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壁谷の名字(苗字)の始まりは こちら 

日本における壁谷の歴史は こちら


壁谷の旧跡帯 - 山梨富士、都留・群馬中之条、そして鎌倉


  壁谷遺跡の細石刃と神像筒形土器(土偶) 土師と壁谷

  火山信仰と土器の製造供給で栄えた都留、宝(たから)鉱山

  秦氏 聖徳太子 坂上田村麻呂と壁谷

  飛鳥時代の山王廃寺 壁谷の壘(とりで) 壁谷の泉

  室町時代の壁谷の寄居( 壁谷砦・壁谷の要害 )

  壁谷堰 壁谷八幡神社 壁谷川 壁谷橋   

  室町中期 京都将軍と鎌倉公方の争いの真っただ中にあった壁谷

  江戸時代の諏訪神社神官 壁谷由太夫正重


最古の壁谷の旧跡 飛鳥・奈良時代の越(えつ)


 倭王武(雄略天皇)時代の東国開闢と壁谷

 国府と東海・関東・東北の各地に散在する「石森(石守)」「屋敷」の故地名

   飛鳥・奈良時代にさかのぼる富山・福井・石川・新潟の壁谷

 敏達/用明/推古天皇/文武天皇 越や上毛の放光寺・観音寺と壁谷

 富山にあった礪波郡壁谷庄

 奥州藤原氏の下 平氏が継いだ壁谷の血筋

 源平の合戦で荒れた寺社の再建に勤めた頼朝と壁谷

 室町期に三河と関東・奥州に拠点を持った武家壁谷



聖徳太子と壁谷


 聖徳太子と辟田首(おびと)、正倉院門文書と辟秦氏、壁田氏

 九州上宮王家と豊後街道 壁谷の道標(みちしるべ)壁谷橋、加辺屋

 養老元年(717年) 越(能登)の平泉白山神社と壁谷

 奈良の大仏建立と豊後・安芸・長門の壁谷

 福島田村郡・須賀川 坂上田村麻呂と壁谷

 秦氏と島津氏、長曾我部氏 壁谷の地名

 島津氏・長曾我部氏と九州・香川の壁谷

  聖徳太子と空海・親鸞・円仁

 来目皇子(聖徳太子の弟)と博多の壁谷・壁屋・壁矢


浄土教と壁谷


 日中ともに浄土教の祖と謳われる 壁谷曇鸞大師 

 慈覚大師円仁が日本に持ち帰った浄土教と悉曇学による日本語の形成

 平安末法の世に流行した浄土教と藤原氏の平等院鳳凰堂

 前九年の役 源頼義と鎌倉・武蔵の壁谷

 後三年の役 源義家が創建した宮城上沼八幡神社と壁谷

 白山平泉寺と奥州平泉の藤原氏 壁谷


鎌倉・室町時代の壁谷


 源頼義が関東進出の拠点とした鎌倉の亀谷(かめがや≒現在の扇谷)

 源頼朝 鎌倉における秦氏と二階堂・壁谷の関係

 円仁が再興した浅草の浅草寺と頼朝 

 源頼朝が建立した鎌倉勝長寿院(大御堂)と壁谷(亀谷?)

 重源・大江広元・二階堂行政と壁谷 

 鎌倉幕府三代将軍実朝の聖徳太子信仰・渡宋計画と壁谷

 義家・南北朝・鎌倉公方と 長野・群馬・埼玉の壁谷と壁田

 室町前期 足利氏最大の拠点だった三河 二階堂滲河(みかわ)守と壁谷

 室町中期 京都将軍と関東公方の争いに巻き込まれた中之条の壁谷

 室町期の戦乱によって奥州須賀川(福島県須賀川市)に退いた二階堂氏と壁谷

 形原松平家の初代 与福の弟、貞谷が壁谷を名乗った伝承(養子?)

 須賀川二階堂家が島津家に託し、徳川家康に渡った国宝『吾妻鑑』

 大江氏の末裔毛利氏と周防(山口県)の壁谷


 長宗我部氏と香川の壁谷


江戸時代の壁谷


 江戸時代の伊勢講・多賀講・冨士講・大山講と壁谷

 阿蘇、豊後、長門、安芸、丹波、鈴鹿、能登、越前、富士、福島、仙台

  各地に転々と残る壁谷の地名

 元白川藩主だった松平定信とともに江戸に上った壁谷

 代々が徳川一橋家の勘定役を務めた壁谷


江戸末期・明治の壁谷


 幕末明治に石川・福井から移住した 下北半島の壁谷、北海道の壁谷

 戊辰戦争後に会津藩に与えられた斗南藩(現在の青森県むつ市)と壁谷

 東北のオシラサマ、オシンメイサマ信仰を支え続けた壁谷の女性たち

 愛知の壁谷に伝わる 平家の末裔 形原城を守ったという伝承


アフリカ・インド・中東・中国の壁谷

 

 古代サンスクリット語、バンドゥー語における石の神 Kabeya

 アフリカ・中東・インド・東南アジアで洞窟を意味する kabeya

 自然に佇む絶壁・巨岩を意味する中国語における「壁谷」

 二千年以上にわたり中国南部・台湾で護られている 黄姓「壁谷」の堂號

 日中ともに浄土教発祥の地とされる 中国国宝でもある五台山 壁谷玄忠寺

 ヨーロッパ・インドの占星術、中国風水、宿曜道における不思議な壁谷との一致

   ヨーロッパ神の窓・風水 壁宿・毘沙門天(Kubēra クーベラ)・妙見菩薩・文殊菩薩

 古代王子やブッタ(お釈迦様)の活躍を語り継いだ 宮廷文学 Kavya(カービヤ)

 宮廷装束に由来する東南アジアの民族衣装 kebaya(ケバヤ) 




壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。