24. 室町・江戸初期の神谷と壁谷

神谷氏は家康に見い出されると再び歴史の舞台に姿を現す。この神谷氏は、後に神谷と名乗った平安後期の穎谷(かびや)氏、そして足利将軍の直臣として仕える名門家だった神谷氏と、どのような関係があったのだろうか。


神谷氏は藤原北家宇都宮氏の一族とする家伝が広く伝わる。しかし、それは定説では否定されている。なぜそのような伝承が形作られたのか。本稿では『足利武鑑』『三河物語』『寛政重脩諸家譜』『神谷氏系譜』、関白近衛前久の書簡そして最近の室町時代研究の成果などから、江戸時代になぜか巧みに隠され、改竄された神谷氏の系譜を明らかにし、衝撃的な事実とその背景を考察する。


室町時代以前の神谷氏(第6・13/14稿のおさらい)

『万葉集』の権威中西進は『日本語の力』で「やまとことば」は心の「働き」により発音が決まり、それを「物」とみなした場合に初めて異なった漢字で表記されたとする。『古事記』では、冒頭の天地開闢で「牙(かび)」が地上に現れると最初の「神」になったとする。


葦牙(かび)の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかび-ひこちの)神『古事記』
かたち葦牙(かび)の如しすなわち神となる。『日本書紀』

※カッコ内は筆者が追記した。『日本書紀』は可美葦芽彦舅尊(うましあしかび-ひこちの-みこと)とする。


万物の源とされた「牙」は後に「穎(かび)」とも書かれた。平安時代の『類聚名義抄』では「穎」を唐から入った文字とし、その和音を「加尾」とする。一粒の種籾「穎」は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天皇家の祖先に託して天から下した。「穎」は冬に眠ると秋の収穫で三千倍に増えるとされ、稲を実らせるのは田に落ちた雷と考えられていた。「神」の文字にある「申」は田に稲光(神鳴・稲妻)が落ちた姿とされる。


漢字を使って発音を示す「反切(はんせつ)法」が中国で使われていた。国史編纂を目指した天武天皇は、遣唐使から戻ってきた坂合部磐積(さかいべのいわつみ)に日本語の発音(和音)を表記した辞書『新字(にいな)』の編纂を命じていた。それは漢字(反切法)と梵字(サンスクリット語)で書かれていたと『釈日本紀』は記録している。それらの手法を採用しただろう『古事記』は、前文で当時失われつつあった上代の発音に留意したと明記している。隋唐時代の発音が記録された『切韻』『広韻』とあわせ参照すれば、当時の日本での発音が推定できる。


橋本進吉などによる「上代特殊仮名遣」の研究から、奈良時代以前は「神(迦微)」と「穎(加尾)」の発音が同じだったことに疑いを挟む余地はない。一方で「上(迦美)」と「神(迦微)」の発音が違った事も定説となっている。九条家に残る平安中期の『延喜式』で祈年祭の祝詞に振られた古体カナと合わせて考えれば、「穎」と「神」は奈良時代以前は「かぴ」ないし「かび」と発音され、平安時代に「かひ(かふぃ)」へと変化したことが推定できる。

※当時は名詞も活用したため「神谷」と書くとき「神」の発音は若干違う。


天照大御神の祭祀とされ、天武天皇の時代から伝わる「祈年祭(としごいのまつり)」において、「穎」は「皇神等の依し奉ば初穂をば千穎八百穎に奉置きて」と宣命体(天皇の御言葉)で高らかに詔された。それを聞いた全国三千の官社の神官たちには「加被」とも重なって響いただろう。順徳天皇の『禁秘抄』によれば、「祈年祭」は、鎌倉初期に伊勢神宮や各地の神社の祭祀へと移された。明治に国家行事として復活したが、第二次大戦後に皇室行事へと移されている。


『広辞苑』第二版(昭和51年)から「穎」と「加被」

かび【穎・牙·】①.芽。記上(『古事記』上巻)「葦 ー の如く萌え騰る物に因りて成れる神の名は」②.穂。多く稲の穂にいう。
かび【加被】神仏が威力を加えて人々に事をさせること。加護。平家(『平家物語』)七「もし神明仏陀の ー にあらずは」

※()内は筆者が加えた。当用漢字では「穎」は俗字とされ「かい」と発音し、正字に「頴(えい)」が当てられる。しかしそれは「潁(えい)」の誤用が一般化したためだ。『康熙字典』は「穎」を正字とし、『延喜式』や『正倉院文書』も「穎」と記すため、本稿ではこれに従う。


一方「谷」は古代道教や老荘思想で不死再生と繁栄の象徴とされ、稲作に適した居住地の呼称でもあった。『常陸国風土記』では「行方(なめがた:茨城県付近)」の広大な湿原を「谷(やつ)」と呼び、そこを開拓して地元の荒ぶる「夜刀(やつ)の神」と分け合うと、その境に「鉾(ほこ)」を建て神社をなしたとする。(愛宕神社か)大地(谷)とその神(夜刀)は同じとみなされ同音だった。周辺には遥かな時代を経て「鹿島(香島)神宮」(茨木県鹿嶋市)と「香取神宮」(千葉県香取市)が鎮座する。この二神は『日本書紀』が最初に日本を平定した「武神」として特記する。『延喜式神名帳』も伊勢を除けばこの二神だけを神宮(かむのみや)と呼ぶ、古代日本における別格の神なのだ。

※「夜刀(やつ)」とするのは『日本国史大系』による。鎌倉は今も「谷(やつ)」の地名が残り、アイヌ語では「やち」は湿地を意味する。谷に鉾を立てる「谷矛(やち-ほこ)」は大国主(おおくにぬし)の名と同音であり、男女を象徴して子孫繁栄にもつながろうか。なお講談社版では「夜刀(やと)」とする。

※「鹿」は土器や銅鐸に最も多く登場する動物だ。『播磨国風土記』や『豊後国風土記』でも「稲の豊作」をもたらす神獣とされ、その骨は太占(ふとまに)に使われていた。

※谷(や/やつ)の音は関東の方言とする資料が多いが、おそらくは日本語の古来の音だろう。サンスクリット語の「ヤジ」には、生贄を捧げ神を祀る意味があり、これが「やち」になった可能性があろう。ちなみにサンスクリット語で谷は「ガーティ」、天は「デーヴァ」,山は「ヤーマ」、海は「ウㇽーミ」、道は「ビィーティ」、島は「シーマン」と言う。これらはみな「神」とされ、ひっくるめて「カービィ・サマヤ」という。「神様」になろうか。


桓武天皇の孫「高望王」が関東に下ると、その末裔は平安時代に海道(うみつみち:福島南部から京に向かう太平洋側)で隆盛を誇り桓武平氏の嫡流となった。平安中期の939年「平将門の乱」を制した貞盛らは、現在の福島・茨木と千葉の一部(常陸、上総)を領し、のち「坂東平氏」として「対(むか)い蝶」を掲げ、後に鎌倉幕府を支える北条氏や千葉氏を生む。その支流「常陸大掾」平氏は鹿島神宮の神紋「巴」も掲げた。「親王任国」とされ、天皇の皇子が国司を兼ねるのは、この関東三国(上総、上野、常陸)だけだった。


貞盛の四男、維衡(これひら)は伊勢に逆進出して「伊勢平氏」の祖となった。伊勢平氏は「揚羽(あげは)の蝶」(羽を揚げて閉じた蝶)を掲げ、後に平清盛を輩出し全盛を迎える。古代道教で新たな生をうむ精霊の使いは「蝶」とされ、平安後期に平氏が蝶の紋様を掲げた確かな記録がある。


江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』によれば、後三年の役(1083年)ののち「常陸大掾」平氏の平隆行(岩城隆行)が奥州で栄華を誇った藤原氏の初代清衡(きよひら:1056-1128年)の娘を迎え、先に『常陸風土記』で紹介した「行方(なめがた)の谷」を治めたとする。その一族「基秀」は「穎谷(かびや)」氏の養子となり、のちに「神谷」氏を称したとする。同様の記述は『磐城資料』や『姓氏家系大辞典』にもある。後者は穎谷/神谷邑(現在の福島県いわき市平神谷付近)を治めた「神谷基秀(穎谷基秀)」の子孫が、磐城(岩城)氏流と千葉氏流の神谷氏となったとする。すなわち平安時代、常陸平氏を父方に奥州藤原氏を母方にした血が神谷氏の始まりとなる。


福島県いわき市の公式HPでは「神谷の地名は13世紀(鎌倉初期)に神谷氏が治めたのが始まり」とする。実はこの神谷は「かべや」と発音する。現在のいわきの平(たいら)地区にあり、その「たいら」の地名も平氏の姓そのものだ。『姓氏家系大辞典』もこの磐城の「神谷」氏の正訓を「カベヤなり」とする。

※東北では「神谷」の平安時代の発音「かべや」が現在も残っているのだろう。(柳田國男の「方言周圏説」による)『講座方言学 方言概説』では、関東・東北および中国地方の方言では「い」と「え」どちらも発音が「い」に極めて近いとする。そのことは、筆者も現地で確認している。


古代の「常陸国(ひたちのくに)」は、現在の千葉北部・茨木県から東北の太平洋側全域にまで及ぶ広大な国だった。飛鳥時代に常陸国から「陸奥国(むつのくに)」が分離され、その国境は福島第一原発付近、つまり現在の福島県いわき市も常陸に属していた。不破の関(岐阜県関ケ原付近)より東は「関東」とされ、朝廷の力は及ばず、奥州藤原氏と平氏が手を組んで絶大な勢力を誇っていた。

※『源平闘諍録』では「(平)国香、其の子に貞盛平将軍、嫡々の末、多気大掾を始めと為、吉田・鹿嶋・東条・小栗・真壁、此の七人は鹿嶋の神事の使ひなり」とする。この真壁氏はのちに神谷氏を称したともされる。真壁の名は、桓武天皇の命で変更される前までは「白壁」だった。


平安中期以降、東北・関東から京・伊勢に中継する三河の沿岸部に伊勢神宮などの神戸(かむべ)があり、藤原氏と平氏が抑えていた。『和名類聚抄』には三河国渥美(あくみ)郡(現在の豊橋市付近)には大壁(おほかべ)郷が記録される。(神龜三年以前は大鹿部(おほかべ)里。伊勢の大鹿首(おびと)と関係があろう。)三河の国府(政庁や国分寺があった場所)は宝飯郡(現在の豊川・蒲郡市近辺)にあった。そこでは現在も壁谷の名字を持つものが大変多い。平家末裔との伝承がある壁谷家については第2稿で触れた。


平安時代の『和名類聚抄』では三河に神谷郷はない。鎌倉初期の『伊勢神宮神領注文写』では三河八名郡に神谷御厨が初めて登場、『愛知県史』は室町時代に神ケ谷(かんがや)村があったとする。奥州合戦で特に軍功のあった平姓の千葉氏、岩城氏の一族だった神谷氏が、頼朝によってこの地の地頭に任じられた可能性はあろう。いわきから伊勢・京への中継するため、渥美半島に拠点があった可能性はあろう。平安後期には、常陸/武蔵/上総/駿河/三河/尾張の一帯が平氏の知行国となり、鎌倉時代も坂東八平氏と讃えられるほど平氏の全盛時代が続いていたからだ。

※『和名類聚抄』では三河八名郡に「美和」がある。この「神(みわ)」に谷が付いた可能性もあろう。たとえば和泉国大鳥郡(現在の堺市)に上神(かみつみわ)郷があった。後世に「谷」がついて「上神谷(にわだに)」となった。この地名・名字は関東・東北にもあり、多くが上神谷(かみかべや)と発音する。


鎌倉初期、北条政子の娘を母に持つ足利義氏(足利家三代当主)が「承久の乱」を制すると三河守護となり、代々の得宗家(執権の嫡流)の娘を正妻に迎え繁栄した。のちの足利一門となる吉良氏、細川氏、仁木氏、一色氏、今川氏らは、すべて三河各郷の地頭が出身だ。三河にいた旧家も徐々に足利一門の傘下に下ったろう。


鎌倉末期に後醍醐天皇が蜂起すると、承久の乱の嘉例から足利尊氏に白羽の矢が立った。尊氏が大軍を率いて鎌倉から攻め上がるも、京で反旗を翻すと鎌倉幕府は一気に滅亡に向かった。京に残った兄に変わり、弟の足利直義(ただよし)が大軍を率いて鎌倉に引き返した。そこには「穎谷三郎」「穎谷大輔(たいふ)」と一族郎党が従った記録がある。しかし北条氏の遺児を奉じた中先代の乱に敗れて三河の矢作にいったんは退却、そこで勢力を盛り返すと、再び鎌倉に攻め入り室町幕府の成立となる。この戦いで各地を転戦した尊氏への軍功報告書に「穎谷大輔」の名が残る。

※「大輔」とは官職名で従五位上、江戸時代なら大名に相当する。その前に明記された穎谷三郎は、さらに官位が高かったはずだ。三郎の名は、平安時代の初代当主が由来だろう。伊達家の当主も代々が次郎であり、そして徳川家も代々が二郎三郎と名乗っていた。


室町時代の『足利武鑑』には「神谷四郎」そして「神谷左近将監(さこんのしゃうげん)」が「御番衆(おばんしゅう)」に記録される。(正式名称は「奉公衆」。以後「奉公衆」と呼ぶ。)奉公衆は全国の有力守護の一族から選抜された子弟で構成され、代々世襲で受け継がれた。将軍家の直臣として京に常在し、幕府正規軍の中核をなす武力と権威を併せ持っていた。一番から五番までの交代制で、神谷氏は「一番」に属していた。『群書類従』はこの「一番」は別格で、将軍外出の際は必ず随行したとしている。

※左近将監は従六位上に相当。室町前期に神谷氏の活躍の記録はない。この神谷氏は穎谷氏だったと推定できることは後述する。奉公集は有力者の子弟で構成されており、四郎は穎谷(神谷)三郎の分家だろう。


「穎谷」が「神谷」と変化したのは『源平盛衰記』『太平記』の記述や当時の時代背景から室町初期だった可能性が高い。ただし室町中期の伊達晴宗(政宗の祖父)に宛てた文書に「穎谷眞胤」の名が残り、同時期に「神谷眞胤」の記録もある。文字が一般的でなかった当時、穎谷・神谷の表記が併用されていたのだろう。

※「胤(たね)」は平姓千葉氏の主流で使われた通字である。


関東東北の海道一帯は、長く平姓の北条・千葉氏が力を維持し、その一角に源姓の佐竹氏、藤姓秀郷流の長沼氏、結城氏を加えた有力守護がいた。彼らは「関東八屋形」「海道一揆」とも称された。この時代の「屋形」とはのちの守護大名、「一揆」とは「党」とも呼ばれる強い血縁関係による団結を意味する。約千年に渡って大いに血が混じったのである。これが岩城氏・千葉氏の一族とされる神谷氏が、佐竹氏のもとで活躍していた理由であろう。


室町末期に北条氏・千葉氏の主流は滅び、関ケ原に参陣しなかった常陸・磐城の佐竹氏・岩城氏も平安時代から守り続けた領地を奪われた。現在の福島県いわき市付近にあった岩城氏の旧領は「岩城」から「磐城(いわき)」と名を変え、磐城平(たいら)藩が治めた。その磐城平の中に、常陸笠間藩(旧佐竹氏領真壁藩:現在の茨木県笠間市付近)の飛び領地「神谷陣屋(かべや-じんや)」がポツンと存在、わずか数十人で護られた。笠間藩の家老には三河出身の神谷氏がいた。江戸時代の神谷氏にとって磐城の神谷(かべや)は、手放せない大切な土地だったのだ。


同じころ備後(広島県)水野家の名奉行「神谷治部長次」の名が「神谷(かや)川」に今も残る。実はこの地では「神谷(かや)」と発音する。中国地方は東北と同じく、「い」と「え」の発音が「い」に近い特異地域だ。江戸時代になると、言霊を離れて文字が独り歩きする。文字と違和感がある「神谷(かべや/かびや)」の発音は、関東なまりの濁点がとれ「かひや」「かや」へと変化したのだろう。実は江戸時代の備後の「神谷(かや)」氏も三河の神谷家の分家だった。発音より文字が優位となった江戸時代になって、発音のほうが変化したのだ。

※『江戸三〇〇藩 最後の藩主』は、全国の大名の半数以上が三河(現在の愛知県)出身で、追従した家臣も全国に散らばったとする。確かに神谷氏の分布にはその傾向が見える。なお中国地方の「貝屋」の名字は磐城の「穎谷」が由来と伝承される。これは発音が優位だった室町時代以前に当地に根付いた穎谷氏が、いつのまにか貝屋に表記を変えてしまった例だろう。


時代を戻そう。全盛を誇った平家の一族が養子として継ぐほどの名門「穎谷」氏が平安時代に既に存在していた。『常陸国風土記』で「谷」を切り開き「鉾」をたて神社をなしたのは第26代継体天皇が「磐余玉穂宮」で即位したころだ。その磐余(いわれ)は「石寸/石守」そして「石森」とも書く。背後に「石森山」がそびえるのは、いわき市平(たいら)神谷(かべや)地区だ。そこはのちに「神谷」氏を生む岩城氏の初代、平隆衡が拠点を構えた地でもある。現在は壁谷が集中的に居住している。


古代中国の名字(堂號)や、唐の都などに「壁谷」の地名があった。浄土教の発祥地も中国五台山「壁谷」だった。これらが仏教とともに日本に伝わり「かべや」と音され、日本の古代神と融合したのではないだろうか。日本古来の三輪(みわ)は「上神(にわ)」とも書かれ、「上神谷(にわだに)」は、関東・東北で「上神谷(かみかべや)」という名字・地名となって現在に至っている。古代インド占星術における「壁宿」の守護神は毘沙門天「クーベラ」であり、神仏習合で妙見菩薩ともされた。これを守護神に仰いだのが、平安後期の「穎谷・神谷氏」である。古代中国と日本の神仏が融合した「かべや」は、のちに「穎谷・神谷(かべや)」と書かれるようになったのではと筆者は推測している。(第1、18、11稿など)


なぜか削られた神谷家の出自

南北朝の争いが一段落すると、将軍家は強大化した守護らを次々と成敗し幕府の安定を図ろうとした。しかし「永享の乱」(1438年)で「鎌倉公方」を切腹に追い込んだ六代将軍義教(よしのり)は「嘉吉の変」(1441年)で逆に暗殺されてしまう。幕府の権威はガタ落ちとなり、やがて「応仁の乱」を招く。京に常在していた守護らは分国(領地)に引き上げ、地元の国人たちと争奪戦を繰り広げた。勝ったものは戦国大名となり、時代の潮流に押し流された鎌倉以来の名門家は消え去っていった。将軍側近として「奉公衆」名誉の「一番」だっだ神谷氏にも同じ運命が迫っていた。


江戸時代に『寛永諸家系図伝』(以後『寛永譜』)が奏上され、新井白石らの『藩翰譜(はんかんふ)』などを経て、松平定信が『寛政重脩諸家譜』(以後『寛政譜』とする)を編纂させた。「重脩」とは度重なる修正を意味する。長年に渡り各家から提出された系図や伝承などを整理し、論評も加えた『寛政譜』は1520巻にも及び、現在も第一級の資料とされる。藤原氏の家系は前半で登場し、その系譜は次のように分類される。

『寛政重脩諸家譜』前半部分のうち藤原氏の巻(680巻-1125巻) 目次から筆者が抜粋

兼通流、道隆流、道兼流(宇都宮支流)、頼道流(花山院支流)、頼宗流、長家流、公季流、師尹流、長良流、良方流、良門流、山蔭流、利仁流、秀郷流、爲憲流、貞嗣流、支流


藤原氏の最後の「支流」で神谷氏各家はやっと登場する。その冒頭で登場する「神谷淸次(きよつぐ)」は、16歳で目覚ましい軍功を挙げ、家康の目に留まり側近となったとされる。しかし「某六兵衛」なる男に養われた2歳の孤児だったため「実の姓氏を知らず」とされる。神谷氏の出自は不明だったのだ。


のち(寛政のころ)までに提出された「今の呈譜」では訂正され、「某六兵衛」なる男は、実は三河國碧海郡の神谷石見守髙朝の血を引く「神谷宗弘」で、遡れば藤姓宇都宮氏、その家紋は「上藤丸に揚羽蝶」「雁木 丸に揚羽蝶」だとする。しかし「揚羽蝶」は平氏の象徴とされていた家紋で、織田信長も平氏だと主張して使ったことがある。藤姓宇都宮氏であるなら一般に「左巴」だろう。


次の神谷家は、水野家(刈谷藩)家老で三河國苅谷に居した「神谷吉久」を祖とするも、その出自はやはり不明。同じく「今の呈譜」では訂正されて「神谷石見守高明あるいは高親の子孫」、その家紋は「亀甲の中揚羽蝶」「五三の桐」だとする。「亀甲」は古代神に由来し、「五三の桐」は足利将軍家から下賜された由緒ある家紋のはずだ。しかし、その出自は語られない。三番目は「神谷直淸」を祖とし「御腰物(刀)持ち」を務めた家康のお側衆だった。家紋は「丸に揚羽の蝶」そして関東武門の香りが漂う「州濱」とするも、同じく系譜の記録はない。

※「亀甲」は北方玄武のことで古代風水の壁宿とも関連が深い。


しかし四番目の神谷家では、由緒ある古い系譜が示されている。廣忠・家康の二代に仕えた「神谷正利」を始まりとし、額田郡(現在の愛知県岡崎市)神谷村に居したことで神谷と称したとする。その祖は「(藤原)秀郷の苗裔、伊賀國の守護伊賀光季が十七代の後裔」とする。家紋は「上藤丸に揚羽蝶」「丸に揚羽蝶」だ。この家は神谷家で最古の歴史を持ち、二千石と最も高い家格を誇る。江戸時代の神谷家の主流でもある。その歴史も比較的明確で、神谷氏の出自の最大のキーを握る家系だろう。

※伊賀光季は藤姓秀郷流。母は頼朝の重臣・二階堂堂行政の娘で、妹は2代執権北条義時の妻(伊賀の方)。伊賀氏は常陸の地頭職でもあり一流は磐城平好嶋荘(現在の福島県いわき市平八幡)の開発領主となった。既に触れたが、伊賀盛光・盛清がのちに神谷氏と称することになる穎谷(かびや/かべや)大輔のもと、常陸や磐城で戦い室町幕府成立に貢献した記録が国宝『飯野家文書』や『南北朝遺文』などに残る。


次の神谷傳十郎家も、同じ伊賀氏流の「神谷正利」を祖とする。「正利」の孫の二男「神谷次重」が(「今の呈譜」では教重)が家光に仕えて分家を構し、将軍家「膳部」の礼式を後世に伝えるお役目を担うことになった。「今の呈譜」では「平氏なりといふ」とし、家紋は「亀甲に揚羽蝶」「丸に蔦」とする。

※松平信光の肖像画に「丸に尻合わせ三つ蔦」が描かれる。後述する松平家と神谷家の関係が示唆されよう。


その後は4家が登場する。大奥添番だった神谷武右衛門家の家紋は「丸に左追蝶」「藤の裏葉」だ。そして神谷傳兵衛家は5代将軍綱吉の御台所人(将軍の食事担当)を務めた神谷信高を祖とすし「丸に揚羽蝶」「輪違の内四石」とする。続いて神谷傳衛門家の「丸に揚羽蝶」「丸に一本幣」などが載る。いずれも出自は書かれない。御幣(ごへい)は神官の家系にみられるものだ。


神谷家は、御肌着・御小袴侍(お着物)・御腰物方(装身具・刀もち)・鷹匠、禁裡(家庭内の諸事)や膳部(食事方)、将軍家の儀式礼式を後世に伝えるなど、将軍家の身近にあった。にもかかわらず『寛政譜』は広忠・家康以前の神谷家の系譜を語らず、後世に判明したとする宇都宮氏の末裔とする「今の系譜」には論評すら加えない。一方で平安時代からの名門、平姓岩城氏の記述には「穎谷某の養子となり後に神谷と改めて號し」とし、わざわざ穎谷・神谷氏に言及しながら、家康の周辺にいた神谷氏と結ぶ糸を途切れたまま放置する。


神谷氏の記述は『寛政譜』の編纂方針と一見して違う。なぜなら、他家では由来や伝承について記した上で客観的な論評まで加え、信用できない伝承には「うたがふべし」と指摘までしているからだ。実は神谷氏の記録は、ほとんど残っていない。三河以来の家臣を記した『柳営秘鑑』の「三河安祥(碧海郡安城、現在の愛知県安城)」の七御普代にもない。次の「三河岡崎」や浜松城時代の「駿河譜代」にすら載らない。意図的に消された可能性すらある。


印刷されて江戸市中に大量に出回った『武鑑』がある。このうち主に江戸前期までのものを集めて出版された『大武鑑』を見れば、そこに登場する神谷氏の家紋は、ほぼ総てが塗り潰され、あるいは白抜きされ、中には「ケズラレ」と注釈が付くものまである。わずかに二例だけ家紋が確認できた。それは「対(むか)い蝶」と「揚羽の蝶」で『寛政譜』か主張する「藤」紋はどこにもない。


そこで個別に江戸後期の『武鑑』を探ってみると、神谷家の家紋が削られた例はない。しかし全てが「藤」紋だった。家紋は、時代や使用目的で変わる。しかも残された『武鑑』は後世に商家によって大量に刷られた写本であり、その信憑性も決して高くはない。これらだけから、何かを断ずることはできまい。


『神谷氏系譜』の試み

かつてこの謎に挑んだ高僧がいた。明治28年、東京深川(江東区白河)霊巌寺の住職だった神谷大周である。彼が出版した『神谷氏系譜』では冒頭で『寛政譜』を補い、神谷氏系譜の完成を期すとした強い意気込みを語っている。


寛政中幕府ノ系譜ヲ重脩スルニ(中略)今遂之ヲ完成スルニ由ナシ他日傳(伝)聞廣捜シ以テ續(続)編ヲ纂輯シ之カ闕(欠)ヲ補ハンコトヲ期ス

※江戸深川は奥州の玄関口で奥州白川藩、三春藩などの蔵屋敷があった。松平定信の隠居地でもあり霊巌寺にはその墓もある。現在も壁谷が局在する地域だ。


事の真偽は別として、まずは彼が調べ上げた系譜について述べていこう。神谷氏の端を発するのは『大鏡』に「御末枯れさせたまひにけむ」と記される七日関白「九条道兼」。そのひ孫「宗圓(宗円)」は関東に下向して「前九年の役」(1051-1062)の軍功(祈祷とされる)で二荒(ふたら)山神社(のちの日光)の座主、下野の国司となり、その子孫は「宇都宮氏」と名乗ったとする。

※神谷氏が宇都宮氏の一族というのは現在は否定されている。


その一族で常陸八田庄(茨木県茨常陸大宮市八田)を領した「八田朝家」とともに、頼朝の奥州合戦で東海道大将軍として海道(千葉県、茨木県、福島県浜通り)を攻め上がったのは、平姓「千葉常胤」だ。常胤は石橋山から敗走した頼朝を下総(房総半島)に迎えた。『源平闘諍録』によれば、「妙見神」は「新皇」と称した「平将門」を傲岸不遜と見限って一族の千葉氏の加護にまわり、頼朝を支援した千葉常胤の連戦連勝を導いたと伝える。『吾妻鏡』では、鎌倉入りした日の頼朝の最側近として千葉常胤を記録する。「千葉氏」は室町時代も鎌倉府の「侍所別当(長官)」を世襲する実力者となっている。


さて宇都宮三代「朝綱」の姉妹は『椿説弓張月』にも登場する鎮西八郎爲朝(頼朝の叔父)に嫁ぎ、爲朝なきあと「千葉常胤」の孫「義胤(よしたね)」の養母となって奥州に退いた。その子は後の戦国大名、奥州相馬氏の祖でもある。(相馬は平将門の旧領の名)


「朝綱」の妹(子とも)に頼朝の乳母を務めた「寒河尼」がいた。女ながらに寒河御厨(伊勢神宮の荘園(現在の栃木県小山市寒川)の地頭となっている。小山政光(藤姓秀郷流、栃木県小山市)との子も結城荘(茨木県結城市)、長沼荘(栃木県真岡市長沼)を領して鎌倉幕府の重臣となり、それぞれ結城朝光、長沼宗政と名乗った。

※八田知家は「朝綱」の弟、寒河尼は姉妹とされる。後述する幸福寺の系譜では、八田知家は源頼朝(あるいは父義朝)の子とする。寒河尼は小山氏に嫁いで結城朝光を生んでいるが『結城氏系図』ではその結城朝光も、頼朝と八田氏の娘(寒河尼か)の子と伝わる。


『伏敵篇』によれば、元寇「弘安の役」(1281年)に対し、若干16歳の宇都宮八代当主「貞綱」が鎌倉幕府軍6万の総大将として九州に下った。第九代当主「公綱(きんつな)」は『太平記』で楠木正成に「関東一の弓取り」と言わしめ、後に南朝側についた。しかし南朝側ではその剛弓に活躍の場もなく、十代当主「氏綱」は北朝側についた。このように、一族が南北に分かれて戦った例は多いが、南朝側についた例ではその後の記録がほとんどない。


南朝忠臣とされた神谷氏祖

宇都宮九代当主公綱の子「泰藤」は南朝側につくも、南朝は風前の灯だった。1338年、新田義貞・北畠顕家を失い、後醍醐天皇も翌年崩御。1340年には越前で大敗を喫し、脇屋義助(新田義貞の弟)も伊予に逃れた。この時、泰藤は三河に逃れたと『神谷氏系譜』は記す。1348年「四條畷の戦い」では楠木正行(まさつら)までも失い、吉野の宮も焼け落ちた。

※常陸国武茂庄(現在の栃木県那珂川町)の宇都宮「泰藤」が世を捨て法華宗(日蓮宗)に帰依し、三河に流れて来たとする情報もある。(出典を失念)


南北朝の収束にはまだ数十年を要した。足利荘は南朝の系統(大覚寺統)の寄進荘園で、足利家当主は代々その下司(げす:荘園の地元の管理者)だったからだ。尊氏は最後まで南朝による承認を望み、後醍醐天皇から受けた偏諱「尊」を生涯使い続けた。後醍醐天皇の供養に莫大な資金を投じて天龍寺を開き、各地に安国寺も建立した。


さて、碧海郡和田郷(現在の岡崎市付近)に大久保氏の菩提寺、和田妙國寺(以後、妙国寺と呼ぶ)がある。その系譜によれば、奏藤には三人の孫がいて、徳川に仕えたとする。それぞれ「大久保氏」と「朝岡氏」祖となり、残りの一人「高正」は「神谷氏」の祖となったとする。これこそが、神谷氏が藤原氏の家系とする、根拠となっている。


『神谷氏系譜』で「泰藤」の項を引用

泰藤
左近将監 美濃前司 南朝正平七年(1352年)四月二日卒
葬参州和田妙國寺 元弘建武之役 隷官軍有功後 又属新田義貞及脇屋義助

赴于越前國 屢有攻義助去北國之後

隠于参州和田妙國寺 傍有三子

長曰左近衛門泰常 次曰左近次郎藤綱 次曰右衛門尉泰朝

泰常之男曰三郎左衛門勝長 始移于駿河國富士郡宇都里

後復歸居参州遂 以宇都為氏 之為大久保氏祖

藤綱無嗣泰朝二子長曰石見守髙正 是為神谷氏始祖

次曰兵庫助國綱 是為朝岡氏祖

幸福寺系譜云 家紋左巴以鳥井為添紋

※筆者による筆文字判読。カッコ改行空白は筆者が挿入。「屢」は「屡(たびたび)」の異体字。


幸福寺の系譜と高正

神谷氏の系譜は、なぜか幸福寺(現在の愛知県豊田市畝部西町屋敷)に移る。そこでは祖父奏藤および兄國綱の家紋を「左巴以鳥井為添」とし宇都宮氏の神紋「巴」を採用する。一方で高正の家紋だけは「登(のぼり)藤之中揚羽蝶」と平氏の家紋をにおわせる。


高正は貞治(1362-1368)のころまで伊州(伊賀。現在の三重県北部)の「神谷城」で伊勢・伊賀の国守(国司)を補佐していたとする。しかし当時の伊賀は、北朝の主力、高(こう)・千葉・細川氏らが制していた。もし山中の神屋地区(現在の三重県名張市神屋)に潜んでいたとしても城は難しかろう。周辺は百地三太夫や服部半蔵を生む伊賀忍者の発祥地でもある。


一方で伊勢の国司は北畠顕家。しかし南朝勢力は山中の「多気(たけ)城」(現在の三重県津市美杉町多気)に籠るのが精一杯だ。なぜなら幕府の権力者だった伊勢氏が守護として伊勢を実効支配していたからだ。伊勢四十八家には多気郡を拠点とした「神戸(かんべ)」氏がおり、混同された可能性はあろう。

※『鎌倉武鑑』では、宇都宮宗円が下野国(栃木県)の「多気郡」で「悪魔降伏の祈念」を行い奥州藤原氏に勝利したとする伝承を記す。


幸福寺の系譜は、伊州「神谷城」にいた南朝側の高正が、三河の神谷に移って初めて「神谷」を名乗ったとする。これには大きな違和感を感じる。なぜなら、三河は伊勢・京と関東の交通を抑える極めて重要な戦略拠点で、足利幕府の直轄領(御料地)でもあったからだ。室町時代を通じて警戒され続けたのが南朝だ。その重臣に領地を与え城作りまでも許可するだろうか。(鎌倉初期に下野国足利荘と並び、額田郡に公文所を置いてから三河は足利氏の本拠地となっていた。)


しかも三河にきて神谷を名乗れたのなら、神谷の地を「安堵」されたことになる。それは北朝側だったことを示唆しよう。幸福寺に残る高正の法名「大居士」は領主級で、何より永遠に刻まれた高正の没年は、北朝年号「貞治」で記録されている。

※群馬で脇屋義助(新田義貞の弟)の板碑が発見され、北朝年号が記されていたため真贋論争に発展した。現在は北朝側だった新田の末裔が建てたものと決着している。


次なる幸福寺の系譜では、神谷高正が八名郡の神谷の地から、西の碧海郡に移ったする。その高正の城は碧海郡に確かにあった。『豊田の中世城館』(愛知県豊田市内中世城館跡調査報告)には豊田市上郷に「高正城」が、また豊田市の遺跡記録にも豊田市畝部西町屋敷「高正館跡」が記録され、当地には「畝部西町高正」の地名まで残っている。実は神谷氏は今川と手を結んでいた。八名郡の周辺は今川氏の侵攻を受けており、神谷氏も三河の西側に拠点を移したことが推測できる。


『神谷氏系譜』で神谷氏祖とされる「高正」(幸福寺系譜部部分)

髙正
神谷石見守 城于三州碧海郡阿彌陀堂村而居焉
明徳五年(1394年)三月十四日卒 法名髙巖全正大居士 葬幸福寺

幸福寺系譜云 居伊州(現在の三重県)神谷城 補佐伊賀伊勢両国

貞治之頃 居三州八名郡神谷村 改宇都宮 號神谷

家紋 登藤之中揚羽蝶 


次いで高正の子「高朝」は南北朝の和睦で三河に「蟄居」となったとする。ただし、もし蟄居の身であるなら、足利幕府直轄領内で城を持ち、菩提寺を建て、石見守・印旛守にまで出世したとするのは無理があろう。1443年には南朝勢力が御所に乱入(禁闕の変)三種の神器が奪われて、応仁の乱のころも南朝天皇の擁立直前にまで至っている。後南朝と呼ばれる勢力は、室町時代を通して常に警戒され続けていたのだ。


『神谷氏系譜』で神谷高正の子とされる「高朝」

髙朝
石見守 居阿弥彌堂村城 応永廿一年(1414)卒 
法名 玉峰硯公居士 葬幸福寺

幸福寺系譜云 髙正嫡子 與父共奉仕南朝帝 有戰功有後

南北御和睦之時 蟄居 阿彌陀堂村城 

又其要云 為考髙正并祖母菩提建碑守 高正山幸福寺設

位牌且寄附供養料及陣鐘等云

※原文で寄はウ冠に竒。改行位置は変えカッコ内と空白は筆者が挿入。


八名郡には「神谷御厨」(伊勢神宮の荘園、現在の愛知県豊橋市石巻町から豊川稲荷付近)が記録され、『姓氏家系辞典』では額田郡(現在の愛知県幸田町、岡崎市近辺)の神谷郷を藤姓秀郷流に連なる神谷氏の出身地とする。常陸から伊勢(伊勢神宮)まで、海道(うみつみち)に勢力を広げていた「海道平氏」(常陸平氏の一流)の神谷(穎谷)氏が、この地を中継拠点としていた可能性は十分にある。鎌倉末期、足利直義が三河に退却、軍隊を立て直して尊氏と合流、一気に鎌倉に攻め込んで室町幕府の成立をみる。この一連の戦いには穎谷氏(神谷氏祖)や伊賀氏(神谷氏祖)も戦っていた。こうして神谷氏も、三河の領地を安堵され「奉行衆」に加えられたことだろう。

※『室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究』では三河国幡豆郡に「饗庭郷」があり、のち伊勢神宮の「饗庭御厨(あへばの-みくりや)」となった。鎌倉時代の承久の乱でその地の地頭となった「饗庭氏」も、穎谷氏と同じく、室町幕府創成の時期に活躍し、各地の領地を追加され、室町幕府の「奉公衆」に加わっている。


多くの「奉公衆」は全国に点在する所領に「不入権」(守護すら立ち入りできない)があった。しかし室町初期に各地の守護が成敗され、反発を買うと、京に常在して各地方の所領を守るのは難しくなり、三河に「奉公衆」の領地が集中していった。奉公衆神谷氏の領地が三河にあった可能性は相当に高い。

※享徳の乱(1455-1483)のころ、鎌倉公方と京都将軍が再び対立。千葉氏一族も分裂して争った。著名な歌人であり「奉公衆」でもあった千葉氏の末裔「東常縁(とうのつねより)」が京から派遣され、千葉実胤の救援に向かったが敗れている。このとき千葉氏のもとで戦った神谷氏が三河の旧領、神谷の地に退却した可能性もあろう。


阿弥陀村城と大樹寺

三河の吉良庄では当時「きら」と呼ばれ公家や武家で大変重宝された雲母のほか、塩の生産も盛んで産業が発達し、矢作川流域が水運に利用されていた。この矢作川を境に、織田・松平・今川の間で争奪戦が繰り広げられることになる。幸福寺(愛知県豊田市畝部西町屋敷か)のあった位置は、そんな矢作川の西岸が半円状に突き出た丘陵地にあって、東に拡がる東三河・駿河側一帯を広く見渡せる絶好の拠点にあった。阿弥陀堂村城は、その幸福寺に隣接したと記録される。

※当時の矢作川は現在の西尾市吉良と一色町の境で三河湾に注いでいた。現在の矢作古川がその名残である。


実は幸福寺の対岸、つまり「東端」には徳川氏の菩提寺とされる大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町)がある。文亀元年(1501年)の大樹寺に残る「松平一門連判状」には、松平一族十六名が署名、そこに名が載らない安城松平(あんじょう-まつだいら:家康の出身家)は矢作川流域で他の松平家を従えつつあったとの説がある。しかし当時この付近を抑えていた有力者は現在も判明していない。


そのころ三河国加茂郡松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)を発祥とし、松平宗家を継いでいた岩津松平家は今川からの攻勢に苦しんでいた。1502年「阿弥陀村城」(髙正館)五代目の神谷高宗が「今川氏の使者の迎え」を受けて今川家臣となったと『神谷氏系譜』は記す。それが正しければ大樹寺の「松平一門連判状」が作成された翌年、岩津松平家は今川氏と神谷氏に東西から挟み撃ちされたことになる。


その4年後の1506年「大樹寺」は今川方に堕ちていた。今川軍約一万を率いた「伊勢宗端(そうずい)」が岩津松平を攻めるとき「大樹寺」に陣を置いた記録があるからだ。(永正三河の乱)この宗端とは伊勢盛時のことで、のちの「北条早雲」と判明している。姉妹は今川家の正室で、その孫が今川義元である。


伊勢宗端は、父の跡を継いで文明15年(1483年)から九代将軍義尚の申次(側近)になっている。(『北条氏康』PHP文庫)明応二年(1493年)『河内御陣圖』に「一番 伊勢新九郎(伊勢宗端)」が記録され、その父も文安年中の「一番 伊勢新左衛門尉(伊勢盛定)」が載る。つまり、伊勢宗端(北条早雲)と神谷氏は、少なくとも親子二代で「一番」の同僚だったのだ。1502年に迎えを受けて今川方についたとされる神谷高宗とは「一番の神谷左近将監」のことで、伊勢宗端と共に岩津松平家を攻めたと考えるのも、十分に合理的であろう。この戦いで疲弊した岩津松平家はやがて滅び、のちに家康を生む安城松平家が台頭してくることになる。


『神谷氏系譜』から 高正の五世の孫「高宗」を引用

髙宗
又右衛門 一作主計 同所(阿弥陀堂村城) 後移駿州仕今川後復歸三州
永正十五年(1518年)十月十二日死 法名宗顯道仙居士 葬幸福寺

幸福寺系譜伝文亀二年(1502年)從駿州今川家以使者招依之 高宗軍事談後辤

再歸住三州在所撫育士 庶子孫仕徳川家及今川家 

明應六年(1497年)辰二月為先祖并一族菩提 令髙正山再建 外七反十二分寄附者也

※「寄」は異体字。ウ冠に竒。


伊勢宗端が陣を置いたのは「東端の大樹寺」であった。『参河名所図絵』『三河二葉松』『参河国聞書』などでは東端城と須賀城に「神谷輿七郎」の名が残る。また「神谷宗弘」の名が残る宗貞城、「神谷高朝」の城と伝わる国江城(ともに豊田市畝傍)、「神谷輿次郎」の名が残る小垣地内城(ともに刈谷市)。他にも神谷氏の城と伝承が残る高取古屋敷(高浜市)や金山城(美濃国か)もある。


しかし矢作川の「西端にあった幸福寺に隣接した」とされる神谷氏の「阿弥陀堂村城」はどこにも記録がない。阿弥陀の名は浄土宗寺院を類推させ、当時の寺は城としても機能していた。(のちに家康は三河一向一揆で本願寺派の寺院と激戦を交え苦戦している。)また幸福寺は現在の豊田市畝部西町にあり、矢作川の「西の端」だ。先に触れたが、鎌倉末期に「穎谷三郎」と「穎谷大輔」が鎌倉から退却して力を蓄えたと記録される場所は、この地「矢作」であった。この地は鎌倉末期には穎谷氏(のちの神谷氏)の一大拠点だったはずだ。


もしかすると、対岸の「東端」にあった大樹寺こそ、実は「阿弥陀村城」ではなかろうか。実際に「東端」周辺は鎌倉時代から神谷村があったとされ、また神谷氏の主流の出身地と記録される場所だ。矢作川流域や大樹寺を支配していたのは実は神谷氏(穎谷氏)で、「松平一門連判状」とは松平氏が神谷氏に宛てたものだったのではなかろうか。


『三州諸士出生録』には武将の出生地が記録される。そこで神谷氏は東端村、和泉村(共に碧海郡、現在の愛知県安城市)、東原庄小垣江村(知多郡現在の愛知県刈谷市)などに記録される。「東端城主」ともする伝承がある「神谷輿七郎」の家系は、江戸時代に二千石取りと別格の石高を誇る最も権威の高い神谷家だった。後述するが、神谷輿七郎家では桶狭間で戦死者を2名出している。徳川方は桶狭間に参戦しておらず、当時は今川方だったと推測できる。その東端村では、後に東端城主となった永井右近(永井尚勝または直勝)が筆頭だ。これは神谷氏が桶狭間後に東端城主の地位を追われたたことを意味しているのかもしれない。


『三州諸士出生録』から引用

東端村
 永井右近
 藤井隼人

 神谷輿七郎

 神谷新十郎

 神谷藤左衛門

 神谷源六

和泉村

 神谷新十郎

東原庄 小垣江村

 神谷輿次郎

碧海郡 寺社領

 渡刈村 鹿島 神谷権兵衛

※『諸大名旗本衆三州生邑跡』にもほぼ同じ記載がある。藤井とはのちの松平藤井家か。神谷権兵衛の記録から、神谷氏と常陸の鹿島神の関係はここでも推察できよう。


「大樹」とは中国の故事で「征夷大将軍」を指し、松平家が将軍になることを祈念して建立したとされる。しかし松平氏に、そんな不遜なことはできまい。大樹寺とは足利将軍のための寺であって神谷氏が守っていた。松平氏が天下を取って、その伝承を自らのものに書き換えた、そうは考えれないだろうか。


実は足利幕府の忠臣だった松平家

松平家は幕府の庇護のもと、三河に勢力を広げたことが解明されている。『三河物語』などに記録される松平家初代「親氏」と弟の二代「泰親」は、伝説の人物ともされていた。しかし応永33年(1426年)に岩津城に近い若一神社が、二代「泰親」によって造営されたとする棟札(むなふだ)が発見され、奏親の実在とその年代が明らかになった。


松平三代「信光」の正室は、この一色氏の娘とされる。一色氏は三河国吉良荘の一色郷(愛知県西尾市一色町)を本貫とする足利一門の名門で、永享の乱(1438年)で敗れるまで幕府の四職(ししき)や三河守護を務めた。


信光の弟「益親」も永享11年(1440年)京に上り、日野裏松家の荘園の代官を務めていた。この日野裏松家の娘は足利将軍の正室・側室を多数輩出している。たとえば三代義満の業子・側室の康子、四代義持の栄子、六代義教の宗子・側室の重子、八代義政の富子(日野富子)、九代に内定していた義視の良子(十代将軍義材の実母)、九代義尚の祥雲院、十一代義澄の阿子などだ。


信光は、寛正6年(1465年)将軍義政からの指示と三河守護細川成之の要請を受け、額田郡一揆を鎮圧、恩賞として新たに三河額田郡深溝(ふこうず:愛知県額田郡幸田町深溝)を得ている。(政所執事代、蜷川親元の『親元日記』による。)


伊勢氏は代々が政所執事を務めた幕府の重鎮だ。このうち「伊勢貞親」は将軍義政の信頼も厚く、九代将軍となる足利義尚の乳父(めのと:養育係)でもあった。次期将軍の義視を追放して義尚を将軍に擁立する画策に加担したとされ、一時追放された。(1446年「文正の政変」)しかし応仁の乱(1467-1478)の勃発で将軍義政の要請を受け復帰、細川勝元と手を組んで、足利義視や山名宗全らの排除に成功、義尚を第九代将軍に据えた。嫡男「伊勢貞宗」が政所執事を継ぐと、伊勢氏は「奉公衆」や「奉行集(将軍直属の文官)」らも完全に掌握し幕府を牛耳っていた。

※伊勢氏の通字「貞」は足利尊氏の父、貞氏から偏諱を受けたものだ。


松平三代「信光」は「応仁の乱」で細川・伊勢氏らの東軍につき、三河守護の細川成之と手を組んで、西軍についた元三河守護一色氏を打ち破り、矢作川を西に越え三河に大きく勢力を伸ばした。『徳川実紀』や『朝野旧聞裒藁』には、信光には48人もの子女があり三河各地に分封、のちの十八松平に繋がったともされる。このとき岡崎城主の娘に五男松平光重を婿入りさせ城主に据えた。松平氏は応仁の乱直後に一度全盛を迎えていた。


そのころ九代将軍足利義尚が近江の大内氏征伐に向かった記録『常徳院(九代将軍義尚のこと)江州動座着到』には「一番 神谷左近將監」の記録が残る。つまり神谷氏も細川勝元、伊勢貞親側だった東軍についていた。当時「奉公衆」は政所執事だった伊勢氏が一手に掌握していた。奉公衆一番だった「神谷左近將監」は「松平信光」と手を組んでいた可能性が高い。松平四代「親忠」についても、『三河松平一族』で「寛正三年(1462)以前に在京し、伊勢氏被官としての活動が確認できる」とする。この時代の松平氏当主の名に見える「親」は「伊勢貞親の偏諱を受けていた」とする。


新行紀一の『一向一揆の基礎構造』によれば大永四年(1524年)当時13歳の「松平清康」が額田郡と寶飯郡にあった山中城を攻め取り、その勢いに屈した松平信貞(松平昌安)は清康を婿にして岡崎城主を譲ったとする。『三河物語』は安城松平家の当主が暗愚で清康が継いだとするだけで、その事情を語らない。清康の家臣団とされる「山中譜代」の記録はなく『柳営秘鑑』に至っては「山中譜代」の存在すらない。さらに安城松平家の通字「忠」も「清康」にはない。清康は松平家の正当な後継者でなかったという説があり『新編安城市史』も「謎の人」としている。

※「清康」が初めて新田氏の末裔を称したとされる。「康」は足利氏初代、源義康を意識したと推測する。庶子だった異母兄の源義重は、新田庄に移り新田氏を名乗った。つまり新田氏は足利氏の嫡流を継ぐ立場を奪われていたのだ。「康」の名はそれを取り戻すことを意味したのかもしれない。


しかし天文四年(1535)清康が殺害、子の「広忠」が今川方の援軍を得て天文6年(1537)岡崎城を奪還した。嫡子「元康(以後家康と表記する)」を天文16年(1547)に実質的な人質として今川に送る最中、織田方の加藤図書助順盛に引き取られた。シリース藩物語『刈谷藩』によれば、織田方の久松家に再嫁していた家康の実母「於大(おだい)」が家臣を遣わせ、家康の面倒を見ていたとする。家康が今川方に戻された時、すでに父の広忠も謀殺され、岡崎城は今川の手に落ちていた。家康は今川・織田両家の策謀の渦中にあって多くを学び、後世に活かしたに違いない。


尾張の大高城主が信長に離反し、今川方についていた。永禄三年(1560年)「桶狭間の戦い」の原因は、織田方に兵糧攻めされた大高城を救うため、今川義元が侵攻したとするのが現在の有力な説だ。今川義元は、駿府を発する四日前には三河守にも任ぜられていた。本格的な尾張侵攻に備え、まずは三河に拠点を作ることを考えていた可能性が高い。


ここで家康の陰謀説を展開するのは『徳川家臣団の謎』だ。信長は「桶狭間」で僅か二千の兵で今川義元の奇襲に成功した。それは今川方の機密を、家康が信長に漏らしたからだとする。確かに傍証ともなる史実はある。


家康の生母「於大」は水野家の娘だった。水野家が織田方についたことで家康の父、広忠に離縁され、水野家に近い久松家に再嫁していた。シリーズ藩物語『刈谷藩』によれば、義元から尾張に出陣を命じられた家康は、尾張に向かう途中で十六年ぶりに於大と対面(『徳川実記』にも記載がある)、その直後に織田方に包囲されているはずの大高城(名古屋市緑区)に奇跡的に潜入に成功していた。


このとき、家康が於大と水野家を介して織田方と通謀していたと疑うのも合理的だろう。『信長公記』「今川義元討ち死にの事」では有名なシーンが記録される。目と鼻の先の大高城に家康が入ったと知り動揺する家臣をよそに、信長は静かに床に就いた。早朝に飛び起きて「敦盛」を舞うと熱田神宮へと向った。そこに追いかけて来た兵のみを引き連れて、大高城とは逆方向でかつ遠方でもあった桶狭間の本陣に向かった。目前に迫った家康を無視したのだ。一方で大高城にいた家康は、信長出陣の報を受けても撃ち出ることはなかった。シリース藩物語『刈谷藩』は、家康は水野家から今川軍の敗退の知らせと「逃げよ」との連絡を受け、三河に退却したと記している。


退却した家康は織田方に追撃され三河の「大樹寺」で果てようとしたという伝承が残る。しかし実はそんな記録はない。敗れたとはいえ今川の兵力は二万、しかも背後には近江・伊賀・伊勢に勢力を広げた六角義治がいて、美濃の斎藤義龍(斎藤道三の子)と同盟を結んで、尾張侵攻の機会を覗っていたからだ。織田方には三河まで攻め込む余力などなかった。


一方で今川方は、桶狭間の戦いで岡崎城代だった重臣2名も失い、三河岡崎を家康に守らせた。しかし家康は翌年に織田・水野家と「清州(きよす)同盟」を結び、あっさりと今川を裏切る。歴史は大きな転回の局面を迎えることになる。


德川家臣となった神谷氏

『神谷氏系譜』では、神谷氏祖とされる高宗の子「宗利」が、清康の家臣となったとする。わずか数十年後には、なんと三十家を超える神谷家が家康に従っていた。


宗利から始まる神谷家の家系

・宗利 喜左衛門 仕岡崎次郎三郎清康君 法名銭宗利山
  正利 廣忠(家康の父)家康家臣(家紋 上藤丸二揚羽ノ蝶又丸二揚羽ノ蝶)
   正昌 家康家臣

    正次 家康・秀忠家臣

     正重 家光家臣 -神谷縫殿助家

     次重 -神谷八右衛門家(家紋 上藤丸二揚羽ノ蝶又丸二揚羽ノ蝶)

    裕継 家光家臣 -小林長兵衛家(神谷から小林に改名、家紋 上に同じ)

   正宗 家康・忠吉(秀忠の弟)家臣/尾張徳川家臣 -神谷喜左衛門家

      尾張徳川家臣 -神谷彦衛門家(二代で断絶)

   久房 -神谷彌五右衛門家

   吉武 尾張徳川家家臣(後福島と改姓・断絶) 

   正三 (家紋 上に同じ)-尾張徳川家家臣

     - 神谷平角家

     - 神谷半衛門家

     - 後に土屋家

    高春 家康家臣(丸二揚羽蝶)子は紀州徳川家家臣 -神谷傳右衛門家    

    某 - 神谷傳兵衛家

    某 - 神谷清兵衛家

    高冬 家康家臣   

   正信 在三河八名郡 水野家・徳川家家臣 -神谷平左衛門家

   吉久 水野家家老(家紋 亀甲ノ中ニ揚羽ノ蝶又五三桐)-神谷平七郎家

   直唯 水野家家臣 -神谷九衛門家

   直清 家康家臣(家紋 丸二揚羽ノ蝶又洲濱)-神谷小作家

   久好 廣忠・家康家臣 (家紋 丸二左追蝶又藤裏葉)-神谷與十郎家 

   信光 不明(家紋 丸二揚羽ノ蝶又輪違ノ中二四石)-神谷彌左衛門家

   昌勝 (家紋 上藤丸二揚羽ノ蝶) -神谷傳衛門家

   久猶 在三河桜井村(刈谷水野家、松平遠江家臣)

     -神谷玉助家

     -神谷清吉家

 高弘 家康家臣 三河宗定城主(現在の豊田市畝部東町宗定)

   忠縁 家康家臣(関ケ原参陣) -神谷彌五郎家

 宗政 (家紋 上藤丸ニ揚羽蝶 又 鴈木丸ニ揚羽蝶)

   清次(家紋 上藤丸二揚羽ノ蝶又揚羽蝶)-神谷與七郎家

   正兼 永禄三年5月19日戦死(桶狭間の日)

   正澄 永禄三年5月20日死(桶狭間の翌日)

   高友 家康・秀忠家臣

   高義 戸田松平家家臣

   高好 水戸徳川家家臣

 政利 廣忠(家康の父)家臣(家紋 亀甲ノ内ニ揚羽蝶) 

  正直 家康家臣 -神谷伊織家

  直好 北畠家家臣(同家滅亡後 伊勢から三河に移住)

  九郎太 今川家家臣

 高次 廣忠・家康家臣(紀州四日市)-神谷隆道家

  高清 三河𦊆(岡)崎 -神谷隆道家

  高春 家康家臣 -紀州徳川家家臣

   政本 家康家臣のち磐城平藩(安藤藩)家臣 

   某 -神谷傳兵衛家(後に三河松木村名主)

   某 住三河刈谷 -神谷清太夫家

 高冬 家康家臣 

 高興 三河金山城主 桶狭間戦死 子孫は水野家家臣 -𦊆谷氏

   -戸田家(信濃松平家)家臣

   -神谷伊左衛門家

   -𦊆谷(岡谷)惣助家 

※系図を追い筆者が整理した。誤謬は許されたい。家康は桶狭間に参戦していない。桶狭間の合戦で戦死した者が含まれ、うち2名は東端の神谷輿七郎家なのは今川家の家臣だったことを裏付ける。

※金山城とは美濃金山城か。なお神谷傳衛門家は武士を捨て名主となった。その末裔に牛久ワインの創業者がいる。


大周は次のようにまとめている。南朝功臣の神谷高正が永和貞治年間(1362-1367年ごろ)三河の碧海郡畝傍郷阿弥陀堂に囲われ、五代のちの永禄元亀天正(1558-1593)年間に徳川・今川・北畠に仕え、あるいは農民・僧となり子孫が繁栄した。家康が旗揚げしたとき参じた神谷家は数十家あり諸氏に仕えたが、明治維新で禄を失うと四方に離散したとする。


『神谷氏系譜』神谷大周の「序文」から引用

故神谷石見守髙正卿 南朝功臣而永和貞治年間
住三州碧海郡畝傍郷 囲城阿弥陀堂村 経於五世 
至永禄元亀天正年間 子孫繁衍(はんえん)

或仕徳川氏 或仕今川氏 或仕北畠氏 其他為士居僧侶農

當(まさに)東照公勃興 為旗下秦功賜録凡十数家主 

他仕諸侯多々各在家系 明治維新之際 當失士秩禄分離四方

※筆者の判読による。カッコ内は筆者が挿入した。


『神谷氏系譜』では『寛政譜』になく、源姓神谷氏だとする記録もある。鎌倉六代将軍のとき「大和国十市郡神谷荘」を領した「神谷家盛」の七代目「忠次」が三河の額田郡菅生和泉淵で家康に仕え「神谷庄右衛門家」「神谷平八郎家」を発したとする。しかし、神谷庄とするのは誤りだ。そこは『和名類聚抄』は大和和国十市郡神戸(かむべ)郷(奈良橿原市・桜井市近辺)で、後に伊勢神宮の御厨となり、承久の乱後に武家支配となっって神戸庄と呼ばれた。その神谷氏の家紋は「亀甲に揚羽蝶」であり、やはり平姓とみるべきだろう。また4代将軍家綱のころ長州藩の桜田館にいた「神谷勝詮」の子孫に「神谷五兵衛家」「神谷次郎兵衛家」があり「丸二井筒又鶴丸」を家紋とする。こちらは出雲神や妙見神の神戸(かんべ)との関わりがあるのだろう。


一方で『寛政譜』には載り『神谷氏系譜』に載らない例もある。別稿で触れた、いわき神谷(かべや)地区の一揆を裁断した勘定奉行を輩出した神谷武右衛門家である。さらに『神谷氏系譜』や『寛政譜』にも載らない神谷家の記録も確認できる。たとえば「山鹿素行」の『士談』には、三河の水野信元(-1576年)の家臣で勇将の誉れ高き「神谷金七」が家康の誘いを断って織田家の家臣となったことが記録される。金七はその後も家康の要請を拒み、1600年「関ケ原の戦い」の緒戦「大垣城の戦い」にて戦死した。しかし父祖の縁からと、家康が子の「神谷左馬助」を家臣として迎え入れたという。


この話には後日談がある。『名将言行録』によれば、主家を失いその後家康の家臣となった榊原小平太がいた。そのはな向けにと、古い甲冑・具足一式を譲ったのは前出の「神谷金七」だった。その古ぼけた鎧を身に着け、著しい武功をあげた小平太とは、のちの徳川四天王の一人「榊原康政」であり館林藩初代藩主となっている。出典を失念したが、神谷金七が譲ったその鎧は、現在も榊原家に家宝として伝わるとされる。


もうひとつ載せておこう。家康の家臣だった神谷富次は、結城秀康(家康の次男:松江藩松平家の祖)の家臣となり、その末裔は代々出雲松江藩松平家の重臣、神谷兵庫家となった。この他にも徳川家家臣として、神谷九右衛門、神谷半蔵、神谷与次右衛門、神谷善左衛門。三河小垣江地内城主として神谷与次郎などの名が残る。最終的に家康の周りにいったいどれだけの神谷家があったのか、その全貌はわからない。


作られた徳川家の伝承

ここから神谷家の出自にとって最大のキーとなる徳川家に迫っていこう。『三河物語』によれば、新田義貞の四男義季の末裔が下野新田荘得川(えがわ)郷(現在の栃木県太田市徳川町)を領していたが、永享10年(1438年)ごろ「徳阿弥」と称し放浪、三河に流れ着くと還俗(げんぞく)して賀茂郡松平郷の「松平太郎左衛門信重」の娘の婿となった。これが初代「松平親氏」だとする。『徳川実記』や『本朝通鑑』『三州八代記古伝集』にも同様の話が載る。


『三河物語』では親氏の強い決意が語れる。「尊氏に敗れた新田義貞の末裔は、放浪を続け十代にわたって本望を遂げることができなかった。今神仏の哀れみに助けられたので、一命をかけて領土を広げ、次の十代で必ず天下を取り、尊氏の子孫を絶やして本望をとげる。」(筆者による意訳)


『三河物語』松平親氏が決意を語った部分を引用

我先祖十時斗先に、髙(尊)氏に居所をはらわれて、此方彼方と流浪して遂に本望をとぐる事無し。我又此國得まよひき而、今また少し頭をもちあぐる事、佛神三寶も御哀れみも有るか。我一命を跡拾代之内に捧げ、此の辺りをすこしづつ戮(き)り取りかならず天下を治め、高氏(尊氏)先祖を絶やして本望を遂ぐるべきと被仰せければる。


家康はまさに十代目となる。実は似た話があった。政権を北条氏に奪われた足利氏には、「七代の孫に生れ代りて天下を取るべし」という置文(おきふみ)が残っていたという。その七代目とされた足利家時は未だ天下が取れずと嘆くと、八幡大菩薩に「子孫三代のうちに天下を取らしめ給え」と祈願して果てた。後者の置き文を、今川了俊や足利直義は確かに見たと『難太平記』は記録する。果たして三代目の孫が足利尊氏だ。つまり十代目までに足利氏は確かに天下を取っていた。


しかし足利氏は後醍醐天皇に「逆臣」と名指しされており、幕府の権威を笠に着た松平氏も「逆臣」となる。しかし南朝側についた新田氏の血筋なら、耐え忍んで自らが将軍となる機会を待つ大儀も成り立とう。それを助けるのは、妙見神を掲げ、鎌倉幕府や室町幕府の実現を支えた平姓千葉氏(つまり穎谷氏・神谷氏)であろうか。信長や秀吉と違って大変信心深く、『吾妻鑑』や『太平記』を愛読した記録が残る家康なら、そう考えたかもしれない。


幕末の話になるが、清国がイギリスに攻撃されていた天保12年(1841年)、高島秋帆が江戸幕府の命を受けて徳丸が原(現在の板橋区高島平)で洋式大砲の試射訓練を行った。そこは、家康が保護した平姓千葉氏の所領があった地だ。陣を置いた松月院(曹洞宗寺院)は千葉氏の菩提寺でもあり、現在も「三葉葵」の紋を掲げる。


徳川氏の改姓問題

三代信光が建立した妙心寺(岡崎市)の阿弥陀像の銘文に「加茂朝臣」と記録されている。従って、松平氏は加茂姓を称していたことは間違いない。『家康の改姓問題』では松平家は三河国賀茂郡松平郷を発祥の地とした在地領主で、本来は在原(ありわら)姓で代々が賀茂神社の荘官(神官)を務め加茂姓を称したとする。徳川家の家紋「三葉葵」も加茂(賀茂)神社の家紋「双葉葵」が由来だろうとしている。


そんな家康が三河にいる鎌倉以来の多くの名族を配下に納めるには「三河守」の地位が必要だった。しかし松平氏は伊勢氏の被官で、しかも家康はその分家の分家(次郎三郎家)だった。松平氏が三河守となった前例もなく「三河守」に任じられる可能性はなかった。

※源氏なら三河守となった前例に源範頼(頼朝の弟)や、新田頼氏(得川頼氏)がある。新田の末裔なら、可能性があると考えたかもしれない。


家康がなぜ三河守になれたのか。『徳川家康の源氏改姓問題』では、朝廷内の事情を知る立場にあった当時の関白、近衛前久(このえ-さきひさ)の書状がカギを握るとする。家康は神祇官の吉田兼右(かねすけ/かねみぎ)に三河守になるための工作をしたが、正親町(おおぎまち)天皇から勅許が下りなかった。そこで兼右が、万里小路(までのこうじ)家の旧記から「(徳川は)本来は源氏だが惣領の筋が二流に分かれて、その一つが藤原氏になった」という珍しい系図を見つけ、それを天皇に示すと勅許が下りたと明かしている。こうして永禄九年(1566年)家康は「従五位下三河守」に叙され、家康は藤原姓の「藤原朝臣家康」と名のって、氏を松平から徳川に改めた。


当時の官位叙任の天皇の口宣(くぜん:天皇の口勅を文書にしたもの)には、源、平、藤原など正式な姓が記されていた。実際に天正14年(1586年)の權中納言に任官するまでの口宣では20年に渡って「藤原朝臣家康」と記されている。しかし徳川家が藤原氏とされた事情は現在も不明。『徳川家康の源氏改姓問題』では「藤原氏の人間を養子ないし婿養子に迎えたなどしたことによるものであろうか。いずれにしてもこの系図の記載を先例として執奏して、天皇の勅許を得たという次第である。」とする。


天正16年(1588年)、後陽成天皇の行幸の記録『聚楽行楽記』から、家康が初めて公式「源朝臣家康」としたことが裏付けられる。将軍義昭が出家し、『公卿補任』で足利将軍家が途絶えたとされてから、わずか三か月後のことだ。これにより家康が源氏長者(源氏の筆頭)を継いだとみなされた。近衛前久の文書では、このときの事情を、家康が源姓の吉良家の系図を借り、「今度は源氏となって征夷大将軍を得た」と記録する。


「近衛前久」の書状から引用(『徳川家康の源氏改姓問題』から)

いにし(かつて)彼家徳川之事、訴訟候と雖も、 先例なき事は公家にはならざる由、叡心(天皇の御心)にて相滞(とどこり)候を、吉田兼右、万里小路にて彼の旧記に注置かれ候う先例に之在り候、一冊を披見せしむるを、兼右はなかみ(懐に入れていた紙)に写取りて、われわれにくれ候、其趣を以て申候へば、(天皇が)見合わされ勅許候、諸家之系図にも乗らざり候、德川は源家にて二流のそうりやう(総領)の筋に藤氏に罷成(まかりなり)候、それを兼右写候えて、鳥子(高級な和紙)に則ち其系図吉田書侯て、朱引までし候を其儘(そのまま)下だし、兼右馳走(兼右に仲介を依頼した)之筋、誓願寺の内に慶深とて出家候、鳥居伊賀(家康家臣の鳥居忠吉)取次候て(中略)
只今(ただいま)は源家に又氏をかへられ候、只今之筋はそしのすちにて候、其砌(みぎり)より如雪と申す者申候は、将軍望に付候ての事と申候、(新田)義国よりの系図を吉良家より渡り候ての事、永々敷(ながながしき)、子細入らざる事に候へ共、御存之がためにて候

※筆者が漢式和文を読み下し、カッコ内の解説を加えた。誤謬は許されたし。なお旧字体では「近衞」と書いた。


日光東照宮には家康に与えられたすべての口宣が現存するが、全てが「源朝臣家康」とあり「藤原朝臣家康」は存在しない。現在の研究により、その理由は、家光の正保二年(1645年)散逸したものを補填するという名目で「(藤原から源に)改竄されたことは明瞭」と決着している。


『寛政譜』によれば、加茂氏が出自で神官だった神尾(かんを)氏が、後小松天皇の御勘気を被り京から追放されたが、将軍足利義教の富士山遊興の際に神官として召され、今川氏に仕え、のちに徳川家臣となったとする。しかし、「寛永のころ故ありて氏(姓)を藤原にあらたむといふ」とし、神谷家と同じく「藤原支流」に載せる。ここまで饒舌だった『寛政譜』はなぜか突然その事情を黙して語らなくなる。「寛永のころ」とは、まさに徳川家のの出自の改竄が行われた時期だ。

※古来の発音「神尾(かむを)」は本来の出自とされた「加茂(かも)」が由来だろう。神尾の尾(を)は山の裾(すそ)を指し、神谷と対をなす名字ともいえよう。


もうひとりの神谷高正

『尊卑分脈』で宇都宮氏は藤原道兼の後裔とするが、それは後世の仮託であり、『宇都宮市史』や『姓氏家系大辞典』などでは、地元の豪族「中原氏」もしくは「毛野氏」の後裔とすしている。また、大久保氏が宇都宮氏の血筋というのも、そもそも仮冒とされている。しかし本稿では、これらは問題の本質ではない。少なくとも『寛政譜』の編纂時においては、大久保氏や朝岡氏は「藤姓 宇津宮(宇都宮)氏流」と分類されているのに、なぜか神谷氏だけ「藤原支流」に除外されたのは、特別な事情があったはずだからだ。


一つの鍵を大周は示していた。『神谷氏系譜』にのる高正にはもう一つの系譜がある。宇頭聖善寺(現在の愛知県岡崎市宇頭町)では松平二代の「源泰親」が神谷氏の娘を娶り、生まれた子が神谷家を継ぎ従五位下「神谷石見守高正」となったとするのだ。


松平奏親は室町中期の応永33年(1426年)、実在した記録が残る。伊勢氏の被官として急激に台頭し、三河にいた「奉公衆 一番」神谷氏の娘を迎え、子の高正に神谷家を継がせたと考えることもできよう。であれば松平中興の祖とされる三代「松平信光」と、神谷氏伝説の祖「神谷高正」は兄弟で、揃って三河の有力者だったことになる。「信光」は三河守護一色氏の娘を迎えており、応仁の乱ののち八代将軍義政の命を受け、額田一揆を平定して三河一帯に勢力を広げた新興勢力だ。「神谷高正」はこれに協力していた可能性が高い。


信光の最終的な官位は「従五位下和泉守」(『朝野旧聞裒藁』)とされる。同じころ記録される奉公衆一番「神谷左近將監」の官位は「正六位上」でありその名は不明だ。仮に後の「従五位下石見守」神谷高正だとしても、時代や地域そして両氏の協力関係から大きな矛盾はない。


『神谷氏系譜』で神谷氏祖とされる「高正」の記述(聖善寺系譜部分)

髙正(中略)
三州宇頭聖善寺系譜請云 源(松平)泰親公 寵神谷某女
生男子 是號豊千代丸 泰朝養之成長之後 嗣系圖改稱 神谷喜右衛門親朝 

其後叙従五位任石見守 改高正按神谷氏而

或(おそらく)稱源姓者 蓋胚胎此耶

髙正母 正峰幸元善女 

至徳元年(1384)子九月十六日歿 葬同(聖善)寺

明(明かす)聖善寺系譜云 源泰親公(松平泰親のこと)

※筆者判読による。カッコと空白は筆者が挿入、改行位置も変えた。養親「泰朝」は前述幸福寺系譜では「宇都宮泰藤」の三男で高正の父と記録される。なお大周は、松平氏との縁組を根拠に源姓神谷氏の祖とするが、もちろんこれは誤りだろう。


聖善寺の系譜では、高正の子「高則」が三州岩津村(現在愛知県額田郡岩津町)で信光に仕えたが出家し武家を捨てたとする。高則は蓮如に「西圓房」の法名を授けられ、文明四年(1484年)寂している。確かにそのころ本願寺中興の祖とされる蓮如(れんにょ)が矢作川の東に三河への布教の拠点として「本宗寺」を創建(1468年)していた。聖善寺が残したこれらの記録は蓮如や泰親・信光の活躍時期と照らし合わせ辻褄が合う。その後、高正の子孫は武家を捨て代々出家して浄土宗の僧となり明治を迎えた。つまり神谷高正の直系は武家としては途絶えたことになる。


『神谷氏系譜』宇頭聖善寺系譜から神谷高正の子「髙則」

髙則
次郎左衛門 住三州岩津村後移 同國碧海郡宇頭村 文明十五年(1484年)
癸卯三月十一日寂 年九十 法名 西圓房 宇頭聖善寺系譜云 奉仕源(松平)信光

忠勤之勇士也 于然(これしかり)蓮如上人 於當國栁(柳)堂御説法聞

勤専修念佛 義厭離心起深自切髷(鬍)爲御弟子 賜法名西圓房 

其上為御紀念 賜六字名號(波阿弥陀仏のこと)

此時聖善寺 再建而為入寺西圓房 當寺中興開基也


一方で、幸福時の系譜では神谷高正は南北朝代の明徳五年(1394年)三月十四日卒とある。これはおかしい。聖善寺の系譜で高正の父とされる松平奏親が15世紀前半に活躍した記録があり、子であるはずの高正は父より100歳以上も年上だ。さらに、幸福寺で高正の子とされた高則の没年は文明十五年(1484年)齢90、つまり聖善寺の高正の没年に子の高則が生まれたことになる。実が幸福寺の高正以降の数代の記述は、これ以外に数々の矛盾や作為が見える。


もし幸福寺の記録が誤りで、聖善寺の系譜が正しいとすれば、伝説的な人物「神谷高正」は松平信光と異母兄弟で、15世紀中ごろつまり応仁の乱(1467年-)前後の人物となる。すると多くの疑問が一気に解決するのだ。神谷高正が将軍家御料地である三河に領地を持っていたことや、神谷高正の没年が北朝年号で記されたこと、そして伝説の祖とされる高正の業績が何も伝わっていない理由も推定できよう。聖善寺に高正とその母の墓が残り、位牌は幸福寺にあるとう事情もわかる気がする。


当時、東三河に侵攻しつつあった今川方に与した神谷氏は、松平家を攻める体制が整った。従って、松平家は生き残るために神谷氏と和解する必要性があった。高宗が城主を務めた阿弥陀堂村城とは、東端村の大樹寺のことだったなら、伊勢宗随(北条早雲)が今川方として、1506年に東端の大樹寺に陣を置いたことも説明できる。江戸時代に、三河東端城主だったとの記録が残る神谷家が最も家格が高いこと、そしてこの神谷家が秀郷流だった伊賀光季の後裔とされることなど、神谷家の本当の系譜もいろいろと合理的に説明できてくる。


その背景には伊勢氏がいた。それは通字からも読み取れる。政所執事「伊勢貞親」の偏諱を受けていたのは、松平二代「奏親」や「親長」「親忠」「長親」などだ。伊勢貞親の子で、応仁の乱のころに幕府で絶大な権力を握った「伊勢貞宗(1444-1509)」の「宗」の偏諱を受けたと推測できるのは、三河貞宗城主との伝承が残る「神谷宗弘」、今川に迎えられた阿弥陀村城の「神谷高宗」、その子で清康(1511-1535:家康の祖父)に仕えた「神谷宗利」などだ。


さらに安城松平家2代当主「松平信忠」(1490-1531)の「忠」は、伊勢貞宗の孫「伊勢貞忠」(1483-1535)の偏諱をうけた可能性がある。伊勢貞忠は12代将軍義晴に仕え、事実上足利幕府の実権を掌握、松平清康が安城松平家を継げた理由もこれかと推測できる。清康以降は「忠」は安城松平家の通字となり、長男(家康の父)「廣忠」や、家康の三男「秀忠」、四男「忠吉」、六男「忠輝」などで使われている。


応仁の乱のころ急速に力をつけた松平信光は、48人の子を三河各地に分封したとされる。水野家の娘だった家康の生母於大の方は、のち久松家に嫁ぎ、久松家はのち久松松平家を名乗っている。応仁の乱の頃の神谷高正の直系が、のちに神谷松平家と呼ばれた可能性も否定できまい。江戸時代に将軍家の「膳部」を務めた神谷家には、松平三代信光の家紋と同じ「蔦」が伝わっていた。


この仮説が正しければ、何らかの意図があって、応仁の乱の時代を生きた神谷高正を、南北朝時代に改竄し、200年を埋める架空の系譜を作り、さらに妙国寺にある南北朝時代の宇都宮氏と関連付けたと考えることもできよう。

※『寛永譜』によれば家康の祖となる松平三代「信光」の孫の貞福が形原を領し、弟の貞谷は出家したとする。形原松平に関するHPの記述と記憶するが(失念した)、貞谷は後に壁谷を名乗ったという。形原にいた壁谷家を養子で継いだ可能性があろうか。形原城跡に近い現在の蒲郡市形原町御屋敷・古城の地名が残る地域は、現在も壁谷が極端に集中して居住している地域である。


家康が三河守となれた本当の理由

実は神谷家の系譜の改竄には、大きな意味があった。天皇は家康に三河守の勅許を与えなかった。しかし、創作された「和田妙国寺」と「幸福寺」の大久保家・神谷家の系譜を繋げば松平家は「二流の惣領」(松平信光と神谷高正)に分かれ、神谷高正は藤姓宇都宮氏流となる。その曽祖父となる宇都宮時綱は「三河守」だった。つまり安城松平家が神谷高正の血筋ならば、天皇が言う「先例なき」は否定され、家康が三河守となる条件はクリアされる。


しかも、この「珍しい系図」をもたらした「万里小路春房」は、京を追放され娘婿だった奉公衆「一番 朽木貞綱」に匿われていた。つまり「一番 神谷」氏と関係は深い。応仁の乱が始まると将軍義政に請われて伊勢氏や「一番 神谷左近将監」らは復帰、「伊勢貞宗(1444-1509)」が政所執事となって一層勢力を強めた。


しかし春房は戻れず万里小路家は断絶したが、すぐに再興された。その万里小路家に「松平信光と神谷高正が兄弟」を示す文書があった(とされた?)可能性は十分ある。それを天皇に示すだけで家康は三河守になれるからだ。実は正親町(おうぎまち)天皇の生母は万里小路栄子だ。天皇も万里小路家の文書を無暗に否定はできまい。現在も解明されていない、家康が藤原氏となって三河守を得た理由とは、まさにこれではないのか。

※秀吉が関白になれたのも、近衛前久が秀吉を猶子(養子のようなもの)として迎えたからだ。この時も正親町天皇である。応仁の乱を経て京は荒れ果て貴族は困窮を極め、前久でさえ各地を放浪している。秀吉や家康は当然大金をもって地位を得たと思われるが、貴族側にとっての大義は先例・血筋にのみあった。


後に吉良(きら)氏の系譜を借り、今度は源氏だと称して将軍になれた徳川家としては、神谷氏との記録を抹消する必要があったはずだ。寛永の頃、徳川家が藤姓を騙った過去の記録を改竄している。このとき、神谷家の系譜は改竄を免れなかっただろう。そして徳川政権が安定した寛政のころ『寛政譜』になって、神谷家の伝承の一部が「今の系譜」として掲載できるようになったのではないだろうか。これなら、共に藤姓宇都宮氏流とされていた大久保氏、朝倉氏は改竄されず、神谷氏だけが変更されて、論評すらされなかった事情も説明ができる。


江戸時代の神谷氏の出自

家康は鎌倉以来の旧家を次々に家臣に取り込んでいた。「黒衣の宰相」の異名をとった金地院崇伝は、室町将軍の御供衆(おともしゅう)だった一色氏だ。また源氏の系図を貸して家康の三河守就任を可能にした吉良氏も、儀式や典礼を司る高家筆頭となった。奉公衆四番の朽木氏も若年寄など幕府の要職を得る地位となっている。政所執事だった伊勢氏も、武家の作法に関わる有職故実を担当した旗本となった。奉行衆一番だった神谷氏が、江戸幕府に迎えられなかったと考えるのは不自然だ。


現在の福島県いわき市のHPでもいわき平の神谷(かべや)の地は、鎌倉時代から神谷氏が治めていたため神谷の名が付いたとされる。冒頭で述べたとおり、その穎谷/神谷(かべや)氏が、伊勢や京に中継する拠点として鎌倉時代の三河の神谷御厨があり、その一族が「奉行衆 一番」の神谷氏ではなかろうか。


鎌倉時代,頼朝は田村麻呂が奥州に「鎮守府八幡」を勧進したことに驚き、以後は鎌倉幕府が守ると約したと『吾妻鏡』は記録する。1186年、頼朝は岩清水八幡の分霊を派遣しいわきの地に「飯野八幡」を作った。そこに派遣されて預所(あずかりどころ)といわれる在地領主となったのが鎌倉幕府の重臣、伊賀氏だった。伊賀氏は、のち岩城氏家臣となり飯野郷(現在のいわき市平八幡)を領すると飯野氏と名を変え、古社「飯野八幡」の神官も兼ねていた。室町初期に伊賀盛光・盛清らは、いわきの地で佐竹氏配下として、平姓「穎谷(かびや)大輔」(のちの神谷氏)のもとで戦った記録が『飯野文書』や『南北朝遺文』に残る。


常陸、磐城は佐竹氏、岩城氏が治め、神谷氏と伊賀氏がいわき平の地頭をつとめていた時代が平安時代から室町時代まで数百年も続いていた。平姓岩城氏、平姓神谷氏、藤姓伊賀氏は当時「一揆」といわれた強い血縁関係を互いに築いて事実上同族化していた可能性が高い。しかし関ケ原で徳川に反目した岩城氏は、いわきの地から追放され、佐竹氏も秋田に転封となった。江戸時代の神谷氏が岩城氏の血筋を積極的に主張するのはまずい。頼朝に託されたいわきの地と八幡神社だ。神谷氏の祖紋「揚羽の蝶」、伊賀氏と奥州藤原氏の「藤」でその歴史を誇ればよかったのろう。


江戸時代に水戸藩の支藩となった常陸笠間藩が、いわきの地にポツンと飛び領地「神谷(かべや)」陣屋を置き「飯野八幡」を護り続けた。この笠間藩の当初の藩主は既出の永井右近。その家老は神谷家で最高の石高(二千石)を誇り、『寛政譜』の「今の系譜」で三河額田郡(現在の愛知県岡崎市)神谷村に在し「伊賀氏の末裔」「平氏といふ」という二つの伝承を残す「東端」神谷輿七郎家の血筋だった。頼朝から託された「神谷(かべや)」の地と「飯野八幡」を江戸時代も安堵され、同時に現地の佐竹・岩城旧臣の暴発を抑える役目も負わされたのではないだろうか。

※以前、常陸笠間(旧称 真壁)は平姓真壁氏が領していた。なお神谷陣屋の敷地は現在、いわき市平中神谷石脇にある平第六小学校となっている。

※「伊賀氏」が領していた、いわき飯野にも三河と同じ「東端」の地名がある。「ひがし-はた」とは、秦(はた)氏の東国の拠点だった可能性について別稿で触れる。


江戸中期、神谷の地で起きた「 磐城平元文一揆」では、岩城家旧臣らを巻き込み、磐城平城を降参させるまでに至った。幕府は首謀者だった「壁谷村武左衛門」の処刑を決め、磐城平藩は、なんと九州延岡にまで転封された。それを裁断した勘定奉行は「神谷武右衛門家」の神谷志摩守久敬だった。(第5稿、6稿、16稿を参照)神谷氏と伊賀氏の関係が書かれる『飯野家文書』は『藩翰譜』の作成で新井白石が参照していた記録が残る。徳川家の出自の改竄にも関わるなら、少なくとも江戸時代前期、神谷氏はいわきの神谷氏との関係を語ることは許されなかったろう。これらが『寛政譜』にある神谷氏の矛盾の理由だったろうか。


神谷(カメガイ)氏

太田亮は『姓氏家系大辞典』で「一番」の神谷四郎は、伊勢の神谷(カメガイ)氏であるする。その根拠は『見聞諸家紋(けんもんしょかもん)』(以後『諸家紋』とする)の写本に「神谷(カメガイ)」とあること、『足利武鑑』で「一番 神谷四郎」「一番 神谷左近將監」があること、そして足利義政の時代『康正造内裡引付』に「伊勢 太子堂分」として神谷四郎が断銭(一種の税金)した記録があることだ。応仁の乱の前後で幕府に神谷氏の記録は限られており、これらを同一とする太田の見解は一見して合理的だ。


太田亮『姓氏家系大辞典』から引用 神谷氏の9番目

神谷
9.伊勢の神谷氏 當國の豪族にして、正訓カメガイなりと。 『康正造内裡引付』に
「二百文、神谷四郎殿、伊勢國朝明郡太子堂断銭」と。次いで『永享以来御番帳』に

「一番神谷四郎、」『文安年中御番帳』に「一番神谷四郎」、『常徳院江州動座着到』に「一番神谷左近將監」、

『見聞諸家紋』に、

  神谷

 カメガイ

※カッコは筆者がつけた。『康正二年造内裏断銭并(ならびに)国役引付』は『群書類従』(巻二十八)『常徳院江州動座着到』の常徳院とは将軍義尚(よしひさ)で、「長享二年」(1488年)の六角氏征伐の出陣で神谷氏が江州(近江)に到着したことをさす。


しかし、これには疑念が残る。長享二年(1488年)に「神谷左近將監」が9代将軍に随行しており、神谷氏は東軍に属していた。そして神谷四郎の記録は「永享・文安」、太子堂断銭の「康正二年」と、どちらも応仁の乱以前だ。しかし応仁乱以降は旧来の権威が崩壊し、将軍家を護る「奉公衆」は各地に散った。「奉公衆 一番」だった伊勢宗瑞(北条早雲)も、代々の所領・備中荏原庄(現在の岡山県井原市)を捨て、駿河に移って今川氏と手を組んだ。(『北条氏康』PHP文庫)これに神谷氏が応じて松平氏を責めた可能性の高さは既に触れた。数百年にも渡って護ってきた領地を捨て生き延びることを選択していたのだ。


『諸家紋』が完成した1510年ごろ、幕府の権力は西軍側が握っていた。ときの12代将軍は足利義植(よしたね)である。実は西軍側の「義材」が10代将軍となるも、明応の政変で「奉公衆 四番」と共に越後に逃れ、大内氏の支援で再び京に上り改名し将軍に返り咲いていたのだ。(『足利義材の西国廻りと吉見氏』による。)それでも、同じ神谷氏だと断言できようか。


写本に目立つ致命的な間違い

それだけではない。実は『見聞諸家紋』の信憑性に大きな疑念がある。『「見聞諸家紋」群の系譜』では、現存する29種の信頼に足る写本を評価分析している。『諸家紋』は室町幕府の「幕府評定所」が作成した『見米耳諸家文(けんもんしょかもん)』が祖本で、「米耳(もん:上下で一文字)」とは、長安の『孔子廟堂碑』に残る虞世南(ぐせいなん)の筆以外に使用例がない。重みのある文字で幕府文書として権威を加えたとする。


先行研究から、掲載家紋は文明二年(1480年)8月4日以前のものとし、作成目的は応仁の乱で全国から京に上った軍隊を識別するため、東軍に参加した各家の家紋を「室町幕府評定所」が編纂したものだという。これを1510年「立雪斎」が最終的に整理して作成、家臣に下(くだ)した書類が、たまたま後世に残ったとしている。


「立雪斎」とは幕府文書を代筆して発行する役目を担っていた政所執事代「蜷川親元」であり、その直属上司も政所執事「伊勢貞親、貞宗」親子だ。そして作成を指示したのは、応仁の乱で東軍の総大将となった「細川勝元」だとする。


何世代もの写しの過程で、表題が『見聞諸家文』と変わり「東山殿御紋帳」とする副題まで加筆された。それは大きな誤りではない。しかし、写本のほとんどにある「立雪斎書之(かきおわる)」は致命的な誤りだ。「下書(したがき)」では価値が下がると考えた写本者が勝手に修正したものだとする。すると信頼に足る写本は29種のうち、わずかに2種のみとなる。


その2種でさえ「下書(したがき-す)」「下書了(したがき-おわる)」とカナが間違えている。実は「したがき」ではない。正しくは臣下に「下(くだ)す」という権威ある言葉で「下書(くだしがき)」「下書了(くだしがき-おわんぬ)」なのだ。つまり現存する全ての写本で知識なき改竄がされていたのだ。実はフリガナは江戸末期に町人が振ったもので、信憑性は相当に低い。


永享(1430年ごろ)の『武鑑』の写本には神谷(かミや:「ミ」は「み」の変体仮名)とある。しかし後書き(うしろがき)を見れば、江戸時代末期の文政五年(1822年)「閒鐘山人」が校正、さらに文久三年(1863年)に「希言子梅年」が編集したものを日本橋の骨董品屋「金花堂須原屋佐助」が刷って販売したされている。「希言子梅年」とは、当時町人の間で一世を風靡した軍記物『太田道灌雄飛録』の著者、木村忠貞だ。また『足利武鑑』の編者も「希言子梅年」であり、浮世絵の版元として有名な江戸横山町の「岩戸屋喜三郎」によって文政三年(1820年)春に出版されたものだった。


なお貴族や僧侶の秘蔵の日記として信頼性も高いとされる『御湯殿上日記』や『多聞院日記』には、同時代の長曾我部(ちょうそかべ)氏が「ちやうすかめ」「チヤウスカメ」とカナ表記されている。当時「かべ」の音は京では「かめ」と解された。つまり京で「神谷(かめがい)」と聞こえたなら、本来の発音は「かべがや」だった可能性がある。


※風水で皇子を護るとされる「壁宿」は北方玄武にあり、その神獣は亀(かめ)である。

※多くの資料では「熊谷(くまがい)」は「くまがや」に変化したとする。これは逆であろう。源平合戦の熊谷次郎直実は、現在の埼玉県熊谷市(熊谷郷)を領したのが始まりとされ、当地は「くまがや」と発音する。『熊谷家文書』や『吾妻鏡』も「くまがや」としている。似た例で「榛谷(はんがい)」も「はんがや」が古来の発音だろう。『吾妻鑑』には榛谷御厨(はんがやの-みくりや)を領した「榛谷重朝」が登場。当地(神奈川県横浜市)には現在も「半ケ谷(はんがや)」の地名が残る。当地には、古来の発音が現在にも伝わっているともいえよう。いわき「神谷(かべや)」もその一であろうか。

※東軍側では丹波に神谷氏がいて家紋は「三つ割三つ梶」で『諸家紋』の「カメカイ」氏のものと一見して一致する。しかしそうであれば「がんだに」であろう。延喜式神名帳に丹波「神谷神社(かむたにのじんじゃ)」が記録され、鎌倉期に「かんだに」に変わったはずだ。現在の当地名も「かんだに」だ。しかし現在の神社名は「かみたに」に変化している。


『諸家紋』にのる「神谷」

太田が「伊勢の神谷氏」とする最大の根拠は『康正造内裡引付』(『群書類従』従28編雑部4)の「二百文、神谷四郎殿、伊勢國朝明郡太子堂断銭」にある。康正二年(1456年)は内裏の修繕費用として、神谷四郎は伊勢の太子堂領の分の断銭を払っていた。しかし「一番の神谷氏」を「伊勢の神谷氏」と断定するのは早計だ。


林家辰三郎『南北朝』によれば、足利幕府が徴収した段銭の額は「一反の農地につき百文」。田んぼ一枚が一反だ。伊勢國太子堂(三重県四日市市付近)の少所領は田んぼ二枚だったことになる。神谷氏が田んぼ二枚の領だけで、家臣や使用人を抱え、京に常在する「奉公衆一番」をこなし、近江の六角氏征伐にまで出陣するというのは不可能だろう。


同じく『康正造内裡引付』に名前が載る「四番 佐竹泉守」も和泉国鶴原庄の分として「五貫文断銭」と記録され、神谷四郎の50倍だ。「四番 佐竹泉守」の祖となる佐竹宣尚は、美濃長山当主の長山義基(佐竹義基)の子であり、各地に所領があって、明徳年間(1392年ごろ)にはさらに丹波国桑田寺、和泉国鶴原庄などを追加されている。(『「坂出文書」と奉行衆佐竹氏』による)


『室町人の精神』によれば、室町当初は国司(後に守護)が徴収して幕府に納める「段銭守護請」だったが「守護の代官が荘園・所領に入部する権利を正当化するため、それを嫌う荘園領主や近習・奉行衆の中には幕府に申請して断銭免除や、守護を介さず幕府に断銭を納入するようになった」とする。奉公衆だった「神谷四郎」も同じだったはずだ。しかし康正二年(1456年)当時、伊勢は南朝の系譜を引く北畠教具( のりとも)が国司と守護を兼任、絶対の権力を握っていた。ために神谷四郎も、断銭免除や断銭京済を受けられず「伊勢國朝明郡太子堂」分の記録が残ったと考えられる。

※太子堂は聖徳太子を祀った仏堂であり、その維持のために必要な飛び領地であろう。太子と関係が深い壁谷については別稿で触れている。また伊勢鈴鹿には神戸(かんべ)氏がいて、そこには壁谷の地名が残っている。


『諸家紋』では最初に吉良、土岐、仁木、今川、武田、伊勢、千葉、宇都宮と名門が並び、それぞれ家紋の横に「一番」と添え書きれる。次いで「二番」「三番」「四番」も登場するが、後半になると「奉公衆」は登場しない。しかし神谷(かめがい)氏は末尾近くでやっと登場「一番」の添え書きすらない。当時は序列が極めて重視されており、幕府文書としては大いに疑問が残る。


実は『諸家紋』の写本は掲載順が不自然に変更されていることが既に指摘されている。その事情は現在も解明できていない。江戸初期に新井白石が『諸家紋』の写本を作った記録がある。もし『諸家紋』に「一番 神谷」とあれば禍根を残すと考えた。そんな可能性もあろうか。

※『諸家紋』の神谷氏家紋の判読は難しく「丸に三つ割り梶」か「丸に三ツ割柏」だろうか。松平三代信光の「丸に尻合わせ三つ蔦」にも見える。なお『神谷氏系譜』では元北畠家家臣だった神谷直好が、伊勢から三河に移って家康に仕え、その家紋は「亀甲紋」と伝わるとする。信長によって北畠家が滅ぼされており、神谷家の傍系として加わった可能性は当然あり得よう。


神谷家・水野家の関係

家康の高祖母は刈谷城主水野忠政の姉で、実祖母(源応尼)や実母(於大)も、忠政の元妻、そして娘だった。しかし家康の祖父清康と父広忠は、今川と手を組み松平家から離縁されている。一方で家康は源応尼と於大に育てられた。これが家康が今川を裏切り、織田・水野と手を組んだ理由のひとつであろう。


安城松平家、水野家、神谷家は、三河の矢作川流域(矢作古川)で、数世代に渡って強い血縁関係で結束していたはずだ。しかし、今川に近い神谷家と、織田と近い水野家では、桶狭間後に地位が逆転しただろう。これが神谷家が水野家の家臣となっていること、東端城主の地位を永井氏に奪われた可能性などに繋がるだろうか。家康に神谷高正の血が流れていた可能性も否定できない。今後の研究成果に期待したい。


今後整理すべき課題

1)太閤検地資料で関白豊臣秀次領の三河国碧海郡(現在の愛知県岡崎市)に、榊谷九右衛門が記録されるが、榊谷の記録は少なく、神谷だったかもしれない。事実三河碧海郡では豊臣家臣に神谷氏の記録があり、神谷九右衛門が元和五年(1620年)の『尾州藩分限帳』に載っている。


『豊臣期検地一覧(稿)』から一部を引用

天正十七年 八月-十二月 三河國 徳川家康領 神谷新九郎
天正十八年 十月-十月 伊豆國 徳川家康領 神谷勘右衛門
天正十八年 九月-十二月 三河國 豊臣秀次領(碧海郡) 榊谷九右衛門


2)「穎谷三郎」は「三位房子息」と記録される。三位房とは日蓮の有名な高弟で、下総(千葉県)の平姓曽谷(そや)氏一族とされる。三位房の兄、曽谷二郎の娘は後に千葉家の当主となり室町幕府の重臣となった千葉貞胤(1292-1351)の実母である。曽谷氏と穎谷氏は同じく千葉氏の一族とされており、共に尊氏側で戦っている。足利尊氏が幕府から寝返った経緯にも接点があることは別稿で触れた。


『日本姓氏語源辞典』では島根県(石見国)の「貝谷(かいたに)」の名字が、かつて磐城で「穎谷」と名乗っていたという伝承を記録する。これは「穎谷(かびや)」が「貝谷(かひや)」とも発音されたされたことを示唆する。貝谷は会谷とも書く。旧字なら「會谷(かひや)」となり筆文字で「曾谷(そや)」と見分けがつかない。穎谷氏と曽谷氏は、実は同一だったのではないだろうか。


「会谷(かひや/あいや)」はさらに「愛谷」にもなったかもしれない。室町時代の『岩城四十八館』には、神谷館、愛谷館、絹谷館の名が残り、いわき市神谷(かべや)の地には「愛谷(あいや)」の地名も残り、壁谷が多数居住する石森山は「絹谷(きぬや)富士」とも称する。


3)『延喜式』で別格とされた「神宮(かむのみや)」は「伊勢」を除けば「鹿島」、「香取」の二つのみだ。どちらも平安から戦国までの長い間、岩城・千葉氏の支配下だった。特に建御雷(たけみかづち)神を祀った「鹿島」は武神とされ武家を中心に尊崇を集めた。後に神宮と呼ばれるようになった尾張「熱田」・越前「氣比」・豊後「宇佐」や、大社とされた「出雲」も武士に尊崇された。


祭で神が降臨するのは「借屋(かりのみや)」で、天皇が行幸(みゆき)で使う「行宮(あんぐう)」も仮宮(かりのみや)と呼ばれた。こうして「かりや」は名字の地となったろう。三河苅谷(現在の刈谷市)は水野家の領地であり、そこには旧家と伝承される「刈谷」家があった。


4)太田亮の『姓氏家系大辞典』につき、既に示した9番目を除いた「神谷」氏を以下に引用する。平安時代から室町前期までの記録が残る神谷家は、関東・東北にあった平姓の岩城・千葉氏流の神谷氏だけだ。神谷氏の祖とされた伊賀氏も、鎌倉時代から磐城の地を収めた記録がある。神谷氏の始まりは奥州藤原氏の庇護のもと関東・東北に拠点をもった平姓の千葉氏、岩城氏流を祖とし、これに藤姓秀郷流伊賀氏の血が混じったと考えるのが説得力があるだろう。


『姓氏家系大辞典』太田亮「神谷」

神谷 カミヤ カミタニ カメガイ カベヤ
武蔵、上野、磐城、播磨、紀伊等に此の地名あり。叉神屋、紙谷、紙屋。上谷、上屋等と通ずることあり。併せ見よ。
1.桓武平氏磐城氏流、「磐城國磐城郡神谷邑(むら)」より起こりならん。「カベヤ」なりと。岩城義衡の子神谷三郎基秀の後にして、磐城系図に「平次郎隆守-左衛門二郎義衡-基秀(穎谷三郎)」とある、これなり。四拾八館記に「神谷平六郎忠政」見ゆ。

2.桓武平氏千葉氏流「同上(※磐城國磐城郡)神谷邑神谷館」は千葉氏の族斎の居所にして、千葉族の氏神妙見を城内に祀るが故に、妙見館と云うなりと。卽ち此の氏は、相馬、大須賀等の同族と共に、當地方に下向せしにて、白土邑を領せしにより、白土氏とも呼ばる。戦國の頃。「妙見館主白土入道運隆」あり、その後裔なりとぞ。されど前條磐城氏にも白土氏あり、白土、穎谷條参照。

3.秀郷流 藤原姓上野國の神谷邑(むら)より起こる。佐竹氏の族にして、時古三郎盛政の子五郎太夫政綱・此の地にありて神谷氏を偁すとぞ。其の子「兵庫助政房(五郎左衛門)ー 彦左衛門盛秀(三州神谷)― 千五郎政信 ― 縫殿助秀盛(徳川家臣)」にして、また盛秀の弟を權左衛門剛政と云うとぞ。『後上野志』に「勢多郡(現在の群馬県前橋市近辺)眞壁の壘(とりで)は神谷参河守の璩る所」と見ゆ。

4.武蔵の神谷氏『新編風土記』に「横見郡吉見の農民神谷を氏とせる内蔵助と云る者。入間郡神谷新田を開墾す」と。これより前、片山七騎の一に南澤邑神谷奥五郎あり。

5.宇都宮氏流 三河國碧海郡の豪族にして『二葉松』に「東端城(東端村)二ケ所あり、内一ケ所は屋敷、永井右近直勝および、神谷輿七郎居住」と。又「小柿江村古屋敷、神谷輿次郎」とあり。この氏は藤原北家、宇都宮氏の族にして、寛政の呈譜に「宇都宮頼綱の後裔、神谷石見守隆頼の時より碧海郡に住し、その子孫宗弘に至る」と云う。其の子「清次―清正―清房」なり。支庶二、家紋上藤、丸に揚羽蝶、鴈木丸に揚羽蝶と。また額田郡橋樂村に神谷奥四郎あり。又碧海郡鹿島大明神神主に神谷氏あり。(『集説』)。

6.秀郷流藤原姓伊賀氏流 これも三河の豪族にして、秀郷流藤原姓、伊賀氏裔なり。

家譜に「伊賀光季十七代後裔光忠の後にして、額田郡神谷村に住し、神谷を偁す」と云う、光忠の二男正利也。家紋上藤、丸に揚羽蝶。そのた渥美郡保社の社人に神谷多吉(『集説』)および寶飯郡にも存す。

7.遠江の神谷氏 式内鹽雷命神社の社家也。磐田郡に存す。

8.尾張の神谷氏 知多郡清水村五社の禰宜(神官)等これ也。

9.伊勢の神谷氏 (掲載済みのため省略)

10.加賀の神谷氏「三州志」、石川郡條に「信濃畑(在戸板郷藥師堂村領)、神谷信凛住めりと云う。来由考ふべからず」と。

11.清和源氏頼光流 若狭發祥(発祥)の名族にして、家傳に「源三位頼政の六男仲忠の後、神谷庄に住せしより神谷を偁す。」と云ふ。寬政系譜支庶ニを載す。家紋むかひ蝶の內十六葉菊。(『寛政譜』では「藤原支流」とされる。)

12.播磨の神谷氏 神谷邑(むら)より起こり神谷城に璩(こも)る。戦国時代神谷民部あり。

13. 紀伊の神谷氏 伊都郡に神谷の地名あり。 而して『續風土記』 西畑村舊家神谷楠右衞門條に「其の祖を神谷土佐入道といふ。南朝に屬し、學文路村藥師山に居住して、相賀莊の地頭職たり。 地頭職補任の篇旨、延元二年・南帝より賜ふ。 寶暦三年、右の綸旨を高野山興山寺に納む。義貞朝臣よりの感狀も家に傳えしに、焼失して、今其の寫(写)しを傳(伝)ふ」と。南朝の忠臣たりしなり。又山東庄の庄司を神谷莊司と云う。その裔に神谷左近太夫といふあり、平尾條参照。

14.讃岐の神谷氏 北條郡高屋の豪族に神谷兵庫忠資あり、乃生村を領し、乃生氏と偁す。(全讃史 )。 乃生條參照。

15.筑前の神谷氏 天正中、 博多の富豪に神谷貞清 (紙屋宗旦とも) あり。 博多と 唐律との二處より、朝鮮、明國、井に南蠻の各地に往來して、貨殖したりと云ひ、攄實の利、金鑛、織布の 業、量衡の制等、商工の道に於いて後世を益する者多く、神谷の計衋に成ると云ふ。其め織機の事は、承天寺齟聖一國師の從士滿田彌三右衞門・宋國にて、之を習得し、朱燒、箔燒、索麵などと共に傳來したりとも曰ふ。 (『地名辭書』)。石州銀山紀聞に「博 多の 神谷籌貞云々」と。

16.雑裁 神谷氏は徳川時代、磐城平 安藤藩中老格、高遠内藤藩用人、龜田高城藩重臣、母里松平藩重臣、神戸本多藩用人、宮津松平藩用人、松江松平藩重臣たり。また『秀康卿給帳』に「百五十石神谷種平治」『加賀藩給帳』に「千五百石 (六角內抱蝶) 寄合組, 神谷治部」其の他、 信濃、 志摩等にもあり。

※カッコや『』は筆者がつけた。誤植は許されたい。「四拾八館記」は室町時代の支城を記した『岩城四拾八館記』にある神谷(かべや)館であろう。なお「寛政の系譜」とは『寛政重脩諸家譜』、「新編風土記」は文化文政期の『新編武蔵風土記稿』、「二葉松」は『三河二葉松』のこと。「片山七騎」は天正年間の七家の旗本をさす。

※三河神谷村は八名郡、額田郡などに記録される。

※他にも「神谷(みたに/じんたに/こうのたに/こうたに/かや)」とする名字、地名がある。


2.につき古代の系譜を残す『國魂系図』によれば実は白土氏が本流で、室町後半に関東圏一帯に勢力を広げた岩城氏がその地位を奪い、相馬・大賀(現在の茨木県)から磐城(現在の福島県いわき市から宮城県北部)で繁栄したとする。千葉氏流神谷氏が磐城(岩城)の妙見館(神谷館)主を務め、その祖先も同じく磐城出身の基秀とされることから、岩城氏流、千葉氏流の神谷氏はここから発し同族化した系統だったと推測できる。


3の秀郷流の神谷氏は、上野(こうずけ:現在の群馬県前橋市近辺)の勢多郡「神谷」の地から発生、その後裔がのち「三州神谷」に住したのが「神谷三河守」だとする。しかし実は勢多郡にあったのは「神谷」でなく「真壁(まかべ)」である。その周辺は藤姓秀郷流山上氏らが領していた。そこに藤姓真壁氏もいたとする資料(『姓氏研究の決定版』)もあるが、詳細はわからない。おそらく同じ情報元によるものではないだろうか。なお常陸国「真壁」は大掾平氏の真壁氏が領していた。その跡領を継いだのが、江戸時代に磐城に神谷(かべや)陣屋を飛び領地で構えることになった常陸笠間藩であり神谷氏を家老に迎えている。

※「真壁(まかべ)」が「神谷」氏の発祥とする記録は複数あり興味深い。「壁谷」にも同じ話がある。「真壁」は、古代王権の「白壁」に端を発し桓武天皇が「真壁」に名を変えさせた経緯がある。古代壁谷に関係が深い鎌倉幕府の大倉御所のあった「雪の下」にもこの地名がある。また沖縄にも真壁の地名があるが「まかび」と音する。これが日本古来の発音に近いだろう。なお書院造りなど伝統的日本建築は、現在は真壁(しんかべ)造りという。


5の三河國碧海郡を宇都宮氏流とするのは、既に触れたように後世の仮託で信ずるに堪えない。「二葉松に端城(東端村)二ケ所あり」とある。東端とあることから、宇都宮氏ではなく、実は6.の神谷氏の分家であろう。分家のため正しい系譜が伝わらなかったと推測できよう。


6の三河額田郡や渥美郡、宝飯郡の神谷氏は『南北朝遺文』の伊賀式部三郎盛光(盛清)の軍功報告と符合する。それによれば、建武四年の合戦での活躍を穎谷大輔房(佐竹彦四郎入道代)のもと佐竹氏の家臣として足利尊氏のために戦っていた。その後武生城(佐竹氏の城)へ着到を常陸守護佐竹義篤(第九代当主)が「承了」した文書が早稲田大学図書館に残る。いわきに居て神谷氏に従った伊賀氏の一流が三河に戻った室町幕府重臣の神谷氏だった可能性が高い。


13の「紀伊の神谷」も歴史は古く注目に値する。『地名の謎』は「かみや」とするのは東国以外で唯一と特記する。やはり東国発祥と考えれば、岩城氏・千葉氏流の神谷氏(穎谷氏)が分裂し、南朝側についていた可能性が高いといえよう。応仁の乱のころ「石見守護」は西軍の山名・大内氏で、「石見守」は後南朝擁立を企てた鳥屋尾氏でだった。紀伊も大内・山名氏が守護だが、これらの勢力はすべて応仁の乱でも伊勢氏、松平氏、奉公衆の神谷氏(東軍)と対峙する勢力だった。室町時代に神谷氏も分裂して戦っていたことは当然考えられる。その石見の国(島根県北部)に、古くは磐城の穎谷氏だったと伝承されている貝屋(かひや)の名字が今も残る。おそらくはこの地の神谷(かひや)氏の流れの可能性が想定できよう。


15の筑前の神谷氏は江戸初期の豪商。多くの資料で「神谷/紙屋(かみや)」とカナが振られるが、それは現在の読みで、正しくは「神谷/紙屋(かうや)/紙屋(かうや)」で「かや」とも発音されたろう。宗旦は信長・秀吉の庇護のもと石見銀山の開発で財をなし、茶人としても有名だ。

16の神谷氏は「坂下門外の変」の安藤信正で有名な安藤藩の重臣(中老)だった。先に記した通り同じく6の伊賀氏流神谷氏の末裔である。


5)磐城国神谷邑があったとされる福島県いわき市の神谷(かべや)付近には白山神社、高月稲荷神社、天照皇大(てんしょうこうたい)神社などの古社が鎮座する。神谷(かべや)の総鎮座「立鉾鹿島神社」の社伝には、神代に「武甕槌(たけみかづち)神(建御雷神)」が蝦夷地平定のために「鉾」を立てたのが由来とされる。この「武甕槌」とは鹿島神のことだ。『日本書紀』では出雲で「鉾」を立て「大国主の命」から国譲り受けていた。この「立鉾鹿島神社」では大同二年(西暦807年)「鉾」を立てて祈願した藤原信次の記録が残る。江戸中期も佐藤氏が宮司を務め「正一位立鉾大明神」と最高位の社格を有した。別稿で触れた、いわき神谷の「元文一揆」の首謀者「壁谷村武左衛門」の名字も佐藤だった。


鹿島神は常陸(茨城県)の「鹿島神宮」が本社で、壁谷家と鹿島神との関係が深い。福島県田村郡の『船引町史』(昭和57年)には「鹿島神社」の神官だった壁谷が記録される。また他の壁谷家の2、3家で妻が伊勢神宮の巫女(「お神明さま」と呼ばれる)の役目を務めていた記録がある。現在の蒲郡市神明町近辺に居住する壁谷も、古くは同様の事情があったかもしれない。


熱田神宮には三種の神器「草薙神剣(くさなぎのつるぎ)」が祀られる。三男の源頼朝が嫡子となれたのは、実母の由良御前(ゆらごぜん)が熱田神宮の宮司の娘だったからだ。二階階堂行政、足利義兼ら鎌倉幕府の重臣も同じだった。その後、神官の多くは藤原氏が継ぎ、その女子は武家の妻となった。足利将軍の正室も藤原氏(日野裏松家)で占められる。伊勢・鹿島・香取・熱田・出雲神と神谷、壁谷の関係は深く他稿でも触れていく。


6)佐竹氏は常陸(現在の茨木県)から江戸時代に秋田久保田藩に転封された。その家臣に上神谷(かみかべや)氏が記録される。上神谷の名字は現在も神奈川・東京・茨木・宮城・埼玉・福島などにある。同じ茨木県には茨城町神谷(かんや)もある。そこは慶長7年(1602年)の秋田家文書『御知行之覚』には「かんや村」と記される。しかし三河出身で牛久ワインの創業者神谷氏は茨城県内だが「かみや」と発音する。なお、大阪府堺市では「上神谷(にわだに)」であり、「にわ」は古来神「三輪(みわ)」がなまったものとされている。


参考文献

  • 『古事記』倉野憲司 校注 岩波文庫 1963
  • 『日本書紀』坂本太郎他 岩波文庫 1994
  • 『常陸国風土記』秋本吉徳 講談社学術文庫 2001
  • 『続日本後期』全現代語訳  講談社学術文庫 森田 2010
  • 『禁秘抄』順徳天皇 鎌倉時代初期
  • 『飯野家文書』国宝・重要文化財
  • 『大日本史料』(第六編)
  • 『南北朝遺文』東北編273号 東京大学史料編纂所 
  • 『和名類聚抄』『平治物語』『足利尊氏合戦注文』『藤葉栄衰記』『足利学校住持譜』
  • 『源平闘諍録』全注釈 上・下 福田豊彦・服部幸造 講談社学術文庫1999
  • 『明徹岩城重隆書状写』茨城県立歴史館
  • 『大武鑑』(全5巻 大洽社刊)国会図書館デジタルコレクション
  • 『磐城資料』巻上 大須賀筠軒 明治45年 国会図書館デジタルコレクション
  • 『足利武鑑』文久三年(1863年)写希言子梅年 版元金花堂須原屋佐助 早稲田大学蔵
  • 『応仁武鑑』天保弘化年間(1844-46)日本橋橋通十軒店 播磨屋勝五郎 早稲田大学蔵
  • 『雑史集』国民文庫刊行会 鶴田久作 大正元年 国会図書館
  • 『現代語訳 吾妻鏡(一)』五味文彦・本郷和人・西田友広 吉川弘文館 2007
  • 『古事記傳』本居宣長
  • 『大鏡』現代語訳学燈文庫 保坂弘司訳 1983年
  • 『三河八代記古伝集』水野 監物 享保5年(1720年)以前 茨城大学附属図書館蔵
  • 『「東山殿時代外様附」について』今谷明 大倉山論集 史林 1980
  • 『歴名土代』『徳川実記』『三河物語』『本朝通鑑』
  • 『朝野旧聞裒藁』島田三郎 大正11年11月 東洋書籍出版協会
  • 『士談』山鹿素行 警眼社 大正2 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『名将言行録』岡谷繁実 1869年 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 『長倉追罰記』永享七年(1435年)
  • 『群書類従』塙保己一
  • 『御湯殿上日記』(『続群書類従』)
  • 『多聞院日記略』(1483-1599)下田師古編 国立公文所館
  • 『落穂集』大道寺友山 早稲田大学図書館
  • 『見聞諸家紋』国会図書館デジタルコレクション など多数
  • 『寛政重脩諸家譜』江戸幕府 国会図書館デジタルコレクション
  • 『神谷氏系譜』神谷大周 明治28年 国会図書館デジタルコレクション
  • 『伏敵篇』山田安栄 明治24年 国会図書館デジタルコレクション
  • 『蜷川親元日記』文科大学史誌叢書 明治35年 国会図書館デジタルコレクション
  • 『新編武蔵風土記稿』1830年完成 雄山閣版 大日本地誌体系1996年
  • 『千葉氏と妙見信仰』丸井敬治 岩田選書 2013
  • 『室町期の守護と国人』呉座勇一 東京大学日本史学研究室紀要17号 2013
  • 『足利義材の西国廻りと吉見氏』羽田聡 京都国立博物館学叢書 25号 2003年
  • 『日本における星神信仰の一考察』井原木憲紹 桂林学叢 法華宗教学研究所 2005年
  • 『応仁の乱』呉座勇一 中公新書 2016
  • 『南朝の真実』亀田俊和 吉川弘文館 2014
  • 『南北朝』林屋辰三郎 朝日新聞社 2017(1991)
  • 『室町幕府と地方の社会』榎原雅治 岩波新書 2016
  • 『室町幕府と東北の国人』白根靖大編 吉川弘文館 2015 
  • 『戦国時代の足利将軍』山田康弘 吉川弘文館 2011
  • 『戦国武将と念持仏』高橋 伸幸 角川 2015
  • 『北条氏康』伊藤潤 板嶋恒明 PHP文庫 2017
  • 『徳川家康の源氏改姓問題』笠谷和比古 日本研究 国際日本文化研究センター 1997
  • 『徳川家康』二木謙一 筑摩書房 1998
  • 『三河 松平一族』平野明夫 新人物往来社 2002
  • 『徳川家臣団の謎』菊池浩之 角川選書 2018
  • 『法門可申抄』日蓮 中山法華経寺
  • 『安斎随筆』伊勢貞丈 全32巻 国会図書館
  • 『三州諸士出生録』著者刊行年不明 愛知県文化会館 愛知県図書館貴重本ライブラリ
  • 『諸大名旗本衆三州生邑跡』碧海郡上埜御所山現主泰岸 文化二年(1805年) 写し
  • 『参河国名所図絵』 愛知県郷土資料刊行会 昭和8年複製 国会図書館
  • 『姓氏家系大辞典』太田亮 昭和17-19年 国会図書館デジタルコレクション 
  • 『日本姓氏語源辞典』宮本洋一 示現舎 2016
  • 『名字と日本人』武光誠 文芸春秋 1999年
  • 『講座方言学 方言概説』飯豊毅一 他 国書刊行会 1998 国会図書館
  • 『図説千葉県の歴史』責任編集 三浦茂一 河出書房新社 1989年
  • 『日本家紋総覧』能坂利雄 新人物往来社 1990年
  • 『新集家紋大全』 梧桐書院 太田總一郎 1991年
  • 『新訂 官職要解』 和田英松 講談社学術文庫 1983年
  • 『官職と位階がわかる本』新人物往来社 2009年
  • 『船曳町史』昭和50年 福島県田村郡船引町
  • 『地名の謎』 今尾恵介 ちくま書房 2011年
  • 『「坂出文書」と奉行衆佐竹氏』鈴木満 秋田県立博物館 
  • 『「見聞諸家紋」群の系譜』秋田四郎 弘前大学國史研究(99号)1995年
  • 『初期室町幕府研究の最前線』亀田俊和・日本史史研究会 2018年
  • 『中世熱田社の構造と展開』藤本元啓 続群書類従完成会刊 2003年
  • 『豊臣期検地一覧(稿)』平井上総 北海道大学 文学研究科紀要 2014-11
  • 『書評:新行紀一著「一向一揆の基礎構造」』金龍静 京都大学 史林 1976 
  • 『豊田の中世城館』愛知県豊田市内中世城館跡調査報告
  • 『江戸三〇〇藩 最後の藩主』八幡和郎 光文社新書 2004
  • 『シリーズ藩物語 刈谷藩』舟久保藍 現代書館 2016
  • 『室町人の精神』講談社学術文庫 日本の歴史12 2009
  • 『室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究』小林輝久彦 大倉山論集第六十三輯 2019
  • 『室町幕府奉行人在職考証稿』田中誠 立命館文学 2019
  • 『南朝の真実』亀田 俊和 吉川弘文館 2014
  • 『中世武家礼法における中国古典礼書の影響』山根一郎 椙山女学園大学大学文化情報学部紀要4巻 2005
  • 『神道のすべて』菅田正昭 日本文芸社 2004
  • 『日本語の力』中西進 集英社文庫2006
  • 『日本語の歴史』山口仲美 岩波新書2006
  • 『大江戸古地図散歩』佐々悦久 新人物往来社2011

壁谷の起源

第11代将軍家斉の頃、武蔵国の一団が江戸の勘定奉行所「壁谷太郎兵衛」目指して越訴を決行、首謀者十数名が勾留された。のちの明治政府の資料にも「士族 壁谷」の記録が各府県に残っている。一方で全国各地の壁谷の旧家には、大陸から来た、坂上田村麻呂の東征に従った、平家の末裔であるなど、飛鳥時代にも遡る家伝が残る。これらの情報を集め、調査考察し、古代から引き継がれた壁谷の悠久の流れとその起源に迫る。