1. 古代中国の各地に登場する 壁谷

日本の古墳時代から平安時代初期にかけて日本と交流が盛んだった「渤海(ぼっかい)」の都には「壁谷県(現在の中国延辺朝鮮族自治州琿春市)」があり、同じころ唐の都「長安城」の南山県にも伝説の地と伝わっていた「壁谷(現在の中国陝西省西安市)」があった。


さらに時代を遡る4-5世紀ごろ、中国の南北朝時代には伝説の地「壁谷(現在の山西省交城県石壁山)があった。壁谷玄中寺の曇鸞(どんらん)は中国浄土教の祖とされ現在も崇敬される。数百年の時を超えて日本からやってきた法然や円仁などの有名な高僧がこの五台山を目指して修行し、日本に戻って浄土宗や天台宗などを広めた。五台山は、四大詩人のひとり「王維」によっても歌われた「終南山(ついなんざん/しゅうなんざん)」となり、後に文殊菩薩の聖地ともなっている。


もっと時代を遡ろう。紀元前2000年ごろの中国には、「壁谷(現在の中国山西省臨汾市)」が存在した。壁谷の地があったとされる臨汾(りんぷん)は中国最古ともされる「華夏(かか)文明」の発祥の地である。同時に理想的な統治を行ったとされる中国伝説の初代皇帝「堯(ぎょう)」の都だったと『帝王世紀』や『五帝本記』に書かれる。実は中国では他にも山西省、福建省、台湾南部なとに、秦漢時代以前から最近の清の時代の至るまで、多数の「壁谷」の地名が確認できる。いずれも古地であり、多くでその地名は失われてしまった。このうち幾つかは古記録の調査で再発見されており、一部は現在も景勝地として観光名所となっている。


「壁谷」は中国の古代の名字としても確認できる。台湾をはじめとした中国南部では、古代中国皇帝の血を引くともされる黄姓の一族において「壁谷」の堂號(どうごう:古代の氏の名前)が現在も最多であるとされている。これについては別稿で触れたい。本稿では、まず手始めに、古代中国に存在したいくつかの「壁谷」の古地名に注目してみたい。


激動の半島情勢

紀元5世紀ごろの「倭の五王」の時代のことは、中国・朝鮮に残された古い資料以外ではほとんどわからない。しかし日本と高句麗とのあいだには相当の深い関係が続き、文化の流入も多かったことは間違いない。教科書にも載り、西暦418年に建てられたと記録される高句麗の「好太王碑(広開土王碑)」には、倭国軍が高句麗まで進軍した記録が残される。日本では京都周辺と関東を中心に「高麗(こうらい/こま)」に由来する地名が現在も多数残っている。

※高句麗と高麗は朝鮮半島にあった国家で、実際には別な国だ。しかし日本では混同して使われている。細かい事情についてはここでは触れない。


『日本書紀』では幾度かの戦いを経て朝鮮半島に日本の拠点(任那日本府)があったとしており、百済の皇太子が日本にいたことも記録されている。朝鮮の『三国史記』『三国遺事』、そして中国の『宋書』などにも同じような記録がある。またキトラ古墳や高松塚古墳に書かれた星図や、高松塚の極彩色の国宝壁画は高句麗に残された遺跡から発掘されたものとの類似性が高いことが指摘されている。そのような事情は確かにあったのだろう。

※『三国史記』は現存する最古の書と言われ、新羅・高句麗・百済の三国時代から、百済・高句麗を滅ぼした新羅の時代にかけて時代を高麗の皇帝が書かせた歴史書だ。『三国遺事』も同じ時代について高麗の高僧だった「一然」が書いた私的な歴史書である。


7世紀の中国北東部・朝鮮半島は、「新羅(しらぎ)」「百済(くだら)」「高句麗(こうくり)」が鼎立していたが、西暦660年に、大陸の「唐」が「新羅」と連合して、西暦660年に「百済(くだら)」を滅ぼし、668年には「高句麗」をも滅ぼしてしまった。


このような事態が発生すると、争いを避けて多くの百済人らが日本に流入している。『日本書紀』では、天智天皇4年(664年)に約1100名の百済人が近江(現在の滋賀県)に土地を与えられている。天智5年にも、約2000名の百済人が東国(現在の関東)に土地を与えられている。さらに、668年に高句麗が滅亡すると、高句麗からの移住も急増、次に唐と新羅の争いが激化すると、争いを避けた新羅人までもが日本に多量に移住してきた。こうして多くの渡来人からもたらされた高度な知識や技術は、時の皇族や貴族の教育から土地の開墾、土木建築、軍備増強などあらゆる面で重宝された。

※このころ朝鮮半島から日本に渡ってきた人々は、もともと朝鮮半島にいたわけではなく、多くが古来中国大陸の戦乱をさけて、朝鮮半島に逃れていた人々ともされている。これが当時朝鮮半島にいた人々の知識や技術が高かった理由の一つでもあろう。


その後の日本では「新羅」からの侵攻が脅威となった。天智天皇(てんぢてんのう)は、667年に一時都を琵琶湖畔の大津(「近江大津宮 」)に移し、筑紫(現在の福岡県)に巨大な防御施設である「水城(みずき)」を造って海防に備えた。万葉集で有名な「防人(さきもり)」を整備したのもこのころだ。その後新羅はさらに勢力を増大して、大国だった唐すらも脅かすようになった。これに備えるため、唐は一転して、渤海、日本と三国同盟のような形で手を組み、新羅包囲網を形成することになった。


天平宝字3年(758年)には、日本側で軍船394隻、兵士4万700人を動員した大掛かりな新羅遠征計画を立てた。しかし時の最高権力者「藤原仲麻呂」(「恵美押勝」)の失脚でこの計画はあっけなく頓挫、朝廷内の反対も多かったのだろう。これ以降、日本から海外に派兵することはなくなった。

※「恵美押勝の乱」では「坂上苅田麻呂」が活躍、緒戦で有利にたって鎮圧に成功した。こうして坂上氏は、当時最も力をつけた武家となった。その子が「坂上田村麻呂」である。


百済の王族たちは日本に移り住みながら、繰り返し百済の復活を試みた。しかし後継となる自らの国を再び建てることはできなかった。一方で、高句麗の遺民で、日本に移住せず当地に残った一派は新たに「渤海」を建国することに成功していた。その後、渤海は『新唐書』に「海東の盛国」と記録が残されるほど、隆盛を極めた。その地の中心地である東京龍原府に、壁谷県があった。

※渤海があったのは朝鮮半島の上側で現在の遼東半島(りゃおとんはんとう)からロシアの南部まで占める広大な地域だ。そこは日本が関与して、第二次大戦前に満州国が設立されると、数十万の日本人が移住した地域でもある。


こうして日本に流入してきた渡来人たちは畿内に溢れ、関東を中心とした東国の開拓のため大量に移住させられている。『日本書紀』『続日本紀』には、その後も百済人、高句麗人、新羅人の移住があったと具体的な記録が残る。天武13年(684年)、持統元年と二年(687-668年)には武蔵・常陸・甲斐・下野(現在の東京・茨木・埼玉・山梨・栃木県)とあり、このとき約2000名が移住している。その後も駿河・上総・下総(千葉県)も加わっている。また元正天王の霊亀二年(716年)には武蔵(現在の東京都・埼玉県)に1799人を移したと記録され、その地を「高麗(こま)郡」とした記録がある。天平宝字2年(758年)と翌々年には、武蔵野(現在の東京、埼玉付近)に新羅人約200名を移し「新羅郡」を作っている。彼等の多くは未開の地の開拓を任され、生涯課役を免除されている。

※『新撰姓氏録』では、高麗郡は、巨麻(こま)郡に、新羅郡は新座(にいくら)郡と記録している。(現在の東京都狛江市、埼玉県新座市)天平勝宝2年(757年)に出された称徳天皇の詔で、多数の渡来人に日本名(日本人らしい名字)を下賜し、関東に移住させている。後の桓武天皇の時代にも同様のことが実施された。


正史に具体的に人数が記録されただけでも、どんなに少なく見積もって一万人を超える移民が日本に定住したことになる。当時の日本の人口は450万人ほどだったとされる。高度な知識を持った人々の大量の移民は、古代日本にとって相当のインパクトがあったはずだ。とくに大部分が未開の地だった関東の人口は少なく、東国の事実上の覇権を握ったとしてもおかしくなかっただろう。


東京龍原府の壁谷県

このような激動の時期に「渤海使」は、記録に残るだけでも35回も来日し、日本から15回の「遣渤海使」が派遣されている。(13回とする記録もある。)この回数は日本の歴史上あまりに有名な「遣隋使」「遣唐使」の回数を大きく凌いでいる。遣隋使はわずか4回、遣唐使も16回とされているからだ。菅原道真の建議によって遣唐使が廃止された(894年)のも、渤海使によって大陸との交流が維持できていたからである。その交流はに渤海が滅亡(926年)するまで約200年間継続した。日本にとって最も深い関係があったのは、実は唐ではなく、渤海だったと推測できる。貴族たちは、渤海から入ってくる珍しい毛皮に喜び、また日本からは絹織物や東北からの金などが輸出された。貿易だけでなく人の移住や文化交流も多かったとされる。渤海と日本の交流は、歴史上不当に軽視されてきたと言っても過言ではなかろう。


日本と渤海との文化興隆が強かった時期、「東京龍原府」は渤海の五京と呼ばれる政治経済の中心地のひとつだった。日本と交流があった当時は渤海の都は東京龍源府にあって府治(都のある都市)と呼ばれた。「東京(とうけい)」とは東の都の意味だ。そして「龍原」は風水のエネルギー源流を意味するのだろう。古来から中国で帝王の学問とまで言われた風水では「気」つまりエネルギーの流れを「龍」と呼ぶからだ。それはあるとき山脈に例えられ、あるとき大河に例えられる。そんな「東京龍原府(とうけいりゅうげんふ)」の中心部にあったのが「壁谷県」(現在の琿春市)だった。まさにそこは大河を下って日本に向かう交通の要所だった。


「壁谷県」は各種の資料では「へきこく-けん」とカナが降られている。もちろんこれは日本語の漢音での発音だ。当時このような呼び方をしていたわけではない。当時のこの地方での「壁谷」の発音は大まかに推測できる。当時の朝鮮半島では中央アジア一帯で使われていた扶余語、そしてその方言ともされる高句麗語が使われていた。資料によれば当時はどちらでも通じたという。現在の日本語のカタカナで当時の発音を表記してみよう。扶余語、高句麗語のどちらの場合も「壁」については現在の中国語と同様の発音で「ビィ―」であったが、「谷」については、扶余語で「ヤク」高麗語で「タン」と発音したとという。つまり「壁谷」は当時の朝鮮半島では「ビィーヨク」あるいは「ビィータン」と発音されていたのだ。それぞれが、現在の日本語の「カベヤ」「カベタニ」の発音につながったと筆者は推測している。


『続日本紀』によれば、渤海使は海路に出て「出羽の秋田の柵」(行政・防衛の拠点)に着き東山道(後の中山道、奥州街道)を通って京に向かったとされている。実際に出羽の秋田の柵に渤海使が着いたことを記す日本の現地の古資料も、続日本紀以外にも複数存在している。しかし、実際には秋田につく前に海流の流れによって、出雲(島根県)や能登半島(石川県)に到着してしまうことがたびたびあった。この海流を利用した海路は弥生時代にはすでにあったともされる。この海路で日本に初めて鉄器が伝えられた。おそらくこれが日本における古代国家の成立に大きな影響を与えただろうことは論を待たない。

※日本海には間宮海峡付近からユーラシア大陸に沿って日本海を南下する寒流(リマン海流)と日本海を北上する暖流(対馬海流)があり、これらは世界有数の海流とも言われる。これを利用し、日本へ向かうときは豆満江を出て一旦は南下して時計と反対周りに進んだ。一方で渤海に戻るときは一旦は北上して時計周りの海路をとった。しかし海流の気まぐれにより、出雲や能登(越)から秋田あたりまで、日本海側のどこに到着するかわからなかった。記録に残る到着地は、越の国(福井・石川など)では福浦、敦賀、三国湊、加賀郡佐利翼の津、能登珠洲郡、出羽(秋田など)では志里波村、能城湊、そして丹後(京都)では竹野郡大津浜などである。


この豆満江は交通の要衝とされ古代だけでなく、現在に至っても大変重要視される地域だ。そのため、国境や出海権を巡って以来数千年にわたって争いが続いており、現在は北朝鮮、ロシア、北朝鮮の3国がこの大河、豆満江を境に国境を接しているたいへん珍しい地域でもある。


『新唐書』巻219「渤海伝」では、東京龍原府を「日本道にあり」としている。つまり日本に向かうには、東京龍原府を通ったことになる。実際に地図を見るならば、渤海使や遣渤海使が、この東京龍源府の壁谷県を通ったことを否定することは極めて難しい。壁谷県のすぐ脇には白山(太伯山、白頭山ともいわれる。)を源流とする大河「豆満江(とまんこう:中国名は図們江)」が流れ、ゆったりと流れるその広大な大河を下るだけで、そのまま日本海に出ることができるからだ。

※「太伯」は「太祖」ともよばれ、中国古代(紀元前)の周王朝の伝説の皇帝、古公亶父(たんぽ)の長男であり、中国南部の国「呉国」の王の祖となった人物である。中国の史書である『魏略』や『梁書』「東夷伝」に、倭人(日本人)はまさにその「呉の太伯の末」と書かれている。日本人の祖先の多くは呉国に由来とする伝説があり、当時の日本人の多くがそう信じていたと思わる記録がいくつかある。現在の日本にも、この太伯を祀る神社が各地に存在する。


「東京龍原府(とうけいりゅうげんふ)」は、西暦785年から794年まで渤海の都だ。壁谷県はその中心地でもあり、その最後の年794年は、桓武天皇による平安遷都の年(794年)と一致する。「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」が蝦夷征伐に向かった 792年-802年ごろは、壁谷県が最も繁栄していたころだろう。このころが日本と渤海の交流が最も盛んだった時期にほぼぴったりと重なり、桓武天皇も渤海使と関わりをもっただろう。


実は田村麻呂も渡来人である東漢氏の一族であった。田村麻呂と渤海の関係は他にも確認できる。田村麻呂は弘仁2年(811年)、日本にやってきた渤海使たちを、平安京の「朝集院」で饗応した記録がある。朝衆院とは、天皇のおわす大極殿(だいごくでん)の前に並び、朝廷の臣下や官人が出仕する建物である。(現在でいえば迎賓館にあたる)渤海使たちの朝廷での饗応を、天皇に代わって田村麻呂が担当したことは、渤海との外交の責任者的な地位にあったともいえよう。田村麻呂も渤海の都にあった「壁谷県」の名前を知っていた可能性は当然ながら高い。

※『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には田村麻呂、もしくはその使いが渤海にも行ったことを示唆する記録がある。この書は江戸時代に三春藩の秋田孝季の命を受けて古資料を整理し作成されたといわれる。古田武彦(その理論は古田史学といわれる。)がその信憑性の高さを主張し続けていたが、現在は偽書とする説が主流となっている。しかし、その記述に古代の隠された事実を示唆する情報も散見され、全幅の信頼とは別に興味深く、筆者は大変興味を持っている。なお、この三春藩士には、複数の壁谷がいたことが資料から確認されており合わせて興味深い。


壁谷県は何時からあったか

実は渤海の前政権である高句麗時代の資料は、ほぼ現存しない。しかし壁谷県は、すでに高句麗時代には重要な都市として存在していた可能性が高い。これは、渤海が異民族に滅ぼされた後に、壁谷県などが生き残った高麗族の拠点とされ、治安上の理由から廃止されようとしたことから類推できる。(廃止の試みは失敗している)


清朝で乾隆帝に献上された歴史書『欽定滿洲源流考』によれば、『遼史』『新唐書』の記述(おそらく地理志)を引いて、都があった東京龍源府では、壁谷を含む六県の周囲に二十里(当時の里の単位は不明)に及ぶ城壁(「原文:城周二十里唐薛」)が築かれており、そこでは高麗民族(新羅、高句麗、のちの渤海)の抗戦が続いていたとされている。その渤海を滅ぼし、その地に建国された「遼」は、こうした事情から壁谷県などを治安上廃止することを決定したと記録されている。壁谷県は、交通の要衝にあり高句麗民族の守りの要に位置していたこともあり、壁谷県が存続することは、都合が悪かったのだろう。


清朝『欽定滿洲源流考』から『新唐書』を引いた部分の解説を抜粋

新唐書濊故地為東京曰龍原府亦曰栅城府領慶鹽穆賀四州
新唐書
「龍原東南瀕海日本道也」

通考唐貞元時渤海王大欽茂東南徙東京

遼史東京開州本濊地渤海為東京龍原府有宫殿都督慶鹽穆賀四州故縣六曰龍原永安烏山「壁谷」熊山白楊疊石為城周二十里唐薛仁貴征髙麗與其大將温沙門戰熊山擒善射者於石城即此「太祖」平渤海徙其民城遂廢聖宗伐新羅(按聖宗曽伐髙麗此言新羅誤)還周覽城基復加完葺領縣一開逺縣本柵城地髙麗為龍原縣渤海因之(按一統志開州城在朝鮮咸興府西北熊山城在開州西葢自鳯凰城邊外東南至朝鮮之江原道皆濊地又鳯凰城北六十九里有沃赫和屯周二里餘或即渤海石城遺址歟)

※中国語のため、正確には解読できていない。カッコは筆者がつけた。「濊」と「貊」は現在の朝鮮北部からロシアの地を本貫とした古代民族で、貊を高句麗の別名とする記録もある。前漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)までに漢に従ったとされ、後漢の光武帝の時代(西暦32年ごろ)に「夫余」と「高句麗」の2国に分けられたとされる。一方「太祖」とは前述の中国南部の呉の皇帝「太伯」である。中国では古代から、日本人は太伯の末裔だとされ、それは『梁書』東夷伝(629年)など複数の記録に残る。


1344年の『遼史』地理誌「東京道開州條」にも「開州、説度。もと濊貊の地なり。高麗、慶州と為し、渤海、東京龍原府と為す。宮殿有り、慶・塩・穆・賀四州の事を都督す。故県六、龍原・永安・烏山・壁谷・熊山・白楊と曰う、皆排す。」とある。「遼」は「渤海」を滅ぼしたあと現地(東京龍原府)の有力者を強制的に移住させている。『遼史』地理誌では住民の大移動が二度にわたって記録されているが、現地の渤海遺民の反乱に苦しみ続け最終的には、東京龍原府の地を放棄したようだ。うまり東京龍原府は、高句麗民族の中核的な拠点だったことになる。


『新唐書』巻219「渤海伝」にも「濊貊(わいはく)の故地を東京と為し龍原府と曰い、亦た柵城府と曰う。慶・塩・穆・賀四州を領す。(中略)龍原は東海に瀕し、日本道なり。」とあり前出の河上は「王都は残りの四京のうち東京龍原府・南京南海府・西京鴨緑府の三京がそれぞれ日本・新羅・唐との交通の拠点として重視されたことを窺わせる。」としている。つまり、東京龍原府は、日本との交流(日本道)の中心にある重要な拠点であった。壁谷県をはじめとした東京龍原府を廃止することは、日本との交流を絶たれることも意味しただろう。


河上洋がこの点について『渤海の交通路と五京』で踏み込んでいる。渤海では中心となる五京に、上京、中京、東京、南京、西京の名が冠されていたとする。『新唐書』地理志には買耽の『道里記』を引いて「貞元の時、東南して東京に従る」とあることから、日本の奈良時代から平安時代の初め、(壁谷県のあった)東京龍原府に渤海の都で、後に上京龍泉府に移動したとされる。しかし「王都以外に四か所が副都ともいえる京名を関した府が遅くとも9世紀前半以降一貫して存在したことは、以後この体制が遼・金に引き継がれたこともあわせ渤海に特徴的」としている。(逆に、そのような事情にもかかわらず、遼によって廃止されたのは、壁谷県などを含んだ東京龍原府だけだったことになる。日本にもつながる東京龍原府が大きなポイントだったといえよう。)


日本でも動きはあった。平安時代に入り、桓武天皇以降は中国北部の王朝となった唐との間で「遣唐使」を中心に切り替え、「渤海使」はなくなり、渤海との交流は、激減した。それどころか渤海から来た使節「渤海使」も、何度か追い返された記録までが残っている。この極端な扱いの変化は、当時の国内外の情勢の変化と大きくかかわったのだろう。渤海との交流が途絶えた桓武天皇の時期、中国大陸の地図から壁谷県も消え、坂上田村麻呂の後裔の一族も、朝廷内から消えていった。これらが壁谷とどう関っているのか、別稿で触れてみたい。


唐の時代に伝説となっていた「壁谷」

一方で、中国の唐の時代の歴史書『長安志』には、唐の都だった長安の南側にある「福水(ひゃくすい)」の説明がある。(現在の西安市長安区)原文から引用すると、


『長安史』から引用

福水、卽交水也。水經注日、上承焚川・御宿諸水、 出縣南山「石壁谷」、南三十皇、興直谷水合、亦日子午谷水。

※「」は筆者が加えた。日本語訳はなんとか近日中に試みたい。


上記「南山県」は当時実在していた地名だ。そこに「石壁谷」という地域名があったようだ。「福水」の「福」は正しくは「禾」(のぎ)篇に「副」(そ)えると書く。神事・神仙にかかわる川と思われる。また石壁谷の東隣の村は、神禾郷とされている。「禾(のぎ)」は稲穂あるいは種籾の先端のトゲをさす言葉であり、「神禾」は神に供える稲の種籾を指す。また「稫」と「壁」は、呉音で伴に「ひゃく」であり発音は同じだ。中国も縦に書く文字であり「稫水」を「壁水」とし、縦書きすれば「㵨(みそぎ)」と読め、これも神事に繋がる。

※「禾」は日本では「牙(かび)」と書かれ、『日本書紀』や『古事記』では、冒頭に万物の源でのちに「神」になったものとして登場する。唐代になって「牙」は「穎」とも書かれるようになった。日本での「穎谷(かびや)」と「壁谷」とのかかわりについて、他稿で触れる。


この地は中国大陸おそらく最大と思われるカルデラ地形の中にあり、唐代以降は五台山(終南山)ともよばれ、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の聖地としてつとに有名な場所に属する。何度か国家存続をかけた激戦地にもなっていた。壁谷の地周辺は「雁门(がんもん:端门)」と言われ、都の長安と南の漢中(三国志にも登場する戦略・交通上の要衝、後の漢の拠点でもあった)を最短で結ぶ地でもあった。


その場所の現在の地図を眺めてみると、千年前に「石壁谷」とされていた場所は、「雷」村と表記されている。そこには山岳地帯の中の広大な平地(谷地、窪地)が存在しており、現在は広大な稲作地帯が広がっている。おそらく水資源が豊富な地なのであろう。一方で東隣にある村は、唐代の「神禾郷」から現在もその名が変わっていない。当時の「石壁谷」とされる地名が「雷村」となっていることから「壁谷」は本来は雷を意味する「霹谷」あるいは「礕谷」だったのかもしれない。古来から雷は天を轟かし雨が降って稲光が田に落ちる。稲を実らせるために必要な神の恵みは雷がもたらし、黄金色の稲穂が育つさまは、古代の人々には天の神の恵みに思えたことも納得がいく。日本語では「雷」は「稲妻」「神鳴り」ともされる。

※「神」の字の右側、つくりにある「申」は、田に雷が落ちた姿とされる。


なお、「石壁谷」の東隣りにある「神禾村」では「神禾塬大墓」が発掘されている。それは秦の始皇帝「嬴政(えいせい)」の祖母、夏姫(かき:紀元前300年-240年ごろ)の墓だ。彼女は夏太后とも呼ばれ『史記』列伝の「 呂不韋」では、自らが埋葬されるこの地(神禾村)を指定して、その地の北側が「百年の後に万戸の城邑として栄える」と予言したと記録される。果たして北側に隣接する長安(現在の西安市)は、後の中国王朝の漢、隋、唐などの王都として繁栄を誇り、のちの日本の平安京のモデルにもなった。


別稿で触れるが、古代風水では天子(皇帝)の跡継ぎ(いわゆる東宮)の隣にいてそれを守り教育するのが「壁宿」である。それに隣接するのは「室宿」で、皇妃を守護するとされていた。この地の「石壁谷」と「神禾(皇太后)」の関係も、風水の「壁宿」と「室宿」の関係に近いとも思える。夏姫の予言は、石壁谷の地で皇嗣として育てられた皇子が、次代の皇帝となることも、意味してたのかもしれない。


さらに時代を遡った 北魏の「壁谷」

さらに遡ってみる。隋や唐の前の時代は中国は「北魏」と「南宋」が並び立つ南北朝時代だった。

※「北魏」386年 - 534年:「魏」、後魏ともいう。三国時代の「魏」とは別。
※「南斎」479年 - 502年:「斎」、蕭斉(しょうせい)ともいう。

この時代に伝説の地「壁谷」があった。「汾州」は北魏時代(386年 - 534年)以前に存在した州(現在の山西省あたり)であり、したがって「壁谷」の地名が存在したのは、日本では古墳時代から飛鳥時代にかけてと思われる。曇鸞はその後伝説となり後世に書かれた多数の書に多く登場している。


『淨土往生傳』による

汾州の壁谷の玄中、鸞正持誦する。

『佛祖統紀』(巻27)による。

道綽は壁谷の玄中寺の曇鸞の舊(旧)居なり、専ら念佛を志す、日に七萬遍なり。

※『淨土往生傳』は北宋(960年 - 1127年)時代の書。『佛祖統紀』は(1269年)に南宋の僧「志磐」がまとめた天台宗の解説書。


ここで登場する「鸞正」や「曇鸞」とは、壁谷玄中寺で修業した「曇鸞(どんらん)太師」のことである。道教や神仙思想を学んだ後、天竺(インド)の高僧から「浄土教」の教えを受け中国に浄土教を広めた「第一祖」とされる。時の北朝の魏帝からは「神鸞」と、南朝の梁帝からは「鸞菩薩」と呼ばれたとされる。当時は中国が南北朝と、真っ二つに分かれて200年近く争っていた時代、曇鸞大師は、南北どちらの中国皇帝からも第一人者として崇められた存在だった。


また「道綽(どうしゃく)」は同じく浄土教の「第二祖」とされる。曇鸞と直接の面識はない。しかしふとしたきっかけで曇鸞の業績を知ることになり、曇鸞の旧居に籠って修行したとされている。こうして集まった弟子たちが中国各地に次々と布教した。後の唐の時代になると、「長安は浄土教の念仏であふれた」と記録されるほど浄土教は広まっていた。

※実は南山は、以前は中国南部、江西省の廬山(ろざん)を指していた。このため曇鸞の活躍以降新たに聖地となったこの地は「終南山(ついなんざん)」とも呼ばれる。南山がこの地に移ったことは、中国の神仙思想の中心が、古代の中国南部から、後年政治の中心となった北部に移ったことも意味しているが、それだけ曇鸞、道綽らを始めとした壁谷玄中寺の曹僧の存在と活躍が大きかったとも思われる。


日本では平安時代から鎌倉時代初期にかけて、浄土宗の開祖の「法然(ほうねん)」はこの壁谷玄中寺で修業しており、壁谷玄中寺の「曇鸞」を浄土宗の第一開祖としている。日本の浄土宗、浄土真宗ではともに「曇鸞大師」あるいは「曇鸞和尚」という尊称で呼ばれる。(中国簡体字で通常「壁谷昙鸾大師」と書かれる。)

※同じく鎌倉初期、常陸の浄土宗の僧「住信」が正嘉元年 (1257 年)に記したとされる『私聚百因縁集』では、巻五第四話「曇鸞法師事」に詳しい伝記が残されている。これは南宋期成立とされる『樂邦分類』の「後魏壁谷神鸞法師伝」を引いたとしている。


真言宗浄土真宗の祖とされる「親鸞(しんらん)」が著したとされる要義集『正信念仏偈』そこには釈迦から始まって、インド、中国、日本の歴代の高僧の思想をわずか120行ほどにまとめてあるが、その中には壁谷玄中寺で修業した、曇鸞、道釋に関して直接触れる6行も含まれている。親鸞の名前も、曇鸞から一字とったとされる。


『正信念仏偈』において、曇鸞と道綽が登場する行の引用(読み下しは『正信偈講義』)

本師曇鸞は梁の天子、常に鸞の処に向いて、菩薩と礼したまえり、三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して、楽邦に帰したまいき。
道綽は聖道の証し難きことを決し、唯浄土の通入す可きことを明す。

以下原文

本師曇鸞梁天子
常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教

焚焼仙経帰楽邦

道綽決聖道難証

唯明浄土可通入


日本で何度か再販されているその高名な解説書『正信偈講義』において、第十二章「遥山寺の和尚」十三章「石壁谷の禅師」に渡り60ページ弱の解説がある。今後機会があれば解読して説明を追加したい。


『隋書』には、隋の第二代皇帝「煬帝(ようだい)」の圧政で国内で反乱が頻発し、西暦610年に隋の皇帝の次男「楊暕」(585年 - 618年)を守護する兵と戦った。三千の反乱軍が雁门の「壁谷」に籠り抵抗したが、「伯泉」という将軍がこれを打ち破ったことが記されている。このあと間もなく隋は滅び、唐が成立する。隋と繰り返し戦った高句麗も同時期に滅んしまった。


『隋書』帝紀巻三「煬帝上」から引用。

(西暦)六一〇年夏历正月初一日,拂晓前有壮士数十人,白衣白冠,焚香持花,自称弥勒佛,进入建国门(端门)。守门官、兵都叩头礼拜。壮士夺取武器,将进入宫内,与齐王杨暕的卫兵互斗,壮士斗败被杀死。佛教说释迦佛衰落,弥勒佛代兴,因之,凡假借弥勒佛出世作号召,都含有反抗旧统治的意义。这数十个壮士的行动,显然是隋末农民大起义的第一个信号。隋炀帝杀死这数十人,又在洛阳大搜查,连坐千余家,自以为平静无事了。
夏历正月十五日,就在端门外大街上举行规模盛大的百戏,供西域人赏玩。
六月,雁门豪帅尉文通聚众三千,据莫「壁谷」、遣鹰扬杨伯泉击破之。

※括弧、鍵括弧は筆者が挿入した。詳しい日本語訳は試み中。

※道教では「地理風水(ふうすい)」では谷間の奥の岩に囲まれた神聖な土地の一般名として「壁谷」と呼んでいた可能性もあるが、これについては別稿で説明する。


雁門は中国山西省の北部の雁門山(別名勾注山)中にある関所である。そこは万里の長城の一部をなし、古来中国において北方の異民族侵入に対する防衛の一大拠点だった。過去に数え知れないほどの戦いが繰り広げられてきた場所だ。周辺は中国の全国重点文物保護単位(日本でいうなら国指定重要文化財)に指定されている。


中国では隋から唐にかけて、高句麗から渤海にかけての時代は、日本では飛鳥時代から平安時代の初期の時代である。『日本書紀』『続日本紀』などの記述からこの時期に数万人規模で渡来人が日本に移住してきており、また遣隋使、遣唐使、そして渤海使など来日で中国、特に唐からの影響が強い時代だった。この時代に唐で伝説となっていた「壁谷」が、日本にどのように伝わって、どのような影響を与えたかは極めて興味深い。


紀元前2000年ごろの壁谷

「華夏(かか)文明」の発祥の地として、『帝王世紀』や『五帝本記』に書かれた理想的な統治を行った伝説の中国初代皇帝「堯(ぎょう)」の都とされる臨汾(りんぷん)にも「壁谷(現在の中国山西省臨汾市)」が存在した。しかし筆者の現在までの調査では、それ以上の詳しいことが分かっていない。もともと資料が少ない上に、多くが古代中国語で書かれた文献であり、欠けた文字や現在存在しない文字も含まれているため、解読が極めて難しい。筆者の知識が追い付き、機会を得ることができれば、この伝説の壁谷の地についても詳しく調べてみたい。


その他の壁谷の地

『雲南通志卷三』によれば、中国雲南省曲靖市には「壁谷江」があった。現在は著名な観光地ともなっており、ベトナム、ラオスや、ミャンマーと接し、少数民族が現在も多数存在している。紀元前の秦漢時代には銅の産地として栄えたようだが、詳細はわからない。古来の地名は、雲南省会沢懸であり、金沙江、牛欄江、小江、以礼河などの諸川が合流することにより命名されたようだ。


欽定四庫全書『雲南通史』巻三。東川府會澤縣 。

「翠屏山」 在城東南一里 為治主山層巒聳翠環峙 如屏林木蓊蔚 冬春積雪上有九龍靈泉山嶂如壁 又名靈壁山 (中略)
「壁谷江」 在城 西南一百三十里 源出尋甸州 匯果馬車湖 倘甸倉溪諸水合流為 江陡峻深狹 土人結藤為橋以通往來
「渭齒化溪」 在城西南百里源出雲弄山下流入金沙江

「温泉」 在城西南三十五里水自石竇 中出熱如沸湯清澈如鑒

※鍵カッコ、およびスペース、改行は筆者が入れた。


『随書』の第三巻では、第三代皇帝煬帝の時代(煬帝六年:610年6月)に雲南省「壁谷」(壁谷壩)での戦いが記録されている。この地が壁谷江と同じであったかどうかわからない。


『隋書』巻三 第三代煬帝 

六年(中略)六月辛卯,室韦、赤土并遣使贡方物。壬辰,雁门贼帅尉文通聚众三千,保于莫壁谷。遣鹰扬杨伯泉击破之。甲寅,制江都太守秩同京尹。


以下は拙訳になる。誤りあればご指摘願いたい。

煬帝六年(中略)六月辛卯の日、室韋(モンゴル系の民族)が朝貢してきた。壬辰の日、尉文通のもと三千人の賊兵が雁门の壁谷に集まった。この反乱を鎮圧するため派遣された杨伯泉泉が鷹揚に(泰然と)これを倒した。甲寅の日、江都太守を定め京尹と同格とした。


唐代に「壁谷水」(現在の山西省長治市上黨區蘇店鎮)の地名もあった。かつてインド中国から日本につながる海のシルクロードの起点とされた晋江(現在の福建省泉州市晋江)には、明(1368 - 1644年)の時代に中国の沿岸に押し寄せる倭寇(わこう)を撃退し、現在も英雄と讃えられる将軍の名が残っている。彼も黄姓「檗谷(壁谷)」の末裔の一人だった。その拠点とされた地域には「東石鎮壁谷村」があった。そこは後世の清(しん:1616-1912年)の時代になると、海外からの侵略に備える鎮市(軍事と商業の拠点)ともなっている。清の二代皇帝康熙帝の時代(1674年)には、三藩の乱の制圧に向かった将軍宜里布による「壁谷城」(湖北省)での戦いが記録されている。なお台湾南部の高雄市甲仙區の要害は清仏戦争(1884年)や日清戦争(1894-1895年)で激戦地となった。そこには「大壁谷」という自然公園があって、大瀑布や天然の奇岩巨石の景観が素晴らしく、人気の観光地ともなっている。


中国広東省潮州市饒平県にも、景勝地として有名な観光名所「石壁山」がある。百度百科などで検索した情報によればそこには多くの名僧を輩出した古寺「雷音寺(石壁庵)」があり、洞窟の奥には「雷神殿」がある。ここもやはり「雷」と深い関係がありそうだ。多くの建造物は明代のものといわれるが、泉の湧いた地にある石には、1542年「谏玉泉」と刻まれ、清朝の全盛期の皇帝とされる乾隆帝(1711-1799)もこの地に来て詩に詠んだとされる。近代に建てられた華麗な門には「粤東一壁」とある。(ここまでの説明は筆者による中国語の拙訳による。正確さは保証の限りではない。)華麗な門にある「粤東一壁」で、「粤東」とは「広東」のことだが、中国南部をさすこともあるようだ。古代中国では、中国南部は夷狄 (いてき)ともみなされていた。「一壁」とは夷狄に対する防御壁を意味しているのではないだろうか。



検討課題

1)「石」「泉」「水」などでいくつもの類似点がある「壁谷」の地名だが、一般に主要な拠点の「北」側に位置する。これは別原稿で記するように風水での北を示す「玄武」を思想に基づくと推測され、日本で上皇(院)の武士団を「北面の武士」というの同様の事情と考えれれる。また風水の「壁宿」も東北東に位する。


一方で、中国では「壁谷」は、帝都に隣接した「南」側の突端の拠点に位置することが多い。これはおそらくさらに南にある重要拠点を防御するという意味ではないだろうかと思われる。(結果的に北方にて重要拠点を防御することになる)これは、清の時代のアヘン戦争のころ、欧米の攻撃を防御する拠点に位置した石鎮壁谷村(現在の中国福建省泉州市東石鎮)にも当てはまる。


2)日本では東国に向かう三つの関所(不破の関、鈴鹿の関、愛発の関)から東は「東国」もしくは「関東」と呼ばれたとする説明は多い。当時の関東は日本では「東(あづま)」「東国(あづまのくに)」と呼ばれていた。


一方で、中国南部の広東(かんとん)省は、広東料理(かんとんりょうり)や広東語(かんとん語)という言葉で日本でも有名だ。この地域は、三国時代にすでに広州と呼ばれ、海に近い東側は広東の名でよばれた、元の時代には広東の名が記録されている。(日本では鎌倉時代にあたる)私見だが、この「かんとん」の呉音は、日本にはいって「関東(かんとう)」の語源ともなった可能性もあるかもしれない。それは、同じく、中央から追放された(居住地を変えさせられた)土地だからだ。別稿で記すが、奈良、平安時代には数万人規模で現在の関東の地に渡来人が移住させられた記録が『日本書紀』などに残る。その後も多くがこの地に移住したと見なされる。


参考文献

  • 『古代日本と北の海みち』新野直吉著 高科書店
  • 『古代東北と渤海使』新野直吉著 歴史春秋出版 
  • 『渤海の交通路と五京』河上洋 京都大学「史林」72 1989年
  • 『渤海國地理考』和田淸 東洋学報 昭和29年3月
  • 『淨土往生傳』北宋(960年 - 1127年)
  • 『東北古代史の研究』(高橋富雄著 吉川弘文館)
  • 『沖虚子徳真経四解』
  • 『唐代兩京鄕里村考』愛宕 元 東洋史研究 1981年
  • 『唐長安郊匿的研究』中国語資料文献
  • 『欽定滿洲源流考』清朝 乾隆帝 欣上1777年 中国語資料文献
  • 『唐萬年・長安縣郷里考』中国語資料文献
  • 『佛祖統紀』天台宗の解説書。南宋 僧志磐、咸淳5年(1269年)全54巻。
  • 『古事記』『日本書紀』『続日本紀』
  • 『新撰姓氏録』
  • 『長安志』『後漢書』『隋書』『新唐書』『雲南通史』
  • 『三国史記』『三国遺事』
  • 『易経』岩波文庫
  • 『老子』岩波文庫 蜂谷邦夫 2008年
  • 『老子』講談社学術文庫
  • 『史記列伝』司馬遷 岩波文庫
  • 『説文解字』
  • 『正信偈講話』親鸞著 多田鼎 浩々堂出版部 明治40年 国会図書館図書館 
  • 『訂正康煕字典』渡部温 編 明20年4月 国立国会図書館
  • 『無量寿経優婆提舎願生偈註』浄土宗
  • 『風水の本』学研
  • 『百度百科』より「石壁山」「石壁庵」など

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。