎は得ていたことは間違いなかろう。


本書によれば、友太郎が幼少時に祖母の膝の上に寝かされながら、祖先に伝わる伝承を聞かされていたという。祖母が語った部分を引用しよう。

三河國室飯郡西浦の舊(旧)家として聞え、其の組先は遠く平家の一門に発せる由緒正しき家柄であるが、乱世相次ぐの間、或る時代の家主に至り、深く感じ悟る所あり「取れば愛(めご)く取らねば物の数ならず、捨つるべきものは弓矢なりけり」を如意にし思い切って腰のもの(刀のこと)を打ち捨てて鍬に持ち替え、いつのころからか壁谷となのり・・・


本書の著者は友太郎の成功の理由として、友太郎の家の家風に武士道と儒教の精神があったことを引き合いに出し、締めくくっている。

壁谷氏が幼少の頃、組母の膝に抱かれつ、源平の戦さ物語をよく聞かされた事を、今も記憶せるも其の為めであり、その家風が武士道並びに儒教に依って練り上げられていたからである。

※マイクロフィルム画像を読んで筆者が文字を起こした。浅学による誤読誤植、あるいは粗忽な筆記・編集ミスなどればご容赦願いたい。なおカッコや句読点、「」は筆者が付記した。


領主は誰だったのか

本書では壁谷家の領主は語られず、どの家中だったのかは不明だ。ここではどのような可能性があるのか。まずは三河の地の平安末期以降の大まかな歴史に触れてみる。三河の地は平安時代は藤原南家の武智麿流の一族が尾張から駿河(静岡県から愛知東部)にかけて治めており、鎌倉初期からは源頼朝と母系で従弟の関係もあって藤姓二階堂氏(工藤氏)が、二階堂参河守としてこの一帯を支配していた。しかし現地では実質的に平家の一族の力が強かったと推測できる。桓武天皇の血筋を引く、坂東平氏が関東と伊勢・京との交通の要所にある三河を抑えていたからだ。


古代から続く開拓によって未開の地だった関東は豊穣の地と生まれ変わった。平安時代には関東三国は親王任国(親王が国司を兼ねた)とされ朝廷の主要な収入源と化していた。平安中期には関東で争った平将門や、その将門の乱を制した平貞盛、繁盛らの一族が名を残している。かれらは坂東平氏と呼ばれた。その一族は駿河・東三河(現在の愛知県・静岡県)から海路を渡って伊勢にも逆進出、平清盛も輩出した伊勢平氏となった。良港を抱える三河は、関東から伊勢・京に中継する重要拠点となっており、実質的に平氏が抑えていたのだ。


三河には神谷郷(神戸「かむべ」の居住地「谷」か)、大壁郷(大壁とは蔵を意味する。朝廷や伊勢に納めるための穀倉があったか)もあった。朝廷や藤原氏、伊勢神宮の荘園だったと推測される。地元の管理者(下司「げす」とよばれる下級役人)となったのは平氏だったと推測される。下司は平安末期以降、次第に地元で権力を蓄え武家として在地領主とよばれるようになった。


鎌倉時代になると、幕府執権だった北条氏(同じく坂東平氏)と関係を深め、承久の乱での勝利に大きく貢献した足利義氏が三河の守護となり、その一族が矢作川周辺の吉良壮や東三河の額田郡(現在の愛知県の岡崎から豊田あたり)地頭を任じられている。それ以来足利氏一族がこの地で急速に勢力を増し、「仁木氏(現在の岡崎市仁木)」や、「細川氏(現在の岡崎市細川)」「一色氏(現在の西尾市一色町)」「吉良氏(現在の西尾市吉良)」「今川氏(現在の西尾市今川町)」などの支流にわかれた。おそらくは三河に残った平氏一族は、足利氏の配下に組み込まれたことだろう。


室町時代になると「細川氏」は管領として勢力をふるい全国各地の守護を得る一方で、三河の領地を失っていった。吉良氏の流れを組む今川氏が永享の乱以降、本家の吉良家をしのいで強大な勢力を誇るようになり、駿河から東三河までを領有することになった。今川氏には桶狭間で有名な今川義元がいる。吉良家は観応の擾乱で直義(尊氏の弟)側について敗れたことで名門家でありながら、その後は振るわず、三河の守護は足利一門の一色氏が務めていた。


三河出身の徳川家康も、その祖先である松平信光が足利幕府の政所執事(まんどころ-しつじ)だった伊勢家の被官(家臣)だった。その妻は一色氏だったとされる。新行紀一の『一向一揆の基礎構造』によれば徳川家康の祖父清康は、大永四年(1524年)額田郡と寶飯郡にあった山中城を攻め取っている。このため清康は岡崎城主も手に入れている。しかし清康が殺害され城を奪われ、岡崎城は最終的に松平元康(のちの徳川家康)のものになる。その後の桶狭間で今川氏が滅亡し徳川家康が三河を統一すると、今川方につき当時東三河を領していた形原松平や岩瀬氏も、家康の家臣となった。

※伊勢氏は伊勢平氏の一族とされ少なくとも鎌倉時代中期には、足利氏の配下にあったとされる。


寶飯郡の旧家とされた壁谷家はこういった争いのなかで、主を失ったか、武士を捨てしまった可能性は充分ありそうだ。この時代前後の寶飯郡の記録は江戸時代に書かれた牧野氏の記録『牛窪記』(群書類従)や『牛久保密談記』があるとされる。東三河における今川、松平(徳川)に囲まれた現地の有力者がどう生き抜いていったか、その歴史が書かれているともされる。残念ながら筆者はまだこれらの書の内容を把握できていない。なお、幾多の情報や当地に残る伝承から、形原松平と壁谷はなんらかの関係があった可能性があるが、それは別稿で触れたい。


形原の領主

形原に絞ってさらに以前を考えてみよう。藤原南家が三河守を勤めるもとで、形原の荘園で現地を支配する下司(げす)の任に着いたのが源師光(方原下司次郎師光)だった。武田義清(源義清)の次男で、伝説的に形原城を築いた人物とされる。師光に関しては詳しいことがわからない。師光の祖父は後三年の役を源義家ともに戦い勝利して、常陸介、甲斐守など歴任した。常陸佐竹氏、甲斐武田氏の基礎を作ったといえる。信濃の武田、常陸の佐竹とは後世に壁谷のとの接点がいつくつか見えて来ており、そこにも壁谷が多数住んでいる。別稿で触れたい。


なお現在に残る形原城の遺構は、室町時代後期の松平氏中興の祖とされる3代信光の四男与副(ともすけ)が築城し、以来形原松平氏を名乗った。(三河松平家の多くは信光の子孫を称している。)往時は三河湾に突き出た丘陵の端に城が在ったとされる。『寛政重脩諸家譜』によれば、その与副の弟に貞谷がいて形原清庵で出家して松順と名乗ったとされる。別稿で触れるが、形原松平のページではこの貞谷が後に壁谷を名乗ったという記述があった。それが正しければ、松平家を出て壁谷家の嫁を貰い、以後は壁谷を代々名乗ったということもあるのかもしれない。

※源頼朝の弟で僧侶だった阿野全成(あのぜんじょう)は権力闘争に巻き込まれ、阿野家は滅んでいる。しかし全成の娘が藤原家に嫁ぎ、その子孫が阿野家を名乗ったことで女系で阿野家が復活している。最も有名な阿野氏の末裔は、後醍醐天皇の中宮で後村上天皇の実母となった阿野簾子(あのれんし)である。


形原の駅 のそばには「御屋敷稲荷」があるが、そこは形原城の本丸のあった場所とされる。一の曲輪(くるわ)・二の曲輪の痕跡が残っているとされるが、城跡は多く宅地化されほとんど痕跡はなくなっているようだ。なお「北古城」「南古城」などの付近の地名は、それ以前の形原城だった可能性が高いと考えるのが妥当だろう。


『大草・岡崎松平家の光重・貞光父子と初期の形原松平家』によれば、形原松平がこの地を治めたのは、少なくとも室町時代の寛正6年(1465年)にあった額田一揆(額田郡牢人一揆)以降であろうとする。それまでこの地域は室町幕府奉公衆(元足利将軍家の直属家臣)だったとされる武士の一団が幕府に対して反乱を起こしたとされ、幕府の命をうけ松平氏らが制圧している。(このことについて詳しくは神谷氏と壁谷氏の稿で触れる)これが松平氏が形原を領することになった理由である。するとこの地は、それ以前は室町幕府の旧臣らが治めていたと推測される。


別稿では、室町幕府の「奉公衆(将軍直属の家臣団)」に神谷氏がいたこと、その神谷氏は平安時代から鎌倉時代に磐城(現在の福島県いわきし平神谷:たいらかべや)地区で栄えており当時から「神谷(かべや)」と発音されていたことなどについて詳しく触れる。これらから単純に推測するなら、形原に住む壁谷とは、室町幕府奉公衆にいた神谷氏と同族(同一?)で、室町幕府の末期に松平氏に領地を奪われたと考えることもできるのかもしれない。神谷(かべや)氏もやはり同じく平氏の末裔であった。

※壁谷が特に集中して居住しているところは、蒲郡市西浦町の「南古城」に隣接し、東側にある西浦町北稲生地域、南側にある西浦町黒山/向野、そして西側にある形原町東古城だ。ここには壁谷が少なくとも数百家は居住していると思われ、「南古城」の周囲を壁谷の居住地が一回り、大きく取り囲んでいる。まるでここは自分たちの領だと言わんばかりである。さらに「北古城」の周辺にも多数の居住が確認できるようだ。この地域は、おそらく律令時代の国衙(中央の政庁)との関わりがあろう。この点については別稿で触れたい。


奥州の平氏との関係

現在の東北・関東地区にあたる奥州から、この愛知県の東三河地域の歴史を眺めなおしてみよう。須賀川の地は、鎌倉時代に栃木から移った「長沼氏」が治め、室町中期に三河から移った二階堂氏が治めている。別稿で触れるが、長沼氏は鎌倉時代に栃木に壁谷城を築いており、栃木には壁谷の地名が残り、現在も壁谷が居住している。また室町時代に二階堂氏の城下町だった須賀川でも、現在も壁谷の旧家が居住し、室町時代から続くとされる壁谷の古墓が残されていた。(2011年の地震で倒壊。再整備の際に撤去され、現在は存在しない。)


三河國寶飯郡千両(現在の愛知県豊川市千両)の大塚城主として「岩瀬氏」の記録がある。江戸幕府の『寛永重修諸家譜』の系図からは、岩瀬氏は現在の福島・秋田・茨木に勢力を有していた平姓(平氏)「岩城氏」の末裔とされており、平安時代は岩瀬郡(現在の福島県須賀川市)を治めていた。おそらくそれが岩瀬氏の名の由来だろう。


岩瀬氏を生んだ岩城氏は『寛永重修諸家譜』などによれば平国香の流れをくむ坂東平氏の一族で、常陸(ひたち:現在の茨木県から福島県南部)出身の大掾平氏(常陸平氏)が出自とされる。当時全盛を誇った平泉の奥州藤原氏の娘を嫁に迎えており血縁関係が深い。室町時代の「永享の乱」で、奥羽・関東の「岩城(いわき)」氏の活躍が高く評価され、その功績で足利一門に加えられ「五七桐紋」の使用が許可された。足利氏の直轄地であった三河に領地をもった可能性も当然考えられよう。別稿で詳しく触れるが、当時は平氏が奥州から関東北部の太平洋側を中心に強い勢力を維持しており、その一族が室町幕府の直臣とされる奉公衆となって、多くが三河に領地をもっていたのだ。将軍家の直臣として京に常在した奉公衆にも、岩城氏の一族が複数確認できている。(神谷氏、楢葉氏など)


一方で『姓氏家系大辞典』は「岩瀬氏」の家伝を引いて、福島県須賀川出身の藤原姓「二階堂氏」の出自だとする。二階堂氏は『尊卑分脈』によれば平安時代から尾張三河・遠江(とうとうみ)などの国司や受領を務めていた公家だったが、鎌倉幕府で政所執事を務めた家系だ。三河を領して執権の北条氏と手を組み、鎌倉幕府で強い勢力を誇った。一族の多くが鎌倉幕府と共に滅んだ。しかしその一族は建武の親政で東国の統治にあたり、室町町幕府でも評定衆に名を連ねた。関東十か国を治めた幕府の鎌倉府では政所執事となり勢力を保っている。その後の永享の乱の恩賞として二階堂慘河(みかわ)守が長沼氏に代わって奥州岩瀬郡(現在の福島県須賀川市)を領することになった。


室町時代の後期に、三河国内の争いで二階堂氏の主流が滅ぶと、生き延びた一族は飛び領地だった岩瀬郡(現在の福島県須賀川市)に移動して戦国大名となったが、伊達政宗に滅ぼされている。一方で須賀川二階堂氏の一流だった岩瀬氏は、三河に戻ってその後徳川幕府の直参旗本となり幕末まで続いた。一族の「岩瀬忠震(いわせただなり)」は、幕府重臣で外国奉行となって「幕末三俊」ともでいわれた英傑だ。島崎藤村の「夜明け前」にも実名で登場している。


こうしてみると、三河形原(愛知県蒲郡市)と奥州須賀川(福島県須賀川市)には、平安時代から室町時代にかけて、何度も繰り返し接点がある。どちらにも古くから壁谷が居住する特異地であることがなおさら興味深い。なお長沼氏、二階堂氏、岩城氏、武田氏、佐竹氏など家臣団に壁谷氏がいたと思われる形跡があるが、現在までのところ、この三河の地での壁谷の明確な記録は確認ができていない。おそらく、三河の壁谷は早くから武士を捨てたと推測できる。


福島の神谷(かべや)

もうひとつ、平家の一族が「壁谷(かべや)」と名のったと見なせるかもしれない、そんな記録は別稿に譲る。(注:第13,14,15,25稿などで示している。)ここではその概要を以下に紹介する。


平安時代に現在の福島県いわき市にあった「穎谷邑」を領して穎谷と名のった平氏の一族があった。「穎」の字は唐から来た文字とされ、当時は「穎谷(かびや)」と発音された。穎とは「稲穂」の先端にできるトゲのある神聖な種樅を意味する。アマテラスから皇祖神に授けられ、それ以来古代の屯倉(みやけ)に蓄えられ、皇室行事の「祈年祭」にも登場する。現在の愛知県は古来「穂の国」とされていたこととの関係も興味深い。


この穎谷はその後平安時代には坂東なまりが採れて「穎谷(かひや)」と静音でも発音された記録がある。「かひや」は現在の発音になおせば「かいや」になる。現在の島根県の「貝谷(かいや)」家には古くからの伝承として、遥か昔に福島の磐城(現在の「いわき市」)で「頴谷」と名のっていたとし、「頴谷」の発音は不明で、おそらく「えいや」としている。しかし、筆者が推測するに「かひや」だったことは間違いないだろう。なお、「穎(かび)」は「頴(えい)」の旧字とされる。


穎谷氏の一族は、鎌倉時代の末期に足利尊氏に追従して京に上り、その一族「穎谷三郎」らは尊氏の弟直義とともに鎌倉に戻った記録が確認できる。北条家の遺児が鎌倉幕府再興を目指した中先代の乱では、「穎谷大蔵太輔(たいふ)」が尊氏側の軍を率いて鎮圧に活躍した記録が残る。この「大輔」は律令では役職名であり、朝廷の蔵を管理する大蔵省の次官で「五位」に相当、殿上人でもあった。穎谷氏はその活躍もあって、のちの足利幕府で重責を担った可能性が高い。この穎谷氏は、のちに神谷と名乗った。


『室町武鑑』には「御番衆(おばんしゅう)」に「神谷四郎」、「神谷左近将監(さこんのしょうげん)」の記録が残る。「御番衆」はの役目は足利将軍の身辺護衛で、すべて有力家臣の子弟が付いた。「一番」から「五番」まであり交代で将軍の警護に当たったとされる。なかでも「一番」は最も権威が高く、将軍が外出するときの護衛は「一番」だけの役目だった。実は「神谷四郎」らはこの「一番」に属しており、神谷氏は室町幕府の有力氏族の一角にいたことがわかる。


戦乱の多かった足利幕府は細かい記録が乏しく詳しいことはわからない。各所に残された穎谷氏の記録も、南北朝時代まで以降にさっぱり確認できなくなってしまう。一方で神谷氏が室町時代に活躍した記録はどこにも確認できない。消えてしまった穎谷氏はどうなったのか、そして神谷氏はとこからきたのか。


ここで気になるのは『寛政重修諸家譜』にある平姓(平氏の一族)の岩城(いわき)氏の一族が磐城(岩城)の穎谷邑を領し「穎谷」を名乗りのちに「神谷」と名を変えたとする記録だ。その発音は「神谷(かべや)」とされる。現在の福島県いわき市の公式HPでも「神谷は、13世紀に神谷氏がこの地を治めたのが始まりとされます。」と書かれている。福島県いわき市では、この神谷は現在も「かべや」と発音されている。


神谷氏の発祥の地といわれる福島県いわき市には、明治初期に「壁谷(かべや)」と表記され、そして現在も「神谷(かべや)」とする広大な地名が残る。江戸時代に常陸笠間藩(元は佐竹氏の領、現在の茨木県笠間市)がなぜかいわきの地に飛び領地を持ち、「神谷(かべや)陣屋」を構えていた。想像するに、おそらく先祖代々の伝承の地を納めたのではないだろうか。神谷氏の一族は家康の側近におり、三河出身とされるが、こ地域では神谷は「神谷(かべや)」と呼ばれており、常陸笠間藩の家老も神谷氏だった。壁谷だけでなく、神谷氏の鎌倉・室町期以前の古代の発音も、もしかしたら「かべや」であったかもしれない。


壁谷の名字そのものは、「穎谷(かびや)」よりさらに古く、おそらく「壁谷」がほぼ同音の「穎谷」と書かれた可能性が高いだろう。その理由は、古墳時代から奈良時代までにかけて中国では「壁谷」という文字に大きな意味があったからだ。たとえば、中国では唐代以前に聖地ともされた「壁谷」の地名がいくつか確認できている。また、中国古代風水では「東壁」「壁宿」は皇太子を守る東宮を意味し「谷」は道教の古典「老子」で不滅を意味していた。そのころ数万人ともいわれる渡来人が日本に渡り定住しており、大陸の進んだ学問や土木技術、商業技術を伝えた。その強い影響を受け、古墳時代以降の日本は急激に発展していた事実がある。別稿で示すが、はるか古代(秦の始皇帝の時代以前)の氏の名として「壁谷」を名乗る人々は、現在の中国南部や台湾に非常に多く残っていることも、明らかになってる。


一方で遣唐使の影響を受けた名字ともされる「穎谷(かびや)」が歴史に確かに登場するのは平安時代の末期だった。『寛永譜』で「穎谷」氏の後裔とさえる「神谷(かべや)」氏が現在の福島県いわき市あたりを治めたが、それは鎌倉時代のことで、現在の神谷(かべや)地域の地名の起源となったとされる。そして穎谷氏が神谷氏と名を変えた時期は、室町時代(南北朝時代)と推測される。壁谷と神谷は歴史上いろんなところで繋がりが見え、かつ現在の居住地域も互いに近いが、その歴史は壁谷のほうが古いのであろう。江戸時代に三河の寶飯郡を治めた岩瀬氏が、須賀川出身という伝承を持つことなどから、愛知の壁谷も栃木・須賀川にいた長沼氏とともに関東に移り、室町時代中期の関東の争乱で三河に移ったと考えることが十分説得力がありそうな気もする。

※『講座方言学 方言概説』によれば、関東・東北および山陰や中国地方の方言では「い」「え」どちらも「い」に極めて近いという。したがって当地で「かべや」と発音しても他の地方の人には「かびや」と聞こえる。他の地域に移動して東北なまりといわれる濁点がとれれば「かひや」つまり「かいや」となる。この発音の変化と名字書き方の変化は他稿で詳しく触れる。


さて穎谷氏、神谷氏を生んだのは平成岩城氏と平姓千葉氏である。両氏は同じく平安時代に関東を領した常陸大掾(ひたちだいじょう)平氏の出身だ。常陸の大掾平氏は平国香を祖とする桓武平氏の本流であり、その本拠は常陸の「真壁(まかべ)」にあった。(真壁の地名は栃木など他にもある)平将門の乱で鎮圧されると一時期勢力を失ったが、その一族は後に伊勢に進出して平清盛らを輩出している。(「揚羽蝶」の家紋を持つ伊勢平氏)平家の本流は、坂東(上総国、下総国、常陸国)平氏で、その一流の常陸大掾平氏は常陸国(現在の茨木県、福島県南部)出身であった。このうちの一流が三河を抜け、伊勢に勢力を築いたのが、平清盛らの伊勢平氏である。


千葉氏は、源頼朝の挙兵でいち早く味方となり、鎌倉幕府の成立に多大な貢献をしていた。その後の室町幕府でも、千葉氏は侍所別当(長官)を務めていた。その神威を支えた妙見館では、館主(城主)として神谷氏の名が記録される。千葉氏は平将門の神威を引き継ぎ、北斗七星や妙見菩薩を信仰していた。


神谷氏の支族は、この岩城氏や、千葉氏に仕えて主要な地位を占めていたと思われ、室町幕府で足利氏を支援したことで一気に一族が隆盛したはずだ。現在の愛知県は、室町幕府の拠点であった。平安末期から鎌倉時代に栃木県足利を拠点としていた足利氏の拠点は、室町時代に三河を拠点に移している。藤原氏を出自とする二階堂氏もこの三河を拠点としていた。足利幕府で一定の地位を占めた穎谷氏、のちの神谷氏もこの三河で、藤原氏や足利氏の配下として多くの拠点をもったことだろう。


桓武平氏の本流も、関東常陸の「真壁」が発祥とする記録もあり「壁谷」の関係も興味深い。「真壁」は桓武天皇がその名を変えるように「詔(みことのり)」を出していた。本来は「白壁」と呼ばれていた。その「白壁」の名は、関東地方にも強い勢力を持ったことが確認できる「雄略天皇」の皇太子、「白髪王」(後の「清寧天皇」)らに由来している。そして神武天皇の曽祖父から桓武天皇以前までの数百年間にわたり、代々皇統の主流を引き継いだ主要人物にはこの「白壁」の名が隠されていたが、桓武天皇以降、この名は歴史から消されてしまった。これらの点は、古墳時代・飛鳥時代に関わるが、おいおい他稿で触れていきたい。


江戸時代の三河

天正18年(1590年)秀吉から江戸に転封を命じられた家康は、三河の家臣団を江戸に移住させたが、同時に付き合いがあった多数の商人や農民も付き添っていった。その後も街道沿いの伊勢・三河・遠江・駿河からは多数の町人が流れ込み、江戸の城下を開拓し商業を発展させたといわれる。それらの町人の多くは、江戸で町役人、町名主として町人を管理する立場になり豪商と「尾張屋」「伊勢屋」「三河屋」などとして繁栄した。江戸には、三河産の野菜の種も江戸に大量に持ち込まれ、武蔵野(現在の東京・埼玉・一部神奈川も含む)で大量に生産されて江戸市民の食に供された。三河産の野菜で特に有名なのは、練馬大根だろう。元禄のころ三河の領・宮重地区(現在の愛知県清須市)で採取した種から生産されて江戸の名産になった。


※当時のはやりことばに「近頃江戸に多きもの 伊勢屋稲荷に犬の糞」があった。これはどこでもあるもの例え言葉として使われた。伊勢出身の「伊勢屋作兵衛」は永禄のころ(1560年ごろ)から三河岡崎での酒屋として家康の御用達であり、家康に同行して江戸に移住した記録がある。(『江戸商業と伊勢店』による。)稲荷は三河の豊川稲荷であろう、本来は五穀豊穣の神なのだが、商売繁盛のために祀られたと推測される。また、酒や味醂、味噌、醤油などを売った三河商人も江戸に出たようで、彼らは「三河屋」の看板を掲げたようだ。そのため酒屋には三河屋が多く、長谷川町子原作の「サザエさん」にも登場する。

※豊川稲荷は、神社ではなく実は曹洞宗に属する仏教寺院である。その壁谷との関りは別稿で触れたい。


江戸時代の初期には西浦に隣接する形原(現在の愛知県蒲郡市形原町)に、「形原城(稲生城)」に「形原藩(かたのはらはん)」が存在した。形原松平は、「長篠の戦い」や「小牧・長久手の戦い」、「小田原征伐」で武功を上げたとされる。しかし(徳川家の系図から)松平家宗家9代とされる家康から見れば、六代前の「信光」まで遡った分家のひとつに過ぎず、また当初今川方にくみしたことから重視されなかったと思われる。形原松平は江戸初期の元和5年(1619年)に摂津高槻(大阪)に、さらに下総佐倉藩、丹波亀山藩と地方に移封され幕末を迎えている。

※家康の実母とされるのは西三河の刈谷城主水野忠政の娘「於大(おだい)の方」で、その消息は当然ながら細かい記録が残されている。一方で形原松平に嫁いたのは姉の「於丈(おじょう)の方」だったが、その消息はほとんどわかっていない。

※松平信光は、松平家の中興の祖といわれる。応仁の乱の前後に、足利幕府の支援を得て三河でおきた一揆を鎮圧したことが評価され、三河で有力な豪族となり多くの松平一族の祖となった。松平信光の妻には、神谷氏の娘が嫁いだ記録があることは別稿で触れるが、信光以降の系譜については家康以降、その系譜を隠さないといけない事情が発生していた。それは形原松平にも影響しただろう。


その後はこの地は多くが親藩や天領(幕府直轄領)の支配となった。交通の要衝で肥沃な土地でもあった三河の周囲は尾張藩領や天領となることが多く、領主は次々と変わり、支配領域も変動が大きかった。以下にその一部を記載する。

  • 挙母藩(豊田) 旗本領、本多、内藤
  • 刈谷藩(刈谷)水野、深溝松平、久松松平、旗本領、稲垣、安倍、本多、三浦、土井
  • 奥殿藩(豊田岡崎、長野県佐久) 大給松平
  • 岡崎藩(岡崎)本多、水野、松井松平、本多
  • 西大平藩(岡崎大平)大岡
  • 西尾藩(西尾市)本多、旗本領、井伊、増山、土井、三浦、大給西尾松平
  • 吉田藩(豊橋)竹谷松平、深溝松平、水野、小笠川、久世、牧野、本庄松平、大河内松平
  • 田原藩(田原)戸田、三宅

この他にも多数の旗本があり、各地の藩の飛び地尾張藩の領地などが散在していた。三河の地を領地とした直参旗本は五千石を誇り蒲形(かまがた)陣屋を構えた「竹谷松平」を始めとして60家以上もあった。このように、主家が次々と変わった。こうして江戸初期に主家を失った壁谷の一族は、幕臣に取立てられたか、現地で郷士あるいは名主、町民(商人)になった可能性が大変高い。


濃尾平野から続く三河の地は肥沃な土地でもあり、温暖な気候で農業にも適していた。そのため野菜を始め農産物の生産が盛んだった。また三河の地は江戸や上方へ流通をになった「樽廻船」の拠点でもあり商業も栄えた。海岸に近く漁業も栄えただろう。


友太郎の祖母の言い伝えは、江戸時代以前から伝わる壁谷家の伝承なのだろう。「乱世に祖先が武士を捨て」そのあと農業に従事したこと、「其の組先は遠く平家の一門に発せる」という伝承は、おそらく鎌倉時代から戦国時代までこの地を支配した、二階堂氏(岩瀬氏)、一色氏、今川氏家臣団または松平家で寶飯郡を拠点とした十八松平に属する、形原松平、五井松平、竹谷松平、長澤松平などの家臣だった可能性があり、江戸幕府設立後は主家を失っていた。そこに友太郎の祖先がいたのだろう。そして肥沃な三河の地では条件がよかった農業を自ら選択したのかもしれない。当時の武士の窮状は惨憺たるものだった。


江戸時代の武士の窮状

筆者の家系に伝わる言い伝えでは、江戸時代の武士は後継ぎ以外で運よく養子に出すことができなければ、出家させるか、いなくなったと伝わっている。(この話は、筆者は直接言い伝えを聞いている。むごすぎてとても文章に著すことができない。)その一方で、江戸時代の『武鑑』や『寛政重修諸家譜』などの記録では、後継ぎがなく断絶した家が多数記録されている。


武家の場合は俸禄(米の現物支給)のみで他に収入はない。特に江戸中期以降は物価が急激に上がるので実質の収入は減る。新田開拓や農地改良で農地からの収入が増えても検知が行われるのは稀だった。新田開発や商業の発達で農民や町民の収入は増えても、武士の収入は増えなかった。一方で、武士には定められた使用人を抱え、決まった儀礼や習慣に費用を拠出する義務があり、常日頃武芸と学問の修行に勤しむことも必要だった。そんな武士の困窮を救うため、江戸幕府も棄捐令(きえんれい)で武家の借金を棒引きにしたが、逆に借金ができなくなった武家はさらに困窮していった。こうして武士の地位を町人に売る(町人を養子に迎えて後継ぎにする)例は多数あった。このあたりの事情は、『世事見聞録』(文化十三年ごろ)に詳しく記載されている。以下に一例を示す。


『世事見聞録』から「武士の困窮」の一例を示す。

なべて武家は大家も小家も困窮し、別して小禄なるは見体甚だ見苦しく、あるいは父祖より持ち伝へたる武具及び先祖の懸命の地に入りし時の武器、そのほか家に取りて大切の品をも心なく売り払ひ、また拝領の品をも厭(いと)はず質物に入れ、あるいは売物にもし、また御番(おばん:お役目のこと)の往返、他行の節、馬に乗りしも止め、鑓を持たせしを略し、侍若党連れたるも省き、また衣類も四季節々のもの、質の入替または懸売(かけうり:代金後払いのこと)の糴呉服(せりごふく)といへる物を借り込みてやうやく間を合はせ、またその甚だしきに至りては、御番に出る時は質屋より偽りて取り寄せ着用いたし、帰りたる時は、直に元の質屋へ返すなり。


『幕末百話』に当時江戸で有名だった質屋「伊勢屋」の主人が昔を思い出して語った話が載っている。幕府の「御使番(伝令や使者などを務める要職)」だった千二百石取りの旗本の内田氏が、先祖伝来で由緒あるという具足(一そろいの鎧のこと)を八両で質入れしたが、期間が経過し質流れとなっていた。伊勢屋のもとに仕入れに来た骨董屋に、その具足を売り払って二両の儲(もうけ)を得ることができた。ちょうどその時だった、たまたま新しく質入れに来た内田とかち合ってしまったのだ。

※江戸前期はおおよそ三千石以上で幕閣に関与する立場になれ千石以上では幕府の要職に就くのが常だった。


伊勢屋は気まずくなって、冷や汗を垂らしながらも内田に必死に弁解した。その言い分はこうだった。「八両を貸して11か月も経過したのに(たった)十両でしか売り払っていない。」これに対し、内田は全く納得した様子は見えない。伊勢屋は元、大身の旗本を目前にして文字通り絶体絶命のピンチに立たされたのだ。


実は内田は伊勢屋なぞ全く眼中になかった。さっと振り返ると買い取った董品屋に「それは眼鏡違いだ。」と言い放ち、その具足の由緒正しさ価値の高さを説明し出した。その話をじっくり聞いていた骨董品屋は、一気に三倍近い「二十八両」で買い上げると言い出したのだ。然してこの買取は成立し、伊勢屋の儲けは二両から二十両に、なんと十倍にも跳ね上がることになった。なおさら気まずくなった伊勢屋は、丁寧に差額を包んで内田に手渡そうとした。しかし内田は頑として受け取ろうとしない。それを突き返してこう言い放ったという。「これはお前の家(質屋)の儲で、拙者がもらう筋合いはない。」


確かに筋は通っているのだが、一方で内田は生活費にも事欠いていた。そのため、今日も新しく質入れをしようと持参したものがあったのだ。しかしそれは、伊勢屋がどう見ても「二両」が精いっぱいの代物だった。内田がここで粘った。「なんとか、もう少し色が付かぬか。」


伊勢屋は当然とも言える回答をした。「では先ほどのお礼の分を増やしましょう。」これに対し内田はあっけなかった。「それならいらぬ。」そう応えるとさっと「二両」を掴んで、帰ってしまったという。伊勢屋は「武士は食わねど高楊枝、鷹は死しても穂は摘まず。」とは正にこの事だとして、話は締めくくられている。

※原文は明治期に古老たちから聞き取った昔話(江戸時代のもの)をもとにして編集された。伊勢屋が語る金銭の単位に「両」と「円」の表記が混じる。確かに明治初期はそういう時期で、編集の都合なのかもしれない。わかりにくいため筆者が一部の「円」表記を「両」に直している。正確な金額などは原書を参照されたい。


旗本八万騎といわれる幕臣の中で、千石を超える旗本は、わずかに800家ほどしかなく、幕末に名を残した勝海舟の家系も、わずか41石取りだった。内田は千二百百石取りの大身旗本だったが、それでもこの窮状だったのだ。。


勝海舟の祖先も、もとは駿河今川氏の家臣だった。今川氏が滅びると天正13年に徳川家康の家臣となり「鉄砲玉薬組」として仕えたとされる。幕末に幕臣としての勝家は一家しかない。つまり江戸時代の260年間にわたって、勝家の子孫はわずか一家だけのままだった。それどころか、勝海舟の父が7歳で勝家の娘の下に婿養子に入り、勝家をなんとか繋ぐのが精いっぱいだった(『勝海舟』上 勝部真長による)


家が残っただけでもまだましだった。実際には武家の多くが断絶している。同じ徳川家で、水戸家の例では元禄以前に登用された家臣985家のうち457家と半数近くがお家断絶の憂き目をみている。とくに宝永・享保の約30年間では、なんと111家が断絶している。絶家の理由は改易ないしは賜暇(しか:現在の企業で言えば「クビ」ないし「依願退職」だ)とされた惨状であった。(『シリーズ藩物語 水戸藩』による)友太郎の祖先も、武士として家系を維持するのは大変だったのだろう。それなら、その地位や立場を利用して、地元で庄屋になった方がよかったかもしれない。


多くの一族をなした大庄屋

昭和50年代に筆者の知人の実家の御屋敷を訪問したことがある。そこは、かつて松平某家が治めていた米どころにある大庄屋だった。江戸時代はそこから360度見渡す限りの土地や山を所有していたとされ、自分の耕作地を見回るのため、駕籠(かご)に担がれて回ったと伝わる。念のため加えるが、駕籠に載ったのは農家の主人だ。現在も周辺に散見する家々は同じ名字だらけであり、おそらくは親戚同士なのだろう。


その家に着いて驚いたのは家の外観の大きさだけでなかった。玄関を入ると、吹き抜けの広大な土間が広がり、高い天井を見上げた先には、幅7,80cmはあろうかとも思える黒光りする巨大な梁(はり)が目の前を左右に横切っていた。その長さは少なくとも十数メートルはあったろうか。家の中の部屋にはいくつか段差があったことにも、驚ろかされた。当時は農民の中にも身分差があり、下級の農民は上段の部屋に上がることさえできなかったという話を、後になって知った。


高い屋根の上には、予想もできなかった広大な屋根裏部屋が広がっていた。そこは幕末から明治時代ごろに使われたと思われる養蚕設備(かいこ養殖)の跡だという。大変なご厚意をいただき、ひととおり見せていただいたが、屋根裏部屋とは思なない、おそらく数十畳はある板間には南北方向に開く大きな換気窓(もちろん木でつくられており、戸が上に向かって開き、下側を木の棒で支えていた)もあった。建具や設備は当時のものがそのまま残されており、きれいに整理掃除されていたため、私以外にも見学に来れられる人がいたと推測される。


再び一階に降りたが、奥の上段の部屋には専用の仏間があり、そこには幅一間(いっけん)はある巨大な備え付けの仏壇があった。丁度幅一間(180cm)の押し入れひとつがそのまま仏壇だと思えばよい。そこには先祖代々の位牌のほかに、家宝とされる古文書や骨董品が多数残されていた。幾つかの遺品や骨董品を見せていただいたが、その中には松平の御殿様から下賜されたものが複数あり、一枚の古文書は畳の上に広げて見せていただいたので、許可をいただき筆者も写真に収めさせていただいた。内容は、「何が起きても末代まで面倒を見る」と記した松平のお殿様の借金の証文だという。筆書きの草書で書かれており、当時の筆者には全く読めなかった。(その写真は現在もあるが、暗い位室内でとった写真だったためか、現像するとピントがずれていていた。たいへん残念でもある。)


大庄屋であるとはいえ一介の農民であるはずだが、返さないことを前提として殿様に金を貸していたという事実は、驚きだった。殿様から江戸時代に名字を名乗ることが許され、系図も伝わっていた。実名のほかに先祖代々後継ぎとなった男子だけが名乗る名(通称名)があり、跡継ぎとなった子には格扱いされ専用の個室があり、寝る布団や備品も別格だったという。その長男は普段の会話でも家族や親戚が実名ではなく「おぼこさん」と呼ばれていた。聞いた話では小さい子供のころから、ずっとそう呼ばれていたらしく、その意味は判らないという。

※御父子さんと書くのだろうか。「御父子」は室町末期から江戸の書物(『信長公記』など)で登場、本家の血筋を保つ正当な嫡子を指している。しかし、発音が「おぼこ」なのかは不明。筆者がお邪魔した際は、その方の母(当時90歳ぐらい)が実の息子の長男(当時時70歳くらい)を「おぼこさん」と呼んでいた。『広辞苑』第二版によれば、「おぼこ」は「産子(うぶこ)の転か。①まだ世事に慣れぬこと、またその人。「-息子」②ういういしい娘。生娘  。③ボラの幼魚。」とある。おそらくは①の意であろうか。東北弁でも小さい子供や、赤ちゃんの意味がある。一方で甲州弁では「おぼこ」は「蚕」を意味するようだ。蚕は「おかいこさま」とよばれ『古事記』の時代から大切にされており、何か関係があるのかもしれない。


この知人の実家の地域は、江戸前期に松平家が入ることになり明治まで治めた場所だ。言い伝えやその所有する土地の広さからから推測すると、古い時代には知人の家系はもとは有力な武士だった可能性が高いと今は思っている。(その名字は、その地域周辺で新田義貞の弟、脇屋義助と戦った記録が残っている。)その後、古文書や代々守って来た骨董品は市の博物館に寄付する話が進んでいた。仲介者を名乗る業者が何台ものトラックで押し寄せ、貴重な資料なので市に寄付するという話があって、無償ですべて持っていかれ、もうなくなってしまったという。本当に市の博物館にあるという情報は確認できていない。


家自体は歴史的建造物だったが、当主が亡くなったあと、長男(おぼこさん)が囲炉裏をつぶしたり新しく玄関を作り直し、窓もすべてサッシに変えるなど大幅に改築したという。そのため家そのものが、市の文化財などの指定されることは難しいだろう。他人事ながら残念な思いもある。


蒲郡の壁谷

友太郎の祖母の言う「三河國寶飯郡西浦」は東三河に位置し現在の、愛知県蒲郡市西浦町付近になる。20年ほど前この地域にある小学校の先生から聞いた話では、どのクラスにも複数の壁谷という名字の子がいると聞いて驚いた。この地には数千人の壁谷が居住するとも言う。おそらく日本一「壁谷」が多い地域だろう。友太郎の話も、この先生から最初に聞いた。彼によれば、通っていた子供の親から聞いた話だという。


友太郎が祖母から伝え聞いたように、戦国の世に刀を捨て鍬に持ち替えたなら、農業を選択した形原の壁谷は、上記の旧家のように広い土地を確保でき大庄屋、大地主としてスタートできたはずだ。その後大幅に子孫を増やせた可能性が高いのではないかと推測する。


江戸時代に神戸の灘の酒を江戸に運んだ有名な「樽廻船」の経由地には、蒲郡の眼下に広がる三河湾があった。また知多半島には「尾州廻船」とよばれるは廻船業者が複数存在していた。これらの業者は、上方と江戸との間の物流を支配しており、伊勢・濃尾・三河産の米や野菜を、江戸に運ぶ一方で、下総から魚肥や東北・関東産の大豆をそれぞれ買い付けて持ち帰った。このため三河(とくに西三河)では、米のほかに酒、味噌、醤油などが大量に生産されて最大の消費地江戸に送り込まれた。江戸に出て店を開くものも多く、多くが「三河屋」という屋号で看板をあげていた。かつてない江戸の繁栄に、三河では町人(農家および商人、問屋、酒屋、味噌屋)も大いに繁盛した。


※※平安時代から港湾において荘園領主と契約し、船で保管、輸送を引き受けた「問丸(といまる)」と呼ばれる業者がいた。丸とはおそらく船の名前を指すのだろう。商業が発達しだした室町時代に「問丸」は「問屋(といや)」と呼ばれるようになり、やがて職業に特化した「木屋」や「納屋」が登場、「屋号」が職業と結びつくようになった。形原など良港を抱えた東三河では、農業だけでなく舟を使った輸送業が大きく発達していただろう。それが後の「三河屋」に繋がっていったと思われる。壁谷の一族も農家だけでなく、舟乗りとして当地の輸送を担い、各地の交流に関わった可能性が能性もあろう。


これらの結果として愛知の蒲郡周辺の一定の範囲に壁谷の繁栄を招いたのではないだろうかと推測する。もし愛知の壁谷が武士を続けていたなら、勝海舟の家のように、数百年を経てもその一族はほとんど増えなかっただろう。現在のように多くの壁谷家が存在するのは、武士を捨てたことによる可能性が大変高いと筆者は推測する。昭和33年2月に行われた形原町の住民投票により、同年4月形原町は蒲郡市と合併した。最後の形原町長となったのは、壁谷万太郎だった。その8年ほど前、現在の福島県いわき市でも、神谷(かべや)村が磐城市平に吸収されている。その最後の村長も神谷市朗であった。福島県いわきでは、姓(名字)も神谷(かべや)と発音する。



今後整理すべき課題

0)付記:数十年前に形原の歴史研究者だった小学校教師から得た情報をもとに、国会図書館等に出向いて筆者が調査し、本稿を作成した。その際に、手元に筆記した記録をもとに「壁谷工作所」は形原で設立され、「山陽工作所」は神戸で設立されたと記述した。


しかし形原の歴史を研究され、当地で数々の調査をされている尊敬すべき先達から、友太郎は確かに形原出身でその直系の子孫の方も形原に在住していることを確認できたが、しかし友太郎は日露戦争前には神戸市役所で働いており会社を興したのは神戸だったのではないかとのご指摘をいただいている。ここに情報提供に対して、深く感謝の意を表すと同時に、ご指摘の件につき『帝國發明家傳』その他の参考文献を再度読み込むなどして、再度確認を試みたい。誤りであったことが確認できた場合は、訂正をする予定でいる。


※友太郎が参加した日露戦争は明治37年から38年だった。すると、友太郎はこれ以前に神戸市役所に務めていたことになる。たまたま明治33年の兵庫縣庁の職員録が確認できたが、そこでは友太郎を確認できていなかった。今後も方策を探りたい。


1)本書では友太郎の祖母が「いつのころか壁谷と名乗り」としてあった記憶がある。(上記本文ではそう記述してある。)実は国会図書館で本書のマイクロフィルムを読みながら、手書きで写したとき、重要な部分と思っちなかった。そのため、その部分の正確な記述ははっきりしない。


したがって壁谷の名はいつから名乗っていたは不明だ。江戸時代は農民は名字を持っていても正式にそれを名乗ることは禁じられていた事が最近は分かってきている。したがって、壁谷という名字を持っていることは代々伝わっていても、それを公式に名乗れない時代が続き、明治になってやっと(家伝で伝わってきた)壁谷という苗字(名字)を名乗れるとになった、という可能性もあろう。しかし、そうであるなら、江戸時代に生まれ明治にはいったころ既に大人だった友太郎の祖母の記憶にないことは矛盾する。したがって、江戸時代には壁谷の名字を持っていたことは間違いない。


他にも友太郎の祖母が語った一節に「他家と同じく(武家だった)」といったような記載があったと記憶するが、この部分も手元に筆写記録が残っていないので確かではない。もしこの記憶が正しければ、当時もこの地域に士族とされている壁谷がいた可能性もある。


2)形原について記した『形原』(壁谷彌助 編)が愛知縣形原町町部青年聯合會から大正12年に出版されている。これは、昭和49年に蒲郡郷土史研究会から再刊されている。(著者は壁谷弥助となっている)古本として現在もどこかで入手可能と思われるが、筆者はまだ入手も確認もできていない。なお昭和37年には蒲郡市と、形原町は合併して、新生蒲郡市となった。現在の蒲郡市の公式HPには、そのときの形原町長だった壁谷(かべや)氏が写真とともに掲載されている。


3)形原松平に「松平貞谷(ちょうこく?)」がいた。長男の「貞副(さだつぐ:貞嗣とも記録される)」が形原松平の二代目を継ぎ、次男だった貞谷は出家して「清源庵」を開いて住職となったとされる。(江戸幕府の『寛政重修諸家譜』による。)貞副の没年が享禄4年(1531年)とされることから、この貞谷も同世代だったろう。この貞谷が後に「壁谷」を名乗ったという記述を愛知県内で歴史を研究されていた方の某Webサイトで見たことがあり、そのとき手元に控えた記録が残る。それは10年以上前のことだったが、形原松平の詳しい調査をして説明をしているサイトだったと記憶する。

※貞谷は松順を称したとされる。別稿で触れるが、禅において千年の翠(みどり)とされた松に順(したがう)との名を冠したことも興味深い。


現在は、その記述を確認することができない。この話は伝承として書かれていたと記憶するが、あり得るのかもしれない。僧侶から発生した一族としては、下野(しもつけ:栃木県)の二荒山神社座主および日光山別当職だった天台宗の僧侶「宗円」が、鎌倉時代・室町時代に勢力を誇った名族「宇都宮氏」の祖になったという話など、多数の例がある。特に室町時代は入道(僧侶)となっている武家は非常に多い。本願寺中興の祖として有名な蓮如には五人の妻がいて、男子13人、女子14人の子供をもうけている。

※室町時代の慣習として、後継者争いを避けるため、あるいは寺社領を獲得するため、武家では出家する例が多かった。出家は後継者争いを避けるためのものでもあった一方で、形式的なものも多かった。貞谷が出家したにも関わらず系図に残されているのは、それなりに大きな存在だったのかもしれない。


しかし、もし形原松平となると、平氏とする友太郎の祖母の話と一見食い違いが発生する。しかし家康の徳川家(得川家?)は、実は源氏ではない。別稿で示すか、残された記録から当初家康は藤原南家を称し、後に源氏としている。(『関白関白近衛前久の書簡』による。)現在の研究成果では賀茂氏だったのではないかという説が有力だ。西三河には賀茂氏もいて、東三河の地は藤原姓の二階堂氏らもいた。もちろん古くから地元に根をはっていた平氏の流れもあっただろう。たとえば家康の家系は松平家の本流ではなく、実は平姓(平家)の一族だった可能性を示唆する情報もある。(この点は、神谷と壁谷の関係の原稿で触れる)松平貞谷は松平家を継ぐことはなかったわけだ。したがって地元で一定の有力者だった平氏出身の壁谷の娘を妻に迎え、その子孫が三河の壁谷の祖先になったという可能性も当然捨てきれないだろう。そうであれば壁谷が平氏出身という可能性がててくる。


もちろん承久の乱以前は、関東で覇権を広げた桓武平氏が東海・伊勢に進出してきており、三河一帯は伊勢神宮領(御厨)であり、その大半を平氏が抑え、伊勢にも進出した伊勢平氏は平清盛を輩出している。しかし、承久の乱以降、三河の守護は足利氏となり、三河国内の地頭も足利氏の一族が占めていった。そこから生まれた足利一門には吉良氏や細川氏、一色氏などがいる。こうして平氏の一門は、地元の有力者として足利氏の配下に収まっていったと推測される。


こういった抗争の連続と、断絶を避けるため長い間に養子や婿入りが繰り返されている。藤原氏も源氏も平氏でも血が混じり、何とでも名乗れたかもしれない。江戸時代は娘に婿養子にはいって後継ぎとなるなどの例も多く正確な記録が残っていない古い血縁関係は、簡単には解明できないだろう。


4)三河国室飯郡では、豊川に有名な豊川稲荷がある。壁谷には「稲」や「神」「水」との関係がちらつくが、この豊川稲荷も、畏れ多き荼枳尼(だきに)天を擁する曹洞宗の寺院である。江戸時代はこの地に愛染寺(伏見稲荷本願所:廃寺になった)があり、愛染明王があったはずだ。当時は全国に荼枳尼天を勧進していた。『源平盛衰記』には平清盛が荼枳尼天の修法を行っていたとする記述もあり、この時代の平家の隆盛は、荼枳尼天との関係で興味深い。これが、この地方の壁谷の数の多さに関係している可能性がある。


一方で荼枳尼天との関係においては、特に室町時代に荼枳尼天の修法が南朝側の僧に使われた形跡があり、これを避けた可能性は別稿で触れている。ちなみに豊川稲荷は神社ではない。圓福山「妙嚴寺」とする曹洞宗の寺である。壁谷と禅宗である曹洞宗との関係も、実は大変深い。実は筆者の家も曹洞宗である。


なお、『平家物語』でも壇之浦で滅んだとされる伊勢平氏の一族が入水する際に、平宗盛(清盛なきあとの平氏の総帥)の家臣たちが船上の守り神として稲荷大明神を見たたことが、語られている。東三河は武家の歴史の前に、古代の「穂評(ほのこおり)」「穂の國(ほんくに)」から始まって、古墳時代から平安初期にかけて、複雑な流れがある。稲と大変関りが深い。詳しくは別稿で徐々に触れていく予定だ。


5)現在の蒲郡市の西浦地区には「神谷門戸」という地名が残る。江戸時代にこの地を本拠とした一族が「神谷氏」を称したという記録は江戸幕府の資料『寛政重修諸家譜』にも記載されている。現在この地に神谷の名が多いのもこれが理由だろう。神谷門戸前の目の前に広がる海岸は、「西浦」の名の通り南西に向いた入江の湾岸であり、この港は江戸時代に船便の航路の中継点としても大いに栄えたはずだ。


その海岸の真正面は、南西に30度ほど傾いており、方角的には「冬」の真っただ中である冬至の時に、真っ赤な太陽が海岸線のど真ん中に見えるはずだ。南西に30度傾くのは、古代中国道教における天道(一種の「レイライン」太陽の通り道)の影響が強く考えられ、5-6世紀ごろの西浦の湾岸は、神の通り道とされていた可能性がある。太陽の力が最も弱まる「冬」は、道教では最も重要な時期でもあった。その時代は雄略天皇の時代(「倭の五王」時代)であり、河内の巨大古墳群や、同時期の埼玉(さきたま)古墳群も、同じく南東にきっちり30度傾いている。


神谷の名は、鎌倉時代とされる「岩城四十八館」の「神谷(かべや)館」に登場している。それは「妙見館」ともよばれる。この場合の「館(やかた)」は、後世の「城」を意味している。妙見(みょうけん)は、「北極星(北辰)」や「北斗七星」の信仰であり、平将門(たいらのまさかど)が信仰したことで有名だ。もとをたどれば中国皇帝の守護神「玄天上帝」に繋がってくる。

※『寛政重脩諸家譜』では穎谷(かびや)氏を平家の一族が養子で継いで、のち神谷と名乗ったとする。


平安時代の武士の興りも「北面の武士」であった。将門の乱以降、武士が台頭し、その勢力は全国に散らばり、鎌倉時代以降は武家の守り神とされて広がった。妙見は関東で勢力をもった平将門、平忠常を経て平姓「千葉氏」の氏神として有名になり、室町時代に武家に広まった「妙見信仰」につながる。おそらくこの西浦の地にも、鎌倉時代から室町前期までの時代に「神谷館」があり、室町中期の戦乱のあと、神谷氏が東北に去ったあとも神谷の地名が残り、それがこの地の神谷氏の発祥に繋がったとすれば、江戸幕府の『寛政重修諸家譜』にある神谷氏の起こりの説明と一致するともいえる。


室町時代に千葉氏の本流が滅んだ後も、末裔とも思われる「千葉周作」が幕末に「北辰一刀流」の千葉道場を開き、坂本龍馬もそこで腕を磨いた。千葉周作の道場の正式名は「玄武館」である。「玄武(げんぶ)」も中国道教で「冬」「北」「水」を意味する守護神(獣)である。古代中国道教に由来し、神谷氏が支えた北辰、妙見の神威は、江戸末期においても、しぶとく武家に生き残っていたようだ。


6)三河国宝飯郡は、5-6世紀の古墳時代まで遡れば「穂評(ほのこおり)」と呼ばれていた。(「こおり」は、「群」となる前のに使われた古代の行政単位の名前)このことは、奈良県明日香村石神遺跡からは発掘された宝飯郡成立に関する木簡に記録があり、桜井君、長浴部直から、ヤマト政権時代のに中央との関係の強さが見て取れそうだ。現在も桜井の名を冠した、愛知県安城市桜井町には二子山古墳がある。


『古事記』の9代開化天皇の記事に『丹波道主王の子が三川(みかわ)の穂の別(わけ)の祖ぞ』とあり『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の雄略天皇の条にも穂國造(ほのくにみやつこ)がある。『先代旧事本紀』と『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の記述がもし正しければ、古代における愛知の蒲郡と福島県安積(現在の福島県郡山市あたり)の地は深い関係があったことになる。好字二字令のおかげか「宝飫(ほい)郡」の名が残り、それが「宝飯郡」とされたようで『地名の謎』では、これを後世の「誤表記」によるものとしている。


7)平安時代の『新撰姓氏録』によれば、古くは参河とよばれたこの地には、奈良時代以前から渡来人の一族、東漢(やまとのあや)氏の、坂上氏が多数定住していた。別の壁谷家の家伝では、壁谷家はこの坂上家との関係が伝わっている。東漢氏の族長と記録される坂上田村麻呂は、平安初期の蝦夷征伐遠征時に太平洋側を船団で北上し現在の茨木の地あたりにも拠点をもち、東北では阿武隈川を上ったとされる記録もある。(日本海側を経由したとする記録もある。)壁谷と坂上家の関りは至るところで見えており、このときにすでに愛知を拠点として、壁谷が定住していた可能性もある。


8)平安時代の辞書『和名類聚抄』によれば、現在の愛知県の渥美半島(東三河)の地名として「参河国渥美郡大壁(おおかべ)郷」があり、そこには「於保加倍(おおかべ)」と万葉仮名が降られている。「大(おお)」は神代の大物主大(おおものぬし)神の流れを汲む「大神(おおみわ)」、出雲「意宇(おう)」または「多(おう)」「大伴(おおとも)」「大部(おおべ)」などからの由来の可能性や、「穂の国」と渥美半島の根元にある「豊川稲荷」との関係など見えていないところがまだ多数あり今後も注目したい。


なお建築工法のひとつとして「大壁」がある。古代から土蔵(倉)や城郭建築に使われた手法である。強度が強く、また耐火性も高いため、主に貯蔵用の倉庫として使われた。穂の国に、大壁の地名があったのは、ここに巨大な穀倉群でもあったのかもしれない。古代の高級な建造物では壁を白くするために貝灰(かき殻を焼き粉砕して消石灰を得て、漆喰として使用)したが、その後各地で石灰が産出されるようになり、室町時代には豪農や豪商が多くの「大壁」造りの土蔵を並べた。


一方で湿度の高い日本では「大壁」は居住空間には適さない。そのため木材を柱を組んで間には壁を塗る「真壁(しんかべ)」造りが普及した。これは室内に柱や梁が見える和風建築として日本独自の発展を遂げた。室町時代以降は耐火性と居住性を兼ね備えて、外壁を「大壁」作りとし、室内は「真壁」作りとして柱を露出させる建築も豪商を中心に普及した。このため江戸時代の街道沿いはこの工法を使った土蔵造りの商家や旅籠が並んだ。現在江戸時代の名残を残すといわれる各地はこの造りの商家が街道沿い並ぶ。明治政府も耐火性からこの建築方法を推奨した。


なお真壁は建築用語で「しんかべ」と発音される。しかし、本来日本古来の建築であり和音の「まかべ」と呼ぶのが正しいのだろう。そして、実は「真壁(まかべ)」も平安初期までは「白壁(しらかべ)」と言われていた。しかし、「白壁」という名は光仁天皇(桓武天皇の父)の名であり、その名を「使うのを避けよ」と桓武天皇が詔している。それ以降がその地の名前は「真壁」と言い換えるようになったと記録されている。(『続日本紀』による)


地名は名字になったことから、関東では平姓の支流として真壁氏が発生し常陸に真壁城を作った。江戸時代も生きのびて各藩での重臣についた例もある。この真壁氏と壁谷氏、神谷氏の関係は、その発音だけでなく、名字の発生の経緯、佐竹氏や千葉氏との関係、そのたの江戸時代の流れなどでも共通する部分が多くみつかっており、現在考察中である。


9)各地の伊勢神宮の荘園には、奈良から平安時代に神戸(かむべ)という部の民(べのたみ)がいて、のちに神戸(かんべ)と呼ばれるようになった。奈良時代に称徳天皇は、争いを避けるため武器を取り上げたが、この神戸だけは武器を持っても良いとされた。神に捧げる生贄を狩るのに必要だったからだろう。そのため神戸の地には、兵庫(つわものぐら)があった。また、坂上田村麻呂を族長とする一族、東漢(やまとのあや)氏の部の民も、のちに漢部(かんべ)と呼ばれている。


それらの地は、鎌倉時代の承久の乱以降、武士の支配に切り替わって徐々に地頭の支配となり、その地に居着いた有力者は「名字の地」(その地名を氏とすること)となった。鎌倉武士は背後に山が迫り水が豊富な谷の地に居を構え、「谷(やっ)」とする例が多く、もしかしたら神戸谷(かんべやっ)、つまり神谷(かべや)あるいは壁谷になったのかもしれない。


参考文献

  • 『帝國發明家傳』帝國發明家学會篇 国会図書館蔵 昭和11
    (帝國發明家傳記刊行會昭和5年)
  • 『神港人物太平記』水辺楼主人著 国会図書館蔵 昭和9年
  • 『神戸市会社名鑑』神戸市商工課編 国会図書館蔵 大正12年
  • 『海運興国史』海事彙報社 昭和2年7月
  • 『寛永重修諸家譜』江戸幕府 国会図書館デジタルコレクション
  • 『姓氏家系大辞典』太田亮
  • 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)洞院公定 1377-1395年
  • 『世事見聞録』武陽陰士 本庄栄治郎構訂 奈良本辰也補訂 岩波文庫1994
  • 『一向一揆の基礎構造  三河一揆と松平氏』新行紀一 吉川弘文館 2017
  • 『追補・幕末百話』篠田 鉱造 岩波文庫1996 
  • 『どうだ明くなったろう』和田邦坊作 風刺漫画
  • 『日本紳士録』第42版
  • 『國會難局の由來』福沢諭吉 時事新報社 明治25年6月
  • 『江戸商業と伊勢店』北島正元 吉川弘文館 1962
  • 『昭和造船史』(戦前篇)日本船舶海洋工学会 1997
  • 『シリーズ藩物語 水戸藩』岡村青  現代書館 2012
  • 『大草・岡崎松平家の光重・貞光父子と初期の形原松平家』村岡幹生 愛知県史研究 2008
  • 『先代旧事本紀』『東日流外三郡誌』
  • 『勝海舟』上・下 勝部真長 PHP研究所1992
  • 『青淵回顧録』渋沢栄一述  青淵回顧録刊行会 昭和2年 国会図書館
  • 『和名類聚抄』巻六 源順
  • 『続日本紀』
  • 『地名の謎』今尾恵介 筑摩書房 2011
  • 『海と船なるほど豆辞典』財団法人日本海事広報協会 2002年


壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。