25. 法隆寺を護り続けた 奈良の壁谷(執筆中)

奈良の壁谷には「(祖先は)大陸から来たんや」という伝承が伝わっていた。古代の中国・朝鮮半島の記録にも、多数の壁谷の痕跡が残されている。これらはいったい何を物語るのか。かつて奈良の壁谷の本家が代々住み続けていた場所は、法隆寺の南側正面にある南大門の門前だった。そこは2004年に発掘調査されると、千三百年以上前に焼け落ちた法隆寺創建時の遺物が埋められ、静かに眠り続けていた古代の谷であったことが判明している。


昭和9年、国による一大事業「法隆寺 昭和の大修理」が始まった。そこでは奈良の壁谷の本家が左官の頭領(棟梁)をつとめ、2つの分家がそれぞれ法隆寺の東院伽藍と西院伽藍に分かれ職人を引き連れて担当した。修理が一段落した昭和30年代初頭、国から次に彦根城(国宝 滋賀県彦根市)の修理を依頼された。しかし、そんな名誉ある仕事を壁谷は断わっていた。その理由はたった一つ。一時的に彦根に移住を余儀なくされ、「先祖代々に伝わる法隆寺を護るという使命」を果たせなくなるからだった。このとき仕事を受けていれば、もう少し壁谷の名を世に知らしめることができたのかもしれない。


国家威信をかけた国の文化財修理保存プロジェクトは、それからも数十年かけ全国各地で次々と続けられた。しかし壁谷が参画することは、もう二度となかった。2021年は聖徳太子御遠忌1400年の記念すべき年でもある。本稿では、奈良時代からの法隆寺の修理記録、聖徳太子や法隆寺に関わる書籍や論文を検討し、数々の情報とすり合わせて飛鳥時代に遡る壁谷と法隆寺の関係を考察していく。併せて飛鳥から奈良時代にかけて相次いだ皇族や豪族同士の争いに法隆寺がどう係わり、壁谷はどのような立ち位置に居たのか、そして『日本書紀』が記録する西暦670年の創建法隆寺炎上の真相に少しでも迫ってみたい。


※北魏(西暦386年- 535年)の時代、中国五代山の奥深く「壁谷」の地にあった玄忠寺は、日中ともに仏教発祥の聖地とされている。(『淨土往生傳』『佛祖統紀』『正信偈講義』など)

※「壁谷」は奈良・石川・富山の一部では「かべたに」と発音する。全国でも「かべたに」と発音する例は大変少ない。一方で「壁屋(かべや)」「壁矢(かべや)」と書く名字があるが、これは極めて希少で、しかも幕末・明治に開拓移民があった地域を除けば「壁谷(かべたに)」と発音する地域のみに、ほぼ限られて存在するという特徴がある。これは何を意味するのか。


概要(※執筆都合にて公開準備中)

・中世の法隆寺修理は 藤原、平、橘、秦氏による四棟梁の並立体制だった 

・奈良時代 藤原氏による興福寺の支配下となっていた法隆寺

・豊臣・徳川による慶長元禄の突貫修理で 大工が棟梁となる体制へと変化 


・源平合戦で破壊された寺院修復に関わった藤原(工藤/二階堂)氏と秦(壁谷?)氏

・頼朝が作らせた勝長寿院・永福(ようふく)寺 と 二階堂・壁谷

・鎌倉・室町幕府の要職にあった二階堂氏

・福島須賀川に退いて戦国大名となった二階堂氏と壁谷


・中国では浄土教の聖地だった壁谷の地

・渡来人の最大勢力を率いた秦河勝(はたのかわかつ)と聖徳太子

・法隆寺東院伽藍と上宮王家、山背大兄王の変

・朝鮮半島の動乱と、天智・天武の皇統争い

・天武天皇時代の法隆寺再建 秦石勝(はたのいわかつ)

・聖武天皇時代まで定額寺だった 放光寺・観音寺と壁谷

・聖徳太子伝説の形成と密教、禅宗

・法隆寺西院伽藍と上宮王寺、若草伽藍の発掘、壁画の発掘


検討事項

1)法隆寺の南(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南)には、聖徳太子の家系である「上宮(かみつみや/じょうくう)」と書き「上宮(かみや)」とする地名が残る。現在は「上宮遺跡(かみやいせき)公園」となっている。そこは『大安寺縁起』による聖徳太子の「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや」の伝承地でもある。


貝原益軒の『壬申紀行』元禄5年(1692年)5月10日から引用

法隆寺の東に斑鳩のさとあり。今は神屋と云う(現在の上宮)。斑鳩の宮のあと、道の南にあり。厩戸皇子の乗給ひし甲斐の黒駒を埋し墓あり。駒塚と云う。

※筆者が「」を付け()内の説明を加えた。なお駒塚とは聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」の墓とされる現在の駒塚古墳のこと。


聖徳太子の家系は、上宮王家と語り伝えられている。古代中国で「上宮(シャングゥ)」とは皇嗣(皇帝の後継者)をさし、漢音では「上宮(ジョウグゥ)」と発音する。同じく漢音で「ヴィーグゥ」と発音する「壁谷」と似ているように思えるのは気のせいだろうか。中国の古代の名字とされる堂號(どうごう)では、黄帝の一族とされる黄姓に「壁谷」と「上谷」はある。しかし「上宮」「神谷」「神屋」などはない。別稿で何度か触れている各地の「上宮(かみや)」、関東・東北にあった「神谷(かべや/かみや)」そして現在の「壁谷(かべや)」、これら古来の発音の類似性は興味深い。


中国語では「壁」とは天然の石壁のことを指す。もし家の壁を示すなら「墙」または「墙壁」という。古代に中央アジア・満州から朝鮮半島にかけて使われていた古代扶余語では「墙壁谷」は「クヮンヴィーヨク」と発音する。一方その方言とされ朝鮮半島の一部で使われていた古代高句麗語では壁谷は「クヮンヴィータン」と発音する。この2つが、それぞれ日本に入って「かべや」「かべたに」の発音につながったのではと推測する。朝鮮半島に近い能登半島では、現在も古老は谷を「たん」と発音するという。
西暦698年、滅んだ高句麗の遺民が渤海を建国した。渤海は奈良時代から平安時代の日本に35回も使いを送っていた(「渤海使」)。渤海の都があった東京龍原府の「壁谷県」を通って日本に来ており(日本道といわれた)、藤原仲麻呂や坂上田村麻呂も渤海使の饗応を担った記録がある。「壁谷」の地名(名字)と、その発音が朝鮮半島から日本に伝わった可能性の一つであろう。なお、中国南部で使われた古代チベット語では谷を「ヨク」と発音した。台湾、香港、揚子江周辺など中国南部から伝わった壁谷も「かべや」と発音されることになったのだろう。


2)古代風水で天上にある二十八宿では、皇嗣を護り教育するとされる「壁宿」があり、そこには唯一「厩(うまや)」があった。聖徳太子の名は厩戸(うまやど)皇子であり、愛馬だった黒駒は空を駆けたとされる。その黒駒の産地は壁谷の地名が現在も多数残る、山梨県内にある。

3)古代の明堂(風水好地)は背山臨水とされ、北側は山を背に南側には谷地が広がっていた。また寺社の南側は古来聖地とされていたことが『延喜式』賀茂御祖神(現在の下賀茂神社)などの記述に残る。古来の多くの寺社が南側を正面に、門を構え広い敷地と参道を擁しており、寺社の南の地に住むには一定の条件をクリアする必要があった。壁谷がそんな南側の地に居住していたことは、何かを意味するのだろうか。中国では秦漢から清の時代に至るまで、壁谷は軍事政策的な拠点の南側を守護していた。それとも関係があるのだろうか。



参考文献 (予定)

  • 『日本書紀』『古事記』
  • 『木に学べ』西岡常一 小学館 1991
  • 『幕末における中井配下の棟梁と棟梁家』日本建築学会研究論文 吉田正一 1972.3
  • 『官職要解』和田 英松・所功 講談社学術文庫 1983
  • 『中世法隆寺大工とその造営形態』清水真一 建築史学12巻 1989.3
  • 『捏造された天皇・天智』渡辺康則 大空出版 2013
  • 『渡来氏族の謎』加藤謙吉 祥伝社新書 2017
  • 『謎の渡来人 秦氏』水谷千秋 文春新書 2010
  • 『万葉集」
  • 『古語拾遺』
  • 『新選姓氏録』
  • 『正倉院文書』
  • 『法隆寺資材帳』
  • 『大安寺縁起』
  • 『上宮聖徳法王帝説』
  • 『上宮聖徳太子傳補闕記』
  • 『古寺巡礼』和辻哲郎 岩波文庫 1979 
  • 『失われた十字架』梅原猛 新潮文庫 1981
  • 『聖徳太子の本』学研 1987
  • 『聖徳太子』3.4 梅原猛 集英社文庫 1993
  • 『法隆寺の謎を解く』武澤秀一 ちくま書房 2006
  • 『聖徳太子の歴史学』新川登亀男 講談社選書メチエ 2007
  • 『奈良の寺』奈良文化財研究所 岩波新書 2003年
  • 『大和国斑鳩地域の溜池をめぐって』伊藤寿和 歴史地理学会
  • 『奈良時代における左官工事の文献的研究』山田 幸一 日本建築学会論文報告集65巻1960
  • 『営造法式における左官工事の一考察』山田 幸一 日本建築学会論文 昭和35年6月
  • 『左官技術における石灰使用に関する歴史的考察』藤田 洋三 西山 マルセ一ロ 竹中大工道具館研究紀要16 巻 (2004)
  • 『称徳天皇の「仏教と王権」』勝浦令子 国文学解釈と鑑賞 69巻 2004
  • 『法隆寺の再建と二つの本尊』早稲田大学大学院文学研究科紀要 1997
  • 『法起寺の発願と造営』大橘一章 早稲田大学大学院文学研究科紀要 2003
  • 『平城遷都と国家官寺の移転』大橘一章 早稲田大学大学院文学研究科紀要 2009
  • 『法隆寺昭和大修理の初期工事における武田五一の理念と手法』青柳 憲昌・ 藤岡 洋保 東京工業大学 2006
  • 『法隆寺金堂壁画保存事業における「防災」の理念と手法』青柳憲昌 立命館大学紀要2017
  • 『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告』奈良文化財研究所学報第76冊 2007

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。