はじめに。壁谷の起源を求めて。


幼少のおり、喧嘩になると友人に決まって突き付けられた言葉に、筆者はいつも閉口していた。「壁谷」の由来は「壁屋」であり「壁塗りの職業姓」だと言う。子供なら誰しも考え付くこの話に、当時は否定する術を持ち併せていなかった。ある日、近所の老人にその話をすると、大笑いされた。「馬鹿だなあ、壁屋なんて誰も言うわけないだろう。昔から左官屋(さかんや)って言う立派な言葉があるんだよ。」なんだか、ホッとした気持ちになった。


高度成長期に入り、北海道から内地(ないち:本州のこと)に転勤となった父が家を新築中だった。ほぼ完成した建築現場を訪れて、壁を塗っては乾かすといったことを1か月ほど繰り返していた職人さんたちは、確かに周囲から「左官屋」さんと呼ばれていた。一方で「左官」という名称は朝廷の建物における建築・土木・修理を担った官職名(主典/属:さかん)が由来らしいことも初めて知った。現在でも家を建てる前に神官が行う「地鎮祭」「建前(たてまえ)」が残る。家を建てるのは、神事だったのだ。


「桓武天皇の時代、坂上田村麻呂に従って蝦夷征伐に赴いたのが壁谷で、田村の荘(現在の福島県田村郡・田村市付近)に居着いた。」2017年の末、たまたま千葉の地で特攻隊の生き残りと言う老紳士から、このような話を聞く機会があった。思い起こせば50数年ほど前、明治中期生まれの祖父から同じ話を聞いた記憶が蘇ってきた。子供の頃泣き虫だった私は、士族の誇りを忘れるなと幾度となく父から言い聞かされ続けていたことも思い出した。どうやら壁谷には古い歴史があるようだ。このような話は日本各地の壁谷に伝承されているのだろうか・・・。このまま時が過ぎれば、この伝承は消えてなくなる。そうだいい機会だ、今まで見てきたこと、聞かされたこと、そして知りえたこと、それらを整理して検証し、できれば壁谷の嚆矢濫觴、すなわちその起源を後世に残してみたい。家に帰るとそう思い立ったのだ。


壁谷の起源はそれなりに気になり、長年に渡ってコツコツと情報を集め続けていた。趣味で調べて来た古代インドや中国の歴史資料、そして日本の古文書・論文などを別な切り口でもう一度見つめ直すと、はるか古代に遡る壁谷との繋がりがうっすらと見えて来た。同時に、圧倒的な知識不足に改めて気が付き、さらに深いテーマの存在も判明してきた。現在は大量の資料が無差別に溜まって混乱をきたし、その整理に立往生せざるをえない。ひたすら暗中模索、行き詰まったままで一歩も先に進めない。


2018年3月9日の今日、情報発信を開始することにした。次々と思いつくまま、見聞きしたこと集めた情報、調べたこと、考察したことなど、覚え書き状態でひたすら追記していくのみだ。文章や構成の拙さ故に説得力をもって論点を伝えきれないことは充分に自覚している。脇道に逸れ、書きすぎて留まることを知らず、書き足らないとろに気付きつつ、補完もままならない。書き終えた後に気が付いた矛盾点や、一貫性の欠如を再整理する必要性は痛感している。自らの怜悧さの欠如にひたすら恨めしい限りだが、何より自ら壁谷である筆者が客観的な考察・分析ができているのか、懐疑の念も捨てきれない。もしかしたら独断と偏見に満ちた我田引水の泥濘の中で、ただひたすら足掻いている道化師にすぎないかもしれない。


もとより筆者は、歴史・宗教・文化のあらゆる点で博学諸氏の足元にも及ばぬ門外漢である。古資料の読み込み不足や誤った解釈、事実と恣意的な推論を混同した論理から導かれた春秋の筆法も数多くあるだろう。一方では、実証主義にも行く手を阻まれている。さらには知見を得た重大明白なる事実も、個人情報のからみで提示できない苦々しい思いもある。問題は山積しているが、できれば各地の壁谷の諸兄、郷土史の研究家・その他の諸先輩方とコンタクトし、微かに残る消えかけた時代の糸をたぐり寄せてみたい。そうして、少なくとも10年以上はかけ気力体力が続く限り練り直して再編し、完成度を少しでも高めていきたい。


今はただ、恥を忍び可能な限りの稚説をひたすら著し、垂れ流し続けるのみである。拙稿につきご笑覧の上、遅々たる情報発信と数々の不備には何卒ご容赦を願いたい。発信する情報の過誤や欠如に対し、厳正なるご指摘・ご叱責を切に望みつつ、できることなら後世の才智ある人たちに取捨選択とさらなる修正・補完を願うものである。


今は亡き祖父や父からは、武士の誇りと壁谷の伝承を何度も繰り返し聞かされた。祖父は郷土史の編集にも携わり、壁谷の歴史も調べ、多数の資料を残しながら志半ばで世を去った。その歴史を伝え聞いた父は、筆者を室町時代にも遡る壁谷の故地や遺跡に何度も連れていき説明してくれた。残念だが祖父も父ももういない。蔵に保管されていた無数の古資料も、今は蔵ごとその形跡すらない。さらに、筆者が知るほとんど全ての壁谷の故地がこの数十年で失われ、そして破壊されてしまった。すでにもう二度と再び見ることはできない。目を瞑ればそれらのシーンは現在も鮮烈に蘇えってくる。なぜその時もっと詳しく聞かなかったのだろう,調べなかったのだろう。せめてどこかにでも書き残していたならば、写真でも残していたならば。今はひたすら後悔の念に駆られる。父の姿は祖父と重なり、たびたび夢に現れてはにこやかに笑えむ。壁谷の歴史や伝承を熱く語っていた二人は、きっと筆者の背中を強く、強く押し続けているに違いない。今はそう思っている。


標す2018年3月9日

壁谷の起源管理人

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。